top ホームページtopへ
本尊問答抄講義0365~0374

         序講
         はじめに
         本抄の元意と構成
         各段の概要
0365:01~0365:01 第一段 法華経の題目を本尊と定める
0365:01~0365:01 第一 本抄の主題
0365:01~0365:07 第二段 経釈を挙げてその根拠を示す
0365:01~0365:04 第一 法華経の経巻を本尊に
0365:04~0365:07 第二 法華経より法が根本
0365:08~0365:15 第三段 法華経の行者の正意を顕わす
0365:08~0365:09 第一 釈迦・多宝を法華経の本尊と立てた不空
0365:09~0365:13 第二 法華経を本尊とする法華三昧
0365:13~0365:15 第三 法華経の行者の正意
0366:01~0366:06 第四段 優れたるを本尊とする
0366:01~0365:06 第一 根本の本尊に迷う諸宗
0366:07~0366:15 第五段 能生を以て本尊とする
0366:07~0366:10 第一 法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目
0366:10~0366:15 第二 諸仏能生の根源たる妙法
0366:16~0367:13 第六段 弘法等の三大師への帰依を責む
0366:16~0367:02 第一 大日経第一は経典に根拠なき邪見
0367:02~0367:06 第二 仏説を根拠とした大聖人
0367:06~0367:13 第三 法華経を歪曲して読んだ弘法等
0367:14~0368:13 第七段 三大師の事歴を挙げる
0367:14~0368:02 第一 弘法の事跡を示す
0368:03~0368:07 第二 叡山を密教化させた慈覚
0368:08~0368:13 第三 世間の尊敬を集めた三大師
0368:13~0370:01 第八段 仏法の伝来を略述する
0368:13~0369:02 第一 インド・中国の仏法弘通
0369:03~0369:07 第二 もっぱら戒律を弘めた鑑真
0369:07~0369:12 第三 天台の法門を盗んだ大日経の疏
0369:13~0369:16 第四 伝教大師に背いた慈覚・智証
0369:16~0370:01 第五 円密一致の邪義が定着
0370:02~0470:07 第九段 日本に法華経の行者なきを明かす
0370:02~0470:07 第一 日本国中に法華経の邪義が広まる
0370:08~0371:11 第十段 大聖人の御事歴を示す
0370:08~0370:13 第一 諸宗の誤りを見抜かれた大聖人
0370:13~0371:03 第二 権大乗の教えに過ぎない諸宗の義
0371:03~0371:09 第三 法華経を下す真言の誑惑
0371:10~0371:11 第四 仏法の正邪が国の盛衰に関わる
0371:12~0372:18 第11段 亡国の現証を挙げる
0371:12~0371:18 第一 承久の乱に敗れた三上皇が流罪に
0371:18~0372:04 第二 真言の調伏を用いた朝廷方
0372:04~0372:08 第三 幕府から厳しい処分
0372:08~0372:15 第四 無力であった真言密教の祈禱
0372:16~0372:18 第五 真言の邪法こそ亡国の因
0372:18~0373:10 第12段 蒙古調伏を諌める
0372:18~0373:04 第一 関東にも教勢を広げた真言宗
0373:04~0373:10 第二 真言の祈禱を用いて滅びた平家
0373:11~0373;16 第13段 有縁の人々への報恩を述べる
0373:11~0373;16 第一 大聖人を守った浄顕房・義城房
0373:17~0374:06 第14段 未曾有の本尊の末法弘通を明かす
0373:17~0374:06 第一 大聖人こそ上行菩薩の再誕

         序講top
         はじめにtop

一、本抄御述作の年代
 本尊問答抄は、弘安元年(1278)9月、聖寿57歳の御時、身延において著されたとされている。本抄には、御述作年月は記されていないが、古くから御書の各目録・諸注釈書等でいずれも「弘安元年」の後述作とすることで一致している。
 本抄の御真筆は現存しないが、日興上人の富士一跡門徒存知の事には「聖人御書の事」として、立正安国論などの十大部の他の御書とともに「本尊問答抄一巻」と記されているが、御真蹟や写本の所在については触れられていない。また、御真蹟の格護に多大な功績のあった富木常忍の蔵書目録である常修院本尊聖教事には、「一、御書箱」の項に「本尊問答抄一帖」との記載があり、写本がすでに存在したことがうかがえる。
 このほか、大聖人御入滅後100~140年後に集成されたとされている禄内御書にも、本抄が収録されていたことは、中世に書写された録内御書の最も古い平賀本、日朝本からも明らかである。
 しかし、御真筆の所在が不明であるにもかかわらず、本抄の存在を疑いえないものとしているのは、何といっても血脈付法の第二祖日興上人ならびに第二祖日興上人ならびに大聖人御在世当時からの門弟である賢秀公日源による写本が今日に伝えていることによる。
 現存する写本は次の三つである。
    ①日興上人による写本   北山本門寺蔵
    ②賢秀公日源による写本  岩本実相寺蔵
    ③日興上人による写本   富久成寺蔵(茨城県古川市の日蓮正宗寺院)
 ただし①の日興上人の写本は完全ではない。稲田海素の日蓮聖人御遺文対照記には「明治三十五年七月四日岩本実相寺ニ於テ開山源師正応三年七月十五日ノ御写ヲ以テ対校ス復同年十二月十八日北山本門寺ニ於テ対校ス惜哉不足ナリ其不足ヲハ延山朝師ノ御本ヲ以て補校ス」と記されている。
二、本抄の題号
 本尊問答抄という題号は古来、日蓮大聖人の御自撰であるとされており、それについても異説はない。先にも述べたように、富士一跡門徒存知事の中でも「本尊問答抄一巻」とはっきり記されている。
 また賢秀公日源の写本にも「本尊問答抄」と明記されていることから、この題号は大聖人の御自撰であることは間違いないであろう。
三、本抄を賜った人
 本抄は本文中にいただいた人の名が明記されていないが、本抄末尾の次の御文から大聖人の清澄寺修学時代の兄弟子である浄顕房に与えられた御書として差し支えないであろう。
 「貴辺は地頭のいかりし時・義城房とともに清澄寺を出でておはせし人なれば何となくともこれを法華経の御奉公とおぼしめして生死をはなれさせ給うべし」(0373-14) ここに仰せの「地頭」とは安房国長狭郡東条郷の地頭であった東条景信を指していることはまず疑いない。また、義城房は浄顕房と同じく大聖人の清澄寺修学時代の法兄である。したがって、この御文の内容は、建長5年(1253)立教開宗によって、地頭の東条景信の怒りをかったために、大聖人が清澄寺を退出した際の出来事を述べたものである。同じ趣旨の内容が報恩抄にも次のように記されている。
 「各各・二人は日蓮が幼少の師匠にて・おはします、勤操僧正・行表僧正の伝教大師の御師たりしが・かへりて御弟子とならせ給いしがごとし、日蓮が景信にあだまれて清澄山を出でしにかくしおきてしのび出でられたりしは天下第一の法華経の奉公なり後生は疑いおぼすべからず」(0324-01)
 さらに同抄の末尾に「甲州波木井郷身延山より安房の国・東条の郡・清澄山・浄顕房・義成房の許に奉送す」(0329-17)と仰せられていることから、報恩抄が浄顕房と義浄房の二人に与えられたことは明らかであり、したがって先に引用したなかの「貴辺」とは、義浄房とともに大聖人を救った義浄房であることは疑う余地がない。
 安房国清澄寺は度重なる火災で史料を失っており、義浄房に関する史料も残されていない。このため、日蓮大聖人の御書以外に浄顕房の人物の輪郭をさぐる手掛かりはない
 ちなみに浄顕房に与えられた御書は次の6編を数える。
    ①善無畏三蔵抄  文永07年(1270)  義浄房と連名
    ②清澄寺大衆中  建治02年(1276)  義浄房を含む清澄寺大衆
    ③報恩抄     建治02年(1276)  義浄房と連名
    ④報恩抄送文   建治02年(1276)  浄顕房個人
    ⑤華果成就御書  弘安元年(1278)  義浄房と連名
    ⑥本尊問答抄   弘安元年(1278)  浄顕房個人
 日蓮大聖人は本抄に「日蓮は東海道・十五箇国の内.第十二に相当る安房の国長狭の郡・東条の郷.片海の海人が子なり、生年十二同じき郷の内・清澄寺と申す山にまかり登り住しき」と仰せられているように、安房国長狭国東条郷に御生誕になった。天福元年(1233)、12歳で清澄寺に入山され、道善房を師として修学された。浄顕房はこの時の兄弟子に当たる。報恩抄の先の御文に「各各・二人は日蓮が幼少の師匠にて・おはします」(0324-01)と記されているように、大聖人は入門当初、浄顕房・義浄房の二人から仏典を中心とした読み書きなどの基本的な勉学の手ほどきを受けられた。
 16歳で出家得度されるや、大聖人はまず鎌倉で約4年間、ついで京・奈良で10余年修学された。そして32歳になられて清澄山に戻られ、建長5年(1253)4月28日、立教開宗されたのである。この折り、激怒した地頭・東条景信の襲撃を避けるため、浄顕房は大聖人を義浄房とともに領外の西条花房・蓮華寺に道案内申し上げたのである。
 その後、次第に大聖人の教えに傾き信心のうえで弟子になったことが、報恩抄の次の御文にうかがえる。
 「勤操僧正・行表僧正の伝教大師の御師たりしが・かへりて御弟子とならせ給いしがごとし」(0324-01)
 勤操僧正は平安末期の三論宗の僧であるが、延暦21年(0802)、高雄山寺で伝教大師と法論を行って論破されたという。行表応僧正は、伝教大師が出家した時の授戒の師である。
 浄顕房は、身は清澄寺にあったものの、心は深く大聖人に帰依し、しばしば法義について指導を求めていた。ゆえに、初めに掲げたように御書十大部のうち、本尊論や三大秘法などの甚深な法門を展開された本抄と報恩抄の二書を賜り、本抄を与えられる2年前の建治2年(1276)7月には「御本尊図して進候」(0330-01)と、大聖人より御本尊を授与されているのである。
 また佐渡流罪中の文永10年(1273)5月28日、義浄房に与えられた義浄房御書の冒頭には「御法門の事委しく承はり候い畢んぬ」(0892-01)と、義浄房が大聖人の法門のことで質問を寄せたことがうかがわれる。
 大聖人が身延におられた建治2年(1276)清澄寺大衆事では「去年来らず如何定めて子細有らんか、抑参詣を企て候わば伊勢公の御房に十住心論・秘蔵宝鑰二教論等の真言の疏を借用候へ、是くの如きは真言師蜂起の故に之を申す、又止観の第一・第二・御随身候へ東春・輔正記なんどや候らん、円智房の御弟子に 観智房の持ちて候なる宗要集かしたび候へ」(0893-01)と、身延へ参詣する機会があれば、寺内の伊勢公から真言の論訳を借用してくるよう依頼され、また摩訶止観や東春・輔正記などの天台宗の論釈や宗要などの借用も申し入れられている。これは、この前年の末に、真言僧の強仁との交渉があり、また真言僧が蜂起して法論・対決が行われるという風評があったため、万全を期して天台や真言の釈文や論釈を収集されていたのである。
 これらの御文から、浄顕房と義浄房の二人は、佐渡の大聖人と御手紙を交わし、身延後入山後も身延に参詣したり、清澄寺にある文献などを大聖人にお貸しするなどの便宜をお計らい申し上げていたことが明らかである。
 さらに、大聖人と義浄房のつながりについて忘れられないのは、建治2年(1276)3月に道善房が死去した際に、義浄房が果たした役割であろう。
 大聖人は報恩抄送分で「自身早早と参上し此の御房をも・やがてつかはすべきにて候しが自身は内心は存ぜずといへども人目には遁世のやうに見えて候へばなにとなく此の山を出でず候」(0330-04)と、人目には頓世のように見られている身で、身延を下りることも出来ない心情を述べられながら「御まへと義成房と二人・此の御房をよみてとして嵩がもりの頂にて二三遍・又故道善御房の御はかにて一遍よませさせ給いては 此の御房にあづけさせ給いてつねに御聴聞候へ」(0330-09)と報恩抄を弟子の民部日向を読み手として嵩が森の頂上と道善房の墓前で読むよう浄顕房と義浄房に師示されている。
 これに対し、義浄房らは大聖人の御指示通りに報恩抄を読誦し、道善房を回向しており、これを大聖人は大変喜ばれて、道善房死去から2年後の弘安元年4月に著された華果成就御書では「さては建治の比・故道善房聖人のために二札かきつかはし奉り候を嵩が森にてよませ給いて候よし悦び入つて候」(0900-01)と述べられている。ここに「二札」と仰せられているのは報恩抄上下二巻を指している。
 道善房死去の後は、報恩抄送文の宛名で大聖人が義浄房を「清澄御房」と称されていることから、清澄寺において中心的立場に就いたものと推定される。また別当御坊御返事には清澄寺の住僧と思われる聖密房への文を「よりあいて.きかせ給い候へ」(0901-01)と依り合って聴聞なされるがよいと師事されていることから別当御坊とは清澄寺の住職を指するものと思われ、この御抄が浄顕房に与えられたとすると、浄顕房は清澄寺の別当であったとする説も生まれてくるのである。
四、御述作の由来
 先に述べたように、本抄が著される2年前の建治2年(1276)7月、日蓮大聖人は故・道善房の追善供養のために報恩抄を著され、義浄房と浄顕房に送られた。それとともに、浄顕房に御本尊を授与されている。
 本尊問答抄では、その冒頭に「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」(0365-01)と仰せられているように、御本尊に関する浄顕房の質問に対し、大聖人がお答えになる意味で書かれたものと推定されるが、その質問の背景には、報恩抄の内容と深くかかわっている。
 すなわち同抄において正像末の三大秘法を明かされるなかで、本門の本尊について「日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし」(0328-15)と御教示されている。
 この御文について他門流においては「本尊とすべし」と仰せられた「本門の教主釈尊」と、「脇士となるべし」とされた「所謂宝搭の内の釈迦」との関係について迷い、誤った解釈に陥ってきた。これは、「教主釈尊」といえば、文上の釈尊としか解しえないことからくる迷いにほかならない。
 したがって、義浄房にとっても、この報恩抄の御指南と、授与された御本尊の相貌について当然、疑問を抱いたであろうと思われる。
 すなわち、義浄房の義文は、
 ①報恩抄に「本門の教主釈尊を本尊とすべし」と記されているのに、なぜ御本尊の中心は釈尊ではなく「南無妙法蓮華経」と認められているのか。
 ②なぜ「本門の教主釈尊」とは別に脇士たる「宝塔の内の釈迦」がいるのか、
 の二点に集約されよう。
 古来、本尊といえば、木像や画像が一般的で、仏=人を本尊として拝するのが通念であった。この点において、浄顕房もおそらく例外ではなく、南無妙法蓮華経=法を本尊とした御本尊はその本尊観からは捉え切れぬ対象であったろう。南無妙法蓮華経も法華経二十八品の題号として、またたんに修行として唱える題目という理解はあったものの、三大秘法の南無妙法蓮華経という理解はなかったものと推察される。
 本門の教主釈尊についても「人=釈尊」の観点で認識し「本門の教主釈尊=南無妙法蓮華経」という人法一箇の甚深の意義を理解するには至らなかったと思われる。このように本抄は、浄顕房のこれらの疑問に答えることを第一の目的としていたと拝される。
 しかしながら、本抄御述作の動機を上の浄顕房の疑義への回答として、すなわち御本尊を教理上から説明された御書と捉えるだけでは、後半部分の御文を十分に拝することができない。すなわち本抄が真言密経への厳しい批判をもう一つの主題としていることを見逃してはなるまい。
 文永11年(1274)に来襲・敗退した蒙古は、再び日本侵攻の機会をうかがっていた。その強い危機感に、日本では朝廷も幕府も挙げ、真言師による敵国調伏の祈禱を盛んに行っていた。本抄では史実などを現証として挙げ、真言が亡国の邪法であることを指摘している。

         本抄の元意と構成top

一、本抄の大意
 本抄の大意と構成に述べるにあたって、まず本抄の大意を明らかにしておきたい。本抄は、報恩抄に述べられた本門の本尊に関する浄顕房の質問を機に著されたと考えられるが、内容は、そこにとどまらずさらに進んで、大聖人が御図顕される未曾有の大曼荼羅本尊を末法弘通を宣示されたものとなっており、大要次のような論旨で筆を進められている。
    第一に、浄顕房の疑問に対して大聖人正意の本尊をまず法の辺から明かされている。
    第二に、本尊の正しい意義を示されることによって、他宗の本尊を破折されている。
    第三に、当時の日本仏教界の中心であった真言宗を破折されている。
    第四に、大聖人の十宗破折・国主諌暁の事歴を述べられ、末法の法華経の行者であることを明かされている。
    第五に、大聖人御本懐の本尊を建立の時を述べられ、その末法弘通を宣示されている。
 以上が本抄の論師・大要であるが、以下、順に説明を加えたい。
 第一に「法華経の題目を以て本尊とすべし」と法本尊を示されている。これは一往は、浄顕房の疑問への回答であるとともに、しかし再往は「法」を本尊とするのが、仏教本来のあり方であることを示されており、この観点から、当時、仏像をもって本尊としていた他宗、とりわけ真言宗を破折されているのである。
 ところで、この「法本尊」は、本抄では「法華経の題目」として示されているが、それは末法の「人本尊」と深くかかわっていることを見逃してはならない。
 本抄に「此れは法華経の教主を本尊とする法華経の正意にはあらず」と、まず文上の教主釈尊を本尊とすることは法華経の正意ではないことを示されたうえで、次に「上に挙ぐる所の本尊は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊・法華経の行者の正意なり」と述べられ、「法華経の題目」たる妙法蓮華経こそ、釈迦・多宝ならびに十方の諸仏が本尊としたものであり、そしてそこに法華経の行者があると仰せられている。
 つまり、初めの御文では、「法華経の教主」を本尊とすることの誤りを指摘され、法を本尊と立てることが法華経の正意であるとされている。これに対し、次の御文では、法華経の題目こそ一切の仏が本尊としたものであり、そこに法華経の行者の正意があると仰せられている。ここに、大聖人があえて「法華経の行者の正意」と仰せられているところに重要な示唆があると拝されるのである。
 すなわち、「法華経の行者」とは、大聖人自身であることは明白であり、『法華経の教主』と区別されたうえで末法下種の教主を明かされるための伏線となっているものと拝察される。
 したがって、法華経の題目を本尊とするのが法華経の行者の正意であるとの仰せは、法華経の行者こそ末法の一切衆生を成仏の大道に導く師であり人の本尊たることを含意されていると拝される。
 第二に、末法の本尊を明かされるに際して大聖人は本抄で次のように論を進められている。
 「本尊とは勝れたるを用うべし」
 「能生を以て本尊とするなり」
 まず、「本尊とは勝れたるを用うべし」とは「本尊」という言葉自体が根本として尊崇するものということであるから、より尊いものであるべきであるということである。
 この意味で、最も尊いものとは「尊極の衆生」たる仏を生み出した当体、すなわちあらゆる仏がそれによって仏となった根源こそ至尊というべきである。そこから「能生を以て本尊とするなり」と、その釈尊を生み出した諸仏の能生の根源である法華経を本尊とすべきであることを示されているのである。
 元来、経巻・法を中心とすべきであって、仏像等を用いてはならないことは釈尊・天台大師も明言した仏道修行上の根本原理であった。しかし、法それ自体を直接悟るということは凡夫にとっては至難のことである。このために釈尊自身、大乗経典では、大日・阿弥陀等の仏を方便として説いたのであった。
 このことは天台大師等も踏襲し、悟りを目指す途上の修行を助ける方便として、阿弥陀仏や七仏・八菩薩等を用いたのであった。だが、成仏の根本はあくまで一念三千の観念観法を説いたのである。
 つまり、仏を仏たらしめたのは、常に法であり、これを能生・所生の関係からいえば、仏は所生、法は能生である。この対比においては、法が勝れ仏が劣っている故に、能生の法をもって本尊とすべきであると御教示されているのである。
 第三の真言破折は、本抄のほとんど全体が、このことで貫かれているといっても過言ではない。ここに、大聖人御本懐の本尊を建立されるにあたって、真言宗の破折がいかに大きな意味をもっていたかをうかがうことができよう。
 大聖人は、とくに佐渡流罪以降、諸御書で真言宗を破折されており、本抄御述作の頃には内容的にはほとんど尽くされている。本抄の眼目は末法において立てるべき本尊の正しい意義を明かすことであり、本尊の義における比較相対、とくに、本門の本尊を宣示される前提として、大日法身如来を本尊と立てる真言宗の邪義を破折されているのである。
 第四は、法華経題目の御本尊を顕し弘める人である大聖人御自身の事歴を述べられ、承久の変など真言亡国の現証を改めて取り上げられている。そして、それを通じて大聖人こそが末法の法華経の行者であり、即人本尊であることを明かされるのである。
 これによって、宗旨建立以来の念仏・禅等、当時の日本の諸宗の破折が、実は、宗旨建立以前においてすでに、法華経の極意を体得された上での御振る舞いであったと拝することができるのである。
 つまり、清澄寺修学時に「日本第一の智者となし給へ」(0888-09)との誓願をたてられ、その所願を満足されたうえでの破折であり、立正安国論での予言の的中は、その正しさの証拠となるものであった。
 また、大聖人は諸宗破折、国主諌暁により、三類の強敵を招き寄せ、文永8年(1271)9月12日竜の口の頸の座で発迹顕本され、末法の御本仏の御内証を顕されたのである。
 本抄では、以上のことを明かされるために、御自身の事歴を述べられたと拝察されるのである。
 最後に第五として、未曾有の大法であるが故に、能弘の人も未曾有の人であることを説き終えられ、その未曾有の大法たる御本尊を建立すべき時を示されている。
 すなわち「此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず」と。
 ところで、本抄御述作の弘安元年(1278)は、大聖人の御算定によると仏滅後2227年に当たっている。このことは、例えば建治2年の報恩抄に「仏滅後・二千二百二十五年」(0328-18)と記され、弘安元年の妙法尼御前御返事には「仏・御入滅ありては既に二千二百二十七年なり」(1407-08)と仰せの通りである。
 本抄では「世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年」と述べられている。
 日寛上人は、大聖人が種々の御抄でとき弘安元年以後「仏滅後二千二百三十余年」と仰せられていることについて、次のように釈されている。
 「問う、弘安元年は正しく仏滅後二千二百二十七年に当る。蓮祖何ぞ三十余年というや。答う、恐らくは深意あらんか。宗祖云く『今此の御本尊は(乃至)寿量品に説き顕し』等云云。然るに寿量品御説法の年より弘安元年に至るまで、正しく二千二百三十一年に当るなり。
 すなわち日寛上人によれば、この「二千二百三十余年」との御標示は、仏滅年からの算定ではなく、釈尊の化導の究竟に当たる本門寿量品の説かれた時から算定されたものである。この算定について分段では、次のように述べられている。
 「如来七十二歳より八年間の間に二十八品を説く。故に知らんぬ、一年に三品半を説きたまうことを。故に七十六の御時、正しく寿量品を説くなり。而して七十七の御歳、神力品を説いて本化に付嘱して、四年後の八十歳の御入滅なり。如来の御歳八十歳、御入滅の年より弘安元年に至るまで二千二百二十七年なり。これに七十六・七・八・九の四年を加うる則は二千二百三十一年と成るなり」
 このように、仏滅後より4年にさかのぼった寿量品説法時より起算した場合、弘安元年(1278)の時点において2227年に4年を加算して「2231年」となり、これにより「二千二百三十余年」と仰せになっていると結論されている。
 そして、この寿量品起算の依文として、本抄の先の御文とともに、新尼御前御返事の一節を略して引かれている。
 「今此の御本尊は教主釈尊・五百塵点劫より心中にをさめさせ給いて世に出現せさせ給いても四十余年・其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品・属累に事極りて候いし」(0905-12)
 この御文は、釈尊が法華経本門寿量品において、成仏の根源の法を説き顕し、神力品でこの法を地涌の菩薩の上首・上行菩薩に付嘱したことを明かされたものである。
 本抄の「此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年が間」との御文は、これらの日寛上人の御説明の正しさを的確に裏づけているといえよう。
二、大聖人の正意
 本抄の元意は、大聖人御図顕の大曼荼羅御本尊こそ、末法の一切衆生が帰依信仰すべき本尊であることを宣示されることにあったと拝される。
 いうまでもなく、日蓮大聖人末法御出現の目的は、一切衆生を成仏させることにあり、その根源として三大秘法の南無妙法蓮華経を建立された。
 この三大秘法については、大聖人の全御書中においても、わずかに数遍において言及されているだけであり、しかも、そのほとんどは名目のみを記されているにすぎない。
 三秘すべてについて内容を示されているのは、御入滅の年である弘安5年(1283)の御述作とされる三大秘法禀承事のみで、しかもその末尾に「予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付て留め置ずんば門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し、其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間貴辺に対し書き送り候、一見の後・秘して他見有る可からず口外も詮無し」(1023-11)と厳秘するように訓戒されている。
 このことからも、三大秘法が、大聖人御一代の御化導にあって、いかに大事中の大事の法門であるかが拝されるのである。
 しかし、本抄を与えられた浄顕房に対しては、建治2年(1276)の報恩抄において、三大秘法の一端をすでに御教示されている。
 「一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」(0328-15)
 また、これより3年前の文永10年(1273)5月の義浄房御書には、次のように仰せである。「日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり、其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事・此の経文なり秘す可し秘す可し」(0892-08)
 三大秘法のそれぞれの名目は翌文永11年(1274)正月の法華経行者逢難事で「本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字」(0965-02)との表現が初めて明かされている。
 正式に三大秘法の名目が明示されるのは、身延に入山された直後の法華取要抄が最初である。
 ともあれ、報恩抄、義浄房御書に、大聖人一期の大事の法門たる三大秘法に言及されたことからも、清澄寺にあった大聖人有縁の人々、とりわけ浄顕房・義浄房に対する大聖人の深い思いを拝することができよう。
 大聖人門下の有力者であり、数々の重書を賜った富木常忍や四条金吾といった人々でさえも、こと「本尊」や「末法の御本仏」という大聖人の御内証にかかわる甚深の法門については必ずしも正確に理解していたわけではなかった。
 例えば、富木常忍は、法本尊開顕の書である観心本尊抄という重書を与えられ、その中で末法の御本尊の相貌を拝しているはずであり、そのうえ当時すでに大聖人が、御本尊を顕された弟子門下に授与されている時期であったにもかかわらず、弘安2年(1279)の時点において、大聖人に次のような質問をしている。
 「本門久成の教主釈尊を造り奉り脇士には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべしと兼て聴聞仕り候いき、然れば聴聞の如くんば何の時かと」(0987-03)
 つまり、末法においては、本門の教主と本化の四菩薩が造立されるべきであるとし、かねて聴聞しているが、その造立の時はいつかとの質問なのである。
 しかし、これは当時の一般門下のみの問題ではなく、大聖人御入滅後、日興上人以下の五老僧も、同じ程度でしかなかった。
 「一、五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇め奉る可しとて既に立てたり、随つて弟子檀那等の中にも造立供養の御書之れ在りと云云、而る間・盛に堂舎を造り或は一躰を安置し或は普賢文殊を脇士とす、仍つて聖人御筆本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り又は堂舎の廊に之を捨て置く」(1605-16)
 この御文は、大聖人滅後の五老僧について日興上人が記されたものであり、御本尊の義に関する五郎僧の迷妄を如実に示すものであるといえよう。
 これに対して次下で日興上人は「日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」(1606-02)と明確に大聖人の正意の本尊について述べられている。本抄は、この日興上人の正しさを裏づけるものとなっているのである。
 三大秘法抄に「此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり」(1023-05)と仰せられている。
 これは、大聖人の内証にかかわる難信難解の法門であり、それゆえに当時の弟子門下といえども、容易には明かされなかったのであり、日興上人のみが、五人所破抄において「日蓮聖人は忝くも上行菩薩の再誕にして本門弘経の大権なり」(1611-07)と述べられているように、大聖人御内証の境地を正しく理解されたのであり、ゆえに日蓮大聖人の本懐の法門は、ただ一人日興上人に相伝されたのであった。その相伝の正流は、今日創価学会にのみ伝わっているのである。
 しかして、日蓮大聖人が打ち立てられた末法の大白法は、弘安2年(1279)10月12日御図顕の本門戒壇の大御本尊に尽きるのであり、大聖人自ら「出世の本懐」であると仰せられたのがこの大御本尊である。
 「此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年太歳己卯なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり」(1189-03)
 大聖人は、竜の口の法難以後、南無妙法蓮華経の曼荼羅本尊を顕されたが、これらの御本尊は、「一機一縁」の御本尊と呼ばれるように、個々の門下に授与されたものであり、いまだ末法の一切衆生のためにその信仰の対象として顕されたものではなかった。弘安2年(1279)の大御本尊こそ、末法の一切衆生のために顕された御本尊なのである。
 本抄は、大聖人御図顕の大曼荼羅御本尊こそが末法の御本尊であることを元意として示しており、日興上人が大聖人の数ある御書の中で十大部の一つに挙げられた所以もそこにあると拝せられる。同抄によって、先にのべたような当時の門下の本尊に対する迷いを打ち破られ、さらに、一切衆生が正しく大聖人の仏法を拝し信仰していける法門を示されたのである。
 大聖人御入滅後、日蓮宗と称して大聖人の御名を宗名とする宗派が数多く出現したが、これらはいずれも五老僧の誤った法門の理解を根本とし、釈尊を本尊としてきた。
 本抄は、大聖人の正意を明らかにされた御書であり、その意味で本抄を正しく拝するならば、彼ら諸宗の誤りがいかに大きいか、そして、大聖人の正流がいずこにあるか明々白々となる。
三、本抄の内容との関連
 次に、本抄の元意を述べるにあたって以下の項目に分けて論述したい。
    一、法華経の題目について
    二、報恩抄の御文との関連
    三、真言破折との関連
1、法華経の題目について
 日蓮大聖人は、本抄は末法においては「法華経の題目」を本尊とすべきであると御教示されている。ここでは諸御抄でも述べられている「法華経の題目」の深意について拝しておきたい。
 まず弘安2年(1279)の曾谷殿御返事には、次のように仰せである。
 「法華経の題目は一切経の神・一切経の眼目なり、大日経等の一切経をば法華経にてこそ開眼供養すべき処に大日経等を以て一切の木画の仏を開眼し候へば日本国の一切の寺塔の仏像等・形は仏に似れども心は仏にあらず九界の衆生の心なり、愚癡の者を智者とすること是より始まれり」(1060-07)
 ここに、法華経の題目が一切経の神・一切経の眼目であることは、諸御書にしめされているように、法華経の題目こそ一切経の肝心・肝要であり、一切経の極意が法華経の題目にあることを示されたものと拝される。
 また本抄と深いつながりのある報恩抄では「疑つて云く二十八品の中に何か肝心ぞや、答えて云く或は云く品品皆事に随いて肝心なり、或は云く方便品・寿量品肝心なり、或は云く方便品肝心なり、或は云く寿量品肝心なり、或は云く開示悟入肝心なり、或は云く実相肝心なり。問うて云く汝が心如何答う南無妙法蓮華経肝心なり」(0325-04)と述べられ、法華経の28品それぞれに大事の法門があるが、法華経全体の肝心は南無妙法蓮華経にあることを明言されている。そして、次にその根拠を人師・論師の説を挙げて説明されている。
 なかでも章安大師の「蓋し序王は経の玄意を序し玄意は文心を述す」との文は諸御書にしばしば共通して引かれているもので、大聖人はこれについて「『蓋し序王とは経の玄意を叙し玄意は文心を述す』等云云、 此の釈に文心とは題目は法華経の心なり妙楽大師云く『一代の教法を収むること法華の文心より出ず』等云云」(0325-13)と仰せである。すなわち、この法華経の題目は、法華経28品の文でも義でもなく、心であると仰せられている。
 また日寛上人は報恩抄文段で「『法華経の心』とは本因所証の妙法なり」と述べられている。ここに「本因所証」とは、久遠五百塵点劫に成道した釈尊が証得した法を「本果所証」というのに対して、久遠元初の自受用身如来が証得した法をいう。
 本抄御述作の前年に当たる建治3年(1277)の四信五品抄でも、同じく章安大師の釈を引かれ「此の釈に文心とは題目は法華経の心なり」(0342-13)と、報恩抄と同趣旨のことを述べられている。
 日寛上人は文底秘沈抄でこの御文を引かれて次のように仰せられている。
 「文は即ち一部の始終、能詮の文字なり。義は即ち所詮、迹本二門の所以なり、意は則ち二門の所以皆文底に期す、故に文底下種の妙法を以て一部の意と名づくるなり」
 つまり、文は法華経28品の経文そのものであり、義はそれによって示されている本迹二門の内容を指している。これに対して意とは文底下種の南無妙法蓮華経であるとの御教示である。
 また、同じ建治3年(1277)の曾谷殿御返事においても「所詮妙法蓮華経の五字をば当時の人人は名と計りと思へり、さにては候はず体なり体とは心にて候」(1059-01)と仰せになり、同じく章安大師の文を引かれている。
 この御文はいずれも、弘安期に入って大聖人が御本懐の法門を明かされるにあたり、大聖人が弘められる法華経の題目の深意を示されているのである。
 すなわち、大聖人が法華経の題目として示されているのは、たんなる法華経の題号と考えてはならないのである。ゆえに先の曾谷殿御返事では「南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず法華経の心なり体なり所詮なり」(1058-08)と仰せられている。
 これは、文・義に対する意の重要性を示されたものであり、南無妙法蓮華経こそ根本の仏意であることを指摘されたものと拝される。
 このように「文」「義」「意」の立て分けにおいて法華経の題目の深意を明かされているところに着目する時、大聖人の弘通される法華経の題目とは、「意の妙法蓮華経」であり、それはまさに法華経の肝要としての文底下種の南無妙法蓮華経である。
 この文底下種の南無妙法蓮華経を、釈尊は法華経如来神力品第二十一において地涌の菩薩の上首・上行菩薩に付嘱したのである。
 このことを大聖人は、御義口伝で「此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ざるなり既に此の品の時上行菩薩に付属し給う故なり、惣じて妙法蓮華経を上行菩薩に付属し給う事は宝塔品の時事起り・寿量品の時事顕れ・神力属累の時事竟るなり」(0770-第一妙法蓮華経如来神力の事-03)と仰せられている。
 ここに、妙法蓮華経が、釈尊の妙法ではなく、上行菩薩所持の法であることは明らかであろう。つまり、下種の妙法は釈尊の所持ではなく、上行菩薩所持の法であり、上行再誕たる日蓮大聖人こそが末法にこの下種の妙法を所持・弘通されるのである。法華取要抄に「日蓮は広略を捨てて肝要を好む 所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」(0366-08)と仰せられている所以である。
 最後に、「法華経の題目」に人法一箇の義が含まれていることを日寛上人の御指南によって確認しておきたい。
 すなわち日寛上人は取要抄文段で次のように御教示されている。
 「問う、本尊問答抄の意は、末大悪世の凡夫は但法華経の題目を以て本尊と為すべし等云云、若し爾らば、蓮祖を造立し仍本尊と為すべきか、如何。
 答う、『法華経の題目』とは本地甚深の奥蔵、即ちこれ蓮祖聖人の御事なり。その故は蓮祖大聖人、我が身は即ち法華経の題目なりと知しめし、久遠元初の自受用報身と顕れたまえり、故に知んぬ。法に即して人、人に即して法、人法本これ体一なることを。故に『法華経の題目』とは、またこれ蓮祖聖人の御事なり」
 すなわち『法華経の題目』とは、附文の辺では法の本尊を指しているが、元意の辺では人法一箇の本尊を意味しているとの御指南である。
2、報恩抄の御文との関連
 前にものべたように、本抄の内容のうえで深くかかわっているのが報恩抄の次の御文である。
 「日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし」(0328-15)
 ここでは「本門の教主釈尊を本尊とすべし」と仰せられているが、大聖人御図顕の御本尊における中央の首題は、南無妙法蓮華経と認められている。このゆえに浄顕房の疑問が生じたと考えられるのであり、また大聖人滅後における日蓮宗各宗の迷妄も、ここに発しているといっても過言ではない。
 この点について日寛上人は、報恩抄文段で「教主釈尊」について多義があることを示されたうえで大要次のように述べられている。
    ①「本門の教主釈尊」とは標の文であり、人本尊を示されている。
    ②「所謂宝塔の内の釈迦多宝」等は釈の文であり、法本尊を示されている。
    ③このように人本尊をまず標示され、法本尊をもってこれを釈だれているゆえに、「本門の教主釈尊」とは、人法体一の久遠元初の自受用報身・本因妙の教主釈尊を明示されたのである。
    ④すなわち、本因妙の教主釈尊の全体がそのまま一念三千の法の本尊であるがゆえに、「本門の教主釈尊を本尊とすべし」と仰せられているのである。
    ⑤もし色相荘厳の本門在世の教主釈尊をもって「本門の教主釈尊」と名づければ、すでに諸御抄で示されているように、人法の勝劣は明らかであり、劣っている人本尊を勝れている一念三千の法本尊をもって釈すことはありえない。
 つまり報恩抄の御文は、人に約して本尊の体相を示しているのである。そして、法をもって人を釈されているとは、「所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし」と明かされている法本尊の相がそのまま「教主釈尊」であるころを御教示されたものである。
 一方、本尊問答抄の「法華経の題目を以て本尊とすべし」の御文について日寛上人は、観心本尊抄文段で、要法寺日辰の邪義を破折されつつ次のように述べられている。
 「当に知るべし、日辰所引の諸抄の意は、並びにこれ人法体一の本尊なり。人法体一なりと雖も、而も人法宛然なり、故に或は人即法の本尊に約し、或は法即人の本尊に約するなり、当文及び本尊問答抄、当抄の下の文の『本門の本尊』、佐渡抄の『本門の本尊』の文は並びにこれ人即法の本尊なり。三大秘法抄、報恩抄等は法即人の本尊なり」
 すなわち、本抄の御文は、人法一箇の立場から、人即法の本尊を示されているのに対し、報恩抄の御文は、同じく人法一箇の深義のうえから、法即人の本尊を顕している。ゆえに、本尊問答抄の御文は表現のちがいがあっても、その御真意は人法一箇の本尊であるとの御教示である。
 本抄で示された「法華経の題目」とは、事の一念三千の南無妙法蓮華経であり、久遠元初の自受用身の当体がそのまま一念三千の南無妙法蓮華経であり、久遠元初の自受用身の当体がそのまま一念三千の南無妙法蓮華経であることを示されている。また報恩抄における「本門の教主釈尊」との仰せは、久遠元初自受用身の御事であり、事の一念三千が即自受用身であることを顕されたものである。
 以上のことから、両抄における本尊の御教示は、その元意においてはいずれも大聖人御図顕の人法一箇の大曼荼羅を明かされたものと拝されるのである。
3、真言破折との関連
 本抄は、真言破折に重点をおいておられる。本項では、このことを確認し、併せて本抄の真言破折の持つ意義に触れておきたい。
 本抄の中心課題が、末法における本尊の本義を説かれることにあることはすでに述べた通りである。つまり、釈尊をはじめ、阿弥陀如来・大日如来等の一切の諸仏が本尊とした「法華経の題目」をこそ本尊として崇むべきなのである。
 しかし、当時の日本にあっては、能生たる妙法を忘れ所生の存在たる仏菩薩を本尊としており、しかも、その仏に「神」を入れる儀式において大日仏眼の印と真言をもって開眼供養していたのである。これは法華経こそ能生の根源であるとの仏説を踏みにじった大謗法であり、本末転倒というほかない。
 このことを大聖人は本抄で「仏は所生・法華経は能生・仏は身なり法華経は神なり、然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし而るに今木画の二像をまうけて大日仏眼の印と真言とを以て開眼供養をなすはもとも逆なり」と仰せられているのである。
 ここに、本抄における真言破折の元意は、大日如来を本尊とする義との相対を通して、法華経の題目即妙法を本尊とすべきことを明かすにあったことが拝せられるのである。

         各段の概要top

第一段 正しく末大悪世の本尊を定める(0306:01~0306:01)
 第一段は、「標」「釈」「結」の三段に配した場合、「標」に位置づけられよう。
 ここに、「標」「釈」「結」とは、文章の表現形式や論文の構成法のことをいう。このうち「標」とは標示、標出の意で文章全体の主題を示すこと、「釈」とは解釈で、標示された主題について具体的に論ずること、「結」とは結論で、所論全体を結ぶことである。
 日応は弁惑観心抄で、要法寺の前住職・麒尾日守の著作、末法観心論における誤った本尊義を破折され、大聖人の正意を明かされているが、なかでも第一章の「本門の本尊を論ず」の第十九節では、日守が本尊問答抄の「法華経の題目を以て本尊とすべし」との御文をあくまで権実相対の法門としてとらえ、法本尊の依文とはならないと主張していることに対し論駁されている。
 そのなかで次のように仰せられている個所がある。
 「蓋し現文」は当抄、標釈結三段の中には標文なるが故に但末代悪世の凡夫は何物を以って本尊とすべき也との玉うといえども」
 この仰せから、第一段は「標」に当たり、したがって本抄全体の主題がここに表されているといえると考えられている。
 すでに述べたように、本抄は、大聖人御図顕の御本尊を賜った浄顕房が、釈迦・多宝が題目の脇士として認められている点について御質問し、それに対して大聖人がお答えになった御書である。
 すなわち報恩抄における「教主釈尊を本尊とすべし」(0328-15)との御教示に関連したこの問いに対して大聖人は問答を設けて、冒頭、法華経の題目をもって本尊とすべきであると仰せられているのである。
 日応上人によれば、この仰せは、たしかに附文の辺では、日守の言うように権実相対の法門であるが、元意の辺では、本門寿量文底独一本門の事の一念三千の御本尊を明示したものであり、本抄のなかでは「標」「釈」「結」の三段のうち「標」の文に当たるがゆえに、このように仰せられたのであって、「法華経の題目」は迹門・本門・観心の三段において拝さなくてはならないのである。
 そして、この「法華経の題目」を主題として、所対の人に応じ、また所問の辺に従って縦横に釈されており、そのことが本抄全体を貫くテーマとなっていると拝される。
 大聖人は、ここにおいて末法の本尊を「法本尊」として法の辺から明かされているのであるが、これは、大聖人御所持の法が、釈尊の法華経文上には説かれていないことを示されていることに元意がある。
 これによって、当時、報恩抄に明かされた「本門の教主釈尊」の御文について、色相荘厳の釈尊にとらわれて、真義に惑っている浄顕房に対して、大聖人の仏法が末法における唯一の正法であり、またその弘通される法体は、法華経の肝心であり、文底の事の一念三千であることを御教示されているのである。
 同時に、浄顕房は、すでに御本尊を授与されているので、報恩抄の御教示と本抄の標文とを合わせて拝すれば、大聖人の正意の本尊が、すでに授与さえた大聖人所顕の曼荼羅御本尊であることはもはや明確であろう。
第二段 経釈を挙げてその根拠を示す(0365:01~0365:07)
 ここでは、仏法においては、「人」ではなく「法」を中心にしなければならないことを示す経釈を挙げて、前段の文証とされている。
 ここに引かれている経釈の意味するところは、人法勝劣を示し、すべて「仏よりも法を中心とすべきである」との御教示を裏づけるものとなっている。これは一往、釈尊の説示に則って、仏像を本尊とすることを批判され、第一段で述べた法本尊の正しい所以を示されている。
 大聖人がここで挙げられている経釈は、まず初めに法華経法師品の「仏の舎利を用いるのではなく、経巻を安置せよ」との文であり、次に涅槃経の「法は諸仏の師である。法が常住である故に諸仏も常住である」との文である。そして、天台大師の法華三昧懺義の「法華三昧においては、法華経を安置し、形像舎利、並びに他の経巻を置いてはならない」との文をひかれている。
第三段 法華経の行者の正意を顕す(0365:08~0365:18)
 本段では、前段で引かれた経釈に対して起こりうる疑問に回答を与える形で、大聖人御図顕の本尊が、末法の衆生にとっての本尊であると同時に、釈尊を含む一切の諸仏が本尊としたものであることを明かされている。
 まず「法華経を中心に安置せよ」との経釈に対して、二つの疑問が提出される。
 第一は、天台大師が摩訶止観巻二に説かれている四種三昧の本尊は阿弥陀仏であること、第二に、不空三蔵の訳した観智儀軌は釈迦仏・多宝仏を本尊としていることである。
 第一の疑いに対しては、四種三昧のうち常坐・常行・非行非坐の三種の修行において阿弥陀仏を本尊としたのは末顕真実の権教によったものであること、また半行半坐三昧のうち、方等三昧が方等経の七仏・八菩薩を本尊としているのも同じく権経を依処としたのであると述べられている。
 そして半行半坐三昧のうち法華三昧が天台大師の正意であり、法華経を本尊として安置することが法華三昧懴儀の真意であるとされている。
 第二の疑いに対しては、不空三蔵が法華経宝塔品によって釈迦・多宝の二仏を本尊としたのは、法華経の正意ではないと仰せである
 最後に大聖人が御教示されている「法華経の題目」たる御本尊は、釈迦・多宝・十方の諸仏の本尊であり、これこそが法華経の行者の正意であると結ばれている。以上この段までは、末法の本尊が、大聖人の御図顕されている南無妙法蓮華経の曼荼羅本尊であることを明かされたと拝される。
第四段 勝れたるを本尊とする(0366:01~0366:11)
 本段と次の第五段においては、末代悪世において本尊を決定すべき基準が述べられている。
 ここではまず当時の日本国に存在していた十宗の本尊を挙げられ、それぞれの本尊がまちまちであることが示される。そして、仏、あるいは経を本尊として立てているなかで、天台宗のみが経を本尊としているのは何故かとの問いが発せられる。ここでは経と述べられ、法とされていないのは、天台大師が経巻としての法華経を本尊としたことを受けたものと拝せられる。
 また、この質問以降、「法華経の題目」との語は使われず、おもに法華経と諸仏、特に法華経と大日如来という相対で論が展開されていく。
 その問いに対し「本尊とは勝れたるを用うべし」との重要な意義を述べられている。そして、その例として、儒教においては三皇五帝、仏家においては釈尊を本尊と立てることを述べられている。これは、根本として尊敬するという本尊の字義から、最も勝れていると考えられたものを本尊としたのであり、この意味から、仏法においては、一往の辺では、八万法蔵の教主である釈尊を本尊とすべきことを仰せられているのである。
第五段 能生を以て本尊とする(0366:07~0366:15)
 仏教においては、釈尊を本尊とすべきであるとの前段の結論を受けて、ではなぜ大聖人が「法華経の題目」を本尊とするのかとの問いがでてくる。
 これに対して、このことは、大聖人の己義ではなく、釈尊・天台に準じたものであると述べられている。そして、その根拠として法華経が釈尊以下、十方の諸仏を出生せしめた「能生」の根源であることを示されている。ここから「能生を以て本尊とする」と仰せられている。
 続いて、普賢経を依文として「仏は所生・法華経は能生・仏は身なり法華経は神なり」と、すべての仏は、この法華経を悟って成道したのであり、法華経が能生・たましいであると断ぜられている。
 ここまでは、法華経の題目を本尊とすべきことを明かされた個所と拝することができる。すなわち、第三段において、末法の衆生が本尊とすべきことは「法華経の題目」であることを示されている。そして第四・第五段において、本尊の意義を示されることにより、最も勝れた当体であり、諸仏能生の根源が「法華経の題目」であることを明かされているのでる。
 そして、次段より真言破折に入られるのであるが、その端緒として本段の末尾の真言法のうちもっとも仏法の本義に逆らっている象徴ともいうべき開眼供養の儀式を破折されている。
 さてここで大聖人が能生の法をもって本尊とすべきことを仰せられていることに重々の意があると拝される。すなわち、日寛上人が「能生は即ちこれ種子の徳なり」と御教示されているように、下種の妙法を示されているからである。
 それゆえに、日寛上人は、本段の「十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり」との御文について、「文の中に『法華経より出生し給えり』というのは、即ち是れ下種の法華経・妙法蓮華経の五字なり」と仰せられている。
 そして、この元意から引証の普賢経の二文を読むならば、これらの文そのものが、久遠元初の三徳の具足の能生の徳を顕しているのである。すなわち、日寛上人によれば「此の大乗経典」とは、久遠元初の妙法を指している。「仏の宝蔵」とはすなわち主の徳、「十方三世の諸仏の眼目」とは師の徳、「三世諸仏の如来を出生する種」とは、父母の徳をそれぞれ顕している。
 そして、次の「方等経」以下の文では、久遠元初の妙法を指して「方等経」と述べている。「是れ諸仏の眼」は師の徳であり、この師にまた能生の徳が具わっているが故に、「諸仏は是に因って五眼を具することを得たまえり」と説かれているのである。また、「仏の三種の身は方等より生ず」とは、父母能生の徳である。「是れ大宝の印」とは主の徳を顕している。この主の徳にまた能生の徳が具わっているが故に、「此くの如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず」と説いているのである。したがって、一体の三徳を顕している。
第六段 弘法等の三大師の帰依を責む(0366:16~0367:17)
 これにより、真言破折に入るのであるが、まず初めに「問うて云く法華経を本尊とすると大日如来を本尊とするといづれか勝るや」との問いを立てられている。
 これに対して、法華経より大日如来の方が勝れているとした弘法・慈覚・智証の三大師の義を挙げられている。すなわち、弘法の「法華経は大日経より三重の劣である」との義、台密の慈覚・智証の「大日経第一・法華経第二」との義がそれである。
 次に大聖人御自身の義を法華経法師品の「已今当の一切経の中に法華経最為第一なり」との文をもって示されている。
 そして、次の問答では、当時の世間の人々の見方からくる疑問を提示されている。
 「問う今日本国中の天台・真言等の諸僧並びに王臣・万民疑つて云く日蓮法師めは弘法・慈覚・智証大師等に勝るべきか如何」(0367-02)
 つまり、当時の人々にとって、弘法等の三大師は、大聖人よりはるかに勝れた聖僧であり、それゆえ、三大師の言い分のほうが正しいと思い込んでいるのである。
 これに対して、大聖人は、
    ①三大師は、釈尊等の仏より勝っているのか
    ②「法華経第一」は、大聖人の己義ではなく、釈尊の遺誡である「依法不依人」の金言に基づいて“法”によって立てたものである
 の二点から反論されている。
 続いて、三大師も一往、一切経、法華経を読んでいるとはいえ、法華経に「法華最第一」と釈尊が明確に定めているにもかかわらず、弘法は「法華経第三」と読み、また慈覚・智証は「法華経最第二」と読んでいると述べ、まったくの誤りであることを指摘されている。そして、釈迦・多宝・十方の諸仏が説いたところの三大師の主張のいずれを本とすべきかと迫られている。
第七段 三大師の事歴を挙げる(0367:14~0368:13)
 この段は、13からなる問答の最後に当たる。
 前段の大聖人の破折に対して、弘法・慈覚・智証の三大師の事歴をもって反論を記されている。これは、世間の人々の見方を示されたものであることは言うまでもない。すなわち、三大師はそれぞれ智慧もすぐれ、仏法を深く究めた有徳の人たちである。この三大師に帰依することがどうして仏に背くことになるのかとの素朴な疑問である。
第八段 仏法の伝来を略述す(0368:12~0370:01)
 前段の反問に対して、まずインド・中国における仏法流布の経緯を簡潔に記されている。とくに、中国に仏法が渡ってから600年後に、善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の三三蔵がインドから中国に来て真言宗を立ててから、華厳経・法華経が見下されてしまったと仰せである。
 そして、その後に出現した妙楽大師も法華経と真言との勝劣をはっきりわかっていたが、表立って言わなかったために、中国においてはその勝劣を弁える者はいなくなってしまったとも述べられている。
 次に、日本における仏法の歴史に言及されている。伝教大師は法華経と大日経との勝劣を正しく弁え、大日経疏に天台宗の義、すなわち一念三千の法門が盗み取られていることも見抜いていたが、伝教大師以後、天台座主の慈覚・智証が師の教えに敵対して、弘法の邪義を取り入れたことにより、日本中に真言の邪義が広まってしまったのである。
 そして、その後の日本国には、三大師を超える碩徳が現れなかったため、伝教大師から大聖人の時代に至るまでの400年余りの間、日本一同に真言が法華経より勝れていると信じ込んでしまったとされている。
第九段 日本に法華経の行者なきを明かす(0370:02~0470:07)
 本段では、真言破折を総括されて、当時にあって、「法華経最第一」の義を身口意の三業にわたって主張したのは大聖人ただお一人であることを示され、大聖人こそが、末法の法華経の行者であることを明かされている。
 そして、日本にある数十万の寺社はすべて真言宗であると仰せられている。それは、比叡山の座主等をはじめ、各寺の最高の地位にある高僧たちが一同に真言師となってしまったために、日本国中の僧侶が真言師になってしまったからである。また、たまに法華経を並べたり、法華・真言を兼学する人も心中は皆真言師であるとされている。
 彼らは、口に法華経第一と読んでいても心は第二・第三であり、その修行はすべて真言宗の法であり、身口意三業相応して最第一と読む法華経の行者・能持此経の行者は、伝教大師より以後400余年の間一人もいなかったのであり、法華経法師品の「如来の現在すら、猶怨嫉多し。況んや滅度の後をや」との経文どおり、日本国の一切衆生は法華経の大怨敵となってしまったと述べられている。
 そして、これまで述べられてきたように、日本国は、上一人より下万民に至るまで真言第一の邪義に陥り、真言が最も勝れているということが常識となっていた。ゆえに、それを真っ向から否定し法華経第一の義を唱えられる大聖人に強い反発が起きたのは当然であったといわなくてはならない。大聖人ただ一人が、この義を説かれたのであり、そのゆえに大聖人は法華経に予言された諸々の難を身をもって受けられたのである。
 これを逆に見るなら、大聖人は身をもって法華経の予言が正しかったことを証明されたのであり、法華経を身口意の三業にわたって最第一と読み切られた末法の法華経の行者は、日蓮大聖人以外にはないということである。
第十段 大聖人の御事歴を示す(0370:08~0371:11)
 ここからは、日蓮大聖人が、正像末の本尊を顕される未曾有の人であることを明かされていく。
 まず、大聖人御自身の出自を示され、日本国の中でも辺国の安房に御誕生になったことを示されている。そして、修学の経緯を述べられつつ、そこでどのように十宗の誤りを見抜かれたかを述べられている。
 日本の十宗が、大小・権実の雑乱に陥り、この仏法の乱れによって日本の王法も力が尽き、最後には、謗法の罪によって他国に攻められる亡国となることを述べられている。そして、このことは大聖人が早くから幕府要人に対して諌めてきたことであり、とくに、故最明寺入道に立正安国論を上呈して諌暁されたことを述べられている。
第11段 亡国の現証を挙げる(0371:12~0372:18)
 ここでは、亡国の現証として「承久の乱」を挙げられている。
 承久の乱における事件と、真言師が15檀の秘法を行じていった様子を時間的に詳しく対比して述べられ、真言亡国の現証を臨場感をもって描写されている。そして真言の邪法を信ずることが、結局、法華経の怨敵となるゆえに、亡国という現証があらわれるのであると結論されている。
第12段 蒙古調伏を諌める(0372:18~0373:10)
 今や、亡国の法である真言が、鎌倉幕府にとり入り、蒙古襲来という災を招き、日本を亡国の悲運におとしいれようとしているのである。これは、先に承久の乱によって滅びた、隠岐の法皇と全く同じ道を辿っていると明言されている。
 法華経において、梵王・帝釈等の諸天善神は、もし国王が法華経の怨敵となったなら、この国王を治罰することを誓っており、そこに亡国の現証が起きるのである。
 この真言亡国の現証は、源平合戦の時、平清盛が叡山の天台真言をもって源頼朝を調伏しようとして、逆に平家一門も安徳帝も滅びたのを第一回の現証とし、承久の乱を第二回、そして今度の蒙古襲来は第三回の現証になってしまう恐れがあるとされ、もし大聖人の諌めを用いず真言による調伏を行うなら、法華経観世音菩薩普門品第二十五に「還著於本人」と説かれているように、かえって日本の方が調伏され滅びてしまうであろうと憂えられている。
 以上のように、第11・12段では、現証をもって真言の邪法を破折され、真言破折の細目を述べられている。
第13段 有縁の人々の報恩を述べる(0373:11~0373;16)
 冒頭の「此の道理を存ぜる事」との仰せは、直接的な意味では、真言の悪法による調伏は亡国の因となり、法華経こそ成仏の大道であることを大聖人ただ一人が知悉されていることと拝される。しかし、元意の辺では末法において立てるべき正しい本尊を知っていることを仰せられたと拝さなくてはならない。
 したがって、ここでは、大聖人が末法の御本仏として未曾有の本尊を顕されるのもひとえに父母・師匠の恩によるとの深い報恩の一念を表されているのであり、それは本抄を与えられた浄顕房ならびに義浄房の二人に対しても同様であることは、立宗の際に地頭の東条景信に襲われた時、二人が大聖人を助けてくれたことを記されていることが明らかであろう。
第14段 未曾有の本尊の末法弘通を明かす(0373:17~0374:06)
 この段は、本抄の結論に当たる段であり、大聖人御図顕の御本尊が正像末未曾有の御本尊であることを示されるとともに、大聖人が地涌の菩薩の上首・上行菩薩の再誕として末法にこの御本尊を弘通されることを示唆されている。そして、本抄の冒頭に標示された「法華経の題目を以て本尊とすべし」の仰せの御本尊が、まさに義浄房に授与された大聖人御図顕の御本尊にほかならないことがここで明らかになっているのである。

0365:01~0365:01 第一段 法華経の題目を本尊と定めるtop
0365:01~0365:01 第一 本抄の主題top
0365
本尊問答抄    弘安元年九月    五十七歳御作   与浄顕房日仲
01   問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし、 ・
-----―
 問うて云う。末代悪世の凡夫は何をもって本尊と定めるべきか。
 答えて言う。法華経の題目をもって本尊とすべきである。

 本段は、本抄の標文であり、全体の主題を示されているところである。以下、この主題をめぐって論を展開され、末代悪世の凡夫が「法華経の題目」を本尊とすべき所以を明らかにされていく。
 この標文においては、末法の本尊をまず法の辺から示されているが、その元意は人法一箇の御本尊であり、人に即する法の本尊であることに注意しなければならない。また、「法華経の題目」は、単に28品の経題だけではなく、元意の辺から拝さなくては本抄全体の主旨を誤ってしまうことになる。
 日淳上人は本抄について「本尊問答抄は猶末だ権実相対の上の御法門でありますが、元意は法本尊を御示し遊ばされたのであります。従ってこの御書によって御本尊の拝し方を会得し奉ることができます。乃ち無作三身の仏を確立して後に人の仏を拝して確立し奉る此れが順序であります」と御教示されている。
 ここに、「無作三身の仏」とは、事の一念三千たる南無妙法蓮華経を指している。
 つまり、日淳上人は、末法における法の本尊として示された「法華経の題目」を一念三千の法において拝し、そしてそこに迹門・本門・文底の三段の立て分けがあり、その法の立て分けをもって教主としての人本尊を拝すれば、末法有縁の主師親三徳の御本仏が誰人であるかがおのずと明らかになると仰せなのである。
 そして、大聖人が建立される末法の御本尊は、久遠元初本因下種の事の一念三千であり、その教主をたずねれば、本果妙の教主釈尊ではなく、本因妙の教主釈尊、すなわち日蓮大聖人であり、大聖人をもって末法有縁の主師親三徳を具備された人本尊として尊崇申し上げるのである。
 諸法実相抄に「是れ即本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり、されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」(1358-11)と仰せであるが、日淳上人はこの御文を引かれて、「ここに寿量品の指標し玉ふ御本尊が法の御本尊であられるが故に人御本尊を離れて法御本尊を立て、大聖人の御正意となす者がありますが、これは一往の段階に於て仰せなされる所以を知らないからであります。人を離れた法はないのでありまして若しそれを立てれば理の法相に他ならぬのであります。それはまた天台の理の一念三千であります。事の一念三千は事相に於て成り立つのであります。故に人の仏が必ずあらせられるのであります」とある。
 この文は、本抄に仰せの「法華経の題目」についてもそのまま当てはまると言ってよい。
 つまり、先の文を併せて要約すれば、
    ①「法華経の題目」は迹門・本門・文底の三段において拝すべきものであり、本抄の元意は、寿量文底本門事の一念三千を末法の御本尊として明かすべきところにある。
    ②文底の事の一念三千においては人法一箇であり、したがって法の本尊といっても人本尊を離れた法はなく、人に即する法である。
 の二点が本段の重要なポイントとして浮かび上がってくるのであり、序講で論じたのもまさにこの点である。
 つぎに「法華経の題目を以て本尊とすべし」との仰せから、日蓮宗諸派では“大聖人の仏法においては題目が根本であり、それを唱える信心の対象として本尊がある”としてきた。これは本尊と題目の関係を誤って捉えた本末転倒の考え方であまり、本尊を軽視し、根本の本尊に迷うもとともなってきたのである。
 法華経の題目は、法華経の題号とその名は同じであるとはいえ、義は全く別であることを知らねばならない。ゆえに日寛上人は、例えば法華経題目抄の題号について釈するにあたって、附文と元意の二意を示されている。
 まず附文の意とは、「『法華』の二字は体を挙げ、『題目』の二字は名を挙ぐ。これ即ち名は必ず体ある故なり。謂く、妙法蓮華経とは即ちこれ法華経一部八巻二十八品の題目なり」とするごとくである。
 言い換えると、妙法蓮華経の題目を法華経という経典の題号であるとするのは附文の辺での拝し方に過ぎないのである。これに対いて三大秘法そのもののことであるとするのが元意の辺であるとされ、次のように示されている。
 「『法華』の二字は所信の体、即ちこれ法華経の本門寿量文底下種の本尊なり。『題目』の二字は能唱の行、即ちこれ本門寿量文底下種の題目なり。所住の所は即ちこれ久遠元初の本門の戒壇なり」
 日寛上人は文底秘沈抄で、「夫れ本門の題目とは即ち是れ妙法五字の修行なり。…修行に本有り、所謂信心なり」と仰せられたうえで、「本門の題目には必ず信行を具す。所謂但本門の本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱うるを本門の題目と名づくるなり、仮令信心有りと雖も、若し修行無くんば末だ可ならず。…仮令修行有りと雖も、若し信心無くんば不可なり。故に宗祖云く『信無くして此の経を行ぜば、手無くして宝山に入るが如し』云云。故に知りぬ。信行具足の方に本門の題目と名づくるなり、何ぞ但唱題と云わんや」と、本門の題目は信行具足の題目であり、したがって信ずる対象としての本尊が不可欠であることを示されている。
 すなわち、あくまで本門の本尊が根本であり、本尊を信ずるところに唱題行が始まるのである。この故に、本門の本尊を一大秘法と名づけ、ここに三大秘法が具足しているのである。
 このことを日寛上人は依義判文抄に三大秘法の開合の相として「三大秘法を合する則は但一大秘法の本門の本尊と成るなり。故に本門戒壇の本尊を亦三大秘法惣在の本尊と名づくるなり」と述べれている。
 この本尊と題目の関係を誤って考えては、本抄の元意を拝することは絶対にできないといってよい。

0365:01~0365:07 第二段 経釈を挙げてその根拠を示すtop
0365:01~0365:04 第一 法華経の経巻を本尊にtop
01                                                    問
02 うて云く 何れの経文何れの人師の釈にか出でたるや、 答う法華経の第四法師品に云く「薬王在在処処に若しは説
03 き若しは読み若しは誦し若しは書き若しは経巻所住の処には 皆応に七宝の塔を起てて極めて 高広厳飾なら令むべ
04 し復舎利を安んずることを須いじ 所以は何ん此の中には已に如来の全身有す」等云云、
-----―
 問うて云う。その根拠はどの経文、またどの人師の釈に出ているのか。
 答えて言う。法華経の巻第四の法師品第十に「薬王よ、いかなる場所においても、この法華経をあるいは説き、あるいは読み、あるいは誦し、あるいは書写し、もしくはこの経巻が存在するところはすべて七宝の塔を建てて、最高に高く、広く荘厳して供養しなさい。そして別に仏舎利を安置する必要はない。なぜなら、この法華経の中に如来の全身がおわしますからである」とある。

 さて、本段は、前段において末代の凡夫は法華経の題目をもって本尊とすべきであると述べられたのを受けて、その根拠となる経典を問うている。前段の標文に対して、本段から釈が始まる。
 この問いに対して、大聖人は、法華経法師品・涅槃経の如来性品・天台大師の法華三昧懴儀の三つの経釈を挙げられている。これらの経釈はいずれも法と人の関係を示す依文であるが、文は法華経迹門、もしくは法華経以外の経釈であっても、義は本門にあることを知らねばならない。
 日応上人は弁惑観心抄の本段引用の経釈の文について次のように仰せである。
 「釈文亦所対の人に応じ且つ所問の辺に従いて法師品等を引証し玉ふといへども文在迹門義在本門にして迹の文章を借り本の実相を証す所謂随宣転用之れなり」
 つまり、本門の義をもってこれらの経釈を判じられ、文証とされているのである。
 ここに本門の義とは、本門寿量品の南無妙法蓮華経を意味していることは、同じく弁惑観心抄に、「釈文所引の文は権実相対の依馮といえども已に宗祖の本懐たる本尊の実義を明示せられたる」といわれていることから明らかである。
 では、次にそれぞれの文を見ていくことにする。
法師品の文
 この経文の趣旨は、仏の舎利を用いるのではなく、経巻を安置させよということであるが、この場合、仏の舎利が「人」に、経巻が「法」になっている。
 これは、仏が入滅した後、何をもって礼拝の対象とすべきかを説いたものであり、経巻所住のところに塔を建て荘厳せよと述べられている。舎利を安置する必要がないということは、あくまで経巻を本尊とすべきであることを示しているのである。
 この経巻とは、もちろん法華経のことであるが、これは広・略・要の上から拝さなくてはならない。すなわち、「広」は法華経一部八巻二十八品、「略」は方便品・寿量品の二品であり、「要」は妙法蓮華経の五字である。
 次に、「復舎利を安んじることを須いじ」の文について述べておく。
 天台大師の法華文句巻八上に大智度論を引いて。「『不復安舎利』とは、釈論に云く、『砕骨は是れ生身の舎利、経巻は是れ法身の舎利なり』と。此の経は是れ法身の舎利なり。更に生身の舎利を安ずるを須たず。生法二身に各々全砕有り」と示されているように、この「舎利」とは生身の舎利を指している。
 これに対して、例えば如来寿量品第十六の自我偈に「衆我が滅度を見て、広く舎利を供養し、咸く皆恋慕を懐いて、渇仰の心を生ず」とあるなかの「舎利」とは、法身の舎利を意味している。
 また、生身・法身にそれぞれ全身の舎利・砕身の舎利の区別がある。遺体のままで土葬した場合は全身の舎利、火葬で遺骨にした場合は砕身の舎利と呼ばれる。妙楽大師の法華文句記巻八之三には、「生身の全砕は釈迦と多宝との如し」と記されている。
 釈尊の舎利は遺骨として分けてあることから砕身の舎利とみなすことができる。これに対して、多宝如来は全身のままで入定したので全身の舎利と考えられる。
 このことは、 見宝搭品第十一に、多宝如来が地より涌出した宝塔の中にいることを釈尊が「此の宝塔の中に、如来の全身有す」と言い、そして多宝如来自身がこの宝塔を「我が塔廟」と呼んでいることから、推察できる。
 更に、法身の舎利は、法華経が全身の舎利にあたり、余経は砕身の舎利に相当する。これは、余経が如来の悟りを部分的に表現しているのに対して、法華経はその究極の全体を説いた経典であるからである。
 この故に法師品に「此の中には已に如来の全身有す」と説かれているのである。すなわち、法華経の釈尊の悟りが尽くされているが故に、そこに釈尊の命が籠っていることを「如来の全身有す」と表現している。
 このように、法華経の経巻にこそ釈尊の全生命があるのだから、別に生身の舎利を安置する必要はないというのである。
 なお、日寛上人は依義判文抄でこの法師品の文を次のように三大秘法に配されている。
 「応に知るべし、若しは説き、若しは読み等は、本門の題目なり、若しは経巻とは即ち本門の本尊なり、所住の処皆応に塔を起つべしとは本門の戒壇なり」
 また文底秘沈抄では「若しは経巻所住の処…此の中は已に如来の全身有す」の文を久遠元初の自受用身における人法体一の明文とされている。

0365:04~0365:07 第二 法華経より法が根本top
04                                          涅槃経の第四如来性品に
05 云く「復次に迦葉諸仏の師とする所は 所謂法なり是の故に如来恭敬供養す 法常なるを以ての故に 諸仏も亦常な
06 り」云云、 天台大師の法華三昧に云く「道場の中に於て好き高座を敷き法華経一部を安置し 亦必ずしも形像舎利
07 並びに余の経典を安くべからず唯法華経一部を置け」等云云。
-----―
 涅槃経の第四如来性品には「また次に迦葉よ、諸仏が師とするのはいわゆる法である。この故に、仏は法を敬い供養するのである。法が常住であるから、それを悟った諸仏もまた常住なのである」と説かれている。天台大師の法華三昧懺儀には「道場の中に立派な高座を設け、ただ法華経一部を安置しなさい。また必ずしも仏像や仏舎利、法華経以外の経典を安置してはならない。ただ法華経一部を安置しなさい」と述べられている。

 ここは、法師品の文に続いて涅槃経・法華三昧懺儀の釈を引かれているところである。
①涅槃経の文
 この文は、北本涅槃経巻第四の如来性品第四の一に出ている。如来性とは、如来の本性をいい、如来の如来たる所以を意味している。この経では、如来の本性が法に存することを明かして、それはまた一切衆生の本性であることを説くのである。
 それ故、章安大師は、「如来」は因果の果にあたり、「性」は因にあたるとしている。つまり「如来」は仏の果徳の尊号であるが、ただそれのみをもって如来と名づけているのではなく、衆生の本性も如来と名づけられていることを示しているのである。
 また、この文は、章安大師によれば、小乗に説かれた涅槃の義との相違を示しているところである。つまり、小乗教では、煩悩を滅するところに涅槃があると説かれていたが、涅槃経では、仏の悟りの境地そのものを涅槃と位置づけ、涅槃を名づけて常住といい、如来も同様であり、如来は常住の法にして変易がないと明かされるのである。
 そして諸仏は、この常住の法を師として修行したが故に成道し、常住を得たというのが、この文の意味するところである。なお章安大師は、「法常なるを以ての故に諸仏も亦常なり」の文の「常」とは「常楽我浄」を略したものであると釈している。
 いずれにしても、涅槃経のこの一節は、法と仏とを相対させて、法が根本であることを示したものであり、それ故に大聖人は法勝人劣の依文を引かれているのである。
②法華三昧懺儀の文
 天台大師は、法華三昧の行法をこの書の中で具体的に示している。特に、この文は、この行法の中心をなす正修行を述べたところである。
 このなかで、ただ法華経一部のみを安置して、仏像や舎利を安置してはならないと明示しているのは、先の法華経法師品第十の文と同趣旨とみなすことができる。

0365:08~0365:15 第三段 法華経の行者の正意を顕わすtop
0365:08~0365:09 第一 釈迦・多宝を法華経の本尊と立てた不空top
08   疑つて云く天台大師の摩訶止観の第二の四種三昧の御本尊は阿弥陀仏なり、 不空三蔵の法華経の観智の儀軌は
09 釈迦多宝を以て法華経の本尊とせり、 汝何ぞ此等の義に相違するや、
-----―
 疑つて云う。天台大師の摩訶止観巻第二上に説かれている四種三昧の本尊は阿弥陀仏である。また不空三蔵の訳した観智義軌では釈迦・多宝をもって法華経の本尊としている。それなのに、あなたはどうしてこれらの義と相違する義を立てるのか。

 本段は、前段で挙げられた経釈に対して起こりうる疑問を想定して提起され、その回答を示されることにより法華経の行者の正意を明かされるところである。
 まず二つの疑問が提示される。第一は天台大師は摩訶止観の四種三昧において阿弥陀如来を本尊としていることからくる疑問である。
 阿弥陀如来を本尊と立てるのは、四種三昧のうち常行三昧である。摩訶止観には、四種三昧の行法について、身開遮・口説黙・意止観という身口意の三業から、それぞれを規定しているが、常行三昧の口説黙については次のように述べている。
 「口の説黙とは、九十日、身常に行じて休息すること無く、九十日、口に常に阿弥陀仏の名を唱えて休息すること無く、九十日、心に常に阿弥陀仏を念じて休息すること無し。…但専ら弥陀を以て法門の主と為す」
 このように、弥陀を本尊としてただ一途に阿弥陀如来の身相感得を念ずる修行を90日間にわたって行うのである。
 次に第二の疑問として挙げられているのが、不空三蔵の訳した観智儀軌では、釈迦・多宝仏を本尊としていることである。
 不空の訳した経典は大部に及んでいるが、そのなかには不空の著作と認むべきものも若干含まれるとされている。恐らくこの観智儀軌もその一つではないかと考えられる。なぜならば、これは法華経を密経の立場から解釈したものであり、それも法華経の真意からほど遠いからである。
 元来、インドから中国に経論を訳して伝えた多くの人の中で、「不空三蔵は殊に誤多き上誑惑の心顕なり」(0268-14)と大聖人が指摘されているように、誑惑の心が強く、この観智儀軌も自分勝手な解釈を織り込みながら訳したものかも知れない。
 大聖人は、先の撰時抄で「不空三蔵は誤る事かずをほし所謂法華経の観智の儀軌に寿量品を阿弥陀仏とかける眼の前の大僻見・陀羅尼品を神力品の次にをける属累品を経末に下せる此等はいうかひなし」(0268-09)と、観智儀軌にも、寿量品の本仏を阿弥陀仏とするなど、やはり荒唐無稽の誤りが見られることを指摘されたうえで、「他人の訳ならば用ゆる事もありなん此の人の訳せる経論は信ぜられず」(0268-12)とまで断じられている。
 さて、その観智儀軌に、「其の塔中に於いて、釈迦牟尼如来、多宝如来の同座して坐するを画けり」とある。
 このように、阿弥陀仏や釈迦・多宝を本尊としている義に反して、なぜ法華経の題目を本尊とすべきであるとの義を立てるのか、との疑問である。

0365:09~0365:13 第二 法華経を本尊とする法華三昧top
09                                  答えて云く是れ私の義にあらず上に出だす
10 ところの経文並びに天台大師の御釈なり、 但し摩訶止観の四種三昧の本尊は 阿弥陀仏とは彼は常坐・常行・非行
11 非坐の三種の本尊は阿弥陀仏なり、 文殊問経・般舟三昧経・請観音経等による、是れ爾前の諸経の内・未顕真実の
12 経なり、半行半坐三昧には二あり、 一には方等経の七仏・八菩薩等を本尊とす彼の経による、 二には法華経の釈
13 迦・多宝等を引き奉れども 法華三昧を以て案ずるに法華経を本尊とすべし、
-----―
 答えて言う。これは、自分勝手に立てた義ではない。前に挙げた経文、並びに天台大師の御釈によってである。ただし、摩訶止観で四種三昧の本尊を阿弥陀仏としているのは、四味三昧のうち常坐三昧・常行三昧・非行非坐三昧の三種の本尊が阿弥陀仏であるということで、これは、文殊問経・般舟三昧経・請観音経等によって立てたものである。これらの経はいずれも爾前の諸経に収まるものであり、未顕真実の経である。半行半坐三昧には方等三昧と法華三昧の二種があり、第一の方等三昧は、大方等陀羅尼経の七仏や八菩薩等を本尊としているが、これは爾前の経によっている。第二の法華三昧は法華経の釈迦・多宝等を講じ奉っているが、前の法華三昧懺儀の意をもって考えると法華経をもって本尊とすべきなのである。

 阿弥陀仏を本尊とするのは、四種三昧のうち、常坐三昧・常行三昧・非行非坐三昧の三種で、半行半坐三昧では第一に方等経の七仏・八菩薩等、第二に法華経を本尊とするのであると仰せられている。
 常坐三昧は、文殊師利問経・文殊説般若経の二経を依経としている。摩訶止観には「一仏の方面に随い、端坐して正に向かう」「当に専ら一仏の名字を称し、懺愧懺悔して命を以て自ら帰すべし。十方の仏の名字を称うると功徳正しく等し」と、常坐三昧の本尊について一仏というのみで、特に何仏であるかは定められていない。
 しかし、妙楽大師は止観輔行伝弘決巻第二の一に「経には局って西方に向かわ令めずと雖も、障起これば既に専ら一仏を称え令めん。諸経の讃する所、多く弥陀に在り」と釈している。
 また、般舟三昧経を依経とする常行三昧はすでに述べたように、阿弥陀仏を本尊としている。
 次に、非行非坐三昧は、諸経の行法のうち他の三種の三昧に属さないものはすべてこの三昧に摂せられるといい、他の三昧と違って行儀については特に方法や期間を論じていないが、摩訶止観には、請観音経に約した場合の行法が例として記されている。
 すなわち「『請観音』に約して其の相を示せば、静處に於いて道場を厳り、旛蓋・香燈をもうけ、弥陀の像・観音・勢至二菩薩の像を請じて、西方に安ず」とある。この故に、大聖人は、本抄で「常坐・常行・非行非坐の三種の本尊は阿弥陀仏なり、文殊問経・般若三昧経・請観音経等による」と仰せられたと考えられる。
 しかし、これらの経は未顕真実の爾前権教であり、法華経を最勝とする天台大師所立の教判からすれば、そこに大師の真意があるとは決していえない。しかも、法華経の極説である一念三千の法門が明かされるのは摩訶止観では巻第五においてであり、そこに至る過程としてさまざまな方便の修行が立てられているのである。
 したがって、四種三昧の修行といっても、その全体が阿弥陀仏を本尊としているのではなく、四つのうち三つに限られ、しかも、阿弥陀仏と固定しているわけではないのである。
 次に、残るところの半行半坐三昧には、方等陀羅尼経による方等三昧と法華経による法華三昧の二種の行法がある。そして、方等三昧が方等経の七仏・八菩薩を本尊としているのは、先に示した他の三種の三昧と同じように、未顕真実の権経を依処としたものであると述べられている。
 ところで、方等三昧の本尊は一般的には二十四尊像と考えられている。これは、摩訶止観に方等陀羅尼経に基づいて“閑静なところに道場を定め、道場を荘厳して円壇を設け、そこに二十四尊像を講じて”云々とあることによる。
 しかしこの二十四尊像が具体的に何を指しているのかは、経にも摩訶止観にも実ははっきりと記されていない。その意味で、方等三昧の本尊を二十四尊像とすることは根拠は明確ではないともいえる。
 大聖人が本抄で方等三昧の本尊を七仏・八菩薩等とされている理由について、以下に要約して述べてみたい。
    ①方等三昧は、密教的な色彩が濃く、密呪を唱えるところに一つの大きな特色が見られる。方等陀羅尼経にはその密呪は、過去七仏の宣説したところであると説かれている。
    ②同経には、七仏については説かれているが、八菩薩は説かれていない。しかし、摩訶止観巻第二上には「七仏八菩薩の懺」とのことばがあり、妙楽大師の止観輔行伝弘決によると、七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経巻一に説かれる七仏八菩薩を指しているという。
    ③方等陀羅尼経を根本の依処とする方等懺法は、方等三昧として体系化される以前、天台大師の修学時代から、すでに広く知られていた行法である。そして、天台大師初期の著作である次第禅門では、方等懺法を大乗方等陀羅尼行法とか諸大乗方等修多羅などと呼んで、その依経として、必ずしも方等陀羅尼経の教説のみに限定してはいない。したがって、当時の方等懺法に七仏神呪経に七仏八菩薩が取り入れられたことは十分に考えられることである。摩訶止観の「七仏八菩薩」という言葉がそのことを物語っている。
 これらの諸点を総合して考えてみるに、方等陀羅尼経に説かれている七仏を七仏神呪経をもとにして七仏・八菩薩のセットで捉え、方等三昧の本尊と位置づけられたと考えられる。
 大聖人は、この方等三昧に対して、法華三昧は、法華経の釈尊・多宝如来等を本尊としていると仰せである。摩訶止観には特に本尊について定めていないが、法華経三昧の行法の中心をなす正修行の十法を挙げている。
 その十法の四番目として「請仏」の行法が挙げられている、これは法華三昧懺儀によると、一心正念に供養の心をめぐらして、法華経に説かれている仏法僧の三宝を奉請することで、「一心奉請南無釈迦牟尼仏」「一心奉請南無過去多宝世尊」「一心奉請南無釈迦牟尼十方分身諸仏」等と唱えることを指している。
 大聖人が本抄で「法華経の釈迦・多宝等を引き奉れども」と仰せられているのは、この意味においてであるとも考えられる。
 そしてその後に「別に一巻ありて法華三昧と名づく、是れ天台大師の著す所にして世に流伝す。行者これを宗とせよ」とあり、法華三昧の行法に関しては法華三昧懺儀を根本とするよう述べられている。
 このことから大聖人は本抄で「法華三昧を以て案ずるに法華経を本尊とすべし」と仰せられ、法華三昧懺儀を中心にして天台大師の真意を捉えると、当然、法華経の経巻が本尊となると述べられているのである。

0365:13~0365:15 第三 法華経の行者の正意top
13                                     不空三蔵の法華儀軌は宝塔品の文に
14 よれり、此れは法華経の教主を本尊とす法華経の正意にはあらず、 上に挙ぐる所の本尊は釈迦・多宝・十方の諸仏
15 の御本尊・法華経の行者の正意なり。
-----―
 不空三蔵の法華儀軌で説く本尊は、法華経宝塔品の文によっている。これは法華経の教主を本尊としているが、法華経の正意ではない。前に挙げたところの本尊、すなわち法華経の題目が、釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊であり、そこに法華経の行者の正意があるのである。

 ここでは、不空三蔵が釈迦・多宝の二仏を本尊と立てているではないかとの問者の反論に答えられている。
 すなわち、不空は観智儀軌において法華経法師品をよりどころに法華経の教主を本尊と立てているが、それは法華経の正意ではないと断じられている。法華経の題目こそ釈迦・多宝・十方の諸仏が本尊としたものであり、そこに法華経を行ずる者の正意があると仰せられている。
 大聖人は、宝塔品の二仏並座の儀式について「されば法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし、釈迦多宝の二仏と云うも妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時・事相に二仏と顕れて宝塔の中にして・うなづき合い給ふ、かくの如き等の法門・日蓮を除きては申し出す人一人もあるべからず、天台・妙楽・伝教等は心には知り給へども言に出し給ふまではなし・胸の中にしてくらし給へり、其れも道理なり、付嘱なきが故に・時のいまだ・いたらざる故に・仏の久遠の弟子にあらざる故に、地涌の菩薩の中の上首唱導・上行・無辺行等の菩薩より外は、末法の始の五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし、是れ即本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり、されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」(1358-05)とその甚深の意義を明かされている。
 この御文のなかで、釈迦・多宝の二仏を用の仏とされているのは、あくまで妙法蓮華経という法が根本であり、釈迦・多宝の二仏は、その法におけるはたらきを表している仏に過ぎないからである。
 また秋元御書には「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(1072-05)と仰せられている。このように妙法蓮華経を根本として釈迦・多宝の二仏、三世十方の諸仏が出生する所以を明かされている。この意味において本抄でも、法華経の題目、すなわち妙法蓮華経こそ、釈迦・多宝・十方の諸仏の本尊であることを仰せられたものと拝される。

0366:01~0366:06 第四段 優れたるを本尊とするtop
0366:01~0365:06 第一 根本の本尊に迷う諸宗top
0366
01   問うて云く日本国に十宗あり所謂.倶舎.成実.律.法相.三論・華厳.真言.浄土.禅.法華宗なり、此の宗は皆本尊
02 まちまちなり所謂・倶舎・成実・律の三宗は劣応身の小釈迦なり、 法相三論の二宗は大釈迦仏を本尊とす華厳宗は
03 台上のるさな報身の釈迦如来、 真言宗は大日如来、浄土宗は阿弥陀仏、禅宗にも釈迦を用いたり、 何ぞ天台宗に
04 独り法華経を本尊とするや、 答う彼等は仏を本尊とするに是は経を本尊とす 其の義あるべし、 問う其の義如何
05 仏と経といづれか勝れたるや、 答えて云く本尊とは勝れたるを用うべし、例せば儒家には三皇五帝を用いて本尊と
06 するが如く仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし。
-----―
 問うて云う。日本国に十宗ある。いわゆるる倶舎・成実・律・法相・三論・華厳・真言・浄土・禅・法華宗である。これらの諸宗は、すべて本尊がまちまちである。例えば、いわゆる倶舎・成実・律の三宗は劣応身の小釈迦を本尊とし、法相・三論宗の二宗は勝応身の大釈迦仏を本尊としている。華厳宗は蓮華台上の廬遮那報身の釈迦如来、真言宗は大日如来、浄土宗は阿弥陀仏をそれぞれ本尊とし、禅宗にも釈尊を立てている。どうして天台宗のみが法華経を本尊とすのか。
 答えて言う。彼ら諸宗が仏をもって本尊としているのに、天台宗が経を本尊とするのは、根拠となる道理があるからである。
 問うて云う。その根拠となる道理とは一体何か。
 答えて言う。本尊とは勝れたものを用いるべきである。たとえば儒家では三皇五帝をもって本尊としており、そこからいえば仏家においては、釈迦をもって本尊とすべきである。

 ここでは、まず当時の日本の十宗が天台宗を除いていずれも、人の仏を本尊としているのに、どうして天台宗だけが法華経を本尊とするのかとの問いを設けられている。
 十宗のうち、はじめの俱舎・成美・律・法相・三論・華厳の六宗は、いわゆる南都六宗であり、奈良時代に奈良を中心に栄えた宗派である。
 このうち、俱舎・成美・律の三宗は劣応身の小釈迦を本尊としているという。これは、俱舎宗の依処とする世親の俱舎論が小乗の哲学を説いたものであり、また成実宗の依処とする成実論も苦集滅道の四諦を説いて小乗の空門を明かしたものであることから、いずれも小乗の戒律を宗旨とする律宗と同じく、その教主は蔵教の教主である劣応身に過ぎないからである。
 これら三宗の本尊については八宗違目抄には「一向に釈尊を以て本尊と為す爾りとと雖も但応身に限る」(0155-17)と仰せられている。
 これに対して、法相宗・三論宗はいずれも大乗の宗である。このうち法相宗の依処とする六経十一論は、一代聖教大意に「法相宗と申す宗は玄奘三蔵・慈恩法師等・方等部の内に上生経・下生経・成仏経・解深密経・瑜伽論・唯識論等の経論に依つて立てたり」(0397-07)と述べられているように、いずれも方等部に属する経論である。
 また三論宗は「三論宗と申す宗は般若経・百論・中論・十二門論・大論等の経論に依つて吉蔵大師立て給へり」(0397-08)と示されているように、般若部の所説に基づいた大乗の宗である。ゆえに、これら二宗の本尊は通教の勝応身の台上の大釈迦仏である。
 華厳宗は、その依経たる華厳経の教主が報身の釈迦仏であることから「台上のるさな報身の釈迦如来」が本尊であるとされている。この「台上」とは華厳経の会座における蓮華台上をいい、蓮華の台上といえば、廬遮那仏を指す。
 次に真言宗と浄土宗の本尊を示されたうえで、禅宗の本尊については「釈迦を用いたり」と仰せである。
 諸宗問答抄に「禅宗の法門は或は教外別伝・不立文字と云ひ或は仏祖不伝と云ひ修多羅の教は月をさす指の如しとも云ひ或は即身即仏とも云つて文字をも立てず 仏祖にも依らず教法をも修学せず画像木像をも信用せずと云うなり」(0378-16)と指摘されているように、禅宗では、仏像等を立てなかったようであるが、同抄で「又祖師無用ならば何ぞ達磨大師を本尊とするや、又修多羅の法・無用ならば何ぞ朝夕の所作に真言陀羅尼をよみつるぞや、首楞厳経・金剛経・円覚経等を或は談し或は読誦するや、又仏菩薩を信用せずんば 何ぞ南無三宝と行住坐臥に唱うるや」(0379-01)と破折されているように、実際には、達磨大師を本尊と立てたり、仏・法・僧の三宝を崇めていたのであろう。
 日寛上人は開目抄愚記で「彼の宗は、釈尊を安置し、経巻を積聚して仏を避け、経を下す」とその矛盾を指摘されている。
 ちなみに、鎌倉五山と称された禅寺のなかで、建長寺が地蔵菩薩、浄智寺が釈迦・阿弥陀・弥勒の三世仏を本尊としている以外、他の円覚寺・寿福寺・浄妙寺の三寺はみな釈迦如来を本尊と立てている。このような意味で大聖人は本抄で「釈迦を用いたり」と仰せられたものと拝される。
 このように、諸宗においては釈迦仏等を本尊としているのに対して、法華宗たる天台宗のみが法華経を本尊として立てる意味はどこにあるのか、との問いを立てられ「本尊とは勝れたるを用うべし」という命題を示されている。
 これは“根本として尊敬する”という本尊の本来的な意味から提示されたものであるが、諸宗においては、このことすら無視して勝手に本尊を立てていたのが現状であったのである。開目抄に「天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり」(0215-01)と断じられている所以である。そして、儒家における三皇五帝を例として、仏教においては一往、釈尊を本尊とすべきであると述べられている。これは、特に諸宗のなかで、阿弥陀仏・大日如来を立てる浄土宗と真言宗を打ち破るために、釈尊の方が勝れていることを述べられたと考えられる。
 同じ論じ方は諸御書に見られ、釈尊こそ主師親の三徳を具えた仏であり、その釈尊をないがしろにして阿弥陀仏を立てることは、主師親に背く謗法であることを強く破折されている。

0366:07~0366:15 第五段 能生を以て本尊とするtop
0366:07~0366:10 第一 法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目top
07   問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、 答う上に挙ぐるところの
08 経釈を見給へ私の義にはあらず 釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、 末代今の日蓮も仏と天台との如く法
09 華経を以て本尊とするなり、 其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経
10 より出生し給へり 故に今能生を以て本尊とするなり、
-----―
 問うて云う。そうであればなぜあなたは釈迦を本尊としないで法華経の題目を本尊とするのか。
 答えて言う。前に挙げた経釈を見なさい。法華経の題目を本尊とするのは、私が勝手に立てた義ではない。釈尊と天台大師とが法華経をもって本尊と定められたのである。末代今の日蓮も仏と天台大師と同じように、法華経をもって本尊とするのである。なぜなら、法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目であり、釈迦如来・大日如来をはじめとして、総じて十方の諸仏は法華経より出生されたからである。故に今、能生の法たる法華経をもって本尊とするのである。

 これまで示された大聖人の御指南を要約しておくと、次のようになる。
    ①法華経の題目を本尊とすべきである
    ②勝れたものを本尊とすべきである
    ③仏教においては、釈尊を本尊とすべきである
 ①は、妙法を本尊とすべきことを示されたものであり、③は、②を受けての結論である。ところが、この③の結論は、人を本尊とすることであるから、次に①との関係が問われたのである。つまり、妙法と仏の関係である。
 これについて、大聖人は妙法こそ能生であり、仏は所生であることを明かされている。「法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり」との仰せは、そのことを示されたものである。
 釈尊のみならず、大日如来・阿弥陀仏、一切の諸仏はことごとく妙法によって成道したからである。したがって②の観点を踏まえて、「今能生を以て本尊とするなり」と結論されたのである。

0366:10~0366:15 第二 諸仏能生の根源たる妙法top
10                           問う其証拠如何、 答う普賢経に云く「此の大乗経典は諸
11 仏の宝蔵なり十方三世の諸仏の眼目なり 三世の諸の如来を出生する種なり」等云云、 又云く「此の方等経は是れ
12 諸仏の眼なり諸仏は 是に因つて五眼を具することを得たまえり 仏の三種の身は方等より生ず是れ大法印にして涅
13 槃海を印す 此くの如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず 此の三種の身は人天の福田応供の中の最なり」等
14 云云、 此等の経文仏は所生・法華経は能生・仏は身なり法華経は神なり、 然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法
15 華経にかぎるべし而るに今木画の二像をまうけて大日仏眼の印と真言とを以て開眼供養をなすはもとも逆なり。
-----―
 問うて云う。法華経が諸仏を出生する法であるという証拠はどこにあるのか。
 答えて言う。普賢経には「この大乗経典は諸仏の宝蔵であり、十方三世の諸仏の眼目であり、三世の諸仏を出生させる種である」とある。また同じく普賢経に「この方等経は諸仏の眼であり、諸仏はこの経によって五眼を備えることができたのである。また三種の身は大乗経から生ずる。この大法印は、仏の涅槃という成仏の大海を証明したのであり、この大涅槃海の中から、よく三種の仏の清浄な身を生ずるのである。この三種の身は、人界・天界の衆生が縁して善根を生ずる福田であり、また人天から供養を受ける資格を持つもののなかで最高のものである」と。
 これらの経文の意味するところは、仏は所生であり、法華経は能生である。また仏は身であり、法華経は神である。故に、木像・画像の開眼供養は、ただ法華経に限るのである。にもかかわらず、今の真言宗が、木像・画像の二像をもうけて大日仏眼の印と真言とをもって開眼供養を行っているのは最も道理に背いた姿である。

 ここでは、先に述べられた「能生を以て本尊とする」との義を裏付ける文証として普賢経の二文を示されている。
 第一の文は、大乗経典が三世の諸仏の宝蔵であり、眼目であり、出生の種であることを述べたものである。
 次の文は、諸仏が五眼を得ることができたのは方等経によってであり、また如来の三身も方等経より生じたことを示している。
 つまり、この両文はいずれも、三世十方の諸仏が法華経によって成仏することができたことを明かしていると言える。
 このことは「されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給いしなり三世の諸仏の出世の本懐・一切衆生・皆成仏道の妙法と云うは是なり」(0557-10)との仰せや、あるいは「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり、南無阿弥陀仏は仏種にはあらず真言五戒等も種ならず」(1072-05)との御文と同趣旨であることは明瞭である。
 これによって、「仏は所生・法華経は能生」の義が明らかとなるのである。そして同時に、この能生の義によって、釈迦如来・大日如来・阿弥陀如来などの諸仏を本尊とする諸宗の誤りが明白になるといってよい。
 つまり、「法華経の題目」たる妙法蓮華経の五字こそ諸仏能生の根源であり、一切の諸仏はこの妙法蓮華経を本尊として修行することによって成道することができたが故に、その最勝の法たる妙法蓮華経を本尊とすべきなのである。
 したがって、妙法蓮華経の五字を根本としない限り、いかに修行を重ねようとも無益であり、決して成仏の道を開くことはできない。このことを大聖人は仏像の開目供養に寄せて真言の誤りを破折し、教えられている。これは、いうまでもなく後に展開される真言破折の端緒をとっている。大聖人は、四条金吾殿釈迦仏供養事において、同じく普賢経の文を引かれ、開眼供養は法華経にこそよるべきであるとの文証とされている。
 まず“法華経によって五眼を具することを得る”と説かれていることについて、次のように仰せられている。
 「此の五眼をば法華経を持つ者は自然に相具し候、譬へば王位につく人は自然に国のしたがうがごとし、大海の主となる者の自然に魚を得るに似たり、華厳・阿含・方等・般若・大日経等には五眼の名はありといへども其の義なし、今の法華経には名もあり義も備わりて候・設ひ名はなけれども必ず其の義あり」(1144-03)
 このように法華経によってのみ五眼を備えることができるものであり、他の諸経にその名はあっても義がないとされている。
 次に“仏の三種の身は法華経より生ずる”と説かれていることについては、三身のそれぞれを挙げられたうえで「この五眼三身の法門は法華経より外には全く候はず、故に天台大師の云く『仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず』云云、此の釈の中に於諸教中とかかれて候は華厳・方等・般若のみならず法華経より外の一切経なり、 秘之不伝とかかれて候は法華経の寿量品より外の一切経には教主釈尊秘めて説き給はずとなり」(1144-10)と仰せになり、「されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし」(1144-14)と結論されている。
 このように、真実の開眼供養は、五眼三身の法門を明かした法華経による以外になく、それを印と真言とによって開眼しようとしても真の開眼とはならないのである。曾谷殿御返事には「法華経の題目は一切経の神・一切経の眼目なり、大日経等の一切経をば法華経にてこそ開眼供養すべき処に大日経等を以て一切の木画の仏を開眼し候へば日本国の一切の寺塔の仏像等・形は仏に似れども心は仏にあらず九界の衆生の心なり」(1060-07)と喝破されている。

0366:16~0367:13 第六段 弘法等の三大師への帰依を責むtop
0366:16~0367:02 第一 大日経第一は経典に根拠なき邪見top
16   問うて云く法華経を本尊とすると大日如来を本尊とするといづれか勝るや、答う弘法大師・慈覚大師・智証大師
17 の御義の如くならば大日如来はすぐれ法華経は劣るなり、 問う其の義如何、 答う弘法大師の秘蔵宝鑰十住心に云
18 く「第八法華・第九華厳・第十大日経」等云云是は浅きより深きに入る、慈覚大師の金剛頂経の疏・蘇悉地経の疏・
0367
01 智証大師の大日経の旨帰等に云く「大日経第一・法華経第二」等云云、問う汝が意如何、答う釈迦如来・多宝仏・総
02 じて十方の諸仏の御評定に云く 已今当の一切経の中に法華最為第一なり云云、 
-----―
 問うて云う。法華経を本尊とするのと大日如来を本尊とするのとは、どちらが勝れているのか。
 答えて言う。弘法大師・慈覚大師・智証大師の義の通りであれば、大日如来が勝れて法華経は劣っていることになる。
 問うて云う。その義はどのようなものか。
 答えて言う。弘法大師の秘蔵宝鑰・十住心論には「第八法華経・第九華厳経・第十大日経」等とある。これは浅い教えから深い教えへと入っていくとしたものである。また慈覚大師の金剛頂経疏・蘇悉地経疏、智証大師の大日経旨帰等には、「大日経第一・法華経第二」などと説かれている。
 問うて云う。あなたの考えはどうなのか。
 答えて言う。釈迦如来・多宝仏、総じて十方の諸仏の御評定には已今当の一切経の中で法華経が最もすぐれていると説かれている。

 この段から真言破折を主題に論じられている。まずはじめに、法華経を本尊とするのと大日如来を本尊とするのとの勝劣を問うていられる。これは、これまで述べられてきたことから明らかであり、大日如来を本尊とするのは、法華経を本尊とする場合より二重の意味で劣っている。
 つまり、第一に法華経と釈尊とを相対すれば、法勝人劣の義から法華経の方が勝れていると判ずることができる。
 第二に釈尊と大日如来とを比較すると「仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし」との仰せのように、釈尊の方が勝れている。したがって、釈尊より劣る大日如来が法華経より勝れているということはありえないのである。
 この法華経と大日如来の勝劣は、実質的な意味では、法華経と大日経との勝劣にほかならない。これは、真言密経では、大日如来を本尊と立てることがあっても、大日経を本尊とすることはないからである。
 それ故に、この問いに対する回答として、大聖人は、弘法・慈覚・智証の三大師の教判を挙げられているのである。ここで、すでに回答が明らかとなっている問いを設けられた御真意が拝されよう。すなわち、ここでは真言師の中心たる三大師に対する破折が大聖人の主題なのである。より正確には、三大師と大聖人との比較と言ってもよいであろう。いずれが仏意を対して一切経の勝劣を弁えているかという問題を提示されている。
 このことは、次の「汝が意如何」との問いに、また「日蓮法師めは弘法・慈覚・智証大師等に勝るべきか如何」との問いにもあらわれている。
 そして、大日経を法華経より勝れているとする三大師の教判をそれぞれ著書に基づいて示されたのち「汝が意如何」との問いに対する答えとして、法師品に已今当の一切経の中で法華経が最も第一であることを説かれていることを述べられている。
 これは、法華経を最高の経典とする大聖人の御意が決して己義ではばく、「釈迦如来・多宝仏・総じて十方の諸仏の御評定」であり、仏意そのものであることを示されているのである。
 これに対して、大日経第一なる三大師の主張は、経典に根拠をもたない我見の言にすぎないことを示唆されているのである。

0367:02~0367:06 第二 仏説を根拠とした大聖人top
02                                      問う今日本国中の天台・真言等の
03 諸僧並びに王臣・万民疑つて云く日蓮法師めは弘法・慈覚・智証大師等に勝るべきか如何、 答う日蓮反詰して云く
04 弘法・慈覚・智証大師等は釈迦・多宝・十方の諸仏に勝るべきか是一、今日本の国王より民までも教主釈尊の御子な
05 り釈尊の最後の御遺言に云く「法に依つて人に依らざれ」等云云、 法華最第一と申すは法に依るなり、 然るに三
06 大師等に勝るべしやとの給ふ諸僧・王臣・万民・乃至所従牛馬等にいたるまで不孝の子にあらずや是二、
-----―
 問うて云う。今日本国中の天台宗・真言宗などの各宗の僧達、並びに王臣・万民が、日蓮法師ごときが弘法・慈覚・智証大師よりも勝れているのだろうかと非難しているが、この点はどうか。
 答えて言う。では逆に質問するが、弘法・慈覚・智証大師等は釈迦・多宝・十方の諸仏より勝れているというのか。これが第一である。
 今日本の国王から民衆に至るまですべて教主釈尊の子である。その釈尊の最後の遺言である涅槃経には「法に依って人に依ってはならない」等と説かれている。日蓮が「法華最第一」と言っているのは法に依っているのである。それにもかかわらず、日蓮法師が三大師等に勝るわけがないと言っている各宗の僧達、王臣・万民更には従者・牛馬等に至るまで、親不孝の子ではないか。これが第二である。

 大聖人が法華経を諸経中の第一としているのは、釈迦・多宝如来・十方の諸仏が定めた“法”に依っていることを示されたうえで、ここでは大日経第一と主張している弘法・慈覚・智証等の方が大聖人より勝れているように思っている世間の見方を提示されるとともに、それに対する反論を次の二点で加えられている。
 まず第一に、三大師がいかに勝れているといっても、釈迦・多宝・十方の諸仏より勝れているわけがない。という点を挙げられている。これは、人師の説くところが仏説と異なっていた場合、どちらに付くべきかという問題に還元されよう。
 もしも人師の説が仏説に明らかに違背しているとすれば、それは己義であり、僻見と言わざるを得ない。そして、経文の裏付けを持たない己義にあくまで固執すれば、それはもはや仏法ではなく外道というほかないであろう。大聖人は真言見聞において、天台大師の法華玄義の次の文を引かれている。
 「文証無き者は、悉く是れ邪謂なり、彼の外道に同じ」
 「広く経論を引いて己が義を荘厳す」
 特に、初めの文は、経文に基づかない論釈はすべて誤謬であり、外道に等しいと断じて、文証の重要性を強調している。
 しかし、注意すべきは、後の文で指摘されているように、広く経論を引いて、さも文証に基づいているかのように見せかけている場合である。三大師の教判もその例に漏れないが、この場合は、その経が一代聖教の中で、どのように位置づけられるかを検討しなければならない。
 第二に、涅槃経の「法に依って人に依らざれ」の金言を示されて、「法華経第一と申すは法に依るなり」と大聖人御自身の立場があくまで仏説たる法を根拠としていることを強調されている。
 そして、この戒めが、教主釈尊の一切衆生を思う「親」としての慈悲からなされた遺言の意義をもつにもかかわらず、三大師の邪義に従っていることは不孝の失に当たると指摘されている。
 これは、法華経譬喩品第三に「一切衆生は、皆是れ吾が子なり…今此の三界は、皆是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり、而も今此の処は、諸の患難多し。唯我れ一人のみ、能く救護を為す」と説かれていることによる。
 本抄では、いわゆる“遺言”ということから、主師親の三徳のうち特に親徳を挙げて教主釈尊に背くことが不孝の失に当たることを仰せられたものである。
 妙法比丘尼御返事でも、この譬喩品の文を挙げて「日本国の天神.地神・九十余代の国主・並に万民・牛馬生と生る生ある者は皆教主釈尊の一子なり」(1410-07)と仰せられている。
 ところで、先にも触れたが、法華経も大日経も仏説であり、いずれが勝れているかという問題において、異なった立場が生ずるとすれば、それは所詮、解釈の相違ではないかという疑問が起こるかも知れない。
 つまり、法華経第一と主張する大聖人にしろ、大日経第一と主張する弘法にしろ、それぞれが仏説に基づいて判じているのであって、その違いは仏説そのものの解釈の相違によるものである、と。これは、一応もっともな言い分のように思える。
 それ故に、次下の御文で大聖人は「問う弘法大師は法華経を見給はずや、答う弘法大師も一切経を読み給へり」という問答を設けられて、三大師の邪見を具体的に指摘されていくのである。

0367:06~0367:13 第三 法華経を歪曲して読んだ弘法等top
06                                                 問う弘法
07 大師は法華経を見給はずや、 答う弘法大師も一切経を読み給へり、其の中に法華経・華厳経・大日経の浅深・勝劣
08 を読み給うに法華経を読給う様に云く 文殊師利此の法華経は諸仏如来秘密の蔵なり 諸経の中に於て最も其の下に
09 在り、 又読み給う様に云く薬王今汝に告ぐ我が所説の諸経あり 而も此の経の中に於て法華最第三云云、又慈覚智
10 証大師の読み給う様に云く諸経の中に於て最も其の中に在り又最為第二等云云、 釈迦如来・多宝仏・大日如来・一
11 切の諸仏・法華経を一切経に相対して説いての給はく法華最第一、 又説いて云く法華最も其の上に在り云云、 所
12 詮釈迦十方の諸仏と慈覚・弘法等の三大師といづれを本とすべきや、 但し事を日蓮によせて釈迦・十方の諸仏には
13 永く背きて三大師を本とすべきか如何。
-----―
 問うて云う。弘法大師は法華経を見なかったのであろうか。
 答えて言う。弘法大師も一切経を読んだのである。その中で法華経・華厳経・大日経の浅深・勝劣を判ずるにあたって、法華経を次のように読んだのである。すなわち「文殊師利菩薩よ、この法華経は諸仏如来の秘密の蔵であり、諸経の中において最もその下位に位置している」と。また「薬王菩薩よ、今汝に告げよう、私が説いた所の諸経がある。しかも、この経の中において法華経が第三である」と。
 また、慈覚・智証大師は、「諸経の中において法華経は最もその中位に位置している」と、また「法華経は最為第二である」等と読んだのである。
 釈迦如来・多宝仏・大日如来・一切の諸仏は法華経を他の一切経と相対して「法華経は最第一である」と説き、また「法華最が諸経の中で最も上位にある」と説いている。所詮、釈迦如来・十方の諸仏と慈覚・弘法等の三大師といずれを根本とすべきであろうか。日蓮に事よせて、釈迦如来・十方の諸仏に永く背いて三大師を根本としてよいものであろうか。

 弘法が法華経を読んでいたことは、法華経問題・法華経釈等の法華経に関する著作があることから明らかであり、また慈覚・智証の二人は共に天台宗の座主であったから、これは問うまでもあるまい。
 大聖人は、まずこのことを前提に置かれながら、ここで弘法等の三大師がいかに法華経の経文を歪曲して読んだかを浮き彫りにされている。
 大聖人がその例として挙げられている経文は次の二文である。
①安楽行品第十四
 「文殊師利、此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり、諸経の中に於いて、最も其の上に在り」
 弘法は、法華経・華厳経・大日経の勝劣浅深について、すでに見たように大日経第一・華厳経第二・法華経第三という教判を立てている。つまりこれは、本文に示されているように「最も其の下に在り」と読んでいることになる。
 また、慈覚・智証は大日経第一・法華経第二としているから、「最も其の中に在り」と読んだことになると大聖人は指摘されているのである。
 報恩抄では、この経文を引かれて次のように仰せられている。
 「此の経文のごとくば須弥山の頂に帝釈の居がごとく輪王の頂に如意宝珠のあるがごとく 衆木の頂に月のやどるがごとく諸仏の頂に肉髻の住せるがごとく此の法華経は華厳経・大日経・涅槃経等の一切経の頂上の如意宝珠なり。されば専ら論師人師をすてて経文に依るならば 大日経・華厳経等に法華経の勝れ給えることは日輪の青天に出現せる時眼あきらかなる者の天地を見るがごとく高下宛然なり」(0294-16)
 ここで「専ら論師人師を捨てて経文に依るならば」と仰せられている通り、仏説たる経文を根拠とするならば、法華経が大日経・華厳経等の諸経に勝れていることは火を見るよりも明らかであり、したがって教判の違いは決して経文の解釈の相違によるものではなく、弘法等は単に経文を無視して己義を構えているに過ぎないのである。
②法師品第十
 「薬王今汝に告ぐ、我が所説の諸経、而も此の経の中に於いて、法華最も第一なり」
 この「法華最も第一なり」と示されているのを弘法は「法華最も第三なり」と読み、慈覚・智証は「法華最も第二なり」と読んでいるわけである。
 祈禱抄には、この経文について「仏正く諸教を挙げて其の中に於いて法華第一と説き給ふ、仏の説法と弘法大師の筆とは水火の相違なり尋ね究むべき事なり、此筆を数百年が間・凡僧・高僧・是を学し貴賎・上下・是を信じて大日経は一切経の中に第一とあがめける事仏意に叶はず、心あらん人は能く能く思い定むべきなり、若し仏意に相叶はぬ筆ならば信ずとも豈成仏すべきや」(1354-11)と、仏意に違背した人師の言をどんなに信じても成仏できないことを仰せられている。
 法華経における釈尊の説法は、多宝如来・十方の諸仏がその真実を証明したところである。したがって、大聖人のように法華経の経文に説かれているところをそのまま読むか、あるいは弘法等の三大師のようにそれを違えて読むかは、釈迦如来・十方の諸仏と弘法等の三大師のいずれを本とするのかという問題に帰着するのである。
 故に大聖人は「所詮釈迦十方の諸仏と慈覚・弘法等の三大師といづれを本とすべきや」と反駁されているのである。
 答えは、もとより明らかである。しかしながら、例えば撰時抄に「国王に尊重せらるる人人あまたありて、法華経にまさりてをはする経経ましますと申す人にせめあひ候はん時、かの人は王臣に御帰依あり法華経の行者は貧道なるゆへに、国こぞつてこれをいやしみ候はん」(0292-09)と述べられているように、当時の世間の人々は、大聖人を一介の法師としてしか見ず、名声と権威に包まれた三大師の方に執着しているために、仏説に根拠を置いている大聖人の主張の正しさを容易に認めようとしなかったのである。

0367:14~0368:13 第七段 三大師の事歴を挙げるtop
0367:14~0368:02 第一 弘法の事跡を示すtop
14   問う弘法大師は讃岐の国の人勤操僧正の弟子なり、 三論・法相の六宗を極む、去る延暦二十三年五月桓武天皇
15 の勅宣を帯びて漢土に入り 順宗皇帝の勅に依りて青竜寺に入りて慧果和尚に真言の大法を相承し給へり 慧果和尚
16 は大日如来よりは七代になり給う人はかはれども 法門はをなじ譬えば瓶の水を猶瓶にうつすがごとし、 大日如来
17 と金剛薩タ・竜猛・竜智・金剛智.不空・慧果.弘法との瓶は異なれども所伝の智水は同じ真言なり此の大師・彼の真
18 言を習いて三千の波涛をわたりて日本国に付き給うに平城・嵯峨・淳和の三帝にさづけ奉る、 去る弘仁十四年正月
0368
01 十九日に東寺を建立すべき勅を給いて真言の秘法を弘通し給う 然らば五畿・七道・六十六箇国・二の島にいたるま
02 でも鈴をとり杵をにぎる人たれかこの末流にあらざるや。
-----―
 問うて云う。弘法大師は讃岐の国の人で勤操僧正の弟子である。三論宗・法相宗等の南都六宗を究められ、去る延暦二十三年五月な桓武天皇の勅宣をこうむって中国へ渡り、順宗皇帝の勅命によって青竜寺に入って、慧果和尚から真言の大法を相承された。慧果和尚は大日如来から数えて真言宗の第七祖に当たる。人は代わっても法門は同じである。譬えば、瓶の水を更に瓶に移すようなものであり、大日如来に始まって金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・慧果・弘法と、瓶は異なっても伝えられた智水は同じ真言である。
 弘法大師はその真言を習って、三千里の波涛をわたり日本国に帰られ、平城・嵯峨・淳和の三帝に真言の法を授け奉った。去る弘仁十四年正月十九日に、東寺を建立するよう勅命を賜り、真言の秘法を弘通された。したがって、五畿・七道・六十六箇国・二つの島に至るまでの日本全土において真言の金剛鈴を振り、金剛杵を持って、弘法大師の末流でない人がいるであろうか。

 ここから問者の反論が始まる。すなわち、大聖人が三大師ではなく、釈迦・十方の諸仏を根本者とすべきであると述べられたことに対して、問者は三大師の事歴をそれぞれ挙げて、その功績・人徳がいかに偉大で勝れたものであるかを強調し、だからこそ国王から万民に至るまで三大師に帰依しているではないかと、反論していくのである。まずはじめに弘法の事跡を示している。
 弘法・慈覚・智証に与えられた大師号は、朝廷から名僧・高僧と認められた者に対して贈られる称号であることを考えると、世間の人々が抱いていた三大師への尊崇の念がいかに強いものであったかが想像できる。
 まず日本真言宗の開祖・弘法大師空海は、奈良時代の末、宝亀5年(0774)に讃岐国の地方豪族である佐伯直の家に生まれた。成人して都に上り、延暦10年(0791)に大学に入学したが、その後、中退して山林修行の道に入った。
 空海が弟子達に遺したとされる二十五箇条の遺告等によると、空海ははじめ南都の三論宗を代表する学僧であった大安寺の勤操について学び、彼に従って和泉槇尾山寺に入り、そこで得度して戒を受けたという。
 延暦23年(0804)5月12日、遣唐大使の藤原葛野麻呂の第一船で入唐の旅に発った。この時、第二船に伝教大師最澄が乗っていた。空海の請来目録によれば、翌24年(0805)仲春に葛野麻呂が帰国したため、ひとり唐に残り、勅に准じて長安の西明寺に滞在していた時、青竜寺を訪れ慧果和尚に合ったという。
 葛野麻呂一行が長安に着いたのは、出発した23年(0804)12月下旬であった、25日に徳宗皇帝との謁見があったが、皇帝は翌年の1月に崩御し、代わって順宗皇帝が即位した。
 空海が西明寺に移ったのはその2月であり、6月初めの頃、青竜寺に慧果を訪ねたといわれる。本抄の問者が「順宗皇帝の勅に依りて青竜寺に入りて」といっているのは、このあたりの経過を述べたものであろう。
 空海はこの慧果から胎蔵・金剛両部灌頂を授けられるとともに、伝法阿闍梨位灌頂を受け、大日如来より数えて真言密教付法の第八祖となった。
 真言密教の付法については、空海の秘密曼荼羅教付法伝二巻、真言付法伝一巻に詳しく記されており、大日如来を第一祖として、第二祖金剛薩埵・第三祖竜猛・第四祖竜智・第五祖金剛智・第六祖不空と続き、第七祖慧果に至るまで真言密経が嫡々相承されてきたとしている。これに第八祖の空海を加えて付法の八祖とする。これに対して大日如来と金剛薩埵の代わりに善無畏と一行を加えた相承の系列を伝持の八祖と称している。
 空海は平城天皇の大同元年(0806)10月に帰朝し九州の太宰府に到着した。膨大な新訳の密教経典類や曼荼羅等の請来品を請来目録を添えて平城天皇に献上しようとしたが、すぐには入京を許されなかったため、勅命に従って筑紫の観世音寺にとどまっていたところ、翌年に唐から請来した経論章疏をもって上京せよとの沙汰があり、京に入った。
 この時に、平成天皇より真言密教弘通の勅許を賜ったことから、真言宗ではこの大同2年(0807)を開宗の年としている。しかし、実際に入京と京都止住の許可が下りたのは、嵯峨天皇が即位した大同4年(0809)7月であり、この時に和泉の槇尾山寺から洛北の高雄山に移住したと一般的には考えられている。
 さて、平成天皇の譲位によって即位した嵯峨天皇は、詩文や書道等の文芸に並々ならぬ関心をもっていたことから、空海の文人として才を高く評価し、重要した。空海が宮廷とのつながりをもつようになったのは、このような詩文や書道を通じての嵯峨天皇との関係によるもので、天皇の外護の力として密教の興隆を図っていったのである。
 翌弘仁元年(0810)9月に薬子の乱が起きた。これは、奈良遷都と平城上皇の復位を図ろうとする藤原薬子と仲成の共謀によるクーデターであったが、この事件の直後、空海は高雄山で鎮護国家の修法を行いたい旨を上奏し、勅許を得て我が国最初の本格的な密教による修法が営まれた。
 弘仁7年(0816)には、紀州の高野山を密教修行の道場として賜りたいとの旨を上奏し、これもただちに勅許を得て7月に高野山金剛峯寺を開創した。
 次に特質すべきは、弘仁13年(0822)に東大寺内に灌頂道場として真言院が創設されたことで、南都七大寺の一つである東大寺は六宗兼学の道場であり、ここに真言密教の灌頂道場が建立されたことによって、伝統的な護国修法が次第に密教化されていくことになったのである。平城上皇の授戒灌頂がさっそく行われたのもこの道場においてであった。
 そして、本文にもあるように、翌弘仁14年(0823)1月19日、嵯峨帝より東寺を下賜するとの命が勅使の藤原良房によって伝えられたのである。これを受けて空海は、東寺を鎮護国家の道場とすることを宣言し、かつ他宗僧徒の止住を禁ずることを願い出たが、これも、その年に即位した淳和天皇によって認められた。
 ここに、これまでの諸宗兼修という寺院の形式と違って、一寺一宗の在り方が発足し、いよいよ真言密経が興隆に向かう端緒となったのである。

0368:03~0368:07 第二 叡山を密教化させた慈覚top
03   又慈覚大師は下野の国の人・広智菩薩の弟子なり、大同三年・御歳十五にして伝教大師の御弟子となりて叡山に
04 登りて十五年の間・六宗を習い法華真言の二宗を習い伝え 承和五年御入唐・漢土の会昌天子の御宇なり、法全・元
05 政・義真・法月・宗叡・志遠等の天台・真言の碩学に値い奉りて顕密の二道を習い極め給う、其の上殊に真言の秘教
06 は十年の間功を尽し給う 大日如来よりは九代なり嘉祥元年・仁明天皇の御師なり、仁寿・斉衡に金剛頂経・蘇悉地
07 経の二経の疏を造り叡山に総持院を建立して第三の座主となり給う天台の真言これよりはじまる。
-----―
 また、慈覚大師は下野の国の人で、広智菩薩の弟子である。大同三年、御歳十五の時に伝教大師の御弟子となって比叡山に登り、十五年の間、南都六宗の教義を習うと共に、天台法華宗・真言宗の二宗を学び伝えた。承和五年に入唐されたのが、中国の会昌天子治世であり、法全・元政・義真・法月・宗叡・志遠等の天台・真言の碩学に会って顕密の二道を習い究められたのである。そのうえ、とりわけ真言の秘教は十年間にわたってその功を尽くされ、慈覚大師は大日如来より数えて九代目に当たる。嘉祥元年に仁明天皇の御師となり、仁寿・斉衡年間に金剛頂経・蘇悉地経の二経の疏を著し、比叡山に総持院を建立して天台宗第三代の座主となられた。天台宗の真言密教はこの時から始まったのである。

 ここは、慈覚大師円仁の事歴に着いて述べられているところである。
 円仁は、延暦13年(0794)下野国に生まれ、幼くして父を失い、母の手によって育てられた。9歳の時に、下野国小野寺の大慈寺の広智を師として出家した。広智は、東国に天台宗を弘めた人であり、その徳を称えて広智菩薩と人々から尊称されていた。
 大同3年(0808)15歳の時、師の広智に伴われて比叡山に登り、伝教大師の門に入った。本抄には、入門後、「十五年の間」修行を積んだ旨、述べられているが、これは師の伝教大師が弘仁13年(0822)に入滅するまでの足かけ15年を指しているものと考えられる。
 承和5年(0838)6月下旬に日本を出発し、7月初めに揚州に上陸。時に、唐の文帝皇帝の開成3年であったが、その後2年で武宗皇帝が即位したこと、後に述べるように五台山に入ってから本格的な求法が始まったことから「会昌天子の御宇」と述べられている。約7ヵ月間、揚州の開元寺にとどまった。
 この地では、長安西明寺の宗叡について悉曇を学んだほか、祟山院の金雅から念仏法門や両部曼荼羅を命じられたために、承和6年(0839)2月、揚州を立った、しかし、船が漂着して、登州の赤山法華院に入り、承和7年(0840)2月に赤山をたって4月下旬に五大山に到着した。
 円仁は、五台山で志遠等から天台の法門を授けられた後、8月に長安に入った。長安には、承和12年(0845)5月まで約4年9ヵ月もの間、滞在し、大興善寺翻経院の元政より金剛界大法を受け伝法灌頂を授けられた。また、青竜寺の義真から胎蔵界大法、蘇悉地法を受けた。更に玄法寺の法全について胎蔵儀軌を学び、南インドから中国に来ていた宝月には悉曇の発音を学ぶなど、足かけ10年に及ぶ在唐生活で天台・真言の碩学を訪ねて受法し、顕密二道を究めることに努めたのである。
 なお、本文で、円仁が大日如来より数えて9代目に当たるとあるのは、真言宗で言うところの真言密教付法の次第ではなく、空海に続いて唐の碩学から金剛・胎蔵両部の大法等を授けられたことから、当時の人々が称したものであろう。
 さていよいよ帰国しようとする時に武宗の会昌の破仏にあったが、承和14年(0847)9月、太宰府に到着、翌嘉祥元年(0849)3月、比叡山に戻った、さて朝廷が、円仁の留学の成果をいかに高く評価したかは、この年、僧の最高位である法燈法師位を授け、内供奉十禅師に任命し、仁明天皇の護持僧としたことがうかがえる。
 同3年(0850)円仁は延暦寺東搭の西に真言の秘法を修するための総持院を建て、密教修法による皇帝本命の道場とした。4年後の仁寿4年(0854)4月、勅により延暦寺第三代の座主になった。斉衡2年(0856)に文徳天皇に上部の灌頂を授けるなど、天皇をはじめとする多くの宮廷人の尊崇を集めた。
 一方、代表的な著述としては、仁寿元年(0851)に金剛頂経疏七巻、斉衡元年(0855)に蘇悉地経疏七巻をそれぞれ撰述している。
 これら密教経典の疏釈を著していることも明らかなように、円仁は入唐して得た密教の知識と権威をもとにして、空海によってもたらされた密教興隆の風潮を巧みにとらえ、伝教大師入滅後、真言密教に押されぎみであった天台宗の興隆を図ったのであり、その意味で円仁をもって天台宗密教化の嚆矢とする。大聖人が「天台真言これよりはじまる」と仰せられている所以である。

0368:08~0368:13 第三 世間の尊敬を集めた三大師top
08   又智証大師は讃岐の国の人・天長四年.御年十四・叡山に登り義真和尚の御弟子となり給う、日本国にては義真.
09 慈覚・円澄・別当等の諸徳に八宗を習い伝え去る 仁寿元年に文徳天皇の勅を給いて漢土に入り宣宗皇帝の大中年中
10 に法全良ショ和尚等の諸大師に七年の間・顕密の二教習い極め給いて去る天安二年に御帰朝・文徳・清和等の皇帝の
11 御師なり、 何れも現の為当の為月の如く日の如く代代の明主・時時の臣民・信仰余り有り帰依怠り無し故に愚癡の
12 一切偏に信ずるばかりなり 誠に法に依つて人に依らざれの金言を背かざるの外は 争か仏によらずして弘法等の人
13 によるべきや、 所詮其の心如何、 
-----―
 また智証大師は讃岐の国の人で、天長四年、御年十四歳にして比叡山に登り、義真和尚の弟子となられた。日本国においては、義真・慈覚・円澄・別当等の諸徳に八宗を習い伝えた。去る仁寿元年に文徳天皇の勅命を賜って中国に渡り、宣宗皇帝の大中年間に法全・良諝和尚等の諸大師に七年間師事して、顕密の二教を習い究められ、去る天安二年に帰朝されて、文徳・清和等の皇帝の御師となられた。
 このように三大師は、いずれも現世のため未来のために月のように太陽のように尊い御方として、代々の国主や時代時代の臣民から篤く信仰され、帰依を受けたのである。故に、一般の愚癡の人々は皆ひとえに信ずるばかりである。誠に「法に依つて人に依らざれ」の金言を背かない限りは、仏によらないで弘法等の人に、どうして依らないでいられようか。所詮その点について、どのように弁えたらいいのか。

 一方、智証大師円珍は、弘仁5年(0814)に讃岐国那珂郡金倉郷で生まれた。母が佐伯氏の出で空海の姪に当たる。天長4年(0827)、14歳の時に上京し、翌年、叔父の僧・仁徳に従って比叡山に登り、天台宗初代の座主である義真の弟子となった。
 早くから入唐の志を抱いていた円珍は仁寿元年(0851)朝廷に入唐留学の許可をもとめたところ、文徳天皇の勅許を賜った。直ちに京をたって太宰府に向かったものの、当時遣唐使が中断していたため、翌々年の仁寿3年(0853)7月にようやく唐の商船に便乗して日本を出発し、入唐した。時に、宣宗皇帝の大中7年(0853)8月15日であった。最初に着いた福州で開元寺に止住し、インド僧の般若怛羅三蔵と出会い梵語を学んだ。1ヵ月の後、福州をたって、温州、台州を経て12月半ばに天台山国清寺に到着した。翌大中8年(0854)9月、国清寺を出発し、越州に向かい、この地で開元寺の良諝から天台宗の奥義を学んだ。
 更に翌年(0855)5月、洛陽を経て長安に入り青竜寺に住する法全の門に入って、金剛界・胎蔵界・蘇悉地法の三部大法を授かり、伝法灌頂を受け、7ヵ月の滞在の後、11月下旬、長安を後にした。
 再び天台山国清寺に戻ったのが、大中11年(0857)6月である。翌12年(0858)6月に台州に発つまで、国清寺に滞在し、聖教類の整理・目録の作成にあたった。
 こうして京をたって7年目、天安2年(0858)6月に九州に到着し、この年の暮れに入京した。翌正月に、即位して間もない清和天皇に謁見を許され、唐から将来した経論典籍を報告した。当時、政界では太政大臣の藤原良房・基経父子が権勢を誇っていたが、円珍を優遇した。
 貞観元年(0859)に近江の園城寺に唐房を建てて将来した経典類などを納めた。同年(0864)6月には、勅命により、宮中の仁寿殿に壇を設けて清和天皇・藤原良房ら30余人に胎蔵界の灌頂を授けるなど、朝廷との深い結びつきのもと、たびたび修法を営み、貞観10年(0868)、第五代天台座主に任じられた。
 このように、三大師は、歴代の天皇も帰依したほどであるから、その徳の勝れていることは間違いなく、であればこそ人々が尊崇してやまなかったことを問者は力説しているのである。曾谷次郎入道殿御返事にも「此の三大師は大小乗持戒の人・面には八万の威儀を備え或は三千等之を具す顕密兼学の智者なり、然れば則ち日本国四百余年の間・上一人より下万民に至るまで之を仰ぐこと日月の如く之を尊むこと世尊の如し、猶徳の高きこと須弥にも超え智慧の深きことは蒼海にも過ぎたるが如し」(1067-03)と述べられ世間の人々に三大師がどれほど尊敬うきたかを浮き彫りにされている。
 こうして問者は、弘法・慈覚・智証の三大師の事歴を挙げて、その高徳を称えつつ、「誠に法に依つて人に依らざれの金言を背かざるの外は 争か仏によらずして弘法等の人によるべきや、所詮其の心如何」と問うている。
 つまり問者は、この前の答えで「釈迦・十方の諸仏には永く背きて三大師を本とすべきか如何」と述べられたのに対し、三大師を依りどころとすることがどうして仏に背くことになるのかと反論しているのである。
 「依法不依人」は涅槃経に説かれる法の四依の一つであり、仏家の規範ともいうべき釈尊の遺誡である。大聖人は報恩抄に次のように仰せである。
 「涅槃経と申す経に云く「法に依つて人に依らざれ」等云云 依法と申すは一切経・不依人と申すは仏を除き奉りて外の普賢菩薩・文殊師利菩薩乃至上にあぐるところの諸の人師なり」(0294-11)
 すなわち、あくまでも仏の説いた一切経が根本の基準であり、たとえ普賢菩薩や文殊菩薩のようにすぐれた智慧ある人師・論師であろうとも、その言説には従ってはならないのである。この意味において、三大師、特に弘法大師が立てた密経が、仏説を依りどころとしない邪法であることを、仏教の歴史を通じて、次に示されるのである。

0368:13~0370:01 第八段 仏法の伝来を略述するtop
0368:13~0369:02 第一 インド・中国の仏法弘通top
13                  答う夫れ教主釈尊の御入滅一千年の間・月氏に仏法の弘通せし次第は先五百年
14 は小乗・後の五百年は大乗・小大・権実の諍はありしかども顕密の定めはかすかなりき、 像法に入りて十五年と申
15 せしに漢土に仏法渡る 始は儒道と釈教と諍論して定めがたかりきされども 仏法やうやく弘通せしかば小大・権実
16 の諍論いできたる、 されどもいたくの相違もなかりしに、漢土に仏法渡りて六百年・玄宗皇帝の御宇善無畏・金剛
17 智・不空の三三蔵・月氏より入り給いて後・真言宗を立てしかば、華厳・法華等の諸宗は以ての外にくだされき上一
18 人自り下万民に至るまで 真言には法華経は雲泥なりと思いしなり、 其の後・徳宗皇帝の御宇に妙楽大師と申す人
0369
01 真言は法華経に あながちにをとりたりとおぼしめししかども、 いたく立てる事もなかりしかば法華・真言の勝劣
02 を弁える人なし。
-----―
 答えて言う。教主釈尊の御入滅後一千年の間に、インドに仏法の弘まっていった順序は、初めの五百年はまず小乗が、そして後半の五百年は大乗が弘まって、小乗と大乗・権教と実教との間に論諍があったけれども、顕教と密教の区別についてはほとんど明確にされてはいなかった。
 像法に入って十五年目という時に、中国に仏法が渡り、当初は儒教・道教と釈尊の教えとの間に諍論が起こったが、その勝劣もはっきりと判定することは困難であった。しかし、仏法が次第に弘まっていくと、小乗と大乗・権教と実教との諍論が起きたのである。
 仏法が中国に渡って六百年にして、玄宗皇帝の時代に、善無畏・金剛智・不空の三三蔵がインドから唐に入って真言宗を立ててからは、華厳宗・法華宗等の諸宗はひどく下され、上は天子から下は万民に至るまで真言と法華経とでは雲泥の差があると思ってしまったのである。
 その後、徳宗皇帝の時代に妙楽大師という人が出現して真言は法華経にはるかに劣っていると思っておられたけれども、その義を強いてはっきりと立てる事がなかったので法華・真言の勝劣を弁える人がいなかったのである。

 本段は、弘法・慈覚・智証の三大師に帰依することがどうして仏に背くことになるかという前段での反問に対して、仏法流伝の歴史を通して答えられているところである。
 初めにインドにおける仏教弘通の様相について述べられ、次に中国・日本へ伝来、そして最後に日本真言の台頭の経緯を明かされている。
 大聖人がここで仏法の三国伝来の歴史を辿られているのは、真言密教の邪法が広まるに至った歴史経過を明かされるためと拝される。
 初めに、釈尊入滅後インドにおける仏教弘通について、初めの500年は小乗教、次の500年は大乗教が広まったことを述べられ、その間、小乗と大乗・権教と実教の勝劣をめぐって論争があったが、顕教と密教の間には明確な判別はほとんどなかったと仰せられている。
 ここでの顕密は、真言家でいうところの顕教・密教の意であり、正法時代においては、顕教に対して密教というものは立てられなかったのである。歴史的にも、真言密経があらわれるのは、インドでも正法1000年が過ぎて後のことである。このインド仏教の末期にあらわれた密教を中国に伝えたのは、本抄に指摘されているように、善無畏ら三三蔵であった。
 中国に仏教が初めて伝えられたのは後漢の孝明皇帝・永平10年(0067)とされている。この経緯については、四条金吾殿御返事に述べられている。
 「漢土には後漢の第二の明帝・永平七年に金神の夢を見て博士蔡イン・王遵等の十八人を月氏につかはして仏法を尋ねさせ給いしかば・中天竺の聖人摩騰迦・竺法蘭と申せし二人の聖人を同永平十年丁卯の歳迎へ取りて崇重ありし」(1167-15)
 古来、中国への仏法伝来の年代については、諸説があるが、大聖人は、この明帝の求法説を採用されている。これは、中国でも通説となっていたもので、伝教大師の顕戒論巻上でも、唐の智昇撰述の開元釈教録、同じく唐の円照の貞元新定釈教目録に基づいて両説を採用している。
 さて仏教が中国に広まっていくうえで中国古来の土着的な信仰である道教と様々な確執を生じた。そのために、仏教が老荘思想に基づいて解釈されるという一面もあったようである。道教は、中国に古くから伝わる様々な民間信仰を老荘思想によって体系化したものであり、後漢の張陵によって宗教として形成されたといわれる。
 道教は、仏教に刺激されて宗教としての形態をとっていったともいえ、それだけに両者の間には、しばしば対立が深刻化した。南北朝に入ると、道教は教団を組織化するとともに、仏教に倣って経典を制作するなど、仏教教団との対抗姿勢を強めた。
 更にこの争いも儒教に加わってくる、東晋の時代になると儒教による仏教への攻撃が始まった。とりわけ、親を捨て、家族を捨てて僧侶の道に入る出家は、儒教における実践倫理の根本をなしている「孝」に反する行為であると批判された。
 しかし、こうした状況のなかにあっても、歴代の王朝がいずれも仏教を保護したこともあって、優れた訳経僧・学僧が輩出し、中国仏教は、東晋、南北朝の時代を経て、隋・唐の時代に入ると、最盛期を迎えた。天台宗・三論宗・律宗・法相宗・華厳宗など各宗派の教理研究は目覚ましいものがあった。
 そうしたなかで、真言宗は、善無畏三蔵が玄宗皇帝の開元4年(0716)、インドから長安に来て、大日経を訳したことに始まる。その後、金剛智三蔵が開元8年(0720)に南海を経て洛陽に入り、密教経典を多数訳出した。
 金剛智の弟子・不空は、首都・長安の仏教界に君臨することおよそ30年、玄宗・粛宗・代宗の三代に仕えた。その弘通の足跡は長安洛陽の都市部のみならず諸地方にも及んだという。
 門下も多く、大暦9年(0774)に彼が没して後も、弟子達が活躍し、密教を弘めた。日本から留学した空海が師事した慧果もその一人である。空海に続いて、円仁・円珍らが日本から入唐し、真言密教を学んだ。
 一方、天台宗は、天台大師入滅後、弟子の章安大師によって確立されたが、その後は法相宗・華厳宗・真言宗の興盛に押され、「天台暗黒時代」といわれるほど、衰微していった。大聖人は報恩抄において、章安大師以後の弟子達が、法華経を深密経に劣ると主張する法相の台頭を許してしまったことについて、次のように述べたれている。
 「天台の末学等は智慧の薄きかのゆへに・さもやとおもう、又太宗は賢王なり玄奘の御帰依あさからず、いうべき事ありしかども・いつもの事なれば時の威をおそれて申す人なし」(0301-04)
 しかし、天台大師から六世の法孫・妙楽大師が代宗・徳宗の治世に出現し、天台大師の立てた法華最勝の義をもって諸宗の教学に対して鋭い批判を加え、法華経の正義を宣揚した。特に、天台三大部を注釈した止観輔行伝弘決・法華玄義釈籤・法華文句記は、それぞれ天台大師の真意である法華経を最勝とする正義を明らかにしたものである。
 大聖人は報恩抄で「此の三十巻の文は本書の重なれるをけづりよわきをたすくるのみならず天台大師の御時なかりしかば御責にものがれてあるやうなる法相宗と華厳宗と真言宗とを 一時にとりひしがれたる書なり」(0302-08)と仰せられている。
 つまり、妙楽大師の疏釈は、天台大師の三大部において重複しているところを削り、不足いているところを補って完璧なものにしたばかりでなく、天台大師の在世時代には成立していなかったために、その破折から免れていた法相宗・華厳宗・真言宗の邪義を一時に打ち破ったものえあると評価されているのである。
 しかしながら、当時、隆盛を極めていた真言宗の邪義に対しては、取り立てて強く破折しなかったために、法華経と真言の勝劣については、あまり明らかにされないままになったと仰せられている。

0369:03~0369:07 第二 もっぱら戒律を弘めた鑑真top
03   日本国は人王三十代・欽明の御時・百済国より仏法始めて渡りたりしかども始は神と仏との諍論こわくして三十
04 余年はすぎにき、 三十四代推古天皇の御宇に聖徳太子始めて仏法を弘通し給う慧観・観勒の二の上人・百済国より
05 わたりて三論宗を弘め、 孝徳の御宇に道昭・禅宗をわたす文武の御宇に新羅国の智鳳・法相宗をわたす第四十四代
06 元正天皇の御宇に善無畏三蔵・大日経をわたす然而弘まらず、 聖武の御宇に審祥大徳・朗弁僧正等・華厳宗をわた
07 す人王四十六代・孝謙天皇の御宇に唐代の鑒真和尚・律宗と法華経をわたす 律をばひろめ法華をば弘めず、
-----―
 日本国には、人王第三十代欽明天皇の御時に、百済の国から仏法がはじめて渡ってきたが、はじめは神道と仏教の諍論が激しく、三十年余り過ぎてしまった。第三十四代推古天皇の時代に入って、聖徳太子がはじめて仏法を弘通された。そして慧観と観勒という二人の上人が百済国より日本に渡来して三論宗を弘め、孝徳天皇の時代に道昭が禅宗を伝えた。文武天皇の時代に新羅国の智鳳が法相宗を伝え、第四十四代元正天皇の時代には善無畏三蔵が大日経を伝えたが、弘まらなかった。聖武天皇の御時には、審祥大徳・朗弁僧正らが華厳宗を伝え、人王四十六代孝謙天皇の時代に唐代の鑒真和尚が律宗と法華経を伝え、律を弘めたが法華経は弘めなかった。

 日本における仏法の初伝から伝教大師が出現するまでの歴史を概観されている。
 日本への仏教伝来の年代については、0552と0538の両説があるが、大聖人は、欽明天皇の13年(0552)に百済国の聖明王より大和朝廷に仏像・経典等が献上されたことをもって仏教の初伝とされている。これは、日本書紀に基づいたものである。
 さて、このように仏教が伝えられた時、すでに古代の神祇信仰を中心として祭官組織が成立しており、祭官組織を構成する氏族の反発が当然予想された。
 そこで、天皇は、仏教の受容を主張する蘇我稲目にこれを祀らさた。しかし、やがて、これについても、排仏の動きが強まっていった。その排仏派の中心は物部氏であり、崇仏派の蘇我氏と激しく対立していった。
 この蘇我氏と物部氏の対立は、もとより新来の仏教と旧来の神祇信仰との宗教的な対立というだけでなく、もともと権力の掌握をめぐって敵対してきたのであり、仏教受容の問題は一つの契機にしかすぎなかった。
 いずれにしても、この両者の対立は、用明天皇の在位時代になると一層、深刻化し、天皇が崩御された後は、皇位継承をめぐる対立が加わったために、やがて武力闘争へと激化したが、0587年に蘇我馬子が物部守屋を滅ぼし、摂政・聖徳太子により仏教国としての道がここに開かれたのである。
 本抄に「神と仏との諍論こわくして三十余年はすぎにき」と仰せられているのは、仏教伝来から物部守屋の滅亡までを指していると拝される。
 そして、聖徳太子が初めて仏法を弘通したと仰せであるが、これは蘇我馬子が崇仏派の中心であったとはいえ、彼が仏教を外国文化として取り入れ自らの権力を強化する手段としてしか見ていかなかったのに対して、聖徳太子は、仏教の宗教として優れた内容に早くから着目し、その精神を政治に取り入れ、仏法の興隆を図ったからである。
 次に諸宗の日本伝来について述べられている。はじめ三論宗、次に禅宗、法相宗、真言宗、華厳宗、律宗、法相宗と続き、それぞれを伝来した年次、僧等を記されている。
 南都六宗の一つである三論宗は、百済の僧・観勒が推古天皇の10年(0602)10月に来日して伝えた。本朝高僧伝巻第一によれば、観勒は、勅命に従って元興寺に住し、選ばれた優秀な者に書を教えたという。慧観は高句麗の人で、推古天皇の33年(0625)に来朝し、元興寺に住して三論を弘めた。
 次に、孝徳天皇の治世に道昭が禅宗を伝えたと仰せであるが、これは道昭が孝徳天皇の白雉4年(0653)唐に渡って玄奘三蔵より法相を学ぶとともに、相州・隆化寺の慧満禅師から禅を伝承したことを指している。道昭は帰国後、主に法相宗を弘め、これが法相宗の日本初伝とされているが、天智天皇の元年(0662)3月、元興寺の東南の隅に禅院を構えて終日、座禅を組んだという。
 第三番目として、法相宗の日本伝来について述べられている。これは四次の伝来のうち第三伝に当たるもので、新羅の僧・智鳳が来朝して、文武天皇の大宝3年(0703)に智鸞・智雄とともに入唐して智恩大師窺基の法孫である智周より法相を授けられたのである。
 第四に、真言宗の依経である大日経の伝来に言及されている。すなわち、元正天皇の時代にインドの善無畏三蔵が来日して大日経をもたらしたが広まらなかったという。これは史実としては不確定であるが、世に言い伝えられていたもので、本朝高僧巻第一にも次のように記されている。
 「本朝元正帝の代、此方に来儀す。初め南都興福寺の東南隅に止る。後但州の発心貫山に往て、一精藍を建て真言教を説く。屢神迹を垂れて、諸州に遊化するも、衆機末だ熟せず、真教聞ゆること無し。遂に大毘廬遮那経を和州高市郡の久米の道場に納れて、又唐に帰って西明寺に居す」
 また、このほか扶桑略記巻第六、元亨釈書巻一、三国仏法伝通縁起にも善無畏来朝説が記されており、この説は、広く信じられていたようで、この善無畏によって伝えられた大日経が、久米寺の東搭にあるとの夢告を空海が得たという伝説はよく知られているところである。
 次に、華厳宗が聖武天皇の代に審祥と良弁等によっておもたらされたことを仰せられている。
 華厳宗の章疏が日本に伝えられたのは、天平8年(0736)に来日した道璿によってであり、道璿を華厳宗の初祖とする考えもあるが、道璿は経典をもたらしただけで講じなかったとされている。
 撰時抄にも本抄と同様に審祥を華厳の伝法者として挙げられているが、日寛上人はこの点について撰時抄愚記で次のように指摘されている。
 「実には道璿律師、華厳の章疏を渡すなり。而るに『審祥』最初講演の師なり。故に功を推して『審祥渡す』というなり」
 次に、鑑真が孝謙天皇の代に律宗と法華経を我が国にもたらしたことが記されている。
 三国仏法伝通縁起巻下には、次のようにある。
 「和尚の来朝せる時、随身せる聖教は広く多くして一に非ず、蕨の中にも律宗の諸典・天台の諸文は齏し持つこと是れ衆し」
 更に「昔、人王第四十六代孝嫌天皇の御宇たる天平勝宝六年庚午に、鑑真和尚は天台宗の章齏して来れり、謂く摩訶止観・法華玄義・法華文句・小止観・六妙門等也」とる。
 しかしながら、「鑑真和尚は、既に台宗を此の国に伝えて而も末だ広く講敷せず、先ず戒律を弘む」とあるように、鑑真はもっぱら戒律を弘め、中国の南山律宗を日本に伝えたのみで、天台法華宗は弘めなかったのである。
 天台宗が日本で開花するのは、伝教大師の出現をまたなければならなかった。
 日本における仏法の初伝から伝教大師が出現するまでの歴史を概観されている。
 日本への仏教伝来の年代については、0552と0538の両説があるが、大聖人は、欽明天皇の13年(0552)に百済国の聖明王より大和朝廷に仏像・経典等が献上されたことをもって仏教の初伝とされている。これは、日本書紀に基づいたものである。
 さて、このように仏教が伝えられた時、すでに古代の神祇信仰を中心として祭官組織が成立しており、祭官組織を構成する氏族の反発が当然予想された。
 そこで、天皇は、仏教の受容を主張する蘇我稲目にこれを祀らさた。しかし、やがて、これについても、排仏の動きが強まっていった。その排仏派の中心は物部氏であり、崇仏派の蘇我氏と激しく対立していった。
 この蘇我氏と物部氏の対立は、もとより新来の仏教と旧来の神祇信仰との宗教的な対立というだけでなく、もともと権力の掌握をめぐって敵対してきたのであり、仏教受容の問題は一つの契機にしかすぎなかった。
 いずれにしても、この両者の対立は、用明天皇の在位時代になると一層、深刻化し、天皇が崩御された後は、皇位継承をめぐる対立が加わったために、やがて武力闘争へと激化したが、0587年に蘇我馬子が物部守屋を滅ぼし、摂政・聖徳太子により仏教国としての道がここに開かれたのである。
 本抄に「神と仏との諍論こわくして三十余年はすぎにき」と仰せられているのは、仏教伝来から物部守屋の滅亡までを指していると拝される。
 そして、聖徳太子が初めて仏法を弘通したと仰せであるが、これは蘇我馬子が崇仏派の中心であったとはいえ、彼が仏教を外国文化として取り入れ自らの権力を強化する手段としてしか見ていかなかったのに対して、聖徳太子は、仏教の宗教として優れた内容に早くから着目し、その精神を政治に取り入れ、仏法の興隆を図ったからである。
 次に諸宗の日本伝来について述べられている。はじめ三論宗、次に禅宗、法相宗、真言宗、華厳宗、律宗、法相宗と続き、それぞれを伝来した年次、僧等を記されている。
 南都六宗の一つである三論宗は、百済の僧・観勒が推古天皇の10年(0602)10月に来日して伝えた。本朝高僧伝巻第一によれば、観勒は、勅命に従って元興寺に住し、選ばれた優秀な者に書を教えたという。慧観は高句麗の人で、推古天皇の33年(0625)に来朝し、元興寺に住して三論を弘めた。
 次に、孝徳天皇の治世に道昭が禅宗を伝えたと仰せであるが、これは道昭が孝徳天皇の白雉4年(0653)唐に渡って玄奘三蔵より法相を学ぶとともに、相州・隆化寺の慧満禅師から禅を伝承したことを指している。道昭は帰国後、主に法相宗を弘め、これが法相宗の日本初伝とされているが、天智天皇の元年(0662)3月、元興寺の東南の隅に禅院を構えて終日、座禅を組んだという。
 第三番目として、法相宗の日本伝来について述べられている。これは四次の伝来のうち第三伝に当たるもので、新羅の僧・智鳳が来朝して、文武天皇の大宝3年(0703)に智鸞・智雄とともに入唐して智恩大師窺基の法孫である智周より法相を授けられたのである。
 第四に、真言宗の依経である大日経の伝来に言及されている。すなわち、元正天皇の時代にインドの善無畏三蔵が来日して大日経をもたらしたが広まらなかったという。これは史実としては不確定であるが、世に言い伝えられていたもので、本朝高僧巻第一にも次のように記されている。
 「本朝元正帝の代、此方に来儀す。初め南都興福寺の東南隅に止る。後但州の発心貫山に往て、一精藍を建て真言教を説く。屢神迹を垂れて、諸州に遊化するも、衆機末だ熟せず、真教聞ゆること無し。遂に大毘廬遮那経を和州高市郡の久米の道場に納れて、又唐に帰って西明寺に居す」
 また、このほか扶桑略記巻第六、元亨釈書巻一、三国仏法伝通縁起にも善無畏来朝説が記されており、この説は、広くしんじられていたようで、この善無畏によって伝えられた大日経が、久米寺の東搭にあるとの夢告を空海が得たという伝説はよく知られているところである。
 次に、華厳宗が聖武天皇の代に審祥と良弁等によっておもたらされたことを仰せられている。
 華厳宗の章疏が日本に伝えられたのは、天平8年(0736)に来日した道璿によってであり、道璿を華厳宗の初祖とする考えもあるが、道璿は経典をもたらしただけで講じなかったとされている。
 撰時抄にも本抄と同様に審祥を華厳の伝法者として挙げられているが、日寛上人はこの点について撰時抄愚記で次のように指摘されている。
 「実には道璿律師、華厳の章疏を渡すなり。而るに『審祥』最初講演の師なり。故に功を推して『審祥渡す』というなり」
 次に、鑑真が孝謙天皇の代に律宗と法華経を我が国にもたらしたことが記されている。
 三国仏法伝通縁起巻下には、次のようにある。
 「和尚の来朝せる時、随身せる聖教は広く多くして一に非ず、蕨の中にも律宗の諸典・天台の諸文は齏し持つこと是れ衆し」
 更に「昔、人王第四十六代孝嫌天皇の御宇たる天平勝宝六年庚午に、鑑真和尚は天台宗の章齏して来れり、謂く摩訶止観・法華玄義・法華文句・小止観・六妙門等也」とる。
 しかしながら、「鑑真和尚は、既に台宗を此の国に伝えて而も末だ広く講敷せず、先ず戒律を弘む」とあるように、鑑真はもっぱら戒律を弘め、中国の南山律宗を日本に伝えたのみで、天台法華宗は弘めなかったのである。
 天台宗が日本で開花するのは、伝教大師の出現をまたなければならなかった。

0369:07~0369:12 第三 天台の法門を盗んだ大日経の疏top
07                                                  第五十
08 代桓武天皇の御宇に延暦二十三年七月・伝教大師勅宣を給いて 漢土に渡り妙楽大師の御弟子・道邃・行満に値い奉
09 りて法華宗の定慧を伝え 道宣律師に菩薩戒を伝え 順暁和尚と申せし人に真言の秘教を習い伝えて日本国に帰り給
10 いて、 真言・法華の勝劣は漢土の師のおしへに依りては定め難しと思食しければ ここにして大日経と法華経と彼
11 の釈と此の釈とを引き並べて勝劣を判じ給いしに 大日経は法華経に劣りたるのみならず 大日経の疏は天台の心を
12 とりて我が宗に入れたりけりと勘え給へり。
-----―
 第五十代桓武天皇の代になって、延暦二十三年七月に伝教大師が勅宣を賜り、中国に渡り、妙楽大師の御弟子の道邃・行満に会い奉って法華宗の定と慧を学び、道宣律師から菩薩戒を授けられ、順暁和尚という人からは真言の秘教を習い伝えて日本国に帰ってこられた。
 伝教大師は、真言・法華経の勝劣についてはこれら中国の諸師の教えによっては定め難いと思ったので、帰国して自ら大日経と法華経、そしてそれぞれの釈とを引き並べて勝劣を判じられたところ、大日経は法華経に劣っているのみならず、それを釈した大日経の疏は天台大師の意を取ってその法門を自分達の宗に取り入れたものであると見ぬかれた。

 天台法華宗が伝教大師最澄の入唐によってもたらされたと記されている。
 最澄は延暦21年(0802)、桓武天皇より「天台法華宗還学生」に任じる旨の勅宣を賜った。
 同23年(0804)7月6日、弟子の義真を訳語僧として伴い、遣唐使の第二船に乗って肥前国松浦郡田浦を出帆し、9月1日に明州に到着した。船中で病を得たため明州でしばらく静養した後、台州に向かった。
 台州では、天台山修禅寺座主道邃が刺史陸淳に招かれて竜興寺で摩訶止観の講筵を開いていた。9月26日竜興寺に道邃を訪ねた最澄は、その講義を聞いたといわれる。
 10月に入って天台山に登り、行満座主に会い、仏隴寺において天台の法門を伝授された。そして、行満とともに再び竜興寺に赴き、道邃より天台の付法と菩薩の三聚戒を受けた。
 こうして、妙楽大師の高弟である道邃・行満の二人から、正統天台宗の付法と菩薩戒を授けられた最澄は、入唐の所期の目的を果たし、唐の貞元21年(0805)3月上旬、台州をあとにして明州に戻ったが、帰国まで余裕があったことから、明州から更に超州に向かい当地の竜興寺に滞在していた順暁から三部三昧耶灌頂を伝授されている。
 なお、本抄には、道宣律師より菩薩戒を伝えられると述べているが、諸伝の記すところではいずれも道邃で一致している
 伝教大師の顕戒論巻上には「和上慈悲にして、一心三観を一言に伝え、菩薩の円戒を至信に授く」とあり、また顕戒論縁起にも「伝菩薩戒師天台沙門道邃」と記されているところから、伝教大師が菩薩戒を授けられたのが道邃であったことは明らかである。
 故に、報恩抄にも「去る延暦二十三年七月御入唐・西明寺の道邃和尚・仏滝寺の行満等に値い奉りて止観円頓の大戒を伝受し」(0304-07)と仰せられている。
 中国・南山律師の開祖で道宣律師という僧がいるが、7世紀の人であり、伝教大師が戒を受けられる道理がない。「道宣律師」あるいは「道宣」の名は本抄以外にも十数遍の御書に見られるが、いずれも禅宗の道宣を指している。
 道暹は中国・唐代の天台宗の僧で、妙楽大師の法華文句記を注釈した法華文句輔正記を著し、大聖人も諸御抄で引用されており「道暹律師」などと呼ばれている。
 道暹は、生没年は不明であるが、仏祖統紀巻二十二によれば、大暦年間の人であるとあることから、伝教大師との接点はなかったと思われ、本抄の「道宣律師」は「道邃」の伝写の誤りであろう。
 さて、最後に本抄では、伝教大師と大日経の勝劣をどのように考えていたかを述べられている。
 大聖人は、伝教大師が大日経は法華経に劣っているばかりでなく、善無畏に示唆されて一行が著した大日経疏が天台の法門を盗み取ったものであることを見抜いていたことを仰せられている。
 延暦25年(0806)1月、太政官符が発せられ、諸宗に続いて天台法華宗に二人の年分得度者を加えるよう上奏した伝教大師の請により、天台宗に対して年分度者二人が認められた。年分度者とは国家によって得度を許可された年間の定員を意味している。
 ここに日本天台宗の開宗が公認されたことになるのであるが、この際、天台法華宗の学業として、一人は大毘廬遮那経、一人は摩訶止観を読むようにと定められたのである。すなわち、天台法華宗は、真言密経を加えて新しい宗派として公認されたことになる。
 このために、伝教大師は、法華経を中心としつつ、大日経を取り入れ、円密一致を課題としたと言われているのであるが、はたしてそうであろうか。
 この点について大聖人は報恩抄で次のように述べられている。
 「大日経の義釈には理同事勝とかきたれども伝教大師は善無畏三蔵のあやまりなり、大日経は法華経には劣りたりと知しめして八宗とはせさせ給はず真言宗の名をけづりて法華宗の内に入れ七宗となし 大日経をば法華天台宗の傍依経となして華厳・大品・般若・涅槃等の例とせり」(0304-10)
 ここで、大聖人は、伝教大師が善無畏三蔵の誑惑を見抜いて法華経と大日経の勝劣をはっきりと弁えていたとされ、その根拠として、伝教大師が各宗の年分度者を請願するにあたって既成の南都六宗に法華天台宗を加えて七宗とし、真言宗を立てなかったことを挙げたれている。
 これは、あくまで法華経を正とし大日経を傍として位置付けたものであり、それ故に伝教大師にあっては両者の勝劣は明らかであるとされているのである。この大聖人の御指摘は、伝教大師の守護国界章の文によって裏付けられよう。
 すなわち、巻上之中には、次のように記されている。
 「山家伝うる所の円教宗の依経は、正しくは法華経及び無量義経に依り、傍ら、第涅槃・華厳・維摩・方等般若・甚深の諸大乗に説くところの円教・文殊問般若・般舟・大方等・請観音・虚空蔵・観普賢・遮那、一切、円を説く等の諸経諸論等に依る」
 ここに「遮那」とあるのが、大日経を指している。
 また、善無畏・一行が大日経疏が天台大師の法門を盗用したものであることは、伝教大師の依憑集に示されているところである。
 大聖人は、報恩抄で次のように述べられている。
 「但依憑集と申す文に正しく真言宗は法華天台宗の正義を偸みとりて大日経に入れて理同とせり、されば彼の宗は天台宗に落ちたる宗なり」(0304-14)
 また、撰時抄には「依憑集と申す一巻の秘書あり七宗の人人の天台に落ちたるやうをかかれて候文なり、かの文の序に真言宗の誑惑一筆みへて候」(0276-16)と述べられている。
 この依憑集は、詳しくは大唐新羅諸宗義匠依憑集天台義集といい、大唐と新羅の諸宗が天台宗の義を依憑として、自宗の教義を打ち立てていることを具体的に指摘することによって、天台宗が他宗に勝れていることを明らかにしたものである。
 天台大師はその序文において「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯じ、旧到の華厳家は則ち影響の軌模を隠す」と指摘している。
 日寛上人は、依憑集のこの序分に二意があるとして、次のように述べられている。
 「且く文相に准ずるに、但元祖の依憑を挙げて、以て末弟の偏執を破するなり。往いて義意に准ずるに、彼の元祖の依憑は即ち盗台に当るなり。その故は天台法華の義に依憑して、宗々の依経を誇耀する故なり」
 つまり、文相面においては、伝教大師は諸宗の元祖が天台宗の法門に依馮していることを示すことによって、諸宗の元祖が天台宗の義を盗んで自宗の依経を巧みに解釈し、不当に高く位置づけていることを明らかにしているのである。
 守護国界章巻中之中にも、諸宗の人師疏釈を挙げ、「是の如き等の宗、天台に依憑す。依憑集に説くが如し」と明確に指摘されている。
 こうした意味から大聖人は本抄で「大日経の疏は天台の心をとりて我が宗に入れたりけりと勘え給へり」と仰せられているのである。

0369:13~0369:16 第四 伝教大師に背いた慈覚・智証top
13   其の後・弘法大師・真言経を下されける事を遺恨とや思食しけむ真言宗を立てんとたばかりて法華経は大日経に
14 劣るのみならず華厳経に劣れりと云云、 あはれ慈覚・智証・叡山・園城にこの義をゆるさずば弘法大師の僻見は日
15 本国にひろまらざらまし、 彼の両大師・華厳・法華の勝劣をばゆるさねど法華・真言の勝劣をば永く弘法大師に同
16 心せしかば存外に本の伝教大師の大怨敵となる、
-----―
 その後、弘法大師は真言の経が法華経に劣っていると下されたことを恨みに思われたことであろうか。真言宗を立てようとして法華経は大日経に劣るのみならず華厳経にも劣っているなどと唱えたのである。
 残念なことに、もし慈覚・智証が叡山・園城寺にこの邪義を許さなければ、弘法大師の僻見が日本国に弘まることはなかったであろう。しかしかの両大師は、華厳教と法華教との勝劣については弘法の考えをゆるさなかったものの、法華教と真言の勝劣については、一貫して弘法大師の考えに同調したため、思いのほか開祖である伝教大師の大怨敵となってしまったのである。

 ここでは、弘法大師の邪義を慈覚・智証の二人が天台宗に取り入れてしまったために、弘法の僻見が日本国中に広まっていったことを指摘されている。
 まずはじめに、真言経が下されたことを弘法大師が恨みに思っていたと仰せであるが、これは先に述べたように、伝教大師が依憑天台宗の序分で指摘していることを言われているものと拝される。
 伝教大師が依憑天台集を著したのは、弘仁7年(0816)のこととされている。
 これに対して、弘法大師空海が大日経第一・華厳経第二・法華経第三なる真言密経の教判を体系化したのは、秘密曼荼羅十住心論・秘蔵宝鑰においてであり、これはおよそ天長7年(0830)頃と推定されている。
 これは、同年に淳和天皇より諸宗に対して各宗の宗義を提示するようにとの勅宣があり、このとき空海が提出したのが十住心論十巻とそれを要約した秘蔵宝鑰三巻であったことに基づいている。
 したがって、両書の成立は、少なくとも伝教大師が弘仁13年(0822)に入滅して後のことであり、伝教大師は顕密二教の勝劣についてははっきりと述べていたが、弘法は伝教大師の存命中は、その十住心による教判を表立っては明言していなかったといえるのである。
 なお、空海は平城天皇灌頂文にも十住心の教判と同様に、一に律宗・二に俱舎宗・三に成実宗・四に法相宗・五に三論宗・六に天台宗・七に華厳・八に真言と八宗を位置付けているが、ここではまだ十住心との対応関係は明らかにされていない。
 また、これも次に述べる三昧耶戒序と同じく伝教大師入滅の年に成立したのである。
 三昧耶戒序には十住心論の萌芽と見るべきものが記されている。天台宗を第八の「如実一道心」に配していることは次の文に明らかである。
 「自心を妙蓮に観じ、境智を照潤に喩う。三諦俱に融し、六即位を表す、これすなわち如実一道心の針灸なり」
 空海が十住心の教判において、法華経を第八住心に、華厳経を第九住心に配して、法華経を華厳経より劣るとしたのも、伝教大師を意識してのことであったろうと推察される。
 この点については、宮坂宥勝博士も、空海が十住心体系を構成するにあたって、最も配慮したのが天台宗の位置付けであったと推論し、その理由を次のように述べている。
 「天台宗に配当されている第八住心の名称が『十住心論』『宝鑰』においてすら別名がいくつかあることが、それを反証しているように思われる。しかも、第八住心を『一道如実心』の名称をもって天台に配した『三昧耶戒序』の成立が奇しくも最澄の入滅の年にあたるのである。
 これは、三昧耶戒序において、十住心のうち第八住心が「一道如実心」となっているのに対して、十住心論、秘蔵法鑰では、いずれも「一道無為心」とあり、しかもその別名として「如実知自心」「空性無境論」とも名づけられていることを指摘したものである。
 このように、法華経を下す空海のこうした教判が伝教大師の入滅を待つかのようにして公表されたことは決して偶然ではないと思われるのである。
 こうした空海の僻見を見破ることができずに、真言密教に取り込まれて理同事勝の義を唱え、台密に堕したのが慈覚・智証の二人である。この二人も、さすがに法華経を華厳経に劣るという空海の教判にくみすることはしなかったが、真言と法華経の勝劣についてはまったく空海の邪義に同じて、開祖たる伝教大師の教えに背いてしまったのである。
 大聖人が本抄で「伝教大師の大怨敵」と弾訶されているのもそのためである。

0369:16~0370:01 第五 円密一致の邪義が定着top
16                        其の後日本国の諸碩徳等各智慧高く有るなれども 彼の三大師に
17 こえざれば今四百余年の間・日本一同に 真言は法華経に勝れけりと定め畢んぬ たまたま天台宗を習へる人人も真
18 言は法華に及ばざるの由存ぜども 天台の座主御室等の高貴におそれて申す事なし あるは又其の義をもわきまへぬ
0370
01 かのゆへにからくして同の義をいへば一向真言師はさる事おもひもよらずとわらふなり。
-----―
 その後、日本国に碩徳達が出て、それぞれ智慧も優れていたけれども、弘法・慈覚・智証の三大師を超えることはなかったので今に至る四百余年の間は、日本一同に真言は法華経に勝れていると決めこんでしまったのである。
 たまたま天台宗を習った人々も真言は法華に及ばないことがわかっていても天台宗の座主や仁和寺の御室等の高貴な人々を恐れて何も言い出すことができなかった。あるいはまた、その勝劣を弁えないために、かろうじて真言と法華経は同等であると言って、真言宗の諸師はそのようなことは思いもよらないことであると一笑にふしたのである。

 弘法・慈覚・智証の権威が高かったため、この三大師の滅後も、三大師によって定められた法華経と真言の勝劣に関する誤謬は、大聖人が御出現されるまで、誰もただすことがなかったことを仰せられている。
 今日、慈覚・智証の両大師によってもたらされた天台密教化は、開祖の伝教大師を淵源としているという見方が一般的である。つまり、天台密教は伝教大師に始まるとし、その法華経と真言密経を同等と見なす円密一致の思想を継承しつつ、いっそう深めたのが慈覚・智証の二人であると考えられている。
 このような見方は誤りであり、大聖人は、つねに慈覚・智証を「本の伝教大師の大怨敵」と断じられているのである。
 伝教大師が、法華経を正依として真言密経を傍依と位置づけたことは先に述べた通りであるが、大聖人が衆生心御書に「桓武の御代に最澄法師・後には伝教大師とがうす、入唐已前に六宗を習いきわむる上・十五年が間・天台・真言の二宗を山にこもり給いて御覧ありき、入唐已前に天台宗をもつて六宗をせめしかば七大寺皆せめられて最澄の弟子となりぬ、六宗の義やぶれぬ、後延暦廿三年に御入唐・同じき廿四年御帰朝・天台・真言の宗を日本国にひろめたり、但し勝劣の事は内心に此れを存じて人に向つてとかざるか」(1593-10)と仰せられているように、伝教大師は法華経と真言との勝劣について自身は弁まえていたものの、それを人に向かって明確には説かなかった。そのために、台密が生じたとする見方は確かにある。
 そうした見方の根拠となっている諸点を挙げれば、およそ次の四点に集約できる。
    第一に、伝教大師が入唐して台・密・禅・戒の四宗を相承したこと
    第二に、伝教大師が叡山に法華止観業と真言遮那業との両業を設けた。
    第三に、伝教大師が空海から真言密経を習得しようと務めたこと
    第四に、伝教大師が空海のもとに行った弟子の泰範にあてた書状の中で「法華一乗・真言一乗、何の勝劣有らん」と述べていること
 これに対して大聖人は、あくまで伝教大師の本意が円勝密劣にあったことを指摘されている。
 先にその理由として、伝教大師が
    ①真言宗の名を削って天台法華宗と名乗った
    ②守護国界章で大日経を傍依と位置づけている
    ③依憑集で真言を破折している
 ことの、三点を挙げておられる。
 これらの諸点を踏まえつつ、更に伝教大師の正意を明らかにすることによって、慈覚以後の天台密教化いかに開祖たる伝教大師に背くものであったかを示しておきたい。
 はじめに四宗の相承についてであるが、この疑問に答えるには、まず伝教大師の入唐求法の目的がどこにあったかを明らかにしなければならない。
 撰時抄には次のように仰せられている。
 「伝教大師は日本国にして十五年が間・天台真言等を自見せさせ給う生知の妙悟にて師なくしてさとらせ給いしかども、世間の不審をはらさんがために漢土に亘りて天台真言の二宗を伝へ給いし」(0280-06)
 つまり、伝教大師は、無師無知で法華経の妙理を悟り、法華経の最勝たることを知悉していたが、世間を納得させるために入唐したのである。このことは、伝教大師が入唐して直ちに天台山に向かった事実に現われている。
 この大聖人の御指南を裏付けているのが伝教大師の次の言葉である。
 すなわち入唐を請願した上表文に「最澄早く玄門に預り、幸いに昌運に遇い、聞を至道に希い、心に法筵に遊ばしむ。毎に恨むらくは、法華の深旨尚末だ詳釈あらざることを、幸いに天台の妙記を求め得て披閲すること数年、字謬り行脱して末だ細き趣きを顕さず。若し師伝を受けざれば、得たりと雖も信ぜられず」とある。
 ここに伝教大師の入唐求法の目的が明らかであろう。すなわち、それはもっぱら天台教観の相承にあったのであり、真言密経等の他の三宗の受法は付随的なものであったといっても過言ではない。
 このことは伝教大師講来目録を見てもわかることで、台州録・越州録合わせて総数234部460巻という膨大な数の中には、法華天台関係の経疏が圧倒的に多く、真言密教関係はわずか38部しかない。
 では、何故に伝教大師は在唐中にも帰国後も真言密教の習得に努めたのであろうか、これは、言うまでもなく伝教大師が真言密経をどのように位置付けたかという問題が不可分にかかわっている。
 日寛上人は、報恩抄文段で伝教大師の著書に二宗斉等、すなわち法華と真言の二宗が同等であると述べた文があることを認めながらも、それがいずれも約教一往の傍義であり、決して約部再往の正意ではないと指摘されている。
 つまり、伝教大師における二宗斉の文は、教に約して密経を円教に摂したものであり、部に約して法華と同等としたものではない。
 したがって、泰範への書状における法華一乗と真言一乗に優劣なしとの文、また止観業と遮那業との並立も、それぞれ約教判のうえから大日経の中の円教を取り上げたうえでの一往の傍義であり、法華経と真言との同格を意味しているのではないのである。
 このように、約教判によって大日経の円教を取り出したとしても、それは与えて判じたものであり、五味に約して麁妙を判ずる約部判によれば大日経は方等部に属する爾前権経であり、法華経に及ぶわけがないのである。
 伝教大師が真言密教を求めたのも、この約教判の立場においてであることは明白である。であればこそ、法華経を正依の経とし、大日経を傍依の経と位置づけているのである。
 にもかかわらず、このような伝教大師の立場を慈覚・智証等の弟子たちは理解することができず、開祖の正意に背いてしまったために、叡山は密教化し、ひいては禅宗、そして浄土宗が成立するに至ったのである。
 報恩抄では、理同事勝の義を唱えた慈覚・智証の謗法は弘法に超過し、三仏の怨敵であると述べられ、その理由について次のように仰せられている。
 「弘法大師こそ第一の謗法の人とおもうに、これは・それには・にるべくもなき僻事なり、其の故は水火・天地なる事は僻事なれども人用ゆる事なければ其の僻事成ずる事なし、弘法大師の御義はあまり僻事なれば弟子等も用ゆる事なし事相計りは其の門家なれども其の教相の法門は弘法の義いゐにくきゆへに善無畏・金剛智・不空・慈覚・智証の義にてあるなり、慈覚・智証の義こそ真言と天台とは理同なりなんど申せば皆人さもやと・をもう、かう・をもうゆへに事勝の印と真言とにつひて天台宗の人人・画像・木像の開眼の仏事を・ねらはんがために日本・一同に真言宗におちて天台宗は一人もなきなり」(0308-17)
 法華経を華厳経より劣るとした弘法の教判は、その僻見ぶりが容易に見分けられるが、慈覚・智証の立てた理同事勝の義はまぎらわしいため智人も迷い、その誤りを見抜くことができず、その邪義に取り込まれてしまったのである。
 慈覚・智証のほかに、例えば叡山には智証とほぼ同時代の9世紀末に第四代座主安慧の弟子である五大院安然が出たが、安然は慈覚の理同事勝・事理俱密の教判を受け継ぎつつ、天台大師の立てた化法の四教、いわゆる蔵・通・別・円の四教の中の円教は随自他意の円教であるとして、慈覚・智証における円密一致を更に進め、円劣密勝を説いた。
 また、その九宗判においては、真言宗を第一と立てて、第二に禅宗を配して法華宗を第三の位置に落とし、自ら天台宗の呼称を改め真言宗と称したほどである。まさに大聖人が報恩抄で仰せられている「日本・一同に真言宗におちて天台宗は一人もなきなり」という状態にまで堕し、真言密教による祈禱は時代の風潮とすらなったのである。
 さて、安然以後の天台宗においては、叡山の教学は振るわず、僧風も乱れ、やがて退廃の極みに達したが、第18代座主・慈慧大師良源が叡山を再興し、中興の祖と呼ばれた。
 しかし、伝教大師・慈覚・智証・安然に加えて三聖二師とうたわれた、この良源にしても理同事勝の慈覚の流れを汲んでいたのであって、密教化にいっそうはずみをつけた人物といわなければならない。一般的にも、叡山における密教の教相的な研究は安然によって大成され、以後はその踏襲に過ぎなかったと言われる。
 そうして、良源の中興以後は、もっぱら真言密教における実践門たる事相の研究・伝授に力が注がれ、さまざまな分流を生むに至った。いわゆる台密13流と呼ばれるのがそれである。しかしながら、分派に分派を重ねた事相の発展・興隆は、東寺と競うようにして加持祈禱に没頭する風潮をもたらしただけである。
 本抄では更に、こうした真言密教の興隆のなかにあって、たまたま天台宗を習って、真言密教は法華経に及ばず、法華経こそ最勝の経であるという伝教大師の本意に気付くものがあっても、天台座主や御室の権威を恐れて、そのことを口に出すことはなかったと述べられている。
 このように、空海・円仁・円珍の没後にあっても、彼らの権威はますます喧伝されていったために、それを打ち破ろうとする人はなく、かろうじて法華経と真言とは同等であるといってみたところで、真言師に一笑にふされるたけだったと仰せられている。
 つまり、大聖人がここで指摘されていることは、永きにわたって三大師の邪義の横行を許してしまった何よりの理由は、一つには三大師を超える智慧ある人が出なかったこと、ふたつには、たとえ智慧が勝れていても権威を恐れ、三大師を破折する勇気ある人がいなかったこと、の二点に尽きるということである。

0370:02~0470:07 第九段 日本に法華経の行者なきを明かすtop
0370:02~0470:07 第一 日本国中に法華経の邪義が広まるtop
02   然らば日本国中に数十万の寺社あり皆真言宗なりたまたま法華宗を並ぶとも 真言は主の如く法華は所従の如く
03 なり若しくは兼学の人も心中は一同に真言なり、 座主・長吏・検校・別当・一向に真言たるうへ上に好むところ下
04 皆したがふ事なれば一人ももれず真言師なり、 されば日本国・或は口には法華経最第一とはよめども心は最第二・
05 最第三なり或は身口意共に最第二三なり、 三業相応して最第一と読める法華経の行者は 四百余年が間一人もなし
06 まして能持此経の行者はあるべしともおぼへず、 如来現在・猶多怨嫉・況滅度後の衆生は上一人より下万民にいた
07 るまで法華経の大怨敵なり。
-----―
 かくして、日本国中に数十万の寺社があるが、皆真言宗となってしまった。たまたま真言とともに法華宗を並び立ててはいても、真言を主のようにし、法華を家来のようにしている。あるいは真言宗と法華経を兼学した人も心中では、一同に真言になっている。
 寺により山によって座主・長吏・検校・別当と住持の名称は違っていても、すべて真言師であるうえ、地位の高い人たちが好むところにはその下の者も皆従うというのが世の常であるから、一人ももれなく真言師となっている。したがって日本においては、ある者は口では法華経最第一と読んでいても、心の中では最第二・最第三と読んでいる。またある者は身口意ともに最第二・第三と読んでいる。
 身口意の三業相応して、最第一と読んでいる法華経の行者は、伝教大師以後四百余年の間、一人もいないのである。まして「能持此経」の行者がいるとは思えない。法華経法師品第十に「如来現在・猶多怨嫉・況滅度後」とあるとおり、今の衆生は上一人より下万民に至るまで法華経の大怨敵である。

 前段までは、弘法・慈覚・智証といった東密・台密の元祖の事歴をとおして、真言密経が日本国にはびこった由来を論じられたが、本段では、比叡山の座主等をはじめとして、当時の各寺において最高の地位にあった高僧たちが一同に真言師となってしまった結果、日本国中のすべての僧が真言師になってしまったことを仰せられている。
 そして、日本国において身口意の三業相応して法華経第一と読んだ行者は伝教大師以後400余年の間、一人もいないことを述べられ、日本国中の人々が法華経の大怨敵になっていることを指摘されている。
 なお、本抄では当時の寺院における最高の官職について「座主・長吏・検校・別当」と記されているが、他抄では例えば「山の座主・東寺・御室・七大寺の検校、園城寺の長吏・伊豆・箱根・日光・慈光等の寺寺の別当等も皆此の三大師の嫡嫡なり」(1228-07)と寺名が挙げられており、このことから判断すると、座主は比叡山延暦寺、長吏は台密の園城三井寺、検校は奈良の東大寺、興福寺等の七大寺、別当は伊豆・箱根・日光・慈光の各寺社のそれぞれの頭領を指して言われていたものと思われる。
 こうして日本国中に真言の邪義が広まって、誰もが真言が最も優れていると信じて疑わないなかにあって、大聖人ただ一人がその誤りを厳しく破折され、法華経こそ最勝の教えであると主張された。これは、ある意味で当時の仏教界の権威に対する真っ向からの挑戦であったといえよう。
 そのために大聖人は法華経に予言された数々の大難を受けられ、法華経を身口意の三業にわたって読みきられたのであり、次の段より大聖人御自身の御生涯、御化導へと筆を転じられていくのである。
 この段で、大聖人は「三業相応して最第一と読める法華経の行者は四百余年が間一人もなし」と仰せられている。法華経最第一は法華経に説かれた釈尊の金言であり、それを三業相応して主張していくことが法華経の行者としては不可欠である。日寛上人は報恩抄文段で次のように仰せられている。
 「但法華経のみ『諸経法中最も為れ第一』『諸経中に於て最も其の上に在り』と行ずるを、即ち法華の行者と名づく」
 しかしながら、既に本抄で指摘されているように、天台宗の座主であった慈覚・智証の両大師は、法華経第二と読んだのであり、法華経の大怨敵といわなければならない。
 これに対して、伝教大師は法華宗句巻下において「当に知るべし、斯の法華経は諸経の中に最も為れ第一なることを」と述べ、また「天台法華宗所持の法華経は最も為れ第一なり。故に能く法華を持する者も亦衆生の中に第一なり」と断じており、法華経最勝の義に立っていることは明らかである。
 故に大聖人は伝教大師を法華経の行者として、その伝教大師亡き後は、400余年が間、三業相応して最第一と読んだ人は一人もなしと言われているのである。
 次に、大聖人は「まして能持此経の行者はあるべしとおぼへず」と仰せられている。この「能持此経の行者」について、法華経分別功徳品第十七には次のように記されている。
 「悪世末法の時、能く此の経を持たん者は、即ち為れ已の上の如く、諸の供養を具足するなり」
 “能く”とは悪世末法の故に三類の強敵が競い起こるが、そのなかにおいて受持し抜き弘めていくことである。したがってただ三業相応して法華経第一と叫ぶことも難事であるが、あらゆる迫害・弾圧に耐えて妙法を受持し抜くことが「能持此経」であり、難事中の難事である。そしてこれは末法の御本仏にのみ当てはまることなのである。
 このことを大聖人は「諸河の水入る事なくば大海あるべからず、大難なくば法華経の行者にはあらじ」(1448-04)と述べられている。
 このように、大聖人が本抄で「三業相応の行者」「能持此経の行者」と区別されていることは重要である。
 大聖人が諸御抄で用いられている「法華経の行者」という言葉は、大別して門下に許された場合と御自身にのみ限定された場合との二とおりがある。これは、いうまでもなく総別の違いである。
 例えば、四条金吾に対しては「貴辺法華経の行者となり結句大難にもあひ日蓮をもたすけ給う事」(1117-13)と述べられ、また日妙聖人には「日本第一の法華経の行者の女人なり」(1217-08)と称賛の言葉を与えられている。
 こうした御文の例はほかにも多く拝見されるが、いずれも大聖人の門下としての法華経を信じていることをもって法華経の行者と名づけられているのである。
 それに対して、別の立場では、末法における法華経の行者は日蓮大聖人ただお一人であることは疑うべくもない。それは、法華経勘持品第十三に予言された三類の強敵にあわれたのが大聖人ただお一人だからである。
 故に開目抄には「法華経の第五の巻・勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずば・ほとをど世尊は大妄語の人・八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし、経に云く「諸の無智の人あつて・悪口罵詈等し・刀杖瓦石を加う」等云云、今の世を見るに日蓮より外の諸僧たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ刀杖等を加えらるる者ある、日蓮なくば此の一偈の未来記は 妄語となりぬ」(0202-11)と述べられている。
 また、「能持此経」についていえば、法華経 見宝搭品第十一に六難九易の六難の一つとして「我が滅後に於いて、若し能く、斯の如き経典を奉持せん、是れ則ち難しとす」とある。
 そして、この六難九易を身をもって読むことが法華経の行者即末法御本仏たる証拠であるとして「大海の主となれば諸の河神・皆したがう須弥山の王に諸の山神したがはざるべしや、法華経の六難九易を弁うれば一切経よまざるにしたがうべし」(0223-03)と仰せられている。
 大聖人は、四条金吾殿御返事で次のように仰せられている。
 「末代の法華経の聖人をば何を用つてかしるべき、経に云く「能説此経.能持此経の人・則如来の使なり」八巻・一巻・一品.一偈の人乃至題目を唱うる人・如来の使なり、始中終すてずして大難を・とをす人・如来の使なり。日蓮が心は全く如来の使にはあらず凡夫なる故なり、但し三類の大怨敵にあだまれて二度の流難に値へば如来の御使に似たり末代の法華経の聖人をば何を用つてかしるべき、経に云く『能説此経・能持此経の人・則如来の使なり』八巻・一巻・一品・一偈の人乃至題目を唱うる人・如来の使なり、始中終すてずして大難を・とをす人・如来の使なり。日蓮が心は全く如来の使にはあらず凡夫なる故なり、但し三類の大怨敵にあだまれて二度の流難に値へば如来の御使に似たり」(1181-17)
 ここに、法華経の行者ではなく「末代の法華経の聖人」とおおせられているのは、まさに末法における別しての法華経の行者が聖人、すなわち仏の境界にあることを示唆されているものと拝される。そして「日蓮が心は」以下の御文は、謙遜して、このように表現されたことは明らかであろう。
 したがって、本抄で「三業相応の行者」と「能持此経の行者」を立て分けられているのは、法華経最勝の義をもって諸宗を破折されることによって「猶多怨嫉・況滅度後」の金言のままに三類の強敵の大難を忍び、釈尊の言葉の真実なることを証明された法華経の行者が大聖人ただお一人であることを示されているのである。そして、末法の法華経の行者とはまさに御本仏の異名にほかならない。
 日寛上人が文底秘沈抄において「応に知るべし、大難を忍ぶことは偏に大慈大悲の故なり」と御教示されているように、大聖人が二度の王難をはじめ数々の大難を忍ばれたのは、ひとえに末法の一切衆生を救済しようとされる御本仏としての大慈大悲の御振る舞いであったのである。

0370:08~0371:11 第十段 大聖人の御事歴を示すtop
0370:08~0370:13 第一 諸宗の誤りを見抜かれた大聖人top
08   然るに日蓮は東海道・十五箇国の内.第十二に相当る安房の国長狭の郡・東条の郷.片海の海人が子なり、生年十
09 二同じき郷の内・清澄寺と申す山にまかり登り住しき、 遠国なるうへ寺とはなづけて候へども 修学の人なし然而
10 随分・諸国を修行して学問し候いしほどに 我が身は不肖なり人はおしへず 十宗の元起勝劣たやすくわきまへがた
11 きところに、 たまたま仏菩薩に祈請して一切の経論を勘て十宗に合せたるに 倶舎宗は浅近なれども一分は小乗経
12 に相当するに似たり、 成実宗は大小兼雑して謬ゴあり律宗は本は小乗・中比は権大乗・今は一向に大乗宗とおもへ
13 り又伝教大師の律宗あり別に習う事なり、
-----―
 ところが日蓮は東海道十五箇国のうち第十二番目に当たる安房国長狭郡東条郷の片海の海師の子である。十二歳の時に、同じ東条郷にある清澄寺という山に登って住した。しかし、安房は京都から遠く離れた所であるうえに、寺といっても学ぶべき人がいなかった。そこで、随分と諸国を巡って修学し学問を続けたが、自分は不肖の身であるし、しかも人は教えてくれず、十宗の起源やそれらの勝劣を容易にわきまえがたかった。
 そうしたところに、たまたま仏菩薩に祈請し、一切の経論を研究し、十宗の教義と照らし合わせてわかったことは、倶舎宗は浅近な教えであるが、その一分は小乗の経典に相当しているようである。成実宗は大乗の教えと小乗の教えを混合させてしまい、誤りがある。律宗は、もともとは小乗の教えであったが、次第に権大乗の教えとなり、今は皆が大乗の宗派だと思っている。このほかに伝教大師の習い伝えた律宗があるが、これはその律宗とは別である。

 この段では、大聖人御自身の事歴を述べられるとともに、当時日本に乱立していた10宗の誤りを自ら見破られた経緯を簡潔に述べられている。
 大聖人は東海道15ヵ国のうち12番目に数えられている安房の国・長狭郡東条郷の漁師の子として生まれられ、12歳の時から清澄寺に登られた仏法を修学されたのであるが、「遠国なるうへ寺とはなづけて候へども修学の人なし」の御文から、修学が進むにつれて起こってきた大聖人の疑問に対して明確に教えてくれる人はいなかったことがうかがえる。
 そのために大聖人は諸国遊学の旅にたたれた。妙法比丘尼御返事には「日本国に渡れる処の仏経並に菩薩の論と人師の釈を習い見候はばや、又倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗・法華天台宗と申す宗どもあまた有りときく上に、禅宗・浄土宗と申す宗も候なり、此等の宗宗・枝葉をばこまかに習はずとも所詮肝要を知る身とならばやと思いし故に、随分に・はしりまはり十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国国.寺寺あらあら習い回り候し」(1407-12)と具体的に記されている。
 このように、大聖人は求道の志を立てられて研学の道を歩まれたのである。しかも深山に閉じこもっての研究ではなく当時の日本における仏教界の現状をつぶさにご覧になりながらの修学であられた。
 大聖人が諸国遊学を決意された背景には当時の日本の宗教事情も深く関係していよう。報恩抄に「世間をみるに各各・我も我もといへども国主は但一人なり二人となれば国土おだやかならず家に二の主あれば其の家必ずやぶる一切経も又かくのごとくや有るらん何の経にても・をはせ一経こそ一切経の大王にてはをはすらめ、而るに十宗七宗まで各各・諍論して随はず国に七人・十人の大王ありて万民をだやかならじいかんがせんと疑うところに一の願を立つ」(0294-07)と仰せのように、10宗が雑乱しているなかにあって、大聖人は釈尊一代の経の中で大王の位置である経はどれなのかという疑念を解決されんがための修学であられたのである。
 しかし、より根本的には、法華経こそ釈尊の一代聖教のなかで最第一であるとの御確信は、早くから得ておられたのにあり、16年間に及ぶ修学は、その裏付けのためであったと拝される。
 このことは次の御文によって明白であろう。
 すなわち「日蓮は安房の国・東条の郷・清澄山の住人なり、幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く日本第一の智者となし給へと云云、虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給いて明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給いき、其のしるしにや日本国の八宗並びに禅宗・念仏宗等の大綱・粗伺ひ侍りぬ」(0888-09)との御文である。
 したがって本抄に「我が身は不肖なり人はおしへず 十宗の元起勝劣たやすくわきまへがたきところに、たまたま仏菩薩に祈請して一切の経論を勘て」と仰せられているのは、大聖人が幼少のころに清澄寺において虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給へ」との誓願を立てられたことを指していよう。
 次に10宗のなかで天台宗を除く9宗の破折をされている。初めに俱舎宗・成実宗・律宗の3宗を挙げられている。
①俱舎宗
 俱舎宗は世親の俱舎論30巻を所依とする宗派で、日本には三論宗の付宗として伝わり、学派として存在したのみで一宗派をなすには至らなかった。我空法有を説いて、四諦の理を観じて阿羅漢果を得ることを目的とした。その教義は、部派仏教のなかで一切の法を実在と説く説一切有部の教えから出ていることから「小乗教に相当するに似たり」と仰せになっているのである。
②成実宗
 成実宗は、訶梨跋摩の成実論16巻を所依とする宗で、やはり日本では一宗派を形成するには至らなかった。成実宗は、小乗教で説く我空法有から一歩進んで、我も法も共に空であるという人法二空を説いており、大乗の義を含んでいるといえるが、これは小乗教の学説を大乗の義に取り入れて解釈したものである故に、「大小兼雑」と仰せになられたと拝される。
③律宗
 律宗は、戒律を修行する宗派で、日本においては鑑真が将来したのが始まりとされている。天平勝宝5年(0753)に来日した鑑真は東大寺に戒壇を設け、以後、下野の薬師寺・筑紫の観世音に戒壇を建立し、これらをもって“天下の三戒壇”と称されていたが、いずれも南山律宗を源流とする小乗の戒壇である。
 しかしながら、三国仏法伝通縁起巻下には「初めて廬遮那殿の前に於て戒壇を立て、天皇、初めて登壇して菩薩戒を受け」と記されており、菩薩戒とは大乗戒であることから南都の戒壇が大乗の戒壇ではないかとの見方がある。
 この問題は、伝教大師が、弘仁9年(0818)5月から翌年3月にかけて六条式・八条式・四条式の三種からなる。いわゆる山家学生式を著し上奏し、大乗戒壇建立の勅許を請うたのに対して、南都の僧綱たちは反発し、これを拒否する表を朝廷に提出した時にも論議されたところである。
 伝教大師の顕戒論には僧綱が最澄に対して反駁した上奏文の一つとして、次のような文が挙げられている。
 「僧統奏して曰く、また大乗戒伝来すること久し。大唐の高徳、此土の名僧、相ひ尋ね伝授し、今に至りて絶えずと」
 つまり、日本は既に大乗戒が伝えられていると南都の僧が主張している文である。
 これに対して伝教大師は次のように反駁している。
 「論じて曰く、梵網の戒、先代より伝ふと雖も、この間の受うる人、末だ円意を解せず、所以に声聞の律儀を用ひて梵網の威儀に同ず」と、そして更に、天台宗で伝える戒は梵網の円戒であり、これまで日本に伝えられてきた戒は円の律儀ではない故に、同日に論ずることはできないとしている。
 梵網の戒とは、梵網戒に基づく十重禁戒・四十八軽戒の大乗戒をいう。この梵網戒が爾前の円教として位置づけられるのは、天台大師の五時八教の教判によってであり、したがって伝教大師が「天台の釈に非ざれば伝説すべきこと難し」と述べているように、梵網経の大乗戒が日本に伝えられたといっても別教の意においてであることは明らかである。
 鑑真の伝えた戒が小乗戒であることについては、日寛上人が撰時抄愚記で「鑑真既に道岸法師に随って菩薩戒を受くるが故に、時の宣しきに随ってこれを授くるならん。既に南山を祖と為す。故に四分小律を出ずべからず。設い菩薩戒を兼ぬと雖も、多くはこれ善戒経・瑜伽論等の意なり、尚梵網の大戒にも及ばず、況や法華の円戒に及ばんをや」と述べられている通りである。
 すなわち、鑑真は16歳で出家し、18歳で大乗戒である菩薩戒を道岸法師より受けており、それを日本において授戒したのである。しかし、鑑真の学んだ律は道宣律師が開祖とする南山律師で説くところの四分律の小乗戒であったとされているのである。この点について大聖人は下山御消息で次のように明確に仰せられている。
 「今日本国は最初に仏法渡りて候し比・大小雑行にて候しが人王四十五代聖武天皇の御宇に唐の揚州竜興寺の鑑真和尚と申せし人漢土より我が朝に法華経天台宗を渡し給いて有りしが円機未熟とやおぼしけん此の法門をば已心に収めて口にも出だし給はず、大唐の終南山の豊徳寺の道宣律師の小乗戒を日本国の三所に建立せり此れ偏に法華宗の流布すべき方便なり、大乗出現の後には肩を並べて行ぜよとにはあらず」(0344-17)
 また、先に日寛上人が「設い菩薩戒を兼ぬと雖も」と仰せられているように、鑑真の伝えた戒律は、広い意味では大小兼学といえる。つまり、戒には通受戒と別円戒の二種があり、大乗の三聚浄戒を総じて受けることを通受戒といい、そのうち摂律儀戒を別して受けることを別受戒という。
 この三聚浄戒とは、大乗の菩薩戒をいい、一切の戒を受持する摂律儀戒、一切の善法を修することを戒とする摂善法戒、一切衆生を饒益うることを戒とする摂衆生戒の三種のことである。
 三聚浄戒のうち、摂善法戒と摂衆生戒は大乗戒であり、摂律儀戒は大乗戒と小乗戒の両方を含んでいるが、南都の戒壇においては出家した者は、まず小乗の別受の具足戒を受け、後に三聚浄戒の大乗戒を通受したのである。したがって、大乗・小乗の戒を兼ねていたといえる。
 これに対して伝教大師の大乗戒は、三聚浄戒を総じて受けることを通受戒とし、大乗の別解説律義たる十重戒・四十八軽を別して受けることを別受戒として、通別ともに小乗戒を用いない純然たる大乗戒なのである。しかも、鑑真当時の大乗戒は、瑜伽論やまた瑜伽論の三聚浄戒を受けて成立した菩薩善戒経に説かれている大乗戒であり、出家・在家に通ずる大乗独自の菩薩戒を説いた梵網経の大乗戒には及ばない。
 故に日寛上人は、南都の大乗戒がまして法華経の円戒に及ぶわけがないと述べられているのである。これは、梵網経の大乗戒が円戒であるといえども、爾前の円教の分際であることから、相対妙の義においては勝劣を判じられたものである。
 大聖人は十法界明因果抄において次のように仰せられている。
 「梵網経等の権大乗の戒と法華経の戒とに多くの差別有り、一には彼の戒は二乗七逆の者を許さず二には戒の功徳に仏果を具せず三には彼は歴劫修行の戒なり是くの如き等の多くの失有り」(0437-12)
 なお、大聖人が本抄で「律宗は本は小乗・中比は権大乗」と仰せられているのは、律宗が本来、小乗教の戒律に基づいて立てられた宗派であるにもかかわらず、それを大乗戒であると強弁したことを指摘されたものと拝される。
 例えば、南山律師の道宣が、小乗の四分律を弘めたにもかかわらず、戒相は小乗であるが義は一分大乗に通じるという分通大乗説を唱えたのはその一例であり、また先に見たように南都の僧網が日本に既に大乗戒が伝わっていると主張したのもそうである。
 ところが、伝教大師が比叡山に大乗の円頓戒壇を建立した後は、この律宗の流れをくむ学僧らもすべて小乗の戒律を捨てて大乗戒を受持した。下山御消息には次のように仰せられている。
 「律宗なんど申す宗は一向小乗なり月氏には 正法一千年の前の五百年の小法又日本国にては像法の中比・法華経天台宗の流布すべき前に且らく機を調養せむがためなり、例せば日出でんとて明星前に立ち雨下らむとて雲先おこるが如し、日出雨下て後の星雲はなにかせん而るに今は時過ぬ又末法に入りて之を修行せば重病に軽薬を授け大石を小船に載するが如し修行せば身は苦く暇は入りて験なく華のみ開きて菓なからん、故に教大師・像法の末に出現して法華経の迹門の戒定慧の三が内・其の中・円頓の戒壇を叡山に建立し給いし時二百五十戒忽に捨て畢んぬ」(0346-17)
 南都律宗は、伝教大師が大乗戒壇を建立した以後は、密教や浄土宗の大乗に押されて急速に衰退していった。しかし、鎌倉期に入ってやや復興の兆しを見せ、とりわけ西大寺の叡尊は、密教全盛の時流れ巧みにとらえて真言密教の祈禱とともに、大乗経である梵網経を取り入れて、もっぱら菩薩戒の梵網経を授戒して民衆を欺いたのである。
 このことを大聖人は、同じく下山御消息で「一類の者等天台の才学を以て見れば我が律宗は幼弱なる故に漸漸に梵網経へうつり結句は法華経の大戒を我が小律に盗み入れて還つて円頓の行者を破戒無戒と咲へば」(0347-14)と指摘されている。
 こうした日本における律宗の歴史を踏まえられて、本抄で「今は一向に大乗宗とおもへり」と仰せられたものと拝される。
 また、最後に「伝教大師律宗あり」と述べられているが、これは小乗の律宗とは区別されて、伝教大師が小乗戒を破棄して大乗戒を建立したことを指していわれている。このことは、神国王御書でも「大乗の律宗」(1517-09)と呼ばれている。

0370:13~0371:03 第二 権大乗の教えに過ぎない諸宗の義top
13                     法相宗は源権大乗経の中の浅近の法門にてありけるが 次第に増長して
14 権実と並び結句は彼の宗宗を打ち破らんと存ぜり 譬えば日本国の将軍将門・純友等のごとし 下に居て上を破る、
15 三論宗も又権大乗の空の一分なり 此れも我は実大乗とおもへり、 華厳宗は又権大乗と云ひながら余宗にまされり
16 譬えば 摂政関白のごとし 然而法華経を敵となして立てる宗なる故に 臣下の身を以て大王に順ぜんとするがごと
17 し、 浄土宗と申すも権大乗の一分なれども 善導法然が・たばかりかしこくして諸経をば上げ観経をば下し正像の
18 機をば上げ末法の機をば下して末法の機に相叶える念仏を取り出して 機を以て経を打ち一代の聖教を失いて 念仏
0371
01 の一門を立てたり譬えば心かしこくして身は卑しき者が 身を上げて心はかなきものを敬いて 賢人をうしなふがご
02 とし、 禅宗と申すは一代聖教の外に 真実の法有りと云云譬えばをやを殺して子を用い主を殺せる所従のしかも其
03 の位につけるがごとし、
-----―
 法相宗は、初めは権大乗経のなかでも浅く低い法門であったが、次第に増長して、華厳・法華経等の権・実大乗教と肩を並べ、その結句にそれらの諸宗を打ち破ろうとしたのである。これを譬えると、日本の武将である平将門や藤原純友等のように下の身分の者が上の身分の者を破ろうとしたようなものである。三論宗もまた権大乗の空の一分を説いた教えであるが、これも自宗は実大乗だと思っている。華厳宗もまた権大乗の教えであるが、ほかの宗に勝っていることは、摂政・関白のようなものである。ところが、法華経を敵として立てた宗であるから、臣下の身分をもって大王に並ぼうとするようなものである。
 浄土宗というのも権大乗の一分であるけれども善導や法然が企みだますことに巧妙で、諸経を誉め上げ、観無量寿経等の三部経を下し、また正法や像法の衆生の機根を上げ、末法時代の衆生の機根を下すことによって、末法の衆生の機根に相応するのは念仏であるとして、機根を中心にして三部経以外の釈尊の一代聖教を排斥し、念仏の一門を立てたのである。これを譬えれば、心がずるがしこくて身分の卑しいものが、身分を持ち上げて、心の愚かなものを敬い、真の賢人を失ってしまうようなものである。禅宗というのは、釈尊一代聖教の外に真実の法があるといっている。これを譬えれば、親を殺して子を用い、主人を殺した所従が、その主人の位につくようなものである。

 前段の小乗三宗に続いて、大乗の法相宗・三論宗・華厳宗・浄土宗・禅宗の五宗を取り上げ破折されているところである。
④法相宗
 法相宗は、解深密教・瑜伽師地論・成唯識論などの六経十一論をよりどころとし、唐の玄奘が伝え、太宗皇帝の代に慈恩大師窺基が開いた宗派である。
 撰時抄には「此の宗の心は仏教は機に随うべし一乗の機のためには三乗方便・一乗真実なり所謂法華経等なり、三乗の機のためには三乗真実・一乗方便・所謂深密経・勝鬘経等此れなり」(0262-07)と、その教義を要約されているように、法相宗の慈恩は、三乗の機の人々にとっては仏が衆生の機根に応じて説いた声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗の教えが真実の教えであり、法華経は一乗の機の人々のために説かれた経であるから、三乗の人々にとっては方便に過ぎないと唱えたのである。そして、所依の経典である解深密教は権大乗の中でも方等部に属する低い教えであるにもかかわらず「法華経は一切経には勝れたれども深密には劣る」(0301-03)という教判を立てた。こうしたことから、大聖人は下剋上の反乱を起こした平将門や藤原純友に譬えて「下に居て上を破る」宗であると喝破されている。
 伝教大師は得一との法論を通じて法相宗を厳しく論破している。
⑤三論宗
 三論宗は、竜樹の中論・十二門論と提婆の百論の三つの論をよりどころとし「空」を基本教義として立てられた宗派である。五時教判では般若部の権大乗に入るのであるが、自らは実大乗と思い込んでいることを指摘されている。
 これは、中国の三論宗を大成させた嘉祥大師吉蔵が般若経の所依の経典と定めて、しかも法華経と般若経とは名は異なっても同じ一大乗蔵であると唱えたことを指しているものと思われる。
 この点については、開目抄でも次のように仰せられている。
 「三論の吉蔵等読んで云く『般若経と法華経とは名異体同・二経一法なり』三論の吉蔵等読んで云く『般若経と法華経とは名異体同・二経一法なり』」(0219-01)
 吉蔵は後に天台大師に破折されて100余人の弟子を捨て、7年にわたって天台大師に仕えたという。
⑥華厳宗
 華厳経は、釈尊の成道後、最初に説かれた経であるが、権大乗教の中では最も高度な法門である。
 中国で華厳宗を大成したのは賢首大師法蔵である。法蔵は、大聖人が顕謗法抄で「華厳宗には五教を立て一代ををさめ其の中には華厳・法華を最勝とし華厳・法華の中に華厳経を以て第一とす」(0454-01)と指摘されているように、五教の教判を立てて、華厳と法華を同じ一乗円教としたうえで、法華経は三乗を開会するための円融の一乗を三乗教に同じて説いた「同教一乗」であるのに対して、華厳経は直ちに円融の法門を開示している故に三乗教とは別の教えの「別教一乗」であるとして、華厳経の方が法華経に勝れているとしたのである。
 大聖人が本抄で「華厳宗は又権大乗と云ひながら余宗にまされり譬えば摂政関白のごとし」と仰せられているのは、華厳経が権大乗の中でも法華経を除くほかの大乗教に勝っており、法華経を天子に譬えれば、華厳経は摂政・関白にあたることを指摘されたものである。しかし、法蔵のように法華経を下して華厳経を第一に立てていることから、華厳宗が「法華経を敵となして立てる宗」であるとして、臣下の身でありながら大王に並ぼうとする者に譬えられているのである。
⑦浄土宗
 中国浄土宗の教義を作り上げたのは善導であり、日本浄土宗の開祖は法然である。本抄で「善導法然が・たばかりかしこくして」と仰せになっているのは、彼らが巧妙な理屈をつけて、浄土宗の依経である浄土三部経以外の諸経を斥けるということである。
 つまり、浄土部以外の諸経は高く深い教えであり、正法・像法時代の衆生の機根は優れていたことから三部経以外の高い教えを理解できて救われたが、末法の衆生は機根が劣っている故に、高い教えでは衆生が理解することができず救われないとして、末法の衆生は弥陀の名号を称えることによってのみ西方極楽浄土に往生できると説いたのである。
 これは衆生の機根を中心として立てた邪義であり、大聖人が撰時抄に「仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」(0256-01)と仰せのように、仏法を学ぶうえで最も根本とすべきは時であり、機根は“従”になるのである。故に大聖人は「機に随つて法を説くと申すは大なる僻見なり」(0267-08)と破折されている。
⑧禅宗
 禅宗は「教外別伝・不立文字」といって、仏法の真髄は文字に依らないで伝えられたと主張し、自ら座禅入定によって体得するものであるとした。これは、釈尊の説いた一代聖教を否定し排除するものであるから、本抄では「譬えばをやを殺して子を用い主を殺せる所従のしかも其の位につけるがごとし」と指摘されている。

0371:03~0371:09 第三 法華経を下す真言の誑惑top
03             真言宗と申すは一向に大妄語にて候が深く其の根源をかくして候へば 浅機の人あらはし
04 がたし一向に誑惑せられて数年を経て候先ず天竺に真言宗と申す宗なし 然れども有りと云云、 其の証拠を尋ぬ可
05 きなり所詮大日経ここにわたれり 法華経に引き向けて其の勝劣を見候処に 大日経は法華経より七重下劣の経なり
06 証拠彼の経.此の経に分明なり此に之を引かずしかるを或は云く法華経に三重の主君.或は二重の主君なりと云云以て
07 の外の大僻見なり、 譬えば劉聡が下劣の身として愍帝に馬の口をとらせ 超高が民の身として 横に帝位につきし
08 がごとし又彼の天竺の大慢婆羅門が釈尊を床として 坐せしがごとし漢土にも知る人なく 日本にもあやしめずして
09 すでに四百余年をおくれり。
-----―
 真言宗というのはまったくの偽りの教えであるが、深くその偽りの根源を隠しているので、考えの浅い人には、それを見破ることは難しく、皆がたぶらかされて年が過ぎてきた。そもそもインドには真言宗という宗派はなかったのであるが、それを有ったといっている。であれば、その証拠を問うべきである。
 ともかく、大日経がすでに日本に渡ってきているので、これを法華経と比較して勝劣を考えてみたところ、大日経は法華経より七重下劣っている経であり、その証拠は大日経と法華経を見比べると明らかでるが、ここではその文証を引かない。
 ところが、真言宗のある者は、大日経は法華経より三重の優れた主君であるとか、ある者は二重に優れた主君であるといっているが、これはもってのほかの大僻見である。こうした真言の邪義は譬えていえば、劉聡が卑しい身分でありながら愍帝に馬の轡を取らせ、秦の奸臣・超高が民の身でありながら付法に帝位に就いたようなものであり、またインドの大慢婆羅門が釈尊の像を高座の脚として、その上に坐ったようなものである。しかし、真言師の誑惑を中国にも知る人がなく、日本でも不審に思うものはなく、既に四百余年をすぎてしまったのである。

 最後に真言宗を挙げて破折される。
 真言宗の邪義については前に詳しく述べたが、大聖人がここで真言宗を「一向に大妄語」と喝破されているように、自宗の教義を正当化するために様々な誑惑を重ねており、しかもその誑惑が巧妙に極めているために仏法に無智な衆生はそれを見破ることができないのである。
 真言宗における大妄語を挙げると限りがないが、ここではその一例として、大聖人は、インドに真言宗が存在していなかったにもかかわらず、真言宗では存在したと主張していることを仰せられている。
 これは、大日如来に始まって、金剛薩埵・竜猛・竜智菩薩・金剛智三蔵・不空三蔵に伝授されたとする真言密教の相承がまやかしであることを指摘されたものであろう。
 この密教の相承について、大聖人は曾谷入道殿許御書に次のように記されている。
 「諸の真言師の云く「仏の滅後八百年に相当つて竜猛菩薩・月氏に出現して釈尊の顕経たる華厳・法華等を馬鳴菩薩等に相伝し大日の密経をば自ら南天の鉄塔を開拓し面り大日如来と金剛薩埵とに対して之を口決す、竜猛菩薩に二人の弟子有り提婆菩薩には釈迦の顕教を伝え竜智菩薩には大日の密教を授く竜智菩薩は阿羅苑に隠居して人に伝えず其の間に 提婆菩薩の伝うる所の顕教は先づ漢土に渡る其の後数年を経歴して竜智菩薩の伝うる所の秘密の教を善無畏・金剛智・不空・漢土に渡す」」(1028-18)
 空海の真言付法伝等にも、ほぼ同趣旨の内容が記されており、これを取り上げられたものと思われるが、大聖人はこれに対して、竜樹が顕教を提婆に伝え、密教を竜智に授けたという証文がどの経典にあるのかと反論され「此の大妄語は提婆の欺誑罪にも過ぎ瞿伽利の誑言にも超ゆ」(1029-07)と断じられている。
 実際、竜樹・金剛智三蔵は歴史的人物であるが、その間には数百年の隔たりがあり、その間をつなぐ竜智がいかに長寿であっても、史実にはほど遠い伝説というほかない。空海の真言付法伝には、金剛薩埵・竜樹・竜智はいずれも数百歳にして相伝したと記されていることからも、この真言密教の相承が単なる荒唐無稽の伝説に過ぎないことを示しているといえよう。
 次に、大聖人は法華経と大日経の勝劣に言及されて、大日経は法華経より七重に劣っており、そのことは真言の経、法華経に明文であると述べられている。これは、法華経を諸経のなかで第一とすると、大日経は第七に過ぎないことを意味している。
 文永7年(1270)御述作の真言七重勝劣事でも、諸経の勝劣について、法華経第一・涅槃経第二・無量義経第三・華厳経第四・般若経第五・蘇悉地経第六・大日経第七とされている。
 また、真言天台勝劣事では、その根拠となる文証を挙げられつつ、六点にわたって諸経の勝劣を明かされている。
 第一に、法華経法師品第十の「已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて、此の法華経、最も為れ難信難解なり」、安楽行品第十四の「諸経の中に於いて、最も其の上に在り」の二文から、法華経が一切経に勝ることは明らかである。
 第二に、無量義経説法品第二の「次に方等十二部経、摩訶般若、華厳海空を説いて」、十功徳品第三に「真実甚深、甚深甚深なり」とあるように、無量義経は諸経のなかに優れて甚深のなかにもなお甚深である。しかしそれでも法華の序分であって正説の法華には劣るのである。
 第三に、涅槃経如来性品第四には「是の経の世に出ずるは彼の果実の利益する所多く一切を安楽なさしむるが如く能く衆生をして仏性を見せしむ、法華の中の八千の声聞記莂を得授するが如く大果実を成じ秋収冬蔵して更に所作無きが如し」とあり、これを妙楽大師が法華玄義釈籤巻第一で「一家の義意謂く二部同味なれども然る尚涅槃劣る」と釈しているように、涅槃経も醍醐味で、華厳経より勝っているが法華の序分の無量義経より劣っている。
 第四に、華厳経は最初の頓説であるが故に般若に勝るが涅槃経には劣る。
 第五に、蘇悉地経巻中の成就具支法品第十七に「猶成ぜざらん者は或は復大般若経を転読すること七遍」とあるように、大般若経は華厳経には劣るが蘇悉地経には勝る。
 第六に、蘇悉地経巻上の請問品第一に「三部の中に於てこの経を王と為す」とあり、蘇悉地経は大般若経には劣るが、大日経・金剛頂経等には勝ることがわかる。
 このように大日経は法華経に七重に劣っているにもかかわらず、弘法は十住心の教判で大日経第一・華厳経第二・法華経第三とし、慈覚・智証の両大師は、大日経第一・法華経第二とたてたのである。このことを大聖人は本抄で「以ての外の大僻見なり」と弾訶されていたのである。
 そして、このように真言宗が大日経を上げて法華経を下していることを、劉聡が下劣の身でありながら、西晋の愍帝を捕らえて、出獄の時、馬の轡をとらせて先導役を務めさせたことや、超高が民の身でありながら皇帝を殺害して自らが帝位につこうとしたことに譬えられている。
 また、南インドの摩臘婆国の大慢婆羅門も同様の譬喩として引かれている。
 玄奘の大唐西域記巻十一にとると、大慢婆羅門は、内外の典籍もその幽微を極めたばかりでなく、暦法・天文にも通じていたという。そのため、先賢も後哲の自分にはわからないと豪語し、遂には赤栴檀をもって大自在天や釈尊等の像を四本の足とする椅子を作り、そこに坐るほどの増上慢を起こしたと記されている。
 しかし、西インドから来た賢愛論師と法論して論破されたために、国王より殺されることになった。そのころを哀れんだ賢愛論師が国王に許しを請うたことによって婆羅門は一命を救われたが、それを恥辱として怒りのあまり血を吐き、論師を罵り、大乗経を誹謗したところ、その言葉が終わらないうちに大地が裂け、生きながら地獄に堕ちたという。

0371:10~0371:11 第四 仏法の正邪が国の盛衰に関わるtop
10   是くの如く仏法の邪正乱れしかば王法も漸く尽きぬ結句は此の国・他国にやぶられて亡国となるべきなり、 此
11 の事日蓮独り勘え知れる故に 仏法のため王法のため諸経の要文を集めて 一巻の書を造る仍つて 故最明寺入道殿
12 に奉る立正安国論と名けき、 其の書にくはしく申したれども 愚人は知り難し、 所詮現証を引いて申すべし
-----―
 このように仏法の邪正が乱れたために王法も次第に滅びてしまい、遂には、この国は他国に破られて滅びてしまうであろうことを、日蓮はただ一人考え知っているがゆえに、仏法のため王法のため諸経の要文を集めて一巻の書を著して故最明寺入道殿に奉ったのである。立正安国論と名づけたのがそれである。その書に詳しく述べたけれども、愚人は理解しがたいので、所詮、現証を引いて述べることにしよう。

 立正安国論は文応元年(1260)7月16日、大聖人が39歳の時に、時の実質的な最高権力者であった北条時頼に提出された第一回の諌暁の書である。
 当時は、天変地夭や飢饉・疫病が相次ぎ、国中の民衆は塗炭の苦しみにあえいでいた。
 大聖人は立正安国論において、こうした災難の根源について「世皆正に背き人悉く悪に帰す」(0017-12)ところにあると断じられ、諸経の文を引いて、一国が謗法に堕し、しかも為政者もそのことに気づかず謗法を用いるところに種々の災難が起こることを明かされるとともに、このまま謗法を続けていくならば、経文に述べられている自界叛逆・他国侵逼の二難が起こるであろうと予言されている。
 立正安国論では、日寛上人が立正安国論愚記で「一往の辺は、但哀音の念仏に在り。これ亡国の洪基の故なり…故に一部の始終、専ら法然の謗法を破す」と述べられているように、当時、日本中に広まっていた法然の専修念仏を破折されているが、その元意は、念仏宗のみならず諸宗の破折にあったことは明白である。
 本抄において真言の破折を示された後に安国論に言及されているのは、その証左である。故に、日寛上人は「若し再往元意の辺は、広く諸宗に通ずるなり」と述べられて、その文証として、本文の御文とともに撰時抄の次の御文を挙げられている。
 「立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時宿谷の入道に向つて云く禅宗と念仏宗とを失い給うべし」(0287-09)
 また、中興入道消息には「去ぬる正嘉年中の大地震・文永元年の大長星の時・内外の智人・其の故をうらなひしかども・なにのゆへ・いかなる事の出来すべしと申す事をしらざりしに、日蓮・一切経蔵に入りて勘へたるに・真言・禅宗・念仏・律等の権小の人人をもつて法華経をかろしめ・たてまつる故に・梵天・帝釈の御とがめにて西なる国に仰せ付けて日本国をせむべしとかんがへて、故最明寺入道殿にまいらせ候いき」(1333-18)と仰せられている。
 したがって、大聖人は立正安国論において、もっぱら法然の邪法邪義を表にして破折されているのは、あくまで御化導の次第によるものである。
 最後に仏法と王法の関係について大聖人は本抄でも「仏法の邪正乱れしかば王法漸く尽きぬ」と、その基本的な考え方を仰せられている。この原理については神国王御書にも次のように仰せである。
 「仏法に付きて国も盛へ人の寿も長く・又仏法に付いて国もほろび・人の寿も短かかるべしとみへて候、譬へば水は能く船をたすけ・水は能く船をやぶる、五穀は人をやしない・人を損ず、小波小風は大船を損ずる事かたし・大波大風には小船をやぶれやすし、王法の曲るは小波・小風のごとし・大国と大人をば失いがたし、仏法の失あるは大風・大波の小船をやぶるがごとし国のやぶるる事疑いなし」(1521-04)
 このように、仏法の乱れが国の盛衰にかかわる根本であるとの原理のうえから、立正安国論で「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや」(0032-14)と、諸宗の執着を排して、直ちに正法に帰依するこそこそ、災いをなくし、平和世界を実現する基盤とされたのである。
 しかし、こうした大聖人の主張に、当時の権力者も民衆も耳を貸そうとしなかったばかりでなく、邪義を破折されて恨んだ念仏僧等に紛動されて、かえって大聖人をあだみ迫害を加えたのである。
 そこで、大聖人は本抄で「所詮現証を引いて申すべし」と仰せられ、次の段において承久の乱という歴史的事例をもって真言が亡国の邪法たる所以を明かされていくのである。

0371:12~0372:18 第11段 亡国の現証を挙げる
top
0371:12~0371:18 第一 承久の乱に敗れた三上皇が流罪にtop
10                                                   抑人
13 王八十二代・隠岐の法王と申す王有き 去ぬる承久三年太歳辛巳五月十五日伊賀太郎判官光末を打捕まします鎌倉の
14 義時をうち給はむとての門出なり、 やがて五畿七道の兵を召して 相州鎌倉の権の太夫義時を打ち給はんとし給う
15 ところに還りて義時にまけ給いぬ、 結句・我が身は隠岐の国にながされ太子二人は佐渡の国・阿波の国にながされ
16 給う公卿七人は忽に頚をはねられてき、 これはいかにとしてまけ給いけるぞ 国王の身として民の如くなる義時を
17 打ち給はんは 鷹の雉をとり猫の鼠を食むにてこそあるべけれ これは猫のねずみにくらはれ鷹の雉にとられたるや
18 うなり、
-----―
 さて八十二代の天皇に隠岐の法王という天皇がおられた。去る承久三年五月十五日に、伊賀太郎判官光末を打ちとられた。鎌倉の北条義時征伐に向けての門出であった。やがて五畿七道の兵士を集め、相模国鎌倉の権太夫・義時を討とうとされたが、逆に義時に敗れてしまわれた。その結果、自身は隠岐の国に流され、太子二人は佐渡の国と阿波の国へ流罪に処せられた。また公卿七人は即座に首をはねられてしまった。
 どうして朝廷側は負けてしまったのか。国王の身として民のような義時を討つのは、鷹が雉を捕り、猫の鼠を捕らえるようなものであるはずなのに、この戦いは猫が鼠に食われ鷹が雉に捕らえられたようなものである。

 真言亡国の現証として承久の乱の史実を挙げれているところである。
 初めに、乱の発端となった伊賀光季の誅殺から筆を起こされている。
 承久3年(1221)5月14日、後鳥羽上皇は、京都守護として派遣された伊賀光季と大江親近の二人に上皇軍に加わるように強制した。親広はこれに応じたが、光季は頑として拒んだため、翌15日、上皇は光季を攻めて誅殺するとともに、直ちに義時追討の院宣を五畿七道の諸国に下したのであった。
 しかしわずか1ヵ月後の6月15日には泰時・時房らの鎌倉軍が京都に攻め上り、瀬田・宇治の防衛線を突破して、一気に占領した。
 幕府は、後鳥羽上皇を隠岐、順徳天皇を佐渡、土御門上皇を土佐・阿波へと、それぞれ流罪に処したほか、首謀者である院の近臣・重臣を捕らえた。吾妻鏡や承久記の史料によると、乱の首謀者として捕らえられた公卿は、前権中納言藤原光親・同源有雅・同藤原宗行・参議藤原範茂・権大納言藤原忠信・参議藤原信能の六人である。
 なお、大聖人は「公卿七人」と仰せられ、また祈禱抄にも「殿上人七人誅殺せられ畢んぬ」(1354-03)とあるが、安房院日講の録内啓蒙によれば、残る一人は同じく誅殺されることになっていた大藍物源光行であり、また、中務省に属する官職である大藍物は、官位からいえば従五位下であり、公卿ではないが、一括して言われたものであるという。
 更に禄内啓蒙では、実際にこれら七人のうち斬殺されたのは五人で、藤原忠信は死刑を免れて越後に流され、源光行は嫡男の源民部大夫親行の嘆願により死罪を免れている。にもかかわらず本抄で「公卿七人は忽ちに頸をはねられてき」とおおせられたのは、一旦は死刑と定められたからであると解釈している。
 いずれにしても上皇の流罪、天皇の廃位は日本史上前代未聞の出来事であり、国主たる身でありながら、何故に民の義時に敗北せざるを得なかったかを次に究明されるのである。

0371:18~0372:04 第二 真言の調伏を用いた朝廷方top
18     しかのみならず調伏力を尽せり所謂天台の座主・慈円僧正・真言の長者・仁和寺の御室・園城寺の長吏・総
0372
01 じて七大寺・十五大寺・智慧戒行は日月の如く、秘法は弘法・慈覚等の三大師の心中の深密の大法・十五壇の秘法な
02 り、 五月十九日より六月の十四日にいたるまであせをながしなづきをくだきて行いき 最後には御室・紫宸殿にし
03 て日本国にわたりて いまだ三度までも行はぬ大法・六月八日始めて之を行う程に・同じき十四日に関東の兵軍・宇
04 治勢多をおしわたして洛陽に打ち入りて三院を生け取り奉りて九重に火を放ちて 一時に焼失す、
-----―
 そればかりでなく朝廷側は幕府調伏の祈禱に大変な力を入れたのである。祈禱をしたのは、いわゆる天台の座主・慈円僧正、真言の長者、仁和寺の御室、園城寺の長吏をはじめ、奈良の七大寺・十五大寺・高僧など、みな智慧と戒行とが日月のように備わった人々である。また用いた秘法は弘法・慈覚等の三大師が心中の深密の大法とした十五壇の秘法である。
 五月十九日より六月十四日に至るまで、汗を流し脳を砕いて祈禱を行った。最後には仁和寺の御室が紫宸殿において、日本に渡ってきた三度とは行われていない大法を六月八日始めて行ったところ、その月の十四日に関東の軍勢は宇治・勢多川を一気に渡って京都に打ち入り、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇を生け捕り、宮中に火を放って、一気に焼き払ってしまった。

 朝廷方が天台・真言の高僧に依頼し、最高の秘法をもって幕府方の調伏を行い秘術の限りを尽くしたにもかかわらず、その効験がなかったばかりか、かえって朝廷方は無残に敗北したことを指摘されている。
 後鳥羽上皇は、一方で武力蜂起するとともに、他方で延暦寺・仁和寺・園城寺・東寺などの天台・真言の高僧41人に命じ、15檀の秘法を修されたのである。秘法の内容、修した僧侶については祈禱抄につぶさに記されている。
 祈禱抄・神国王御書では、この15檀の秘法が始められたのは4月19日とされている。
 ところで、本段の冒頭の「抑人王八十二代・隠岐の法王」から始まって「安徳は西海に沈み明雲は義仲に殺される一門・皆一時にほろび畢ぬ」までの御文は、古くは録外御書巻六の真言宗行調伏秘法還著於本人事に収録されていたものである。
 そして、小川泰道が高祖遺文録を編纂した際、この真言宗行秘法事を祈禱抄の一部と見なした智英日明の新撰祖書目録を受けて、これらを結合するとともに、真言宗行秘法事の中に本抄の一部と重複しているところを削ったのである。
 本抄と重複しているということから祈禱抄に収録されなかった真言宗行秘法事の御文には、15檀の秘法はやはり4月19日より6月14日に至るまで修されたことになっている。
 また安国院日講の録内啓蒙の録内御書の最古の注釈書である日健の御書鈔には、本抄の御文として「四月十九日より」と引用されており、「異本」には「四月」とあったことがうかがえ、本抄の「五月」は誤りである可能性も否定できない。
 更に、日寛上人は、報恩抄文段で承久の乱の大旨を記されているが、ほぼ本抄の引用と思われる個所で「そのほか伴僧三百余人、四月十九日より六月十四日に至るまで汗を流し脳を砕き」と述べられている。
 そして、最後には日本では三度まで行じられたことのない大法が6月8日、仁和寺の御室によって紫宸殿で修されたという。この時の御室とは、後鳥羽上皇の第二子である道助法親王であり、行った修法は神国王御書によれば密教にける三箇の大法の一つとされた守護経である。
 なお、祈禱抄の守護経法の註には、「御室之を行はせらる我朝二度之を行う」(1353-17)と仰せられており、日寛上人の報恩抄文段には「御室紫宸殿にして日本国に渡っていまだ二度とも行ぜざる大秘法」と記されている。
 この日講の啓蒙、日健の御書鈔でも「二度まで行はざる大法」となっている。
 これに対して、本抄及び真言宗行秘法事には「三度までも行はぬ大法」と仰せられているが、おそらく文意としては承久の乱を含めて日本では二度行われたと解すべきであろう。
 神国王御書では「四十一人の高僧・十五壇の大法・此の法を行う事は日本に第二度なり」(1520-07)と述べられ、15檀の大法がそろって修せられたのは承久の乱で二度目のことであったとされている。

0372:04~0372:08 第三 幕府から厳しい処分top
04                                              三院をば三国へ
05 流罪し奉りぬ又公卿七人は忽に頚をきる、 しかのみならず御室の御所に押し入りて 最愛の弟子の小児勢多伽と申
06 せしをせめいだして終に頚をきりにき 御室思いに堪えずして死に給い畢んぬ母も死す童も死す、 すべて此のいの
07 りをたのみし人いく千万といふ事をしらず死にき たまたまいきたるもかひなし、 御室祈りを始め給いし六月八日
08 より同じき十四日までなかをかぞふれば七日に満じける日なり、
-----―
 そして三上皇を隠岐・阿波・佐渡の三国へ流罪に処し、また七人の公卿の頸を即座に斬った。それのみならず、御室の御所に押し入って、最愛の弟子であった勢多伽という童子を責め出し、ついにはその頸を切ってしまった。こうして勢多伽の母も勢多伽も死んでしまい、この祈禱を頼りにしていた人は幾千万と数知れないが、すべて死んでしまった。たまたま生き残った人々も、生き伸びた甲斐がないほどであった。御室が祈禱を始めた六月八日より、朝廷が敗れた同じ十四日までを数えると、七日間であった。

 後鳥羽・土御門・順徳の三上皇の流罪、公卿7人の処罰に加え、仁和寺御室の道助法親王の寵愛していた勢多伽も頸をはねられ、幕府の御家人でありながら朝廷側に付いた後藤基清・五条有範・佐々木広綱ら武士も多数斬首された。
 勢多伽丸はこの佐々木広綱の子で、当時わずか10歳の少年であった。出家して仁和寺に住み、門跡の道助法親王の寵愛を受けていたのである。
 乱後の処分を指揮していた北条泰時自身は、道助法親王や勢多伽丸の母の懇願に心を動かされ、勢多伽丸を斬る意志が揺らいだが、勢多伽丸の叔父であり、宇治川の戦いに先陣を切った佐々木信綱と広綱の仲が悪く、信綱が勢多伽丸の斬首を主張したので、勢多伽丸は信綱の預かりとなって、六条河原でついに頸をはねられたのであった。
 承久記には、その有り様を見て、上下涙を流さぬものはいなかったと記されている。
 勢多伽丸の母は、最愛の子を失った悲しみのあまり、愛児の後を追って桂川に身を投げたが死に切れず、出家して尼になり、11年後の貞永元年(1232)7月、清滝川に身を投じ死んだという。
 また、御室については、ほかの御抄にも「御室は紫宸殿にして六月八日より御調伏ありしに、七日と申せしに同じく十四日に・いくさに・まけ勢多迦が頚きられ御室をもひ死に死しぬ」(1152-10)と記されているように、勢多伽丸と同様に死んだとされているが、道助法親王は寛喜3年(1231)に仁和寺御室の地位を道深親王に譲ったのち、高野山に隠居し、建長元年(1249)に没している。おそらく大聖人御在世当時は、承久の乱の顚末として、そのように人々に伝承されていたのであろう。

0372:08~0372:15 第四 無力であった真言密教の祈禱top
08                              此の十五壇の法と申すは一字金輪・四天王・不動・
09 大威徳.転法輪・如意輪.愛染王・仏眼・六字.金剛童子・尊星王.太元守護経等の大法なり此の法の詮は国敵王敵とな
10 る者を降伏して命を召し取りて 其の魂を密厳浄土へつかはすと云う法なり、 其の行者の人人も又軽からず天台の
11 座主慈円・東寺・御室・三井の常住院の僧正等の四十一人並びに伴僧等・三百余人なり云云、法と云ひ行者と云ひ又
12 代も上代なりいかにとしてまけ給いけるぞ たとひかつ事こそなくとも 即時にまけおはりてかかるはぢにあひたり
13 ける事、 いかなるゆへといふ事を余人いまだしらず、 国主として民を討たん事鷹の鳥をとらんがごとしたとひま
14 け給うとも一年・二年・十年・二十年もささうべきぞかし 五月十五日におこりて六月十四日にまけ給いぬわづかに
15 三十余日なり、権の大夫殿は此の事を兼てしらねば祈祷もなしかまへもなし。
-----
 この十五壇の秘法というのは、一字金輪法・四天王法・不動明王法・大威徳法・転法輪法・如意輪法・愛染王法・仏眼法・六字法・金剛童子法・尊星王法・太元法・守護経法等の大法である。この秘法の目的は、国敵・王敵となる者を調伏して命を召し取り、その魂を大日如来の住する密厳浄土へ遣わすというものである。しかもこの秘法を行った人々はいずれもその地位が低くなく、天台座主の慈円・東寺・御室・三井の常住院の僧正などの四十一人、ならびに伴僧等三百余人である。
 その法といい、行者といい、また時代も天皇・上皇の権威が失われていない時代であったのに、どうして朝廷方は破れてしまったのか。たとえ勝まではいかなくても、あっけなく負けてしまい、このような恥辱に遭うとはいかなる理由によるのか、このことは日蓮以外の人々は誰も知らないのである。
 国主として臣下を討つことは鷹が小鳥を捕るようなものであり、たとえ負けるにしても一年・二年・十年・二十年と持ちこたえるところを、五月十五日に戦いが始まって六月十四日には負けてしまい、その間わずか三十余日である。権大夫義時はこのことを前もって知らなかったので、祈禱もせず、その準備もしなかったのである。

 ここでは、北条義時を調伏するために行った15檀の秘法について具体的にその名を挙げられている。
 当時の仏教界の最高峰と目された高僧を総動員してこれらの秘法が行われたにもかかわらず、あまりにもあっけなく朝廷側が鎌倉幕府の軍に敗れてしまった事実こそ真言密教による祈禱がいかに無力であったかを示しているといえよう。
 本抄では、15檀の秘法のうち13種を挙げられている。祈禱抄によると、後鳥羽上皇の宣旨によって41人の行者が15檀の秘法を行ったという。以下同抄に基づいて概略を記しておきたい。
 ①一字金剛法は、天台座主慈円僧正が、伴僧12人と共に、関白藤原道通の沙汰によって修した。ただし、この時、天台座主の地位にあったのは慈円ではなく、尊快が承久3年(1221)4月26日に任じられ、4ヵ月間、座主を務めており、慈円が承久の乱に祈禱を行ったという記録は残っていない。大聖人がいずれの史料に基づいて記されたかは不明である。
 ②四天王法は、成興寺の宮僧正が、伴僧8人と共に、広瀬殿で修明門院の沙汰によって修した。成興寺の宮僧正とは、第67代天台座主真正のこと、成興寺は九条の北、烏丸の西に在った天台宗の寺である。
 ③不動明王法は、真言宗の東寺の長者であり、東大寺の別当でもあった成宝僧正が、伴僧8人と共に花山院禅門の沙汰によって修した。
 ④大威徳法は、真言宗の密経僧で東寺長者、東大寺の別当ともなった観厳僧正が、伴僧8人と共に七条院の沙汰によって修法した。
 ⑤転輪聖王法は、醍醐寺の座主、東寺長者の成賢僧正が、伴僧8人と共に、七条院の沙汰によって修法した。
 ⑥十壇大威徳法は、園城寺の長吏・覚朝ら10人の高僧がそれぞれ伴僧6人を連れて修法した。
 ⑦如意輪法は、妙高院僧正が伴僧8人を従えて、宣秋院の沙汰によって修法した。
 ⑧毘沙門法は、三井の常住院僧正が伴僧6人と、資賃の沙汰によって修法した、この法は、毘沙門天を本尊として戦勝を祈願する修法として知られている。三井の常住院僧正とは良尊のことで、後の三井寺の長吏になった高僧である。
 ⑨如法愛染王法とは、仁和寺御室の行法で、5月3日より始めて27日の間、紫宸殿おいて修された。この行法は、愛染王法を発展させたもので、如法とは如意宝珠法によって修する意味で、懸曼荼羅ではなく敷曼荼羅を用いて行う。 
 ⑩仏眼法は、大政僧正が3週間の間修し、⑪六字法は台密の功徳流の祖である快雅が修した。
 ⑫愛染王法は。観厳僧正が7日間にわたって修し、⑬不動法は、勧修寺の僧正が僧綱の位にある伴僧8人と修法した。
 ⑭大威徳法、⑮金剛童子法は、安芸の僧正によって行われた。
 以上が祈禱抄で挙げられた15檀の秘法であるが、更に、鎌倉の軍勢が攻め上あってくることが5月21日に京に伝わると、残りの法として6月8日より行われたのが尊星王法・太元帥法・五壇法・守護経法等である。
 承久の乱は、このように上皇方が大掛かりな密教の祈禱をもって幕府調伏を期したにもかかわらず、わずか1ヵ月で、あまりにも簡単に敗れてしまったことは、密教の祈禱がいかに有害であったかを如実に示しているといわざるを得ないであろう。

0372:16~0372:18 第五 真言の邪法こそ亡国の因top
16   然而日蓮小智を以て勘えたるに其の故あり 所謂彼の真言の邪法の故なり僻事は一人なれども万国のわづらひな
17 り一人として行ずとも一国二国やぶれぬべし 況や三百余人をや国主とともに 法華経の大怨敵となりぬいかでかほ
18 ろびざらん、
-----―
 しかしながら、日蓮が少々の智恵をもって考えてみると、朝廷側が敗れたのには理由がある。いわゆる真言の邪法に依るのである。
 道理に合わない誤ったことは、たとえ一人が行ったとしても万国の災いとなり、ただ一人行じたとしても、一国や二国は滅びるのである。まして三百人あまりの僧が国主とともに、法華経の大怨敵となってしまったのだから、どうして国が滅びないことがあろうか。

 ここより、真言師による密教の祈禱こそ亡国の因であることが明かされていく。
 すなわち、承久の乱において朝廷方が、一国の国主であるにもかかわらず、臣下である鎌倉幕府と争って、何故に大敗を喫したかについて、真言の邪法によって祈禱したところに原因があると断じられている。誤った法によっていくら祈禱を重ねようとも、その祈るがかなうことは絶対にないのであり、それどころか、かえって自らが滅びる因となってしまうことを示されている。
 そして更に、たとえ一人であっても邪法を行じれば万国の災難を招き、また、たった一人でも謗法の悪行を行じれば一国・二国がほろびるのであるから、まして、承久の乱では、国主の命により300余人の高僧たちによって大々的に密教の修法が行われたのであるから、滅びない訳がないと仰せられている。
 これは、大聖人が、民に負けるはずのない国主が敗れ、秘法の限りを尽くした朝廷側が何もしなかった幕府側に大敗したという事実を取り上げて、真言の邪法が亡国の悪法である現証であると指摘されたものである。そして、このことを見抜かれたのは大聖人ただお一人であることを秋元御書にも「世間の人人・此の根源を知る事なし此れ偏に法華経・大日経の勝劣に迷える故なり」(1076-13)と述べられている。
 そして、大聖人は、その原理に照らして、今度は鎌倉幕府が同じ轍を踏もうとしていることを憂えられ新たな亡国の危機に警告されているのである。それが「かかる大悪法としをこへて」以下の御文である。

0372:18~0373:10 第12段 蒙古調伏を諌めるtop
0372:18~0373:04 第一 関東にも教勢を広げた真言宗top
18        かかる大悪法としをへてやうやく関東におち下りて諸堂の別当供僧となり 連連と行えり本より辺域
0373
01 の武士なれば 教法の邪正をば知らずただ三宝をばあがむべき事とばかり思ふゆへに 自然としてこれを用いきたり
02 てやうやく年数を経る程に今他国のせめをかうふりて 此の国すでにほろびなんとす、 関東八箇国のみならず叡山
03 ・東寺・園城・七寺等の座主・別当・皆関東の御はからひとなりぬるゆへに隠岐の法皇のごとく大悪法の檀那と成定
04 まり給いぬるなり、
-----―
 このような大悪法が、年月を経て次第に関東に下つて、真言の僧が諸堂の別当や供僧となって、次々と邪法を行じているのである。関東の武士はもともと辺域の武士であるから、教法の邪正をも知らず、ただ三宝を崇めるべきだと思って自然に真言を用いるようになった。
 こうして年月を経て、今や他国から攻められて、この国はすでに滅びようとしているのである。関東八箇国のみならず、比叡山・東寺・園城寺・七寺等の座主・別当も皆、関東の鎌倉幕府の用いるところとなったので、北条家もかっての隠岐の法皇のように大悪法の檀那となってしまったのである。

 ここでは、真言が亡国の悪法であることが承久の乱において明白であるにもかかわらず、そのことを知らない関東の武士たちは、この乱をきっかけに実権が完全に鎌倉幕府に移ったことから次第に関東に下って勢力を伸ばそうとした真言師にたぶらかされて、大悪法の檀那となってしまったことを指摘されている。
 妙法尼御前御返事には、真言師が鎌倉に下っていったことを次のように記されている。
 「代東にうつりて 年をふるままに彼の国主を失いし、真言宗等の人人鎌倉に下り相州の足下にくぐり入りて・やうやうにたばかる故に・本は上﨟なればとて・すかされて鎌倉の諸堂の別当となせり」(1411-14)
 また撰時抄にも「今はかまくらの世さかんなるゆへに東寺・天台・園城・七寺の真言師等と並びに自立をわすれたる法華宗の謗法の人人・関東にをちくだりて頭をかたぶけひざをかがめやうやうに武士の心をとりて、諸寺・諸山の別当となり長吏となりて王位を失いし悪法をとりいだして国土安穏といのれば」(0283-02)と仰せられている。
 各局、仏法に対する無知のために、幕府は真言の悪法を受け入れ、再び亡国の危機を招いているのである。しかも、承久の乱は内戦であったから、朝廷方は敗れたが鎌倉方が勝利して残った。ところが、今度は蒙古という外国によって日本が攻められるのであり、そこで亡国の悪法で祈れば日本そのものの滅亡を招く恐れがある。
 このことを大聖人は何よりも心配されたのであり、故に本抄にも「今他国のせめをかいふりて此の国すでにほろびなんとす」と仰せられているのである。

0373:04~0373:10 第二 真言の祈禱を用いて滅びた平家top
04          国主となる事は大小皆・梵王・帝釈・日月・四天の御計いなり、法華経の怨敵となり定まり給は
05 ば忽に治罰すべきよしを誓い給へり、 随つて人王八十一代・安徳天皇に太政入道の一門 与力して兵衛佐頼朝を調
06 伏せんがために、 叡山を氏寺と定め山王を氏神とたのみしかども 安徳は西海に沈み明雲は義仲に殺さる一門・皆
07 一時にほろび畢んぬ、第二度なり今度は第三度にあたるなり。
-----―
 国主となることは、国の大小にかかわらず、皆梵王・帝釈・日月・四天王の御計らいによるものである。これらの諸天は、国主が法華経の怨敵となってしまった時には、直ちに罰を加えると誓っている。したがって、第八十一代の安徳天皇を平清盛の一門が奉じ、兵衛佐源頼朝を調伏するために比叡山を氏寺とし、日吉神社を氏神として信仰し、その力をたのみにしたけれども、安徳天皇は西海に沈み、明雲は木曾義仲に殺され、平家の一門は皆一時に滅びてしまった。このように真言の邪法によって身を滅ぼした承久の乱は二度目の例であり、今度はその三度目に当たる。
-----―
08   日蓮がいさめを御用いなくて真言の悪法を以て大蒙古を調伏せられば 日本国還つて調伏せられなむ還著於本人
09 と説けりと申すなり、 然らば則ち罰を以て利生を思うに 法華経にすぎたる仏になる大道はなかるべきなり現世の
10 祈祷は兵衛佐殿・法華経を読誦する現証なり。
-----―
 日蓮の諌めを用いず、真言の悪法をもって大蒙古を調伏しようとすれば、かえって日本国が調伏されてしまうであろう。法華経観世音菩薩普門品第二十五に「還著於本人」と説かれているのがそれである。そこから、真言の邪法による罰の現証をもって利生について考えてみると、成仏する大道は法華経に勝るものはない。現世の祈禱の証拠としては、兵衛佐殿が法華経を読誦して得た利益が、その現証である。

 国主が法華経に背いた時は、必ず諸天の治罰を受けて滅びることを更に平家一門の先例を挙げて指摘され、重ねて真言の祈禱による蒙古の調伏が国を滅ぼすことを警告されている。
 平家が密教化した比叡山延暦寺を氏寺と定めて、源氏調伏を祈らせたことについては諸御書に述べられているが、四条金吾殿御返事には「源氏の頼朝と平家の清盛との合戦の起りし時・清盛が一類・二十余人・起請をかき連判をして願を立てて平家の氏寺と叡山をたのむべし三千人は父母のごとし・山のなげきは我等がなげき・山の悦びは我等がよろこびと申して、近江の国・二十四郡を一向によせて候しかば」(1152-01)とより詳細に記されている。
 東寺の延暦寺は、全国に所領荘園を有し、常に数千の僧兵がたむろしており、その勇猛ぶりは有名であった。それ故に平家でもこの叡山の勢力に対しては、懐柔策をとった。清盛が仁安3年(1168)に出家した際、天台座主の明雲を師僧としたのもそのあらわれであろう。
 ただし、平家物語の伝えるところによれば、平家の一門が公卿10人の連署をもって「平氏は、比叡山延暦寺を平氏の氏寺とし、日吉の社を氏神とする」との起請文を延暦寺と日吉山王社に捧げたのは、源義仲が安宅・篠原等の戦いで平家軍を破竹の勢いで打ち破り、いよいよ京都に侵攻しつつあった寿永2年(1183)7月のことで、しかも、この時既に、義仲が先に山門に牒状を送り、これに対して山門の大衆は評議の結果、源氏に味方することを決めたばかりであったという。
 ところで、大聖人は神国王御書にも「安徳天皇の御宇には明雲の座主・御師となり・太上入道並びに一門怠状を捧げて云く『彼の興福寺を以て藤氏の氏寺と為し春日の社を以て藤氏の氏神と為すが如く、延暦寺を以て平氏の氏寺と号し日吉の社を以て平氏の氏神と号す』云云、 叡山には明雲座主を始めとして三千人の大衆・五壇の大法を行い、大臣以下は家家に尊勝陀羅尼・不動明王を供養し・諸寺・諸山には奉幣し大法秘法を尽くさずという事なし」(1519-18)と述べられており、平家物語等の記述との食い違いが見られる。
 大聖人の御書では、第一に平家が山門の牒状を送ったのが平清盛存命中であったこと、第二には清盛以下20余人が連判したこと、第三には山門が願書を受け取って一山を挙げて平家の勝利を祈ったこと、となっている。
 これらの点から、今成元昭氏は平家物語流行伝考で、大聖人の山門連署に関する知識が平家物語から得られたものでないことは明らかであるとしつつ、当時の平家の置かれた状況より考えて、叡山の勢力を唯一の頼みとして味方にしようとする平家の願書が一再ならず山門に届けられた可能性は十分にあり、決して大聖人が史実を改変したものではないと指摘している。
 また明雲座主の最期についても、平家物語では、後白河法皇と決裂した義仲が寿永2年(1183)9月19日、法王御所の法住寺伝を焼き討ちした際に、三井寺の長吏・円慶法親王と共に馬に乗って御所から逃げ出そうとしたが、馬から射落とされ、頸を取られたとある。
 一方、この明雲座主の最後に言及されている御書も少なくないが、やや詳しく記されているのは八風抄であろうかと思われる。そこで、次のように記されてる。
 「大衆と座主と一同に内には真言の大法をつくし・外には悪僧どもを・もつて源氏をいさせしかども義仲が郎等ひぐちと申せしをのこ義仲とただ五六人計り叡山中堂にはせのぼり調伏の壇の上にありしを引き出して・なわをつけ西ざかを大石をまろばすやうに引き下して頚をうち切りたりき」(1152-04)
 この記述も、今成氏の指摘するように、大聖人が平家物語とは別系統の史料に基づいて源平の戦いを綴られていたことの証左といえるかも知れないが、滝泉寺申状には「叡山の明雲は流矢に当り」(0851-09)と記されており、明雲の最後に関して既に諸説が存在していたことがうかがえる。
 なお滝泉寺申状は、後半は日興上人が書かれたものであるが、引用の御文は、念のため御真筆によって確認したところ、大聖人が執筆された個所に当たっている。
 また明雲の最後については愚管抄等の現存する史料にも記されており、細部の違いはあるにせよ、義仲の軍に攻められて非業の死を遂げたとしている点では共通している。
 大聖人は、慈覚大師事において、この明雲座主が安元3年(1177)5月に延暦寺衆徒の蜂起に関連してその罪を問われて伊豆に流罪となった義仲に討たれたことをもって「此の人生けると死ぬと二度大難に値えり、 生の難は仏法の定例・聖賢の御繁盛の花なり死の後の恥辱は悪人・愚人・誹謗正法の人招くわざわいなり」(1020-03)と厳しく弾劾されている。また頼基陳状では、頭作七分の現証として挙げられている。
 ともあれ、平家方は祈禱のかいなくして次々と戦いに敗れ、寿永2年(1183)7月、源義仲が入京するや、安徳天皇を擁して西走し、兵力を集めて源氏に立ち向かったものの、次々と敗れ、寿永4年(1185)3月24日、ついには下関の壇ノ浦の合戦で敗れ滅亡した。
 安徳天皇は平家の一門と共に入水し8歳の生涯を閉じた。平宗盛・清宗父子は、海中に身を投じたが、義経の家人によって引き揚げられ捕虜となり、後に鎌倉に送られ、京都に帰る途中で斬首された。

0373:11~0373;16 第13段 有縁の人々への報恩を述べるtop
0373:11~0373;16 第一 大聖人を守った浄顕房・義城房top
11   此の道理を存ぜる事は父母と師匠との御恩なれば父母はすでに過去し給い畢んぬ、 故道善御房は師匠にておは
12 しまししかども法華経の故に 地頭におそれ給いて心中には不便とおぼしつらめども 外にはかたきのやうににくみ
13 給いぬ、 後にはすこし信じ給いたるやうにきこへしかども 臨終にはいかにやおはしけむおぼつかなし地獄までは
14 よもおはせじ又生死をはなるる事はあるべしともおぼへず 中有にやただよひましますらむとなげかし、 貴辺は地
15 頭のいかりし時・義城房とともに 清澄寺を出でておはせし人なれば 何となくともこれを法華経の御奉公とおぼし
16 めして生死をはなれさせ給うべし。
-----―
 この道理を知ることができたのは、父母と師匠との御恩であるが、父母はすでに死んでしまわれた。
 故道善御房は師匠であったけれども、法華経故の地頭・東条景信に恐れをいだいて、大聖人のことを心中では気にかけておられたようだが、表面上はかたきのように憎んでいた。後に法華経を少し信じられたように聞いたけれども、臨終の時はどうであったろうか心配である。よもや地獄に堕ちたと思えないが、かといって生死の苦しみから離れたとも思われず、中有に漂っておられるかと思うと気の毒に思う。
 あなたは東条景信が襲ってきた時、義城房と共に、私を案内して清澄寺から逃がしてくれた人であるから、何か特別なことをしなくてもこれを法華経の御奉公だと確信して生死の苦しみから逃れるようにしなさい。

 冒頭に仰せの「此の道理」とは、前段で仰せの、真言の教えが亡国をもたらす悪法であり、法華経こそ成仏の大道であることを指していよう。
 しかし、その元意は末法において立てるべき御本尊を大聖人のみが御存知であることを仰せられたものと拝される。次の最後の段において、大聖人の顕される御本尊が正像末顕であることに言及される意味もそこにある。
 大聖人がここで父母と師匠の恩であると言われているのは、ひとえに御自身をはぐくんでくれた両親と学問の手ほどきをしてくれた師がいたればこそ、このように仏法を覚えることができた、とその深い報恩感謝の一念をあらわされているのである。
 父母の恩について四恩抄には「今生の父母は我を生みて法華経を信ずる身となせり、梵天・帝釈・四大天王転輪聖王の家に生まれて三界・四天をゆづられて人天・四衆に恭敬せられんよりも 恩重きは今の某が父母なるか」(0937-15)と仰せられている。
 また「仏教を信ずれば先づ此の父と母との恩を報ずべし、父の恩の高き事・須弥山猶ひきし・母の恩の深き事大海還つて浅し」(1527-13)とも仰せられている。
 しかし仏法の孝養間は儒教のそれとは根本的に違うことに注意しなければならない。この点については、次のように指摘されている。
 「外典三千余巻は他事なし・ただ父母の孝養ばかりなり、しかれども現世をやしなひて後生をたすけず、父母の恩のおもき事は大海のごとし・現世をやしなひ後生をたすけざれば・一渧のごとし」(1563-07)
 つまり、外典でも孝養の大切さが説かれているが、その教えは父母の現世を養うに過ぎないのであって、後生を助けるものではない。そして、その次下の御文では、釈尊も成仏の法たる法華経を説いたことによって真実の孝養をなしたと述べられ、成仏に導くことこそ本当の孝養であり、報恩になることを御教示されている。
 大聖人の御父は正嘉2年(1258)御母は文永4年(1276)に逝去されたが、共に立教開宗直後に正法に帰依されており、大聖人は御両親を成仏へ導いて、真実の孝養を果たされたのである。
 それだけに、心の中では少しは法華経を信じていたようであったが、最後まで念仏を捨て切れなかった師・道善房の後生を思い、道善房のことに言及されたものと拝される。しかし、この道善房に対しても「日蓮・法華経の行者となつて善悪につけて日蓮房・日蓮房とうたはるる此の御恩さながら故師匠道善房の故にあらずや、日蓮は草木の如く師匠は大地の如し、彼の地涌の菩薩の上首四人にてまします、一名上行乃至四名安立行菩薩云云、 末法には上行・出世し給はば安立行菩薩も出現せさせ給うべきか、さればいねは華果成就すれども必ず米の精・大地にをさまる、故にひつぢおひいでて二度華果成就するなり、日蓮が法華経を弘むる功徳は必ず道善房の身に帰すべしあらたうとたうと、よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり」(0900-03)と述べられている。
 また、本抄を与えられた浄顕房に対して、義浄房と共に、立教開宗の直後、東条景信が大聖人を亡き者にしようとした時、大聖人を守ったことをもって「法華経の御奉公」と思うよう仰せられ、兄弟子への報恩の真心を述べられている。

0373:17~0374:06 第14段 未曾有の本尊の末法弘通を明かすtop
0373:17~0374:06 第一 大聖人こそ上行菩薩の再誕top
17   此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず、 漢
18 土の天台 日本の伝教ほぼしろしめしていささかひろめさせ給はず 当時こそひろまらせ給うべき時にあたりて候へ
0374
01 経には上行・無辺行等こそ出でてひろめさせ給うべしと見へて候へども いまだ見へさせ給はず、 日蓮は其の人に
02 候はねどもほぼこころえて候へば 地涌の菩薩の出でさせ給うまでの口ずさみに あらあら申して況滅度後のほこさ
03 きに当り候なり、 願わくは此の功徳を以て父母と師匠と一切衆生に回向し奉らんと祈請仕り候、 其の旨をしらせ
04 まいらせむがために御不審を書きおくりまいらせ候に 他事をすてて此の御本尊の御前にして 一向に後世をもいの
05 らせ給い候へ、又これより申さんと存じ候、いかにも御房たちはからい申させ給へ。
06                                     日蓮花押。
-----―
 この御本損は、釈尊が法華経の中に説き置かれて後二千二百三十余年の間、一閻浮提の内にいまだ弘めた人はいない。中国の天台大師や日本の伝教大師はほぼ知っていたけれども、少しも弘めることはなかった。末法の今こそ弘まる時にあたっている。法華経には上行菩薩・無辺行菩薩等の地涌の菩薩が出現して弘めると説かれているが、いまだに現われてはおられない。
 日蓮はその人ではないが、ほぼ心得たので地涌の菩薩が出現されるまでの間、思い浮かぶままにあらあらの所を説いて、法華経法師品第十の「況滅度後」の大難に遭ったのである。願わくはこの功徳をもって、父母と師匠と一切衆生に回向しようと祈っているのである。以上のことをお知らせしたいと思い、あなたの不審について書き送るのであるから、これからは、他事を捨ててこの御本尊の御前でひたすら後世を祈っていきなさい。また後に改めて申しあげようと思っていますが、他の方々にもあなた達からよろしくお伝えください。
                                     日蓮花押。

 本抄の結論にあたるこの段では、大聖人の顕される御本尊が正像末顕の未曾有の本尊であることを示されるとともに、法華経の会座において釈尊より上行菩薩に付嘱された本尊を今大聖人が顕し弘めておられることを示唆されている。
 まず「漢土の天台日本の伝教がほぼしろしめしていささかひろめさせ給わず」との仰せは、像法時代の正師たる天台大師・伝教大師の二人が、法華経本門寿量品の文底に秘沈された末法弘通の法体を心の中では知っていたが弘めることはできなかったとの仰せである。
 その理由については、諸御抄に明かされているが、諸法実相抄には「天台・妙楽・伝教等は心には知り給へども言に出し給ふまではなし・胸の中にしてくらし給へり、 其れも道理なり、付嘱なきが故に・時のいまだ・いたらざる故に・仏の久遠の弟子にあらざる故に」(1358-07)と述べられている。
 そして、その次下に「地涌の菩薩の中の上首唱導・上行・無辺行等の菩薩より外は、末法の始の五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし」(1358-09)と仰せられているように、釈尊より久遠の弟子として付嘱を受けた上行菩薩こそ末法において御本尊を顕されるお方なのである。
 本抄で「当時こそひろませ給うべき時にあたりて候」と、その時がきていることを示され、「経には上行・無辺行等こそ出でひろめさせ給うべしと見えて候へ」と仰せられているのも、まったく諸法実相抄と同趣旨であろう。
 しかしながら、上行等の四菩薩が「いまだ見へさせ給はず」「日蓮は其の人に候はねどもほぼこころえて候へば」と言われているのは、御謙遜の表現である。
 現実に、経文に説かれている況滅度後の大難にあって法華経を弘めている行者は大聖人以外にないことは明らかであり、そのことは、大聖人こそ上行菩薩の再誕である厳然たる証拠である。しかも一切衆生の拝すべき御本尊を御図顕されていることは、末法の御本仏であられるということにほかならないのである。