top ホームページtopへ
撰時抄講義0256~0292
序講
第一 本抄の御述作
第二 本抄の大意
第三 本抄の元意
0256:01~0256:05 第一章 時の要なるを標す
0256:05~0257:13 第二章 仏法は時によるを明かす
0256:14~0257:16 第三章 機教相違の難を会す
0256:14~0258:18 第四章 正像末に約して滅後の弘教を明かす
0258:18~0259:14 第五章 経文を引いて証す
0259:15~0260:12 第六章 釈の文を引いて証す
0260:13~0261:02 第七章 正法の初めの五百年の弘教
0261:02~0261:08 第八章 正法の後の五百年の弘教
0261:08~0262:04 第九章 像法の初めの五百年の弘教
0262:04~0263:02 第十章 像法の後の五百年の弘教
0263:03~0263:11 第11章 日本に六宗の伝来
0263:11~0264:13 第12章 天台宗の弘通
0264:14~0265:08 第13章 妙法流布の必然を明かす
0265:08~0266:14 第14章 能弘の師徳を顕わす
0266:15~0267:08 第15章 総じて問答料簡す
0267:09~0269:12 第16章 竜樹菩薩の弘通
0269:13~0271:01 第17章 天台大師の弘通
0271:02~0272:18 第18章 伝教大師の弘通
0273:01~0273:17 第19章 末法について料簡す
0273:18~0274:17 第20章 浄土宗を破す
0274:17~0275:04 第21章 禅宗を破す
0275:04~0276:18 第22章 真言の善無畏を破す
0276:18~0278:10 第23章 真言の弘法を破す
0278:11~0279:12 第24章 聖覚房を破す
0279:12~0280:05 第25章 慈覚を破す
0280:06~0281:15 第26章 慈覚の本師違背の失
0281:16~0283:06 第27章 問答帰釈して慈覚を破する
0283:06~0284:09 第28章 閻浮第一の法華経の行者
0284:10~0285:05 第29章 閻浮第一の智人
0285:06~0286:17 第30章 智人たるの証文
0286:18~0287:07 第31章 閻浮第一の聖人
0287:08~0288:07 第32章 聖人たるを広く釈す
0288:08~0289:07 第33章 日本第一の大人
0289:08~0290:14 第34章 外難を遮す
0290:15~0291:11 第35章 現証の文を引く
0291:12~0292:17 第36章 御身の符合を明かす
2010:4:6:7:8月号 大白蓮華より。先生の講義
第一回
第二回
第三回
第四回
序講top
「撰時抄」の講義にあたり、まずその序講として、
第一に本抄の御述作の由来を明かし、
第二に本抄の大意を論じ、
第三に本抄の元意について論ずることにする。
第一 本抄の御述作top
本章は建治元年(1275)、聖寿54歳の時の御述作である。そのことは本抄に「第三には去年文永十一年四月八日左衛門尉に語つて云く、王地に生れたれば」(0287-14)と記されて、文永11年(1274)のことを去年と仰せられているので、御執筆の当年は文永12年(1275)であることが明白である。そして文永12年は4月に改元されて建治となったのである。
文永11年(1274)5月には日蓮大聖人は身延山へ入られるので、本抄は身延山において、御入山の翌年に御執筆されたことになる。
1御真筆の所在
本抄の御正筆は、玉沢の妙法華寺に、全体が五軸として保存されており、若干の欠紙もあるが、ほとんど完全に近いものである。
玉沢の妙法華寺は、日昭の系統である。日昭は鎌倉の浜戸にいて、ここが日昭門流の本拠であったが、後に兵乱の災などにより、伊豆の玉沢へ移転したものである。
さて富士においては、日興上人が、日蓮大聖人御入滅後、御抄を集められたことが「富士一跡門徒存知の事」に記録されており、その撰時抄の項は、次のようになっている。
「一、撰時抄一巻、今開して上中下と為す。
駿河国西山由井某に賜る,正本日興に上中二巻之れ在り此中に面目俄に開く事下巻に於いては日昭が許れ在り」(1604-4)と。
上の「富士一跡門徒存知の事」の記録によれば、日興上人のもとに、上中二巻があり、日昭のもとには下巻しかなかったはずである。しかし、富士の上巻と中巻は、その後どこへ行ったかは不明のままである。
そのほか、中山の記録には、上下二巻よりなる撰時抄があったという。身延の記録には上下二巻に分かれているもののうち、上巻だけ身延にあったと伝えられている。しかし、身延の上巻は明治8年(1875)の大火で焼失してしまったといわれる。
このように撰時抄は、御草案と御正本のように、二種類あったのかもしれない。
対告衆の西山由井某については、芝川が富士川に合流する河合に住んでいた。由井氏は日興上人の外戚にあたる人で、この人以外には考えられない。
最近の日蓮宗学者のなかには、撰時抄のごとき重要な御抄は、富木、四条氏のような有力な檀那へ賜わるべきで、西山由井某というような人が対告衆となるはずがないとの意見もあるが、それは一片を知って全体を知らない者の偏見であろう。弘安3年(1280)の諌暁八幡抄のごとき、長分の、しかも重要な御抄が、宛名は明確でないが、大石寺に厳存している例もあるのである。
2 御述作の由来
日蓮大聖人の御抄を拝するには、日蓮大聖人の出世の本懐が三大秘法の御建立にあり、御一代の化導はすべて三大秘法の御建立を中心として行われたことを知らなくてはならない。
三大秘法とは、本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目である。日蓮大聖人はまず、建長5年(1256)4月28日、32歳にして南無妙法蓮華経の本門の題目を立てられ、弘安2年(1282)10月12日には、本門戒壇の大御本尊を御建立あそばされた。そして、この大御本尊とともに、本門戒壇の建立を弟子の日興上人に相伝され、弘安5年(1285)10月13日、61歳で入滅されたのである。
三大秘法の説示の順序は、このような次第であるから、御抄にもまた佐渡以前と佐渡以後のごとき相違があるのは当然である。
文応元年(1260)7月には、立正安国論をもって幕府を諌められたが8月27日には松葉ヶ谷の法難に遭い、翌弘長元年(1261)5月12日には、伊豆の伊東へ流された。立正安国論の肝要は、邪法を禁じて正法を立て、国を安んずべきことであると仰せられているが、いまだ三大秘法の名も出されず、表面は法然の念仏を破折されており、権実相対が主となっている。
弘長2年(1262)に赦されて鎌倉に帰られ、翌文永元年(1264)11月には、安房に行かれて小松原の法難に遭い、弟子は打ち殺され、御自身も傷を負われた。
文永5年(1268)、いよいよ蒙古襲来が近いこと観ぜられ、十一通の書状をもって、幕府の要人、七大寺等に警告を発するとともに、公場対決を迫られた。
文永8年(1271)9月12日、捕えられて竜の口に送られ、斬罪に処せられるところを免れて、佐渡へ流される。文永11年(1274)、佐渡から御赦免になるまで在島2年5ヶ月の間「開目抄」を著作されて人本尊の開顕をなされ、「観心本尊抄」においては法本尊の開顕をなされた。
佐渡から帰られた大聖人は文永11年(1274)4月、鎌倉において、平左衛門尉に対して、第三回目の国主諌暁をされたが、ついに容れられないために、翌5月12日、鎌倉を出て身延に入られた。
その身延入山2年後の建治2年(1276)には清澄寺の師道善房の死去を聞かれ、報恩抄を撰述され、清澄寺に送られている。
三沢抄には「法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」(1489-07)と仰せであり、開目抄には「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして」(0223-16)と仰せのように、佐渡以後においては、日蓮大聖人こそが末法の御本仏であらせられ、三大秘法の大御本尊を立てられ、末法万年のほか未来永遠に民衆を救われることを明かされたのである。
そして、五重相対、五重三段を立てられ、開目抄には「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(0189-02)と判ぜられ、観心本尊抄には「彼は脱此れは種なり」(0249-17)等と判ぜられている。
権実相対の段階では、爾前権経たる念仏や禅の破折が中心となるが、真言宗は比叡山と天台法華宗と合体したようなかたちでもあり、あるいは表面は天台宗と称しつつ、その内容は真言の邪法というような実体であった。そこで、佐渡以後においては、とくに真言を破し、さらに真言の邪法へと転落した天台宗の邪義を破折されている。とくに、撰時抄、報恩抄においては、徹底的にこれを究明されているのである。
撰時抄には「真言宗と申すは上の二のわざはひには にるべくもなき大僻見なり」(0275-04)と仰せられ、さらに「伝教大師は三論・法相・華厳等の日本の碩徳等を六虫とかかせ給へり、日蓮は真言・禅宗・浄土等の元祖を三虫となづく、又天台宗の慈覚・安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子の身の中の三虫なり」(0286-12)と破折されている。
その上で本抄においては、別して末法の時を撰取することを明かされているが、それは、一には末法において必ず文底秘沈の大法が広宣流布すべきこと、二には末法において日蓮大聖人をもって下種の本尊となすべきことを明かすためであると、日寛上人は仰せられている。この点については、次の、第二 本抄の大意に於いて、詳論する。
本抄に「天台・伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法経文の面に現前なり、此の深法・今末法の始五五百歳に一閻浮提に広宣流布すべきやの」(0272-16)と仰せられているが「最大の深密の正法」とは、もとより三大秘法である。ゆえに翌年の御述作の、報恩抄には、本尊、戒壇、題目と、明らかに三大秘法の名を示されているのである。
そして本抄では正像末の三時にわたる三国仏教の流布を論じられているが、しかも、その元意、すなわち御内証は、末法の広宣流布にあり、しかも未来の世界広布を予言されている。すなわち「前代未聞の大闘諍・一閻浮提に起るべし其の時・日月所照の四天下の一切衆生、或は国ををしみ或は身ををしむゆへに一切の仏菩薩にいのりをかくともしるしなくば彼のにくみつる一切衆生、或は国ををしみ或は身ををしむゆへに一切の仏菩薩にいのりをかくともしるしなくば 彼のにくみつる一の小僧を信じて無量の大僧等八万の大王等、一切の万民・皆頭を地につけ掌を合せて一同に南無妙法蓮華経ととなうべし」(0259-10)に論ずるとおりである。
第二 本抄の大意top
1 題号の意義
「撰時抄」とは「時を撰ぶ御抄」という意味である。ここでいう「時」とは、現代人の考える「時間」をいうのではなく、衆生の機根と仏とが相応ずる時をいうのである。
衆生の機根とは、その衆生全体が、たとえば仏教に縁があるかないか、大乗に縁があるか、小乗に縁があるか、とうように、どのような教法によって得道できるかという衆生の性分をいう。
衆生にはこのような機があって、仏の出現を感ずるのであり、仏は機を受けて応ずるゆえに感応という。
御義口伝には「衆生に此の機有つて仏を感ず故に名けて因と為す、仏機を承けて而も応ず故に名けて縁となす」(0716-第三唯以一大事因縁の事-03)と仰せられている。
法華経序品第一に「一時、仏、王舎城耆闍崛山の中に住したまい」等とあるが、すべての経典の冒頭はこのようになっている。また方便品第二には「末だ曾て説かざる所以は、説時末だ至らざる故なり、今正しく是れ其の時なり、決定して大乗を説く」とあるが、これは法華経を説くべき「時」がきたか、こなかったかを示しているのである。
また、御義口伝には「御義口伝に云く霊山一会儼然未散の文なり、時とは感応末法の時なり」(0757-01)と仰せであり、さらに「時を待つ可きのみ」(1022-17)とも仰せられているが、これらはすべて機感相応の時を示されたものである。
爾前経は機に応じて種々の説法をするから、機が主体である。法華経は説くべき時がくれば、相手が信じても信じなくても、強いてこれを説くので、時が主体となるのである。
撰時抄においては、正法・像法・末法とそれぞれの時代を通じて、機感相応の正法を説き示し、結論としては、末法には必ず寿量品文底秘沈の三大秘法が広宣流布すべきこと、その三大秘法の教主たる末法の御本仏が、日蓮大聖人であることを明かされる。
以下、この、撰時抄の題号そのものの解釈を、日寛上人の文段によって明らかにしよう。
まず、この題号には通別があり、その通別にまた次のような三意がある。
一には、撰時の二字は別である。別してこの抄に題するゆえに。抄の一字は通である。諸御抄に通ずるゆえである。
二には、撰の字は通である。宗教の五箇に通ずるゆえに、次のようになる。
第一に、権迹を撰び捨て本門を撰び取るのは、教を知ることになる。
第二に、権迹の機を撰び捨て本門の直機を撰び取るのは、機を知ることになる。
第三に、権迹の時を撰び取るのは、時を知ることになる。
第四に、権迹流布を国を撰び取るのは、国を知ることになる。
第五に、前代流布の権迹を撰び捨て末法適時の本門を撰び取るには教法流布の先後を知ることになる。
ゆえに、撰の一字は宗教の五箇に通ずるので、通というのである。時の一字は別して第三であるゆえ、別というのである。
三には、文通・意別という立て分けがある。文通というのは撰は撰捨と撰取とに通じ、時は正像末に通ずる。ゆえに文通というのである。意別とは、撰はただこれ撰取であり、時はただこれ末法であるゆえに、本意は別して末法の時を撰取するにある。ゆえに「撰時抄」というのである。
問う。別して末法の時を撰取するとは、いかなる意味か。
答う。ここにまた二意がある。
一には、末法においては、必ずまさに文底秘沈の大法が広宣流布するのである。
二には、いま末法においては、まさに日蓮大聖人をもって下種の本尊となすべきである。
当抄には末法広宣流布の文は多いが、次に三文を引いて、これを証明しよう。
一には「彼の大集経の白法隠没の時は第五の五百歳当世なる事は疑ひなし、但し彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の一閻浮提の内・八万の国あり其の国国に八万の王あり王王ごとに臣下並びに万民までも今日本国に弥陀称名を四衆の口口に唱うるがごとく広宣流布せさせ給うべきなり」(0258-14)と。
上の御文は附文の辺は権実相対であって、ただ「法華経」といっている。しかし元意の辺は文底深秘の大法である。ゆえに、その趣旨は、法華経の本門寿量品の肝心・南無妙法蓮華経の大白法の広宣流布である。肝心とは即文底の意味である。
二には「上行菩薩の大地より出現し給いたりしをば弥勒菩薩・文殊師利菩薩・観世音菩薩・薬王菩薩等の四十一品の無明を断ぜし人人も元品の無明を断ぜざれば愚人といはれて寿量品の南無妙法蓮華経の末法に流布せんずるゆへに、此の菩薩を召し出されたるとはしらざりしという事なり」(0284-11)と。
上の御文は、附文の辺は本迹相対である。ゆえにただ寿量品という。しかし、元意の辺は文底深秘の大法である。ゆえに、じつには、法華経の本門寿量品の肝心・南無妙法蓮華経が末法に流布するとの意味である。三には「仏滅後に迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親・乃至天台・伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法経文の面に現前なり、此の深法・今末法の始五五百歳に一閻浮提に広宣流布すべき」(0272-16)と。
上の御文は種脱相対である。天台末弘の最大深秘の大法とは、寿量文底の大法である。すなわち、この文も略されており、その意味は本門寿量の文底・最大深秘の大法ということである。
妙楽大師は「もし文に随って解を生せば、すなわち前後雑乱す。もし文の大旨を得れば、すなわち元由に暗からず」と述べている。いまこの大旨を得て、この当抄の三つの文についてつぶさにこれをいうならば、法華経の本門寿量品の文底・最大深秘の大法、後五百歳に一閻浮提に広宣流布すべしという意味である。
問う、文底深秘の大法、その体いかん。答う、すなわちこれ天台末弘の大法であり、三大秘法随一の本門戒壇の大御本尊の御事である。
顕仏未来記には「本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか」(0507-06)と仰せである。ゆえに、この本尊は、広宣流布の根源なのである。
次に、末法においては、日蓮大聖人をもって下種の本尊となすべしとの御文をあげれば、「法華経をひろむる者は日本国の一切衆生の父母なり章安大師云く『彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり』等云云、されば日蓮は当帝の父母・念仏者・禅衆・真言師等が師範なり又主君なり」(0265-11)と。「法華経」とは意の法華経即ち本門の本尊の妙法蓮華経の五字であり、これは成仏の種子である。この種子の妙法五字をひろめて、日本国の一切衆生の心田に下種をなす。ゆえに父母というのである。ゆえに日蓮大聖人をもって下種の本尊となすべしというのである。
これがこの御文の元意であり、開目抄の始終と同意である。
2 釈子日蓮述ぶについて
本抄には「釈子日蓮述ぶ」と御署名がある。かつて流布した本の奥書には、「建治三年六月十日、甲州波木井身延山に於いて末代後学仏法興隆の為に作り畢んぬ。天台沙門日蓮之を撰す」とあるという。しかし、このような奥書があろうはずがない。第一に当抄は文永11年(1274)のことを去年と仰せであるから、建治元年(1275)の御述作であって、建治3年(1277)ではない。
また佐渡以前の立宗の初めの御抄なら、「天台沙門」の御署名もありえようが、身延入山後の当抄に「天台沙門」などと仰せられるはずがない。じつには「釈子日蓮」云々との御署名であって、この「釈子日蓮」の句の中にも重々のいわれがあるのである。次に日寛上人の文段に準じて、その大要を述べる。
まず釈子に四句の分別がある。
一には、身は釈子に似ていて心は釈子でない。すなわち禅宗・念仏宗・真言宗等の出家がこれである。
二には、身心とも釈子でない者は、禅宗・念仏宗・真言宗等の在家の信者がこれである。
三には、身心ともに釈子であるものは、日蓮大聖人、日興上人である。
四には、身は釈子ではなが、心は釈子である者は、創価学会員である。
なかにおいても、日蓮大聖人こそ、身心ともに釈子である。ゆえに「釈子日蓮述ぶ」と仰せになっているのである。その意味を、次の五義のうちから論じてみよう。
第一に、日蓮大聖人は本化の再誕であるゆえに、法華経の涌出品第十五に「此等は是れ我が子なり是の世界に依止せり」と。妙楽大師いわく「子、父の法を弘む。世界の益あり」と。ゆえに、日蓮大聖人は文字どおり真実の釈子である。
また、大聖人、日興上人の教えを正しく受け継ぐ我等、創価学会も、一向に本門寿量の肝心を修行するゆえに、みなこれ本化である。ゆえに「此等は是れ我が子」の湧出品にあてはまり、ならびにこれ真実の釈子となる。
第二に日蓮大聖人は法の邪正を糺されるゆえに。章安大師の涅槃経疏三にいわく「仏法を壊乱するは仏法中の怨なり、能く糺治する者は是れ護法の声聞、真の我が弟子なり」と。禅宗の教外別伝とか、念仏宗の捨閉閣抛とか、真言宗の第三戯論などは、仏法を壊乱するものである。もししからば「仏法中怨」の責めを、どうして免れようか。彼らはすでに仏法中の怨敵である。どうして釈子と名づけられようか。ゆえに在家、出家とも釈子ではない。
しかるに、日蓮大聖人は、横に権実の奥旨をきわめ、縦に本迹の淵底を尽くされている。むしろ「能く糺治する者」というべきではないか。ゆえに、「真の我が弟子」であり、釈子なのである。
また、大聖人、日興上人の教えを正しく継ぐ行者は、在家・出家もともに仰いで大聖人の仏法を信じ、わずかの己義もない。ゆえに法の邪正においては、ほんの少しの乱れもない。ゆえに真のわが弟子であり、真の釈子なのである。なかにおいても、わが創価学会員こそ、最もよき釈子であると確信してやまない。また疏の中に「声聞」とうのは、大乗の声聞である。「仏道の声をもって一切に聞かしむ」とはこれである。ゆえに大菩薩であり、小乗の声聞ではないのである。
第三に、日蓮大聖人は能く謗法を呵責されるゆえに。涅槃経第三にいわく「若し善比丘あつて法を壊らん者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」と。「法を壊る者」とは、禅・念仏・真言等である。しかるに、彼らの謗法を見て置いて呵責しなければ、仏法中の怨である。たとえば叛逆の人を見てこれを責めなければ、自分も叛逆者となるのと同じである。
ただ、わが日蓮大聖人のみが、もっぱら如来の勅命を仰いで、身命も惜しまず、日々夜々にこれを呵責し、月々年々にこれを駈遣された。これこそ真の声聞であり、真実の釈子ではないか。もし当門流の行者といえども、謗法を呵責しなければ「仏法中怨」の責めを免れることはできないであろう。どうして身命を惜しんで無上道を惜しまないでいられようか。
ところが、日蓮大聖人の破折にあう、怨嫉をいだく逆縁の徒は国中にあふれていたが、いまだ順縁広布は実現せず、日蓮大聖人はこれを後世に託された。わが学会は、この仏意仏勅を奉じて、広宣流布をめざす大折伏を敢行し、今日の大発展を遂げた。ゆえに創価学会員こそ真の弟子であり、真の釈子といえよう。
第四に、日蓮大聖人は能く此の経を読誦されるゆえに。法華経見宝塔品第十一にいわく「能く来世に於いて、此の経を読み持たんは、是れ真の仏子、淳善の地に住するなり」と。「来世に於いて」とは末法である。「読み持たん」とは本門の題目である。「読」とは行であり、「持」とは信心である。信ずるゆえにこれを持つ、もし信じなければどうして持てようか。ゆえに「持」はこれ信である。「此の経」とは法華経である。法華経とは、いま末法においては即これ本門の本尊、妙法蓮華経の五字である。これすなわち広略要の中には要の法華経である。文義意の中には意の法華経である。種熟脱の中には下種の法華経である。
ゆえに、よく末法において本門の本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱える人は、すなわち真実の釈子であり「真の仏子」というのである。
「淳善の地に住す」とは、すなわち本門の戒壇である。およそ戒とは、非を防ぎ悪を止むるの義である。「淳」とは朴である。すでに非を防ぐゆえに淳である。悪を止むるゆえに「善」である。ゆえに戒壇の地をさして淳善の地というのである。ゆえに本門の本尊、妙法蓮華経の五字を、われもこれを信行し、人をしてこれを信行せしむるは、真の釈子であり、本門戒壇の地に住するのである。ゆえに大聖人の真実の弟子檀那は、真実の仏子であり、真実の釈子なのである。
第五に、日蓮大聖人は本因妙の釈子なるゆえに。これは内証の深秘の相承である。「釈」とは釈尊であり、「子」とは因の義ゆえに、釈尊の本因であり、それは日蓮大聖人になるのである。ゆえに釈子日蓮というのである。すなわち久遠名字の釈尊の御身の修行を、末法今時の日蓮大聖人の御身に移すゆえ、信行ともまったく同じとなるのである。
日蓮述ぶについて
日文字については甚深の御相伝がある。釈尊の童名を日種太子といい、日蓮大聖人の童名は善日麿である。釈尊の仏としての果位の御名を慧日大聖尊といい、わが師の御名を日蓮大聖人という。国はすなわち日本国、山はすなわち大日蓮華山、自然の名号は不思議に一致している。
問うていわく、だれびとが日蓮という御名を立てられたのか。答えていわく、大聖御在世をもって論ずるならば、御みずから日蓮と号されたのであるが、その本を尋ねるならば、釈尊の勅号ともいうべきである。経文には明らかにこれを示しているが、ここでは秘す。
3 本抄の大意
本抄は、まず時が肝要であることを明かされている。宗教の五箇はいずれも大事であるが、とくに時を誤っては、余の四をいかに論じても、なんにもならない。日寛上人は「若し時の一字を離れては、これを論ずること能わらざる故なり」と述べられているとおりである。釈尊の在世においては、爾前の42年の間は、衆生の機根に応じて頓・漸・秘密・不定とか、蔵・通・別・円のように、種々の説法がなされた。
しかし、後8年の法華経には「今正しく是れ其の時」として、随自意の法華経を説いている。もしいまだ時のいたらないうちに法華経を説いたならば、かえって誹謗し悪道へ堕ちるばかりである。反対に法華経を説くべき時がきているのに、あいかわらず阿含や方等を説いていたのでは、出世の本懐を遂げることもできなくなってしまうのである。
さて、本抄においては、正像末にわたり、インド、中国、日本の三国にわたって滅後の弘教を明かされ、それぞれの時代で、それぞれの国における機感相応の正法を明かされている。
釈尊の入滅の年代や、正像末の三時等については、仏教研究者の間で、いろいろの異説を生じ論争していることは、次節に述べるとおりである。いま日蓮大聖人が本抄に説き示されている、三時、三国にわたる仏教の様相は、その時代相応の正法がひろまった時には、国も平和に民衆も幸福を楽しんできたが、反対に、たとえ仏教を信じても、時代相応の教えでなければ、国は衰亡し民衆も苦悩の底へ沈んでいったという事実の姿である。しかもこのことは、釈尊の予言どおりである。経典にも明らかに示されているとおりなのである。
すなわち、インドにおいては、正法の初めの500年に、迦葉・阿難等が小乗教を流布した。次いで正法の後の500年には、竜樹・天親等が出現して権大乗経をひろめた。
次いで仏滅後1015年に、仏教は中国へ伝来し、像法の中期には、天台大師が中国において法華経の迹門を広宣流布し、像法の終わりには、伝教大師が同じく法華経の迹門を日本に広宣流布した。これらはすべて、仏の予言でもあり、歴史の事実が示すところでもある。
さて仏の予言によれば、滅後2000年を過ぎると末法となり、白法隠没の時代となる。この時に、上行菩薩が世に出現して、三大秘法を広宣流布し一切衆生を救われるというのである。
日蓮大聖人の御出現は、仏滅後2200余年にあたるが、はたして当時の世相は、念仏宗・禅宗という邪宗がはびこり、とくに真言宗が害毒を流していた。ゆえに大聖人は、まず「立正安国論」等において主として念仏を破し、次いで禅・真言を破折し、天台宗をも過時の教えとして廃し、天台の迹門に対して、独一本門の三大秘法を立てられたのである。
本抄においては、別して真言を破されている。中国における善無畏が一行阿闍梨とともに、理同事勝という邪義をかまえたこと、日本においては弘法が「戯論」とか「無明の辺域」といって、釈尊や法華経を誹謗していること、聖覚房が釈尊を「牛飼・履物取りにもたらず」といって、大謗法を犯していること、とくに比叡山における天台第三代の座主、慈覚は、身は天台座主として伝教大師の跡を継ぎながら、心は真言の邪義におち、一国謗法の元凶となった等を挙げ破折されている。
ゆえに、当抄には「これよりも百千万億倍・信じがたき最大の悪事はんべり」(0279-12)と仰せられ、報恩抄には「蝙蝠鳥のごとし 鳥にもあらず・ねずみにもあらず梟鳥禽・破鏡獣のごとし、法華経の父を食らい持者の母をかめるなり日をいるとゆめに・みしこれなり」(0310-17)と、慈覚の謗法逆罪を徹底的に強折されたのである。
そうして、「1 題号の意義」で述べたように、日寛上人の仰せのごとく、結論としては、末法には寿量品文底秘沈の三大秘法が広宣流布すべきこと、その三大秘法の御本尊は、即日蓮大聖人であることを明かされているのである。
ゆえに、当抄の「彼の大集経の白法隠没の時は第五の五百歳当世なる事は疑ひなし、但し彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の一閻浮提の内・八万の国あり其の国国に八万の王あり王王ごとに臣下並びに万民までも今日本国に弥陀称名を四衆の口口に唱うるがごとく広宣流布せさせ給うべきなり」(0258-14)「日蓮は当帝の父母・念仏者・禅衆・真言師等が師範なり又主君なり」(0265-15)「天台・伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法経文の面に現前なり、此の深法・今末法の始五五百歳に一閻浮提に広宣流布すべき」(0272-16)「日蓮は閻浮提第一の者としるべし」(0283-17)「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし、これをもつてすいせよ漢土月支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず」(0284-08)「此の国に智人あり国主此れをにくみてあだす」(0285-07)「南無日蓮聖人ととなえんとすとも南無計りにてやあらん」(0287-06)「日本第一の大人なり」(0289-07)等と仰せられているのである。
これらの御文はすべて、三大秘法の仏法が全世界に広宣流布することと、日蓮大聖人が下種の主師親の御本仏であり、世界の救世主であることを宣言されているのである。
4 仏教史上の諸問題
撰時抄において、インド、中国、日本の三国にわたり、正・像・末の三時にわたって仏教史を通観され、末法に三大秘法の広宣流布と、日蓮大聖人が下種の主師親として、三大秘法を弘通されることを明かされていることは、前項までに述べたとおりである。
さて仏教史の研究にあたり、教義上の問題とは別に、史実として古来幾多の説がたてられている問題がある。いま「撰時抄」の講義にあたって、これらの問題を概略検討してみたい。
(1)仏滅の年代について
仏教を説いた釈尊は、一体いつ生まれ、いつ入滅したのか。その年代について数十種の説がある。西暦前400年から500年ごろという説もあれば、西暦前2400年というような説もある。
釈尊の入滅の年代が、このように2000年近い違いを生じている原因は、いろいろと考えられる。まずインドにおいて釈尊は当時の年代をいちいち書きつけることはしなかった。仏教経典もいちいち釈尊が筆をとって書いたものではなく、後世になって弟子たちが、口伝されてきたものを結集した。そうしている間に、年代があいまいになってきたものとも考えられる。
さらに、仏教は中央アジアからチベットへと流布し、中国へ伝えられた。この流布していく途中においても、開祖の釈尊が遠い昔の存在であるということが、仏教に一つの権威をもたせる結果ともなった。したがって、この場合には年代を遠くにしがちであったものと思われる。
その結果、インド、ミャンマー、スリランカ、チベット等から数十種の異説を生じた。仏教が中国へ伝来してからは、中国の僧は仏典を求めてインドへ旅行し、盛んに漢訳するとともに、仏滅の年代についても、それぞれ研究の結果を発表した。法顕・法琳・費長房・羅什・玄奘等がこれである。
しかし、こうした多くの説があるなかで、中国の隋、唐時代の仏教興隆期以後は、天台大師も、妙楽大師も、伝教大師も、日蓮大聖人も、浄土宗の開祖たちも、釈尊の入滅は西暦前949年という法琳の説を取り、『周書異記』をその根拠としている。
次いで西欧人が東洋へ進出し、なかでもイギリス人はインドを統治する必要からも、盛んに古代インドについて研究し、また仏教についても研究を進めた。その結果、釈尊入滅の年代についても、アレキサンダー大王のインド攻略の時期やアショーカ大王の遺跡から推定して年代を発表した。
次にこれらの多くの説のうち、代表的なものを少し掲げて検討してみよう。
①法顕伝のBC1087年説
法顕が中国の都長安を出発し、15年にわたってインドを旅行した、その時スリランカ島で聞いた話として1497年前に釈尊が入滅したとの伝記を書いている。これがBC1087年にあたる。
②『周書異記』のBC949年説
法琳がCC949と定めた『周書異記』には、周の昭王24年(BC1070)4月8日誕生同じく穆王52年(BC0949)2月15日入滅とある。日蓮大聖人はこれを引用されている。また天台・天教大師・浄土宗その他でも、中国・日本を通じて、この説に従っているものが多い。
③費長房のBC609年説
中国の費長房は『歴代三宝紀』に、この説を述べている。
④衆聖点記のBC485説
釈迦滅後、毎年の雨期に安居して、毎年一点を加えてきたものが、釈迦の十大弟子の一人、優婆離いらい957点を数えたというところから、この説ができた。衆聖点記は中国の古書であるが、スリランカの仏教伝記によったものである。しかし、①の法顕伝と比較して、なにゆえこのように年数の差を生じたのか。おそらく一年に二度、雨期がある地方があり、そこでは一年に二度安居したのであろう。そして一年二年と数えたため、異なってきたのであろうとの説が有力である。
⑤西洋学者(一)BC477-8年説
西洋のインド研究学者が、次第に仏教の研究をはじめ、アレキサンダー大王が、インドに侵入した年代から、アショーカ王即位の年代を推定して(BC0259)スリランカ伝説から釈尊滅後0218.9年にアショーカ王が即位したものとして、多くの学者はBC480年前後であると発表している。
⑥西洋学者(二)BC385.6年説
アショーカ王がその勅命や筆跡を石や岩に彫りつけた石柱や磨崖が多くインドで発見され、そのなかから歴史上に現われている五人の王の在位年代から、アショーカ王の年代を推定し、BC270.271とした。また釈尊入滅の年からアショーカ王の即位までは、スリランカの伝説のようにBC218年としているが、インドの伝説の多くは100年ぐらいであり、なかには116年としているものもある。いま仮に116年とすれば、BC385.6年に釈尊は入滅したことになる。
なお、東大名誉教授の中村元氏は、同じような算出の仕方で、アショーカ大王即位の年代がその後の研究で少し動いたことを理由として、仏滅年代はBC383年とするがよいとしている。
西洋学者の多くは、BC4.500年をとり、小乗経の伝記の中にも、BC500年ぐらいとするものが多い。これで数えると、釈尊入滅は今から2500年前となる。
しかし、日蓮大聖人の用いられた年代からすれば、釈尊の滅後はすでに3000年になる。現代の学者は、この『周書異記』の説は科学的でないというが、大乗仏教の興隆時代に各宗派ともこれを用いているのであるから、まったく根拠がないとはいえないであろう。
なお釈尊の誕生については、次のような違いがある。
開目抄にいわく「周の第四昭王の御宇二十四年甲寅・四月八日の夜中に天に五色の光気・南北に亘りて昼のごとし、大地・六種に震動し雨ふらずして江河・井池の水まさり一切の草木に花さき菓なりたりけり不思議なりし事なり、昭王・大に驚き大史・蘇由・占つて云く「西方に聖人生れたり」」(0225-18)と。
この御文は『周書異記』をもとにされているものだが、この『周書異記』の昭王24年甲寅に対し『仏祖統紀』では昭王26年の甲寅が正しいといっている。御書鈔、御書註、啓蒙等も干支等から推して26年が正しいといっている。26年ならば、BC1027年誕生、BC947年入滅となる。
また出家成道についても、西洋学者の多くは29出家、35成道とする。しかし、これでは無量義経の「四十余年未顕真実」の文と、年数が合わなくなる。日蓮大聖人は、もとより19出家、30成道、80入滅とされている。
(2)仏教経典の結集
釈尊滅後に行われた大きな事業として経典の結集が挙げられる。その概要を次に述べるが、この点についても諸説がまちまちである。
第一回結集。釈尊は50年間の説法で多くの教えを示したが、これを筆記しなかったので滅後すぐ経典の結集が行われた。この時は摩訶陀国王舎城の南にある畢婆羅窟において、国王阿闍世の外護のもと、摩訶迦葉の司会で行われ、阿難は経蔵を、優婆離は律蔵を、迦葉は論蔵をそれぞれ結集したという。これを窟内結集という。この結集に参加しなかったものは、窟外の西四哩の地で婆師迦を司会として、経・律・論・雑集・梵咒の五蔵を結集したといわれる。これを窟外結集という。この第一回結集に千人が集まったと「大論」にあるが、小乗には500人と伝えている。「四条金吾殿御返事」には「阿闍世王・或は夢のつげにより・或は耆婆がすすめにより・或は心にあやしむ事ありて提婆達多をば・うち捨て仏の御前にまいりて・やうやうにたいほう申せしかば身の病忽にいゑ・他方のいくさも留まり国土安穏になるのみならず・三月の七日に御崩御なるべかりしが命をのべて四十年なり、千人の阿羅漢をあつめて一切経・ことには法華経を・かきをかせ給いき、今我等がたのむところの法華経は阿闍世王のあたへさせ給う御恩なり」(1149-03)と仰せられており、これを王舎城の結集ともいう。
第二回結集は、仏滅後100年ごろ、耶舎陀阿羅漢等700人によって毘舎離城大林精舎で行われた。当時、律宗を破る者が出てきたので、律蔵を吟味し、その誤謬を正したという。毘舎離の結集ともいう。
第三回の結集は、仏滅後200年ごろ、アショーカ王の外護のもと、華子城において目犍連帝須の司会で千人の比丘が参加して行われたという。当時は外道の徒が衣食のために仏道に入門するようになり、仏の教えが正しく守られなくなってきたので、アショーカ王が援助してこの結集が行われたと伝えられる。この時期については、大乗経の系統とくに馬鳴・竜樹などはアショーカ王は仏滅後100年に出現したとしている。華子城の結集である。
第四回結集は、仏滅後400年ごろカニシカ王が出て北方インドにも進出し、強大な勢力を持った。王は熱心な仏教信者だったがこのカニシカ王の外護によって、迦涇弥羅王において脇尊者の司会で世友・馬鳴などを含む500の小乗学者・500の大乗学者・500の居士が集まり12年かかって、経・律・論の三蔵を結集した。この時から、大乗の経典が加えられるようになった。迦涇弥羅の結集ともいう。ただし、500年ごろ、700年ごろとの説もある。
このようにして経典の結集が行われたが、釈尊入滅の年代が定まらないように、結集の年代も不確定のものが多い。しかし仏典の結集が多くの聖僧と賢王の外護によって行われたことは疑う余地がない。
なお経典結集の過程において、保守主義の上座部と進歩主義の大衆部とが分かれたことから、大乗教が発生したとするいわゆる根本仏教の考え方があるが、本抄で日蓮大聖人が仰せのように、あくまでも解脱堅固・禅定堅固の時に従って小乗と大乗がひろめられたのである。
(3)正像末の三時について
仏の滅後における三種の時を、正法・像法・末法という。
正法とは、正しく教義が行われて証果を得る時をいう。像法とは似の意で、時は濁りが増してきて正法には及ばなくなるが、なお正法に似ている時代である。末法とは、末は損減滅無の意で、仏の教法は世にあっても、その行果のない時代である。
正像末を理教行果で立て分ける場合と、教行証で立て分ける場合とがある。すなわち理教行果の具備する時代を正法、理教行のみあって果のない時代を像法、理教のみって行果のない時を末法という。
あるいは、教行証の三つとも具わっている時代を正法、教行のみあって証のない時代が像法、教のみあって行証のない時代が末法である。
「教行証御書」には「正法には教行証の三つ倶に兼備せり、像法には教行のみ有つて証無し、今末法に入りては教のみ有つて行証無く」(1278-05)と仰せである。
さて釈尊の滅後の正像末の三時についても種々の異説がある。日好(江戸期の人)の「緑内扶老」には、この正像末の三時の研究がきわめて詳細に発表されている。正像末の年数については、だいたい次の五説である。すなわち、
第一に、正法1000年 像法1000年
第二に、正法1000年 像法 500年
第三に、正年 500年 像法 500年
第四に、正法 500年 像法1000年
第五に、正法 400年 像法1000年
である。
天台宗においては南岳大師の願文に「正法世に住すること五百、像法世に住すること一千載、末法世に住すること一万年」とあり、天台大師は「法華秀句」に「但当時大利益を獲るのみにあらず。後の五百歳遠く妙道に沾おわん」といい、妙楽大師はこれをうけて「しかるに五五百、且く一往に従う、末法の初め冥利なきにあらず、且く大教の流行すべき時に拠る、ゆえに五百という」といっている。以上あとの二文とも、法華経薬王品第二十三の「後の五百歳中。広宣流布」と同様に、釈尊の滅後二千年を過ぎて末法に入った時の広宣流布を予言している。この場合は正像各千年となる。
伝教大師は「守護章」に「正像稍過ぎおわって末法太だ近きにあり」といい、「末法燈明記」には自分の時代を「像法最末の時なり」といっている。伝教大師は仏滅後千八百年にあたるから、像法の終わりにあたるわけである。これらの文意も、すべて、仏滅後二千年を過ぎて末法に入ることを示している。
日蓮大聖人は、正法千年・像法千年・末法万年と立てられ、日蓮大聖人の御出世は仏滅後二千二百年にあたるから、末法の初めの五百年に出現されたことになる。
「教機時国抄」には「仏の滅後の次の日より正法一千年は持戒の者は多く破戒の者は少し正法一千年の次の日より像法一千年は破戒の者は多く無戒の者は少し、像法一千年の次の日より末法一万年は破戒の者は少く無戒の者は多し」(0439-05)「当世は末法に入つて二百一十余年なり」(0439-11)と仰せられている。
また「曾谷入道殿許御書」には「正像二千余年には猶下種の者有り例せば在世四十余年の如し根機を知らずんば左右無く実経を与う可からず、今は既に末法に入つて在世の結縁の者は漸漸に衰微して 権実の二機皆悉く尽きぬ彼の不軽菩薩末世に出現して毒鼓を撃たしむるの時なり」(1027-12)と仰せであり、さらに末法万年については「報恩抄」に「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」(0329-03)とおおせである。一往は末法一万年と区切るけれども、日蓮大聖人の御内証としては、未来永遠と拝すべきである。
(4)五箇の五百歳
釈尊は大集経いおいて、滅後を予言して、次のように、五百年ずつ区切っている。
第一の五百歳 解脱堅固──┬正法千年
第二の五百歳 禅定堅固──┘
第三の五百歳 読誦多聞堅固┬像法千年
第四の五百歳 多造搭寺堅固┘
第五の五百歳 闘諍堅固───末法の始め
この大集経の予言と、インド・中国・日本の三国における仏法流布の歴史を照合すると、まさしく符合している。
正法前500年(解脱堅固)
解脱堅固の時とは、釈尊滅後五百年において、衆生が小乗経を修し、戒律をたもって解脱を求めた時代である。滅後正法千年の付法蔵の24人が正法を弘通したが、摩訶迦葉から付法蔵第十の富那奢までは小乗経をひろめた。迦葉20年・阿難20年・商那和修20年・提多迦20年の最初の100年は、まったく小乗経のみをひろめ、次の弥遮密多・仏陀密多・脇比丘・富那奢等は、大乗経の法門を少しは含めたが、大部分は小乗経を表として弘通した。この解脱堅固の時には、四回の仏典結集があり、阿闍世王、アショーカ王、カニシカ王などの守護のもとに仏法が興隆した。
正法後500年(禅定堅固)
この時代は権大乗経がひろめられ、衆生は大乗を修して、深く三昧に入り、心を静めて思惟の行を行った。付法蔵第十一の馬鳴から二十四の師子尊者にいたるまで大乗をひろめたが、とくに諸小乗を破し、大乗を宣揚した論師に、馬鳴・竜樹・無著・天親などがいる。馬鳴は仏滅後600年ごろに出て、「大乗起信論」を著し、滅後700年ごろの竜樹は「大智度論」100巻「中論」4巻「十二門論」1巻等を著した。その弟子提婆も「百論」2巻を著している。滅後900年ごろに出た無著・天親の兄弟は、無著は「摂大乗論」3巻「瑜伽師地論」100巻等を、天親は千部の論師として「摂大乗論釈」「唯識三十論頌」など小乗500部、大乗500部を著して、大乗の教えを大いに称揚した。
像法前500年(読誦多聞堅固)
この時代で、まず特質すべきことは、後漢の明帝永平7年(0067)に仏教が中国に渡来したことである。これをきっかけとして、読誦多聞堅固の名が示すとおり、経典の翻訳事業や講説、解釈などがひんぱんに行われた。パルチア太子であった安世高、また月氏国の支婁迦讖や、康僧鎧、支謙など、翻訳にたずさわる人がふえてきた。敦煌出身の竺法護は、優秀な助力者とともに、正法華経など154部309巻の経典を訳した。
このようにして盛んになってきた経典翻訳は、鳩摩羅什にいたって頂点に達した。羅什はそれまでの誤訳、抄訳の多かったものとは比べものにならない完全な訳を数多く行い、なかでも珠玉のごとき名訳といわれるのが「妙法蓮華経」である。羅什以後、法顕、仏陀跋陀羅、曇無識、玄奘などが出ている。
この時代の終わりのころ、0538年、荊州で生まれた天台大師は、南岳大師に師事して法華の奥義を語り、瓦官寺に8年間住して「大智度論」などを講義した。その後、有名な「法華文句」「法華玄義」「摩訶止観」を講述し、理の一念三千の法門を立てた。読誦多聞堅固は、このように多数の経典翻訳と天台大師の出現に代表されるが、その他、仏図澄、道安、羅什などにより、大いに仏教講義が行われた。
像法後500年(多造搭寺堅固)
唐代に入り、玄奘がインドから経典を持ち帰り漢訳した。以後、法相宗、三論宗、華厳宗、真言宗が中国全土にひろまり、多くの寺塔が建設された。この像法時代は形だけは正法時代に似ているが、内容的には仏法の堕落であった。やがて唐朝は衰亡し、北栄の時代に入って、太宗は詔勅を出して廃寺を修治し、仏像の造立を許し、アショーカ大王の造搭にならって84000の搭を造立した。しかし、仏法の中心は日本に移り、この時代の特徴はむしろ日本において顕著にあらわれている。
欽明天皇13年(0552)すなわち仏滅後1500年ごろ、百済の聖明王の使者により、経論・釈迦像・僧尼等が日本の朝廷に献上された。この仏教伝来以後、本格的に信奉されるようになったのは聖徳太子の時からである。太子は勝鬘経・維摩経・法華経の義疏を著し、この三経を守護国家の法と定めて篤敬三宝を根底とする17条憲法を制定した。このころから造寺造仏が盛んになっている。崇峻天皇から推古天皇時代にかけて建立された飛鳥寺・太子建立の七寺といわれる四天王寺・法隆寺・中宮寺・鋒丘寺・池後寺・葛城寺などが有名である。
その後奈良時代に入ると、聖武天皇は仏教を重んじ諸国に国分寺、国分尼寺を建てて鎮護国家の道場として、総国分寺として東大寺を建立した。またこの時代に苦労して来日した鑑真は小乗の戒壇を建立している。平安の桓武天皇の代には伝教大師が南都六宗を公場対決で破り、天長3年(0827)叡山に迹門の戒壇を建立した。
末法(闘諍堅固)
末法の初めは永承6年(1052)とされる。釈尊滅後、年がたつにしたがって内容が失われ、ますます形骸化した釈尊の仏法は、このころから不思議にも「闘諍言訟・白法隠没」の姿を出現するようになった。わが国では、摂関政治が衰え、代わって武士が大頭しつつある時代で、仏教も退廃し、天台宗でさえも、慈覚・智証のために謗山と化し、叡山の僧は僧兵となって東大寺・興福寺の僧兵とともに争いあう醜状を呈した。「中右記」に長治元年(1104)の条には「近日叡山の衆徒相乱る。東西の搭僧合戦す。あるいは火を放って房舎を焼き、あるいは矢にあたりて身命を亡う、修学の砌、かえって合戦の庭となる。仏法の破戒已にこの時なるべきか」と嘆いている。
康平2年(1059)あまりに放火が多いので諸門を警護。永保3年(1083)動乱の世を象徴するように富士山が噴火、保元元年(1156)保元の乱、平治元年(1159)平治の乱、これらは天皇家の間で同族が争う姿であった。仏教の慈悲の精神から約340年間廃止されていた死刑も復活、このような時代の民衆は、あきらめと退廃的な気分に満ち、それに乗じて浄土宗がひろまって自殺者を大量に出している。「栄華物語」「小石記」「方丈記」等、当時の文献はその時代の無常観を伝えている。「方丈記」には京都の1/3が焼けた治承元年(1177)の大火、治承4年(1180)のつむじ風、養和年間(1182・83)の全国的大飢饉・大洪水等の惨状がなまなましく表現されている。
栄華をきわめた平家は西海の果てに沈み、承久3年(1221)承久の変で三上皇は流罪、それいらい盤石の体制をしていた北条幕府も正慶2年/元弘3年(1333)に全滅し、その次に展開された南北朝の対立、さらに応仁元年~文明9年(1467~1477)の応仁の乱、つづいて戦国時代と、まさに末法の初めの500年は、対立、いがみ合い、怒号、殺戮の充満した時代であった。
とくに日蓮大聖人御出現の時代は、天変地夭が盛んであり、世界的にも蒙古の侵入でインド、中国は見る影もなかったのである。これらは三大秘法の大正法興隆の瑞相であった。
以上が五箇の500歳についての大要であるが、これらについては本抄に詳しく論述されている。また、それぞれの時代に出現し、正法を弘通する指導者についても、やはり本抄に詳説されているが、次の御抄も参照されたい。
「四依に四類有り、小乗の四依は多分は正法の前の五百年に出現す、大乗の四依は多分は正法の後の五百年に出現す、三に迹門の四依は多分は像法一千年・少分は末法の初なり、四に本門の四依は地涌千界末法の始に必ず出現す可し今の遣使還告は地涌なり」(0251-07)と。
第三 本抄の元意top
撰時抄においては、仏法は時を肝要となすことを明かし、釈尊の在世と、滅後の正像末の三時について、それぞれ論じられているが、別しては、末法の時を撰取するとこにある。末法の時を撰取するに、また二意があり、一には文底秘沈の大法広宣流布を明かし、二には日蓮大聖人が下種の主師親なる旨を明かしている。これらの点については、すでにくわしく述べてきたとおりである。
しかして、本抄の元意、すなわち日蓮大聖人の御内証は、末法の広宣流布の予言にある。実に撰時抄は、世界広布の予言書であると信ずる。しかも、日蓮大聖人が世界広布を予言なされてからすでに700年にいたるまで、広宣流布の実現は将来の遠い夢のようにしか考えられなかった。
もしも、このまま、永遠に時が過ぎ去っていくなら、ついに日蓮大聖人の予言は虚妄になるところであった。この暗闇を払って世界広布の現実に立ち上がったのが、創価教育学会である。創価学会こそが、撰時抄を身をもって拝読し、身をもって実践していくところの、唯一の団体であると確信する。
ゆえに、本抄にいわく「正像二千年の大王よりも後世ををもはん人人は末法の今の民にてこそあるべけれ此を信ぜざらんや、彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱うる癩人とはなるべし、梁の武帝の願に云く『寧ろ提婆達多となて無間地獄には沈むとも欝頭羅弗とはならじ』」(0260-10)と。このようにおおせられるところの大福運は、ただひとり、わが創価学会にのみ許されることである。なぜならば、仏意仏勅のままに広宣流布の戦いをなしとげていくものは、ただ創価学会のみだからである。
聖人御難事にいわく「仏の大難には及ぶか勝れたるか其は知らず、竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を並べがたし、日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人・多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり、仏滅後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人・但日蓮一人なり、過去現在の末法の法華経の行者を軽賎する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず、日蓮又かくのごとし」(1189-15)と。
このような日蓮大聖人の御確信と、御本仏の出現に対して、わが創価学会を比較したてまつることは、まことに恐れ多いことであるが、いま強いてこれを説き示そうと思う。まず、わが創価学会の勇猛果敢なる折伏闘争は、竜樹・天親・天台・伝教は申すにおよばず、大聖人以後においても、だれひとり肩をならべるものはないのである。創価学会が出現しなかったならば、釈迦・多宝・十方の諸仏はもとより、日蓮大聖人までが大虚妄の仏となってしまう。仏滅後2910余年、全世界において、釈尊および日蓮大聖人の御言を助けたる人は、ただ創価学会のみである。過去・現在の末法の法華経の行者を軽賎する王臣万民は、始めは事なきようであっても、終に亡びないものはなかった。いま創価学会も、またかくのごとく、わが創価学会を軽賎する王臣万民は、ことごとく滅亡し、地獄へおちざるをえないのである。
諸法実相抄にいわく「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(1360-09)と。この御予言のごとく、創価学会は、実に500万世帯、1000数百万人の会員を数えるにいたったのである。
上野殿御返事にいわく「梵天・帝釈等の御計として日本国・一時に信ずる事あるべし、爾時我も本より信じたり信じたりと申す人こそおほくをはせずらんめとおぼえ候」(1539-15)と。
以上のように、広宣流布の実現は、大地を的とするのであり、またそれは梵天帝釈のおはからいであると、おおせられている。
地涌の菩薩の出現については、観心本尊抄にいわく「今末法の初小を以て大を打ち権を以て実を破し東西共に之を失し天地顛倒せり迹化の四依は隠れて現前せず諸天其の国を棄て之を守護せず、此の時地涌の菩薩始めて世に出現し但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」(0253-15)また、いわく「当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す」(0254-01)と。
賢王となって愚王を誡責するとの予言は、三大秘法抄の「有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」(1022-15)に相当する。問題は、いつ、だれが、どこへ出現して、広宣流布を達成するかである。その答えは前述のとおり、創価学会によって実践されている。賢王として、また有徳王として、兵馬弓箭の代わりに、選文化活動を通じて、広宣流布の大道を前進してきたのである。
ふたたび撰時抄にもどって、本文を拝読するに、「一閻浮提の内・八万の国あり其の国国に八万の王あり」(0258-15)とて、八万の国の王臣万民一同に南無妙法蓮華経と唱えるとおおせられている。これこそ全世界広宣流布の明白な予言ではないか。
さらに、またいわく「国主等・其のいさめを用いずば鄰国にをほせつけて彼彼の国国の悪王・悪比丘等をせめらるるならば前代未聞の大闘諍・一閻浮提に起るべし其の時・日月所照の四天下の一切衆生、或は国ををしみ或は身ををしむゆへに一切の仏菩薩にいのりをかくともしるしなくば彼のにくみつる一の小僧を信じて無量の大僧等八万の大王等、一切の万民・皆頭を地につけ掌を合せて一同に南無妙法蓮華経ととなうべし」(0259-09)と。
この文におおせの「前代未聞の大闘争」とはなにを指されるのか。御仏意に照らし、これは第二次世界大戦であると決定するものである。なぜなら、東洋においては日本が、欧州においてはドイツ・イタリアの両国が連合国軍と数年にわたって死闘し、ついに壊滅的な打撃をこうむり、敗戦亡国の悲運をたどった。しかも敗戦国として、世界最初の原爆被害国ともなった日本の国から、三大秘法の旗印のもと、ついに創価学会は500万所帯の折伏をなしとげたのである。
さらに、第五章の講義で詳述するように「前代未聞の大闘争」とは、仏法の一大原理を説かれたものであり、一往は700年前の日蓮大聖人御在世当時にもあてはまるし、また今後において第三次世界大戦が一閻浮提におこることであろうという考え方もあろう。しかし、もし第三次世界大戦が起こったならば、核兵器やミサイル等の製造保有国が増加しつつある現在、30数億の人類の終末は必至である。われわれは、断じて第三次世界大戦はおこしてはならない。そのためにも、人類最後の「前代未聞の大闘争」とは、第二次世界大戦なりと決定し、絶対平和建設のため、広宣流布の道を力強く前進すべきことを主張して止まない。
終戦以来の日本は、あたかも宗教戦争のごとく、幾多の宗教が巷に氾濫して、人心を迷わし、思想の混乱は、その極に達した観を呈している。この中にあって、創価学会は、日蓮大聖人の最高哲学によって、いっさいの宗教を批判し、破折し、大衆をして邪教の害毒から脱せしめるために、懸命に努力をつづけてきた。同時に、恩師戸田城聖先生が叫ばれた思想の統一を目指して、絶えざる奮闘を重ねて、今日にいたったことを忘れてはならない。
また、とくに現今の世界の情勢は、ますます多難を加え、戦乱の危惧の声は日ごとに険しくなってきている。この時にあたり、世界の恒久平和と人類永遠の幸福をめざす創価学会の活動は、御本仏・日蓮大聖人をはじめ三世諸仏の御歓びくださることは絶対なりと確信して止まないものである。
0256:01~0256:05 第一章 時の要なるを標すtop
| 撰時抄 建治元年 五十四歳御作 釈 子 日 蓮 述ぶ 01 夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし、 過去の大通智勝仏は出世し給いて十小劫が間一経も説き給は 02 ず経に云く一坐十小劫又云く「仏時の未だ至らざるを知り請を受けて黙然として坐す」等云云、 今の教主釈尊は四 03 十余年の程法華経を説き給はず経に云く「説く時未だ至らざるが故」と云云、 老子は母の胎に処して八十年、 弥 04 勒菩薩は兜率の内院に篭らせ給いて 五十六億七千万歳をまち給うべし、 彼の時鳥は春ををくり鶏鳥は暁をまつ畜 05 生すらなをかくのごとし 何に況や仏法を修行せんに時を糾ざるべしや、 -----― 一体、仏法を修学するの道は、必ず時を習わなければならない。 このことを三世の諸仏について考えてみるならば、過去三千塵点劫の昔に出世した大通智勝仏は、出世してから十小劫の間、一経も説かなかった。このことを、法華経化城喩品第七には「一坐十小劫」と説き、また「仏は法を説くべき時が、いまだ来ていないことを知っていたから、説法を請い願われても黙然として坐していた」等と説かれている。次に、今の教主釈尊は、成道してから四十余年の間、出世の本懐たる法華経を説かなかった」といっている。 外道の法でも、老子は母の胎に八十年いて時を待ったという。次に未来仏たる弥勒菩薩は兜率の内院にこもり、五十六億七千万歳の間、出世の時を待っているといわれる。彼の時鳥は、春の終わろうとする初夏を待って鳴き、鷄鳥は暁を待って鳴く、畜生すらこのように時を違えないのであるから、まして仏法を修行しようとする者が、時を糺明しないでよいだろうか。必ず時というものを、はっきりと認識してかからなければならないのである。 |
釈子日蓮
「釈子」とは、仏の弟子ということである。これについて日寛上人は、次の四種類があることを明かされている。一には、身は釈子に似て、心は釈子でないもの、すなわち禅宗や念仏宗や真言宗などの僧侶である。二には、身心ともに釈子ではない者。すなわちこれは禅・念仏・真言などの在家の信者や檀那の者どもである。三には、身心ともに釈子の者。すなわち日蓮大聖人・日興上人である。四には、釈子とはいえないが、心は釈子である者。すなわち創価学会員がこれにあたる。このなかにおいて、日蓮大聖人こそ身心ともに真実の釈子であられる。撰時抄の冒頭に「釈子日蓮」とおしたためになられたのは、このためである。日寛上人は「釈子日蓮」の真実の義を明かすのに五義があるとされている。第一に、日蓮大聖人は本化再誕なるゆえ真実の釈子であられる。第二は、日蓮大聖人は能く法の正邪を糺すゆえである。第三に、日蓮大聖人は能く謗法を呵責されているゆえである。第四に、日蓮大聖人は能くこの下種の法華経を読誦されるゆえである。第五には、日蓮大聖人は本因妙の釈尊であられるゆえである。
―――
日蓮(名前について)
日蓮大聖人のお名前には、日文字の御相伝があり深秘である。①釈尊の童名は日種太子、日蓮大聖人は善日麿と申し上げる。②釈尊の果位の名は慧日大聖尊、末法の御本仏の御名は日蓮大聖人。③国は月氏国に対して日本国。日蓮の御名は、自ら号されたものであるが、このように号される所以はここにあるといえる。
―――
大通智勝仏
三千塵点劫の昔にいたという仏。化城喩品には「乃往、無量無辺不可思議阿僧祇劫、爾の時に仏有ましき、大通智勝如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と名づく。其の国を好成と名づく、劫を大相と名づく」とある。大通智勝仏は二万劫の間法華経を説かなかった。大通智勝仏に十六の子供があった。その十六人の子供の請によって、二万劫過ぎてから妙法蓮華経を説いた。その時十六王子および小分の声聞は信受して法華経を得たが、多分の衆生は疑いを起こして信じなかった。そこで後に16王子は父の説を繰り返して法華経を説いた。これを「大通覆講」という。またこれによって、その時の衆生は、ようやく信解することができた。この十六番目の王子が釈尊で、その時の下種を大通下種という。
―――
小劫
一つの劫のこと。劫は梵語のカルパ(Kalpa)で劫波・劫跛ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を一小劫としている。
―――
教主釈尊
一代聖教の教主である釈尊のこと。釈尊には六種、蔵教・通教・別教・法華迹門・法華本門・文底独一本門の釈尊があるが、釈尊教主は教法の主導の意で、法華文底独一本門の教主、日蓮大聖人のこと。ただし御文によってまれに、インド応誕の釈迦仏をさす場合もある。
―――
四十余年
釈迦50年の説法のうち、初めの42年の教えは方便権教で、真実をあらわさない教えであり、最後の8年間において法華経で真実を説いているのである。
―――
法華経
釈尊一代50年の説法のうちはじめの42年にわたって、華厳・阿含・方等・般若と方便の諸経を説き、最後の無量義経で「四十余年未顕真実」と爾前諸経を打ち破り「世尊法久後、要当説真実」と立てて後、8年間で説かれた真実の経。六訳三存。現存しない経。①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)。②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)。③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)。現存する経。④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)。⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)。⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)。このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている、説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。即ち①釈尊の法華経二十八品②天台の摩訶止観③大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経と区分する。
―――
老子
生没年不明。中国周代の思想家。道徳経を著す。史記によると、楚の苦県の人。姓は李、名は耳、字は伯陽。周の守藏の吏。周末の混乱を避けて隠棲しようとして、関所を通る時、関の令、尹喜が道を求めたので、道徳経五千余言を説いたと言う。老子の思想の中心は道の観念であり、道には、一・玄・虚無の義があり、それが万物を生みだす根元の一者として、あらゆる現象界を律しており、人が道の原理に法って事を行えば現実的成功を収めることができるとする。
―――
弥勒菩薩
慈氏と訳し、名は阿逸多といい無能勝と訳す。インドの婆羅門の家に生れ、のちに釈尊の弟子となり、慈悲第一といわれ、釈尊の仏位を継ぐべき補処の菩薩となった。釈尊に先立って入滅し、兜率の内院に生まれ、五十六億七千万歳の後、再び世に出て釈尊のあとを継ぐと菩薩処胎経に説かれている。法華経の従地涌出品では発起衆となり、寿量品、分別功徳品、随喜功徳品では対告衆となった菩薩である。
―――
兜率の内院
兜率天の内院のこと。兜率天は内院と外院に分かれ、内院には兜率天宮があって、釈尊に先立って入滅した弥勒菩薩が天人のため説法しているという。
―――
時鳥
カッコウ目・カッコウ科に分類される鳥類の一種。特徴的な鳴き声とウグイスなどに托卵する習性で知られている。日本では古来から様々な文書に登場し、杜鵑、杜宇、蜀魂、不如帰、時鳥、子規、田鵑など、漢字表記や異名が多い。春告鳥の異名もある。
―――
鶏鳥
鳥類の種のひとつ。代表的な家禽として世界中で飼育されている。夜明けを知らせる鳥とされている。
―――――――――
この章は仏法を修学するものが、必ず時を習うべきことを明かされている。その理由として、かの大通仏、現在の釈迦仏、未来の弥勒菩薩について明かし、また、外道の聖賢たる老子と、畜生たる時鳥、鷄等も時を待つことを例証に引かれている。
なにゆえに「必ず先ず」と時を重視するかといえば、次のように、宗教の五網がことごとく時代によって相違するゆえである。すなわち、第一に教についていえば、正法時代が小乗教、権大乗経であり、像法時代は法華経迹門、末法は独一本門の流布すべき時である。第二に機を論ずれば、正像は本已有善の機であり、末法は本末有善である。第三に時は今の論点であり、第四に国を論ずれば、正像にはインドの釈迦仏法が東に流れ、末法に入っては日本の日蓮大聖人の仏法が西に流れる。第五に教法流布の先後とは、末法においては正像に流布した大小権実がことごとく無益となり、ただ寿量品文底下種の大白法が流布すべき時である。このように、時によってすべてが決定されるゆえに「必ず先ず時を習うべし」と仰せられているのである。
如説修行抄にいわく「されば国中の諸学者等 仏法をあらあら学すと云へども時刻相応の道をしらず四節・四季・取取に替れり、夏は熱く冬はつめたく春は花さき秋は菓なる春種子を下して秋菓を取るべし秋種子を下して春菓を取らんに豈取らる可けんや、極寒の時は厚き衣は用なり極熱の夏はなにかせん、凉風は夏の用なり冬はなにかせん、仏法も亦復是くの如し小乗の流布して得益あるべき時もあり、権大乗の流布して得益あるべき時もあり、実教の流布して仏果を得べき時もあり、然るに正像二千年は小乗権大乗の流布の時なり、末法の始めの五百年には純円・一実の法華経のみ広宣流布の時なり」(0503-08)と。
以上のように、時の一時を離れては五箇を論ずることもできないし、また次のように判教の浅深も論ずることができないのである。すなわち、正法の始めの五百年はもっぱら内外相対を用い、次の五百年はもっぱら大小相対を用い、像法一千年はもっぱら権実相対を用いた。もししからば、末法はもっぱら本迹相対を用いるのである。如説修行抄の「純円一実の法華経」とは、本門寿量品の文底秘沈の大法である。
機根もまた同じである。正像二時の機は本已有善であり、末法は本末有善である。国もまた同じで、正像弘通の権迹は、月氏・震旦を始めとし、末法流布の本門は、日本国を始めとするのである。諌暁八幡抄にいわく「月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり」(0589-01)と。
このように、すべて時をもって本となして論ずるのである。時を知らずして、何を論ずることができようか。末法には、法華経本門寿量品の文底の三大秘法が流布され、本末有善の機に対して折伏を行ずべきことは、すでに述べたとおりである。こうした日蓮大聖人の仏法の時代においても、また「時」がある。日蓮大聖人は、三大秘法のうち、建長5年(1253)4月28日には、題目を立てられ、弘安2年(1279)10月12日には、本門戒壇の大御本尊を御図顕あそばされた。御一代の法門においても三沢抄にいわく「さどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」(01489-07)とおおせのように、順序、段階をふまれている。
創価学会の結成の時は、逆縁の衆生のみが日本国中に充満し、国をあげて正法流布を妨害した。ために日本国民の受けた総罰は、太平洋戦争であった。こうしたなか、牧口初代会長は、みずから折伏戦の陣頭に立たれ、国難を救い、世界人類の平和と幸福のために、三大秘法の広宣流布を叫ばれた。しかるに軍部と神道主義者たちは、誕生して間のない創価学会に弾圧を加え、昭和18年7月に幹部21人が投獄され、牧口会長は19年11月18日に牢死なされて御身を大御本尊に捧げられたのであった。その謗法の結果は、日本の国は戦いに敗れ、数百万にのぼる戦死者を出し、国土は爆撃を受け廃墟と化し、指導者たちは戦争犯罪人として極刑に処せられ、国民大衆は苦痛のどん底へ落ちたのである。
しかし、これを転機として、いよいよ順縁広布の時が来た。牧口会長の御意志を受け継いだ戸田会長は、創価学会を再建し、昭和33年の春までに80万世帯を突破する大折伏を達成し、戸田二代会長は、昭和33年4月2日、御逝去なされた。
私は恩師の御遺命のままに、第三代会長に就任し、広宣流布をさらに一歩進むべく、活動を開始した。かくして、昭和39年には五百万世帯を突破し、日本国内はもとより、遠く世界の各国に学会員ができ、いまや創価学会員のいない町や村はない。どこの職場にも学会員がいる。
これこそ、順縁の広宣流布であり、時のなせるわざである。観心本尊抄文段にいわく「兼ねて順縁広布の時を判ずるか」と。ここで「順縁広布の時」とは、観心本尊抄の「此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す」(0254-01)の文である。
この文を日寛上人は、法体の折伏と化儀の折伏に判ぜられた。すなわち日蓮大聖人の行じられた折伏は法体の折伏であり、あらゆる文化・芸術・教育活動を通して、日蓮大聖人の仏法理念を広宣流布していくのが化儀の折伏である。
時間について
以上のように、仏法において「時」を論じている中に、衆生の機根とが相応ずる時、正像末の三時・五時・八教等の「時」がある。そのほか、生命は永遠であり無始無終であるという哲理、あるいは法華経涌出品における「五十小劫半日の如し」等、まことに仏法では多種多様にわたり、時間について説いている。
一般の人は、時とか時間とかいえば、すぐ時計の動きを思い、哲学者は時間と空間について観念的に思索し、天文学者や科学者は天体間の相対運動や光速度や相対性理論などを考えていく。古来、時間の問題は、哲学や自然科学等の分野でも、ひじょうに難解とされ、いまだに解明されきってはいないのである。
しかし、仏法においては、すでに3000年前から深遠なる時間論を説いており、仏法で説く時間こそ、真実の時間であるといっても過言ではない。とくに日蓮大聖人の仏法で説く、久遠元初、久遠即末法、久末一同等の時間に対する考え方は、それ自体、偉大なる最高の哲学である。そしてアインシュタイン博士が提唱した有名な相対性理論等で説く時間も、仏法で説く、これらの時間論の一部であると思われるのである。
仏法では、生命活動を中心にした時間を深く説ききっている。すなわち、実際生活で感ずる時間を重視する。ここから時間の本質が究明されている。そして、時間とは、生命活動にそなわる特性であり、宇宙生命の活動や変化によって感ずるものであるとしている。そして、いわゆる物理的時間は、これらの考え方に立って、用いていくのである。
第一に物理学的時間から定められて、日常生活に用いられている時間を論じ、第二に物理学的時間の中でも、アイザック・ニュートンの絶対時間と、アルベルト・アインシュタインの相対的時間とを論じ、第三で仏法で説く本質について、簡単に論じてみよう。
第一に、われわれが、ふつう日常生活で使っている時間とは、どんなものであろうか。時間は、第一に「午前8時10分に出勤した」というような、一瞬間の時刻と、第二に「試験時間は3時間である」というような継続した時間とがある。いずれも、地球の公転と自転とによって定められた時間である。
われわれの日常生活は、ニュートンの絶対的な数学的な時間を考えて、ほとんど不自由はない。すなわち時間は同じ速さで経ち、もし外界からの力がなければ、地球は同じ速度で自転、公転をつづけているとして、約束の上で定めた共通の時間である。太陽のまわりを地球が公転し、春夏秋冬をくり返すのを一年と定め、地球の自転で昼と夜をくり返すのを一日と考え、これを当分して時間を定めた。
現代のように、1日を24時間に分けたのは、古代エジプト人である。すなわち太陽を中心に生活した古代エジプト人は、西紀前4000年ごろ、365日を1年とする太陽暦を用い、西紀前3000年ころには、昼と夜を、それぞれ12時間に分けた。同じくバビロニアにおいても西紀前8世紀ごろには昼夜をおのおの12時間に分けて時間を定めていた。また一日を12に分ける方法も行われた。これらの思想がギリシァ、ローマにおいて発展して、いろいろな形をへて今日にいたっている。日本や中国でも、いわゆる子丑の十二支による二倍時間が長い間使われてきた。
現在の時間は、同じように、1日を24時間として、1時間を60分、1分を60秒としているが、1日の時間、1時間の時間に、それぞれ平均太陽時を用いている。なぜなら、昔のように、太陽がある地点の子午線を経過してから、また同じく子午線を経過するまでの時間を一日とする真太陽日を用いることは、地球の軌道が円ではなく楕円であるため、一日の長さが一年を通じて一定でないからである。平均太陽時は、その24/1日・時間である。実際には恒星を観測してえた真恒星時から、平均恒星時を算出し、平均太陽時に概算している。一年は365.2422平均太陽日であり、365時間5時間46分48秒となる。
また、最近では、地球の自転速度には、なお原因不明の変動があるため不規則をまぬがれず、より正確を期して、地球の公転周期にもとづく定義にかえられた。すなわち1900年初ではなかった1太陽年の31556925.97467/1を1秒ときめた。さらに正確な時間の決定のために、アンモニア分子の中の窒素原子の振動や、セシウム原子の中での振動の周期を利用した原子時計の研究等もすすめられている。いずれにしても、地球の公転と自転、あるいは原子の振動などによって定められた時間であるから、絶対的な客観的時間とはいいがたい。
次に平均太陽がイギリスの有名なグリニジ天文台にあるグリニジ子午線を通過する時刻の12時間前を0時として、これをグリニジ標準時間といい、全世界の地方標準時の基準としている。各国では、グリニジ標準時と整数時間の差をもつ標準時を定めている。日本では東経135度を標準時としているため、グリニジ標準時より9時間だけ早い。
ジェット機の発達につれて、海外旅行の際、よく時差のために悩まされる。時差とは地球上の各地方の標準時が示す時刻に、10時間とか15時間とか差があることである。24時間を単位とした規則正しい生活が、時差のある新しい生活に身体がなれるまで大変なわけである。
第二に相対性理論というものは、いかなるものであろうか。ニュートンいらいの古典物理学では、時間、空間は絶対的なものとされてきた。ところがアインシュタインの特殊相対性理論、つづいて一般相対性理論によって、時間、空間はすべて絶対的なものではなく、相対的なものであるという、新しい概念におきかえられた。
アインシュタインが、相対性理論を発表するまでは、ニュートンの古典力学が、用いられていた。ニュートンはプリンピシアという有名な著書に、時間と空間の絶対性を説いて「①絶対的な、真の、かつ数学的な時間は、ひとりでに、それ自身の性質として、外界のどんなものとも無関係に、いちように経っていく。②絶対な空間は、それ自身の性質として、外界のどんなものとも無関係に、つねに同一であり、かつ不同である」といっていた。そして、これを誰も疑うものはなかった。
しかるに、アインシュタインは、時間と空間は、決してこのように無関係に別個に独立して存在するのではなく、きわめて密接に関係しあっているのである。すなわち、時間も空間も、どちらか一方だけでは存在できない。おたがいに関係しあっているのである。そして、宇宙のすべてのものは、時間と空間をもちながら、つねに休むことなく運動と変化をつづけており、われわれも時間を第四の次元とする四次元の世界に住んでいるという。四次元とは、空間がタテ・ヨコ・タカサを持つ三次元で、時間の概念を加えると四次元になるわけである。
これを具体的にいえば、時間は絶対的であり、あらゆる場所で、全く同様には測定されないのである。相対性理論の世界は、高速度に関係が深い、光速度は1秒に300,000㌔であるが、宇宙のかなたの星は何万何億光年も遠い先にある。すなわち10万光年の星の光は、10万年前に輝いていた光を今、われわれがようやく眺められるわけである。しかし地球では、この光速度が、われわれの生活の各速度とくらべてあまりにも大きいので、ほとんど相対性理論の影響を感じないが、光速度が関係して、実際には、わずかでも次のような奇妙なことがおこることをいう。
すなわち特急列車の中で、二人の人が同時に別の場所で、それぞれ、タバコに火をつけたとする。しかし地面に立っている人から見れば、決して火のつけ方は同時ではないというのである。これは宇宙の天体間の事件に拡大して考えれば納得できるであろう。このように、異なった場所におこった二つの事件が、ある場所からみて同時であったとしても、他の場所からみれば同時ではなくなり、一定の時間だけへだっていることになる。
そのほか、光速度以上の速度は絶対に出せない。また、速度が増すにつれて、時間はおくれるようになり、光速度に近づけば、ひじょうに時間がおくれるようになり、光速度の速さの物体では生命の変化や運動が感ぜられないから時間も感ぜられないことになる。また、科学解説者ガモフによれば、将来いつか宇宙船が地球から発船して太陽系の他の惑星や、われわれの銀河系内でも近くの恒星の惑星を訪れて地球に帰ってきた操縦士や乗客は、ずっと地球上にいた人よりも年をとらないで若いこともありうるという。そして、これは帰ってくるときの方向転換のために大きな加速度をうけることを考えれば、数学的にも証明できるという。
かくして、非現実的ではあるが、8光年離れているシリウス星まで、1年間で光速度の98%に達する宇宙船に乗れば、9年でかえってこれるが、地球上に住む人からみれば、16年後にやっと帰ってくるという計算になるという。また銀河系宇宙の中心まで一定速度で往復旅行をすれば、地球の暦では4万年かかるが、宇宙船自体の時計では、わずか30年しかかからぬという。
もちろん、これは時間と空間の相対論的性質を示す一つの話に過ぎない。現実には、いかにイオンロケットや原子力をもちいても、遠い恒星や惑星まで旅行できるような宇宙船を作ることはできないからである。しかし、このような時間と空間の相対性は、もはや否定することができない。そして、宇宙時代の発展と共に、種々の分野に影響をあたえずにはおかないであろう。また、この相対性理論における時間・空間の問題は、哲学・思想上にも、大きな影響を与えずにはおかなかった。ただ、東洋仏法の真髄のみが、相対性理論いな、これ以上の時間空間論を説ききったことは、偉大なる仏教哲学を究明することによってしられるのである。 時間は、宇宙生命の変化、運動によって、われわれが感ずるものであり、また地球の公転や自転のように、ほぼ規則正しい運動を利用して、われわれが決定したものである。このように、相対性理論が唱えられたことによって、仏法の説く時間の正しさが、証明されることになったのである。そして、あくまでも宇宙生命の存在、変化、運動が主体であるから、光速以上の速度を考えて、歴史を逆行させるというような空論が、事実として成立するわけのものではないことは当然である。すなわち仏法哲学よりみれば、因果の二法によって成り立つ現象界が、逆戻りすることはありえないから、とうぜん時間の可逆性は成り立たない。また公転や自転の速さが異なる他の天体においては、当然地球で感ずる時間とは異なるわけである。とくに仏法哲学においては、客観的な時間ではなく、生命活動を中心にした主観的な時間を説いている。これは現代科学における時間の考え方をリードする思想といえよう。
第三に、仏法においては、それぞれの生命の感ずる時間をもって、その時間としている。しかして、ひじょうに楽しい境涯のとき、たとえば十界の中では天界の境涯の時には、じつに時間の進みが早い。このような時には、たしかに3時間・4時間でも2・3分ほどにしか感じないものである。ゆえに、このことは、われわれの生活感情から、容易に首肯できるであろう。
その反対に、ひじょうに苦しい悩みの多い日常生活にあっては、苦痛の一日が早く終わればよいと感じながら、一日がひじょうに長く感ぜられるものである。すなわち時間の経つのが遅く感ぜられる。ゆえに、地獄界にあっては、時間が経つのが遅く感ぜられ、それだけ苦痛が多いわけである。
このように、生命活動の果報として得られる時間は、時計ではかる時間とは、違って、すべての時間の長短は、その時の十界三千の果報によって決定されてくる。たとえば、深い眠りに入っているような時は、生命活動の上に意識が消えてしまって、時間がまったく感ぜられない。死んだ後にわが生命が宇宙生命に冥伏した時も同様である。そして、翌朝眠りから覚めて、縁によって思い出す中に過去を感ずるのである。
御義口伝下にいわく「御義口伝に云く我実とは釈尊の久遠実成道なりと云う事を説かれたり、然りと雖も当品の意は我とは法界の衆生なり十界己己を指して我と云うなり、実とは無作三身の仏なりと定めたり此れを実と云うなり成とは成なり成は開く義なり法界無作の三身の仏なりと開きたり、仏とは此れを覚知するを云うなり已とは過去なり来とは未来なり已来の言の中に現在は有るなり、我実と成けたる仏にして已も来も無量なり無辺なり」(0753-第三我実成仏已来無量無辺等の事-01)と。
同じく御義口伝下にいわく「久遠とははたらかさず.つくろわず.もとの儘と云う義なり、無作の三身なれば初めて成ぜず是れ働かざるなり、卅二相八十種好を具足せず是れ繕わざるなり本有常住の仏なれば本の侭なり是を久遠と云うなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり実成無作と開けたるなり云云」(0759-第廿三 久遠の事-01)と。
過去・現在・未来という時間について「已とは過去なり来とは未来なり已来の言の中に現在は有るなり、我実と成けたる仏にして已も来も無量なり無辺なり」とおおせである。これは現在の一念、現在の一瞬の中に、過去も未来も、すべて含まれているという重大な御教示と拝するのである。また、総勘文抄にいわく「過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理なれば無分別なり」(0562-08)と。過去・現在・未来と表面的に区別することはできるが、生命の本源からみれば、区別できないとおおせられている。
生命活動の本源をたどれば、究極は現在の生命にあることがわかる。過去というものを考えれば、あるものを縁として過去を思い出すゆえに、全くわからない。記憶を再現することは、一瞬間の生命の働きであり、一瞬の生命を成いて過去の生命活動を涌現したのである。ゆえに現在の一瞬の生命活動の用といいうる。たしかに、いま現在と思った刹那はすぐに過去となり、未来もたちまち現在となり、過去となる。したがってこの瞬間の生命に、過去・現在・未来があるのである。
さらに一瞬の生命に因果を有しており、過去のすべての因が現在の果となり、現在の因が未来の果を生ずる。そして因果俱時不思議の一法を南無妙法蓮華経と名づけたのである。御義口伝には「元初の一念一法界より外に更に六道四聖とて有る可からざるなり所謂南無妙法蓮華経は三世一念なり」(0788-02)とある。百六箇抄に「久遠一念元初の妙法を受け頂く事は最極無上の潅頂なり法は本・人は迹なり」(0867-01)また本因妙抄に「久遠一念の南無妙法蓮華経」(0871-09)等とある。
かくして、過去も未来も、すべて現在の一瞬に含まれ、一瞬一瞬の生命活動が変化しつつ連続するのが永遠である。現在の一瞬の生命のうちに、過去永遠の生命を包含し、未来永劫の生命を包含する。久遠の生命も一念の生命におさまるのである。次に久遠即仏法とは、すなわち「久遠とははたらかず・くつろわず・もとの儘」であり、生命活動の本質をたどってみれば、究極は一瞬であり、それをさして久遠元初ともいい、末法ともいうのである。しかして、久遠元初も末法も、ともに三大秘法の南無妙法蓮華経のみがひろまる時なるがゆえに、すなわち久遠即末法、久末一同ではないか。
所詮、仏法哲学よりみれば、われわれの生命活動なくして、時間はない。われわれの生命活動を根本として、宇宙生命の運動、変化から感じとっておくのが、真実の時間であるということである。このように、仏法で説く時間こそ、時間の本質なりと主張するものである。
0256:05~0257:13 第二章 仏法は時によるを明かすtop
| 05 寂滅道場の砌には十方の諸仏示現し一切 06 の大菩薩集会し給い梵帝・ 四天は衣をひるがへし竜神・八部は掌を合せ凡夫・ 大根性の者は耳をそばだて生身得 07 忍の諸菩薩・解脱月等請をなし給いしかども 世尊は二乗作仏・久遠実成をば名字をかくし即身成仏・一念三千の肝 08 心、 其義を宣べ給はず、 此等は偏にこれ機は有りしかども時の来らざればのべさせ給はず経に云く「説く時未だ 09 至らざるが故」等云云、 霊山会上の砌には閻浮第一の不孝の人たりし阿闍世大王座につらなり、一代謗法の提婆達 10 多には 天王如来と名をさづけ五障の竜女は蛇身をあらためずして仏になる、決定性の成仏はイレル種の花さき果な 11 り久遠実成は百歳の臾・二十五の子となれるかとうたがふ、 一念三千は九界即仏界・仏界即九界と談ず、されば此 12 の経の一字は如意宝珠なり一句は諸仏の種子となる 此等は機の熟不熟はさてをきぬ時の至れるゆへなり、 経に云 13 く「今正しく是れ其の時なり決定して大乗を説かん」等云云。 -----― 仏教は相手の衆生によって法を説くよりもむしろ時によって説くべき教法が決定されてきている。すなわち釈迦仏が最初成道して華厳経を説法した寂滅道場の時には、十方の諸仏が示現し、いっさいの大菩薩はその会座に来集せられ、大梵天・帝釈天・四天王は衣をひるがえして集まり、竜神・八部宗は掌を合わせて仏を礼拝し、凡夫、大根性の者は耳をそばだてて仏の説法を聞かんと欲し、無生忍を証した生身得忍の諸菩薩・解脱月菩薩が墾ろに説法を請うている。このような華厳経の会座においてさえ、仏は法華経の肝心たる二乗作仏・久遠実成をば隠してその名字すら説かなかった。また即身成仏・一念三千の法門は、じつに一代仏教の肝要であり、極理であるが、華厳経にはその義を説き明かさなったのである。このように爾前四十余年の諸経では、上根上機の衆生があったけれども、いまだ法華経を説くべき時がこなかったので、述べなかったのである。ゆえに方便品第二では「説く時いまら至らざるゆえ」と説いているのである。 さて、いよいよ霊鷲山において法華経を説くことにあたっては、父の頻婆沙羅王を殺して世界第一の不幸者となった阿闍世王も、その会座に連なり、一生の間、謗法を犯しつづけた提婆達多には天王如来の記を授けられ、女人として罪深い五障の竜女は、蛇の身を改めないで畜生のままで即身成仏の現証を示した。決定性の二乗は、永遠に二乗の境地から抜け出ることができないはずだったのに、その二乗すら成仏すると説かれたことは、あたかも燋れる種がふたたび芽を出して華が咲き果がなったようなものであり、また、本門へ入って久遠実成を説く時は百歳の老人が二十五の若者の子供になったかと疑わしめた。すなわち老人とみられた地涌の大菩薩たちを、実は釈尊が五百塵点劫のその昔に成道して已来教化してきたのであると説いた。しかして、一念三千は九界即仏界・仏界即九界と説いて本有常住の十界互具を説き明かした。されば、この法華経の迹門も、本門も爾前経に対すれば、その一字が如意宝珠であり、法華経の一句は諸仏の種子となっている。しかして、日蓮大聖人は、権迹相対、迹本相対のうえに種脱相対を立てられて、本門寿量品の文の底に秘し沈められている。文底下種事行の一念三千の御本尊を、建立あそばされたのである。 さて、このように爾前四十余年と法華経八年が相違するのは、衆生の機根の熟・不熟はさておいて、時のいたるゆえである。法華経方便品第二に「今正しくこれその時なる、決定して大乗を説く」と説いているのは、この意である。 |
寂滅道場
釈尊は19歳で出家し、最初は多くの婆羅門について学んだが、解脱の道でないことを知り、もっぱら苦行に励んだ。しかし、これも解脱の道とはならず、尼連禅河にはいり沐浴して、一人の牧女・難陀婆羅の捧げる乳を飲んで身心がさわやかになることができた。こうして最後に伽耶城の菩提樹下の金剛宝座の吉祥の奉る浄輭草をしいて安住した。ここで沈思黙想7週間(49日)魔を降して12月8日の朝暁、朗然と悟りを開き、その座で3週間十方から集まった諸大菩薩に説いたのが華厳経であり覚道の地であるがゆえに「寂滅道場」という。
―――
十方の諸仏
十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
―――
梵帝
大梵天と帝釈天のこと。①梵天とは、仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。②帝釈とは、梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
―――
四天
四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
―――
竜神
八部衆(天、竜、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽)の2番目。金翅鳥、修羅、竜神とともに、地動を起こすといわれる。
―――
八部
八部衆のこと。仏法を守護する八種類の神々のこと。①天(天界に住む諸神)②竜(竜王・竜神)③夜叉(鬼神の一種)④乾闥婆 (天の音楽の神)⑤阿修羅(鬼神の一種)⑥迦楼羅(金翅鳥のこと。竜を主食とする鳥)⑦緊那羅 (天の音楽の神)⑧摩睺羅伽(蛇神)
―――
凡夫
梵語で婆羅、新訳では異生という。元来は一般人のこと。後になって断惑証理の聖者に対する称となった。凡庸な士夫。いまだ四諦の理を見ない浅識愚鈍の者で、煩悩に束縛された者をいう。法華経譬喩品第三に「凡夫は浅識にして深く五欲に著し、聞くとも解すること能わじ」とある。
―――
大根性の者
得道する機根が整っている凡夫のこと。
―――
生身得忍
父母から生じた肉体を生身といい、所生の肉体において、中道の無性法忍という境涯になったものを、生身得忍という。無性法忍とは三法忍の第三で、無相不相の法によって真理に契証するのをいう。忍とは、慧心の法に安住すること。父母所生の肉身を捨てて、実報土に生じ法性身を得たものを法身という。
―――
解脱月
華厳経の第六会、他化自在天の会座で、金剛蔵菩薩が十地の名を説いて黙って、これを分別しなかった。そこで「解脱月等」が大衆の心を知って、その義を解釈するように金剛蔵に問うた。二止三請して十地の法門を説いたのが、華厳経の十地品である。
―――
二乗作仏
「二乗」とは声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
―――
久遠実成
釈尊は、法華経如来寿量品第十六で、五百塵点劫の成道を説き、仏の本地を明かした。すなわち、爾前経および法華経迹門ではインドに出世して30歳のとき菩提樹下で初めて成仏したことが説かれ、これを始成正覚という。しかるに本門寿量品では、五百塵点劫という久遠の昔に、すでに仏であったことが説かれている。これを久遠実成といい、長遠の生命を説き明かしたものである。
―――
即身成仏
凡夫が凡夫そのままの姿で成仏すること。法華経で説かれた法門である。爾前経では凡身を断ち、煩悩を断ってからでなくては成仏できぬとされ、悪人や女人は成仏できぬとされたが、法華経にきて提婆達多と竜女が即身成仏の現証を示したのである。この元意は法華経の根底に秘沈された文底の妙法・久遠元初の妙法を信じたがゆえの成仏であり、その妙法の本体は南無妙法蓮華経の当体、御本尊であり、題目を唱えることにより即身成仏するのである。凡夫即極・直達正観に通じる。
―――
一念三千
仏教の極理である。釈尊はこれを出世の本懐として、法華経方便品に「諸法実相」に約して、ほぼこれを説いた。ついで寿量品にいたり、因果国の三妙に約し、仏身の振舞の上からこれを説いた。これを受けて天台は、像法時代に出現して、摩訶止観で、次のように説いた。観の冒頭に「摩訶止観第五に云く世間と如是と一なり開合の異なり。『夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千・一念の心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す乃至所以に称して不可思議境と為す意此に在り』等云云或本に云く一界に 三種の世間を具す」と。十界とは「地獄界・餓鬼界・畜生界 ・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界」。十如とは「如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」。三世間とは五蘊世間・衆生世間・国土世間」。一念三千には理と事があり、迹門は理・本門は事となる。文底下種本門に対する時は、法華経の本迹二門ともに理の一念三千となり、真の一念三千の法門とは、寿量品文底秘沈の三大秘法である。
―――
機
説法を受ける所化の衆生の機根。
―――
霊山会上
法華経を霊鷲山で説かれたところから、法華経の会座をいう。法華経の会座には二処三会といって、霊鷲山(序品~法師品)・虚空会(宝塔品~嘱累品)・霊鷲山(薬王菩薩本事品~普賢菩薩勧発品)がある。霊鷲山とは梵語で耆闍崛山(Gṛdhrakūṭa)のことで、インドのベンガル州の山であり、その南が尸陀林で死人の捨て場所となっていて、鷲が飛来するので「鷲山」といい、三世諸仏の法華経がとどまるので「霊山」という。日蓮大聖人の仏法から見れば、本門の題目を唱える者の住所は、いかなるところも霊鷲山である。
―――
閻浮
一閻浮提ぼこと。全世界を意味する。南閻浮提ともいう。閻浮は梵語で樹の名。提は州と訳す。古代インドの世界観に基づくもので、中央に須弥山があり、八つの海、八つの山が囲んでおり、いちばん外側の海を大鹹海という。その中に、東西南北の四方に東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大州があるとされていた。現在でいえば、地球上すべてが閻浮提といえる。
―――
阿闍世大王
梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨(うら)みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
―――
提婆達多
提婆ともいう。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。
―――
天王如来
法華経において提婆達多が記莂を受けた時の如来号。法華経提婆品において「提婆達多、却ってのち、無量劫を過ぎてまさに成仏することを得べし、号をば天王如来、応供・正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊、といわん、世界を天道と名づけん」とある。
―――
五障
女性の五つの障害。五礙ともいう。法華経提婆達多品第十二の竜女成仏の段に、舎利弗が女人は法器に非ず等と歎じ、更に女人の五障を数えて成仏を難ずる文に「又た女人の身には猶お五障有り。一には梵天王と作ることを得ず。二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏身なり。云何んぞ女身は速かに成仏することを得ん」とある。
―――
竜女
竜の女身である竜女は、大海の婆竭羅竜王のむすめで八歳であった。文殊師利菩薩が竜宮で法華経を説いたのを聞いて菩提心を起こし、ついで霊鷲山で釈尊の前で即身成仏の現証を顕わした。これを竜女作仏という。法華経が爾前の女人不成仏・改転の成仏を破折している。
―――
決定性
決定種性のこと。爾前経で声聞・縁覚の二乗は六道へも、菩薩・仏界へも絶対に出ることができないとした。この二乗をさして「決定性」とよんだ。法相宗ではとくにこれを強調し、法華経とはぜんぜん逆に、一乗方便・三乗真実と立てる。
―――
燋種の花さき果なり
「燋種」とは、二乗は灰身滅智の小乗教に執着し、仏の種を燋り殺して目を出すことはないが、法華経に至って燋種から花が咲き、果がないと説いている。すなわち二乗は灰身滅智したとはいえ、仏界という種子を残していたことを意味する。
―――
百歳の臾・二十五の子
涌出品で出現した地涌の菩薩は、威儀堂々としており、会座の大衆は釈尊の御師匠か親であると思ったが、釈尊は自分の弟子であると説いた。この時に会座の大衆は百歳の翁が、二十五歳の青年のような釈迦仏の子供であろうはずがないと疑ったことをいう。開目抄には「此の大菩薩は彼等にはにるべくもなき・ふりたりげにまします定めて釈尊の御師匠かなんどおぼしきを令初発道心とて幼稚のものども・なりしを教化して弟子となせりなんど・をほせあれば・大なる疑なるべし、日本の聖徳太子は人王第三十二代・用明天皇の御子なり、御年六歳の時・百済・高麗・唐土より老人どものわたりたりしを六歳の太子・我が弟子なりと・をほせありしかば彼の老人ども又合掌して我が師なり等云云、不思議なりし事なり、外典に申す或者道をゆけば路のほとりに年三十計りなる・わかものが八十計りなる老人を・とらへて打ちけり、いかなる事ぞと・とえば此の老翁は我が子なりなんど申すと・かたるにもにたり」(0212-13)とある。
―――
九界即仏界・仏界即九界
十界互具・一念三千の原理を示している。三大秘法の大御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱えれば、九界の衆生も即身成仏して仏界になる。これを九界即仏界というのである。
―――
此の経の一字
法華経の本門も迹門も爾前経に対すれば、一字が如意宝珠である。すなわち法華経には一念三千を説くが他経には一念三千がない。開目抄には「法華経の種に依つて天親菩薩は種子無上を立てたり天台の一念三千これなり」(0215-16)「但天台の一念三千こそ仏になるべき道とみゆれ、此の一念三千も我等一分の慧解もなし、而ども一代経経の中には此の経計り一念三千の玉をいだけり、余経の理は玉に・にたる黄石なり沙をしぼるに油なし石女に子のなきがごとし」(0234-04)観心本尊抄には「然りと雖も詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり」(0246-08)とある。
―――
如意宝珠
意のままに宝物や衣服・食物を取り出すことのできるという宝珠。如意珠・如意宝ともいう。大智度論には仏舎利の変じたものとか竜王の脳中から出たものといい、雑宝蔵経には摩竭の脳中から出たものといい、また帝釈天の持ち物である金剛杵の砕け落ちたものなど諸説がある。摩訶止観巻五上には「如意珠の如きは天上の勝宝なり、状芥粟の如くして大なる功能あり」等とある。兄弟抄には「妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり」(1087-12)、また御義口伝巻上には提婆達多品の有一宝珠を釈し「一とは妙法蓮華経なり宝とは妙法の用なり珠とは妙法の体なり」(0747-01)と仰せになっている。
―――
一句は諸仏の種子
法華経の一字一句は一念三千の宝珠である。ゆえに三世の諸仏を出生する種となる。末法においいては、寿量文底下種の一念三千こそ唯一の即身成仏の種子であり、またこの事行の一念三千とは日蓮大聖人出世の本懐である弘安2年(1279)10月12日御図顕の大御本尊である。開目抄には「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり」(0189-02)、秋元御書には「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(1072-05)とある。
―――
機の熟不熟
熟とは衆生の機根がしだいに成長して経文を開悟できることで、不熟とは衆生の機根がととのわず経文を聞けない状態である。
---------
この章では、仏が説法するにあたって、どのような法門を説くかは、衆生の機根によって決定されるのではなく、むしろ時が来たか来ないかによよって決定されることを明かされている。
その例として、この章では、寂滅道場すなわち華厳経の説法と、霊山会上すなわち法華経の説法とを比較されている。華厳経の時は、十方の諸仏、一切の大菩薩、梵帝四天等が集まったにもかかわらず、二乗作仏、久遠実成、一念三千等の肝要の法門は一つも説かなかった。
法華経の説法の時には、この世界中で第一の不幸者といわれる阿闍世王や、一代を通じて誹謗した提婆達多や、畜生の竜女さえ、その座につらなって説法を聞いている時に、二乗作仏、久遠実成、一念三千と説いて、一切衆生の即身成仏を説き明かしたのである。要するに華厳経の時には「説く時いまだいたらざるがゆえ」に説かなかったのであり、法華経の時には「今正しくこれその時なり」で、時が来たゆえ、一念三千即身成仏という釈尊出世の本懐、一代聖教の肝要、真髄を説き明かしたのである。このように、仏は、善人のために大法を説かず、悪人のために大法を説くゆえに、仏法は機によらず専ら時によるというのである。
このように、仏は時に相応する経法を説き、また時代相応の教法を定めておいてある。仏道修行者は、まずその時代相応の境を求め、時代相応の修行をしなくてはならない。爾前四十余年に法華経を修行したり、後八年に爾前経を修行しても、得道するわけがないのである。仏滅後においても、次のように、時代によって、機感相応の相違がある。三大秘法抄にいわく「正法一千年の機の前には唯小乗・権大乗相叶へり、像法一千年には法華経の迹門・機感相応せり、末法の始の五百年には法華経の本門・前後十三品を置きて只寿量品の一品を弘通すべき時なり機法相応せり」(1021-14)
しかして、悠久なる大河のごとく、蛾々たる大岳のごとく、伝承されてきた東洋仏法の真髄のみが、よく人類を救う指導理念たりうることを確信して止まない。この大理念が、いよいよ時に応じて、すべての民衆の宝珠として用いられる黎明の時代がきたのである。
一字は如意宝珠・一句は諸仏の種子等
法華経は一念三千を説いているのであるから、法華経は如意宝珠であり、諸仏の種子となるのである。爾前経には一念三千はないから、どんなに立派なことが説いてあっても、成仏の種子とはならないのである。しからば、法華経一部八巻が、そのまま末法の下種本門となるかというに、そうではない。およそ末法下種の正体とは、久遠名字の妙法事の一念三千である。すなわち文底深秘の大事で、日蓮大聖人の出世の御本懐であらせられるのである。それは次の御抄に明らかである。開目抄にいわく「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(0189-02)と。
本章の御文は前に示すとおり、権実相対の文であて、華厳と法華経とを比較して、勝劣浅深を判ぜられたのである。同様の御文で、観心本尊抄に「爾前迹門の円教尚仏因に非ず」(0249-07)と判ぜられているのは、本迹相対である。さらに同抄に「彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(0249-17)の御文は、正しく種脱相対である。
秋元御書にいわく「種熟脱の法門・法華経の肝心なり、三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(1072-05)と。曾谷入道許御書にいわく「而るに今時の学者時機に迷惑して或は小乗を弘通し或は権大乗を授与し或は一乗を演説すれども題目の五字を以て下種と為す可きの由来を知らざるか」(1027-14)と。
以上の御抄のうちで、観心本尊抄では「但」と判じ、秋元抄では「必ず」と判ぜられているが、いずれも寿量品文底下種の大御本尊によってのみ成仏がかなうことをお示しになっているのである。しかして、その文底下多種の御本尊とは申すまでもなく、弘安2年(1279)10月12日御図顕の大御本尊であらせられる。
0256:14~0257:16 第三章 機教相違の難を会すtop
| 14 問うて云く機にあらざるに大法を授けられば 愚人は定めて誹謗をなして悪道に堕るならば豈説く者の罪にあら 0257 01 ずや、答えて云く 人路をつくる路に迷う者あり作る者の罪となるべしや 良医・薬を病人にあたう病人嫌いて服せ 02 ずして死せば良医の失となるか、 尋ねて云く法華経の第二に云く「無智の人の中に此の経を説くこと莫れ」同第四 03 に云く「分布して妄りに人に授与すべからず」 同第五に云く「此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり、 諸経の中 04 に於て最も其の上に在り 長夜に守護して妄りに宣説せざれ」等云云、 此等の経文は機にあらずば説かざれという 05 か、 今反詰して云く不軽品に云く「而も是の言を作さく我深く汝等を敬う等云云 四衆の中に瞋恚を生じ心不浄な 06 る者有り、 悪口罵詈して言く是の無智の比丘○又云く 衆人或は杖木瓦石を以て之を打擲す」等云云、勧持品に云 07 く「諸の無智の人の 悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん」等云云、 此等の経文は悪口・罵詈・乃至打擲すれ 08 どもととかれて候は説く人の失となりけるか、 求めて云く此の両説は水火なりいかんが心うべき 答えて云く天台 09 云く 「時に適うのみ」章安云く「取捨宜きを得て一向にすべからず」等云云、 釈の心は或る時は謗じぬべきには 10 しばらくとかず 或る時は謗ずとも強て説くべし 或る時は一機は信ずべくとも万機謗べくばとくべからず或る時は 11 万機一同に謗ずとも強て説くべし、初成道の時は法慧.功徳林・金剛幢・金剛蔵・文殊・普賢・弥勒.解脱月等の大菩 12 薩、梵帝・四天等の凡夫・大根性の者かずをしらず、鹿野苑の苑には倶鄰等の五人・迦葉等の二百五十人・舎利弗等 13 の二百五十人・八万の諸天、 方等大会の儀式には世尊の慈父の浄飯大王ねんごろに恋せさせ給いしかば仏・宮に入 14 らせ給いて観仏三昧経をとかせ給い、 悲母の御ためにトウ利天に九十日が間 篭らせ給いしには摩耶経をとかせ給 15 う、慈父・悲母なんどにはいかなる秘法か惜ませ給うべきなれども 法華経をば説かせ給はず せんずるところ機に 16 はよらず時いたらざれば・いかにもとかせ給はぬにや。 -----― 問う。大法を聞くべき機根でないものが、いきなり大法を授けられるならば、愚人は定めて誹謗し、そのために悪道へ堕ちるならば、それこそ説くものの罪ではないのか。 答う。ある人が大衆の便利をはかって路を作った。その路に迷うものがあるからといって、路を作るものの罪だとえるだろうか。良医があって、大良薬を病人にあたえた時に、病人は薬を嫌って服しないで死んだならば、それが良医の過失となるであろうか。すなわち、苦悩のどん底にある衆生に対して、大御本尊を信じて幸福になれといった時、衆生は信じないで、さらに大きな苦悩へ陥っていった場合に、大御本尊の大利益を説くものの罪となるであろうか。決して、そうではない。 尋ねていわく、法華経の第二巻、譬喩品第三には「無智の人のなかにおいて、この経を説いてはならない」とあり、同じく法華経の第四巻、法師品第十には「この経を分布して妄りに授与してはならない」と。また同じく 法華経の第五、安楽行品第十四には「この法華経は諸仏如来の秘密の蔵であり、諸経の中において、もっともその上にあり。ゆえに長夜に守護して妄りに宣説してはならない」と、このように説いてあるのは、相手が法華経を聞く機根でなければ説いてはならないというのではないかとの疑問を生ずる。今その疑問に対して反詰していわく。同じく、法華経の不軽品には「不軽菩薩が会う人ごとに我れ深く汝を敬うと礼拝した。これに対し四衆の中には不軽菩薩に対して瞋恚を生じ、心が不浄な者があり、不軽を悪口罵詈して無智の比丘だといい、又衆人は杖木瓦石をもって不軽菩薩を打ち迫害した」とあり、また勧持品には「仏の滅後に、この経を弘めるならば、多くの無智の人が悪口罵詈等し、および刀杖を加えて迫害する者があるであろう」と説かれている。これらの経文は悪口罵詈され刀や杖で打ち斬られても強いて法を説けといっている。相手が信じないからといって、どうして説法者の失となるであろうか。 求めていう。その両説は水火のごとく相容れないものであるが、どのようにこれを心得ていたらよいのであろうか。 答えていう。天台は「時に適うのみ」といって、摂受を行ずるか折伏を行ずるかは、時代によって異なると説き、章安は「取捨宜しきを得て、一向にしてはならない」といっている。すなわち、この釈の心は、ある時は謗ずるならば、しばらく説かないでいる。ある時はどんなに誹謗しても強いて説き聞かせる。またある時は、わずかに一機が信じても、万機が謗るならば説いてはならない。ある時は万機が一同に謗っても強いて説くべきである。このように摂受と折伏とは、時によって異なるとの意である。 さて、釈尊の初成道・華厳経の説法の時には、法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵・文殊・普賢・弥勒・解脱月等の大菩薩を初めとして、梵天・帝釈・四天王等の諸天や、凡夫・大根性の者が数知れず集まっていた。また阿含経を説いた鹿野苑の苑には、倶鄰等の五人の比丘・迦葉等の二百五十人・舎利弗等の二百五十人・八万の諸天が集まってきた。またついで説かれた方等大会の儀式には、釈迦牟尼世尊の慈父たる浄飯大王が、ねんごろに仏を恋い慕われたので、仏は王宮にお入りになったが、観仏三昧経を御説きになっている。また悲母のためには、忉利天に九十日の間こもらせたまいて、摩耶経をお説きになった。自分の慈父・悲母のためならば、どんな大法をも惜しむわけではないけれども、法華経をお説きにならなかったのである。結局のところ、爾前経の間は、大菩薩や声聞や諸天や両親にさえ、法華経を説かなかったということは、仏の説法というものが、衆生の機根によって差別されるのではなくて、法華経を説くべき時がいまだきなかったゆえである。 |
人路をつくる路に迷う者あり(撰時.3)
愚人に大法を授けるのは、その愚人に正法をすなおに信じさせて成仏せしめるために授けるのである。しかるにかえて大法を誹謗して悪道に堕ちるのは授けるものの罪ではない。われらの折伏に反対して罰を受けるのも折伏する人の罪ではない。受けた側は逆縁の功徳によって、成仏するのである。
―――
良医・薬を病人にあたう病人嫌いて服せず(撰時.3)
良医が病人に妙法の良薬を与えるのに、その病人に正法をすなおに信じさせて成仏せしめるために与えるのである。しかるにかえて大法を苦いといって誹謗して悪道に堕ちるのは与えるものの罪ではない。われらの折伏に反対して罰を受けるのも折伏する人の罪ではない。受けた側は逆縁の功徳によって、成仏するのである。
―――
秘密の蔵
秘密の法蔵という意味で、諸経・諸仏の根本極理をあらわしている。「秘密」とは、疏の九に「「一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」とある。大聖人仏法における「秘密の蔵」とは南無妙法蓮華経である。
―――
長夜
非常に長い時間のこと。
―――
四衆
比丘(出家の男子=僧)、比丘尼(出家の女子=尼)、優婆塞(在家の男子)。優婆夷(在家の女子)をいう。
―――
法慧
法慧菩薩のこと。華厳経の会座において十住を説き明かした菩薩。華厳経の四菩薩の一人のこと。
―――
功徳林
華厳経の四菩薩の一人。華厳経の会座で十行の法門を説いた。
―――
金剛幢
華厳経の四菩薩の一人。華厳経の会座で十回向の法門を説いた。
―――
金剛蔵
華厳経の四菩薩の一人。華厳経の会座で十地の法門を説いた。
―――
文殊
文殊師利菩薩のこと。梵語マンジュシュリー(maJjuzrii)の音写で、妙徳・妙首・妙吉祥などと訳す。普賢菩薩と共に迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。文殊は、般若を体現する菩薩で、放鉢経には「文殊は仏道中の父母なり」と説かれ、他の諸経にも「菩薩の父母」あるいは「三世の仏母」である等と説かれている。法華経では、序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、法華経提婆達多品第十二では女人成仏の範を示した竜女を化導している。
―――
普賢
普賢菩薩のこと。梵名をサマンタバドラ (Samantabhadra)といい、文殊師利菩薩と共に迹化の菩薩の上首で釈尊の脇士。六牙の白象に乗って右脇に侍し、理・定・行の徳を司る。普は普遍・遍満、賢は善の義。普賢の名号は、この菩薩の徳が全世界に遍満し、しかも善なることをあらわしている。法華経普賢菩薩勧発品第二十八では、法華経と法華経の行者を守護することを誓っている。
―――
鹿野苑
中インド波羅奈国にある園で、古くは神仙の住所とされ、国王が狩をつかまえて放しておかれた地といわれる。釈尊は華厳経の3週間の説法のあと。この鹿野苑で憍陳如など五人を済度した。その後12年間、16大国で、阿含時の説法をしたが、これも鹿苑時と総称する。
―――
倶鄰等の五人
釈尊は成道後すぐに華厳経を説いたが、その後、鹿野苑において阿含経を説く時集まった人で、拘鄰と頞鞞と跋提と十力迦葉と拘利太子の五人である。五人のうち拘鄰と十力迦葉は母方の縁者で、頞鞞と跋提と拘利太子は父方の縁者であったという。
―――
迦葉等の二百五十人
「迦葉」摩訶迦葉のことで、釈尊の声聞十大弟子の一人で頭陀第一といわれ、難行苦行の徳がある。阿難とともに小乗の釈尊の脇士である。鹿野苑の会座に二百五十人をひきつれて参加したのは、摩訶迦葉とは別人で優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟一人だという説もあり、また長男の優楼頻螺迦葉が500人・次男の伽耶迦葉が250人・三男の那提迦葉が250人との説もあるが、明確な経文は残っていない。
―――
舎利弗等の二百五十人
「舎利弗」は身子と訳し、釈尊の十大弟子の一人で、智慧第一と称された。方便品の対告衆で、信をもって成仏することができ、華光如来と記された。250人をひきいて鹿野苑の会座に参加した。
―――
八万の諸天
出処は不詳だが、雑阿含経・正法念経・竜樹の大論等に「八万の諸天」の名がある。
―――
方等大会の儀式
方等部の経典を説いたときの儀式をいう。方等部は16年にわたり、大集経・深密経・浄土三部経・真言三部経・楞伽経・観仏三昧経などが含まれている。
―――
浄飯大王
インド迦毘羅衛の王で、釈尊の父。夫人を摩耶という。
―――
観仏三昧経
「仏説観仏三昧海経」のこと、観仏経ともいう。十巻。東晋の仏駄跋陀羅訳。十二章(品)に分けて、仏の相好の功徳を観想する相状や利益を説く。仏祖統記には、釈尊が成道6年に王宮にむかえ一族500人が出家して仏の化儀を荘厳し、その後6年をへて成道12年にあたって、ふたたび迦毘羅国にかえり、父王のために観仏三昧経を説いたとある。
―――
忉利天
梵語トラーヤストゥリンシャ(Trāyastriṃśa)の音写。三十三天と訳す。六欲天の第二天。閻浮提の上、八万由旬の処、須弥山の頂上にある。城郭は八万由旬、喜見城と名づけ、帝釈天が住む。城の四方に峰があり、各峰の広さが五百由旬、峰ごとに八天があり、合わせて三十二天、喜見城を加えて三十三天といわれる。この天の有情の身長一由旬、寿命については倶舎論巻十一に「人の百歳を第二天の一昼一夜とし、此の昼夜に乗じて、月及び年を成じて彼れの寿は千歳なり」と説いている。この天の寿命を人間の寿命に換算すると、三千六百万歳にあたる。
―――
九十日が間(一夏)
インドの仏経では一夏90日は雨期にあたり、4月16日から7月15日を、外出を禁じ、坐禅や修学に励んだ。雨安居・夏安居ともいう。
―――
摩耶経
「摩訶摩耶経」「仏昇忉利天為母説法経」ともいう。釈尊成道8年の説であるが、その法門の内容は方等部に属す。斉の曇景の訳である。釈尊は母の摩耶夫人の恩を報ずるために、忉利天に4月15日に昇り、7月15日にかえるまで90日にわたって、摩耶経を説いた。この経にある有名な譬えの一つが「貧女の一灯」である。
---------
この章は、仏教が機によらず、もっぱら時によることを明かす中で、本節は初めの「問うて云く機にあらざるに」からが料簡であり、次に「初成道の時は」からが結文となる。
料簡の項では、初めに機教相違の難を会す。すなわち大法を聞くべき機根の衆生に対してもなぜ強いて大法を説き聞かせるか。また強いて大法を説ききかせても、決して説法者の罪ではないことを明かす。次に「尋ねて云く法華経の第二」からは経説相違の難を会す。すなわち同じ法華経の中にも、摂受と折伏の両説が説き示されているのは、時代によって異なるのであり、例せば正像2000年は摂受、末法は折伏であるようなものである。しかして「釈の心は或る時は」と四種の或時を挙げている。初めの三箇は末謗已謗の機に配し、末謗の者には摂受、已謗のものには折伏なることを明かし、時に適うべきことを明かす。次の二箇は、釈尊は本已有善の衆生に対して小をもってこれを将護し、不軽は本末有善に対し大をもってこれを強毒するの意である。
次に「初成道の時」以下は「寂滅道場」よりの意を結する文となる。
機にあらざるに大法を授けられば
折伏をした場合に、相手が入信しないのみか、かえって誹謗をし、罰を受けてさらに苦悩へとおちていく人がある。こういう人を見ると、初めから折伏されないほうが、幸福だったのではないかなどという疑問も生ずる。しかし日蓮大聖人は、はっきりと「人路をつくる路に迷う者あり作る者の罪となるべしや」等の譬えをあげて、折伏する者には罪はないと断定されている。ゆえに、われら正信の者こそ、確信をもって折伏を行ずべきである。
摂受と折伏については、次の各御抄にも詳しく論じられ、末法には折伏を行ずべきことをお示しになっている。
佐渡御書にいわく「仏法は摂受・折伏時によるべし譬ば世間の文・武二道の如しされば昔の大聖は時によりて法を行ず雪山童子・薩タ王子は身を布施とせば法を教へん菩薩の行となるべしと責しかば身をすつ、肉をほしがらざる時身を捨つ可きや紙なからん世には身の皮を紙とし筆なからん時は骨を筆とすべし」(0957-02)と。
開目抄にいわく「無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし、譬へば熱き時に寒水を用い寒き時に火をこのむがごとし」(0235-10)と。
如説修行抄にいわく「末法の始めの五百年には純円・一実の法華経のみ広宣流布の時なり、此の時は闘諍堅固・白法隠没の時と定めて権実雑乱の砌なり、敵有る時は刀杖弓箭を持つ可し敵無き時は弓箭兵杖何にかせん、今の時は権教即実教の敵と成るなり、一乗流布の時は権教有つて敵と成りて・まぎらはしくば実教より之を責む可し、是を摂折二門の中には法華経の折伏と申すなり、 天台云く「法華折伏・破権門理」とまことに故あるかな」(0503-13)と。
このようにして折伏を行ずる時は、一国の迫害を受けることは必至であり、迫害を加える者が謗法の現罰を受けることもまた必定である。しかし結局は、地によって倒れた者が地によって立ち上がるのと同じで、大御本尊を誹謗して悪道へおちた者はふたたび大御本尊の功徳によって救われるのである。これを逆縁の功徳とも、毒鼓の縁ともいい御抄には次のとおりにお示しになっている。
教機時国抄にいわく「謗法の者に向つては一向に法華経を説くべし毒鼓の縁と成さんが為なり、例せば不軽菩薩の如し」(0438-12)と。上野殿御返事にいわく「天竺に嫉妬の女人あり・男をにくむ故に家内の物をことごとく打ちやぶり、其の上にあまりの腹立にや・すがた・けしきかわり・眼は日月の光のごとくかがやきくちは炎をはくがごとし・すがたは青鬼赤鬼のごとくにて年来・男のよみ奉る法華経の第五の巻をとり・両の足にてさむざむにふみける、其の後命つきて地獄にをつ・両の足ばかり地獄にいらず・獄卒鉄杖をもつて・うてどもいらず、 是は法華経をふみし逆縁の功徳による、今日蓮をにくむ故にせうぼうが第五の巻を取りて予がをもてをうつ・是も逆縁となるべきか」(1555-06)と。
さらにいったんは罰を受けても、それがかえって功徳に変ずるという大御本尊の功徳がある。これを変毒為薬といい、御抄には次のようにお示しになっている。太田入道殿御返事にいわく「竜樹菩薩の大論に云く「問うて云く若し爾れば華厳経乃至般若波羅蜜は秘密の法に非ず、而も法華は秘密なり等、乃至譬えば大薬師の能く毒を変じて薬と為すが如し」云云、天台此の論を承けて云く「譬えば良医の能く毒を変じて薬と為すが如く乃至今経の得記は即ち是れ毒を変じて薬と為すなり」」(1009-10)と。始聞仏乗義にいわく「竜樹菩薩・妙法の妙の一字を釈して譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し等云云、毒と云うは何物ぞ我等が煩悩・業・苦の三道なり薬とは何物ぞ法身・般若・解脱なり、能く毒を以て薬と為すとは何物ぞ三道を変じて三徳と為すのみ」(0984-01)と。新池殿御消息にいわく「毒薬変じて薬となり衆生変じて仏となる故に妙法と申す」(1437-12)と。
無智悪人の国は摂受を先とする
創価学会においては、日蓮大聖人の御遺命のままに折伏を行ずべきこは当然であるが、ここでまた重要なことは、その国によって折伏を前とすべき国と、摂受を前とすべき国のあることである。
開目抄下にいわく「無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし、譬へば熱き時に寒水を用い寒き時に火をこのむがごとし、草木は日輪の眷属・寒月に苦をう諸水は月輪の所従・熱時に本性を失う、末法に摂受・折伏あるべし所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり、日本国の当世は悪国か破法の国かと・しるべし」(0235-09)と。
要するに、日本の国のように、邪智邪法の者が多く、真言・念仏・禅のごとき権教をもって実教の法華経を破り、法華経の中においても、本迹相対、種脱相対のあることを知らず、せっかく末法の御本仏日蓮大聖人が三大秘法を御建立あそばされているのに、かえって正法を破り、折伏を行ずる人に怨嫉をいだく。このような邪智謗法の多い国においては、折伏を行じなくてはならない。
しかるに、最近は、とくに欧米諸国や東南アジア諸国に大御本尊が流布し、題目を唱える者が多くなってきた。これ、宗教に国境なく、正しい仏法は、あらゆる民族、全人類を幸福にしきっていくという一大現証というべきである。しかして、これらの諸国においては、謗法ばらいすべき対象となるような神や仏の像などがほとんどなかったり、民衆の間に習慣的な宗教行事が少しばかり行われていても、その宗教の教義を基として、権実、本迹、種脱を混迷させるような、教義も信仰もない。このような場合を、無智悪人といって、邪智謗法と区別される。しかして、このような諸国においては、折伏すべき対象がないので、折伏の上の摂受を前としていかなければならない。折伏精神を根本とすることは当然であるが、相手の立場を尊重しつつ、次第に誘引していくのである。
ゆえに、先年来「海外における信仰のあり方」として、海外における御本尊流布にあたって、各国の国情や習慣等も考慮し、できるだけ信心しやすいように、学会としての指導をつづけてきたのである。たとえば、具体的には、第一に御本尊の御力を教え、入信したい人には、そのまま御本尊を受けさせてよろしいわけである。第二には、海外の諸国には、日本のように謗法物はないし、謗法払いは本人が御本尊の功徳がわかってきた後に、自分の意志でやっていけばよいわけである。第三には、真心こめて仏法を教え、まだ仏法を知らない人々であるから、決して邪宗うんぬんということばをいう必要はなく、ひたすら御本尊の功徳をしらせるべきだ等である。
しかして、わが学会は、あくまでも各国の国是や立場を尊重しつつ、かつ各国の国民みずからの手で、正法による幸福と繁栄をうるよう努力している。これらは決して信心の妥協ではない。折伏精神を根本にした、折伏の上の摂受である。最近の海外発展が、とくにめざましいゆえんも、このように、日蓮大聖人のおおせのままに実践し、慈悲の精神を根底としているからにほかならないと確信するものである。
なお、この点について、日寛上人は、宗教の五義に約すのであると、次のように、開目抄文段のお示しになっている。
第一には教法に約す。法華は正しく折伏の教法である。これすなわち法華の開顕は爾前の権理を破し、法華の実理を顕わすのである。玄文第九には「法華折伏・破権門理」といっている。同じように本迹においても種脱においても、本、種をもって、迹、脱を破するのである。
第二には機縁に約す。本已有善の衆生のためには、摂受門をもって、これを将護するのであり、本末有善の衆生のためには折伏門をもってこれを強毒するのである。このゆえに疏の第十には「本すでに善あり、釈迦小をもってこれを将護す。本末将護だ善あらず、不軽は大をもって之を強毒す」といっている。
第三には時節に約す。顕仏未来記にいわく「末法に於ては大小の益共に之無し、小乗には教のみ有つて行証無し大乗には教行のみ有つて冥顕の証之無し、其の上正像の時の所立の権小の二宗・漸漸・末法に入て執心弥強盛にして小を以て大を打ち権を以て実を破り国土に大体謗法の者充満するなり、仏教に依つて悪道に堕する者は大地微塵よりも多く正法を行じて仏道を得る者は爪上の土よりも少きなり、此の時に当つて諸天善神其の国を捨離し但邪天・邪鬼等有つて王臣・比丘・比丘尼等の身心に入住し法華経の行者を罵詈・毀辱せしむべき時なり、爾りと雖も仏の滅後に於て四味・三教等の邪執を捨て実大乗の法華経に帰せば諸天善神並びに地涌千界等の菩薩・法華の行者を守護せん此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか、例せば威音王仏の像法の時・不軽菩薩・我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し一国の杖木等の大難を招きしが如し、彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ」(0506-18)と。開目抄下にいわく「設い山林にまじわつて一念三千の観をこらすとも空閑にして三密の油をこぼさずとも時機をしらず摂折の二門を弁へずば・いかでか生死を離るべき」(0236-09)と。末法に折伏を行ずべしという御文は限りなく、末法に生まれているわれわれが、折伏を行じなければならないのは当然である。
第四には国土に約す。開目抄の「末法に摂受折伏あるべし」の御文は、国土に約す文である。末法は折伏の時代であるといいながら、もし横に余国を尋ねるならば、悪国があるであろう。その悪国においては摂受を前とするのである。日本の国は破法の国であるから、折伏を行じなければならない。日寛上人の時代には現代のような地理的な知識もなかったのに、横に余国を尋ねるといわれている。今日、わが学会によって全世界に三大秘法が流布されてみると、あらためて開目抄の御予言が正確なことに驚かざるをえないのである。
第五に教法流布の先後に約す。すでに竜樹、天親、天台、伝教等は前代流布の教法を破して、当機益物の教法をひろめた。いま日蓮大聖人もまた、前代流布の爾前迹門を破して、末法適時の法華本門の大法、本門寿量の肝心をひろめられているのである。
0256:14~0258:18 第四章 正像末に約して滅後の弘教を明かすtop
| 17 問うて云くいかなる時にか小乗・権経をときいかなる時にか法華経を説くべきや、答えて云く十信の菩薩より等 18 覚の大士にいたるまで時と機とをば相知りがたき事なり 何に況や我等は凡夫なりいかでか時機をしるべき、 求め 0258 01 て云くすこしも知る事あるべからざるか、 答えて云く仏眼をかつて時機をかんがへよ 仏日を用て国土をてらせ、 02 問うて云く其の心如何、 答えて云く大集経に大覚世尊・月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり 所謂我が滅度の 03 後の五百歳の中には解脱堅固.次の五百年には禅定堅固已上一千年次の五百年には読誦多聞堅固.次の五百年には多造 04 塔寺堅固已上二千年次の五百年には我法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん等云云、此の五の五百歳・二千五百余 05 年に人人の料簡さまざまなり、 漢土の道綽禅師が云く正像二千・四箇の五百歳には小乗と大乗との 白法盛なるべ 06 し末法に入つては彼等の白法 皆消滅して浄土の法門・念仏の白法を修行せん人計り生死をはなるべし、 日本国の 07 法然が料簡して云く今日本国に流布する法華経・華厳経並びに大日経・諸の小乗経・天台・真言・律等の諸宗は大集 08 経の記文の正像二千年の白法なり 末法に入つては彼等の白法は皆滅尽すべし 設い行ずる人ありとも一人も生死を 09 はなるべからず、 十住毘婆沙論と曇鸞法師の難行道・道綽の未有一人得者・善導の千中無一これなり、彼等の白法 10 隠没の次には浄土三部経・ 弥陀称名の一行ばかり大白法として出現すべし、 此を行ぜん人人はいかなる悪人・愚 11 人なりとも十即十生・百即百生・唯浄土の一門のみ有つて路に通入すべしとはこれなり、 されば後世を願はん人人 12 は叡山・東寺・園城・七大寺等の日本一州の諸寺・諸山の御帰依をとどめて彼の寺山によせをける田畠郡郷をうばい 13 とつて念仏堂につけば決定往生 ・南無阿弥陀仏とすすめければ 我が朝一同に其の義になりて今に五十余年なり、 14 日蓮此等の悪義を難じやぶる事はことふり候いぬ、 彼の大集経の白法隠没の時は 第五の五百歳当世なる事は疑ひ 15 なし、 但し彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の 一閻浮提の内・八万の国あり其の 16 国国に八万の王あり王王ごとに 臣下並びに万民までも今日本国に弥陀称名を 四衆の口口に唱うるがごとく広宣流 17 布せさせ給うべきなり。 -----― 問うていう。仏教は時によるというが、しからば、どのような時に小乗教や権大乗を説き、どのような時に法華経を説くのであるか。 答えていう。下は十信の菩薩から上は等覚の大菩薩にいたるまで、時と機とをば知り難いのである。ましてわれらは凡夫であるから、どうして時機を知ることができようか。 問うていう。少しも知ることができないのか。 答えていう。仏眼たる経文を借りて時機を考えよ。衆生の闇をはっきりと照らす仏日を用いて国土を照らしてみよ。そうすれば、はっきりわかることである。 問うていう。それはどういう意味なのか。 答えていう。釈迦仏は大集経において月蔵菩薩に対して未来の時を定めている。それによれば釈迦滅度の日から最初の五百年は解脱堅固であって、仏教を修行しては皆よく解脱することができる。次の第二の五百年は禅定堅固であって、修行しては盛んに禅定に入る時代となる(已上一千年である)。次に第三の五百年は読誦多聞堅固であって、経典をよく読み誦し多く聞くことが盛んとなる。次に第四の五百年は多造搭寺堅固であって、多くの塔寺を盛んに造立する時代となる(已上二千年である)。さて次に第五の五百年はわが仏法の中において闘諍言訟が盛となり、闘諍に明け暮れ善法である白法が隠没してしまうであろうと予言している。 ところがこの第五の五百年・二千五百余年について人々の料簡がさまざまである。中国の道綽禅師がいうには正像二千年・四箇の五百歳には小乗と大乗の白法が盛んに流通するが、末法に入っては彼等の白法が皆消滅して浄土の法門たる念仏の白法を修行する人ばかりが生死が離れるであろう。日本の法然が料簡していうには今、日本国に流布するところの法華経・華厳経を初め大日経や諸の小乗教、天台・真言・律等の諸宗は大集経の予言に記された正像二千年の白法である。末法に入っては彼等の白法は皆滅尽するであろう。たとえ行ずる人はあっても一人も生死を離れることはできない。竜樹菩薩の十住毘婆沙論と曇鸞法師の言っている難行道というのがこれであり、道綽は念仏以外の教えではいまだ一人も得者する者がないといい、善導が千人の中に一人も成仏できないといっているのもこの意である。彼等の白法が隠没して終わった次には浄土の三部経・阿弥陀の名号を称えるわが念仏の一行ばかりが大白法として出現するのである。これを修行する人人はいかなる悪人・愚人であっても、十即十生・百即百生であって、ことごとく極楽浄土へ往生することができる。すなわち浄土の一門のみあって路に通入すべしというのである。 されば後世を願う人人は比叡山・東寺・石山寺・七大寺等の日本一州の諸寺や諸山の御帰依をやめてさらに彼の寺山に寄進した田畠郡郷を奪い取り念仏堂へ寄進するならば決定往生疑いなし。ただひたすら南無阿弥陀仏と唱えよとすすめたのである。我が日本国は一同に其の義に染まって今に五十余年となる。日蓮はまた立宗以来この念仏の悪義を難じ破りつづけて年月を経ている。 彼の大集経の白法隠没の時は第五の五百歳であり、今日・当世であることには疑いがない。ただし彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる寿量品文底の南無妙法蓮華経こそ大白法として広宣流布する。一閻浮提の内に八万の国があり其の国々に八万の王がありこれらの王が全部・また王の臣下・万民までも、ことごとく今日本国に弥陀の称名を口口に唱うるごとく南無妙法蓮華経が広宣流布するのである。 |
小乗
小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
―――
権経
実教に対する語。権とは「かり」の意で、法華経に対して釈尊一代説法のうちの四十余年の経教を権経という。これらの経はぜんぶ衆生の機根に合わせて説かれた方便の教えで、法華経を説くための〝かりの教え〟であり、いまだ真実の教えではないからである。念仏の依経である阿弥陀経等は、この権経に属する。
―――
仏日
仏がよく衆生の闇をはらうゆえに、日にたとえている。神力品には「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」とある。日は照明をもってその用としている。経文は明々たること、あたかも日天のごときゆえに、経文明々たるを借りて、機を照らし国を照らすのである。
―――
大集経
方等部に属する経典で、欲界と色界の中間・大宝坊等に広く十法の仏・菩薩を集めて、説かれた大乗教である。欲界とは、下は地獄界から上は天上界までのすべてを含み、食欲や物欲、性欲などの欲望の世界である。色界とは、欲界の外の浄妙の色法、すなわち色質だけが存在する天上界の一部、十八天をいう。これに対して、精神の世界で、天上界の最上である四天を無色界という。大宝坊は欲界と色界の中間にあるとされたのである。漢訳には六種ある。①大方等大集経三十巻、北涼の曇無識訳。②大乗方等日蔵経十巻、高斉の那連提耶舍訳。③大方等大集月蔵経十巻、高斉の邦連提耶舍訳。④大乗大集経二巻、高斉の邦連提耶舍訳。⑤仏説明度五十校計経二巻、後漢の安世高訳。⑥無尽意菩薩経、宋の智厳・宝雲共訳。大聖人の引用は③大方等大集月蔵経。法滅尽品には仏滅後における仏法の推移を五箇の五百歳に分けて説いた予言がある。すなわち「わが滅後に於いて五百年の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固(已上一千年)、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固(已上二千年)、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」とある。
―――
大覚世尊
仏、釈尊の別称。大覚は仏の悟り、世尊は仏の十号の一つで、万徳を具えており、世間から尊ばれるので世尊という。
―――
月蔵菩薩
大集経月蔵分の対告衆として出る菩薩。西方の月勝世界から眷属を率いて来会した。
―――
解脱堅固
堅固とは、木の根株を抜くことができないのを堅といい、他によって形を変えないのを固という。仏の予言が変動しない時代である。修行する者が盛んに解脱し、悟りを開くことのできる時代。第一の五百歳。正法時代の前半。迦葉・阿難などが小乗教を説いた。
―――
禅定堅固
堅固とは、木の根株を抜くことができないのを堅といい、他によって形を変えないのを固という。仏の予言が変動しない時代である。禅定に入るものが大多数の時代、第二の五百歳。正法時代の後半。竜樹・天親などが大乗の教を説いた。
―――
読誦多聞堅固
堅固とは、木の根株を抜くことができないのを堅といい、他によって形を変えないのを固という。仏の予言が変動しない時代である。経典を読誦し、説法を多く聞こうとする時代。第三の五百歳。像法時代の前半。鳩摩羅什等が多数の経典を漢訳している。この時代の末には天台大師等が大乗の教判を立てた時代である。
―――
多造塔寺堅固
堅固とは、木の根株を抜くことができないのを堅といい、他によって形を変えないのを固という。仏の予言が変動しない時代である。塔寺・伽藍を多く造立する時代。第四の五百歳。像法時代後半。伝教大師が法華経迹門をひろめ、比叡山の迹門大乗戒壇が建立された時代である。
―――
闘諍言訟して白法隠没せん
いろいろな争いや戦争が激しくなって、釈尊の正法が隠没する時代である。第五の五百歳。末法のはじめである。教行証御書には「されば正法には教行証の三つ倶に兼備せり、像法には教行のみ有つて証無し、今末法に入りては教のみ有つて行証無く在世結縁の者一人も無し権実の二機悉く失せり、此の時は濁悪たる当世の逆謗の二人に初めて本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経を以て下種と為す」(1276-04)とある。
―――
料簡
思いめぐらし考えること。思索すること。
―――
道綽禅師
(0562~0645)浄土宗七祖の第四祖。中国唐代の僧で、14歳で出家し、讃禅師に師事して空理を修したが、のち涅槃宗を捨てて浄土門にきえした。貞観2年(0645)84歳で死去した。著書に「安楽集」があり、今日、浄土真宗で読まれている。聖道門を「千中無一」「未有一人得者」として、釈迦一代仏教を誹謗した。
―――
法然が料簡
「法然」は、(1133~1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没した。「料簡」とは、選択集でいった言葉。
―――
大日経
大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
―――
天台
天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
―――
真言
真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
―――
律
戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
―――
十住毘婆沙論
全17巻。竜樹著と伝えられる。鳩摩羅什訳。菩薩の修行段階である十地を広説したものであり、十地毘婆沙論ともいう。
―――
曇鸞法師
(0476~0542)中国念仏の開祖で、菩提瑠支から観無量寿経を授けられ、もっぱら念仏の修行を積んだ。並州の大寺、石壁の玄中寺等に住し、のちに平州の途山寺で、76歳で死んだ。浄土宗では七祖のうちの第三祖としている。「讃阿弥陀仏偈」などを著した。難行道うんぬんの文は「往生論註」の最初の文で、念仏を易行道、すなわち「修行し易き道」として薦め、他の権大乗教を「修行し難き道」と悪口し、排斥している。
―――
道綽の未有一人得者
中国念仏宗の祖のひとり、道綽の安楽集の文をさす。「法華経ではいまだ一人も成仏した者はない」と悪口した。
―――
善導の千中無一
「善導」とは、(0613~0681)。中国唐時代の浄土宗の僧。幼くして出家し、太宗の貞観年中に道綽の門に入り観経を信仰しはじめ、以後、人々に称名念仏を勧めた。浄土の法門を演説すること30年、ついに寺前の柳に登り自ら身を投じて、極楽往生を示そうとしたが、地面に落ちて腰を打ち、十四日間苦しんで死んだという。著書に「往生礼讃」では、「法華経では千人に一人も成仏したものはいない」と悪口した。
―――
浄土三部経
念仏宗が依経としている三部の経典。無量寿経2巻・観無量寿経1巻・阿弥陀経1巻をいう。
―――
弥陀称名
南無阿弥陀仏を口唱すること。浄土宗では娑婆世界を穢土としてきらい、南無阿弥陀仏の名号を唱えれば、西方極楽世界の阿弥陀仏の浄土に往生することができると説く。
―――
悪人
悪事をなす人。正法を誹謗する人。五逆罪を犯す人。
―――
愚人
仏法に無知な人。正法を知らない人。
―――
十即十生・百即百生
道綽の安楽集の文。10人は10人、100人は100人、ことごとく称名念仏する者は極楽浄土へ往生できるとした道綽の邪義。
―――
叡山
比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
―――
東寺
第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。
―――
園城
琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。
―――
七大寺
奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。
―――
法華経の肝心
法華経本門寿量品の肝心。久遠名字の南無妙法蓮華経のこと。
―――
一閻浮提
閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。
―――
八万の国
「八万」は実際の数ではなく、大数・多数の意で、多数の国々のこと。
―――
広宣流布
仏法を広く宣べ流布すること。
―――――――――
この章からは、正像末に約して滅後の弘経を明かす中で、この章は略して末法は三大秘法広宣流布の時なることを明かしている。最初の問で「いかなる時に法華経を説くべきや」という法華経は、元意の法華経に約し、下種の法華経たる三大秘法である。
五の五百歳・二千五百余年に人人の料簡さまざまなり
正像末の三時についての異説は、前に述べたとおりである。さてここで問題になるのは、大集経によれば、仏滅後2000年過ぎて、白法穏没の末法となる。日蓮大聖人の時代は2200年の頃であるから、末法の初めであり、今日はすでに末法にはいって900余年となるはずである。しかるに、西洋哲学の研究や、小乗教の伝説では、これと約500年の相違があって、現在が2500年になり、日蓮大聖人の時代はまだ滅後1800年ぐらいで、末法には、入っていなかったとの、説をなす者もある。これが問題にならないことは、すでに3000年にわたる歴史を通じ、五箇の500歳のそれぞれの堅固なることが、まったく仏の予言どおりであったことによって、疑問の余地はなくなるのである。
次いで、念仏でも時をよく論ずるので道綽と曇鸞、善導等をあげてその邪智を破折なされている。念仏では権経を以て実教を破し、法華経を難行道といい、聖道門といい、雑行といい、千中無一などといっている。守護国家論にいわく「道綽禅師の安楽集の意は法華已前の大小乗経に於て聖道浄土の二門を分つと雖も 我私に法華・真言等の実大・密大を以て四十余年の権大乗に同じて聖道門と称す「準之思之」の四字是なり」(0052-11)と。つまり道綽は法華経を破折してはいなかったが、法然の選択集には、法華経をも爾前権教と一まとめにして、聖道門なりと破している。
又次に、念仏のごまかしがたくさんある中で、ひどいのは、双観経の下には「此の経を留めて百歳ならん」といっているのに、念仏宗では末法万年に念仏が流布して、衆生を救済するなどといっている。一代五時継図にいわく「雙観経の下に云く当来の世に経道滅尽せんに 我慈悲を以て哀愍して特に此の経を留めて止住すること百歳ならん」(0687-05)と。
法華初心成仏抄にいわく「本経には『当来の世・経道滅尽し特り此の経を留めて止住する事百歳ならん』と説けり、末法一万年の百歳とは全く見えず」(0549-04)と。
念仏はこのように邪宗であるが、念仏以外にも邪宗が数多いのに、なぜここで特に念仏を破折されているのか。これについて、日寛上人は、次の総別ありとなされている。すなわち、総じていえば念仏がもっぱら盛んであったからである。別していえば、次の三意がある。第一に所破のためである。第二に一分所有となすのである。大集経の白法隠没、第五の500歳は当世であるゆえである。第三は所例となす。すなわち日本国中が念仏を唱えているように、南無妙法蓮華経を唱えるようになるのである。日蓮大聖人の仏法こそ報恩抄にお示しのとおり、万年のほか未来永遠に流布していくのである。
法華経の肝心たる南無妙法蓮華経
これについて他宗派では、如是聞の上の妙法蓮華経であるとか、本地甚深の南無妙法蓮華経である等といっているが、みな謬りである。正意は法華経本門寿量品の肝心・久遠名字の南無妙法蓮華経である。久遠名字の南無妙法蓮華経とはすなわちこれ本門の本尊・中央の南無妙法蓮華経である。顕仏未来記にいわく「此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか」(0507-06)と。
さて、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経とは本門の本尊であり「四衆の口口に唱うる」とは本門の題目であり、本門の戒壇はその文が略されている。
八万の国あり、八万の王あり
これこそ全世界広宣流布の予言である。日本の国ばかりならば「八万の国」とはおおせられないであろう。
撰時抄を学ぶということは、過去の歴史において、機感相応の仏法により、民衆の平和と幸福が実現されてきたことを知ることも大切であるが、その元意、御内証は実に日蓮大聖人の仏法が、未来において「時」が来るならば、全世界に広宣流布するという予言書として拝さなければならない。
しかして、その「時」は今であり、創価学会によって実践されつつあることも、現証の示すところである。学会の目的とするところは、あくまでも三大秘法の広宣流布すなわち慈悲と道理による平和無血革命によって、世界の平和と民衆の繁栄を達成する以外にはない。心ある士は勇躍し、この広布の大業に参加すべきであると叫ぶものである。
0258:18~0259:14 第五章 経文を引いて証すtop
| 18 問うて云く其の証文如何、 答えて云く法華経の第七に云く「我が滅度の後後の五百歳の中に広宣流布して閻浮 0259 01 提に於て断絶せしむること無けん」等云云、 経文は大集経の白法隠没の次の時をとかせ給うに 広宣流布と云云、 02 同第六の巻に云く「悪世末法の時能く是の経を持つ者」等云云 又第五の巻に云く「後の末世の法滅せんとする時」 03 等・又第四の巻に云く「而も此経は如来現在にすら猶怨嫉多し 況や滅度の後をや」又第五の巻に云く「一切世間怨 04 多くして信じ難し」又第七の巻に 第五の五百歳闘諍堅固の時を説いて云く「悪魔魔民諸の天竜・夜叉・鳩槃荼等其 05 の便を得ん」 大集経に云く「我が法の中に於て闘諍言訟せん」等云云、 法華経の第五に云く「悪世の中の比丘」 06 又云く「或は阿蘭若に有り」等云云 又云く「悪鬼其身に入る」等云云、 文の心は第五の五百歳の時・悪鬼の身に 07 入る大僧等・国中に充満せん其時に智人一人出現せん 彼の悪鬼の入る大僧等・時の王臣・万民等を語て悪口罵詈・ 08 杖木瓦礫・流罪死罪に行はん時釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌の大菩薩らに仰せつけ大菩薩は梵帝・日月・四天等に 09 申しくだされ其の時天変・地夭・盛なるべし、 国主等・其のいさめを用いずば鄰国にをほせつけて彼彼の国国の悪 10 王・悪比丘等をせめらるるならば 前代未聞の大闘諍・一閻浮提に起るべし其の時・日月所照の四天下の一切衆生、 11 或は国ををしみ或は身ををしむゆへに 一切の仏菩薩にいのりをかくともしるしなくば 彼のにくみつる一の小僧を 12 信じて無量の大僧等八万の大王等、 一切の万民・皆頭を地につけ掌を合せて一同に南無妙法蓮華経ととなうべし、 13 例せば神力品の十神力の時・十方世界の一切衆生一人もなく 娑婆世界に向つて大音声をはなちて 南無釈迦牟尼仏 14 南無釈迦牟尼仏・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と一同にさけびしがごとし。 -----― 問うていう。第五の五百歳白法隠没の次には、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経が広宣流布するという経文はどこにあるのか。 答えていう。法華経の第七薬王品には「我が滅度の後、後の五百歳の中に広宣流布して、閻浮提に於て断絶することがないであろう」と。このように経文には大集経の白法隠没の次の時を示して広宣流布といっている、同第六の巻分別功徳品には「悪世末法の時能く是の経を持つ者」とあり、また第五の巻安楽行品には「後の末世の法が滅せんとする時」とあり、また第四の巻法師品には「而も此の法華経は如来の現在にすらなお怨嫉が多いいわんや滅度の後には、さらに大怨嫉が競い起こるであろう」と。また第五の巻安楽行品には「一切世間に怨が多くて信じ難い」と、また第七の巻薬王品第二十三には、第五の五百歳・闘諍堅固の世相を説いていわく悪魔や魔民や諸の天竜・夜叉・鳩槃荼等が其の便を得て悩ますであろう」と、大集経にいわく「我が仏法の中に於て互いに闘諍言訟するであろう」と、法華経の第五勧持品には「悪世の中の比丘」とか「或は閑静の処に居て悪事をたくらむ」とか、「悪鬼が其の身に入って正法の行者に迫害を加えるであろう」等と、末法の世相を説いている。 さて、これらの諸文の意は、次のような次第を説いているのである。すなわち、 第一に勘持品に示すごとく、第五の五百歳の時・白法穏没の時、悪鬼がその身に入ったところの高僧名僧が出現する。 第二にその時に智人が一人出現する。これは「悪世末法の時能く此の経を持つ者」に当たり、すなわち地涌の菩薩である。 第三に、彼の悪鬼の身に入る大僧等が、時の王臣・万民等を語らいて、一人の智人を悪口罵詈し杖木瓦礫を加え流罪死罪に行なうであろうと。これすなわち「況や滅度の後をや」に当たる。 第四に、その時は釈迦・多宝・十方の諸仏が地涌の大菩薩に仰せつけ大菩薩はまた梵帝・日月・四天等に申し下されて、その謗法を責めるから天変・地夭が盛んに起こるであろう。それでも国主等が其のいさめを用いないで謗る法をつづけるならば、隣国に仰せつけてを彼彼の国国の悪王・悪比丘等をせめらるるならば、前代未聞の大闘諍が一閻浮提に起こるであろう。これすなわち大集経の「闘諍堅固」の文にあたる。 第五に、その時に日月所照の四天下の一切衆生は、この大闘争に襲われて、あるいはわが身を惜しむゆえに、一切の仏菩薩にいのりをかけるとも、一向にそのしるしがなく、ますます不幸のどん底に沈むならば、ついに彼の憎んでいた一の小僧を信じて、無量の大僧・八万の大王・一切の万民等ことごとく頭を地につけ、掌を合せて一同に南無妙法蓮華経と唱うるであろう。すなわち「後の五百歳広宣流布」の文意である。 この広宣流布の時に、天下万民が一同に南無妙法蓮華経と唱えるさまは例せば神力品の十神力の時、十方世界の一切衆生が、一人も残らず娑婆世界に向って大音声をはなち、南無釈迦牟尼仏・南無釈迦牟尼仏・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と一同に叫んだのと同じである。 |
我が滅度の後後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶せしむること無けん
薬王品の文。大集経の白法隠没の時は、即南無妙法蓮華経の広宣流布の時であることをあらわしているのである。後の五百歳とは、最後の500年、すなわち末法のことである。
―――
悪世末法の時能く是の経を持つ者
分別功徳品の文。後五百歳。末法のはじめ、地涌の菩薩が出現すべきことをあらわしている。悪世末法の時という言葉は、末法万年に通じる。
―――
後の末世の法滅せんとする時
安楽行品の文。「後の末世」とは末法のことであり、「法滅せんとする時」ときの法滅は、釈迦仏法を意味する。次下に「斯の経典を受持し読誦せん者は」とあるのを大聖人の立場から配するなら、「斯の経典」は文底独一本門の南無妙法蓮華経、「受持し読誦せん者」の人とは、人本尊であらせられる日蓮大聖人。
―――
而も此経は如来現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや
法師品の文。地涌の菩薩には怨嫉が多いことをあらわしている。
―――
一切世間怨多くして信じ難し
安楽行品の文。末法の法華経の行者には怨嫉が多くて、一切衆生は信じがたいというということを予言した文。
―――
悪魔魔民諸の天竜・夜叉・鳩槃荼等其の便を得ん
薬王品の文。「悪魔」は仏道を妨げる悪神の総称、「天竜」は天界の衆生で四天王の眷属、雨を支配する、「夜叉」は八部衆の一で暴悪をこととする鬼類、「鳩槃茶」は人の精気をくらう鬼。これらはいずれも正法修行を妨げる働きをするが、逆に強信者を守る働きもする。
―――
我が法の中に於て闘諍言訟せん
大集経の文。怨嫉によってまさに闘諍をおこすべきことをあらわす。
―――
悪世の中の比丘
勧持品の文。三類の強敵の僭聖増を示す。悪鬼入其身の大僧である。
―――
阿練若
梵語(Aranya)阿蘭若・阿蘭那・阿練茹とも書く。訳して無諍声・無声所・遠離処・意楽処・無諍行・閑静・寂静処・空寂・無諍・空家等という。人里離れた静かな山寺のこと。
―――
智人一人
「智人」とは地涌の菩薩のことで、「一人」はその統領。末法の御本仏日蓮大聖人のことである。
―――
釈迦
釈迦仏、釈迦牟尼仏の略称、たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊
―――
多宝
多宝如来のこと。東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
―――
十方の諸仏
十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
―――
地涌の大菩薩
法華経従地涌出品第十五に「仏は是れを説きたまう時、娑婆世界の三千大千の国土は、地皆な震裂して、其の中於り無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に涌出せり」とある。この地涌の菩薩の出現は、釈尊の滅後の布教を誓った本化の菩薩のこと。滅後末法の弘通を勧める釈尊の呼びかけに応じて、大地から湧き出てきたゆえに、地涌の菩薩という。
―――
鄰国にをほせつけて
大集経には、国主が大法謗を犯し、国中に悪法が充満するとき、聖僧の一人がこれを諌暁(例えば立正安国論)しても用いないならば、他国侵逼難が起こるということ。
―――
十神力の時
「十神力」とは十種の大力ともいう。釈迦は十種の神力を現じて、上行菩薩に深法を付嘱した、すなわち①出広長舌、「広長舌を出して上梵世に至らしめ」②通身放光、「 一切の毛孔より、無量無数色の光を放って皆悉く徧くく十方世界を照したもう」③一時謦欬、「然して後に還って舌相を摂めて一時に謦欬し」④倶共弾指「倶共に弾指したもう」⑤地六種動、「是の二つの音声、徧く十方の諸仏の世界に至って、地皆六種に震動す」⑥普見大会、「其の中の衆生、天、竜、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽、人非人等、仏の神力を以ての故に、皆此の娑婆世界、無量無辺百千万億の衆の宝樹下の師子座上の諸仏を見、及び釈迦牟尼仏、多宝如来と共に宝塔の中に在して、師子の座に坐したまえるを見たてまつり、又、無量無辺百千万億の菩薩摩訶薩、及び諸の四衆の、釈迦牟尼仏を恭敬し囲繞したてまつるを見る」⑦空中唱声、「即時に諸天、虚空の中に於いて、高声に唱えて言わく」⑧咸皆帰命、「彼の諸の衆生、虚空の中の声を聞き已って、合掌して娑婆世界に向かって、是の如き言を作さく、南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏と」。 ⑨遙散諸物、「種々の華香、瓔珞、幡蓋、及び諸の厳身の具、珍宝、妙物を以って、皆共に遥かに娑婆世界に散ず」⑩十方通同、「時に十方世界通達無碍にして一仏土の如し」とある。「時」とは咸皆帰命をさす。
―――
娑婆世界
娑婆とは梵語サハー(Sahā)の音写。忍土、忍界、堪忍土と訳す。この世はあらゆる苦難を乗り越え、また耐え忍ばなければならない故に娑婆世界という。
―――――――――
前節では、第5の500歳に、法華経の肝心たる大白法が広宣流布すると決定されたのに対し、今節はその証文として十箇の経文を引きその意を釈している。その証文の意は、大略五意となる。
第一に、大集経の白法隠没の時は、即法華経広宣流布の時となることを顕わす。これは法華経薬王品第23の「後五百歳中、広宣流布」の文である。
第二に、後の五百歳末法の始め地涌の菩薩が出現すべきことを顕わす。これは分別功徳品第17の「悪世末法の時よくこの経を持つ」の文である。
第三に、この末法の始めに地涌の菩薩が弘経するには、怨嫉の多きことを顕わす。これは第5の巻、第4の巻、第7の巻等と引き続きあげられている文である。
第四に、怨嫉によって闘諍の起こるべきことを明かしている。これは大集経の闘諍言訟の文である。
第五に、その怨嫉の人は悪鬼入其身の大悪僧なることを明かしている。これはすなわち、引用されている勧持品の三文である。
釈の文にまた五意を明らかになされている。本文を照らして精読されたい。
前代未聞の大闘諍・一閻浮提に起るべし其の時・日月所照の四天下の一切衆生、或は国ををしみ或は身ををしむゆへに一切の仏菩薩にいのりをかくともしるしなくば彼のにくみつる一の小僧を信じて
これまた広宣流布の予言の御文である。前代未聞の大闘諍とは何を指すか。日蓮大聖人の時代にも蒙古襲来という大闘諍があった。しかしこの時には「一切の万民皆頭を地につけ掌を合わせて一同に南無妙法蓮華経と唱うる」ようにはならなかった。
それでは広宣流布は虚妄なのかというに、そうではない。日寛上人は逆縁の広布と順縁の広布を説かれ、日蓮大聖人の御在世時代は逆縁の広布であって、日本国中が大聖人に対して怨嫉を懐き謗法を犯したのである。その後、大聖人の御入滅後においても、わずかに折伏がなされたが、すぐに弾圧された。鎌倉時代に引き続き、南北朝時代、室町時代、戦国時代と、日本国中は戦乱に次ぐ大戦乱が続いた。わずかに江戸時代は300年の泰平が続いたけれども、それも表面だけであって、民衆が真に平和と幸福を楽しめるような時代ではなかった。広宣流布もまだ実現されなかったといえるであろう。
しかるに、第二次世界大戦は、実に全世界を挙げて戦乱の惨禍にまきこまれた。とくに広島と長崎に原子爆弾を投下され、東京、大阪を始め大都市が悉く焼き払われた敗戦国日本の惨状は、実に目をおおわせるものであった。創価学会もまたこの大戦中に弾圧を受け、初代牧口会長は昭和19年(1944)11月18日に牢死なされた。昭和20年(1945)7月3日、2年間投獄されていた第二代戸田会長が釈放された。戸田会長は今こそ広宣流布の時が来たとの御確信のもとに、創価学会の再建にとりかかられた。国が亡び去ってすら、広宣流布ができないような宗教なら、それは真の宗教ではない。仏語が真実ならば、必ず広宣流布できるはずであるとの御確信であった。
その後創価学会の発展の経過を見るに、実に順縁広布の時が来たと確信せざるをえないのである。すでに500万世帯の学会員が誕生し、三大秘法の信行に励んで、大御本尊の功徳に浴しつつある。しかもなお将来にわたって、どこまで発展を続けていくか際限もないのである。
しかしまた、わが国の広宣流布はこのようにして実現しても、たとえば米、ソ等の各国にまで広宣流布していくには、さらに原水爆戦争のような、未曾有の大闘諍がおきるのではないかという人もある。しかしわれら創価学会員としては、そのような惨禍のあらわれることのないよう大御本尊に御祈念し、人類の平和と繁栄とを祈願してゆかねばならない。
次に「一の小僧を信じ」とは、いうまでもなく末法の御本仏、本門寿量の当体蓮華の仏、本因妙の教主、日蓮大聖人であらせられる。それでは、すでに大聖人は入滅せられて、700年も過ぎた今日、どうすればよいのかとの問題がある。しかし、大聖人は「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ」(1124-12)とおおせられ、弘安2年(1279)には本門戒壇の大御本尊をお建てになり、末法万年のほか未来永遠の衆生を救われると仰せになっている。
このように日蓮大聖人は、末法万年のほか未来永遠の衆生をお救いになるのである。邪宗の開祖たちが、大聖人の仏法はすでに尽きて新しい仏法が起きるとか、大聖人の滅後何百年過ぎれば、大聖人が再び生まれてくるなどというのは、すべて邪義であり、妄説である。われらは創価学会の信徒として、大御本尊を信じ奉り、仏意、仏勅のまま折伏を行ずる者のみが、御本仏日蓮大聖人の眷属として、即身成仏がかなうのである。
南無釈迦牟尼仏・南無釈迦牟尼仏・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と一同にさけびしがごとし
次に「例せば神力品」の下は在世をもって末法に例するのである。しかし、経の神力品には、一同に南無釈迦牟尼仏と唱えているが、南無妙法蓮華経と唱えた文はない。これについて、諸宗では、次のような異解を生じている。日寛上人は、これらの異解を挙げてのち、さらに正義をお示しになっている。
一には、能例所例合してこれを挙ぐ。
二には、すでに人法体一なりゆえに仏名即経名なるゆえなり。
三には、法子なおこれを敬う、いわんや仏母の経をや。
四には、空中の勘信すでに人法あり、帰命の文あにしからずや。
五には、すでに能説の教主を信じてその名を唱う。何ぞ所説の法体を信じて、その名を唱えざるをや。
以上のような謬解は、みなこれ人情であって、日蓮大聖人の御正意には何の関係もない。今ここに正意を示すならば、釈迦牟尼仏に大小権実迹本等の違いがあり、神力品の文は正しく寿量品の意をもって消すのである。さて寿量顕本に略して二意があり、
一には文上の意は、すなわち久遠本果の三身を顕わす。この仏は色相荘厳の尊容であって、在世脱益の教主である。この仏の名号を南無釈迦牟尼仏というのである。彼の十方世界の一切衆生は文上本果の三身を信ずるがゆえに南無釈迦牟尼仏と唱えたのである。
二に文底の意は、本地無作三身を顕わす。この仏は凡夫の当体本有のままであられる。すなわちこれ本因妙の教主であり、この仏の名号を南無妙法蓮華経というのである。彼の十方世界の一切衆生は、文底の無作三身を信じて南無妙法蓮華経と唱えたのである。
今はこの第二の意をもって末法に例しているのである。ゆえに、末法下種の仏、教主日蓮大聖人は即本地無作三身の南無妙法蓮華経仏である。ゆえに一の小僧を信じて南無妙法蓮華経と唱うべしと判じ給う。
御義口伝下にいわく「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-第一南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事-06)と。また三大秘法の大御本尊を信じ奉る者は、みなことごとく無作三身の南無妙法蓮華経仏である。御義口伝下にいわく「無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり」(0754-07)と。
また寿量顕本に二意ありとなす証文如何と問うのに対し、日寛上人は「天台いわく『此の品の詮量・通じて三身と名づく』とは久遠本果の三身にして文上の意なり。もし『別意に従えば正しく報身に在り』とは、すなわちこれ本地無作の報身にして久遠元初の自受用報身なり。これ文底の意なり。これは是れ天台の内鑒冷然の意なり、是れ深秘の相伝なり云云」とおおせられている。
広宣流布実現の時
日蓮大聖人の御仏意を拝し、世界の動向を見るに、今こそ三大秘法の広宣流布の時であり、化儀の広宣流布を今、達成しなければ、世界の動乱、人類滅亡の恐れが十二分にあることを憂うるものである。
広宣流布に二意がある。いわゆる法体の広宣流布と化儀の広宣流布である。日寛上人は、観心本尊抄の「当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す」(0254-01)の御文において、聖僧と成って正法を弘持するのは法体の折伏であり、折伏家の摂受である。賢王と成って愚王を責め誡めるとは、化儀の折伏であると仰せである。
ゆえに、法体の広宣流布とは、700年前、日本に御出現の御本仏・日蓮大聖人が弘安2年(1279)10月12日に、三大秘法の大御本尊を御建立あそばされて出世の本懐を遂げられたことである。化儀の広宣流布とは、三大秘法の御本尊を広宣流布していくことであり、かつ全世界の民衆を救済していくことである。
不思議にも、法体の広宣流布の時にも、化儀の広宣流布の時にも、全世界にわたる一大闘諍が広布の先相として、まきおこったのである。思えば一国の政治革命にも、フランス革命、明治維新、ロシア革命等にみられるごとく、血を血で洗う動乱と外国からの干渉が大なり小なり、つきまとった。われわれの宗教革命は、慈悲と道理による無血革命である。しかして人類の興亡をかける世界的動乱の時に、必ず大仏法が流布して人類を救わんとの御金言である。
観心本尊抄にいわく「此の釈に闘諍の時と云云、今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり、此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(0254-08)と。これ法体の広宣流布の時の闘諍、すなわち北条幕府の内乱と、大蒙古国の襲来をさすことは明らかである。
しかして撰時抄の前章には「彼の大集経の白法隠没の時は第五の五百歳当世なる事は疑ひなし、但し彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の一閻浮提の内・八万の国あり其の国国に八万の王あり王王ごとに臣下並びに万民までも今日本国に弥陀称名を四衆の口口に唱うるがごとく広宣流布せさせ給うべきなり」(0258-14)と仰せである。「八万の大王」とは、現在においては世界各国の政治家、指導者をさすといえよう。
さらに本章に入って、法華経の多くの文証をあげられて後に「文の心は第五の五百歳の時」云云と仰せられ、この三大秘法の南無妙法蓮華経が広宣流布する時には「前代末聞の大闘諍・一閻浮提に起こるべし」と仏法の一大哲理を示されたのである。すなわち、これ、700年前における法体の広宣流布の時にも、さらに今日における化儀の広宣流布にも通ずるものである。
700年前の法体の広宣流布の時における大闘諍とは、いうまでもなく、文永・弘安の二回にわたる蒙古襲来である。蒙古は後に元と称し、有史いらいの最大国家といわれるほど強大な国家であった。すでに武力によって、中国大陸を中心にヨーロッパ方面はオーストラリアのウイーン、ロシアのモスクワまでも版図をひろげ、中央アジア、満州、インドの北部、東南アジア等すべてを手中におさめ、最後に国をあげて日本を席捲しようとして襲いかかったのである。まさに前代未聞の大闘諍であり、全世界をおおう闘諍というべきであった。
しかし、当時は八万の国々に、全世界の国々に三大秘法の南無妙法蓮華経をひろめることは、交通や通信の未発達という社会情勢からも所詮は無理であった。すなわち法体の広宣流布なるがゆえに、日蓮大聖人は「万里の波濤を渡らずとも」とおおせられ、厳然と日本にとどまられながら全世界を中心におさめられ、大御本尊を建立あそばされたのである。しかして、世界広布は「前代未聞の大闘諍」における化儀の広宣流布の時に、ゆずられたといえよう。
「国主等・其のいさめを用いずば鄰国にをほせつけて彼彼の国国の悪王・悪比丘等をせめらるるならば」とは、正しく一つには法体の広宣流布における、隣国の蒙古の襲来である。さらに、今一つには、このたび第二次世界大戦の一環たる太平洋戦争の姿といえよう。日蓮大聖人の仏法を聞かないばかりか、創価学会を弾圧、迫害した日本の軍部は、隣国たるアメリカ・ソ連・中国に敗れ去る結果になったではないか。同じく日蓮大聖人の仏法を信ぜず、謗法を犯す、いかなる国々の指導者も、必ずや隣国等よりせめられて戦火をあびねばならぬという方程式といえよう。
「或は国ををしみ或は身ををしむゆへに一切の仏菩薩にいのりをかくともしるしなくば」とは、時の軍部や為政者等が、国を惜しみ身を惜しむゆえに、あるいは天照大神に、あるいは高野山で大日如来に、あるいは神社仏閣にと、一国をあげて祈りかけたけれども、少しもしるしなく日本は敗れたのである。しかし敗戦後、創価学会の再建とともに「彼のにくみつる一の小僧」日蓮大聖人を信ずる人々は、急激に倍増している。現在は、一か月に20万世帯・30万世帯の入信者を数え、昭和39年(1964)10月において500万世帯、一千数百万人が、日蓮大聖人の仏法を信ずるようになったのである。一口に千数百万人というが、これは実に国連加入の諸国の人口と比べれば第20番目にあたる数である。今こそ、正に日本の広宣流布の姿でなくてなんであろうか。
さらに、全世界を見渡した時、東南アジアでも、欧米諸国でも海外諸国で四万数千世帯の学会員が、嬉々として力強く信心に励んでいる。世界の情勢は、今なお第二次世界大戦の余燼はくすぶり第三次世界大戦の危機さえ、はらんでいる。戦後、独立した国々にも、多くの戦乱があった。朝鮮戦しかり、ハンガリア事件しかり、スエズ問題、インドシナ戦争、ベルリン問題、キューバ問題、中印国境紛争、中ソ論争、そして現在においても、南ベトナム、北ベトナム、ラオス、コンゴ等に戦火が絶えず、毎日多くの人命が失われているのだ。東洋の民衆に、全人類に、早く大御本尊の大功徳を知らせ、あたえてあげたいと思うのは当然であろう。
このように、世界広布の先祖たる「前代未聞の大闘諍」とは、第二次世界大戦であり、今こそ化儀の広宣流布の時であると、強く主張するものである。
「前代未聞の大闘諍」とは、第三次世界大戦が、今後、全世界におこることであると考えられぬこともない。また一知半解の邪宗日蓮宗の徒の中に、かくのごとき無責任な言辞を弄するものもいる。しかし、原水爆やミサイル等による全面的な第三次世界大戦が始まれば、30数億の人類は滅亡せざるをえないではないか。また、かかる苦悩を断じてあたえないためにも、われわれは、第二次世界大戦をもって「先代未聞の大闘諍」であると決定する。そして、第三次世界大戦は、いかなることがあっても、おこさないことを、大御本尊に強く願い、死身弘法、必ずや化儀の広宣流布を達成せんことを誓うものである。
化儀の広宣流布が実現するならば、第三次大戦等が絶対におこらぬ。恒久的な世界平和、人類の幸福は約束されるのである。しかし、今、万が一、化儀の広宣流布が実現できなかったならば、御仏智に照らして大仏法哲理に徹して、第三次大戦は必至なりといわざるをえないのである。わが創価学会が、あらゆる迫害、弾圧に屈せず、毅然として前進するゆえんも、実にここにあり、ただただ世界の恒久平和、人類永遠の幸福を願う止むに止まれぬ活動であることを知るべきである。
立正安国論にいわく「先難是れ明かなり後災何ぞ疑わん・若し残る所の難悪法の科に依つて並び起り競い来らば其の時何んが為んや」(0031-15)と。700年前の大聖哲の警告「其の時何んが為んや」は、正しく正法を用なかったために、日本の敗戦、亡国となってあれわれた。しかし、なお化儀の広宣流布が、御仏意としてあたえられ、変毒為薬することがせきた。しかるに、全民衆が日蓮大聖人の仏法を信ぜず、化儀の広宣流布を達成できなかった時「其の時何んが為んや」の御金言を恐れるものである。
立正安国論に、またいわく「国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁れん汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」(0031-18)と。四表の静謐とは、真実の世界平和をさすものである。北条時宗への御状にいわく「身の為に之を申さず神の為・君の為・国の為・一切衆生の為に言上せしむる所なり」(0170-13)と。わが一身を省みず、一創価学会のためでもなく、全人類の幸福のため、世界平和のために立ち上がったのが、わが創価学会であり、これこそ学会精神である。
日蓮大聖人の仏法は、日本人の仏法にあらずして全人類の仏法である。日本民族の安泰を願うにあらずして、世界民衆の幸福と繁栄を築くべき大仏法、大哲学である。吾人が「核兵器の絶対使用禁止」「地球民族主義」を叫ぶゆえんも、ここにある。地球民族主義とは、全世界の民族が一民族として相互扶助の精神で、共に繁栄すべきことをいうのである。
世界は狭くなった。交通、通信の発達、各民族の交流は、あたかも世界が一国のごとき様相を呈している。そして、民族の如何を問わず、過去に仏法の縁の深かった東洋諸民族は申すにおよばず、欧米の諸民族にも、東洋哲学を求める声が、日々に強まっている。
このことは、私が海外諸国を歴訪して、直接に見聞したことによっても、確信をもって、いいうることである。東南アジア諸国が、後進国の域を脱しえないのも、その根本原因は小乗教の害毒である。真実の仏法によって、人間性を発揮しないかぎり、根本的救済の道はありえない。
欧米先進国は、一応キリスト教によって、その文化が支えられてきたといえるが、すでに過去の宗教であり、その非科学性は、現代科学との矛盾を克服しえず、唯物論に対しては説得力を失い、いたずらに自己の堡類を守るために力の政策による結果となって、現在の国際的対立危機をまねくにいたった。
共産主義諸国は、思想の根底が唯物論であるがゆえに、人間性の抑圧は、心ある人は憂えている。権力至上主義ともいうべきイデオロギーが、民衆を蹂躙しているといっても過言ではあるまい。
北欧諸国やオーストラリアが、社会保障の充実で、福祉国家の先例となっているが、半面、民衆の頽廃無気力は、いかんともしがたい風潮となっていきつつある。
このように、いかなる社会体制も、矛盾をかかえて、相克を示し、人間疎外、人間性の抑圧という共通的な致命的な欠陥は、ついに今日の世界的危機を招来するにいたったといえよう。思想哲学の貧困こそ、現代社会における病理の根源があって、今こそ失われたる人間性を恢復し、現代科学を指導して、あらゆる人々に幸福をあたえ、世界に恒久平和の秩序を築きうる大思想、大哲学の出現をまたねばならぬ重大な時がきたのである。
この大思想こそ、東洋仏法の真髄、日蓮大聖人の仏法であり、全人類の求める最高唯一の大生命哲学であることを、強く訴えるものである。
これすなわち、仏法民主主義ということである。民主主義は政治の正統理念として、待望されながら、西欧民主主義、人間民主主義等いずれも完全なる民主主義とは、いいがたい。いずれも民主主義とは名ばかりで、現実には人間的に政治的に経済的に、不平等と束縛と生命軽視の風潮が支配的ではないか。人間生命の尊厳と慈悲を根底とする仏法民主主義こそ、真の自由、真の平等を達成する真実の民主主義である。
また、現在、いかなる国々も社会福祉をとなえる社会主義的な政策をとろうとしている。いかし、今までの社会主義は、機構、制度のみを重視し、人間性は全く無視されていた。仏法民主主義の理想とするものは、大衆福祉であり、人間性社会主義である。個人の尊厳を自覚し、真の人間形成をはかりつつ、すべての大衆の福祉を達成する新社会主義である。
いよいよ、人類の新しき時代は到来した、真実の民主主義、真実の社会主義をかかげて、全民衆の永遠の兵をと幸福を確立していかねばならない。
0259:15~0260:12 第六章 釈の文を引いて証すtop
| 15 問うて曰く経文は分明に候・天台・妙楽・伝教等の未来記の言はありや、答えて曰く汝が不審逆なり釈を引かん 16 時こそ経論はいかにとは不審せられたれ 経文に分明ならば釈を尋ぬべからず、 さて釈の文が経に相違せば経をす 17 てて釈につくべきか如何、 彼云く道理至極せり、 しかれども凡夫の習経は遠し釈は近し近き釈分明ならばいます 18 こし信心をますべし、 今云く汝が不審ねんごろなれば少少釈をいだすべし 天台大師云く「後の五百歳遠く妙道に 0260 01 沾わん」妙楽大師云く「末法の初め冥利無きにあらず」伝教大師云く「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り法華一 02 乗の機今正しく是れ其の時なり、 何を以て知ることを得る、 安楽行品に云く末世法滅の時なり」又云く「代を語 03 れば則ち像の終り末の初め地を尋ぬれば唐の東・羯の西・人を原ぬれば五濁の生・闘諍の時なり、 経に云く猶多怨 04 嫉況滅度後と此の言良に以有るなり」云云、 夫れ釈尊の出世は住劫第九の減・ 人寿百歳の時なり百歳と十歳との 05 中間・在世五十年・滅後二千年と一万年となり、其の中間に法華経の流布の時・二度あるべし所謂在世の八年・滅後 06 には末法の始の五百年なり、 而に天台・妙楽・伝教等は進んでは在世法華経の時にも・もれさせ給いぬ、退いては 07 滅後・末法の時にも生れさせ給はず中間なる事をなげかせ給いて 末法の始をこひさせ給う御筆なり、 例せば阿私 08 陀仙人が悉達太子の生れさせ給いしを見て 悲んで云く 現生には九十にあまれり太子の成道を見るべからず後生に 09 は無色界に生れて五十年の説法の坐にもつらなるべからず 正像末にも生るべからずとなげきしがごとし、 道心あ 10 らん人人は此を見ききて悦ばせ給え 正像二千年の大王よりも後世ををもはん人人は 末法の今の民にてこそあるべ 11 けれ此を信ぜざらんや、 彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱うる癩人とはなるべし、 梁の武帝の願に云く 12 「寧ろ提婆達多となて無間地獄には沈むとも欝頭羅弗とはならじ」と云云。 -----― 問う。末法に三大秘法が広宣流布するとの経文は、実に分明であることがわかった。それでは天台・妙楽・伝教等の未来を予言したことばがあるかどうか。 答う。汝の疑問は反対である。釈を引いて話を進めた時には、経論にそのようなことが、説かれているかどうかを反論するのが当然であるけれども、経文に分明であるならば、いまさら釈を尋ねる必要はないのである。もし釈を尋ね、釈の文が経文と相違した場合に、経を捨てて釈につくかどうか。決局、仏法はどこまでも経文を基本とすべきである。 彼がさらに質問していうには、なるほど経文を基となすというその道理は至極の道理である。しかし凡夫の習いとして、経は幽玄の奥義を明かしているから解することが容易でないけれども、釈はその経文を解釈したものであるから、もっと身近である。その身近の釈が分明になるならば、もう少し信心を増すことができるであろう。どうか説いて欲しい。 今答えていう。汝の不審はなかなか、ねんごろであるから、少々釈を出して聞かせよう。天台大師いわく「後の五百歳、すなわち末法の始めから遠く尽未来際にいたるまで三大秘法の妙法が流布し一切衆生が即身成仏するであろう」と。妙楽大師いわく「末法の初めは直達正観の南無妙法蓮華経が流布して下種の大利益を得るであろう」と。伝教大師いわく「正像二千年はほとんど過ぎおわって末法がはなはだ近づいている。法華一乗の機は今正しくこれその時であり、一切衆生はことごとく即身成仏する時期である。何をもってこれを知ることができるかといえば、安楽行品に法華経流布の時代を末法法滅の時と予言しているからである」と。またいわく「法華経流布の時代は像法の終わり末法の初めであり、その流布する国土は中国の東、カムチャッカの西、すなわち日本であり、その時代の衆生は五濁が強盛な闘諍堅固の時である。法華経法師品第十に、如来の現在すら猶怨嫉が多く況や滅度の後をやと予言している語は、実に深い理由のある言葉である」と。すなわち伝教大師は、末法の初めこそ真実の法華経流布の時であると、このように末法を恋い慕っているのである。 さて、これら天台・伝教の釈の文意を考えてみるのに、釈尊の出世は住劫第九の減・人間の平均寿命が百歳の時であった。この百歳から百年に一歳を減じて人寿の十歳にいたるまでの間というものは、釈尊の在世五十年と滅後正法像法の二千年と末法一万年とに区別される。その中間に法華経流布の時が二度ある。いわゆる釈尊在世に法華経を説いた八年間と、滅後には末法の初めの五百年の二度である。しかるに天台・妙楽・伝教等の人たちはそれ以前の釈迦在世の法華経説法の時に生まれあわないし、またより滅後末法の時にも生まれあわないので、その中間に自分が生まれたことをなげき末法の始めを恋い慕ってこのように書いているのである。 このように自分の生まれた時が、すでに聖人の在世と前後して終わったことを歎いた例としては、阿私陀仙人は悉達太子の生まれたのを見て悲しんでいうには、自分は現在九十余歳になり、太子が仏道を成ずるまで生きておれないし、また後生には無色界に生まれてこられないので、まったく仏の説法に縁をもつことができないと、歎いたようなものである。 道を求めようと願う心のある人々はこの事実を見聞して悦びたまえ、正像二千年の大王と生まれるよりは、後世の成仏を念願する人は、末法の今の万民であり、無智の大衆であった方が、即身成仏の機会を与えられているのである。どうして、これを信じないでいられようか。彼の天台の座主として、像法時代の仏法の最高権威者であった者よりも、末法において南無妙法蓮華経と唱える癩病人となるべきである。すなわち、末法に生まれたなら、直達正観の三大秘法の大御本尊を受持し奉ることができる絶対の幸福にめぐり会うからである。梁の武帝の発願の文には「寧ろ提婆達多となって無間地獄に沈むとも、法華経に遭って即身成仏えきることを喜ぶか、たとえ天界に生まれるとも欝頭羅弗外道のように成仏できないことを欲しない」とあるが、こえによっても末法に生まれて南無妙法蓮華経と修行することのできるわが身の幸福に歓喜と感激を忘れてはならないのである。 |
天台
(0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。
―――
妙楽
(0711~0782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。
―――
伝教
(0767~0822)伝教大師のこと。韓は最澄、わが国天台宗の開祖であり、天台の理の一念三千を広宣流布して人々を済土 させた。父は三津首百枝で先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年(0767)近江国滋賀郡(滋賀県高島市)で生まれ、12歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし延暦7年(0788)比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、弱冠31歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。36歳の時高雄山において、桓武天皇臨席のもと、南都六宗の碩徳14人の邪義をことごとく打ち破り、帰服状を出させた。延暦23年(0804)38歳の時、天台法華宗の還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子・行満座主および道邃和尚について、教迹・師資相伝の義・一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌延暦24年(0805)帰朝の後、天台法華宗をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三大部の大乗教を長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇・嵯峨天皇の篤い信任を受け、殿上で南都六宗の高僧と法論し、大いに打ち破って、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住・国家安穏の基盤を確固たらしめるため、迹門円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁13年(0822)6月4日辰時、56歳にして叡山中書院において入寂。戒壇の建立は、死後7日目の6月11日に勅許された。11月嵯峨帝は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観8年(0856)清和帝は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師・叡山大師・山家大師ともいう。大師の著作のなかでとくに有名なのは、「法華秀句」3巻・「顕戒論」3巻・「註法華経」12巻・「守護国界章」3巻等がある。また、大師は薬師如来の再誕である天台大師の後身といわれ、50代桓武・51代平城・52代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依を受けて、像法時代の法華経広宣流布をなしとげ、輝かしい平安朝文化を現出せしめた。しかし、その正法は義真・円澄みまで伝わったのみで、慈覚・智証からは、まったく真言の邪法にそまってしまったのである。
―――
未来記
仏が未来のことを前々に記したもの。予言書、事前の出来事を書き付けた文章。
―――
釈
人師が経論を注釈したもの。
―――
経論
三蔵のうち経蔵・論蔵をいう。経は仏が説いたところの教法。論は仏みずから問答論議して理を弁じたもの。また仏弟子が仏語を論じ、法相を講じたもの。
―――
経は遠し釈は近し
経とは仏の説法をいう。論とは経文をもとにして菩薩が述べたもの。すなわち解説書のほうがわかりやすいという意味。
―――
後の五百歳遠く妙道に沾わん
天台の法華文句の文。「後の五百歳」とは、末法の初めであり、遠くは万年の外をさす。「妙道」とは文底秘沈の大法であり、三大秘法のことである。「沾」とは流布の義である。末法の初めより万年の外、未来永々まで、文底深秘の三大秘法を流布しなければならないということである。「道」の字は三義があり、①虚通の義・本門の本尊、②所践の義・本門の戒壇、③能通の義・本門の題目。三大秘法を意味する。
―――
末法の初め冥利無きにあらず
妙楽大師の文句記の文。冥利とは下種益のことで、熟益・脱益は消滅している。ゆえに大聖人の仏法は下種」仏法である。
―――
正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り法華一乗の機今正しく是れ其の時なり、何を以て知ることを得る、安楽行品に云く末世法滅の時なり
伝教大師の守護国界章にある。伝教大師の時代は仏滅後1800年で、まだ末法に入っていなかったことを意味する。
―――
正像
正法と像法のこと。正法は仏の教法が正しく伝わった時代という意味から、この呼称がある。年次については諸経典によって異説があるが、日蓮大聖人は大集経巻五十五に説かれる五五百歳を正像末の三時にあてはめ、第一の五百年(解脱堅固)と第二の五百年(禅定堅固)の一千年間を正法とされている。像法は正法一千年のつぎに到来する時代をいい、像は似の義とされ、形式が重んじられる時代といえる。年次については諸経典によって異説があるが、日蓮大聖人は、大集経巻五十五の五五百歳の中の第三の五百年(読誦多聞堅固)と第四の五百年(多造塔寺堅固)の一千年間を像法とされている。
―――
法華一乗の機
一仏乗を説き示した法華経によってのみ成仏することのできる衆生の機根のこと。
―――
代を語れば則ち像の終り末の初め地を尋ぬれば唐の東・羯の西・人を原ぬれば五濁の生・闘諍の時なり、経に云く猶多怨嫉況滅度後と此の言良に以有るなり
伝教大師の守護国界章の文。末法の時代・場所・機根を示した文。
―――
唐の東羯の西
唐は中国、羯は沿海州をいい、その間に「日本」があるとされた。
―――
五濁
劫濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁のこと。劫濁とは飢饉・疫病・戦乱が起こって、時代そのものが乱れること。煩悩濁とは、貧・瞋・癡・慢・疑という人間が生まれながらに持っている本能の乱れ。衆生濁とは、不良や犯罪者の激増など人間そのものが濁乱してくること。見濁とは、思想・見解の混乱。命濁とは、病気や早死にが多いことである。末法悪世にはこの五濁がことごとく盛んになると説かれている。五濁は妙法への不信から起こるのであって、信ずることによって破ることができる。御義口伝には「文句の四に云く劫濁は別の体無し劫は是長時・刹那は是短時なり、衆生濁は別の体無し見慢果報を攬る煩悩濁は五鈍使を指て体と為し見濁は五利使を指て体と為し命濁は連持色心を指して体と為す。御義口伝に云く日蓮等の類いは此の五濁を離るるなり、我此土安穏なれば劫濁に非ず・実相無作の仏身なれば衆生濁に非ず・煩悩即菩提生死即涅槃の妙旨なれば煩悩濁に非ず・五百塵点劫より無始本有の身なれば命濁に非ざるなり、正直捨方便但説無上道の行者なれば見濁に非るなり、所詮南無妙法蓮華経を境として起る所の五濁なれば、日本国の一切衆生五濁の正意なり、されば文句四に云く『相とは四濁増劇にして此の時に聚在せり瞋恚増劇にして刀兵起り貪欲増劇にして飢餓起り愚癡増劇にして疾疫起り三災起るが故に煩悩倍隆んに諸見転た熾んなり』経に如来現在猶多怨嫉況滅度後と云う是なり、法華経不信の者を以て五濁障重の者とす」とある。
―――
住劫第九の減
住劫の中の9番目の減劫のこと。住劫とは世界の成立から消滅までを成住壊空の四劫に分けたな住をいう。成立した世界が安定継続している時期。この住劫は20小劫からなり、人の寿命が無量歳から100年に一切を減じて10歳になるまでを第一減劫といい、次に10歳から100年ごとに一切増加しては八万歳になるのを第二増劫、以下第二減劫、第三増劫となり、第二十小劫は増劫のみとなり、この期間を一中劫という。このうち釈迦仏が出現したのは、第九減劫の人寿100歳の時とされている。
―――
法華経の流布の時・二度
在世と末法をあげて二度の法華経流布の時とする。天台・伝教の時代をあげないのは、像法は真実の法華経流布の時ではないからである。
―――
阿私陀仙人
釈迦が生まれたとき、その相を見て、将来仏陀になることを見通した仙人。彼はこのときすでに高齢であったので、釈迦が長じて仏陀になるまで生きていられないことを嘆いた。
―――
悉達太子
釈迦仏の幼名。
―――
無色界
仏質のない精神の世界で、最上の天上界をさす。色界は六欲天より高く、無色界は色界よりさらに高いところにあるとされる。
―――
天台の座主
「座主」というのは大衆一座の主である。比叡山延暦寺等では、時の貫首を座主と呼んでいる。
―――
寧ろ提婆達多となて無間地獄には沈むとも欝頭羅弗とはならじ
中国の南北時代、梁の武帝が道教をすてたときの勅文である。提婆達多として長く地獄に沈むとも法華経の成仏によって成仏を許されている。欝頭羅弗の外道となってしばらく天に生ずることができても成仏することはできない。ゆえに提婆達多となっても、欝頭羅弗になりたくない。
―――
提婆達多
提婆ともいう。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。
―――
無間地獄
八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
―――
欝頭羅弗
バラモン外道の哲学者である。インドの仙人で禅定をえて天界の非想天に生まれた。八万劫の寿を終わって、後に飛狸となって多くの魚や鳥を殺し、無量の罪をえて三悪道に堕したという。
―――――――――
この章は、釈の文を引いて、末法に三大秘法の広宣流布することを明かしている。初めに天台・伝教の文を引き、次に「夫れ釈尊の出世」からは釈の文意を述べ、「例せば阿私仙人」からは引例、「道心あらん人人」からは結勘となっている。
妙道に沾うとは三大秘法の広宣流布
「後の五百歳遠く妙道に沾わん」とは、天台大師の法華文句の文である。いまこの文を引かれるのは、末法の始めより万年の外遠く未来際までも三大秘法が流布するのであろうとの意を示さんがためであることは、前述の通りである。さて妙道とは、なぜ三大秘法であるか。これについて日寛上人は「此れは是れ内鑒冷然の奥旨・当流深秘の法門なり」として次のようにお示しになっている。
道に三の義あり、即ちこれ三箇である。
第一に虚通の義、即ちこれ本門の本尊である。文句二にいわく「中理虚通を道と名づく」と。中はいわく中道即妙法蓮華経である。理はいわく実相、即ちこれ一念三千である。およそ妙法の三千は法界に周遍し、さらに壅するところがない。ゆえに虚通という。即ちこれ本門の本尊事の一念三千の南無妙法蓮華経である。ゆえに日女御前御返事にいわく「是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎたる本尊なり、されば首題の五字は中央にかかり・四大天王は宝塔の四方に坐し・釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ普賢.文殊等.舎利弗・目連等坐を屈し.日天・月天.第六天の魔王・竜王・阿修羅・其の外不動・愛染は南北の二方に陣を取り・悪逆の達多・愚癡の竜女一座をはり・三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等・加之日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神神・総じて大小の神祇等・体の神つらなる・其の余の用の神豈もるべきや、宝塔品に云く『諸の大衆を接して皆虚空に在り』云云、此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり。経に云く『諸法実相』是なり、妙楽云く『実相は必ず諸法・諸法は必ず十如乃至十界は必ず身土』云云、又云く『実相の深理本有の妙法蓮華経』等と云云、伝教大師云く『一念三千即自受用身・自受用身とは出尊形の仏』文、此の故に未曾有の大曼荼羅とは名付け奉るなり」(1243-08)と。
第二に所践の義、即ちこれ本門の戒壇である。輔正記四にいわく「道は是れ智・所践の故なり」。信を以て慧に代うるゆえに智はこれ信である。およそ戒壇とは信者の践む所である。ゆえに所践の義は即ち本門の戒壇である。ゆえに三大秘法抄にいわく「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋給うべき戒壇なり」(1022-15)と。蹋とは即践である。
第三に能通の義即ちこれ本門の題目である。法界次第中にいわく「道をもって能通の義となす」本門の題目におよそ二義を具している。一はこれ信・二はこれ行である。この二つが相扶け能通して寂光にいたる。ゆえに能通の義はこれ本門の題目である。天台のいわゆる「智目行足・清涼地に至る」は、これである。当体義抄にいわく「日蓮が一門は正直に権教の邪法・邪師の邪義を捨てて正直に正法・正師の正義を信ずる故に当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」(0518-15)と。即ち、この意である。行者はまさに知るべし、信心があっても、唱題の行がなければ盲ではないが跛のようなものである。唱題があってももし信心がなければ、たとえば跛ではないが盲のようなものである。もし信行がともに具足するならば、なお二つが完全であるようなものである。百論の盲跛の譬を思い合わせよ。ゆえに能く信心の目を開き唱題修行の足を運べ。
若ししからば、能通、寂光清涼池にいたらんことを確信すべきである。しからば則ち能通・所践・虚通の三義は即ちこれ三箇の秘法であることは必然である。ゆえに妙道はこれ文底秘沈の大法である。報恩抄にいわく「一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」(0328-15)日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし」(0329-03)と。これを思い合わせなさい。
以上によって、妙道とは三大秘法のことであり、末法に三大秘法が広宣流布すべきことを、明らかに知るべきである。
末法の初め冥利無きにあらず
妙楽大師の文句記の文である。この文で「冥利」というのは下種益のことである。すなわち釈尊時代のよに熟益や脱益が顕われるのとは違うのである。教行証御書にいわく「正像に益を得し人人は顕益なるべし在世結縁の熟せる故に、今末法には初めて下種す冥益なるべし」(1277-06)「妙楽の釈の如くんば、冥益なれば人是を知らず見ざるなり」(1277-08)とあり、輔正記には「或は妙とは毀する者は但冥益を得るのみ、或は顕とは信ずる者は六根清浄の報を得」といっている。この文で毀する者とは下種益をうるゆえに冥利というのである。すなわち教行証御書にいわく「過去の威音王仏の像法に三宝を知る者一人も無かりしに・不軽菩薩出現して教主説き置き給いし二十四字を一切衆生に向つて唱えしめしがごとし、彼の二十四字を聞きし者は一人も無く亦不軽大士に値つて益を得たり、是れ則ち前の聞法を下種とせし故なり」(1276-08)と。不軽菩薩は現に六根清浄をうるゆえに顕益というのである。朝抄では順逆二縁ともに下種益である。ゆえに順逆ともに冥益である。どうして順縁をもって顕益となすことができようか。不軽品の意は、能化の不軽を名づけて信者となすゆえに、現に六根清浄を得、これを顕益というのである。所化の順縁をこれに混入してはならない。いま現に順縁の弟子といえども、六根清浄を得ていないことによっても、顕益でないことがわかるではないか。
法華経流布の時・二度あるべし
法華経流布の時は釈尊在世と末法の二度であるとのおおせであるが、すでに天台大師・伝教大師の御時にも法華経が広宣流布したはずであるのに、なにゆえ「二度」とおおせられたか。これについて日寛上人は像法時代は真実の広宣流布の時ではないと、次の五意を示されている。
一には、像法には、この経の利生がいまだ盛んでない。そのことを法華経の薬王品第二十三には「衆星の中に月天子もっともこれ第一なり」とあり、薬王品得意抄にいわく「又月はよいよりも暁は光まさり・春夏よりも秋冬は光あり、法華経は正像二千年よりも末法には殊に利生有る可きなり、問うて云く証文如何答えて云く道理顕然なり、其の上次ぎ下の文に云く「我が滅度の後・後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶せしむること無し」等云云、此の経文に二千年の後南閻浮提に広宣流布すべしと・とかれて候は・第三の月の譬の意なり」(1501-08)と。ゆえに像法には、法華経の利生が盛んでないことを知るのである。
二には、像法は、諸大乗経に利益があり、よって、ただ法華経のみが唯一無二の即身成仏の大法であるとの妙能が明らかでない。顕仏未来記にいわく「小乗経を以て之を勘うるに正法千年は教行証の三つ具さに之を備う像法千年には教行のみ有つて証無し末法には教のみ有つて行証無し等云云、法華経を以て之を探るに正法千年に三事を具するは在世に於て法華経に結縁する者か、其の後正法に生れて小乗の教行を以て縁と為し小乗の証を得るなり、像法に於ては在世の結縁微薄の故に小乗に於て証すること無く此の人・権大乗を以て縁と為して十方の浄土に生ず、末法に於ては大小の益共に之無し、小乗には教のみ有つて行証無し大乗には教行のみ有つて冥顕の証之無し、其の上正像の時の所立の権小の二宗・漸漸・末法に入て執心弥強盛にして小を以て大を打ち権を以て実を破り国土に大体謗法の者充満するなり」(0506-14)「此の時に当つて」(0507-03)「本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか」(0507-06)等云云。
三には、像法には、正直の妙法を弘めざるうえに。立正観抄にいわく「天台大師は霊山の聴衆として如来出世の本懐を宣べたもうと雖も時至らざるが故に妙法の名字を替えて止観と号す迹化の衆なるが故に本化の付属を弘め給わず正直の妙法を止観と説きまぎらかす故に有のままの妙法ならざれば帯権の法に似たり、故に知んぬ天台弘通の所化の機は在世帯権の円機の如し、本化弘通の所化の機は法華本門の直機なり」(0529-15)と。
四には、像法には、事行の三千を顕わさざるゆえに。観心本尊抄にいわく「像法の中末に観音・薬王・南岳・天台等と示現し出現して迹門を以て面と為し本門を以て裏と為して百界千如・一念三千其の義を尽せり、但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊未だ広く之を行ぜず所詮円機有つて円時無き故なり」(0253-11)と。
五には、像法には、いまだ奥秘の大法を弘めざるゆえ。撰時抄にいわく「仏滅後に迦葉.阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親.乃至天台・伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法経文の面に現前なり、此の深法・今末法の始五五百歳に一閻浮提に広宣流布すべきや」(0272-16)と。
0260:13~0261:02 第七章 正法の初めの五百年の弘教top
| 13 問うて云く竜樹・天親等の論師の中に此の義ありや、答えて云く竜樹・天親等は内心には存ぜさせ給うといえど 14 も言には此の義を宣べ給はず、 求めて云くいかなる故にか宣給ざるや、 答えて云く多くの故あり 一には彼の時 15 には機なし・二には時なし・三には迹化なれば付嘱せられ給はず、 求めて云く願くは此の事よくよくきかんとをも 16 う、答えて云く夫仏の滅後二月十六日よりは正法の始なり 迦葉尊者仏の付嘱をうけて二十年、 次に阿難尊者二十 17 年・次に商那和修二十年・次に優婆崛多二十年・次に提多迦二十年、 已上一百年が間は但小乗経の法門をのみ弘通 18 して諸大乗経は名字もなし何に況や法華経をひろむべしや、次には弥遮迦・仏陀難提・仏駄密多・脇比丘・富那奢等 0261 01 の四五人、前の五百余年が間は大乗経の法門少々.出来せしかども.とりたてててて弘道し給はず、但小乗経を面とし 02 てやみぬ、 已上大集経の先五百年解脱堅固の時なり、 -----― 問うていう。経文ならびに天台・伝教の未来記によって、末法に三大秘法が広宣流布するとの意は明らかになったが、竜樹・天親の論師の中に、この義が明らかかどうか。 答えていう。竜樹・天親は内心にはそのことを知ってはいたが、言葉にはこの義を宣べていない。 求めていう。いかなる理由によって宣べ給わないのか。 答えていう。多くの理由があり、竜樹・天親の時代には、一には機なく、二には時なく、三には迹化の菩薩であるから、法華経の付属を受けておらないからである。 求めていう。願わくは、それらの事情をよくよく聞きたいと思う。 答えていう。仏の滅後二月十六日から正法時代の始めである。まず迦葉尊者が仏の付嘱をうけて二十年、次に阿難尊者が二十年、次に商那和修が二十年、次に優婆崛多が二十年、次に提多迦が二十年、已上百年の間は但小乗経の法門をのみを弘通して、諸大乗経はその名字すらいい出すものがなかった。まして実大乗教の法華経がひろめられるわけがなかった。 次に仏滅後百年から五百年の間には、弥遮迦・仏陀難提・仏駄密多・脇比丘・富那奢等の四、五人が、それぞれ正法を弘通したが、この期間は大乗経の法門が少々あらわれてきたけれども、とり立てて弘通することがなく、ただ小乗教を面として諸国に流布させていた。以上の五百年は大集経の第一の五百歳、解脱堅固の時代である。 |
竜樹
梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。
―――
天親
天親菩薩ともいう。生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。
―――
論師
阿毘曇師ともいう。三蔵のうちの論蔵に通じている人をいったが、論議をよくする人、論をつくって仏法を宣揚したひとをいう。
―――
迹化なれば付嘱せられ給はず
釈尊が法華経を説いたときに来集した菩薩のなかで、本門涌出品から嘱累品まで八品のあいだに来集した地涌の菩薩を本化の菩薩といい、仏はこの本化の菩薩を久遠の弟子であると説き、また初発心の弟子であると説いて、神力品において仏滅後の別付嘱をなした。これ以外の菩薩を迹化といい、涌出品で「止みね善男子」と末法の法華経の弘教を制止されている。
―――
迦葉尊者
釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある
―――
阿難尊者
梵語アナンダ(Ānanda)の音写。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。付法蔵の第二
―――
商那和修
梵語シャーナヴァーサ、シャナカヴァーサ(Śāṇavāsa、Śaṇakavāsa)の音写。舎那婆修、奢搦迦、商諾迦縛娑とも書く。麻衣と訳す。付法蔵の第三祖。中インド王舎城の長者で、釈尊滅後、阿難の弟子となり阿羅漢果を得、摩突羅、梵衍那、罽賓の地に遊行教化した。優婆崛多に法を付嘱した。
―――
優婆崛多
優婆毱多ともいう。商那和修から法を承け阿育王を化導し、八万四千の塔を建てて供養せしめた。弘法が盛んであったので、仏滅後の第一人者と尊敬された。付法蔵の第四。
―――
提多迦
付法蔵の第五。
―――
弥遮迦
付法蔵の第六。提多迦より法を受けた。正法のはじめの500年のあいだに世に出た中インドの人。はじめ8000の仙人の導者であって多聞博才で弁舌にすぐれていた。提多迦の教化で仏法に帰依し、のちに付法をうけて大いに仏法の宣揚につとめた。
―――
仏陀難提
付法蔵の第七。北インド迦摩羅国の人。弥遮迦の教化で出家し、たちまち声聞の四果をえたという。付法を受けて内心に大乗を奉じ外に小乗教をもって広く時の人を導いた。
―――
仏駄密多
付法蔵の第八。仏駄難提の弟子となり、智解が勝れていたので付法を受け正法を弘めた。時の国王は、大勢力があり勇猛博才であったが、外道を尊崇して仏法を破ろうとした。密多はその非を糺そうとして赤幡をかかげて王城の前で12年間往来し、遂に王に召聞され、婆羅門長者居士と宮殿で法論し大いにこれを破り帰依させた。王も邪心を改めて正法に帰依し、仏教を保護した。内心には大乗教をもち、外には小乗教で衆生を化導した。
―――
脇比丘
付法蔵の第九、脇羅漢・長老脇勒比丘とも呼ぶ。脇尊者はその敬称。生国は西域記には北インドとあるが、仏祖統記などでは中インドとなっている。付法蔵経によると、脇比丘は母の胎内にあること60余年に出生し、西域記には80歳で出家とある。高年齢で仏門に入り、苦行を修し、脇をもって地に臥すことがなかったので、人は尊敬して脇比丘と称した。一説には脇尊者は、仏陀密多について出家受戒し、滅度の時に、法を富那奢に付したとあり、他説には馬鳴に直接法を付したともある。①迦弐色迦王の命により500の賢聖とともに迦湿弥羅国において、三蔵を結集して、大毘婆沙論を編纂した。②四阿含優婆提舎を著作した。等とあるが、訳本は中国につたわっておらず。また原本もないため、ここでは「不詳」としておく。顕謗法抄には「仏の滅後四百年にあたりて健駄羅国の迦弐色迦王仏法を貴み一夏・僧を供し仏法をといしに一一の僧・異義多し此の王不審して云く仏説は定て一ならんと終に脇尊者に問う、尊者答て云く金杖を折つて種種の物につくるに形は別なれども金杖は一なり形の異なるをば諍うといへども金たる事をあらそはず仏の滅後四百年にあたりて健駄羅国の迦弐色迦王仏法を貴み一夏・僧を供し仏法をといしに一一の僧・異義多し此の王不審して云く仏説は定て一ならんと終に脇尊者に問う、尊者答て云く金杖を折つて種種の物につくるに形は別なれども金杖は一なり形の異なるをば諍うといへども金たる事をあらそはず」(0454-13)とある。
―――
富那奢
付法蔵の第十。富那夜奢ともいう。インド華氏国の人で、仏滅後500年ごろ生まれた脇比丘から法を受け、波羅奈国に行化し馬鳴菩薩を化導した。
―――――――――
この章からは、広く三時弘教の次第を明かしている。この章は、まず正法の始めの500年について述べられている。始めに二つの問答があり、竜樹・天親等の論師の中にも、「此の義」があるかと問うている。「此の義」とは三大秘法広宣流布の義である。三大秘法は正像2000年には広まらず、正像にひろまらないのは末法に流布するということを明かさんがためである。
答の文には「内鑒冷然、外適時宜」の所以が明かされている。当抄には、一に機なし、二に時なし、三に付嘱なしの三義を明かされているが、当体義抄には、一に時なし、二に付嘱なしの二義を明かし、曾谷入道等許御書くには、一に自身堪えざるゆえ、二に所被の機なし、三に付嘱なし、四に時なしの四義を明あされている。
さて、答の三義をより明らかにしよう。
第一に、彼の時に機なしとは、彼の時は本末有善の機ではなかった。およそ文底秘沈の大法は、本因下種の正体である。ゆえに、その機を論ずれば、本末有善の衆生であって謗法一闡提の輩である。しかるに正像2000年の間は、みなこれ在世結縁の衆生にして謗法一闡提の輩ではない。ゆえに小乗等の経教等を授けて下種の要法を授けないのである。
第二に、時なしとは、白法隠没の時ではないのである。およそ文底深秘の大法は、いっさいの仏法が隠没した時に次いで広宣流布するのである。しかれば、正像2000年は正しく大集経の前の四箇の500歳であって、第五の500歳白法隠没の時ではない。どうして文底秘沈の大法を広宣流布することができようか。
第三に、迹化なれば付嘱されたまわずとは、迹化の菩薩に妙法五字の付嘱がなかったのは、次のように三つの理由がある。
一には迹化は釈尊初発心の弟子にあらざるゆえに。
二には迹化は妙法所持の人にあらず。
三には迹化は功を積むこと浅きゆえに。
これに反して、本化は一に機あり、二に時あり、三に付嘱を受けている。ゆえに三大秘法を末法に広宣流布するのである。正像に流布しなかったことを述べる元意は、末法に必ず流布することを明かさんがためであり、末法においても、世界広布、順縁広布を明かさんがためである。
付嘱の三義
三種類の付嘱があり弘宣付嘱・伝持付嘱・守護付嘱である。
第一の弘宣付嘱とは嘱累品にいわく「われ無量百千万億阿僧祇劫において、この得がたき三藐三菩提の法を修習せり、今もって汝に付嘱す、汝はまさに受持読誦し、広くこの法を宣べて、一切衆生をして普く聞知することを得しむべし」と迦葉・阿難等も、この弘宣付嘱を受けて諸国に仏法を弘宣したものである。
第二の伝持付嘱とは、涅槃経にいわく「われ今所有の無上の正法ことごとくもって摩訶迦葉に付嘱す。まさに汝らの為に大依止となりなお如来のごとくなるべし」と。すなわち仏の滅後四依の賢聖が法燈を伝持して、仏の在世と同じく衆生の依止となったことをいう。
第三の守護付嘱とは、涅槃経にいわく「如来の今無上正法をもって、諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に付嘱す」と。またいわく「内に知恵の弟子あって甚深の義を解し、外に清浄の檀越あって仏法を久住す」と。すなわち在家の国王・大臣・民衆等が、ことごとく守護付嘱を受けて仏法を守護するのである。
さて付法蔵24人の付嘱は第一の弘宣付嘱と第二の伝持付嘱である。
創価学会の全世界に向かって500数十万世帯を折伏し、本尊流布に邁進しつつある姿は、また弘宣付嘱ということができよう。
守護付嘱と賢王
釈尊滅後のインドにおいては、仏教の興隆と仏典の結集が、多くの聖僧と強大な武力権力を背景とした賢王の外護によってなされたことはいうまでもない。中にも阿育大王は深く仏教に帰依し、身をもって正法に流布に務めた。次第に領土を拡張し、ほとんど全インドを統一して仏教を弘宣せしめた上、さらには南はセイロンより北は中央アジアにおよび、東はビルマ、中国より、西はギリシァ、エジプトにおよぶ広大な地域に、120余人の長老を撰んで宣教したと伝えられる。これよりインドの仏教は世界的仏教となった。あたかも迫害ばかり受けていたキリスト教をして、ローマ国教たらしめ、世界宗教たらしめたコンスタンチニス大帝に比さられるものである。しかし阿育大王の雄図も、王の崩御とともに乱れ、四方宣教の連絡も絶えておわったことは、まことに惜しむべきである。
仏教は次いで中国に渡り、日本へ伝えられたのであるが、やはり王の一存によって全国に正法の流布したこともあれば、徹底的な迫害弾圧を加えられたこともあったが、賢王の代表的な例としては、天台大師時代の陳主あり、伝教大師時代の桓武天皇がある。迫害の例としては、後周の武帝等がある。
日蓮大聖人もまた公場対決を要求され、国家権力者の前で法の正邪を決し、邪法を破って正法を立て、もって天下泰平、国土安穏を実現せんとなされた。しかし700年来いまだ、賢王は現れず、広宣流布の実現も見ることはできなかったのである。
観心本尊抄にいわく「当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す」(0257-01)と。涅槃経にいわく「正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せず、応に刀劒・弓箭・鉾槊を持つべし」と。われらは化儀の広宣流布実現のため、このような精神で戦わねばならないのである。
しかるに太平洋戦争に敗れた日本の国は、戦争を放棄した平和国家として、また全体主義・独裁主義を排除した民主国家として再出発した。ゆえに武器を持って戦うものはなく、主権者の一存や命令で宗教を左右することもできなくなったのである。しかして、主権在民の今日、戦いは言論戦であり、折伏精神である。
ここに創価学会こそ、もっとも平和的な、民衆的な団体として、また日本の国に真の平和主義をもって、民主主義社会を建設するために立ち上がったのである。すなわち、常に大衆のなかにあって、一対一の論議をかわし、一人一人を折伏し一軒一軒の家庭が宗教革命をして、今日まで発展を続けてきた。
もったいなくも、御本仏、日蓮大聖人は、身に寸鉄をおびずして、ただ言論をもって、あらゆる迫害弾圧の中で広宣流布をすすめられたのである。われら、末弟、どうして、この順縁広布の時に安閑としておられようか。ひたすら、言論をもって、哲学をもって、信心をもって、広布の大道を勇敢に前進してゆかんのみである。
0261:02~0261:08 第八章 正法の後の五百年の弘教top
| 02 正法の後六百年・已後一千年が前・其の中間に馬鳴菩薩・毘 03 羅尊者.竜樹菩薩.提婆菩薩.羅喉尊者.僧佉難提.僧伽耶奢.鳩摩羅駄・闍夜那・盤陀・摩奴羅・鶴勒夜那・師子等の十 04 余人の人人始には外道の家に入り 次には小乗経をきわめ後には 諸大乗経をもて諸小乗経をさんざんに破し失ひ給 05 いき此等の大士等は諸大乗経をもつて 諸小乗経をば破せさせ給いしかども 諸大乗経と法華経の勝劣をば分明にか 06 かせ給はず、設い勝劣をすこしかかせ給いたるやうなれども本迹の十妙・二乗作仏・久遠実成・已今当の妙・百界千 07 如・一念三千の肝要の法門は分明ならず、 但或は指をもつて月をさすがごとくし或は文にあたりてひとはし計りか 08 かせ給いて化導の始終・師弟の遠近・得道の有無はすべて一分もみへず、 此等は正法の後の五百年・大集経の禅定 09 堅固の時にあたれり、 -----― 正法の後六百年以後一千年までの五百年間は、馬鳴菩薩・毘羅尊者・竜樹菩薩・提婆菩薩・羅喉尊者・僧佉難提・僧伽耶奢・鳩摩羅駄・闍夜那・盤陀・摩奴羅・鶴勒夜那・師子等の十余人の人々が、始めは外道を学び、次に小乗経をきわめて、後には諸大乗経をもて諸小乗経をさんざんに打ち破っている。しかし、これらの諸大菩薩たちは、大乗経をもつて小乗経を破ったけれども、諸大乗経と法華経の勝劣は分明に説いてはいない。すなわち、大小相対をたてたのみで、権実の相対は立てなかった。たとえ少しは権実の勝劣を書いているようではあっても、法華経の肝要たる本迹の十妙・迹門の二乗作仏・本門の久遠実成・已今当最為第一の妙・百界千如・一念三千等の法門は分明に説いていない。単にあるいは指をもって月を指すごとくし、あるいは文に当たってその一端書いているのみで、化導の始終・師弟の遠近・法華経の即身成仏・爾前教の無得道はすべて一分も説いていない。此等は正法の後の五百年で、大集経の禅定堅固に当たる時代であった。 |
馬鳴菩薩
付法蔵の第十一。仏滅後600年ごろに出現し、大乗教をおおいにひろめた。梵名はアシュヴァゴーシャ(Aśvaghoṣa)。はじめ婆羅門の学者として一世を風靡し、議論を好んで盛んに仏教を非難し、負けたならば舌を切って謝すと慢じていたが、富那奢に論破され屈服して仏教に帰依し弘教に励んだ。馬鳴の名は、過去世に白鳥を集めて白馬を鳴かせて、輪陀王に力を与え、仏法を守ったためといわれる。著書には「仏所行讃」五巻、「犍稚梵讃」1巻、「大荘厳論」15巻等がある。
―――
羅尊者
迦毘摩羅ともいう。付法蔵の第一二。摩竭提国の人で、はじめ外道であり、3000の弟子を持っていたとき、神通力を用いて馬鳴をして、おとしいれようとし、かえって論破されて弟子となった。馬鳴滅後付法を受け、南インド・西インド一帯を化導し、法を竜樹に付した。著書には、「無我論」があり、外道を破折している様子は、金剛石がいっさいの物を破るがごときであったといわれる。
―――
提婆菩薩
付法蔵の第十四。仏滅後750年ごろの南インドの婆羅門の出である。迦那提婆ともいい、提婆は梵語で天と訳し、迦那は片目の義。一眼であったからこのようにいわれた。一眼を天神に供養したといわれ、また一女人に与えて不浄を悟らせたともいわれる。竜樹のもとで出家して仏法を学び、諸国を遊化して広く衆生を救った。あるとき南インドの王が外道に帰依しているのを救おうと、王の前であらゆる外道を破折した。ときに一外道の無知、凶悪な弟子があり、師が屈服したのを恥じ、提婆がひとりで帰るところを襲って害を加えた。しかし、提婆はこれをゆるし、弟子が仇討ちをしようとするのを制して命絶えたという。
―――
羅喉尊者
付法蔵の第十五。羅睺羅多ともいう。インド迦毘羅の人で、浄徳長者の子。生来聡明であった。提婆菩薩について出家しおおいに正法をひろめた。
―――
僧佉難提
付法蔵の第十六。僧佉難提とは衆河と訳す。室羅筏城の宝荘厳王のことである。法を羅睺羅多に受け僧伽耶奢に伝えた。
―――
僧伽耶奢
付法蔵の第十七。衆称という。摩竭提国の人。仏法の正当を伝えて教化盛んであった。
―――
鳩摩羅駄
付法蔵の第十八。童受という。菩薩道を行じて、智弁海のように広大であった。美名童子と称せられた。出家後、若くしてことごとく解了し、頑愚な民衆を化導したが、全部が信受しなかったので、自分の前を鉄馬万騎をよぎらせ一見して、明らかに人名・馬色・衣服の姿を説いて人々を全部信伏させたという。多くの書をあらわして、各国を遊化した。
―――
闍夜那
付法蔵の第十九。鳩摩羅駄の弟子で盛んに正法を弘通した。
―――
盤陀
付法蔵の第二十。婆修盤陀ともいう。多聞・知恵にすぐれ、弁才に富んでいて、広く衆生を済度した。
―――
摩奴羅
付法蔵の第二十一。インド那提国王の子。南インドで正法をひろめた。
―――
鶴勒夜那
付法蔵の第二十二。略して鶴勒という。鶴勒鶴勒インドのバラモンの家に生まれた。中インドで大乗仏法を広めた。
―――
師子
師子尊者のこと。師子比丘ともいう。釈迦滅後1200年ごろ、中インドに生まれ、鶴勒夜那について法を学び、付嘱を受けて仏法を弘めた。付法蔵の二十四人の最後の伝灯者。師子尊者が、罽賓国において仏法を流布していたとき、その国王檀弥羅は邪見が強盛で、婆羅門の勧めで多くの寺塔を破壊したり、多くの僧を殺害して、ついに師子尊者の首を斬ってしまった。だが、師子尊者の首からは一滴の鮮血も流れず、白い乳のみが涌き出たという。
―――
本迹の十妙
天台が法華玄義で明かしたもので、迹門に境・地・行・位・三法・感応・神通・説法・眷属・利益。本門に本因妙・本果妙・本国土妙・本感能妙・本神通妙・本説法妙・本眷属妙・本利益妙・本涅槃妙・本寿命妙がある。
―――
已今当の妙
「已今当」の三説に超過した妙法のこと。
―――
百界千如
法華経迹門を与えていえば、理の一念三千であるが、奪っていえば百界千如に過ぎない。
―――
一念三千
仏教の極理である。釈尊はこれを出世の本懐として、法華経方便品に「諸法実相」に約して、ほぼこれを説いた。ついで寿量品にいたり、因果国の三妙に約し、仏身の振舞の上からこれを説いた。これを受けて天台は、像法時代に出現して、摩訶止観で、次のように説いた。観の冒頭に「摩訶止観第五に云く世間と如是と一なり開合の異なり。『夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千・一念の心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す乃至所以に称して不可思議境と為す意此に在り』等云云或本に云く一界に 三種の世間を具す」と。十界とは「地獄界・餓鬼界・畜生界 ・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界」。十如とは「如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」。三世間とは五蘊世間・衆生世間・国土世間」。一念三千には理と事があり、迹門は理・本門は事となる。文底下種本門に対する時は、法華経の本迹二門ともに理の一念三千となり、真の一念三千の法門とは、寿量品文底秘沈の三大秘法である。
―――
化導の始終
天台は三種の教相を立てて、爾前経と法華経を相対・比較した。すなわち①根性融不融相――迹門方便品等――権迹相対。② 化導始終不始終相 ――迹門化城喩品――権迹相対。③師弟遠近不遠近相――本門寿量品――本迹相対、である。 第二化導始終不始終は三千塵点劫下種を、第三師弟遠近不遠近は五百塵点劫下種を明かし、霊山界の弟子たちは皆ことごとく成道し得道し終わると説く。これに対し爾前経では種熟脱を論じていないから仏も現世に初めて常道し法を聞く衆生も当分の利益しか得ておらず化導は完成されていない。本尊抄には「設い法は甚深と称すとも 未だ種熟脱を論ぜず還つて灰断に同じ化の始終無しとは是なり」(0249-09)とある。秋元御書に「種熟脱の法門・法華経の肝心なり三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(1072-05)等とある。
―――
師弟の遠近
天台の立てた三種教相の第三。師弟の遠近不遠近の相のこと。仏=師と弟子の関係は、今世で見出されたものであるのか、そうでないのかという事。仏の本地の開顕か不開顕との差。爾前経では仏はこの世に生まれて、菩提樹の下で初めて成仏した始成正覚の仏と説く。法華経では本門寿量品の長行に於いて五百塵点劫の昔に成仏し、以来娑婆世界に出現し衆生を教化してきた仏の本地を明らかにした。これにより、仏と弟子との関係は、単にこの世のものだけでなく実は遠大なる過去以来、師弟の関係にあることが明らかとなった。「親近」とも言い得るが、「遠近」とする。
―――――――――
この章には、大集経の第二の禅定堅固を明かしている。
この期間の諸論師は、内外相対・大小相対を立て、外道を破し、小乗教を破して権大乗経を弘通している。権大乗教を弘通する時代に、権実相対や本迹相対を立てる必要もないし、かえって不要の論議をたてることは、仏法弘通の妨げとなる。内外相対のキリスト教の信者を破折するのに、権実相対や本迹相対の必要がないし、また、権実相対の念仏の行者を破折するのに本迹相対や種脱相対を説明する必要がない。そのような無用の説明はかえって折伏の妨げになることは、われわれのつねに体験する所である。すなわち仏法においては、所対によって説く法門は異なってくるのである。
しかし、この時代の大菩薩たちは権大乗を弘通しながらも、内心には法華経の実義たる一念三千をきちんと持っていた。すなわち開目抄にいわく「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり」(0189-02)等とおおせられているとおりである。
始には外道の家に入り
この下に内外・大小・権実・本迹の四種の相対がある。すなわち「次には小乗教をきわめ」が内外相対、「後には諸大乗をもて諸小乗経をさんざんに破し失ひ」が大小相対、「諸大乗経と法華経の勝劣」等が権実相対であり、本迹の十妙等の文が本迹相対である。
本迹の十妙は一句で本迹を顕わし、二乗作仏は迹門、久遠実成は本門で、二句で本迹を顕わし、已今当の妙は一句で本迹を顕わす。通常は、法華経迹門法師品第十の「已に説き、今説き、当に説かん。しかも、その中において、この法華経もっとも難信難解なり」の文によって、法華経を已今当・最為難信難解とするが、本迹を相対する時は迹門が易信易解・本門が難信難解となる。観心本尊抄に「迹門並びに前四味・無量義経・涅槃経等の三説は悉く随他意の易信易解・本門は三説の外の難信難解・随自意なり」(0249-03)とあるのは、この意である。次に百界千如は迹門・一念三千は本門を顕わす。同じく観心本尊抄の迹門三段および本門三段に、この意が分明であり、ある時には与えて迹門を理の一念三千と名づけるのである。
0261:08~0262:04 第九章 像法の初めの五百年の弘教top
| 09 正法一千年の後は月氏に仏法充満せしかども 或は小をもて大を破し或は権経をもつて実経 10 を隠没し仏法さまざまに乱れしかば 得道の人やふやくすくなく仏法につけて悪道に堕る者かずをしらず、 正法一 11 千年の後・像法に入つて一十五年と申せしに仏法東に流れて漢土に入りにき、 像法の前五百年の内・始の一百余年 12 が間は漢土の道士と月氏の仏法と諍論していまだ事さだまらず 設い定まりたりしかども 仏法を信ずる人の心いま 13 だふかからず、 而るに仏法の中に大小・権実・顕密をわかつならば聖教一同ならざる故・疑をこりてかへりて外典 14 とともなう者もありぬべし、 これらのをそれ・あるかのゆへに摩騰・竺蘭は自は知つて而も大小を分けず権実をい 15 はずしてやみぬ、其の後.魏・晋・斉.宋.梁の五代が間・仏法の内に大小・権実.顕密をあらそひし程にいづれこそ道 16 理ともきこえずして 上み一人より下も万民にいたるまで不審すくなからず 南三・北七と申して仏法十流にわかれ 17 ぬ所謂南には三時.四時.五時.北には五時.半満・四宗.五宗.六宗、二宗の大乗.一音等.各各義を立て辺執水火なり、 18 しかれども大綱は一同なり所謂一代聖教の中には華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三なり法華経は阿含・般若・浄 0262 01 名・思益等の経経に対すれば真実なり了義経・正見なりしかりといへども涅槃経に対すれば無常教・不了義経・邪見 02 の経等云云、 漢より四百余年の末へ五百年に入つて陳隋二代に智顗と申す小僧一人あり 後には天台智者大師と号 03 したてまつる、 南北の邪義をやぶりて一代聖教の中には法華経第一・涅槃経第二・華厳経第三なり等云云、此れ像 04 法の前・五百歳・大集経の読誦多聞堅固の時にあひあたれり、 -----― 正法時代一千年を過ぎた後には、インドに仏法が充満していたけれども、あるいは小乗をもって大乗を破り、あるいは権経をもって実経を隠没し、仏法がさまざまに乱れたので、得道する者は漸く少なくなり、仏法によって悪道に堕ちる者が数知れず多くなった。正法一千年すぎて、像法時代に入って一千十五年目に、仏法が東に流伝して漢土へわたってきた。像法の前五百年の内、初めの百年の間は、中国の道士とインドの仏法との諍論が激しく戦われていて、いまだいずれが真実か決定しかねており、たとえ仏法が真実であると決定しても、これを信ずる人の心がいまだ深くなかった。こういう状態であったから、仏法の中にも大乗小乗の別、権経実経の別、顕教密教の区別があるなどと立て分けるならば、同じ仏教の中にも相違があるので疑いを起してかえって仏教を捨てて外道につく者が出てくる。このような恐れがあったから、最初に仏教を流伝した摩騰・竺蘭は自分では知っていたけれども、大小とか権実の立て分けは何もいわないでいた。 その後.・魏・晋・斉・宋・梁の五代の間、仏法の中で大小・権実・顕密をがたがいに争ったところ、おのおのの流派を生ずるばかりで、いずれが正当だと決定することができないので、上一人より下万民にいたるまで仏法に対して不審の念が多くなった。この間に南三・北七といって仏法が十派に分裂していた。すなわち南には三時・四時・五時とそれぞれの教判を立てる三派が生まれ、北には五時・半満・四宗・五宗・六宗・二宗の大乗・一音等それぞれの判教のもとに流義をたて、たがいに辺執して、その主張も水火のごとく相容れないものであった。しかれどもこれらの十派の主張する大綱は同じであった。すなわち一代聖教の中には華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三と立て法華経は阿含や般若や浄名や思益等の経々に相対すれば真実であり了義経であり、正見であるけれども、涅槃経に対すれば無常経・不了義経・邪見の経であるといい、さらに涅槃よりも華厳が勝ちれていると主張していた 漢の時代から四百余年の末五百年に入って陳隋二代にわたるころ、智顗と申す小僧があり、後には天台智者大師と号したてまつった。この天台大師は、五時八教をたて、南北十派の邪義を破って、一代聖教の中には法華経第一・涅槃経第二・華厳経第三と立て、釈迦仏出世の本懐たる法華経を広宣流布した。これは像法の前半五百年のことであり、大集経の読誦多聞堅固の時に当たる時代であった。 |
月氏
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
―――
漢土の道士
「漢土」は中国、「道士」は道教の信奉者、長生不死の術などを研究すること。道教は黄帝・老子を祖とし、陰陽五行・神仙の説を混和し、不老長生を求め、呪詛祈禱を行う。
―――
顕密
真言宗では、大日経のように仏の真意を秘密にして説かれた経を密教、法華経のようにあらわに教えを説かれたものを顕教という本末顚倒の邪義を立てている。真実は、大日経のごとき爾前の経々こそ、表面的、皮相的な教えで顕教であり、未曾有の大生命哲理を説き明かした法華経こそ密教である。寿量品には「如来秘密神通之力」とあり、天台の法華文句の九にはこれを受けて「一身即三身のるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」等とある。
―――
摩騰
摩騰迦のこと。迦葉摩騰、摂摩騰ともいう。中天竺の人で、よく大・小乗経を解した。西インドにいったころ、一小国王のために金光明経を講じて敵国の侵害を防ぎ、大いに名をあらわしたといわれる。後漢の明帝の請をうけ、竺法蘭と共に中国に入ってからは四十二章経などの翻訳をし、また、洛陽に特に建立された白馬寺で中国仏教開宣の端をひらいた。
―――
竺蘭
竺法蘭のこと。中天竺の僧で後漢の明帝の請をうけ、竺法蘭と共に中国に入って仏法を伝えた。
―――
魏・晋・斉・宋・梁の五代
中国の南北朝・三国時代の国の名。
―――
南三・北七
中国の南北朝時代に、仏教界は揚子江の南に三派・北に七派の合わせて十派に分かれていた。すなわち南三とは虚丘山の笈師・宗愛法師・道場の観法師、北七とは北地師・菩提流支・仏駄三蔵・有師(五宗)・有師(六宗)・北地禅師(二種大乗)・北地禅師(一音教)である。これらの十宗の説は、いずれも華厳第一・涅槃第二・法華第三と説き、天台大師に打ち破られた。
―――
南には三時・四時・五時
中国天台大師存命時代の「南三」のこと。これらの宗派はいずれも頓・漸・不定を立てる。頓とは華厳、漸とは鹿野苑の阿含経から法華・涅槃経まで、不定とは勝曼経・金光明経等である。そのうち頓教に三師の意義がある。①三時とは有相教=阿含・無相教=般若、方等、法華・常住教=涅槃経。②四時とは①の無相教から法華経を開出している。③五時とは①の無相教を三つに分類し五時としている。
―――
北には五時・半満・四宗・五宗・六宗
江北に派生したもの。①五時とは南師五時中の三に無相教と人天教を加える。②半満とは、釈尊成道より12年の阿含を半字数とし、12年以後を満字数とする。半満とは大乗と小乗の区別である。③四宗とは、一に因縁周、二に仮名宗、三に誑相宗、四に常宗と分けた。④五宗とは、一に因縁周、二に仮名宗、三に誑相宗、四に常宗、五に法界宗と分けた。⑤六宗とは、一に因縁周、二に仮名宗、三に誑相宗、四に常宗、五に法界宗、六に真宗としている。
―――
二宗の大乗・一音
江北に派生した宗派。①二宗の大乗とは大乗を有相(華厳・瓔珞・大品)、無相(楞伽・思益)の二つに分類している。②一音とは、ただ一仏乗であり、無二亦無三で、ただこれ一音経としている。
―――
華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三
江北地方にあった七派が主張する邪説である。釈尊成道後3週間で正覚の内容を開顕したから華厳を一切経中第一の極説としている。ちなみに江南三派の義は涅槃第一、法華第二である。
―――
涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
―――
阿含
阿含とは、梵語アーマガの音写で、教・伝・法帰等と訳す。伝承された教えの意。釈尊の言行・説法を伝え集成した経蔵全体の総称をいう。ただし、大乗仏教が興ってからは小乗経典の意味に限ってつかわれる。北方系仏教では四阿含といって、増一阿含経・中阿含経・長阿含経・雑阿含経の四つに分類される。阿含経は声聞の最高位である阿羅漢に到ることを目的とするので、三乗の中でも二乗である声聞を正位として説かれた経といえる。
―――
般若
般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
―――
浄名
維摩経のこと。聖徳太子が法華経・勝鬘経とともに、鎮護国家の三部経の一つと定めている。釈尊方等時の経で、在家の大信者である維摩詰が、偏狭な二乗の仏弟子を啓発し、般若の空理によって、不可思議な解脱の境涯を示し、一切万法に期すことを説いている。後漢の厳仏以来、7回以上訳されたが、現存するのは三訳。①呉の支謙訳「維摩詰経」2巻②姚秦の鳩摩羅什訳「維摩詰所説経」3巻③唐の玄奘訳「説無垢称経」6巻。わが国では
―――
思益
正式には「思益梵天所問経」という。方等部に属し、羅什訳の4巻である。迦蘭陀竹林で東方の思益梵天等を集めて説かれた。授記の意義、六波羅蜜の授記などを説いている。二乗を弾呵し菩薩の行法が明かされている。
―――
漢より四百余年の末へ五百年に入つて陳隋二代
中国に仏法が渡ったのは後漢の永平10年(0067)から陳の武帝が即位した永定6年(0557)までは491年である。また隋の文帝が即位した開皇9年(0589)までは523年である。天台大師は梁の武帝の大同4年(0538)~隋の文帝の開皇17年までの60年であるから、陳・隋の時代で、仏教伝来以来400~500年代となる。
―――
智顗
(0538~0597)。天台大師のこと。中国・南北朝から隋代にかけての人で、中国天台宗の開祖。智者大師ともいう。智顗は諱字は徳安。姓は陳氏。荊州華容県(湖南省)に生まれる。十八歳の時、湘州果願寺で出家し、次いで律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、おおいに法華経の深義を照了し、法華第一の義を説いて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の法華三大部を完成した。摩訶止観では観心の法門を説き、十界互具・一念三千の法理と実践修行の方軌を明らかにしている。
―――――――――
この章は、像法の初めの500年間の弘教を明かしている。この500年間には、仏教がインドから中国に伝来し、多くの名僧が経典を求めてインドへ旅行し、またインドから中国へ経典を持って渡っては、盛んに翻訳をした。これまた当時の国王の援護をえて、国家的な事業として行われたものが多い。
大小を分けず権実をいはずしてやみぬ
インドから中国へ仏教の渡った当時は、すでにインドは小乗を破して大乗を立て、実教たる法華経を根本にした竜樹・天親等の弘教もあったが、新しく中国へいってひろめる場合は、大小、権実を分けなかった。摩謄・竺蘭は、みずからは知っていたが、いわなかったのである。次いで仏教は中国に栄えるようになるので、隋唐時代になると、日本から盛んに中国大陸へ留学生を渡っては、仏教を学び、日本へ伝持してきた。
いま創価学会の発展によって、学会の幹部は世界各国に会員指導のために旅行し、また世界各地の会員は、求道を最高の希望として入国している。実に世界広布が眼前に実現されようとする瑞相ではないか。
さて海外へ行って弘法する場合には、今は末法であるとはいえ、摂受を前として行ずる場合のあることは、前章にも述べた。この章で摩謄・竺蘭が大小相対を知ってはいるが、いわなかったということも、参考になるであろう。後章に出てくるが、日本へ仏教が伝来した時にも同じような例がたくさんある。鑑真は法華経を持ってはきたが、小乗の戒壇を建て小乗の授戒に一生をおわったのも、その一例である。
昭和39年(1964)3月、本部の通達をもって海外の学会員に対し、以上の趣旨を連絡した。海外の会員諸氏は、間違いのないように、無用の混乱を起さないように、励んでいただきたい。
南三・北七と申して仏法十流にわかれぬ
なぜ10派にも分裂していったかは、前にも述べたとおり教判の相違から来るのである。釈尊一代仏教の説かれた順序や、内容別の分類をしてみると、そこにいろいろの異議を生じてくる。
南の3派はいずれも頓・漸・不定の三教を立てる。頓は華厳、漸は四阿含から涅槃まで、不定は勝鬘金光明等である。このうち漸の内容をさらに分類して、三時教は有相・無相・常住教と立つ。四字教は有相・無相と常住教の間に法華を立てて同帰教とする。五字教は無相と同帰の間に浄名思益等を立てて抑揚教としている。
北の7派は、一に五字教とは、南の三時のほかに無相教と人天教を立てる、二に半満二教とは、初転法輪より12年までを半字教、12年以後を満字教とし、大乗・小乗を分別したのである。三に四宗とは、因縁宗・仮名宗・誑相宗・常宗である。四に五宗とは、四宗のほかに法界宗を立てる。五に六宗とは、四宗のはかに真宗・円宗を立てる。六に二種の大乗とは、大乗を有相と無相に分ける。七に一音教とは但一仏乗を立てる。
以上のような論争の後に出現された天台大師は、これらすべての教判は仏意に反すると破折し、正しく五時・八教を立てた。五時とは、華厳・阿含・方等・般若・法華であり、八教とは化儀の四教たる頓・漸・秘密・不定と化法の四教たる蔵・通・別・円である。
0262:04~0263:02 第十章 像法の後の五百年の弘教top
| 04 像法の後五百歳は唐の始・太宗皇帝の御宇に玄奘三 05 蔵・月支に入つて十九年が間、 百三十箇国の寺塔を見聞して多くの論師に値いたてまつりて八万聖教・十二部経の 06 淵底を習いきわめしに其の中に二宗あり所謂法相宗・三論宗なり、 此の二宗の中に法相大乗は遠くは弥勒・無著近 07 くは戒賢論師に伝えて漢土にかへりて 太宗皇帝にさづけさせ給う、 此の宗の心は仏教は機に随うべし一乗の機の 08 ためには三乗方便・一乗真実なり所謂法華経等なり、三乗の機のためには三乗真実・一乗方便・所謂深密経・勝鬘経 09 等此れなり、 天台智者等は此の旨を弁えず等云云、 而も太宗は賢王なり当時名を一天にひびかすのみならず三皇 10 にもこえ 五帝にも勝れたるよし四海にひびき 漢土を手ににぎるのみならず高昌・高麗等の一千八百余国をなびか 11 し内外を極めたる王ときこへし賢王の第一の御帰依の僧なり、 天台宗の学者の中にも 頭をさしいだす人一人もな 12 し、 而れば法華経の実義すでに一国に隠没しぬ、 同じき太宗の太子高宗・高宗の継母則天皇后の御宇に法蔵法師 13 といふ者あり法相宗に天台宗のをそわるるところを見て 前に天台の御時せめられし華厳経を取出して 一代の中に 14 は華厳第一・法華第二・涅槃第三と立てけり、太宗第四代・玄宗皇帝の御宇・開元四年・同八年に西天印度より善無 15 畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・大日経・金剛頂経・蘇悉地経を持て渡り真言宗を立つ、此の宗の立義に云く教に二 16 種あり一には釈迦の顕教・所謂華厳・法華等、二には大日の密教・所謂大日経等なり、法華経は顕教の第一なり此の 17 経は大日の密教に対すれば極理は少し同じけれども 事相の印契と真言とはたえてみへず 三密相応せざれば不了義 18 経等云云、 已上法相・華厳・真言の三宗一同に天台法華宗をやぶれども天台大師程の智人・法華宗の中になかりけ 0263 01 るかの間内内はゆはれなき由は存じけれども 天台のごとく公場にして論ぜられざりければ 上国王大臣・下一切の 02 人民にいたるまで皆仏法に迷いて衆生の得道みなとどまりけり、 此等は像法の後の五百年の前二百余年が内なり、 -----― 像法時代の後半の五百年について述べよう。中国では唐の初めであり、太宗皇帝の時であった。玄奘三蔵は貞観三年に出発してインドの大旅行にたち、十九年(十七年説もあり)が間、百三十箇国の寺塔を見聞して多くの論師に値いたてまつり、八万聖教・十二部経といわれる一代仏教の奥底をきわめた。そのなかに法相宗と三論宗という大乗の二宗があった。この二宗の中で法相大乗宗というのは、遠くは弥勒菩薩が降臨して説いた法を無著菩薩がひろめたといわれ、当時は戒賢論師にまで伝えられていた。玄奘三蔵は戒賢論師からこの法相宗を習い伝えて中国へ帰り太宗皇帝にさずけたのである。 この法相宗の精神は、仏教は衆生の機根に従うべきであるという。ゆえにすぐ成仏できる一乗の機根の衆生には、三乗の説法が方便であって、一乗の説法が真実である。これは法華経等である。これとは逆に三乗の機根の衆生のためには、三乗の説法が真実であり、一乗の説法は方便である。これは深密経・勝鬘経等である。天台智者大師はこの旨をわきまえないで、法華経のみが即身成仏・真実得道の経典であるといっているが、天台は誤りである等の議論を立てているのが法相宗である。 しかも太宗皇帝は賢王である。当時はその名を天下にひびかすのみならず、三皇・五帝よりも勝れているとたたえられて、その名は四海に鳴りひびいていた。中国全土を平定したのみか、西はインドとの国境である高昌まで、東の方は高麗までの一千八百余国をなびかし、その勢威は内外に仰がれた賢王であった。玄奘三蔵は実にこの王の帰依を受けていたのである。ゆえに天台宗の学者の中にも、頭をさしだす人は一人もいない。そして法華経の実義は、すでに一国に隠没してしまった。 同じく、この太宗の太子の高宗および高宗の継母である則天皇后の時代に法蔵法師という者があった。天台宗が法相宗に襲われているのを見て、前に天台の時に破られた華厳経を取出して、華厳第一・法華第二・涅槃第三と立てた。太宗の第四代、玄宗皇帝の御時、開元四年・同八年に西インドから善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵のいわゆる三三蔵が大日経・金剛頂経・蘇悉地経を持ってきて真言宗を立てた。この宗の立義によれば、教には二種類あって、一には釈迦の顕教であり、いわゆる華厳・法華である。二には大日如来の密教で、いわゆる大日経等である。法華経は顕教の中では第一ではあるが、大日の密教に対すれば、極理は少し同じであるけれども、事相の印契と真言とは法華経にまったく説かれていない。ゆえに法華は身・口・意の三密が相応していないから不了義経である。 以上のように、法相・華厳・真言の三宗は一同に天台法華宗を破って各自の邪義を立てたけれども、天台大師ほどの智人が法華宗の中にいなかった。内々はこれらの邪義はいわれのないものだと知っていたけれども、天台のように公場で論じなかったので、上は国王・大臣より下はいっさいの人民にいたるまで、皆、仏法に迷いて衆生の得道みなとどまってしまった。これらの事件は像法の後の五百年の初めの二百年、仏滅後千七百年のころであった。 |
太宗皇帝
(0598~0649)唐朝の第2代皇帝。高祖李淵の次男で、隋末の混乱期に父の李淵を補佐して主に軍を率いて各地を転戦、群雄を滅ぼし、後に玄武門の変にて兄の李建成を殺害し皇帝に即位した。貞観の治と言う、唐王朝の基礎を固める善政を行い、中国史上最高の名君の一人と称えられる。
―――
玄奘三蔵
(0602~0664)。中国・唐代の僧。中国法相宗の開祖。洛州緱氏県に生まれる。姓は陳氏、俗名は褘。13歳で出家、律部、成実、倶舎論等を学び、のちにインド各地を巡り、仏像、経典等を持ち帰る。その後「般若経」600巻をはじめ75部1335巻の経典を訳したといわれる。太宗の勅を奉じて17年にわたる旅行を綴った書が「大唐西域記」である。
―――
百三十箇国
玄奘三蔵が西域記のなかで訪問したとしている数。記録をあわせると138カ国となるが、大聖人はおおまかにいわれたものであろう。
―――
八万聖教
八万四千の聖教、八万聖教、八万威儀、八万四千の法蔵、八万四千の細行とこいう。煩悩の数を84,000の塵労といい、これを対治する数として84,000の法蔵という。略して「八万法蔵」。二百五十戒を行住坐臥の四威儀におのおのわたし、一千の威儀になり、過去・現在・未来の三世に約して三千の威儀、この三千を殺・盗・淫・妄・綺・悪・両の七支に分配すれば、二万千となり、貧・瞋・癡・等の四にわたせば七十八万四千となる。
―――
十二部経
十二部とも十二分教ともいい、仏教の経文を内容、形式の上から十二に類別したもの。 一.修多羅。梵語スートラ(sūtra)の音写。契経という。長行のことで長短の字数にかかわらず義理にしたがって法相を説く。 二.祇夜。梵語ゲーヤ(geya)の音写。重頌・重頌偈といい、前の長行の文に応じて重ねてその義を韻文で述べる。 三.伽陀。梵語ガーター(gāthā)の音写。孤起頌・孤起偈といい、長行を頌せず偈句を説く。 四.尼陀那。梵語ニダーナ(nidāna)の音写。因縁としていっさいの根本縁起を説く。 五.伊帝目多。伊帝目多伽。梵語イティブッタカ(itivŗttaka)の音写。本事・如是語ともいう。諸菩薩、弟子の過去世の因縁を説く。 六.闍陀伽。梵語ジャータカ(jātaka)の音写。本生という。仏・菩薩の往昔の受生のことを説く。 七.阿浮達磨。梵語アッブタダンマ(adbhutadharma)の音写。未曾有とも希有ともいう。仏の神力不思議等の事実を説く。 八.婆陀。阿婆陀那の略称。梵語アバダーナ(avadāna)の音写。譬喩のこと。機根の劣れる者のために譬喩を借りて説く。 九.優婆提舎。梵語ウパデーシャ(upadeśa)の音写。論議のこと。問答論難して隠れたる義を表わす。 十.優陀那。梵語ウダーナ(udāna)の音写。無問自説のこと。人の問いを待たずに仏自ら説くこと。 十一.毘仏略。梵語ヴァーイプルヤ(vaipulya)の音写。方広・方等と訳す。大乗方等経典のその義広大にして虚空のごとくなるをいう。 十二.和伽羅。和伽羅那。梵語ベイヤーカラナ(vyākaraņa)の音写。授記のこと。弟子等に対して成仏の記別を授けることをいう。
―――
淵底
物事の奥義、奥底、真意。
―――
法相宗
解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・ 一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
―――
三論宗
竜樹の中論、十二門論と提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。大乗の空理によって、自我を実有とする外道、法を実有とする小乗を破し、さらに成実の偏空をも破している。究極の教旨として八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道を唱えた。日本には推古天皇33年(0572)1月1日、高句麗僧・慧灌が伝えた。現在は東大寺に伝わるのみである。
―――
無著
「無著」は梵語、漢訳して「阿僧伽」という。仏滅後900年ごろ、インドの健駄羅国富婁沙富羅城の婆羅門の学者、憍尸迦の子に生まれた。弟は世親。はじめ小乗化他部に出家し、小乗教を学んだが、これにあきたらず、大乗に移り「顕揚聖教論」「摂大乗論」「瑜伽論」「十地師経論」など8部37巻の書を著わした。また小乗にとらわれている弟の世親を大乗に帰せしめたことも有名な話である。75歳、王舎城で没。
―――
戒賢論師
インドの護法難陀の弟子。中国の玄奘の師。梵語で尸羅跋陀羅といい、インド三摩咀陀羅国の王族。小さい時から学を好み、摩竭提国那爛陀寺で、護法論師が大乗をひろめているのを聞いてこれに帰し、瑜伽・唯識・因妙等を学んだ。30歳のとき外道と対論し、これを伏して、国王から一寺を賜い、那爛陀寺の主となる。ときに玄奘が中国からきて、その門に入った。
―――
三乗真実・一乗方便
法相宗の邪義である。諸乗一仏乗を主張するのは仏の方便で、三乗として、各衆性に応じて修行するというのが真実である。そもそも、すべての人が仏になることは不可能で、世には、声聞・縁覚・菩薩と、それぞれなるべき性分のものがある。すなわち五性はみな別なのである。このように法相宗は、人の差別の面からのみを根拠として法を説き、法華経のごとく一切衆生がみな成仏する教えとはまったく反対の教えである。
―――
深密経
解深密経のこと。五巻。唐代の玄奘訳。内容は、己心の外にあると思われる諸現象は、ただ阿頼耶識によって、認識の対象に似たすがたを心に映じ出されたものにすぎないという唯識の義、および諸法の如実の性相を明かし、実践修行の方法・行位・証果・化他の力用を説いている。なお漢訳には三種がある。法相宗の依経である。
―――
勝鬘経
勝鬘師子吼一乗大方便広経のこと。
―――
太宗は賢王なり
「太宗」とは、(0598~0649)。唐朝の高祖の子。隋の末、父の李淵とともに太原に兵を挙げ、天かを平定して帝位についた。杜如晦・房玄齢等の賢臣を用い、その治世は〝貞観の治〟と呼ばれ、その善政を称えられている。賢臣・魏徴等と政治の要道を論じたものが「貞観政要」と呼ばれる有名な書である。 20歳のときに世を斉し民を安んじたゆえに、世民・賢王といわれた。
―――
三皇
中国古代の伝説上の理想君主。伏羲・神農・黄帝または伏羲・黄帝・神農とされるなど異説も多い。
―――
五帝
三皇に続く中国古代の五人の帝王。諸説があるが史記によれば伏羲・顓頊・帝嚳・尭・舜。
―――
高昌
今の中国新疆のトルファンの地にあり、西暦5世紀~7世紀にかけて存続した国。天山山脈の南麓にあたる。古来仏教が盛んに行われた地である。その当時は、唐とり西インドの地にあった。唐の太宗が貞観14年(0640)に高昌を討って西都護府をおいた。
―――
高麗
朝鮮三韓のひとつ。文永の役には蒙古軍の先導をつとめた。
―――
高宗
(0628~0683)唐の第三代、太宗の第九子。初めは名臣から助けられ高麗などを滅ぼし盛んであったが、后を廃し、則天皇后を后としてから内政が乱れ、失意のうち56歳で死去。
―――
則天皇后
(0623~0705)。則天武后、武則天ともいう。唐朝第二代太宗、第三代高宗の後宮に入り、永徽6年(0655)高宗の皇后となった。高宗が倒れてからはみずから政務を執り、高宗死後は実子の中宗、睿宗を相ついで帝位につけたが、天授元年(0690)廃帝してみずから帝位につき、国号を周と改めた。密告制度などの恐怖政治を行なったが、半面、門閥によらぬ政治の道を開き、また学芸に力を入れるなど文化を興隆させた。
―――
法蔵法師
(0643~0712)。智儼の弟子で、華厳宗の第三祖。華厳和尚、賢首大師、香象大師の名がある。智儼について華厳経を学び、実叉難陀の華厳経新訳にも参加した。則天武后の勅で入内したとき、側にあった金獅子の像を喩として華厳経を説き、武后の創建した太原寺に住み、盛んに弘教した。さらに法華経による天台大師に対抗して、華厳経を拠りどころとする釈迦一代仏教の教判を五教十宗判として立てた。著書には「華厳経探玄記」20巻、「華厳五教章」3巻、「妄尽還源観」1巻、「華厳経伝記」5巻など多数がある。
―――
玄宗皇帝
(0685~0762)。中国・唐朝第6代皇帝(在位0712~0756)。26歳で即位し、外征を抑えて政治の乱れを正し唐の繁栄に貢献した(開元の治)。しかし「漢土にこの法わたりて玄宗皇帝ほろびさせ給う」(1509-16)とおおせの通り、真言を信じ、善無畏三蔵に師事したため、臣下の安禄山によって都を追われ、皇位を失った。これは真言亡国の現証である。
―――
善無畏三蔵
(0636~0735)。中国真言宗の開祖。中インドの人。烏萇奈国(烏荼国)の王子であったが、唐へ渡って真言宗を弘めた。13歳で王位についたが、兄弟が嫉んだので兄に位を譲って出家した。諸国を巡って仏典を学び、唐の開元4年(0716)に中国に渡り、長安では玄宗皇帝の勅命を受けて興福寺および西明寺に住み、経典の翻訳に従事した。翌年「大日経」七巻を訳し、一行禅師の助けをかりて「大日経疏」20巻を編纂した。さらに「蘇婆呼童子」三巻、「蘇悉地羯羅経三巻を訳した。開元二十年、翻訳が終わってインドへ帰ろうとしたが、皇帝に許されず、同23年、99歳で死んだ。とくに大日経において、法華経の一念三千の法門を盗みとって、理同事勝の邪義をうちたてた。
―――
金剛智三蔵
(0671~0741)。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。
―――
不空三蔵
(0705~0774)。梵名アモーガバジュラ(Amoghavajra)、阿目佉跋折羅と音写。意訳して不空金剛。不空はその略。中国唐代の真言宗三三蔵(善無畏、金剛智、不空)の一人で、中国密教の完成につとめた。15歳の時、唐の長安に入り、金剛智に従って出家した。開元29年、金剛智死去後、南天竺に行き、師子国(スリランカ)に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、6年後、ふたたび唐都の洛陽に帰った。玄宗皇帝の帰依を受け、尊崇が厚かった。羅什、玄奘、真諦と共に中国の四大翻訳家の一人に数えられ「金剛頂経」など多くの密教経典類を翻訳した。
―――
大日経
大毘盧遮那成仏神変加持経のこと。中国・唐代の善無畏三蔵訳7巻。一切智を体得して成仏を成就するための菩提心、大悲、種々の行法などが説かれ、胎蔵界漫荼羅が示されている。金剛頂経・蘇悉地経と合わせて大日三部経・三部秘経といわれ、真言宗の依経となっている。
―――
金剛頂経
金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経の略。唐の不空訳3巻。真言三部経の一つ。密教の根本経典。金剛界の曼荼羅とその供養法を説く。
―――
蘇悉地経
蘇悉地羯羅経の略。唐の善無畏訳3巻。真言三部経の一つ。持誦・灌頂などが明かされ、妙果成就の法が説かれている。
―――
密教
呪術や儀礼、行者の憑依、現世肯定・性的要素の重視などを特徴とする神秘的宗教。インドにおいてヒンズー教の発展と密接な関係を持ち、大乗仏教と融合し、ネパール・チベット・中国・日本などに伝播していった。秘密仏教ともいう。真言宗の説く邪義がこれにあたる。
―――
事相
真言でいう言葉である。顕密二教ならびに十住心などの教理を教相といい、三密の実践的行法を事相といっている。
―――
印契
仏の悟りや誓願などを外形として表示するため修行者が指先で作る特別な形。刀剣などの持ち物を使う宗派もある。
―――
真言
真言宗の三密のなかの語密をいう。真言陀羅尼ともいい、仏の真実のことばをいい、呪文のようなものである。
―――
三密相応
「三密」には①顕教の三密(身・口・意)②密教の三密(身・語・意)をいう。「相応」とは衆生の三密が如来の三密と一致結合して隔歴なく、修行によって仏身が仏界に到達したものをいうのである。
―――――――――
像法の後の500年で多造搭寺堅固の時代である。中国では唐の太宗皇帝の時代に玄奘が法相宗をひろめ、次の高宗と則天皇后の時代に法蔵が華厳宗をひろめ、玄宗皇帝の時代には善無畏三蔵がインドから来て真言宗をひろめ、いずれも法華経の真義を破って邪義を弘通したので、仏教では得道する者は一人もなくなった。五時八教を立て、法華第一と立てた天台の正義も、たちまちにして、これらの邪義に押し流されてしまったことは、まことに惜しむべきである。
其の中に二宗あり所謂法相・三論宗なり
インドの大乗教に二つの系統がある。
一には、仏滅後700年に出た竜樹が大乗空宗をひろめ、中観宗として南方に唱道し、これが中国に伝わって三論宗となる。竜樹が空論を説いた代表的なものが「中論四巻」「十二門論一巻」であり、竜樹はこの教学を迦那提婆が継承し「百論二巻」がその代表的著述である。
二には、仏滅後900年に出た無著・世親兄弟が大乗有相としての瑜伽宗を北インドに唱導した。これが中国へ伝来して法相宗となった。無著の代表的著書は「摂大乗論三巻」「瑜伽師地論百巻」等がある。聖密房御書にいわく「法相宗は唯心有境・大乗宗・無量の宗ありとも所詮は唯心有境とだにいはば但一宗なり・三論宗は唯心無境・無量の宗ありとも所詮・唯心無境ならば但一宗なり」(0899-15)と。
本抄の下の文に、奈良七大寺の大徳が伝教大師に出した帰伏状が載せられているが、その中にいわく「三論法相久年の諍い渙焉として氷の如く釈け照然として」(0272-05)と。すなわちインドにおける大乗空宗としての三論宗と、大乗有宗としての法相宗の争いは、日本にまできて、伝教大師によって、ようやく解決されたわけである。これによってみても、仏教は釈尊の本懐たる法華経によらなければならないことがわかるであろう。
0263:03~0263:11 第11章 日本に六宗の伝来top
| 03 像法に入つて四百余年と申しけるに百済国より一切経並びに教主釈尊の木像・僧尼等・日本国にわたる、 漢土の梁 04 の末・陳の始にあひあたる、日本には神武天王よりは第三十代・欽明天王の御宇なり、欽明の御子・用明の太子に上 05 宮王子・仏法を弘通し給うのみならず並びに法華経・浄名経・勝鬘経を鎮護国家の法と定めさせ給いぬ、其の後・人 06 王第三十七代に孝徳天王の御宇に三論宗・成実宗を観勒僧正・百済国よりわたす、同御代に道昭法師・漢土より法相 07 宗・倶舎宗をわたす、 人王第四十四代・元正天王の御宇に天竺より大日経をわたして有りしかども而も弘通せずし 08 て漢土へかへる 此の僧をば善無畏三蔵という、 人王第四十五代に聖武天皇の御宇に審祥大徳・新羅国より華厳宗 09 をわたして良弁僧正・聖武天王にさづけたてまつりて 東大寺の大仏を立てさせ給えり同御代に大唐の鑒真和尚・天 10 台宗と律宗をわたす、 其の中に律宗をば弘通し小乗の戒場を東大寺に建立せしかども 法華宗の事をば名字をも申 11 し出させ給はずして入滅し了んぬ、 -----― 像法に入って四百余年過ぎたころ、百済国から一切経および教主釈尊の木像・僧尼等が日本へ渡ってきた。このころの中国は梁の末で陳の初め、すなわち天台大師の時代であった。日本では神武天皇から第三十代の欽明天皇の御世であった。欽明の御子・用明天皇の太子に上宮太子があって、大いに仏法を弘通する上に法華経・浄名経・勝鬘経を鎮護国家の法と定められた。 その後、第三十七代に孝徳天皇の御世に、三論宗と成実宗を観勒僧正が百済国より渡した。同時代に道昭法師は中国から法相宗と倶舎宗を渡した。 第四十四代の元正天皇の御代には、インドから大日経を持ってきたが、弘通しないで帰った僧がある。それは善無畏三蔵であった。 第四十五代聖武天皇の御代に、審祥大徳は新羅国から華厳宗を渡して良弁僧正・聖武天王に授けて東大寺の大仏を建立した。同時代に唐から鑒真和尚が天台宗と律宗を渡したが、律宗のみを弘通し、小乗の戒壇を東大寺に建立したけれども、法華宗の事は、名前すら出さないで入滅してしまった。 |
第三十代・欽明天王
ふつう欽明天皇は29代とするが、第15代に神功皇后を加えたら30代となる。
―――
上宮太子
(0574~0622)。飛鳥時代の人。用明天皇の第二子。厩の中で誕生し、一度に八人の奏上を聞き分けることができたので、名を厩戸豊聡耳皇子といい、また上宮太子とも呼ばれた。推古天皇の皇太子となり、摂政として国政を総理し、数多くの業績を残した。まず、冠位十二階を制定して従来の世襲的な氏姓政治から官僚政治への転換を図り、十七条憲法を定めてこれを国家原理とし、中央集権国家の建設を進めた。また、小野妹子を随に派遣して国交を開き、大陸文化の摂取に努めるなど、内政、外交ともに活発な行動を展開した。太子の政治思想は、十七条憲法に「篤く三宝を敬え」と記したことにも明らかなように、仏教に深く根差しており、仏法興隆を治国の根幹とするものであった。そして法華経・維摩経・勝鬘経の大乗仏典の註釈諸を著した。また法隆寺、四天王寺等も太子の建立によると伝えられている。このように聖徳太子の業績には目覚ましいものがあり、日本における仏法興隆の先駆的功績者であるとともに、飛鳥文化の中心的人物である。
―――
成実宗
4世紀頃のインドの学僧・訶梨跋摩の成実論を所依とする宗。成実論は、自我も法も空であると人法二空を説き、この空観に基づいて修行の段階を二十七に分別し煩悩から脱することを教えている。小乗教中では最も進んだ教義とされる。五世紀の初め、鳩摩羅什によって成実論が漢訳されると、羅什の弟子達によって盛んに研究された。しかし、天台・嘉祥によって、小乗と断定されてから衰退した。日本に三論宗とともに伝来して南都六宗の一つとされるが、一宗を成すには至らず、三論宗とともに学ばれたにすぎない。
―――
観勒僧正
百済の僧。生没年不詳。推古10年(0602)来朝し,暦本、天文地理書などをもたらした。同32年(0624)、日本で初めて僧正の位に任ぜられ、元興寺について仏法を弘めた。三論・成実の学問に通じていた。
―――
道昭法師
(0629~0700)。日本法相宗の開祖。河内国丹比郡に生まれ、元興寺に入って出家、白雉4年(0653)、遣唐大使にしたがって入唐。慈恩寺を訪れ、玄奘に師事し法相の教えを受ける。窺基とも交わり、恵満について禅も学んだ。斉明天皇6年(0660)に帰朝、元興寺に禅院を建立、法相宗を弘め、諸国をまわって慈善事業に励む。文武天皇4年(0700)3月寂。遺命によって遺骸を荼毘に付したが、これは日本における火葬の初めといわれる。
―――
倶舎宗
仏滅後900年ごろに出現したインドの学僧・世親の倶舎論を所依とする宗派。南都六宗の一つ。毘曇宗・薩婆多宗・論宗ともいう。倶舎論を主として、六足論・発智論と、発智論を釈した大毘婆沙 論等を所依とする小乗教の宗派である。倶舎とは梵語コーシャ(Kosa)、詳しくはアビダルマコーシャ(Abhidharma-kosa)といい、訳して付法蔵という。その教義は小乗有門の思想を根拠とするものである。インドにおいては、安慧、徳慧らが倶舎論の注釈書を作った頃は、一宗派としては存在しなかった。のちに、中国において、陳の真諦が「倶舎釈論」を著してから倶舎宗と呼ばれるようになった。日本には、法相宗の付宗として伝来し、奈良時代に隆盛をみた。
―――
聖武天皇
(0710-0756)第54代天皇。大宝元年(0710)生まれ。和銅7年(0714)元正天皇の皇太子となり、神亀元年(0724)即位。在位25年にして天平感宝元年(0749)7月、位を皇太子に譲り、みずからは太上天皇と称した。天平勝宝8年(0756)5月逝去。奈良市法蓮町にある佐保山南陵がその墓である。聖武天皇は深く仏法を信じ、諸国に国分寺・国分尼寺を建て、みずから経文を書写して各寺に納められた。また東大寺を建立して総国分寺とし、丈六の廬舎那仏を鋳造した。こうした仏教興隆によって美術工芸がいちじるしく発達を示し、いわゆる天宝文化となって開花した。
―――
審祥大徳
韓国の新羅の人で、唐に渡って賢首大師法蔵に華厳を学び、天平のころ日本へ来て良弁らとともに、華厳宗をひろめた。
―――
良弁僧正
(0689~0773)我が国華厳宗の祖。幼い時義淵僧正に拾養せられ、法相を学び、のちに金鐘寺を建てて華厳弘教の道場とした。審祥大師を請うて華厳の講を開き、華厳の興隆をはかり、華厳を聖主皇后に授けた。東大寺建立、とくに大仏の鉱金に力を尽くし、講堂・戒壇等を建立しておおいに寺観を整えた。第49代光仁天皇の宝亀4年(0774)85歳で没した。弟子の実忠・良興・良慧・忠慧が志を継いで皆華厳を弘通した。
―――
東大寺の大仏
奈良の大仏のこと。聖武天皇の天平13年(0741)に国分寺の建立が計画され、天平15年(0743)に本尊廬舎那仏の造立が発願され、天平21年(0749)に完成し、天平勝宝4年(0752)盛大な開眼供養が行われた寺院。
―――
鑒真和尚
(0688~0763)。奈良時代の渡来僧。日本律宗の祖。唐の揚州(江蘇省)の人。14歳にして出家し、南山律宗の開祖・道宣の弟子道岸にしたがって菩薩戒を受け、章安の孫弟子弘景にしたがって天台並びに律を学んだ。天平勝宝5年(0753)渡来。聖武上皇の帰依を受け、東大寺、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺に小乗の戒壇を建立した。来日の途上において失明したが、一切経を校し、律本を印行した。
―――
律宗
戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
―――
小乗の戒場
「戒場」とは戒壇のこと。仏道修行者の身口意三業をととのえる戒法をととのえるための道場である。「戒」とは防非止悪の義で、定慧と並んで三学と称せられる。戒定慧の三学は仏法において必須の要法なのである。しかしながら、小乗・権大乗・法華迹門・法華本門・文底独一本門と、それぞれ定慧が異なるように、戒法もしたがって戒壇の様相も相違がある。歴史的に戒壇の発祥を求めるならば、インドの祇園精舎である。すなわち釈尊が成道して10年、摩竭提国において弗迦沙王のために説法を行った。そのとき、楼至菩薩が比丘に受戒せんと請うて、祇園精舎の外院の東南に小乗戒壇を建立した。この構造は、唐の南山道宣律師「戒壇図経」によれば三重からなり、仏像等はなく、四隅に四天王像が授戒の儀式を守る形で安置された。インドにおいては、これにつづいて多くの戒壇が建立されたが、いずれも小乗戒壇で、後世の中国・日本の戒壇のような国家的」意義はなかった。一般に、小乗教は戒を重んじて定慧の比重が軽く、したがって、受戒者も戒受者も、資格をきびしく問われた。中国においては、後漢末、西暦0067年に仏教渡来とされ、戒壇が初めて建立されたのは曹魏第三代斉王の世(0249)天竺僧曇摩迦羅三蔵によるもの、劉栄文帝元嘉11年(0434)求那跋摩による南山寺の戒壇とされる。その後、つぎつぎと各地に戒壇が建立されその地方の僧尼授戒の中心となった。日本おいては、0753年、鑑真が中国より伝え、奈良・東大寺、唐招提寺、下野・薬師寺、筑紫・観音寺と小乗戒壇が建立され、大乗戒壇としては比叡山延暦寺の戒壇がある。
―――――――――
本章は、欽明天皇の御代に、日本の国へ初めて仏教が伝来し、次いで奈良の六宗の伝来した経過が述べられている。
仏教と日本の国
日本の国は大乗仏教に縁が深く、特に法華経が流布されて、末法の本仏日蓮大聖人が三大秘法を御建立になる先序となった。御義口伝にいわく「殊には此の八歳の竜女の成仏は帝王持経の先祖たり、人王の始は神武天皇なり神武天皇は地神五代の第五の鵜萱葺不合尊の御子なり此の葺不合尊は豊玉姫の子なり此の豊玉姫は沙竭羅竜王の女なり八歳の竜女の姉なり、然る間先祖法華経の行者なり甚深甚深」(0746-12)と。実に不思議の因縁ではないか。
弥勒菩薩の瑜迦論にいわく「東方に小国あり、その中に唯大乗の種姓のみあり」と。肇公の翻経にいわく「大師須梨耶蘇摩の左の手に法華経を持し右の手に鳩摩羅什の頂を摩で授与していわく、仏日西に入って遺耀将に東に及ばんとす、この経典東北に縁あり、汝慎んで伝弘せよ」と。遵式の筆にいわく「地を尋ねれば唐の東羯の西」と。
以上のように、いずれも日本の国をさして、大乗有縁とし、あるいは法華経の流布すべき国と定められたのである。
わが国に仏教が公式に伝来したのは、欽明天皇13年(0552)で百済の聖明王が仏像経巻を献じてきたのが最初である。なぜこれを公式伝来というかといえば、既に朝鮮半島と我が国とは古来から往来が盛んであったので、民間人が仏像を持ってきたり、経巻の一部を持ってきたり、ましてや一部の教えが日本に伝えられたことは当然に想像できる。一例として継体天皇16年(0512)に、南梁の司馬達等という人が日本に来て、大和坂田か原へ草堂をかまえ、仏像を安置して礼拝したという伝説がある。
さて百済国から献じた仏教を信じるか信じないかで、国内は二派に分かれて争いを生じた。蘇我稲目は、礼拝を主張、物部尾輿、中臣の鎌子はこれに反対した。数ヶ年にわたる争いの結果、崇仏派が勝ち、排仏派は敗れ去った。とくに推古天皇の太子・聖徳太子は、憲法17条を制定して、よく国を治めるとともに、厚く仏法を敬い、勝曼経・法華経・維摩経の義疏を製し、またこれらの経典を講じて鎮護国家、文化の向上に努められた。
そのほか仏教伝来の経過は本文にお示しのとおりである。聖徳太子も法華経を講じたが、諸経を破折するというようなことはしなかったし、鑑真も律宗と天台宗を持ってきながら、天台宗をひろめないで、小乗の授戒に一生をおわっている。これも、時のしからしむるところである。
小乗の戒壇を東大寺に建立
小乗戒壇の日本に建立されるまでの歴史については省略するが、その戒場には三重の壇があって、大乗の菩薩の三聚浄戒を表わしているという。もしそうであるなら、東大寺の戒壇も大乗の戒壇ともいえるのではないかとの疑問がおきる。
これに対して日寛上人は、幾多の事例をあげて、小乗の戒壇なりと破折されている。一には伝教大師は顕戒論に、三車、除糞といって、東大寺の戒壇を破している。三車とは牛・鹿・羊の三車で、声聞・縁覚・菩薩の三乗であり、除糞は家業につく前に、糞はらいとして雇われたことをいう。慈覚も、智証も、三井寺の明尊も法然の伝記によっても、すべて小乗の戒と破していることが明らかである。
0263:11~0264:13 第12章 天台宗の弘通top
| 11 其後・人王第五十代・像法八百年に相当つて桓武天王の御宇に最澄と申す小僧 12 出来せり後には伝教大師と号したてまつる、始には三論・法相・華厳・倶舎・成実・律の六宗並びに禅宗等を行表僧 13 正等に習学せさせ給いし程に我と立て給える国昌寺・後には比叡山と号す、 此にして六宗の本経・本論と宗宗の人 14 師の釈とを引き合せて御らむありしかば 彼の宗宗の人師の釈・所依の経論に相違せる事多き上 僻見多多にして信 15 受せん人 皆悪道に堕ちぬべしとかんがへさせ給う 其の上法華経の実義は宗宗の人人・我も得たり我も得たりと自 16 讃ありしかども其の義なし、 此れを申すならば喧嘩出来すべしもだして申さずば 仏誓にそむきなんとをもひわづ 17 らはせ給いしかども 終に仏の誡ををそれて 桓武皇帝に奏し給いしかば帝・此の事ををどろかせ給いて 六宗の碩 18 学に召し合させ給う、 彼の学者等・始めは慢幢・山のごとし悪心・毒蛇のやうなりしかども終に王の前にしてせめ 0264 01 をとされて六宗・七寺・一同に御弟子となりぬ、 例せば漢土の南北の諸師・陳殿にして天台大師にせめおとされて 02 御弟子となりしがごとし、 此れはこれ円定・円慧計りなり 其の上天台大師のいまだせめ給はざりし小乗の別受戒 03 をせめをとし 六宗の八大徳に梵網経の大乗別受戒をさづけ給うのみならず 法華経の円頓の別受戒を叡山に建立せ 04 しかば 延暦円頓の別受戒は日本第一たるのみならず 仏の滅後一千八百余年が間身毒尸那一閻浮提にいまだなかり 05 し霊山の大戒日本国に始まる、 されば伝教大師は其の功を論ずれば 竜樹天親にもこえ天台・妙楽にも勝れてをは 06 します聖人なり、されば日本国の当世の東寺.園城・七大寺・諸国の八宗.浄土・禅宗・律宗等の諸僧等誰人か伝教大 07 師の円戒をそむくべき、 かの漢土九国の諸僧等は円定・円慧は天台の弟子ににたれども 円頓一同の戒場は漢土に 08 なければ戒にをいては弟子とならぬ者もありけん、 この日本国は伝教大師の御弟子にあらざる者は 外道なり悪人 09 なり、 而れども漢土日本の天台宗と真言の勝劣は大師心中には存知せさせ給いけれども 六宗と天台宗とのごとく 10 公場にして勝負なかりけるゆへにや、 伝教大師已後には東寺・七寺・園城の諸寺日本一州一同に真言宗は天台宗に 11 勝れたりと 上一人より下万人にいたるまでをぼしめしをもえり、 しかれば天台法華宗は伝教大師の御時計りにぞ 12 ありける此の伝教の御時は 像法の末大集経の多造塔寺堅固の時なり、 いまだ於我法中・闘諍言訟・白法隠没の時 13 にはあたらず。 -----― 日本に仏教が伝来し、奈良時代ができたが、その後人王第五十代桓武天皇の御代に最澄が出現した。釈迦滅後千八百年、末法に入って八百年ごろの人であり、後に伝教大師と号された。 最澄は、始めには三論・法相・華厳・倶舎・成実・律の六宗並びに禅宗等を、近江国崇福寺に住する行表僧正に学んでいた。後に国昌寺・比叡山に住して、六宗の本経・本論と後代の人師の解釈とを引きあわせて勉強した結果、六宗の人師の解釈はその宗派の拠り所としている経文や本論に相違していることが多い上、自分勝手の誤った見解が多く、こんな邪宗を信じている人はみな悪道に堕ちると考えられた。その上にまた法華経の実義を各宗の人々は我も得たりと自分で自分をほめているけれども、法華経の実義などは全然説かれていない。これを最澄が事実の儘にいい出すならば、宗教界に大喧嘩になってしまうだろう。黙って誤りを見過ごしていれば、喧嘩はおこらないけれども、仏の滅後に正法を弘通するとの誓いに反することになる。最澄はこのように思いわずらわれたが、ついに仏の誡めを恐れて、桓武天皇にこのことを奏上した。天皇は今まで正しいと思っていた仏教が邪宗邪義だといわれて驚かれ、奈良六宗の大学者と最澄を召し合わせ討論せしめた。六宗の学者たちは始めは自分を慢ずる慢幢が山のように高く、悪心が毒蛇のようだったが、ついに王の前で最澄からせめおとされ、六つの宗派の主だった七つの寺が、一つ残らず最澄の弟子となった。 たとえば中国の南三北七といわれた十宗の諸師が、陳の国王の宮殿で天台大師にせめおとされ、天台の御弟子となったのと同じである。しかし天台は、戒・定・慧の三学のうち円定・円慧計ばかりをひろめたのであったが、最澄は天台がまだうちやぶらなかった小乗の別受戒をせめおとし、六宗の八人の大徳に梵網経の大乗別受戒をさずけ、法華経の円頓の別受戒を授けるべき迹門の戒壇を比叡山延暦寺に建立した。ゆえに比叡山延暦寺の円頓の別受戒は、日本第一であるのみか、釈尊滅後一千八百年間、インドにも中国にも、一閻浮提に、いまだどこにもなかった霊山の大戒、法華の大戒が日本国に始められたのである、されば伝教大師の功績を論ずるならば、インドでもっとも有名な竜樹・天親よりもすぐれ、中国の天台・妙楽にも勝れている聖人なのだ。ゆえに日本国当世の東寺・園城の七大寺はもとより、諸国の八宗・浄土・禅宗・律宗等の諸僧等は誰人か伝教大師の円戒にそむいてよいのだろうか。中国では九国の諸僧等が円定と円慧ばかりは天台の弟子に似ているが、円頓の戒壇が中国には建てられなかったので、戒においてはかならずしも天台の御弟子でないものがあったであろう。この日本国は法華経迹門の戒壇が建てられて、ことごとく伝教大師の御弟子となったからには、伝教大師の戒を受けて御弟子とならない僧は外道であり、悪人である。 しかしながら、中国と日本の両国とも、天台宗と真言の勝劣が、だんだん、はっきりしなくなってきた。伝教大師はこのくらいの勝劣はもとより心の中では御存知であったが、奈良の六宗と天台宗とのごとく公場において勝負をつけなかったためか、伝教大師以後には東寺・七寺・園城の諸寺をはじめ、日本一州一同に真言宗は天台宗に勝れていると、上一人より下万人にいたるまで思っている。しかれば天台法華宗は伝教大師の御時ばかりであった。此の伝教の御時は像法の末であり、大集経の多造塔寺堅固の時であり、いまだ「我が法の中において闘諍言訟して白法隠没せん」と予言されている末法の時代ではなかった。 |
像法八百年
伝教大師の出現のときをいう。伝教は人皇48代称徳天皇の御宇、神護景雲元年(0767)8月18日生まれで、像法715年、また人皇52代嵯峨天皇の御宇、弘仁13年(0822)6月4日、56歳寂であり、像法770年である。800年とあるのは大数に約して、いわれたものであろう。
―――
桓武天皇
(737~806)光仁天皇の第一皇子として天平9年(0737)誕生。第50代天皇に即位して、蝦夷の平定、兵制改革、平安遷都など数々の業績を残し、律令政治中興の英王といわれる。蝦夷平定については坂上田村麻呂を征夷大将軍として抜てきし東北開発の実績をあげた。また、政治の堕落の源流が乱れきった諸宗の僧が政治に介入していることにあると看破し、都を平安京に遷したことも、気運の清心化をもたらした。しかし桓武天皇のもっとも大きい業績は、伝教大師最澄と南都六宗との間で公場対決させ、仏法の正邪を明らかにし、正法たる法華経を興隆して善政をしたことである。この結果、政治的にも文化的にも大いに興隆した平安文化の華が咲いたのである。
―――
最澄
(0767~0822)。日本天台宗の開祖。最澄は諱。諡号は伝教大師。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
―――
禅宗
禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
―――
行表僧正
伝教大師を得度させた師匠。後に勤操らとともに伝教に帰伏した。
―――
国昌寺
延暦寺の前名。後嵯峨天皇の弘仁14年(0823)延暦寺と改名されている。
―――
比叡山
延暦寺のこと。滋賀県大津市にある天台宗の総本山。比叡山は山号。延暦4年(0785)伝教大師最澄がこの地に草庵を結び、同7年(0788)根本中道を創建したことに始まる。
―――
慢幢
おごりたかぶる心を幢に高くそびえるさまにたとえた語。「慢」はおごること。「幢」は「はたほこ」で、小さな旗を上部につけた鉾をいい、空中にひるがえし、軍陣などで用いた。
―――
六宗
南都六宗のこと。三論・成美・法相・俱舎・律・華厳崇のこと。
―――
七寺
奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。
―――
円定
円教で修学すべき戒定慧の三学のうち円学をいう。三学は四教(蔵・通・別・円)のそれぞれにあるが、そのうち円教の定学を円定という。定は静慮の義で、心の散乱を静めて悟りを得る境地のこと。
―――
円慧
円教で修学すべき戒定慧の三学のうち慧学をいう。三学は四教(蔵・通・別・円)のそれぞれにあるが、そのうち円教の慧学を慧定という。
―――
小乗の別受戒
三聚定戒について、大乗の菩薩戒が僧俗通受の戒などに対して、小乗においては摂律義戒中250戒等の具足戒だけを別して出家にのみ授くるをいう。すなわち鑑真によってもたらされた南都の四分律宗をいう。
―――
六宗の八大徳
延暦24年(0805)9月1日に、伝教大師が高尾山で、奈良・南都の高僧8人に三摩耶の灌頂を授けたことをいう「八人」については不明。
―――
梵網経
梵網経は、「梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十」上下2巻の略。下巻を特に「菩薩戒経」とよぶ。梵網経すべてを翻訳すると120巻61品となるが、鳩摩羅什が長安で同経中の菩薩心地戒品第十のみを訳出した。梵網とは仏が衆生の機根に合わせて教を設け、病に応じて薬を与えて、一人も漏らさず彼岸に達せしめることが、あたかも大梵天王の因陀羅網のようであるということから名づけられた。この経の教主は蓮華台蔵世界において成道した報身仏の盧舎那仏であり、釈迦応化身の覆述によるのである。大乗律の経典で、衆生の戒は仏性の自覚によって形成されるとしている。上巻には菩薩の階位の十住・十行・十回向・十地の四十法門が、下巻には菩薩戒の十重禁戒、四十八軽戒が説かれている。
―――
大乗別受戒
天台法華宗では、一般の大乗戒が三聚浄戒を通じて受ける通受戒に対して、別に梵網の十重・48軽戒を受けるのを大乗別受戒という。
―――
法華経の円頓の別受戒
「円頓」とは、円は円満、頓は頓極のことである。天台宗の円頓戒である。小乗の戒・大乗の戒・法華の戒等については十法界明因果抄にくわしい。
―――
叡山
比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
―――
身毒
インドのことで、身毒・天竺等ともいう。
―――
尸那
外国人が中国を指して呼んだ名。尸那は中国の王朝名である秦がなまって伝えられ、それが漢訳されたといわれる。インドではチーナとよばれていた。
―――
霊山の大戒
学生式第五によれば、伝戒の釈尊の相は、分身を集め垢衣を脱し、地涌を召した常住の仏であるとしている。ゆえに叡山戒壇堂の本尊は文殊・弥勒を脇士となしているが、その内証は久遠本果の報身であると、日寛上人はおおせられている。
―――
日本国に始まる(円頓一同の戒壇)
天台大師がすでに陳の小主のため、および隋の煬帝のために、まさしく菩薩戒を授けられた。しかるに、どうして震旦国にはじまるとおおせられないかといえば、彼はただ国主一人であり、また円頓一同の戒壇にあらざるゆえである。
―――
東寺
第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。
―――
園城
琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。
―――
天台法華宗は伝教大師の御時計りにぞありける
日本に法華迹門の正法がたもたれた時代を意味する。義真の時代も加えることができるが、功は伝教にきしているゆえに、このように大聖人はいわれたのであろう。
―――――――――
仏教が日本に弘通された経過を述べられるなかで、この章では奈良六宗が日本に渡来した後に、伝教大師が出現し、円頓の戒壇を比叡山に建立した経過や意義が述べられている。
小乗の別受戒、大乗の別受戒
小乗の別受戒とは、小乗律部に明かす250戒等、具足戒の一つ一つをうけることをいう。もとは南都六宗であったが、伝教大師が法華経迹門円頓の別受戒の方式を比叡山に建立して以来、やがて形骸化した受戒の方式である。大乗の別受戒とは、小乗の別受戒、大乗の通受戒に対する語である。比叡山の円頓の戒壇で受けるもので、別して法華経、梵網経の戒を受ける。なお別受戒に対し、通受戒があるが、これは一般的に大乗戒の代表的なものとされ、大乗・小乗両方に通ずる面を持つ。たとえば三聚浄戒がそれである。摂律儀戒・摂善法戒・摂衆生戒の三説が説かれるが、摂律儀戒では仏の定めた戒律の一切を守って悪を防ぐ意があり、五戒・250戒・500戒の小乗の戒はみなここに含まれる。ゆえに三聚浄戒は小乗の戒の意にも通じ、かつ併合するところから通受戒と称するのである。
鑑真和尚が日本にきて東大寺に建てた戒壇は小乗の戒であり、三師七証白四羯磨の作法という。三師とは戒和尚、教授師、羯磨師をいい、七証とは儀式が正しく行われたことを証明する7人の僧をいう。白四羯磨とは授戒をする時に、その旨を表白文を一度読むことと羯磨の表白文を三度読むことで、一白三羯磨または略して白四羯磨という。
中国の天台大師は、南三北七を破折して、仏教界を統一したとはいえ、戒壇建立を実現しなかったので、法華経を学び、一念三千の観を行じて、円定・円慧の修行はするが、戒だけは小乗の戒を用い、小乗の戒を受けたりしていたのである。日本においても同様のことが行われていた。すなわち妙密房御書には「宗と申すは戒・定.慧の三学を備へたる物なり、其の中に定・慧はさてをきぬ、戒をもて大・小のばうじをうちわかつものなり、東寺の真言・法相・三論・華厳等は戒壇なきゆへに東大寺に入りて小乗律宗の驢乳・臭糞の戒を持つ、戒を用つて論ぜば此等の宗は小乗の宗なるべし宗と申すは戒・定.慧の三学を備へたる物なり、其の中に定・慧はさてをきぬ、戒をもて大・小のばうじをうちわかつものなり、東寺の真言・法相・三論・華厳等は戒壇なきゆへに 東大寺に入りて小乗律宗の驢乳・臭糞の戒を持つ、戒を用つて論ぜば此等の宗は小乗の宗なるべし」(0899-05)と仰せである。
そこで伝教大師は、円定・円慧をひろめる上においては、戒においても必ず円戒を建てなければならないということを主張した。すなわち、定慧が菩薩でありながら戒は声聞のままであるというのはおろかしい、と述べている。そして三聚浄戒の第一の摂律儀戒を、小乗声聞の戒ではなく、正には法華により傍には梵網の十重四十八軽戒とした。すなわち伝教大師の三聚浄戒は、第一には菩薩の行義を正する戒、第二は菩薩の自行、第三は菩薩の化他とし、ともに3つともに菩薩の大乗戒となったのである。
東大寺の戒壇は、三重の壇の上に釈迦・多宝の二仏、四周には四天王となっており、比叡山の戒壇は、壇上に釈迦がいて、その脇士が文殊弥勒の二菩薩となっている。
これについて伝教大師は学生式に「普賢経に依りて三師証等を請す、釈迦牟尼仏を請して菩薩戒の和上と為す、文殊師利菩薩を請して菩薩戒の証師と為す」と述べている。
普賢経とは、法華経の結経で観普賢菩薩行法経という。これには「爾の時に行者若し菩薩戒を具足せんと欲せば(中略)釈迦牟尼仏遍知世尊、我が和上と為りたまえ。文殊師利具大悲者、願わくは智慧を以って我に清浄の諸の菩薩の法を授けたまえ。弥勒菩薩勝大慈日、我を憐愍するが故に亦我が菩薩の法を受くることを聴したまうべし。十方の諸仏、現じて我が証と為りたまえ、諸大菩薩各其の名を称えて、是の勝大士、衆生を覆護し我等を助護したまえ」等と説かれている。
大小権実の戒の功徳の相違
同じく戒といっても、大小権実によって、次のような違いがある。まず大小の違いは十法界明因果抄にいわく「問うて云く二乗所持の不殺生戒と菩薩所持の不殺生戒と差別如何、答えて云く所持の戒の名は同じと雖も持する様並に心念永く異るなり、故に戒の功徳も亦浅深あり、問うて云く異なる様如何、答えて云く二乗の不殺生戒は永く六道に還らんと思わず故に化導の心無し亦仏菩薩と成らんと思わず但灰身滅智の思を成すなり、譬えば木を焼き灰と為しての後に一塵も無きが如し故に此の戒をば瓦器に譬う破れて後用うること無きが故なり、菩薩は爾らず饒益有情戒を発して此の戒を持するが故に機を見て五逆十悪を造り同く犯せども此の戒は破れず還つて弥弥戒体を全くす」(0434-04)と仰せられている。
次に権実の戒については同抄で更に「梵網経等の権大乗の戒と法華経の戒とに多くの差別有り、一には彼の戒は二乗七逆の者を許さず二には戒の功徳に仏果を具せず三には彼は歴劫修行の戒なり是くの如き等の多くの失有り、法華経に於ては二乗七逆の者を許す上・博地の凡夫・一生の中に仏位に入り妙覚に至つて因果の功徳を具するなり」(0437-12)と仰せである。
末法には法華本門の戒
法華経においては、伝教大師の比叡山の戒は、迹門の理戒であって、末法には無益であるのみか、かえって有害である。末法において日蓮大聖人が建立される戒は、法華本門の大戒であって、受持即持戒とも、金剛宝器戒ともいわれている。次に、末法の戒および戒壇に関して若干の御抄を拝読してみよう。
観心本尊抄にいわく「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246-15)と。
教行証御書にいわく「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持つて後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し、三世の諸仏は此の戒を持つて法身・報身・応身なんど何れも無始無終の仏に成らせ給ふ」(1282-10)と。
三大秘法抄にいわく「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時 勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり」(1022-15)と。
そして身延相乗書には
「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり、就中我が門弟等此の状を守るべきなり。
弘安五年壬午九 日 日 蓮 在 御 判
血脈の次第 日蓮日興。
(1600)と仰せである。
このように、日蓮大聖人は、日興上人に対して戒壇建立を御遺命されているにもかかわらず、大聖人の滅後、六老僧の間において、すでに意見が二つに分かれて諍論の生じたのに対して、日興上人は、五人所破抄で、次のように破折されている。
「五人の立義既に二途に分れ戒門に於て持破を論ず云云。日興が云く、夫れ波羅提木叉の用否・行住四威儀の所作・平嶮の時機に随い持破に凡聖有り、爾前迹門の尸羅を論ずれば一向に制禁す可し」(1615-03)と。
すなわち、末法におけるわれわれの戒は、大学三郎殿御書に「設い世間の諸戒之を破る者なりとも堅く大小・権実等の経を弁えば世間の破戒は仏法の持戒なり」(1205-12)と仰せのごとく、大御本尊建立の後にあっては、堅く御本尊を受持して邪宗邪義を破折するのが第一の持戒であり、世間の戒、釈迦仏法の戒等はまったく無用であるのみか、かえって害毒となるのである。
仏法の戒壇には重大な意義がある。いわんや本門の戒壇においてをや。また仏教にははるかに及ばないが、カトリックにはバチカンがあり、イスラム経にはメッカがある。これ、原理的にはカトリック、イスラムの戒壇といいうるものである。観念論ならいざ知らず、現実に民衆を指導する宗教、実践哲学には必ず依所があり、中心道場がある。いわんや、最高の生活指導理念たる仏法においてをや。さらに三妙合論して国土世間を厳然と説き明かす文底仏法における、本門の戒壇には、一閻浮提第一の大御本尊様おわします所として、なおさらに深遠なる奥義があるのである。
0264:14~0265:08 第13章 妙法流布の必然を明かすtop
| 14 今末法に入つて二百余歳・大集経の於我法中・闘諍言訟・白法隠没の時にあたれり仏語まことならば定んで一閻 15 浮提に闘諍起るべき時節なり、 伝え聞く漢土は三百六十箇国・二百六十余州は すでに蒙古国に打ちやぶられぬ華 16 洛すでにやぶられて徽宗・欽宗の両帝・北蕃にいけどりにせられて韃靼にして終にかくれさせ給いぬ、 徽宗の孫高 17 宗皇帝は長安をせめをとされて 田舎の臨安行在府に落ちさせ給いて今に数年が間京を見ず、 高麗六百余国も新羅 18 百済等の諸国等も皆大蒙古国の皇帝にせめられぬ、 今の日本国の壱岐・対馬並びに九国のごとし 闘諍堅固の仏語 0265 01 地に堕ちず、 あたかもこれ大海のしをの時をたがへざるがごとし、 是をもつて案ずるに大集経の白法隠没の時に 02 次いで 法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか、 彼の大集経は仏説の中の 03 権大乗ぞかし、 生死をはなるる道には法華経の結縁なき者のためには未顕真実なれども六道・四生・三世の事を記 04 し給いけるは寸分もたがはざりけるにや、 何に況や法華経は釈尊・要当説真実となのらせ給い 多宝仏は真実なり 05 と御判をそへ十方の諸仏は広長舌を梵天につけて誠諦と指し示し、 釈尊は重ねて 無虚妄の舌を色究竟に付けさせ 06 給いて後五百歳に一切の仏法の滅せん時 上行菩薩に妙法蓮華経の五字をもたしめて 謗法一闡提の白癩病の輩の良 07 薬とせんと梵帝・日月・四天・竜神等に仰せつけられし金言虚妄なるべしや、 大地は反覆すとも高山は頽落すとも 08 春の後に夏は来らずとも 日は東へかへるとも月は地に落つるとも此の事は一定なるべし、 -----― 今は末法に入って二百余年になる。大集経に予言されている「我が法の中において闘諍言訟して白法隠没せん」の時にあたっている。そして仏の予言が真実であるならば、間違いなく一閻浮提に闘諍が起こるべき時節である。 伝え聞くところによれば、中国の三百六十ヵ国・二百六十余州はすでに蒙古の軍勢に打ち破られたという。また都はすでに破られて徽宗・欽宗の二人の帝は北方の金の軍勢にいけどりにされて韃靼で亡くなられた。また徽宗の孫高宗皇帝は都の長安をせめおとされて、田舎の臨安行在府へ逃げて、今に数年の間都をみることができないでいる。また高麗六百余国も新羅や百済の朝鮮半島の諸国もみんな大蒙古国の皇帝に攻められた。今の日本の壱岐・対馬や九州のようなものである。闘諍堅固と予言されている仏語は地におちることなく、あたかも大海の潮が、時を違えることなく満ち干するようなものである。 このようなことから考えてみれば、大集経の白法隠没の時に次いで、法華経の大白法が日本の国をはじめ全世界に広宣流布することも疑いのないことであろう。かの大集経は、仏説の中では権大乗の経である。生死を離れて成仏する道でもないし、法華経の結縁がない者のには未顕真実の経ではあるけれども六道や四生や三世の事を記し給うている点では、寸分の違いもない。まして法華経は釈尊が「要ず当に真実を説くべし」と証明し、多宝仏も「法華経はみなこれ真実なり」と証明し十方の諸仏は広長舌を梵天にまでつけて説法の真実なることを証明している。その上に釈尊は無虚妄の舌を色究竟天のまでつけられて、後の五百歳に一切の仏法が滅してしまう時、上行菩薩に妙法蓮華経の五字を持たしめて、謗法一闡提の白癩病の輩の良薬にしようと、梵帝・日月・四天・竜神等に仰せつけられた金言が、虚妄となるはずがあろうか。大地が反覆しても、高山がくずれ落ちても、春の後に夏がこなくても、日が東にかえっても、月が地に落ちても、このことは間違いのないことである。 |
漢土は三百六十箇国・二百六十余州は すでに蒙古国に打ちやぶられぬ
蒙古の襲来を意味しての語。文永11年(1274)第一回の蒙古襲来は、南栄が滅びて4年後である。360カ国260余州は、唐時代の中国の行政数であろう。
―――
華洛
帝王の都をいう。中国の周および後漢が洛陽を都としたことから、帝都のことを華洛というようになった。
―――
徽宗
(1082~1135)。中国北宋の八代皇帝。姓は趙、名は佶。太后向氏が摂政の間はよく政治が行なわれたが、親政になると蔡京父子を重用し、民衆に重税を課した。そして豪奢な生活を送り、民衆の苦悩を顧みなくなってしまった。王は道士に傾倒して、仏教を弾圧し、道教を庇護した。政治的には新興の金と同盟し、遼を攻めたが敗れ、逆に金に侵略され、その結果、欽宗と共に金国の捕虜となり、配所の五国城で没した。
―――
欽宗
(1100~1161)北栄第9の皇帝。徽宗の子。在位2年にして国が滅びている。欽宗と共に金国の捕虜となり、配所の五国城で没した。
―――
北蕃
北狄ともいう。北方民族のこと。蒙古族の金をさしている。
―――
韃靼
現在の満州地方から新疆・モンゴル地域を指す。
―――
高宗皇帝
(1107~1187)高宗は栄の第十の皇帝である。都を臨安に移し、勤王の兵をつのって王威の回復に努めたがふるわず、大陸の南隅を保っていたのみで没した。高栄は南京で即位し、次々と金人に追われていたが、これ以後を南栄といい、のち蒙古が復興して金を滅ぼし、また南栄も滅ぼしてしまった。南栄が滅びたのはこれより約100年後である。
―――
臨安行在府
臨安は華中の浙江省州地にある。北栄の末金が勢いをもって大梁をおとしいれ、第八代徽宗・第九代欽宗を虜にして北に去った。欽宗の弟・高宗が位についたが、金人の侵入をさけて臨安に都し、わずかに江南地方を領した。
―――
高麗六百余国
三韓分立当時の高麗は660、新羅は560、百済は460に分かれていたといわれる。
―――
大蒙古国の皇帝
大元の老皇帝をさす。初祖のテムジン(1162~1227)は南栄の高栄紹興25年生まれ、28歳でジンギスカンと称し、その後、全蒙古を統一し、金・南ロシア・中央アジア・高麗を征し、ヨーロッパにも遠征した太祖である。その子フビライに至って中国を統一し、文応元年(1260)即位して世祖と号した。文永8年(1271)はじめて国号を元ととなえた。元の領地は中国を中心に内外蒙古・チベット・中央アジア・東南アジア・ヨーロッパまでおよび空前の大帝国となった。世祖以来11世98年、順帝のとき(1367)国は滅んだ。
―――
今の日本国の壱岐・対馬並びに九国のごとし
元寇をさす。蒙古は文永11年(1274)10月、日本を襲い、壱岐は守護代・平景隆、対馬は宗助国はじめほとんどが全滅し、九州も大きな被害を受けた。
―――
権大乗
大乗の中の方便の教説。諸派の間では互いに、法華経をして実大乗といい、諸教を権大乗とする。
―――
六道・四聖
十界のうち、前の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天を六道といい、後の声聞・縁覚・菩薩・仏を四聖という。
―――
要当説真実
方便品に「世尊の法は久しうして後に、要らず当に真実を説くべし」とある。
―――
多宝仏
東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。 多宝仏はみずから法を説くことはなく、法華経説法のとき、必ず十方の国土に出現して、真実なりと証明するのである。
―――
色究竟
阿迦尼吒天・有頂天ともいう。色界十八天のひとつ。色界四禅天の最頂であることから色究竟という。
―――
後五百歳に一切の仏法の滅せん時
大聖人の南無妙法蓮華経が広宣流布する時である。「一切の仏法」とは、釈迦仏法のこと。
―――
上行菩薩
法華経従地涌出品第十五において、大地より涌出した地涌の菩薩の上首である四菩薩の一人。四菩薩はおのおの常楽我浄の四徳をあらわし、浄行菩薩は淨の徳をあらわしている。すなわち妙法を根本とした生命の清浄無染の特質をいう。
―――
謗法一闡提
「謗法」とは、誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。「一闡提」とは、梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写。一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏する機縁をもたない衆生のこと。
―――――――――
本章以降は、末法の初めを明かす段であり、初めに本章では、仏の予言が虚妄でないことを示して、必ず妙法蓮華経が末法に広宣流布することを述べられている。
一閻浮提に闘諍起るべき時節なり
当時は世界中が大戦乱の中にあった。
日本では、承久の乱により三上皇が流罪しにされ、天皇が廃せられた翌年に、日蓮大聖人は御誕生になっている。その後も国内には内紛や謀叛が相ついで起きており、外国では蒙古の勃興により各国が征服されて、次第に日本にもその危機が迫りつつあった。中国大陸の情勢は、本文にも仰せのとおり、蒙古の大軍が、漢土360ヵ国、260余州を打ち破り、弘安2年(1279)には南栄が滅亡した。西は中央アジアからヨーロッパまで、東は朝鮮半島まで、ことごとく蒙古に破られ、島国の日本だけが残されていたのである。西洋では東ローマ帝国が一時占領されてラテン帝国となった時代であり、日蓮大聖人の御誕生は、第4次十字軍の19年後に当たるが、第5次・第6次・第7次と、次々に十字軍が派遣されて、激烈な宗教戦争が戦われていたのである。
しかし、この時には結果的に幕府は衰亡したが、国は衰亡しなかったのである。すなわち一閻浮提に闘争がおこったが、逆縁の広宣流布のみで順縁広布にはいたらなかったのは前述のとおりである。
法華経の結縁なき者のためには
大集経は権大乗経であって成仏得道はできない教えであるが、六道、四生や三世のことを説いている点は真実であるとの御文意である。法華経の結縁なき者のためには未顕真実と仰せられているから、「法華経に結縁ある者には真実の教えなのか」との疑問が起きる。これは正像と末法の相違であって、正像2000年には法華経に結縁のある衆生が生まれてきているので、権教を縁として法華の下種を熟することができたが、いま末法に入っては結縁のない衆生ばかりであるから、権教ではいくら修行しても熟し脱することができない。寿量品文底秘沈の下種仏法でなければならない所以である。
顕謗法抄には「或人云く無量義経の四十余年未顕真実の文はあえて四十余年の一切の経経・並に文文・句句を皆未顕真実と説き給にはあらず、但四十余年の経経に処処に決定性の二乗を永不成仏ときらはせ給い釈迦如来を始成正覚と説き給しを其の言ばかりをさして未顕真実とは申すなりあえて余事にはあらず、而るをみだりに四十余年の文を見て観経等の凡夫のために九品往生なんぞを説きたるを妄りに往生はなき事なりなんど押し申すあに・をそろしき謗法の者にあらずや・なんど申すはいかに、答えて云く此の料簡は東土の得一が料簡に似たり」(0449-12)と仰せである。この御文は、文々句々ことごとく未顕真実であるということになれば、今の撰時抄の文に反するのではないか、というのである。
これに対して、日寛上人は、徳一は爾前経に成仏往生のあることを主張するが、爾前に成仏はないから、文々句々ことごとく未顕真実となる、とお答えである。しかし成仏以外のことならその限りではないので、爾前も真実であるという本抄の御文と一致するのである。
後五百歳に一切の仏法の滅せん時
日寛上人はこの文に三意を挙げて、文底下種仏法の広宣流布を断言されている。
第一に、一切の仏法が隠没してしまうゆえに。
第二に、地湧の菩薩が後五百歳広宣流布の付嘱を受けているがゆえに。
第三に、謗法一闡提の本末有善の衆生なるがゆえに、釈尊の説いた熟益の仏法ではなくて、本門寿量文底秘沈の下種仏法が広宣流布する。
との御意である。大地がひっくりかえろうと、高山がくずれ落ちようと、春の後に夏がこなくても、太陽が西から東へ回ろうと、月が地に落ちようとも「此の事は一定なるべし」との日蓮大聖人の御確信を、よくよく肝に銘ずべきである。
そもそも日蓮大聖人の御予言は
第一に、釈尊の経文に依られている。
第二に、あくまでも民衆救済の大慈悲を根幹にしておられる。
第三に、仏法を根源とした世界観の御予言である。
ゆえにわれわれの末弟に対する偉大な御遺命と拝すべきである。本章に「外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを 聖人という余に三度のかうみようあり」(0287-08)と仰せられ、さらに佐渡御書には「現世に云をく言の違はざらんをもて後生の疑をなすべからず」(0957-17)と御教示である。われわれは、御本仏の教えを虚妄にすることなく、絶対の確信をもって、御遺命を達成しなければならない。
「後五百歳に一切の仏法の滅せん時」と仰せのように、釈迦仏法はすべて滅してしまうのである。それにもかかわらず、念仏・真言・禅などという邪宗が、さも仏教であるかのような顔をして、いまだに存在しているということは、釈尊の真意に反することははなはだしいということを知らなくてはならない。
0265:08~0266:14 第14章 能弘の師徳を顕わすtop
| 08 此の事一定ならば闘諍 09 堅固の時・日本国の王臣と並びに万民等が仏の御使として 南無妙法蓮華経を流布せんとする を或は罵詈し或は悪 10 口し或は流罪し或は打擲し 弟子眷属等を種種の難にあわする人人 いかでか安穏にては候べき、 これをば愚癡の 11 者は咒詛すとをもひぬべし、 法華経をひろむる者は日本国の一切衆生の父母なり 章安大師云く「彼が為に悪を除 12 くは即ち是れ彼が親なり」等云云、されば日蓮は当帝の父母・念仏者・禅衆・真言師等が師範なり又主君なり、 而 13 るを上一人より下万民にいたるまであだをなすをば 日月いかでか彼等が頂を照し給うべき 地神いかでか彼等の足 14 を戴き給うべき、 提婆達多は仏を打ちたてまつりしかば大地揺動して火炎いでにき、 檀弥羅王は師子尊者の頚を 15 切りしかば右の手刀とともに落ちぬ、 徽宗皇帝は法道が面にかなやきをやきて江南にながせしかば 半年が内にゑ 16 びすの手にかかり給いき、 蒙古のせめも又かくのごとくなるべし、 設い五天のつわものをあつめて鉄囲山を城と 17 せりともかなふべからず 必ず日本国の一切衆生・兵難に値うべし、 されば日蓮が法華経の行者にてあるなきかは 18 これにても見るべし、 教主釈尊記して云く末代悪世に法華経を弘通するものを 悪口罵詈等せん人は我を一劫が間 0266 01 あだせん者の罪にも百千万億倍すぎたるべしと・とかせ給へり、 而るを今の日本国の国主・万民等・雅意にまかせ 02 て父母・宿世の敵よりも いたくにくみ謀反・殺害の者よりも・つよくせめぬるは現身にも大地われて入り天雷も身 03 をさかざるは不審なり、 日蓮が法華経の行者にてあらざるか・もししからばををきになげかし、今生には万人にせ 04 められて片時もやすからず後生には悪道に堕ん事あさましとも申すばかりなし、 又日蓮法華経の行者ならずばいか 05 なる者の一乗の持者にてはあるべきぞ、 法然が法華経をなげすてよ 善導が千中無一・道綽が未有一人得者と申す 06 が法華経の行者にて候か、 又弘法大師の云く法華経を行ずるは 戯論なりとかかれたるが 法華経の行者なるべき 07 か、 経文には能持是経能説此経なんどこそとかれて候へよくとくと申すは いかなるぞと申すに於諸経中最在其上 08 と申して大日経・華厳経・涅槃経・般若経等に法華経はすぐれて候なりと申す者をこそ 経文には法華経の行者とは 09 とかれて候へ、 もし経文のごとくならば日本国に仏法わたて七百余年、 伝教大師と日蓮とが外は一人も法華経の 10 行者はなきぞかし、 いかにいかにとをもうところに頭破作七分・口則閉塞のなかりけるは道理にて候いけるなり、 11 此等は浅き罰なり但一人二人等のことなり、 日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり此れをそしり 此れをあだむ人を 12 結構せん人は閻浮第一の大難にあうべし、 これは日本国をふりゆるがす正嘉の大地震一天を罰する 文永の大彗星 13 等なり、 此等をみよ仏滅後の後仏法を行ずる者にあだをなすといへども今のごとくの大難は一度もなきなり、 南 14 無妙法蓮華経と一切衆生にすすめたる人一人もなし、此の徳はたれか一天に眼を合せ四海に肩をならぶべきや。 -----― このことが決定的であるならば、闘諍堅固の時に日本国の王臣ならびに万民等が、仏の御使いとして南無妙法蓮華経を流布しようとする人を、あるいはののしったり、あるいは悪口をいったり、あるいは流罪にし、あるいは杖で打ち、その弟子や眷属等を種々の難にあわせている人々が、どうして安穏でいられようか。こういうとおろかな人間は呪っていると思うであろう。 法華経をひろめる者は、日本国の一切衆生の父母である。章安大師は「相手のために悪を除いてあげることは相手の人にとっては親である」といっている。されば、日蓮は日本の皇帝の父母であり、念仏者・禅衆・真言師等の師範であり、また主君である。 しかるに、上一人より下万民にいたるまで、日蓮をあだむのだから、日天月天はどうして彼等の頂を照らしていられようか。地神はどうして彼らの足をいただいておられようか。提婆達多は仏を打ちたてまつったので、大地が揺れ動き火炎が現じた。檀弥羅王は、師子尊者の頸を切ったので、右の手が刀とともに落ちたという。徽宗皇帝は、法道三蔵の顔にかなやきをおして江南に流したので、半年内に蕃族にとらえられてしまった。蒙古が襲来するのも、これと同じである。たとえ五天竺の兵を集め、鉄囲山を城として防いでも、防げるものではない。かならず日本国の一切衆生は兵難にあうであろう。 されば日蓮が法華経の行者であるかないかは、この現証によって知るべきである。教主釈尊は「末代悪世に法華経をひろめる者の悪口をいったり、馬鹿にしたりする者は、仏を一劫の間怨した罪よりも百千万億倍も過ぎる罪をうけるであろう」と予言されている。しかるに、今の日本国の国主や万民は我見のままに父母の敵や宿世からの敵よりも強く日蓮をにくみ、謀反人や人を殺害した者よりも強く日蓮を責めているのに現身にも大地が割れて地獄へもおちず、天雷に身を引き裂かれもしないのは不審である。実にあさましい限りでる。また日蓮が法華経の行者でないとするならば、だれが一仏乗の持者なのか。 法然が「法華経をなげすてよ」といい、善導が「千中無一」といい、道綽が「未有一人得者」といっているが、こういう者たちが、法華経の行者なのか。また弘法大師は「法華経を行ずるは戯れの論だ」と説いているが、こんなのが法華経の行者なのか。経文には「能き是の経を持つ」「能く此の経を説く」などと説かれている。この「能く説く」というのは、どんなことかといえば、「諸経の中において、この法華経はもっともその上にある」といって、大日経や華厳経や涅槃経や般若経等より法華経が勝れているという者をこそ、経文には「法華経の行者なり」と説かれているのである。もし経文のとおりなら、日本の国に仏法が渡って七百余年になるが、伝教大師と日蓮以外の者は一人も法華経の行者ではないのである。 そこでいろいろ考えてみるに、「頭が七分に割れる」「口が閉塞する」とうい現証がないのはまた道理なのである。これらは浅い罰であって、また一人か二人だけがうけることである。日蓮は閻浮第一の法華経の行者である。この日蓮を謗ったり怨んだりする者の味方になるようなものは、閻浮第一の大難にあうであろう。この現証が日本国を振りゆるがす正嘉の大地震や一天を罰する文永の大彗星となって現われたのである。これらを見よ、釈尊が入滅してから今日まで仏法を行ずる者に怨をなしたけれどもこのような大難は一度もなかった。南無妙法蓮華経と一切衆生に勧めた人も一人もなかった。その徳は一天に眼を合せ、四海に肩をならべる者がいるだろうか。 |
章安大師
(0561~0632)。中国天台宗第四祖(①北斉の慧文、②南岳慧思、③天台智顗、④章安灌頂)。天台大師の弟子で、師の論釈をことごとく聴取し、結集したといわれる。諱は灌頂。中国の浙江省臨海県章安の人で、七歳で摂静寺に入り、25歳で天台大師に謁して後、常随給仕して所説の法門をことごとく領解した。その聴受ののち編纂した天台三大部(「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」)をはじめ、大小部合わせて百余巻がある。師が亡くなってから「涅槃玄義」二巻、「涅槃経疏」20巻を著わす。その名声は高く、三論の嘉祥は章安の「義記」を借覧して天台に帰伏したという。唐の貞観6年8月7日、天台山国清寺で72歳で寂し、弟子智威(に法灯を伝えた。
―――
彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり
章安大師の「涅槃経疏」第八の文。彼が為に謗法の悪知識を捨てさせる折伏の行為は者は彼が親であるとの意味。
―――
日蓮は当帝の父母・念仏者・禅衆・真言師等が師範なり又主君なり
日蓮大聖人が、主・師・親三徳具備の末法の御本仏であることを示された文。
―――
提婆達多は仏を打ちたてまつりしかば大地揺動して火炎いでにき
「提婆達多」は調達ともいい、斛飯王の子、阿難の兄であり、釈尊の従弟にあたる。釈尊に反対し、三逆罪を作って生きながら地獄に堕ちた。大智度論には「復悪毒を以って指爪の中に著化、仏を乱するに因せて、もって仏を中傷せんと欲し、去らんと欲して、いまだ到らず王舎城の中において地自然に破裂して、火車来迎し生きながら地獄に入る」とある。
―――
檀弥羅王は師子尊者の頚を切りしかば右の手刀とともに落ちぬ
「師子尊者」は、付法蔵24番目・最後の伝灯者。この国の外道が彼を嫉み、王宮に潜入して釈子の姿に化し、禍をつくって逃げ去った。檀弥羅王は怒って、師子尊者の首を切った。しかし一滴の血も流れず、ただ白い乳のみが湧き出した。そのとき王の右腕が落ち、7日ののちに死んだ。檀弥羅王は仏法に帰依していたが、外道にだまされたとの説もある。
―――
徽宗皇帝は法道が面にかなやきをやきて江南にながせしかば半年が内にゑびすの手にかかり給いき
「徽宗皇帝」(1082~1135)とは、中国北宋の八代皇帝。姓は趙、名は佶。太后向氏が摂政の間はよく政治が行なわれたが、親政になると蔡京父子を重用し、民衆に重税を課した。そして豪奢な生活を送り、民衆の苦悩を顧みなくなってしまった。このとき「法道」(1086~1147)が諫めたが。徽宗はこれを聞きいれず、かえって法道の顔に火印を押し、江南の道州に流した。その後徽宗はは新興の金と同盟し、遼を攻めたが敗れ、逆に金に侵略され、その結果、欽宗と共に金国の捕虜となり、配所の五国城で没した。
―――
五天
五天竺のこと。インドの古称。全インドを東・西・南・北・中天竺と区分する。五印度・五天・五印ともいう。
―――
鉄囲山
大と小がある。九山・八海をめぐる小鉄囲山と大千世界をめぐっている大鉄囲山で、古代インドの宇宙観にもとずくもの。
―――
雅意
我見のこと。
―――
弘法大師
(0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」10巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。
―――
戯論
児戯に類した無益な論議・言論のこと。
―――
能持是経
分別功徳品の文。「能く是の経を持ち」と読む。
―――
能説此経
宝塔品の文。「能く此の経を説かん」と読む。
―――
於諸経中最在其上
安楽行品の文。「この法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中にもっともその上」にあり」とある。同様の文は薬王品にもみられる。
―――
頭破七分
陀羅尼品の偈文。鬼子母神・十羅刹女が法華経の行者を悩乱するものの頭を阿闍梨の枝のように破るとの誓いを立てた。頭破作七分・心破作七分ともいい、大御本尊および大御本尊を信ずる人を誹謗するものは、頭が壊れ、心が錯乱し、支離滅裂になるとの意である。
―――
口則閉塞
安楽行品の文。「若し人悪み罵らば、口則ち閉塞せん」とあるのをさす。
―――
正嘉の大地震
正嘉元年(1257)8月23日戌亥の刻鎌倉地方に、かつてない大地震が襲った。吾妻鏡第四十七に同日の模様を次のように記している。「二十三日、乙巳、晴。戌尅大地震。音有り。神社仏閣一宇として全き無し。山岳頽崩す。人屋顛倒す。築地みな悉く破損す。所々に地裂け水涌出す。中下馬橋辺の地裂け破れ、その中より火炎燃え出ず、色青し」云々とある。
―――
文永の大彗星
文永元年(1264)6月26に、東北の空に大彗星があらわれ、7月4日に再び輝きはじめて八月にはいっても光りが衰えなかった。このため、国中が大騒ぎし、彗星を攘う祈りが盛んに修された。安国論御勘由来(0034)に「又其の後文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず」とある。
―――――――――
前章で必ず広宣流布すべきことを明かされて、本章では、法華経の行者日蓮大聖人を誹謗する者が、大罰を受けることによって、日蓮大聖人の御徳がいかに崇高であるかを明かされている。謗法の罰としては法華経に「頭が七つに破れる」とか、「口が則ち閉塞する」と説かれているけれども、それは一人、二人の浅い罰であって、日蓮大聖人をあだむ罪は世界第一の大罪であり、いまだかって世界中にかなった大罰をうける。この大罰の現証によって、大聖人の御徳の偉大さを知らしめようとされているのである。
仏の御使として南無妙法蓮華経を流布せんとする
南無妙法蓮華経をひろめる人は仏の御使いなりというのは、外用浅近の辺であり、「日蓮は当帝の父母・念仏者・禅衆・真言師等が師範なり又主君なり」とは内証深秘の辺であって、すなわち日蓮大聖人が末法の主師親三徳具備の御本仏なりとの趣旨である。
このように、日蓮大聖人が仏の御使いとか、上行菩薩の再誕とか仰せられていても、その御内証は主師親三徳具備の末法の御本仏であることは明白な事実である。日蓮大聖人御自身が、このようにはっきりと断言されているにもかかわらず、日蓮宗と称する邪宗の徒は、一向にこの御文を読むことができないで、日蓮大菩薩などと呼んで平然としているのは、まことにあわれむべき存在であり、師敵対謗法の限りである。
開目抄には「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(0237-05)と仰せられ、さらには佐渡御書には「日蓮は此関東の御一門の棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり・日蓮捨て去る時・七難必ず起るべしと」(0957-18)と仰せられ、さらに報恩抄には「日蓮が慈悲曠大ならば 南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(0329-03)と御教示されている。この御文で慈悲曠大は親の徳、一切衆生の盲目をひらける師の徳、無間地獄の道をふさぎぬは主の徳である。すなわち主師親三徳の御宣言なのである。
なお、御義口伝の「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり、法とは題目なり僧とは我等行者なり、仏とも云われ又凡夫僧とも云わるるなり」(0766-第十三常不値仏不聞法不見僧の事-03)との仰せや、諸法実相抄の「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」(1358-11)との仰せ等も深く拝すべきである。
蒙古のせめも又かくのごとくなるべし、設い五天のつわものをあつめて鉄囲山を城とせりともかなふべからず必ず日本国の一切衆生・兵難に値うべし
正法の行者を迫害し邪法邪師を重んずるならば、その国が滅びるとは、立正安国論の予言であり、700年後の今日、事実となって現れた。江戸時代の日寛上人の時代には、いまだ亡国の現象はなかったが、日寛上人はこの御文を次のように釈されている。
問う、太平記によると、日本は元軍を破って勝っているではないか。国が滅ぶという日蓮大聖人の予言は的中しなかったのではないか。答う、この文には多くの意味があるけれども、しばらく二意を示そう。第一に、これは大悲忠諌の辞である。たとえば父が子供の過ちを責める時には、改めないと必ず身を滅ぼし家を滅ぼすであろうというが、その意は身を全うし家を全うさせんがために、親心からいうのである。大聖人もまた謗法の過を挙げて蒙古のせめ逃れがたしと仰せられるが、その意は、国を安んじ身を安んぜしめるための大悲の心からである。
次に人力の分斉に約す。ただ人力によるだけならば実に退治しがたいのである。故にまた太平記によると、大元の軍を打ち破ったことは、わが国の武勇によるのではなくて、大小の神祇が冥助した神力によって勝利をえたのだという。もしそうなら諸天善神がこの国を捨て去ったという所論と違うではないか。答う、神天上とは謗者に約するのであって、信者に約すならば、信者の頂には神がいるのである。たとえば濁水には月の影は映らないが清水にはすなわち映るのと同じである。わが国の神が冥助した理由にまた二意がある。一には鎌倉幕府が改悔したことによる。大聖人を佐渡へ流し奉ったが、ついに赦免して大聖人の御弘通を妨害しなくなった。二には日蓮大聖人が国を護られたことによる。すなわち、種々御振舞い御所に「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし、何に況や数百人ににくませ二度まで流しぬ、此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」(0919-16)と仰せのとおりである。
こうして、日蓮大聖人の御在世中は、亡国の悲運からまぬかれたが、700年後において「はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」の御予言が的中して、第二次世界大戦において敗戦亡国となってしまったのである。
なお、これは一国についての賞罰の原理であるが、このことは、個人についても、一家についても、一社会についても同じことがいえるのである。たとえば、妻が信仰していて、夫が反対しているような場合、夫が謗法を犯せば、その家庭はそれなりの罰の現証が顕われる。しかし一方では、妻や子供が熱心に信仰してさえいれば、失業して路頭に迷うとか、主人が倒れるということはなく、やはり熱心にやっていればいるほど守られるのである。むしろ妻の信心が純真であり熱心であれば、夫に少しの欠点があっても、その家庭は不思議によく守られ、繁栄していく例はよくあることである。
教主釈尊記して云く末代悪世に
法華経法師品第十に「薬王、若し悪人有って、不善の心を以って、一劫の中に於いて、現に仏の前に於いて常に仏を毀詈せん、其の罪尚軽し、若し人一の悪言を以って、在家出家の、法華経を読誦する者を毀訾せん、其の罪甚だ重し」とあるのわさす。
すなわち、創価学会員のごとく大御本尊を信じ、折伏行に励む者を迫害し悪口をいえば、たった一言の悪口であっても、仏を一劫の間そしる罪より、はなはだ重いというのである。信じて持つところの大御本尊が尊貴のゆえに、その人も貴く、したがって、謗ずる者はこのような重罪となり、現罰をうけるのである。まことに恐るべく、慎むべきである。
法華経普賢品第二十八にいわく「若し復是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さん。若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん。若し之を軽笑すること有らん者は当に世世に牙歯疎き欠け醜脣平鼻・手脚繚戻し眼目角ライ・身体臭穢にして悪瘡・膿血・水腹・短気・諸の悪重病あるべし」と。このように、大御本尊を受持する者の過悪を出すならば、もしそれが事実であっても、また事実でなくても、このような大罰を受ける。また軽笑することによっても、このような罰を受け、長く不幸のどん底に沈むことになってしまうのである。
いかにいかにとをもうところに頭破作七分・口則閉塞のなかりけるは
法華経の行者を誹謗してもなにゆえ現罰がないのかという疑問を提起されているのである。日寛上人の仰せには「謗者がもし一人や二人なら頭破作七分や口則閉塞もあるだろう。しかるに、今は上一人より下万民にいたるまで、日本国中、みな謗者である。たとえば、頭髪が全て白髪となれば抜き捨てがたくなるようなものであるから、『頭破作七分・口則閉塞のなかりけるは道理にて候いけるなり』と仰せられているのである。しかるに日蓮大聖人は閻浮第一の法華経の行者なるゆえに、これを怨む人々は、閻浮第一の大罰をこうむるのである。いわゆる正嘉の大地震や文永の大彗星がそれである。これはすなわち謗者の罰が大きいのによせて、能弘の師徳の大なることをあらわされているのである。
0266:15~0267:08 第15章 総じて問答料簡すtop
| 15 疑つて云く設い正法の時は仏の在世に対すれば根機劣なりとも像末に対すれば最上の上機なり、 いかでか正法 16 の始に法華経をば用いざるべき随つて馬鳴・竜樹・提婆・無著等も正法一千年の内にこそ出現せさせ給へ、 天親菩 17 薩は千部の論師・法華論を造りて諸経の中第一の義を存す真諦三蔵の相伝に云く 月支に法華経を弘通せる家・五十 18 余家・天親は其の一也と已上正法なり、 像法に入つては天台大師・像法の半に漢土に出現して玄と文と止との三十 0267 01 巻を造りて法華経の淵底を極めたり、 像法の末に伝教大師・日本に出現して天台大師の円慧・円定の二法を我が朝 02 に弘通せしむるのみならず 円頓の大戒場を叡山に建立して 日本一州皆同じく円戒の地になして上一人より下万民 03 まで延暦寺を師範と仰がせ給う 豈に像法の時法華経の広宣流布にあらずや、 答えて云く如来の教法は必ず機に随 04 うという事は世間の学者の存知なり、 しかれども仏教はしからず上根上智の人のために必ず大法を説くならば 初 05 成道の時なんぞ法華経をとき給はざる正法の先五百年に大乗経を弘通すべし、 有縁の人に大法を説かせ給うならば 06 浄飯大王・摩耶夫人に 観仏三昧経・摩耶経をとくべからず、 無縁の悪人謗法の者に秘法をあたえずば覚徳比丘は 07 無量の破戒の者に涅槃経をさづくべからず、 不軽菩薩は誹謗の四衆に向つて いかに法華経をば弘通せさせ給いし 08 ぞ、されば機に随つて法を説くと申すは大なる僻見なり。 -----― 疑つて云う。正法時代というのは、仏の在世に比べたら、衆生の根機が劣っているとしても、像法、末法の衆生に比べたら最上の上機である。どうして、正法時代の初めに法華経を用いなかったといえるのか。随つて馬鳴・竜樹・提婆・無著等も、正法一千年の内に間にこそ出現されたのである。天親菩薩は千部の論師といわれ、しかも『法華論』を造って諸経の中に第一であると立てた。また真諦三蔵の相伝によれば、「インドで法華経を弘通したのは五十余家もあり、天親は其の一つである」といっているが、これは正法時代のことである。像法に入っては、天台大師が、像法中ごろ中国に出現して、『玄義』と『文句』と『止観』の三十巻を造って法華経の法門の奥底を極めた。像法の末には、伝教大師が日本に出現して、天台大師の円慧・円定の二法を、我が国に弘通せしめたのみか、円頓の大戒場を比叡山に建立して、日本全国を皆一州みな同じく円戒の地となし、上一人の天皇から下万民にいたるまで、延暦寺を師範と仰ぐようになった。これは像法時代に法華経が広宣流布したことになるのではないか。 答えて云う。如来の教法は、必ず機根に随って説かれているということは、世間の学者の通常の考えである。しかし仏教はそうではない。機根の高い智慧ある人のために、必ず大法を説くというならば、釈尊が初めて成道した時に、どうして法華経を説かなかったのか。また正法時代の前半の五百年には、大乗経をひろめるべきである。また仏に縁がある者に大法を説くというなら浄飯王や摩耶夫人のために、観仏三昧経や摩耶経を説くべきではない。また仏に縁のない悪人謗法の者には秘法を与えないというのなら、覚徳比丘は無量の破戒の者に涅槃経を授けるわけがない。不軽菩薩は誹謗する四衆に向って、どうして法華経を弘通されたのか。ゆえに機根にしたがって法を説くというのは大きな誤りである。 |
無著
「無著」は梵語、漢訳して「阿僧伽」という。仏滅後900年ごろ、インドの健駄羅国富婁沙富羅城の婆羅門の学者、憍尸迦の子に生まれた。弟は世親。はじめ小乗化他部に出家し、小乗教を学んだが、これにあきたらず、大乗に移り「顕揚聖教論」「摂大乗論」「瑜伽論」「十地師経論」など8部37巻の書を著わした。また小乗にとらわれている弟の世親を大乗に帰せしめたことも有名な話である。75歳、王舎城で没。
―――
千部の論師
天親菩薩のこと。百論序論によれば「天親は本小乗を学び五百部の小論を造り、後に兄の無著によって大乗に入り大乗五百部の論を造る。時人呼んで千部の論師となす」とある。
―――
法華論
インドに現存する最古の注釈本。七功徳、五示現、七喩、三平等、十無上の五科からなっている。漢語では二訳あるが、現在あるんのはその両方を合わせたもので、注釈としては、嘉祥、伝教、智証、護命等のものがある。
―――
真諦三蔵の相伝
(0499~0569)西インドの人、梁の大同2年(0537)30歳で中国にきて経典の伝訳に従事し、初め武帝の厚遇を受けた。のちにたびたび国難にあい、北斉・東魏と転々とし、不遇のうちに71歳で死んだ。「金光明経」「摂大乗論」「唯識論」「世親論」などの著がある。
―――
玄と文と止の三十巻
天台の著、法華玄義・法華文句・摩訶止観の各10巻、合わせて30巻をいう。天台の三大部。
―――
淵底
物事の奥義、奥底、真意。
―――
浄飯大王
インド迦毘羅衛の王で、釈尊の父。夫人を摩耶という。
―――
摩耶夫人
善覚長者の長女で浄飯王の后」となる。釈尊を産んで7日後に死亡している。
―――
覚徳比丘は無量の破戒の者に涅槃経をさづくべからず
覚徳比丘は有徳王とともに正法を護持したことが法華経に説かれている。立正安国論には「 「善男子・過去の世に此の拘尸那城に於て仏の世に出でたまうこと有りき歓喜増益如来と号したてまつる、仏涅槃の後正法世に住すること無量億歳なり余の四十年仏法の末、爾の時に一の持戒の比丘有り名を覚徳と曰う、爾の時に多く破戒の比丘有り是の説を作すを聞きて皆悪心を生じ刀杖を執持し是の法師を逼む、是の時の国王名けて有徳と曰う是の事を聞き已つて護法の為の故に即便ち説法者の所に往至して是の破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘す、爾の時に説法者厄害を免ることを得たり王・爾の時に於て身に刀剣鉾槊の瘡を被り体に完き処は芥子の如き許りも無し、爾の時に覚徳尋いで王を讃めて言く、 善きかな善きかな王今真に是れ正法を護る者なり当来の世に此の身当に無量の法器と為るべし、王是の時に於て法を聞くことを得已つて心大に歓喜し尋いで即ち命終して阿閦仏の国に生ず而も彼の仏の為に第一の弟子と作る、其の王の将従・人民・眷属・戦闘有りし者・歓喜有りし者・一切菩提の心を退せず命終して悉く阿閦仏の国に生ず、覚徳比丘却つて後寿終つて亦阿閦仏仏の国に往生することを得て彼の仏の為に声聞衆中の第二の弟子と作る、若し正法尽きんと欲すること有らん時当に是くの如く受持し擁護すべし、迦葉・爾の時の王とは即ち我が身是なり、説法の比丘は迦葉仏是なり、迦葉正法を護る者は是くの如き等の無量の果報を得ん、是の因縁を以て我今日に於て種種の相を得て以て自ら荘厳し法身不可壊の身を成す、仏迦葉菩薩に告げたまわく、是の故に法を護らん優婆塞等は応に刀杖を執持して擁護すること是くの如くなるべし、善男子・我涅槃の後濁悪の世に国土荒乱し互に相抄掠し人民飢餓せん、爾の時に多く飢餓の為の故に発心出家するもの有らん是くの如きの人を名けて禿人と為す、是の禿人の輩正法を護持するを見て駈逐して出さしめ若くは殺し若くは害せん、是の故に我今持戒の人・諸の白衣の刀杖を持つ者に依つて以て伴侶と為すことを聴す、刀杖を持すと雖も我是等を説いて名けて持戒と曰わん、刀杖を持すと雖も命を断ずべからず」(0028-12)とある。この「破壊の者」とは涅槃経をさしている。
―――
不軽菩薩
法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
―――――――――
この章からは大段の第二、料簡の段であり、本抄の終わりまでに12の問答がある。初めから11問答えまでは、正像について料簡し、第12問答は末法についての料簡である。
11問答のうち初めの1問答は総であり、後の10問答は別である。本章はすなわち初めの1問答で、総である。ゆえに、この章では、次のように4つの難を挙げて設問されている。
第一に機に約して難じ
第二に馬鳴・竜樹に約して難じ
第三に天台に約して難じ
第四に伝教に約して難じ られている。
そして、この章では機に対する難だけを会して、後の3難は、次章以下に別して料簡されているのである。
像末に対すれば最上の上機なり
正法時代は、像末に対すれば最上の上機であるから、正法の初めに法華経がひろめられるはずではないか。ましてや、像法には、天台も伝教も法華経を広宣流布しているではないか。どうして法華経の流布が末法に限るというのかとの質問である。
撰時抄の初めに、すでに仏教は機によらず、ただ時によることを明かされているのに、なぜまた、このような疑問を設けるのかとの問いに対し、日寛上人は「本抄の初めには、在世に約してその相を明かしたゆえに、今は滅後に約してこれを疑うのである」と仰せである。そしてその結論は、如来の仏教は必ず機に従うというのが世間の学者の主張であるが、仏教はそうではない。機に従って法を説くというのは、大なる僻見であるとされて、釈尊の事実の説法の姿を例として挙げられているのである。
0267:09~0269:12 第16章 竜樹菩薩の弘通top
| 09 問うて云く竜樹・世親等は法華経の実義をば宣べ給わずや、 答えて云く宣べ給はず、問うて云く何なる教をか 10 宣べ給いし、答えて云く華厳・方等・般若・大日経等の権大乗・顕密の諸経をのべさせ給いて法華経の法門をば宣べ 11 させ給はず、問うて云く何をもつてこれをしるや 答えて云く竜樹菩薩の所造の論三十万偈・而れども尽して漢土・ 12 日本にわたらざれば其の心しりがたしといえども 漢土にわたれる十住毘婆娑論・中論・大論等をもつて天竺の論を 13 も比知して此れを知るなり。 -----― 問うて云う。竜樹・世親等は法華経の実義を述べられなかったのか。 答えて云う。述べていない。 問うて云う。それではどんな教えを述べられたのか。 答えて云う。華厳・方等・般若・大日経等の権大乗や顕・密の諸経を述べられて法華経の法門はのべていない。 問うて云う。何をもってそれを知ることができるのか。 答えて云う。竜樹菩薩の造った論は三十万偈に及ぶという。しかし、それが全部は中国・日本に渡ってきていないから、竜樹の心を知ることはできないが、中国にわたったわた『十住毘婆娑論』『中論』『大論』等をもって、インドに残されているであろうところの論の内容も推しはかることができるのである。 -----― 14 疑つて云く天竺に残る論の中にわたれる論よりも勝れたる論やあるらん、 答えて云く竜樹菩薩の事は私に申す 15 べからず仏記し給う 我が滅後に竜樹菩薩と申す人・南天竺に出ずべし彼の人の所詮は 中論という論に有るべしと 16 仏記し給う、 随つて竜樹菩薩の流・天竺に七十家あり七十人ともに大論師なり、 彼の七十家の人人は皆中論を本 17 とす中論四巻・二十七品の肝心は 因縁所生法の四句の偈なり、 此の四句の偈は華厳・般若等の四教・三諦の法門 18 なりいまだ法華開会の三諦をば宣べ給はず -----― 疑つて云う。インドに残っている論の中に、中国へ渡った論よりも勝れている論があるのではないだろうか。 答えて云う。竜樹菩薩の事は私が勝手な意見を述べる必要はない。釈尊が予言されていうには「我が滅後に竜樹菩薩という人が南インドに出るであろう。この人の究極の法門は、中論という論に有る」と記されている。したがって竜樹菩薩を祖師とする流派がインドに七十家あり、七十人ともに大論師であるが、彼の七十家の人人は皆『中論』を本としている。『中論』四巻・二十七品の肝心は「因縁所生法」の四句の偈である。この四句の偈は華厳・般若等の四教、三諦の法門であり、いまだ法華に開会された空・仮・中の三諦の法門はのべていない。 -----― 0268 01 疑つて云く汝がごとくに料簡せる人ありや、 答えて云く 天台云く「中論を以て相比すること莫れ」又云く「天 02 親竜樹 内鑒冷然にして外は時の宜きに適う」等云云、 妙楽云く「破会を論ぜば未だ法華に若かざる故に」云云、 03 従義の云く「竜樹天親未だ天台に若かず」云云、 問うて云く唐の末に不空三蔵一巻の論をわたす 其の名を菩提心 04 論となづく竜猛菩薩の造なり云云、 弘法大師云く「此の論は竜猛千部の中の第一肝心の論」と云云、 答えて云く 05 此の論一部七丁あり竜猛の言ならぬ事処処に多し故に 目録にも或は竜猛或は不空と両方にいまだ事定まらず、 其 06 上・此の論文は 一代を括れる論にもあらず 荒量なる事此れ多し、 先ず唯真言法中の肝心の文あやまりなり其の 07 故は文証現証ある法華経の即身成仏をばなきになして 文証も現証もあとかたもなき真言経に即身成仏を立て候 又 08 唯という唯の一字は第一のあやまりなり、 事のていを見るに不空三蔵の私につくりて候を 時の人にをもくせさせ 09 んがために事を竜猛によせたるか 其の上不空三蔵は誤る事かずをほし所謂法華経の観智の儀軌に 寿量品を阿弥陀 10 仏とかける眼の前の大僻見・陀羅尼品を神力品の次にをける属累品を経末に下せる 此等はいうかひなし、 さるか 11 とみれば 天台の大乗戒を盗んで代宗皇帝に宣旨を申し五台山の五寺に立てたり、 而も又真言の教相には天台宗を 12 すべしといえりかたがた誑惑の事どもなり、 他人の訳ならば用ゆる事もありなん 此の人の訳せる経論は信ぜられ 13 ず、総じて月支より漢土に経論をわたす人・旧訳・新訳に一百八十六人なり 羅什三蔵一人を除いてはいづれの人人 14 もアヤマらざるはなし、其の中に不空三蔵は殊に誤多き上誑惑の心顕なり、疑つて云く何をもつて知るぞや羅什三蔵 15 より外の人人は あやまりなりとは汝が禅宗・念仏・真言等の七宗を破るのみならず 漢土・日本にわたる一切の訳 16 者を用いざるかいかん、 答えて云く此の事は余が第一の秘事なり委細には向つて問うべし、 但しすこし申すべし 17 羅什三蔵の云く 我漢土の一切経を見るに皆梵語のごとくならず いかでか此の事を顕すべき、 但し一の大願あり 18 身を不浄になして妻を帯すべし 舌計り清浄になして仏法に妄語せじ 我死なば必やくべし焼かん時 舌焼けるなら 0269 01 ば我が経をすてよと 常に高座にしてとかせ給しなり、 上一人より下万民にいたるまで願じて云く願くは羅什三蔵 02 より後に死せんと、 終に死し給う後焼きたてまつりしかば 不浄の身は皆灰となりぬ御舌計り火中に青蓮華生て其 03 の上にあり五色の光明を放ちて夜は昼のごとく 昼は日輪の御光をうばい給いき、 さてこそ一切の訳人の経経は軽 04 くなりて羅什三蔵の訳し給える経経・殊に法華経は漢土にやすやすとひろまり給いしか。 -----― 疑つて云う。汝のように考えていた人があるのか。 答えて云う。天台は「中論などとは比較にならない」といい、また「天親・竜樹は法華の実義を内心では知っていたが、口に出してはいわないで、外面は時の宜しきにかなっていた」といっている。また妙楽は「権経を破り実教に会入することを論ずるならば、法華経には及ばない」といい、従義は「竜樹・天親はいまだ天台に及ばない」等といっている。 問うて云う。唐の末に不空三蔵が『菩提心論』という一巻の書をインドから渡してきて、これは竜猛の造ったものだといった。それをうけて弘法大師は『此の論は竜猛が造った千部の論の中で第一の肝心の論だ」といっているがどうか。 答えて云う。この論は一部七丁あって、竜猛のことばでないような内容が処々に多い。ゆえに目録にもあるいは竜猛といい、あるいは不空といって、いまだ決定されていない。そのうえ、この論は釈尊一代を総括した論でもなく、大雑把な見解が多い。まず肝心の文といわれている「唯真言法の中においてのみ」といっているのが誤りである。そのゆえは文証も現証も明らかな法華経の即身成仏を無視して、文証も現証もあとかたもない真言の経に即身成仏を立てているからである。また「唯真言法の中」という「唯」の字が第一の誤りである。こうしたことから見ると不空三蔵が自分勝手につくった『菩提心論』を時の人に重要なものだとみせかけるため竜猛の造ったものだといったのであろう。そのうえ不空三蔵には誤りが数多い。所謂、法華経の『観智の儀軌』に寿量品の仏を阿弥陀仏だと書いているのは目の前の大僻見であり、それから陀羅尼品を神力品の次においたり、属累品を経の末においたりするような誤りは話にならない。そうかと思えば天台の大乗戒を盗んで唐の代宗皇帝に宣旨を申し下して五台山の五寺に立てている。しかも真言の教相判釈には天台の教判を用いるべしといっている。とにかくあれこれと世間を誑惑することばかりである。他の人の訳した経なら用いることはあろうけれども、この人の訳した経論は信じられない。総じてインドから中国に経論を渡して訳した人は、旧訳と新訳で186人いるが、羅什三蔵一人を除いては、いずれの人々も誤らないものはない。その中でも不空三蔵は、ことに誤りが多いうえに、偽り惑わそうとする心が顕著である。 疑つて云う。羅什三蔵より外の人々が誤りだというのは、何をもって知ることができるのか。汝は禅宗・念仏・真言等の七宗を破るのみならず、中国・日本にわたる一切の訳者を用いないというのか。 答えて云う。此の事は余の第一の秘事である。委細には向つて問うがよい。但し今すこし述べよう。羅什三蔵は「自分が中国の一切経を見るのに、みな原本の梵語の経の通りではない。どのようにして、このことをはっきりさせようか。そこでひとつの大願がある。自分の身は妻を帯して不浄だが、舌ばかりは仏法には妄語はしないので、清浄である。自分が死んだら、必ず焼きなさい。その時に舌が焼けるならば自分が訳した経をすてなさい」と、常に高座で説法された。それを聞いて、上一人より下万民にいたるまで願っていうには「願くは羅什三蔵より後に死にたいものだ」といっていた。ついに羅什の死なれた時、いわれた通り焼き奉ったが、不浄の身は皆焼けて灰となってしまったが、御舌ばかりは火の中に青蓮華を生じて、其の上にあった。五色の光明を放って夜は昼のごとく輝き、昼は太陽の光を奪うほどであった。このようなことがあればこそ、ほかの人々の訳したいっさいの経々は軽くなり、羅什三蔵の訳された経々、殊に法華経が、やすやすと中国にひろまったのである。 -----― 05 疑つて云く羅什已前はしかるべし 已後の善無畏・不空等は如何、答えて云く已後なりとも訳者の舌の焼けるを 06 ばアヤマリありけりとしるべしされば日本国に法相宗のはやりたりしを伝教大師責めさせ給いしには羅什三蔵は舌焼 07 けず玄奘・慈恩は舌焼けぬとせめさせ給いしかば 桓武天王は道理とをぼして天台法華宗へはうつらせ給いしなり、 08 涅槃経の第三・第九等をみまいらすれば 我が仏法は月支より他国へわたらん時、 多くの謬誤出来して衆生の得道 09 うすかるべしととかれて候、 されば妙楽大師は「並びに進退は人に在り 何ぞ聖旨に関らん」とこそあそばされて 10 候へ、今の人人いかに経のままに 後世をねがうともあやまれる経経のままにねがはば得道もあるべからず、 しか 11 ればとて仏の御とがにはあらじとかかれて候、 仏教を習ふ法には大小・権実・顕密はさてをくこれこそ第一の大事 12 にては候らめ。 -----― 疑っていう。羅什以前はそうかもしれないが、羅什以後の善無畏・不空はどうなのか。 答えて云う。羅什以後だからといっても、訳した人の舌が焼けるのを見て、誤りがあると知らなければならない。されば日本に法相宗が流行していたころ、伝教大師はこれを「羅什三蔵は舌がやけなかったのに、玄奘や慈恩は舌が焼けたではないか」と責められたので、桓武天王は伝教大師のいうのが道理だとおぼしめし、天台法華宗へ移られたのである。涅槃経の第三・第九等を見れば、釈尊の仏法はインドから他国へ渡る時に、多くの謬誤が発生して、衆生の得道も薄くなるであろうと説かれている。されば妙楽大師は「取捨は、人師のいかんによるのであり、仏の御意には関係ない」といわれているのである。今の世の人々がいかに経のままに後世を願うとも、過誤のある経文を信じて、願ったところで、得道ができるわけがない。得道ができないからといって、それは仏の過失となるのではないと書かれているのである。仏教を習うには、大小・権実・顕密等の立て分けはさておいて、このことが第一の大事ではないか。 |
世親
生没年不明。4、5世紀ごろのインドの学僧。梵名はヴァスバンドゥ(Vasubandhu)。世親は新訳名で、旧訳名は天親。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」30巻、「十地経論」12巻、「法華論」2巻、「摂大乗論釈」15巻、「仏性論」6巻など多数あり、千部の論師といわれる。
―――
三十万偈
竜樹菩薩伝には、優婆提舎十万偈・荘厳仏道論五千偈・大悲方便論五千偈・無畏論十万偈つくったとある。合わせて二十一万偈であるが、荘厳仏道論五万偈・大悲方便論五万偈との説もあり、三十万偈となる。
―――
十住毘婆沙論
全17巻。竜樹著と伝えられる。鳩摩羅什訳。菩薩の修行段階である十地を広説したものであり、十地毘婆沙論ともいう。
―――
中論
竜樹菩薩の著「中間論」のこと。姚秦の羅什三蔵が訳した4巻27品とし「十二門論」「百論」とともに三論宗の所依である。八不にせよ中道実相の理を説いている。嘉祥は疏10巻をはじめ、元康・琳法師・曇影等の疏がある。
―――
大論
大智度論の略称。智論ともいう。百巻。竜樹作と伝えられる。鳩摩羅什訳。大智度論の「智度」とは般若波羅蜜の意訳。「摩訶般若波羅蜜経釈論」ともいう。すなわち「摩訶般若波羅蜜経」(Mahā-prajñāpāramitā-śāstra)の注釈書。序品を三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。内容は法華経等の諸大乗教の思想を取り入れて解釈しているので、たんなる一経の注釈書というにとどまらず、一切の大乗思想の母体となった。
―――
七十家
天台大師の摩訶止観に「天竺の注論は凡そ七十家なり」とある。
―――
因縁所生法
付法蔵因縁の予言しているなかにある。竜樹の説は徹底して中道を説く。空を破し仮を破し中に執することを破して、八不中道を説いた。これが中論にもっともよく明かされている。この文は「衆因衆生の法、我即是無と説く、またこれを仮名となし、またこれ中道の義」とある。
―――
三諦の法門
空・仮・中の三諦のこと。諦とは審諦・つまびらか・あきらかの意。じゅうぶんに実相を見ることである。仏の悟りの真実の理をいう。空諦は事物の性分、仮諦は事物のあらわれた姿・形、中道は事物の本質。人間生命でいえば、その人の性分・心は 空諦、姿・形は 仮諦、生命は中道である。
―――
法華開会の三諦
空・仮・中の三諦が法華経にきて即一、円融相即して説かれた。この円融の三諦が妙法である。円融の三諦とは、空・仮・中の三諦に、おのおのまた三諦を具すとして相即を説く。すなわち三即一・一即三にして、しかも空に非ず、仮に非ず、中に非ず、即空・即仮・即中ともいい、これを不可思議境という。円融の三諦とは、法華以前の三諦とは、空・仮・中とが各別にして、融即しておらず、これを隔歴の三諦というのに対するのである。
―――
料簡
思いめぐらし考えること。思索すること。
―――
中論を以て相比すること莫れ
天台大師の法華玄義巻3下の文であり、法華経の深大なる義は、中論などとは比較にならない。あらゆる教義を破するのであるとの意。
―――
内鑒冷然
心の中では十分知っているが、外には言い出さないこと。開目抄には「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり」(0189-02)とある。
―――
破会を論ぜば未だ法華に若かざる故に
妙楽大師の法華玄義釈籤3にある文。「かくのごとき破会深広なり、中論をもって対比するなかれ、之を熟思すべし」とある「破会深広なり」の文意を、妙楽大師が釈した文で「もし破会を論ずれば、いまだ法華にしかず、ゆえに権実本迹偏を遺り近を廃す」とある。破は邪妄悪麁を破ることで、会は正直善妙に会入せしむること。
―――
菩提心論
「金剛頂瑜伽中発阿耨多羅三藐三菩提心論」の略。竜樹菩薩著、不空三蔵の訳と伝えられている。精神統一によって菩提心を起こすべきことを説き、即身成仏の唯一の方法と強調する。顕密二教の勝劣を説くため、真言宗では所依の論としている。大聖人は御書の中で不空の偽作とされている。
―――
竜猛菩薩
竜樹菩薩の別名。
―――
唯真言法中
菩提心論の「唯真言法の中のみ、即身成仏するがゆえに、この三摩地を説く、諸経の中において闕いて言わず」とある。
―――
文証現証ある法華経の即身成仏
法華経の即身成仏の文証・理証は数多くあり、現証の代表としては「竜女の女人成仏」「提婆の悪人成仏である。
―――
観智の儀軌
成就妙法蓮華経のことで、法華儀義ともいう。法華による密教の儀式の鉄則という意味であり、不空が訳して中国に広めたものであるが、偽作といわれている。その中には寿量品の如来を阿弥陀仏だといっている。
―――
陀羅尼品を神力品の次にをける
不空が観智の儀軌で、法華経の諸品の次第を述べて、陀羅尼品を神力品の次におき、嘱累品を最後にもってくるなどとしている。これは不空の邪義である。
―――
天台の大乗戒を盗んで代宗皇帝に宣旨を申し五台山の五寺に立てたり
栄僧伝によると、不空は代宗の帰依を受け、大暦3年、興善寺で天台の大乗戒を盗んで、代宗に灌頂したことをいう。
―――
天台山の五寺
中国山西省にある山で、清涼山と呼ばれていた。不空はここに華厳寺・大暦法華寺・清涼寺・金閣寺・玉花寺の五寺を建てたとある。
―――
旧訳・新訳
漢訳された経典のうち、唐の玄奘三蔵以前に訳された経典を旧訳といい、それ以後に訳されたものを新訳という。旧訳とは主に鳩摩羅什や真諦の訳であり、新訳とは主に玄奘等の訳である。経文は、どちらかといえば、旧訳の経は意味訳であり、新訳の経は直訳である。貞元釈教録によれば、訳者は187人あって、うち旧訳141人、新訳416人である。また、開元釈教録によれば、訳者176人のうち、旧訳139人、新訳37人とある。
―――
羅什三蔵
(0344~0409)。梵語クマーラジーヴァ(Kumārajīva)の音写。中国・姚秦代の訳経僧。鳩摩羅耆婆、鳩摩羅什婆とも書き、羅什三蔵とも呼ばれる。童寿と訳す。父はインドの一国の宰相鳩摩羅炎、母は亀茲国王の妹・耆婆。7歳の時、母と共に出家し、仏法を学ぶ。生来英邁で一日に千偈、三万二千言の経を誦したと言う。9歳の時カシミール国に留学し、王の従弟の槃頭達多について学び、後に諸国を遊歴して仏法を修行した。初め小乗経を、後に須利耶蘇摩について大乗教を学び、亀茲国に帰って大いに大乗仏教を弘めた。しかし、中国の前秦王・符堅は、将軍・呂光に命じて西域を攻めさせ、羅什は、亀茲国を攻略した呂光に連れられて中国へ行く途中、前秦が滅亡したため、呂光の保護を受けて涼州に留まった。その後、後秦王・姚興に迎えられて弘始3年(0401)長安に入り、その保護の下に国師の待遇を得て、訳経に従事した。羅什は多くの外国語に通暁していたので、初期の漢訳経典の誤謬を正し、また抄訳を全訳とするなど、経典の翻訳をした。その翻訳数は、出三蔵記集巻二によると三十五部二九四巻、開元釈教録巻四によると七十四部三八四巻にのぼる。代表的なものに「妙法蓮華経」八巻、「大品般若経」二十七巻、「大智度論」百巻、「中論」四巻、「百論」二巻などがある。弘始11年(0409)8月20日、長安で寂したが、予言どおりに舌のみ焼けず、訳の正しさを証明したと伝えられる。なお、寂年には異説があるが、ここでは高僧伝巻二によった。
―――
羅什三蔵一人を除いては
諌暁八幡抄には「月氏より漢土に経を渡せる訳人は一百八十七人なり其の中に 羅什三蔵一人を除きて前後の一百八十六人は純乳に水を加へ薬に毒を入たる人人なり」(0577-09)とある。
―――
已後なりとも訳者の舌の焼けるをば悞ありけり
感通伝に「天人は什師を軟じていわく、その人聡明、よく大乗を明かし後に絶ち前に光せり、これを仰ぐに及ばざる所なり、毗婆尸・仏已来・経を訳す」等とある。
―――
伝教大師責めさせ給いしには
伝教大師が法華秀句をあらわして法相宗を破折したこと。すなわち法華秀句には「法華を訳する三蔵は舌を焼かざるの験あり、釈論を糅するの賛師は、いまだその霊験を聞かず」とある。賛師とは中国・法相宗の開祖・慈恩をさす。
―――
慈恩
(0632~0682)。中国唐代の僧。中国法相宗の事実上の開祖。諱は窺基。貞観六年、長安(陝西省西安市)に生まれた。玄奘三蔵がインドから帰ったとき、17歳で弟子となり、玄奘のもとで大小乗の教えの翻訳に従事した。長安の慈恩寺で法相宗を広めたので、慈恩大師とよばれる。永淳元年に没。著書に「法華玄賛」10巻、「成唯識論述記」20巻、「成唯識論枢要」4巻等がある。慈恩が「法華玄賛」を著わして法華経をほめたが、これに対し、わが国の伝教大師は「法華経を讃すと雖も、還って法華の心を死す」、すなわち法華経を華厳経等と同格にほめたにすぎず、それはかえって法華経を軽視したことになり、謗法であるとして慈恩の邪義を破折した。
―――――――――
この章では、竜樹・天親等が法華の実義を述べていないことを明かされている。正像に述べていないのは、末法に必ず流布することを明かさんがためである。
彼の人の所詮は中論という論
インドの大乗教は竜樹、提婆の唱導した大乗空宗と、無著、世親の兄弟が唱導した大乗有宗とに分けられる。
竜樹は仏滅後700年ごろに出て、大品般若を釈した『大智度論』100巻、八不中道の般若思想を展開した『中論』4巻、観因縁門の十二門を以て空義に入ると説く『十二門論』1巻等がその代表的著述である。『中論』は空観の真意を明かしたものとされ、大乗教の理論的基礎を築き、以後の大乗思想に大きな影響を与えた。この大乗空宗はインドでは中観宗といい中国に伝わって三論宗と呼ばれた。竜樹の弟子としては迦那提婆がおり、中観宗、大乗空宗を唱導した。『百論』2巻が、その代表的著述である。
これに対し、無著、世親は、仏滅後900年のころ出て、大乗有宗として瑜伽論を北インドにひろめた。無著には『摂大乗論』3巻『瑜伽師地論』100巻等があり、世親は大乗500・小乗500の合わせて10000部の論師といわれた。これが中国へ渡って法相宗となった。
仏教をこのように分類してみれば、一に小乗教、二に大乗の唯心有境と唯心無境、三には法華経ということにもなる。
聖密房御書にはそのことを「仏御存知の御意は但法華経一宗なるべし小乗には二宗・十八宗・二十宗候へども但所詮の理は無常の一理なり、法相宗は唯心有境・大乗宗・無量の宗ありとも所詮は唯心有境とだにいはば但一宗なり・三論宗は唯心無境・無量の宗ありとも所詮・唯心無境ならば但一宗なり、此れは大乗の空有の一分か、華厳宗・真言宗あがらば但中・くだらば大乗の空有なるべし」(0899-13)と仰せである。
空観については、さまざまな説があり、爾前経にも処々にこれが説かれている。まず小乗の空観は色を細かく分析してみる空なので析空観といい、大乗の空間は存在そのものに空をみるので体空観といい、これは天台大師の論である。次に衆生の身は五蘊仮和合の体であって、実の我というものはないので人空であり、そして存在するものはすべて因縁によって生じたものであるから法空というのと人空・法空の立て分けもある。これは中観派の説である。
また空・仮・中の三観についても、別教の次第の三観と、円教の円融の三観等がある。次第の三観とは、仮より空に入るのが空観、空より仮に入るのが仮観、そして以上の空仮の二観を修するのを中観という。円融の三観とは法華経に明かすところの空仮中の三観であって、一諦即三諦、三諦即一諦であって、しかも、それが一心に具していると説いている。
不空三蔵一巻の論をわたす其の名を菩提心論となづく
次に弘法が『菩提心論』を竜樹の著述だといったのを破されている。『菩提心論』は、本文に仰せのように、不空が中国へ持ってきたのであるが、これは竜樹の著述ではなく、不空が勝手に偽作したものであり、とんでもない代物なのである。そして次に大聖人が羅什三蔵以外の訳は用いられない理由を明かされている。
諌暁八幡抄にも「然るに月氏より漢土に経を渡せる訳人は一百八十七人なり其の中に羅什三蔵一人を除きて前後の一百八十六人は純乳に水を加へ薬に毒を入たる人人なり、此の理を弁へざる一切の人師末学等設い一切経を読誦し十二分経を胸に浮べたる様なりとも生死を離る事かたし又現在に一分のしるしある様なりとも天地の知る程の祈とは成る可からず魔王・魔民等・守護を加えて法に験の有様なりとも 終には其の身も檀那も安穏なる可からず譬ば旧医の薬に毒を雑へて・さしをけるを旧医の弟子等・或は盗み取り或は自然に取りて人の病を治せんが如しいかでか安穏なるべき」(057-09)等と仰せられている。
このように羅什の訳した経典はじつに空前絶後の名訳であるが、それでは羅什以外の訳は全然使わないかというと、そうではない。現に日蓮大聖人も御抄にも他の人が訳した経を使われているし、法華経の開経たる無量義経は、曇摩伽耶舎が訳したものを使われている。ゆえに他人の訳でも誤謬があれば捨て、真正ならば用いる。とくに本文では不空三蔵は数多くの誤りを犯しているから、とても用いられない趣旨を述べられている。
総じて、真言宗の開祖たちは、中国の善無畏・金剛智・不空等にしても日本の弘法・慈覚等にしても、このようなごまかしが多い。不空が雨乞いをして、雨が降り出したのはよいが、暴風雨となってやまないので「結句は使をつけて追うてこそ風も・やみてありしか」(0316-17)と、報恩抄に仰せられているのも、その一例である。
羅什三蔵は舌焼けず
仏法は現証をもって第一とすることは、三三蔵祈雨の事の「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(1468-16)との仰せや、顕立正意抄の「設い日蓮富楼那の弁を得て目連の通を現ずとも勘うる所当らずんば誰か之を信ぜん」(0537-04)との仰せに明らかであるが、そのほかにも、日蓮大聖人は、王法は賞罰を本としているが、仏法は勝負を先とする旨や、雨乞いのような今生の祈りがかなわないなら、大事の中の大事たる後生の成仏がかなうわけがないとか、大聖人に三度の高名があらわれたことなど、諸御抄に示されている。
このように、現証および予言の的中ということは、すべて宗教において重要な問題である。仏法においては、釈尊が、近くは3ヵ月の後の涅槃を予言して的中したこと、遠くは法華経の中に予言した「後五百歳。広宣流布」が達成されようとしていることなどがある。その仏法の中においても、末法の御本仏日蓮大聖人の御予言の的中および現証の確実さが、格段にすぐれていることはいうまでもない。聖人知三世事に「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う」(0974-01)と仰せのとおりである。ゆえに、仏教典を漢訳する際の、正邪の争いにしても「羅什三蔵は舌焼けず」という決定的事実の現証がある以上は、どうすることもできないのである。参考までにいまここに、日寛上人の伝記の中から、これに関連した予言を引いてみよう。
日寛上人伝にいわく「享保十一年二月、上人は寺檀の請に応じて一世のなごりとして観心本尊抄を講じられた。講義の終わる日には上人は、たわむれのように『羅什三蔵は舌の焼けないという現証があった。ゆえに人々はこれを信じたのである。日寛がいま、富楼那の弁を得て目連の通を現ずとも、言う所が当たらなければ信ずるに足らないであろう。もしそのとおりになったら、わが説法の一文一句においても疑いを持ってはならない』といわれた。
同年夏のころから次第に身体が衰弱しはじめられたが、上人は薬を一切飲まれないで、『色香美味の大良薬を服しているから心配はない』と仰せられていた。そうして、あるだけのお金は遺言して将来の使途を定め、すべての品物は遺品分けをなされ、御遷化の二日前には駕籠に乗られて、本堂をはじめ山内をことごとく暇乞いに回られた。
八月十八日の夜には大御本尊を床の上に掛け奉り『今夜死ぬからあわてるな。息が絶えてから諸方へ通知せよ。一両人のほかは傍にいてはならない』と仰せられ、最後の一偈と歌一首をお作りになり、待者に命じて、そばを作らせた。日寛上人はそばを七箸食べ、にっこりと笑われて『ああ、面白や寂光の都は……』と。そして、うがいをされ、大御本尊に向かい一心にお題目を唱えつつ、眠るがごとく安祥として円寂あそばされた。享保十一年(1726)八月十九日朝、辰の上刻であった。
さて、このような現証の中でも「舌焼けず」とか「おそばを食べて」等は個人的な姿である。それに対して創価学会の出現とその活動という大きな運動としての現証についてみると、日蓮大聖人の御予言を実践したのは、わが創価学会のほかに、いずこにあろうか。じつに顕仏未来記の「月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く」(0508-02)との御確信、また報恩抄の「日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、」(0328-16)との御予言どおりの姿である。
0269:13~0271:01 第17章 天台大師の弘通top
| 13 疑つて云く正法一千年の論師の内心には 法華経の実義の顕密の諸経に超過してあるよしは・しろしめしながら 14 外には宣説せずして 但権大乗計りを宣べさせ給うことは・しかるべしとはをぼへねども 其の義はすこしきこえ候 15 いぬ、 像法一千年の半に天台智者大師・出現して題目の妙法蓮華経の五字を 玄義十巻一千枚にかきつくし、文句 16 十巻には始め 如是我聞より終り作礼而去にいたるまで一字一句に因縁・約教・本迹・観心の四の釈をならべて又一 17 千枚に尽し給う 已上玄義・文句の二十巻には一切経の心を江河として 法華経を大海にたとえ十方界の仏法の露一 18 滴も漏さず妙法蓮華経の大海に入れさせ給いぬ、 其の上天竺の大論の諸義・一点ももらさず漢土・南北の十師の義 0270 01 破すべきをば・これをはし取るべきをば此れを用う、 其の上・止観十巻を注して一代の観門を一念にすべ十界の依 02 正を三千につづめたり、 此の書の文体は遠くは月支・一千年の間の論師にも超え近くは尸那五百年の人師の釈にも 03 勝れたり、 故に三論宗の吉蔵大師・南北一百余人の先達と長者らをすすめて 天台大師の講経を聞けと勧むる状に 04 云く「千年の興五百の実復今日に在り 乃至南岳の叡聖天台の明哲昔は三業住持し 今は二尊に紹係す豈止甘呂を震 05 旦に灑ぐのみならん 亦当に法鼓を天竺に震うべし、 生知の妙悟魏晉以来典籍風謡実に連類無し乃至禅衆一百余の 06 僧と共に智者大師を奉請す」等云云、 修南山の道宣律師 天台大師を讃歎して云く「法華を照了すること 高輝の 07 幽谷に臨むが若く 摩訶衍を説くこと長風の太虚に遊ぶに似たり 仮令文字の師千羣万衆ありて彼の妙弁を数め尋ぬ 08 とも能く窮むる者無し、 乃至義月を指すに同じ乃至宗一極に帰す」云云、華厳宗の法蔵大師天台を讃して云く「思 09 禅師智者等の如き神異に感通して 迹登位に参わる霊山の聴法憶い今に在り」等云云、 真言宗の不空三蔵・含光法 10 師等・師弟共に真言宗をすてて 天台大師に帰伏する物語に云く 高僧伝に云く「不空三蔵と親たり天竺に遊びたる 11 に彼に僧有り問うて曰く 大唐に天台の迹教有り最も邪正を簡び偏円を暁むるに堪えたり 能く之を訳して将に此土 12 に至らしむ可きや」等云云、 此の物語は含光が妙楽大師にかたり給しなり、 妙楽大師此の物語を聞いて云く「豈 13 中国に法を失いて 之を四維に求むるに非ずや而も此方識ること有る者少し 魯人の如きのみ」等云云、身毒国の中 14 に天台三十巻のごとくなる大論あるならば 南天の僧いかでか漢土の天台の釈をねがうべき、 これあに像法の中に 15 法華経の実義顕れて南閻浮提に広宣流布するにあらずや、 答えて云く正法一千年・像法の前四百年・已上仏滅後・ 16 一千四百余年に いまだ論師の弘通し給はざる一代超過の円定・円慧を漢土に弘通し給うのみならず 其の声月氏ま 17 でもきこえぬ、 法華経の広宣流布にはにたれどもいまだ円頓の戒壇を立てられず 小乗の威儀をもつて円の慧定に 18 切りつけるはすこし便なきににたり、 例せば日輪の蝕するがごとし月輪のかけたるに似たり、 何にいわうや天台 0271 01 大師の御時は大集経の読誦多聞堅固の時にあひあたていまだ広宣流布の時にあらず。 -----― 疑っていう。正法一千年の論師が、内心では、法華経の実義が顕密のあらゆる経々よりもすぐれていることを知ったが、外に向かって宣説することなく、ただ権大乗ばかりをひろめたといことは、どうもそうとは思えないけれども、その義は少しわかってきた。像法一千年の半ばごろには、天台智者大師が出現して、法華経の題目の妙法蓮華経の五字を、玄義十巻一千枚に書きつくし、文句十巻の初めの「是の如く我聞きき」から、経の終わり「礼を作して去るにき」にいたるまで、一字一句に因縁・約教・本迹・観心の四の釈をならべてまた一千枚に書きつくされた。以上の玄義・文句の二十巻には一切経の心を江河にたとえ、法華経を大海にたとえて、十方界の仏法の露を一滴ももらさず、妙法蓮華経の大海に入れて経釈をなさった。その上にインドの大論師の諸義まで一点ももらさず、中国の南北の十師の義も破すべきをば破し、取るべきをば用いられている。其の上に摩訶止観十巻を述べて、釈尊一代の観門を一念に統活し十界の依報、正報を三千に収めつくされた。この書は遠くはインドの一千年の論師に超過し、近くは中国五百年の人師の釈よりも勝れている。 ゆえに三論宗の吉蔵大師は南北十派の一百余人の先達や長者らに、天台の経を講ずるのを聞けと勧める状に次のようにいっている「千年の間に聖人が一人出で五百年の間に賢人が一人出るというのは、実に今日のことをいったのである。南岳の叡聖、天台大師の明哲の二人は昔は身・口・意三業に法華経を受持し、今は南岳・天台の二尊と紹継して中国に出現している。ただ単に甘露の法雨を中国にそそぐのみではなく、またまさに法鼓をインドまでひびかせている。生まれながらにして仏法の深妙の理を悟り、魏・晉の時代からこのかた経典の講説の妙なること実に比類すべき者がない。よって禅僧百余人とともに天台智者大師の許に参って講説を請い奉る」と。 また修南山の道宣律師は天台大師を讃歎していわく「法華経のすべての義理に通達しつくしているさまは正午の太陽が深い谷の底までも照らしつくすがごとく、大乗の極理を自在に説くさまは、大風が大空に遊ぶのと似ている。たとえば文字の師が千万人あって天台の妙弁をあつめて検討しても、よくその至極を地究むることはできないであろう。その所詮の妙義は、妙法蓮華の一極に帰している」と。 さらに華厳宗の法蔵大師は天台を讃歎していうには「慧思禅師や智者大師のごときは、自分の心が自然に真理に感通して、その位は初住の菩薩の行動であり、霊鷲山で聞いた説法の思いが今にある」と。 また真言宗の不空三蔵や含光法師等が、師弟共に真言宗をすてて、天台大師に帰伏する物語を『高僧伝』では、次のように伝えている。「不空三蔵とともにインドの地で遊学中、一人の僧がいて質問するには、中国には天台の教えがあって最も邪正を簡び偏円を暁めるのに傑出しているという。これをよく訳してインドにも伝えるべきではないか」と。この物語は含光が妙楽大師に語ったものである。妙楽大師は、この物語を聞いて「仏教の中心であるインドでは正法がすでに無く、これを四方に求めている。しかもわが国では天台の経観が優れていることを知っているものが少ない。ちょうど、自分の国の孔子の偉大さを知らなかった魯国の人のようなものである」といっている。インドの中に天台の『玄義』『文句』『止観』三十巻のような大論があるならば、インドの僧がどうして中国の天台の釈を乞い願うことがありえようか。こうしてみると、インドではだめだったにしても、像法の法華経の実義が顕われて、南閻浮提に広宣流布した証拠ではないのか。 答えて云う。天台大師は正法一千年・像法の前四百年、以上仏滅後・一千四百年の間いまだ論師のひろめたことのない一代超過の円定・円慧を中国に弘通されたたけでなく、その名声はインドまで伝わった。それは法華経の広宣流布には似ているけれども、いまだ法華円頓の戒壇を建てられてはいない。そして小乗の威儀をもつて、円の法華の定慧に切り付けるというのは、すこしたよりないことである。たとえば、太陽が蝕し月がかけているようなものである。まして天台大師の時は、大集経の読誦多聞堅固の時であり、いまだ広宣流布の時代には当たっていないのである。 |
題目の妙法蓮華経の五字を玄義十巻一千枚にかきつく
天台大師の三大部は、法華玄義十巻・法華文句十巻・摩訶止観十巻の30巻であるが、この中の法華玄義のなかで、妙法蓮華経の五字を釈している。すなわち妙法蓮華経の題目を、名体宗用教の五重玄に釈している。十巻803枚にわたっている。1000枚とあるのは、大数をいわれたもの。
―――
文句十巻
文句とは天台大師の三大部の一つ「法華文句」のこと。法華経の初め、序品の「如是我聞」から、最後普門品の「作礼而去」までの一字一句を、因縁・約教・本迹・観心の四釈をへて、くわしく10巻870枚にわたって解釈している書。
―――
如是我聞より終り作礼而去
「妙法蓮華経」の冒頭・書き出し文と、最後の文を示している。すなわち法華経の始末である。
―――
縁(釈)
法華文句の四種についての因縁釈である。四悉檀をもって釈す。
―――
約教
法華文句の四種についての約教釈である。蔵・通・別・円の四教をもって釈す。
―――
本迹(釈)
法華文句の四種についての本迹釈である。本地と垂迹をもって釈す。
―――
観心(釈)
法華文句の四種についての観心釈である。
―――
天竺の大論の諸義
「天竺の大論」とは、通常大智度論のことをいうが、ここではインドの諸大乗論師が講じた論書のことで、多くの義が立てられている。
―――
止観十巻
「止観」とは、摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。10巻826枚からなる。
―――
吉蔵大師
(0549~0623)。中国・隋・唐代の人で三論宗再興の祖。祖父または父が安息人であったことから胡吉蔵と呼ばれ、嘉祥寺に住したので嘉祥大師と称された。姓は安氏。金陵の生まれで幼時父に伴われて真諦に会って吉蔵と命名された。12歳で法朗に師事し三論宗を学ぶ。後、嘉祥寺に住して三論宗を立て般若最第一の義を立てた。著書に「三論玄義」一巻、「中観論疏」十巻、「大乗玄論」五巻、「法華玄論」十巻、「法華遊意」一巻など数多くある。吉蔵が身を肉橋とした話は、法華文句輔正記巻三に吉蔵が天台大師に対して身を肉?として高座に登らせた、とあることによると思われる。?とは、はしごの意。
―――
千年の興五百の実
聖人は1000年にひとり出て、賢人は500年にひとり生まれることをいう。
―――
南岳の叡聖
「南岳」とは南岳大師、「叡聖」とはすぐれた聖人の意。
―――
天台の明哲
「天台」とは天台大師、「明哲」とは賢明なる哲人の意。
―――
三業住持
釈尊の説法のときは、身口意の三業にわたって法華経を住持したことをいう。
―――
二尊に紹係
「二尊」とは南岳・天台のこと。中国の」仏法は南岳・天台に紹係されている。
―――
甘呂
梵語のアムリタ (amṛta)で不死・天酒のこと。忉利天の甘味の霊液で、よく苦悩をいやし、長寿にし、死者を復活させるという。
―――
震旦
一説には、中国の秦朝の威勢が外国にまでひびいたので、その名がインドに伝わり、チーナ・スターナ(Cīnasthāna、秦の土地の意)と呼んだのに由来するとされ、この音写が「支那」であるという。また、玄奘の大唐西域記には「日は東隅に出ず、その色は丹のごとし、ゆえに震丹という」とある。震旦の旦は明け方の意で、震丹の丹は赤色のこと。インドから見れば中国は「日出ずる処」の地である。
―――
法鼓
仏の説法は、よく鼓の音が遠く清らかに響くのにたとえた。
―――
生知の妙悟
生まれながらにして悟り知っていること。
―――
典籍風謡
「典籍」とは、経典の講説。「風謡」とは諷謡のこと。
―――
修南山の道宣律師
「道宣律師」は、(0596~667)唐代の僧。姓は銭。丹徒(浙江 省)の人。智首に律を学び、四分律を研究、南山律宗を開いた。著「四分律行事鈔」「大唐内典録」など。修南山に住していたのでこう呼ばれている。
―――
高輝
正午の太陽。
―――
摩訶衍
摩訶衍那の略、大乗と訳し大乗教を意味する。
―――
長風の太虚
「長風」は、勢いのよい風、「太虚」は大空のこと。
―――
月を指すに同じ
月をさすように、その説がはっきりしていること。
―――
一極に帰す
あらゆる法門が法華の一極に帰入していること。
―――
法蔵大師
(0643~0712)。智儼の弟子で、華厳宗の第三祖。華厳和尚、賢首大師、香象大師の名がある。智儼について華厳経を学び、実叉難陀の華厳経新訳にも参加した。則天武后の勅で入内したとき、側にあった金獅子の像を喩として華厳経を説き、武后の創建した太原寺に住み、盛んに弘教した。さらに法華経による天台大師に対抗して、華厳経を拠りどころとする釈迦一代仏教の教判を五教十宗判として立てた。著書には「華厳経探玄記」20巻、「華厳五教章」3巻、「妄尽還源観」1巻、「華厳経伝記」5巻など多数がある。
―――
思禅師智者
「思」慧思・南岳大師、「智」は智者大師・天台大師のこと。
―――
神異に感通して
みずから心が真理に通達すること。
―――
迹登位に参わる
「登位」とは真理の一分でも証する位に登ること。
―――
霊山の聴法
インドの霊鷲山で聞いた法華経の説法。章安大師の「天台大師別伝」には、天台が光州の大蘇山に南岳をたずねたときに「昔日霊山に同じく法華経を聞き、宿縁の追うところ今また来たる」とある。
―――
含光法師
唐の大興善寺の僧。不空の弟子で、真言宗をひろめた。
―――
高僧伝
栄の太宗の賛寧の撰。
―――
天台の迹教
天台大師を中心として、弟子門下のすべての経説典籍をいう。
―――
魯人
露人とも書く。ロシア人のことで、仏教を知らない人々をあらわす言葉として用いられている。
―――
いまだ円頓の戒壇を立てられず
天台大師は円頓の戒壇を立てていないので、まだ広宣流布の時ではなかったとの意。
―――――――――
前章までに、正法時代の竜樹・天親等が法華の実義を述べなかったことを明かされたが、本章では天台に約して像法時代にも法華の実義が弘通されなかったことを明かされている。
玄文止観の大要
天台の『玄義』『文句』『止観』の三大部の大要を、日寛上人の撰時抄愚記から摘記しよう。
玄義十巻
およそ玄義10巻は、この妙法の五字を釈している。それを名体宗用教の五重玄に約している。ここに広略がある。第一巻は仏意の略釈で、標章・引証・生起・開合・料簡・会異の七番に約し、共に名体宗用教の五重玄を解している。第二巻よりは機情広釈である。その中で第二巻より第八巻の半ばにいたるまでは名玄義を釈し、第八巻の半ばより第九巻の始めにいたるまでは体玄義を釈し、第九巻の中比に宗玄義を釈し、第九巻の終わりに用玄義を釈している。そして第十巻は教玄義を釈している。これを五重の各説と名づける。
第二巻より第八巻の半ばにいたるまで名玄義を釈する中で、第二巻の始めにはまず通教を判じ、次に妙法の前後を定め、次に心・仏・衆生の三法に約して法の一字を釈している。次に妙の一字を釈する中でまず待絶の二妙を明かし、次に十妙に約してこれを釈する中で第二巻より第六巻の終わりにいたるまでは迹門の十妙を明かしている。
迹門の十妙とは境妙・智妙・行妙・位妙・三法妙・感応妙・神通妙・説法妙・眷属妙・利益妙である。第一の境妙にはしばらく六種の境妙がある。いわゆる十如境・因縁境・四諦境・二諦境・三諦境・一諦境である。その中において、第二巻には、十如・因縁の二境を明かし、第三巻の始めより半ばにいたるまでは四諦・二諦・三諦・一諦等を明かしている。第三巻の中ばより巻のおわるまでは第二の智妙を明かし、第四巻の初めより半ばにいたるまでは第三の行妙を明かし、第四巻の半ばより第五巻の半ばにいたるまでは第四の位妙を明かし、第五巻の末に第五の三妙法を明かし、第六巻には感応等の五妙を明かしている。この十妙の一々に正釈・判麁・開麁・観心の四重の釈がある。
第七巻にいたってまず六重の本迹を明かしている。事理・理教・教行・体用・実権・已今である。前の五重は所詮の法であり、第六の已今は能詮の教である。已迹とは初め華厳より終わり安楽行品にいたるまでを名づけて已迹とする。今本とは涌出已後の十四品である。
次に正しく本門の十妙を明かしている。本因・本果・本国土・本感応・本神通・本説法・本眷属・本利益・本寿命・本涅槃である。この十妙の一々にそれぞれ三義をもって迹を払っている。次に麁妙・権実の二科を立て事に約して判開し、また一々に理に約して融通している。そして第七巻の終わりに蓮華の二字を釈し、第八巻の初めに経の一字を釈している。
その後に妙楽大師は釈籖十巻を造って玄義を更に釈している。
文句十巻
文句十巻においては二十八品を釈している。第一巻においてはまず一経三段・二経六段の分文を明かし、正しく一経三段をもって総分となし、二経六段をもって所含として迹本二門の文々句々を釈している。次に総じて因縁・約教・本迹・観心の四釈の大旨を示そう。
次に正しく経文を釈すと第一巻より第三巻の半ばにいたるまでは序の一品を釈している。第三巻の半ばより第四巻の終わりにいたるまでは方便品を釈している。その中でまず題号を釈するのに、法用・能通・秘妙の三種の方便を明かし、次に、一切皆権・一切皆実・一切亦権亦実・一切非権非実の四句の権実を明かしている。そしてその第三の亦権亦実の句について、さらに十双の権実を開している。いわゆる事理・理教・教行・縛脱・因果・体用・漸頓・開合・通別・悉檀である。この十双を釈するのに、八番の解釈がある。いわく列名生起・解釈・引証・結権実・分別・照諦・約諸経・約本迹である。所詮は三種の中の秘妙方便の四句の中では亦権の一半であり、十双中の意は即実の権・即ち今の方便品の題号である。次に文に入って釈する中で第三巻は略開三顕一の文を釈し、第四巻は広開三顕一の文を釈している。その中においてまず十門の料簡を明かしている。十門の料簡とは一には有通・有別、二には有声聞・無声聞・三には惑有厚薄、四には転根・不転根、五には有悟・不悟、六には領解・無領解、七には得記・不得記、八には悟有浅深、九には益有権実、十には待時・不待時である。次にこの巻が終わるまで正しく広開三顕一の文を釈している。
第五巻は譬喩品、第六巻は信解品、第七巻は薬草喩品・授記品・化城喩品・五百品の五品を釈している。第八巻には法師・宝塔・提婆・勧持・安楽の五品を釈している。そして第九巻には涌出・寿量・分別の三品を釈し、第十巻には随喜已下の十一品を釈している。この品々の一々の章々、段々の一字一句にみな因縁等の四釈を用いている。縦い文は略すといえどもその義は宛然としている。
因縁とは四悉檀であり、教約とは四教・五時であり、本迹とは迹門の中には体用本迹を借り、本門の中には即ち久近本迹である。そして観心とはただこれ託事・附法の二観であり、いまだ約行の観は宣べていない。
その後、妙楽大師は疏記十七巻を述べて本疏の開略を補い、文句の意義を釈している。
止観十巻
止観には十大章がある。一には大意・二には釈名・三には体相・四には摂法・五には偏円・六には方便・七には正観・八には果報・九には起教・十には旨帰である。第一・第二の両観はまず大意を釈し、第三巻は釈名・体相・摂法・偏円の四章を釈し、第四巻には方便の一章を釈し、第五巻より第十巻の終わりにいたるまでは正観を明かし、後の三大章は略してこれを宣べていない。第一の大意はまた五科に分けてこれを五略と名づける。一に大発心・二に大修行・三に大感果・四に列大網・五に帰大処である。そして第一巻には大発心を明かしている。
第二巻の初めより五十三葉にいたるまでは修大行を明かしている。すなわち常行常座・半行半座・非行非座の四種三昧である。第三巻は前に述べた通りである。
第四巻には方便の章を釈しているが、これに二十五法がある。いわゆる五縁・五欲・五蓋・五事・五法である。巻の初めには具五縁を釈している。五縁とは持戒清浄・衣食具足・閑居静処・息諸縁務・得善知識である。次に四十八葉からは呵五欲を釈している。五欲とは色・声・香・味・触である。五十三葉からは葉五蓋を釈している。五蓋とは貧欲・瞋恚・睡眠・掉悔・狐疑である。六十八葉からは調五事を釈している。いわく調食・調眠・調身・調息・調心である。そして七十三葉からは行五法を釈している。五法とは楽欲・専念・精進・巧慧・一心である。
第五巻より第十巻にいたるまでは正観を釈しているがつぶさに十境を明かしている。十境とは一に陰入・二に煩悩・三に病患・四に業相・五に魔事・六に禅定・七に諸見・八に上慢・九に二乗・十に菩薩である。その中で第五巻より第七巻にいたるまでは陰入境を明かしている。まず第五巻の初めに陰入境を明かし、この下に簡境用観して但心法を取って所観の境とする。これを心法観体と名づける。ここに能造近要等の意義がある。
この下に広く十乗を明かしている。十乗とは一には観不思議境・二には起慈悲心・三には巧安止観・四には破法遍・五には識通塞・六には修道品・七には対冶助開・八には知次位・九には能安忍・十には無法愛である。そして十境の一々に十乗を具することを知るべきである。
第五巻の二十二葉からは観不思議境を明かしている。そしてこの下に初めて一念三千を明かしているのである。まず略して十界および五陰世間・衆生世間・国土世間を釈し、次に広く十如是を釈して正しく名目を出し、「此の三千、一念の心に在り」等といっているのである。すなわちこれこそが止観一部の肝心であり、三大部の眼目であり、一代諸経の骨髄なのである。ここにおいて修理化他の三境については諸師の意義があり蘭菊である。また如意珠・三毒・惑心眠夢の三喩をもって上来の意を顕している。
次に第五巻の四十二葉からは起慈悲心を明かし、四十五葉からは巧安止観を明かしている。そして六十二葉から第六巻の終わりにいたるまでは破法遍を明かしている。第七巻の初めには識通塞を明かし、十葉からは、修道品を明かし、三十葉からは対冶助開を明かし、六十八葉からは知次位を明かし、七十八葉からは能安忍を明かし、八十一葉からは無法愛を明かしている。
第八巻には煩悩境・病患境・業相境・魔事境を明かし、第九巻には禅境を明かし、第十巻には見境を明かして後の三境については略してこれを宣べていない。そのことについては止観第一巻の初めに「纔かに見境に至って法輪の転ずるを停め、後の分宣べず」と触れている。
その後、妙楽大師は弘決二十二巻を造って止観の文を消釈している。
問うていうには、止観は天台の己心の所行の法門を説くために述べたものか、それとも法華の意によってこれを註さんがためなのか。答う、止観の一部は法華の意によるものである。弘五に「法華の経旨を攅めて不思議の十乗・十境を成ず」とあり、また止観大意には「円頓止観は全く法華に依る。円頓止観は即ち法華三味の異名なるのみ」とあり、自余の諸文は枚挙に遑がないほどである。
問う、迹門の意によるか、本門の意によるのみか。答う、恵・檀の異議がある。恵心流では専ら弘五上の「本迹二門」「求悟此之十法」等の文を引いて止観は本迹二門に亘るといい、檀那流では盛んに弘三上の「今約法華迹理」等の文を引いて止観は迹門に限るといっている。わが祖師の深義は立正観抄送状に「若し与えて之を論ぜば止観は法華迹門の分斉に似たり、其の故は天台大師の己証とは十徳の中の第一は自解仏乗・第九は玄悟法華円意なり、霊応伝の第四に云く「法華の行を受けて二七日境界す」文、止観の一に云く「此の止観は天台智者己心中に行ずる所の法門を説く」文、弘決の五に云く「故に止観に正しく観法を明すに至つて並びに三千を以て指南と為す○故に 序の中に云く己心中に行ずる所の法門を説く」文、己心所行の法とは一念三千・一心三観なり三諦三観の名義は瓔珞・仁王の二経に有りと雖も 一心三観一念三千等の己心所行の法門をば 迹門十如実相の文を依文として釈成し給い畢んぬ。爰に知んぬ 止観一部は迹門の分斉に似たりと云う事を若し奪つて之を論ぜば爾前権大乗・即別教の分斉なり」(0503-13)と仰せである。この中の奪っての辺は、しばらく当世天台宗の止観は法華に勝るという僻見を破すためである。ゆえに実義ではない。もし異議を論ずれば迹門の意となる。ゆえに「檀那流の義尤も吉なり」と仰せられているのである。また十章抄には「前六重は修多羅に依ると申して大意より方便までの六重は先四巻に限る、これは妙解迹門の心をのべたり、今妙解に依つて以て正行を立つと申すは第七の正観・十境・十乗の観法本門の心なり、一 念三千此れよりはじまる」(1274-02)と仰せである。安心緑にはこの両文を会して「附文・元意」といっているが、この義は理を尽くしていない。日寛上人の正意は迹門は理で本門は事である。また迹門は但百界千如を明かしていまだ国土世間を明かしていない。本門はすなわち一念三千を明かしている。しかるに止観の意は正しく理の一念三千を明かしている。三千を明かすといえども、但これ理具である。ゆえに迹門の意というのである。理具であっても、やはり三千である。ゆえに本門の意というのである。両判があっても、但これ両面の違目であり、相違しているのではない。観心本尊抄に「南岳・天台等と示現し出現して迹門を以て面と為し本門を以て裏と為して百界千如・一念三千其の義を尽せり、但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字 並びに 本門の本尊未だ広く之を行ぜず」(0253-12)等と仰せのとおりである。
天台大師の帰伏等
天台大師の法華経の解釈は最高の権威があり、釈迦仏法の範囲における法華経は、天台大師において事きわまるのである。ゆえに開目抄に「日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・」(0202-08)と仰せのごとく、日蓮大聖人も、天台の立場を最大限に尊重されているのである。
さて、このような天台大師の権威の前前には、本抄に仰せのように、三論宗の吉蔵大師も、修南山の道宣律師も、華厳宗の法蔵大師も、真言宗の不空三蔵も、みな天台に帰伏している。最後に挙げられている不空は、インドから中国へ渡り、ふたたびインドへ旅行した時に、インドの老僧が天台大師をほめたたえ、天台の教えをインドに持ってきてくれといわれたという。わずか数百年前には竜樹・天親等の大論師が出て、大乗仏教が隆盛をきわめたのに、中国に天台大師の出現するころには、すでにインドにおいて仏法の真髄は失われてしまっていた。と同時に、また不空が内心では天台に帰伏していたからこそ、このような物語が伝えられたのである。
開目抄には、天台に帰伏した模様が次のように述べられている。すなわち、善無畏・不空等は胎蔵界の大日経と、金剛界の金剛頂経を左右の臣下のごとくおいて、法華経をその中央に大王のごとくおいたという。三論の嘉祥は、天台に帰伏して7年つかえ、廃講散衆して身を肉橋とした。法相の慈恩は、玄賛の第4に故亦両存等と自宗を否定にした。自分の宗が不定になったのは、心が天台に帰伏したからである。華厳の澄観は、法華を方便と書いたが、また「彼の宗之を以て実と為す此の宗の立義・理通せざることなし」等とかいているのは、法華経第一を認めたからであろう、
しかし、いくら天台大師に権威があっても、天台みずからが「後の五百歳遠く妙道に沾わん」といって、末法を恋い慕っている。そして日蓮大聖人は「彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱うる癩人とはなるべし」(0260-11)と仰せられているのである。したがって、われわれこそ、真に最高の福運をもって生まれてきたのである。
0271:02~0272:18 第18章 伝教大師の弘通top
| 02 問うて云く伝教大師は日本国の士なり 桓武の御宇に出世して欽明より二百余年が間の邪義をなんじやぶり天台 03 大師の円慧・円定をせんじ給うのみならず、 鑒真和尚の弘通せし日本小乗の三処の戒壇をなんじやぶり 叡山に円 04 頓の大乗別受戒を建立せり、 此の大事は仏滅後一千八百年が間の身毒・尸那・扶桑乃至一閻浮提第一の奇事なり、 05 内証は竜樹・天台等には或は劣るにもや或は同じくもやあるらん、 仏法の人をすべて一法となせる事は竜樹・天親 06 にもこえ南岳・天台にもすぐれて見えさせ給うなり、 総じては如来御入滅の後一千八百年が間此の二人こそ 法華 07 経の行者にてはをはすれ、 故に秀句に云く「経に云く若し須弥を接つて他方無数の仏土に擲げ置かんも 亦未だこ 08 れ難しとせず乃至若し仏の滅度悪世の中に於て 能く此の経を説かん是則ちこれ難し云云、 此経を釈して云く浅は 09 易く深は難しとは釈迦の所判なり 浅を去て深に就くは丈夫の心なり天台大師は釈迦に信順し 法華宗を助けて震旦 10 に敷揚し叡山の一家は 天台に相承し法華宗を助けて日本に弘通す」云云、 釈の心は賢劫第九の減・人寿百歳の時 11 より如来・在世五十年・滅後 一千八百余年が中間に高さ十六万八千由旬・六百六十二万里の金山を 有人五尺の小 12 身の手をもつて 方一寸・二寸等の瓦礫をにぎりて 一丁二丁までなぐるがごとく 雀鳥のとぶよりもはやく鉄囲山 13 の外へなぐる者はありとも 法華経を仏のとかせ給いしやうに説かん人は 末法にはまれなるべし、天台大師・伝教 14 大師こそ仏説に相似してとかせ給いたる人にてをはすれとなり、 天竺の論師はいまだ法華経へゆきつき給はず 漢 15 土の天台已前の人師は或はすぎ 或はたらず、慈恩・法蔵・善無畏等は東を西といゐ天を地と申せる人人なり、此等 16 は伝教大師の自讃にはあらず、 去る延暦二十一年正月十九日高雄山に桓武皇帝行幸なりて 六宗・七大寺の碩徳た 17 る善議・勝猷.奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証.光証・観敏等の十有余人、最澄法師 18 と召し合せられて宗論ありしに或は一言に舌を巻いて二言三言に及ばず 皆一同に頭をかたぶけ手をあざう、 三論 0272 01 の二蔵.三時・三転法輪.法相の三時.五性・華厳宗の四教.五教・根本枝末.六相・十玄.皆大綱をやぶらる、例せば大 02 屋の棟梁のをれたるがごとし 十大徳の慢幢も倒れにき、 爾の時天子大に驚かせ給いて 同二十九日に弘世・国道 03 の両吏を勅使として重ねて 七寺・六宗に仰せ下れしかば各各帰伏の状を載せて 云く「竊に天台の玄疏を見れば総 04 じて釈迦一代の教を括つて 悉く其の趣を顕すに通ぜざる所無く 独り諸宗に逾え殊に一道を示す 其の中の所説甚 05 深の妙理なり七箇の大寺六宗の学生昔より未だ聞かざる所 曾て未だ見ざる所なり三論法相久年の諍い 渙焉として 06 氷の如く釈け照然として 既に明かに猶雲霧を披いて三光を見るがごとし 聖徳の弘化より以降今に二百余年の間講 07 ずる所の経論其の数多く 彼此理を争えども其の疑未だ解けず、 而るに此の最妙の円宗未だ闡揚せず蓋し以て此の 08 間の羣生未だ円味に応わざるか、 伏して惟れば聖朝久しく如来の付を受け深く純円の機を結び 一妙の義理始めて 09 乃ち興顕し六宗の学者初めて至極を悟る 此の界の含霊今より後悉く妙円の船に載り 早く彼岸に済る事を得ると謂 10 いつべし、 乃至善議等牽れて休運に逢い 乃ち奇詞を閲す深期に非ざるよりは何ぞ聖世に託せんや」等云云、彼の 11 漢土の嘉祥等は百余人をあつめて 天台大師を聖人と定めたり、 今日本の七寺・二百余人は伝教大師を聖人とがう 12 したてまつる、 仏の滅後二千余年に及んで両国に聖人二人・出現せり 其の上天台大師の未弘の円頓大戒を叡山に 13 建立し給う 此れ豈像法の末に法華経広宣流布するにあらずや、 答えて云く迦葉阿難等の弘通せざる大法を馬鳴・ 14 竜樹・提婆・天親等の弘通せる事前の難に顕れたり、 又竜樹・天親等の流布し残し給える大法天台大師の弘通し給 15 う事又難にあらはれぬ、 又天台智者大師の弘通し給はざる円頓の大戒を 伝教大師の建立せさせ給う事 又顕然な 16 り、但し詮と不審なる事は仏は説き尽し給えども仏滅後に迦葉.阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親.乃至天台・伝教のい 17 まだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法経文の面に現前なり、 此の深法・今末法の始五五百歳に 一閻浮提に広宣 18 流布すべきやの事不審極り無きなり。 -----― 問うて云う。伝教大師は日本国の人である。桓武天皇の時代に出世して、欽明天皇の時代から二百余年の間の邪義を難じ破り、天台大師の円慧・円定をうえに、鑒真和尚が日本に弘通した三ヵ所の小乗戒壇を難じ破り、比叡山に円頓の大乗別受戒を建立した。この大事は、釈尊滅後一千八百年のあいだ、インド・中国・日本はもとより、世界第一の慶事であった。伝教大師の内証は、竜樹や天台大師に比べてあるいは劣っているか、あるいは同じであろう。しかし、その時代の仏法者をことごとく法華経に統一したということは、竜樹菩薩や天親菩薩にも超え、南岳大師や天台大師よりも、すぐれているようにみえる。 総じては釈迦如来御入滅の後、一千八百年のあいだに、天台大師と伝教大師の二人こそ、法華経の行者にておわすのである。ゆえに法華秀句に「法華経には、若し須弥山のような大山を接って他方無数の仏国土に投げおくことは、いまだ難しいことではない。しかし仏の滅度の後に悪世によくこの経を説くことは、困難なことである。と。この経を釈して、「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判であり、浅きを去って深きに就くは丈夫の心である。天台大師は釈迦に信順し法華宗を中国にひろめ、比叡山の一家は 天台に相承し法華宗を助けて日本に弘通するのである」とある。 この文の意は、賢劫第九の減の人寿百歳の時より、釈迦仏の在世五十年と釈尊滅後一千八百余年の中間に、高さ十六万八千由旬・六百六十二万里の金山を、五尺の小身の人が、一寸角・二寸角ほどの瓦礫を握って、一丁・二丁まで投げるように、雀の飛ぶよりも早くその大きな金山を鉄囲山の外へ投げるものはいても法華経を仏が説かれたように説く人は、末法には稀である。その中にあって天台大師と伝教大師だけが、仏説に相似した説き方をされたということである。 インドの論師たちは、いまだ法華経にはいきつかなかった。中国の天台大師以前に人は、あるいは過ぎ、あるいは足らず、慈恩・法蔵・善無畏等は、東を西といい、天を地というような人々であった。これらは伝教大師の自讃ではない。去る延暦二十一年正月十九日に高雄山に桓武天皇が行幸なされ、六宗・七大寺の高僧・博学者と仰がれていた善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等の十余人が、最澄法師と召し合せられて宗論をしたが、あるいは一言で舌を巻いて二言三言におよばず、みな一同に頭をかたむけて腕を組んでしまった。三論宗で立てる二蔵・三時・三転法輪、法相宗の三時・五性、華厳宗の四教・五教・根本枝末・六相・十玄等々、みなその大綱を破られてしまった。たとえば、大きな家の棟梁が折れくずれるように、十大徳の高慢の幢がたおれたのである。 その時に桓武天皇は大いに驚かれて、同月の二十九日に和気弘世と大伴国道の二人を勅使として、重ねて七寺、六宗に仰せ下されたので、おのおのは、次のような帰伏の状をたてまつった。「ひそかにに天台大師の『玄義』『文句』『止観』等をみれば、総じて釈迦一代の教を括つて、ことごとく釈尊出世の本懐を顕して通ぜざるところはなく、天台宗のみが諸宗派に超越して殊に一仏乗を示している。その中の所説は甚深の妙理であり、われわれ七大寺、六宗の学僧は昔よりいまだかって聞いたことも見たこともないものである。三論宗と法相宗が久年にわたって争ってきた法門の違いも、たちまち氷のごとく釈け、照然として明らかになり、雲や霧が開けて、三光を見るように明らかになった。聖徳太子が仏法を弘通されてからこのかた、いまに二百余年のあいだ、講ずる所の経論はその数が多く、あれこれと理を争っていたが、この疑いはいまだ解けてなかった。しかるに、最妙の円宗は、いまだ世間に弘められていなかった。この間の衆生はいまだ円味を味わう資格がなかったのであろうか。伏して考えてみるのに、日本の天皇は遠く如来の付嘱を受けて深く純円の機を結び、一乗妙法の義理を初めて興顕して、六宗の学者はいま初めて仏法の至極を悟ることができた。この世の衆生は、いまより後は、ことごとく妙円の船に乗り、早く成仏得道の彼岸に渡ることができるであろう。(中略)善議等は宿縁に引かれて良縁に逢うことができ、いまだかって聞いたことのない奥義を拝見することができた。深い宿縁でなければ、どうしてこのような聖代に生まれあうことができようか」と。 彼の中国の嘉祥等は、百余人を集めて天台大師を聖人と定めている。いま日本の七寺の二百余人は伝教大師を聖人と号したてまつっている。仏の滅後二千余年におよんで、両国に、聖人が二人出現したのである。そのうえ、天台大師のいまだ弘めなかった法華円頓の大戒を比叡山に建立されたのだから、像法の末に法華経が広宣流布されたのではないのか。 答えて云う。迦葉・阿難等の弘通しなかった大法を馬鳴・竜樹・提婆・天親等の弘通したということは、前の問答ではっきりした。また竜樹・天親等の流布し残した大法を、天台大師が弘められたことは、また前の問答ではっきりした。また天台智者大師の弘通されなかった円頓の大戒を、伝教大師が建立されたことも、はっきりしている。ただし、ここでもっとも不審に思うことは、釈尊は一切経を説きつくされたが、仏の滅後において迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親・乃至天台・伝教のいまだ弘通されていない最大の深密の正法が、経文の面に現前と説かれている。この最大深密の正法が、いま末法の初めの五五百歳に世界に広宣流布すべきか否かの問題が、もっとも不審きわまりないところである。 |
日本小乗の三処の戒壇
鑑真が立てた奈良・東大寺、下野・薬師寺、筑紫・観音寺の小乗の三戒壇のこと。
―――
扶桑
日本の国の別称。もとは中国の書にあり、のちに日本書紀などでも用いている。呂氏春秋には「東は扶木に至る」と述べ、淮南子には「東、日出の次、榑木の地、青土樹木の野に至る」と、日本書紀には「天下無為、扶桑の域仁に帰す」とある。
―――
秀句
法華秀句三巻のこと。伝教大師最澄の著。天台法華宗が唯識・三論・華厳・真言などの諸宗よりも勝れていることを、十の観点から論証している。
―――
須弥
須弥山のこと。古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。
―――
能く此の経を説かん是則ちこれ難し
法華秀句舌に「よくこの文を説くとは、すなわち妙法蓮華経である。感涙に堪えずして頌していわく、一たびこの文をあおいで涙千行、暮天の雲尽きて内鑒明らかに准知して部内のこの経の句多し、これ我沈妙法の名である」とある。
―――
浅を去て深に就くは丈夫の心なり
法華秀句には「六難はこれすなわち法華経をさす。九易はこれすなわち余の経典をさす。余の経典を去って法華経に就くゆえに浅を去って深に就くのである。まさに知るべし、丈夫とは、すなわち釈迦の異称である。これ仏の十号の一名である。
―――
賢劫第九の減・人寿百歳の時
「劫」とは一つの劫のこと。劫は梵語のカルパ(Kalpa)で劫波・劫跛ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を一小劫としている。 この一小劫を20あわせたものを中劫といい、中劫は成住壊空の四中劫からなる。賢劫とは現在の住劫のとで、住劫の第九番目の減劫の人寿100歳の時に釈尊は出世したと経論にはある。
―――
由旬
梵語ヨージャナ(Yojana)の音写。旧訳で兪旬、由延、新訳で踰繕那、踰闍那とも書き、和、和合、応、限量、一程、駅などと訳す。インドにおける距離の単位で、帝王の一日に行軍する距離とされる。その長さは古代中国での40里、30里等諸説があり、大唐西域記巻二によると、仏典の場合、およそ16里にあたるとしている。その他、9マイル、およそ14.4㌔とする説があるが確定しがたい。
―――
高雄山
京都市左京区梅ケ畑にある。現在は真言宗東寺派の別格本山高尾山神護寺となっている。これは延暦年間に和気清麻呂が河内に建てた神興寺を天長元年(0824)に移して、それまでの高尾寺と合したものである。したがって、伝教大師が法論を行った延暦21年(0802)には、まだ真言宗とは関係がなかった、真言宗の祖、空海が帰朝したのは、大同元年(0806)の8月である。
―――
善議
延暦21年(0802)正月19日に高尾山で伝教大師と対論した奈良六宗・七大寺の僧の一人。(0729~0812) 天平元年生まれ。大安寺の道慈に三論をまなび,唐にわたる。帰国後は大安寺の僧として三論宗をひろめ,法将とよばれた。弘仁3年(0812)8月23日死去。84歳。河内出身。俗姓は慧賀。
―――
勝猷
延暦21年(0802)正月19日に高尾山で伝教大師と対論した奈良六宗・七大寺の僧の一人。華厳宗の僧。
―――
奉基
延暦21年(0802)正月19日に高尾山で伝教大師と対論した奈良六宗・七大寺の僧の一人。法相宗・元興寺の僧。諸部に通じ、興福寺の維摩会の講師などを務めている。元慶8年(0884)最勝会講師となったとあるが、年代が違いすぎるので、今後の研究を要する。
―――
寵忍
延暦21年(0802)正月19日に高尾山で伝教大師と対論した奈良六宗・七大寺の僧の一人。伝末詳。
―――
賢玉
延暦21年(0802)正月19日に高尾山で伝教大師と対論した奈良六宗・七大寺の僧の一人。法相宗・元興寺の僧。延暦13年(0794)9月、延暦寺供養には梵音を務めた。
―――
安福
延暦21年(0802)正月19日に高尾山で伝教大師と対論した奈良六宗・七大寺の僧の一人。伝末詳。
―――
勤操
延暦21年(0802)正月19日に高尾山で伝教大師と対論した奈良六宗・七大寺の僧の一人。(0758~0827)奈良・平安朝時代の三論宗大安寺流の僧。天平宝字2年(0758)大和高市郡(奈良県高市郡)に生まれ、12歳で出家、宝亀元年(0761)14歳にして勅度1000僧の1人に選ばれ、16歳で高野山に登り、下山してのち東大寺の善議に従って三論を究めた。弘仁年中、大極殿で最勝王経を講じ、紫宸殿の論議には座首にあげられるなど英才の名が高かった。なお勤操の弟子に空海がいた。
―――
修円
延暦21年(0802)正月19日に高尾山で伝教大師と対論した奈良六宗・七大寺の僧の一人。(0771~0834)法相宗の僧。興福寺の賢璟にまなび,師とともに室生寺を創建。興福寺別当となり,寺内に伝法院をひらく。最澄から灌頂をうけ、空海とも親交をむすんだ。承和元年(0834)俗姓は小谷。通称は檉生禅師。著作に「因明纂要記鈔」「法相灯明記」など。
―――
慈誥
延暦21年(0802)正月19日に高尾山で伝教大師と対論した奈良六宗・七大寺の僧の一人。伝末詳。
―――
玄耀
延暦21年(0802)正月19日に高尾山で伝教大師と対論した奈良六宗・七大寺の僧の一人。伝末詳。
―――
歳光
延暦21年(0802)正月19日に高尾山で伝教大師と対論した奈良六宗・七大寺の僧の一人。伝末詳。
―――
道証
延暦21年(0802)正月19日に高尾山で伝教大師と対論した奈良六宗・七大寺の僧の一人。(0756~0816) 天平勝宝8年(0756)生まれ。法相宗。奈良で唯識と倶舎をまなぶ。弘仁の初め筑(福岡県)観世音寺におかれた大宰府講師となる。布施はすべて寺におさめ,まずしい人々の求めに応じたという。弘仁7年(0816)11月死去。61歳。阿波出身。俗姓は百済。
―――
光証
延暦21年(0802)正月19日に高尾山で伝教大師と対論した奈良六宗・七大寺の僧の一人。伝末詳。
―――
観敏
延暦21年(0802)正月19日に高尾山で伝教大師と対論した奈良六宗・七大寺の僧の一人。三論宗・大安寺の僧。
―――
三論の二蔵・三時・三転法輪
三論宗で立てている誤った教義。二蔵とは声聞蔵・菩薩蔵で、小乗大・大乗の意。三時とは初めに鹿苑で小乗の心境俱有を説き、次に法相大乗の境空心有を説き、次にまた法相大乗の心境俱空を説いた。前の二は不了義であるという。三転法輪とは、一に華厳・二に三乗教・三に法華経であるという。
―――
法相の三時・五性
法相宗の立てる誤った教義である。三時は初めに有教で阿含経。次に空教すなわち般若、後に中道教すなわち深密教等であるという。五性とは、声聞種性・縁覚種性・菩薩種性・不定種性・無性有情を立てる。なお五性各別というのは、菩薩と不定の一部のみが成仏の機であって、他はすべて不定仏であるといい、一乗は方便で三乗は真実であると立てる邪義である。
―――
華厳宗の四教・五教
四教は三乗別教・三乗通教・一乗分教・一乗円満をいう。五教は人天教・小乗教・大乗法相教・大乗破相教・一乗顕性教。または小乗教・大乗始教・大乗終教・頓教・円教をいう。
―――
根本枝末
江南静林寺の法敏法師の所立で、一代聖教を舎那法身説と釈迦応身説とにわけて、前者は法身説のゆえに称理の根本教であり、後者は応身説のゆえに逐機の枝末経であるという。そして根本とは華厳で、枝末とは他の経であるとする。
―――
六相
華厳経の十地品に説かれているもので、華厳の円理を説く法相。世親・至相・賢首等の論釈に明らかにされている。総相・別相・同相・異相・成相・壊相の六相が一切の法に具足しているが、これらは凡夫にはおのおの別々に見えるけれども、じつは六相融であるというものである。
―――
十玄
華厳宗ではその根本原理を十にわけている。これを十玄という。智儼の釈によるものと、法蔵の釈によるものとがある。
―――
弘世
生没年不明。和気広世のこと。奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族。和気清麻呂の長男で、真綱の兄。医学に通じて典薬頭となり、大学別当に任じられた。また、大学寮の南に弘文院を設置し、師弟の教育に尽くした。弟の真綱とともに神護寺を建立、また伝教大師の天台宗開創に寄与した。
―――
国道
大伴の国道のこと。奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族。遣唐副使大伴古麿の曾孫。
―――
天台の玄疏
天台の法華玄妙の注釈。天台の三大部等をいう。
―――
三論法相久年の諍い
三論宗は、竜樹菩薩の中論・十二門論・提婆菩薩の百論により、般若経の「一切皆空」をその教えの肝要とした。法相宗は、天親菩薩の唯識論・無著菩薩の瑜伽論・解深密経の「唯識実有」の教えを肝要とした。インドでは、竜樹系の青目・清弁・智光らと天親系難陀・護法・戒賢らとが、その義をあい争った。また中国では、興宣・嘉祥は三論宗を立て、玄奘・慈恩等は法相宗を立てて、互いに争った。さらに日本では元興寺等は三論を講じ、東大寺等は法相を講じて空有を争った。しかし伝教大師が、法華真実の法門を宣揚したので、南都六宗の碩徳14人は、空有の論諍が権教方便の説であることを知ったのである。
―――
渙焉
氷などがとけるさまをいいあらわした言葉。
―――
三光
太陽、月、明星の三つをいう。
―――
聖徳の弘化
聖徳太子が仏教をもって化導したことをさす。
―――
聖朝久しく如来の付を受け
陛下は遠く如来の付嘱を受けているということ。
―――
純円の機
純粋の円教である法華経をきく機根をいう。
―――
一妙の義理
伝教に対する六宗・七寺の帰伏状の文の中の語は、いままで日本にひろまらなかった天台の法華経の釈義を聞いて、如来一代無量の教・行・人・理が唯の妙に帰する義理が、はじめて興顕せられたという。
―――
此の界の含霊
この世の衆生。
―――
牽れて休運に逢い
宿縁にひかれて良い縁にあうことができたとの意。
―――
奇詞を閲す
いまだかって聞いたことのない天台の奥義をみたということ。
―――
深期
深い宿縁。
―――――――――
第15章から問答料簡がはじまり、第16章は竜樹・天親、第17章は天台で、本章は伝教に約して像法末弘を明かしている。しかして像法末弘を明かすのは、末法流布を明かさんがためであることは、前にも述べたとおりである。
延暦二十一年正月十九日高雄山に行幸
仏教をひろめるには国家諌暁が大事である。いままで述べてきた仏教史の上からみても、賢王の保護を得ては、仏教が興隆するとともに国家民族が繁栄し、悪王・愚王に遭えば仏教は弾圧され迫害されて、国家も民衆も不幸になり、滅亡への衰運をたどってきた。ゆえに国主もまた、正しい仏法を立てて、国を安んずる道を考えなければならないのである。
延暦21年(0802)正月19日には、桓武天皇は高尾山において、六宗の学者と伝教大師の討論を開き、六宗の学者はみな伝教大師に破折されて帰伏の状をたてまつった。さらに伝教大師は比叡山に迹門の戒壇を建て、日本の仏教を法華経に統一して、数百年にわたる平和と繁栄の基礎を築かれたことは、本文にお示しのとおりである。しかして、この公場対決の時は、伝教大師は36歳の壮年であったが、これより弘仁13年(0823)、56歳で入滅にいたるまで、伝教大師の御一生は迹門戒壇建立の戦いであり、戒壇建立が聴許になったのは、伝教大師が入滅して7日目のことであった。
経文の面に現前なり
「最大秘密の正法」とは文底秘沈の三大秘法である。文底秘沈の大法であるにもかかわらず、なにゆえ「経文の面に現前なり」と仰せられるのか。それは法華経の謂れを知って依義判文するから現前なのである。
日寛上人はそれを「依義判文抄」において次のように示されている。「撰時抄に曰く『仏の滅後、迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・天台・伝教の末だ弘通せざる最大深秘の大法経文の面に顕然なり、この深法・今末法の始め後五百歳に一閻浮提に広宣流布』等云云。
問う、夫れ正像末弘の大法、末法流布の正体、本門の三大秘法とは、一代諸経の中には但法華経、法華経の中には但本門寿量品、寿量品の中には但文底秘沈の大法なり。宗祖何ぞ最大深秘の大法経文の面に顕然なりと言うや。
答う、一代聖教は浅きより深きに至り、次第に之を判ずれば実に所問の如し、若し此の経の謂れを知って、立ち還って之を見る則は、爾前の諸経すら尚本地の本法詮せざる莫し、何に况んや今経の迹本二門をや。天台大師、玄文の第九に云く『皆本地の実因実果、種々の本法を用いて諸の衆生の為に而も仏事を作す』とは是れなり。故に知りぬ、文底の義に依って今経の文を判ずれば、三大秘法宛も日月の如し。故に経文の面に顕然なりと云うなり。
問う、此の経の謂れを知るとは、その謂れ如何。
答う、宗祖云く『此の経は相伝に非ざれば知り難し』等云々。三重秘伝云云。
問う、若し爾らば、其の顕然の文、如何。
答う、此に開山上人の口決あり、今略して之を引き、以て網要を示さん云云。三大秘法口決に云く『一には本門寿量の大戒、虚空不動戒を無作の円戒と名づけ、本門寿量の大戒壇と名づく、二には本門寿量の本尊、虚空不動定、本門無作の大定を本門無作事の一念三千と名づく、三には本門寿量の妙法蓮華経、虚空不動慧を自受用本分の無作の円慧と名づく云云。口決に云く、三大秘法の依文は神力品なり、疏に云く、於諸法之義の四偈は甚深の事を頌す云云、能持是経とは三大秘法の中の本門の妙法蓮華経なり、乃至畢竟住一乗とは三大秘法の中の本門寿量の本尊なり。一切衆生の生死の愛河を荷負する船筏、煩悩の嶮路を運載する車乗なり、乃至応受斯経とは三大秘法の中の本門の戒壇なり、裏書に云く、受持即持戒なり、持戒清潔、作法受得の義なり』等云云略抄。秘すべし秘すべし、仰いで之を信ずべし云云」
さらに依義判文抄では、法師品の「在々処々」の文等、寿量品の「是好良薬」等の文、寿量品の「一心欲見仏」等の文等、数多くの例文を挙げて三大秘法の依文とされている。
此の経の謂れを知る
前述の依義判文抄に「此の経の謂れを知る」とあるが、その「謂れを知る」についての日寛上人の教えの大要は次のとおりである。
もし文底のいわれを知れば、すなわち三箇の秘法は経文に顕然なのである。その門底のいわれを知ると知らないとでは、天地雲泥、万里の差がでてくるのである。
もし、仏法のいわれを知らないならば、仏法も、なお世法である。名利を求める僧などが、仏法をもって渡世の橋としているようなものが、これである。仏法のいわれを知るならば、世法は、すなわち仏法である。天台大師が「深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」と述べ、法華経法師功徳品第十九に「治世語言。資生業等。皆順正法」とあるのがこれである。
もし、法華経のいわれを知らないならば、法華も、なお爾前の経である。権教の人が法華経を読誦するごときが、これである。これはあたかも、香木である栴檀を焼いて炭にしてしまうようなものである。もし法華経のいわれを知るならば、爾前経は、すなわち法華経である。日蓮大聖人が「此の覚り起りて後は行者・阿含・小乗経を読むとも即ち一切の大乗経を読誦し法華経を読む人なり」(0437-08)と仰せられているのがこれである。瓦礫を変じて金となすようなものである。
もし本門のいわれを知らないならば、本門もなお迹門である。本迹一致の類いのごときは、これである。もし本門のいわれを知るならば、迹門はすなわち本門である。わが祖日蓮大聖人が方便品を読誦されたごときがこれである。
もし、文底のいわれを知らないならば、文底もなお熟脱である。諸門徒が、三大秘法を談ずるがごときが、これである。もし文底のいわれを知るならば、熟益はすなわち文底の秘法である。すなわち当文のごときがこれである。
たとえば和氏の璞のようなものである。すなわち、知らなければ玉を石としてしまい、これを知ればすなわち石を玉となすのである。このように、知ると知らないとでは、天地雲泥、万里の差があるのである。
0273:01~0273:17 第19章 末法について料簡すtop
| 0273 01 問ういかなる秘法ぞ先ず名をきき次に義をきかんとをもう 此の事もし実事ならば釈尊の二度・世に出現し給う 02 か上行菩薩の重ねて涌出せるか いそぎいそぎ慈悲をたれられよ、 彼の玄奘三蔵は六生を経て 月氏に入りて十九 03 年・法華一乗は方便教・小乗阿含経は真実教、 不空三蔵は身毒に返りて寿量品を阿弥陀仏とかかれたり、此等は東 04 を西という日を月とあやまてり 身を苦めてなにかせん心に染てようなし、 幸い我等末法に生れて一歩をあゆまず 05 して三祇をこゑ頭を虎にかわずして無見頂相をゑん、 答えて云く此の法門を申さん事は 経文に候へばやすかるべ 06 し但し此の法門には先ず三の大事あり 大海は広けれども死骸をとどめず 大地は厚けれども不孝の者をば載せず、 07 仏法には五逆をたすけ不孝をばすくう 但し誹謗一闡提の者持戒にして第一なるをばゆるされず、 此の三のわざは 08 ひとは所謂念仏宗と禅宗と真言宗となり、 一には念仏宗は日本国に充満して四衆の口あそびとす、 二に禅宗は三 09 衣一鉢の大慢の比丘の四海に充満して 一天の明導とをもへり、 三に真言宗は又彼等の二宗にはにるべくもなし叡 10 山・東寺・七寺・園城或は官主或は御室或は長吏或は検校なり かの内侍所の神鏡燼灰となりしかども 大日如来の 11 宝印を仏鏡とたのみ宝剣西海に入りしかども 五大尊をもつて国敵を切らんと思へり、 此等の堅固の信心は設い劫 12 石はひすらぐとも・かたぶくべしとはみへず 大地は反覆すとも疑心をこりがたし、 彼の天台大師の南北をせめ給 13 いし時も此の宗はいまだわたらず 此の伝教大師の六宗をしゑたげ給いし時ももれぬ、 かたがたの強敵をまぬがれ 14 てかへつて大法をかすめ失う、 其の上伝教大師の御弟子・慈覚大師・此の宗をとりたてて叡山の天台宗をかすめを 15 として一向真言宗になししかば 此の人には誰の人か敵をなすべき、 かかる僻見のたよりをえて弘法大師の邪義を 16 もとがむる人もなし、 安然和尚すこし弘法を難ぜんとせしかども 只華厳宗のところ計りとがむるににてかへて法 17 華経をば大日経に対して沈めはてぬ、ただ世間のたて入の者のごとし。 -----― 問う。それはいかなる秘法か。まずその名を聞き、次にその義を聞きたいと思う。このことがもし事実であるならば、釈尊が二度、この世に出現されたのか、上行菩薩がふたたび涌出されたのか。いそぎいそぎ慈悲を垂れて教えていただきたい。 彼の中国の玄奘三蔵は経典を求めてインドへ入るのに六度も大難にあって死に、七度目に生まれてようやくインドへ渡って十九年の大旅行のすえ、尋ねあてた結論が、法華一乗は方便であり、小乗の阿含経が真実の教であるということであった。また不空三蔵は中国からインドへ帰った結果、寿量品の仏は阿弥陀仏であるなどということを書いている。 これは東を西といい、太陽を見て月だと誤っているようなものである。これでは、身を苦しめても、心をこめられてもなんにもならない。幸いわれらは、末法に生まれて、一歩も歩まずして、三阿僧祇劫の修行をしたことになるし、身を虎に与えなくても、無見頂相とうい仏の位を得るであろう。 答えて云う。此の秘密の法門を教えてあげることは経文に明らかに説かれているから容易である。ただしこの法門には、まず三つの大事がある。大海は広いけれども死骸はとどめない。大地は厚いけれども、不孝の者はのせない。仏法では五逆の罪を犯した者でも、不孝の者でも救うことができる。ただし正法を誹謗する一闡提の者と、表面だけ持戒第一の姿をした徒は許さないのである。 この三つの災いとは、いわゆる念仏宗と禅宗と真言宗である。一に念仏宗は日本国に充満して、四衆の口あそびになっている。二に禅宗は三衣一鉢の姿をした大慢の僧侶が四海に充満して、天下の指導者だと思っている。三に真言宗は、彼の念仏や禅の二宗には似るべくもない悪宗である。比叡山・東寺・七大寺・園城寺の座主や、あるいは御室や、あるいは長吏とか、あるいは検校などが、一人残らず真言にかぶれてしまったのである。 かの宮中内侍所の神鏡は、燼灰となってしまったのも、大日如来の宝印を仏鏡とたのんで、まつっているという。また宝剣は、西海へ沈んでしまったので、真言宗の五大尊をまつって国敵を切るといっている。このような、真言に対する堅固な信心はたとえ劫石を天衣ですりへらしても、ぐらつくとは思えない。また大地が反覆しても疑いの心はおさまらないであろう。 彼の天台大師が南三北七の十派をせめ落とされた時も、真言宗はまだ中国に渡っていなかった。また、この伝教大師が六宗を破折された時にも、真言は破折からもれていた。たびたびの強折からまぬかれているので、かえって法華経の大法を失おうとしている。その上、伝教大師の御弟子の慈覚大師は、この真言の邪宗をとり立てて比叡山の天台宗をかすめ落として、一向に真言宗にしてしまったので、この人に対し誰が敵対できようか。このような僻見が盛んになって、弘法の邪義をとがめる人もなくなった。安然和尚はすこし弘法を非難しようとしたが、ただ華厳宗だけをとがめて、かえって法華経を大日経よりも劣ることにしてしまったことは、世間の仲人のようなものであった。 |
玄奘三蔵は六生を経て月氏に入りて十九年
玄奘三蔵がインドへ行く途中、六度も難にあって死に、七度目に玄奘と生まれて、ようやくインドに入ることができたといわれる。インドに行くことの容易ではないことを六生の生死にたとえたのである。19年は誤りで17年が正しい。転写ミスによるものであろう。
―――
心に染てようなし
心をこめ習ったところで要のないことである。
―――
一歩をあゆまずして三祇をこゑ
「三祇」とあ、三阿僧祇百大功のことである。阿僧祇とは無数という意味で、長時間を意味する。すなわち小乗三蔵教の菩薩は三阿祇の間、六波羅蜜を修行し、百大劫のあいだ相好を種え、五神通を得るのであるという。いま、われわれは、このような修行をしなくても、御本尊を信じて題目を唱えることによって、すみやかに即身成仏がなしうることを意味している。
―――
頭を虎にかわずして無見頂相をゑん
「頭を虎にかう」とは、金光明経に、釈尊が薩埵王子として修行していたとき、身を虎にあたえて六度の修業をまっとうして、今の釈尊と生まれることができたと説いている。「無見頂相」とは、仏の八十種好の一つで、仏果をあらわす。すなわち、われわれは、このようなことをしなくても、三大秘法の御本尊が偉大であるがゆえに、即身成仏がかなうのである。
―――
三の大事
念仏宗・禅宗・真言宗の三つの謗法を、強盛に破折することを三つの大事というのである。この三宗は当、時、日本国に充満して、すべての人の渇仰が年旧り信心日にあらたであった。しかるに、念仏無間・禅天魔・真言亡国といって破折するのは、まことに大事のなかの大事ではないか。まさしく裸で大火にはいるのは、まだやさしく、日本国で此の経、法門を正直に打ち立てることは大事なることというべきである。
―――
大海は広けれども死骸をとどめず
涅槃経師子吼品にある。八つの不思議の中の第七。「死屍を宿せず」といい、「死屍とは一闡提や正法誹謗の者をいう」とある。すなわち正法誹謗のものや不信のものは救われないことを述べているのである。
―――
大地は厚けれども不孝の者をば載せず
四十華厳の普賢行願品に地神の語として「われ大地一切所有および須弥山を負うとも、もって重しとせず、また厭う心なし、三種の人において、われ恒に厭倦して勝持することを欲せず」とあり、三種の人とは、一には謀反心をいだくもの、二には恩親をすてることを願い父母に孝行しないもの、三には因果を撥無するものとある。この不孝をのせずとは、仏法上の不孝、謗法一闡提のもの。
―――
五逆
五逆とは、五逆罪または五無間業ともいい、殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血のこと。これを犯した者は無間地獄に堕ちるとされている。
―――
三衣一鉢
「三衣」は僧が着る3種の袈裟 。僧伽梨 (大衣・九条)・鬱多羅僧(上衣・七条)・安陀会 (中衣・五条)これに鉢を加える。僧の質素な生活をあらわすさまである。
―――
官主
比叡山の座主のこと。
―――
御室
第59代宇多天皇(在位0887~0895)が譲位後、入道して京都西に仁和寺を建立し住んだ。そのことから仁和寺のことを御室御所という。その後、法皇、法親王はだいたい仁和寺の流れをくむようになり、それらをいうようになった。本文にある「御室は紫宸殿にして……」の御室は、あとの方の意で、後鳥羽天皇の第二子である道助法親王をさす。
―――
長吏
僧の職名であるが、園城寺や観修寺の寺主に用いられる。
―――
検校
高野山・熊野・日光などの一山を統領する職名。
―――
内侍所の神鏡燼灰
「内侍所」とは賢所ともいい、模造の神鏡をまつるところである。村上天皇の天徳4年(0960)に内裏が炎上し、内侍所の木にかかったのを左大臣小野宮実頼によって保護されたという。
―――
大日如来の宝印
真言密教の本尊。両部の漫荼羅において、金剛界では大日如来が智拳印を結び、胎蔵界では法界定印を結んでいる。
―――
五大尊
真言宗で、東方金剛手菩薩・南方金剛宝菩薩・西方金剛利菩薩・北方金剛夜叉菩薩・中央金剛波羅蜜多菩薩をたてる。
―――
劫石
劫の長さを決める石のこと。天人が天衣をもって磨減らす大石のこと。石が衣によって磨滅し尽くしたときを一劫といい、無限の時間を表わしている。
―――
ひすらぐ
磨かれて、だんだんと薄くなること。
―――
慈覚大師
(0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐(にっとう)して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡を受け延暦寺の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地(経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏(」7巻、「蘇悉地経疏」7巻等がある。
―――
安然和尚
(0841~0915)。天台宗の僧。伝教大師の同族といわれる。はじめ円仁の弟子となり、後に遍照について顕密二教の法を受けた。著述に専念し、天台宗を密教化した。著書は「教時問答」四巻、「悉曇蔵」八巻など多数ある。
―――――――――
これより第十二番の問答となり、正しく末法について料簡するのである。
いかなる秘法ぞ先ず名をきき
さきに「最大の深密の正法経文の面に現前」とあるが、その末法流布の深密の正法とは、一切諸経の中には但法華経、法華経の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底秘沈の大法である。ゆえに深密の中の最秘密、大法の中の最大法である。また五百塵点劫は本果の所証であり、「復倍上数」は本因の初住である。またその「復倍上数」の当初は本因所証の妙法である。ゆえに深秘の中の最深秘、大法の中の最大法なのである。
また日寛上人は「先ず名をきき」について、末法流布の秘法は、ただ本門寿量品の文底に秘沈された、秘密のなかの最秘密、大法のなかの最大法であるから、すぐにその義を聞くことができるはずがない。ゆえに「先ず名をきき次に義をきかんとをもう」といっているのである。そしてその名および義は、この「撰時抄」のなかにはあらわされていない。しかしながら、あらあら後の「報恩抄」「観心本尊抄」「法華取要抄」「本尊問答抄」等の意をとって、略して一意を示せば、秘法の「名」とは、本門の本尊と本門の戒壇と本門の題目の五字であり、秘法の「義」とは、熟脱の本尊ではなく下種の本尊であり、熟脱の戒壇ではなく下種の戒壇であり、熟脱の題目ではなく下種の題目であると示されている。
幸い我等末法に生れて一歩をあゆまずして
末法は即身成仏の三大秘法が流布される時であるから、われわれは末法に生まれてこれ以上の幸いはないといえる。「一歩をあゆまず」とは、速疾に仏果を成ずる義である。
釈尊の因位については観心本尊抄に「迹門爾前の意を以て之を論ずれば教主釈尊は始成正覚の仏なり、過去の因行を尋ね求れば或は能施太子或は儒童菩薩或は尸毘王或は薩埵王子王子或は三祇・百劫或は動喩塵劫或は無量阿僧祇劫或は初発心時或は三千塵点等の間七万・五千・六千・七千等の仏を供養し劫を積み行満じて今の教主釈尊と成り給う、是くの如き因位の諸行は皆我等が己身所具の菩薩界の功徳か、果位を以て之を論ずれば教主釈尊は始成正覚の仏四十余年の間四教の色身を示現し爾前・迹門・涅槃経等を演説して一切衆生を利益し給う、所謂華蔵の時・十方台上の盧舎那・阿含経の三十四心・断結成道の仏、方等般若の千仏等、大日・金剛頂の千二百余尊、並びに迹門宝塔品の四土色身、涅槃経の或は丈六と見る或は小身大身と現じ或は盧舎那と見る或は身虚空に同じと見る四種の身乃至八十御入滅舎利を留めて正像末を利益し給う、本門を以て之れを疑わば教主釈尊は五百塵点已前の仏なり因位も又是くの如し」(0242-16)等と仰せられている。
いま末法においては、あるいは三祇の間、七万・五千・六千・七千等の仏を供養したり、あるいは薩埵王子と生まれて飢えた虎に身をあたえなくても、三大秘法を受持して速疾に仏果にいたることができる。これはすなわち文底下種の大御本尊の力有に由るがゆえである。
「三祇をこゑ」とは、すでに速疾に成道するゆえ、三祇に超過するとの意である。「無見頂相をゑん」とは、八十種好の第一の無見頂相を挙げて、通じて仏果を顕されている。無量義経には「末だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜自然に在現し」とあるが、布施行とか持戒の行とかいう六波羅蜜の修行を、長い年月をかさねなくても、われわれはただ妙法五字の大御本尊を受持し奉ることによって、それらの六波羅蜜修行の功徳をことごとく具足することができるのである。否、六波羅蜜の修行で得る功徳など問題にならないほどの大功徳を得るのである。
真言宗は又彼等の二宗にはにるべくもなし
日蓮大聖人の御一代いおいて「立正安国論」には、もっぱら念仏を破され、権実相対が表になっているが「撰時抄」「報恩抄」では、念仏と禅を破折されたうえで、もっぱら真言の邪義を強折されている。
本文にも示されているように、当時は、伝教大師によって法華経で統一された比叡山に、真言を混入して全宗教界に真言の害毒を流入するとともに、宮中から万民にいたるまで、真言の邪法を崇重するようになっていた。以下本抄の各章にわたって、これらの邪義を破折され国家衰亡の現証を承久の乱によって御教示になる等、順次論じられていくのである。
0273:18~0274:17 第20章 浄土宗を破すtop
| 18 問うて云く此の三宗の謬ゴ如何答えて云く 浄土宗は斉の世に曇鸞法師と申す者あり本は三論宗の人竜樹菩薩の 0274 01 十住毘婆娑論を見て難行道易行道を立てたり、 道綽禅師という者あり唐の世の者本は涅槃経をかうじけるが 曇鸞 02 法師が浄土にうつる筆を見て 涅槃経をすてて浄土にうつて聖道・浄土二門を立てたり、 又道綽が弟子に善導とい 03 う者あり雑行正行を立つ、 日本国に末法に入つて二百余年・後鳥羽院の御宇に法然というものあり 一切の道俗を 04 すすめて云く仏法は時機を本とす 法華経大日経天台真言等の八宗九宗一代の大小・顕密・権実等の諸宗等は上根上 05 智の正像二千年の機のためなり、 末法に入りてはいかに功をなして行ずるとも 其の益あるべからず、其の上・弥 06 陀念仏にまじへて行ずるならば 念仏も往生すべからず此れわたくしに申すにはあらず 竜樹菩薩・曇鸞法師は難行 07 道となづけ、 道綽は未有一人得者ときらひ善導は千中無一とさだめたり、 此等は他宗なれば御不審もあるべし、 08 慧心先徳にすぎさせ給へる天台真言の智者は 末代にをはすべきか彼の往生要集には 顕密の教法は予が死生をはな 09 るべき法にはあらず、 又三論の永観が十因等をみよされば法華真言等をすてて 一向に念仏せば十即十生・百即百 10 生とすすめければ、叡山・東寺・園城・七寺等始めは諍論するやうなれども、 往生要集の序の詞道理かとみへけれ 11 ば顕真座主落ちさせ給いて法然が弟子となる、 其の上設い法然が弟子とならぬ人々も 弥陀念仏は他仏ににるべく 12 もなく口ずさみとし心よせにをもひければ日本国皆一同に法然房の弟子と見へけり、 此の五十年が間・一天四海・ 13 一人もなく法然が弟子となる法然が弟子となりぬれば 日本国一人もなく謗法の者となりぬ、 譬へば千人の子が一 14 同に一人の親を殺害せば 千人共に五逆の者なり一人阿鼻に堕ちなば余人堕ちざるべしや、 結句は法然・流罪をあ 15 だみて悪霊となつて 我並びに弟子等をとがせし国主・山寺の僧等が身に入つて或は謀反ををこし 或は悪事をなし 16 て皆関東にほろぼされぬ、 わづかにのこれる叡山・東寺等の諸僧は俗男俗女にあなづらるること 猿猴の人にわら 17 はれ俘囚が童子に蔑如せらるるがごとし、 -----― 問うていう。この三宗はどこが誤っているのか。 答えて云う。まず浄土宗は中国の斉の世に曇鸞法師という者がいた。もとは三論宗の人であったが、竜樹菩薩の十住毘婆娑論を見て難行道・易行道を立てた。次に道綽禅師という者がいた。唐の時代の人で、もとは涅槃経を講じていたが、曇鸞法師が浄土にうつる書を見て、涅槃経をすてて浄土へ移って、聖道・浄土の二門を立てた。また道綽が弟子に善導という者がいて、雑行と正行を立てた。 次に日本では末法に入って二百余年の、後鳥羽院の時代に法然という者がいた。一切の道俗にすすめていうには、「仏法は時機を本とするのである。法華経・大日経・天台・真言等の八宗、九宗や釈尊一代の大小・顕密・権実等の諸宗等は、上根上智の正像二千年の機のための教えである。末法に入っては、いかに熱心に修行を積んでも、利益はないのである。そのうえ、これらの諸経・諸行を阿弥陀念仏にまじえて行じたならば、念仏の功徳も消えて往生はできなくなる。これは自分が勝手にいっているのではなく、竜樹菩薩・曇鸞法師は念仏以外を難行道と名づけ、道綽は未有一人得者と嫌い、善導は千中無一と定めている。これらは、念仏という他宗派の開祖たちの言であるから、それだけなら疑問もおきるであろう。ところで、慧心先徳を超える天台・真言の智者はこの末法の時代にいるだろうか。その慧心の往生要集には「顕密の教法は、予が死生を離れるべき教法ではない」といっているのである。また三論宗の永観の往生十因等を見てみなさい。されば法華・真言等を捨てて、一向に念仏を唱えるならば、十即十生・百即百生の功徳がある」すすめけたので、叡山・東寺・園城寺・奈良の七寺等では、はじめは争い論じ合っていたが、結局は往生要集の序のことばが道理のように思えて、顕真座主が念仏の邪義に降伏して法然が弟子となってしまった。 そのうえ、たとえ法然の弟子とならない人々も、阿弥陀仏を他仏には比べようもないほど口ずさみ、心をよせたので、日本国はみな一同に法然房の弟子となったようにみえた。この五十年のあいだ、一天四海、一人もなく法然の弟子となったのである。法然の弟子となったということは、日本国は一人もなく謗法の者となったのである。たとえば、千人の子が一諸に一人の親を殺害すれば千人ともに五逆の者である。そのうち一人が阿鼻地獄へおちれば、ほかの人たちはおちなくてもよいというわけがあろうか。 結局は、法然は流罪されたことを怨んで、悪霊となって、法然並びに法然の弟子を罰した国主や、比叡山や、三井寺の僧等の身に入って、あるいは謀反をおこしたり、あるいはは悪事をなさしめたので、朝廷や比叡山や三井寺は、鎌倉幕府に滅ぼされてしまった。わずかに残った比叡山や東寺の僧たちが俗男俗女からあなどられたり笑いものにされるさまは、猿が人に笑われ、俘囚が子供からさげすまされたり、ばかにされたりするようなものであった。 |
曇鸞法師と申す者あり本は三論宗の人
「曇鸞法師」とは、(0476~0542)中国念仏の開祖で、菩提瑠支から観無量寿経を授けられ、もっぱら念仏の修行を積んだ。並州の大寺、石壁の玄中寺等に住し、のちに平州の途山寺で、76歳で死んだ。浄土宗では七祖のうちの第三祖としている。「讃阿弥陀仏偈」などを著した。難行道うんぬんの文は「往生論註」の最初の文で、念仏を易行道、すなわち「修行し易き道」として薦め、他の権大乗教を「修行し難き道」と悪口し、排斥している。彼は初め三論宗を学び、のちに浄土門に入ったのである。
―――
難行道易行道
出処は竜樹の「十住毘婆沙論」・曇鸞の「往生論註」による。「難行道」とは、難しい修行のことで、末法の衆生は難行道である法華経などでは往生できないと説く。「易行道」とは、末法の衆生はただ弥陀の名を唱えるだけでは往生できると説く。これは曇鸞の邪義である。
―――
道綽禅師という者あり唐の世の者本は涅槃経をかうじける
「道綽禅師」とは(0562~0645)浄土宗七祖の第四祖。中国唐代の僧で、14歳で出家し、讃禅師に師事して空理を修したが、のち涅槃宗を捨てて浄土門にきえした。貞観2年(0645)84歳で死去した。著書に「安楽集」があり、今日、浄土真宗で読まれている。聖道門を「千中無一」「未有一人得者」として、釈迦一代仏教を誹謗した。
―――
聖道・浄土二門
聖道門・浄土門の二門のこと。聖道門とはあくまでも、この娑婆世界で悟りを開き、成仏するために説いた教えであり、浄土門とは、この娑婆世界を穢土と嫌い、他方に極楽浄土があるとして、そこへ往生することを目的として修行することを教えた権の教え。道綽が爾前40年についてこの二門を立てたのを、法然は法華経まで我見で含めてけなしている。
―――
善導
(0613~0681)。中国・初唐の人で、中国浄土教善導流の大成者。山東省・臨淄の人。一説に泗州(安徽省)の人ともいわれる。幼い時に出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土往生を志した。後、貞観年中に石壁の玄中寺(山西省)に赴いて道綽のもとで観無量寿経を学び、師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。往生礼讃の第四で「千中無一」と説き、念仏以外の雑行を修する者は、千人の中で一人も成仏しないとしている。著書には「観経疏」4巻、「往生礼讃」1巻等がある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。
―――
雑行正行
善導の観行疏にある。「正行」とは、往生の経によって読誦・観察・礼拝・称名・讃歎の五種をいい、ぞのほかの諸善をすべて雑行となずけた。
―――
日本国に末法に入つて二百余年・後鳥羽院の御宇に法然というものあり
法然は崇徳天皇の長承2年(1133)生まれ、高倉天皇の承安4年(1174)に開宗し、後鳥羽天皇の建久9年(1198)に選択集をあらわした。末法に入ったのは、後冷泉天皇の永承7年(1052)であり、選択集を著したのは、末法に入って147年になり「一百余年」になる。「二百余年」は転写ミスによるものか、大数をとったものかは定かではない。
―――
慧心先徳
(0942~1017)。日本天台宗恵心流の祖。恵心僧都源信のこと。先徳とは、徳望の高い人を尊敬していう語で、とくに亡くなった高徳の僧をいう。大和(奈良県)に生まれ、幼くして比叡山に登り、良源に師事して天台の教義を学んだ。権少僧都に任ぜられたとき、横川恵心院に住んでいたので恵心僧都と呼ばれた。著書に「往生要集」三巻などがある。
―――
往生要集
比叡山中、横川の恵心院に隠遁していた慧心が、寛和元年(0985)に、浄土教の観点より、多くの仏教の経典や論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書で、1部3巻からなる邪義。
―――
永観が十因
「永観」とは(1032~1111)。平安中期の僧。奈良東大寺に住して、三論、法相、華厳を修したが、京都禅林寺で浄土教を布教。東大寺別当に任ぜられ、務めた後も念仏を布教した。著作に「往生拾因」等があり、念仏の一行を開いて十因となしている。すなわち、①広大善根故、 ②衆罪消滅故、 ③宿縁深厚故、 ④光明摂取故、 ⑤聖衆護持故、 ⑥極楽化主故、 ⑦三業相応故、 ⑧三昧発得故、 ⑨法身同体故、 ⑩随順本願故である。
―――
顕真座主
(1130~1192)比叡山延暦寺第61代座主。本朝高僧伝12によると、美作守藤原顕能の子。比叡山に登って顕教を座主の明雲に学び、秘密灌頂の法印実相を受ける。文治2年(1186)顕真は法然を大原の勝林院に招いて、専修念仏の義を問い、道綽・善導の釈義を用いて答える法然を信じ、余行を捨てて念仏に帰したという。
―――
一天四海
古代インドの世界観で、須弥山のまわりの四州を四天下といい、一天とは一閻浮提・全世界のこと。
―――
法然・流罪
承元3年(1207)2月、法然は度牒をうばわれ、土佐に流された。さらに法然死後15年嘉禄2年(1211)勅命によりはかをあばかれ、骨は犬神人によって鴨川に流された。また選択集の版木は叡山の大講堂で焼かれ、門人の隆寛や幸西も流された。
―――
関東
鎌倉の北条執権のこと。
―――――――――
これより通じて、念仏・禅・真言を破折されるが、この章は念仏の破折である。念仏の破折にあたっては初めに中国の三師を破し、次に日本の法然を破されている。
斉の世に曇鸞法師
曇鸞は中国における念仏の開祖である。曇鸞はその著往生論の注に「謹んで竜樹菩薩の十住毘婆娑を案ずるに云く、菩薩、阿毘跋致を求むるに二種の道有り。一には難行道、二には易行道なり」といっているが、日寛上人は、曇鸞に二失ありとされている。一には本論違背の失、二には執権謗実の失である。まず第一の本論違背の失とは、竜樹の十住毘婆娑論の主張と、曇鸞の主張とは違っている。すなわち毘婆娑論の巻五易行品にいわく「仏法に無量の門有り。世間の道に難有り、易有るが如し、陸道の歩行は則ち苦しく、水道の乗船は則ち楽し。菩薩道も亦是の如し。或は勤行精進する有り、或は信の方便を以て易行して、疾く阿惟越致に至る者有り」と、またいわく「菩薩、此の身に阿惟越致地に至ることを得んと阿耨多羅三藐三菩提を成就することを欲せば応当に是の十方の諸仏を念じて其の名号を称うべし」と。
この文を曇鸞は、自己流に解釈して「難行道とは五濁無仏の時に於て阿毘抜致を求むるを難しと為す。譬えば陸地の歩行は則ち苦しきが如し。易行道とは但信仏の因縁を以て浄土に生ぜんと願い、仏の願力に乗ちて、便ち彼の清浄の土に往生することを得。譬えば水路の乗船は則ち楽しきが如し」といっているのである。
その違いは、第一に竜樹の本論は、通じて仏道に難もあれば易もあるといっているのに、彼は別して無仏五濁の時に約している。二には、本論の意は、歴劫修行の教を難行道とし、勤行精進等といっているが、彼は無仏五濁の時にこの土に入ることを難行としている。三には、本論では、この土において不退に入れば易行であることを明かしているのに、彼は往生浄土を易行としている。このように本論に違背している。
次に第二の執権謗実の失とは、爾前40余年の権教に執着して、実教たる法華経を誹謗している失である。
道綽の誤り
次に道綽のいう聖道、浄土の二門は、曇鸞のいう難行、易行と同じである。ゆえにその誤りも同じになるが、日寛上人は別して二失ありとされ、一には所立不成の失、二には執権謗実の失とされている。第一の所立不成の失とは、道綽の安楽集にいわく、「一には謂く聖道、二には謂く往生浄土なり。其の聖道の一種は今時証し難し。一には大聖を去ること遥遠なるに由り、二には理深解微なるに由る。是の故に大集月蔵経に云く、我が末法時中、億々の衆生行を起し、道を修するに末だ一人の得者有らずと。当に今末法は是れ五濁悪世にして、唯浄土の一門のみ有って通入すべき道たるべし」と。
道綽のいう聖道門とは、曇鸞のいう難行道である。難行道は、歴劫長遠の権大乗の修行であって、たとえ如来の在世であっても、これは難行である。それを何で仏が滅して遥かに遠いなどというのが、これ一。二には、高山の頂の水ほど深谷まで下る力がある。最高の教えほど下根の機まで救う力がある。たとえば軽病には凡薬、重病には仙薬のごとし。ゆえに理深ならば、解微ということはありえない。また解微のような教えなら理深ということはできない。それをなぜ理深解微などということをいうのか。三には、白法隠没とは、浅理の教えが隠没し、深理の大白法が広宣流布するということである。ところが彼が引用している経の意は深理隠没という義であり、そのような義は大集経にはないし、大体この文そのものが大集経に存在しないのである。以上のように、これはとんでもない妄説なのである。
このように、彼のいう論議は成り立たないから、所立不成という。また権経の浄土の一門に執し「末一人得者」といって法華経を謗ずるから、執権謗実の失というのである。
善導の誤り
善導もまた、曇鸞・道綽と同じ誤りを犯している。善導は正行と雑行を立てる。正行には五種あり、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆であるとしてこの五種を正助に分け、称名の一行を正行となし、読誦等の四を助行としている。そして、この阿弥陀の三部経の正行以外は、すべて雑行であるとしている。そして、雑行は、千中無一であるといい、正行の功徳は、十即十生であるという。結論として彼は、法華経を雑行と誹謗しており入阿鼻地獄の罪を犯しているのである。
善導は、浄土の法門を演説すること、じつに30年にわたったという。その揚げ句ついに気が狂って、寺前の楊柳の木で自殺を図り、極楽往生を図ったがはたさず、14日間、脊椎を打った傷によって苦しみぬいて死んだという。これは確かな当時の中国の記録に残っている事実である。念仏は権教であり、夕陽のごとき、はかない教えである。ゆえに生命力を弱め、不幸で消極的な人間をつくる。善導の現証がなによりも、これを物語っているといえよう。
慧心院源信の謗法
慧心は、中古天台の本覚法門を立てた慧心流の祖である。御書では慧心に対して、与、奪の二面から述べられている。すなわち守護国家論では「源信僧都は亦叡山第十八代の座主・慈慧大師の御弟子なり 多くの書を造れることは皆法華を弘めんが為なり、而るに往生要集を造る意は爾前四十余年の諸経に於て往生・成仏の二義有り成仏の難行に対して往生易行の義を存し往生の業の中に於て菩提心観念の念仏を以て最上と為す、故に大文第十の問答料簡の中・第七の諸行勝劣門に於ては念仏を以て最勝と為し次下に爾前最勝の念仏を以て法華経の一念信解の功徳に対して勝劣を判ずる時・一念信解の功徳は念仏三昧より勝るる百千万倍なりと定め給えり、当に知るべし往生要集の意は爾前最上の念仏を以て法華最下の功徳に対して人をして法華経に入らしめんが為に造る所の書なり、故に往生要集の後に一乗要決を造つて自身の内証を述ぶる時・法華経を以て本意と為すなり」(0049-16)と、与えて論じられ、次に奪っての立場では本抄に「慈覚・安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子身の中の三虫なり」と仰せである。
慧心は、このように、身は天台宗の権少僧都にありながら、43歳で往生要集3巻を作り、念仏に身を売った。往生要集とは、極楽往生に関する経論の要文を集めたものである。しかし、60歳の時、弥陀念仏を悔い改め枕艸子を著して法華経読誦、天台の一心三観の功徳を挙げ、さらに61歳の時、法華経に復帰して一乗要決3巻を著し、五乗方便・一乗真実の義を詳論して法華経最勝を述べた。その後は、法華経を中心に、弟子の指導と著述につとめ、天台慧心流の祖となったのであるが、念仏をすすめる往生要集が、念仏無間の道へ僧侶や民衆を追いやった罪は大きく、日蓮大聖人は慧心を「師子の身の中の三虫」の一人として破折されているのである。
0274:17~0275:04 第21章 禅宗を破すtop
| 17 禅宗は又此の便を得て持斎等となつて 人の眼を迷かしたつとげなる気 18 色なれば いかにひがほうもんをいゐくるへども失ともをぼへず、 禅宗と申す宗は教外別伝と申して釈尊の一切経 0275 01 の外に迦葉尊者にひそかにささやかせ給へり、 されば禅宗をしらずして一切経を習うものは、 犬の雷をかむがご 02 とし、 猿の月の影をとるににたり云云、 此の故に日本国の中に不孝にして父母にすてられ無礼なる故に、主君に 03 かんどうせられあるいは 若なる法師等の学文にものうき遊女のものぐるわしき本性に叶る邪法なるゆへに 皆一同 04 に持斎になりて国の百姓をくらう蝗虫となれり、 しかれば天は天眼をいからかし地神は身をふるう、 -----― 禅宗はこのような仏教界の混乱や衰微に乗じて「持斎」の姿をして、人の眼を迷わし、貴げな様子であるから、いかに誤った法門を言い狂っても、人々はそれが誤りだと気がつかないのである。彼らは「禅宗と申す宗は、教外別伝といって、釈尊は一切経の外に迦葉尊者にひそかにその悟りをささやかれたのである。されば、禅宗を知らないで一切経を習う者は、犬が雷にかみつこうとしているようなものであり、猿が月の影を取ろうとしているのに似ている」といっている。 このゆえに、禅宗というのは、日本国の中で親不孝のために父母に捨てられたような、また無礼のため主君に勘当されたような、あるいは若い僧が学問を嫌っているような、遊女がもの狂わしいような本性にかなった邪法なのである。だから日本国中、みな一同に持斎となって、百姓を食いつくすイナゴになってしまった。だから、天は天眼を怒らし、地神は身を降るうのである。 |
持斎
斎とは戒法の一つで、一般には八斎戒を持つことを持斎という。八斎戒とは一に不殺、二に不盗、三に不淫、四に不妄語、五に不飲酒、六に不座高大牀、七に不作倡妓楽、八に不過中食で、この八斎戒は釈迦仏法における小乗の戒法であり、末法の修行には必要ない。しかし律宗等においてはこの戒法を持って、無智な大衆の間に広まった。ここでは戒律を持つことを強調した極楽寺良観の真言律宗をさす。
―――
教外別伝
「以心伝心」「不立文字」等の義に同じ。中国宋代の公案集である「無門関」第十則に「世尊が霊鷲山で説法していると、梵天が金波羅花を献じた。世尊はこれを受け取り弟子たちに示したところ、並み居る弟子衆は誰もその意味を理解できず、黙然とするだけであったが、ひとり摩訶迦葉だけが破顔微笑した。そのとき世尊は『吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙(みみょう)の法門あり、不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す』と言った」とある。即ち禅宗の立義で、仏法の真随は一切経の外にあり、それは釈尊から迦葉に、文字によらずに密かに伝えられ、その法を伝承しているのが禅宗であると主張する。しかし依処である「大梵天王問仏決疑経」は訳者不明の偽経であり、拈華微笑の逸話は中国でつくられたことは自明の理である。「其の学者等大慢を成して教外別伝等と称し一切経を蔑如す天魔の所為なり」(0139-09)、また「仏の遺言に云く我が経の外に正法有りといわば天魔の説なり云云」(0181-06)と仰せの如く、禅宗は釈尊の一切経を否定し、釈尊以前の〝外道〟に戻ろうとする「仏法の怨敵」(0179-04)である。
―――
迦葉尊者にひそかにささやかせ給へり
大梵天王問仏決疑経の「ただ迦葉のみ破顔微笑す」という文の意味から、「ひそかにささやかせ」となるのである。
―――
犬の雷をかむがごとし
天台大師の摩訶止観に、真実の妙法を聞かないで小乗権教に執着するものをたとえて「渇鹿の炎を遂い、狂狗の雷を噛むがごとく、何ぞ理を得ることあらん」とある。禅宗が他宗をひはんしているさまを示している。
―――
猿の月の影をとるににたり
碧巌録には、「向上一路千聖伝えず、学者形を労すること猿の影を捉るごとし」とある。これは、もののはかないことをいうのであり、禅宗が他宗を批判しているさまをいった。
―――
国の百姓をくらう蝗虫となれり
稲を食う害虫の蝗が、国の百姓に大きな損害を与えるように。邪宗である禅宗が、あわれな人々をだまし、取り入って、不幸にするというたとえ。
―――――――――
念仏につづき、次に禅宗を破折されている。
禅宗と申す宗は教外別伝と申して
禅宗でいうところの教外別伝の根拠は、大梵天王問仏決疑経に「摩訶迦葉、仏の拈華し衆に示す仏事を見、即ち今廓然として破顔微笑す。仏即ち告げて言く、我に正法眼蔵・涅槃の妙心・実相無想・微妙の法門有り、不立文字・教外別伝(中略)今まさに摩訶迦葉に付属す」とあることによっている。「文字を立てず、教外に伝う」といいながら、こんな経文を論拠にすること自体が、すでに自語相違である。
しかも問仏決疑経は、蓮盛抄に「此の文は上古の録に載せず中頃より之を載す」(0150-05)と仰せのとおり、開元、貞元の二録には、この経は出ていない。明らかに偽経と思われる。唐の末に慧炬が宝林伝を著して、初めてこの文を引いている。
鎌倉時代の武士は、よく禅宗を信じたようであるが、弥源太入道殿御消息には「本権教より起りて候しを・今は教外別伝と申して物にくるひて我と外道の法と云うか」(1229-09)と指摘されている。すなわち経典で拠りどころを挙げてみても、それは法華経に対すれば権経であるし、しかも「教外別伝」などといって、みずから仏教典を離れているから、外道というほかないのである。
釈尊は「願って心の師とはなるとも心を師とせざれ」と説き、また「仏の所説に順わざる者あらば、まさに知るべし、これ魔の眷属なり」と説いている。いかに、わが身に仏性ありしとしても、いまだ理即、名字即の仏であるからこそ、仏道修行が必要なのである。仏教の何たるかも知らず、正法をも信ぜず、「われ悟れり」というような禅宗は、釈尊の指摘どおり、まさしく天魔以外何物でもない。
国の百姓をくらう蝗虫
蝗虫とは「いなご」のことである。この虫は秋になると稲を食い荒らす。日蓮大聖人は邪宗のことをこの「いなご」に譬えられ、呵責謗法滅罪抄には「国の大蝗虫たる諸僧等・近臣等が日蓮を讒訴する 弥よ盛ならば大難倍来るべし」(1130-09)と、また、報恩抄には「あら不思議や法師ににたる大蝗虫・国に出現せり仏教の苗一時に・うせなん」(0328-05)と仰せられている。
0275:04~0276:18 第22章 真言の善無畏を破すtop
| 04 真言宗と申 05 すは上の二のわざはひには にるべくもなき大僻見なりあらあら此れを申すべし、 所謂大唐の玄宗皇帝の御宇に善 06 無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵、大日経・金剛頂経・蘇悉地経を月支よりわたす、此の三経の説相分明なり其の極 07 理を尋ぬれば会二破二の一乗・其の相を論ずれば 印と真言と計りなり、 尚華厳般若の三一相対の一乗にも及ばず 08 天台宗の爾前の別円程もなし 但蔵通二教を面とするを善無畏三蔵をもはく 此の経文をあらわにいゐ出す程ならば 09 華厳法相にもをこつかれ 天台宗にもわらはれなん大事として月支よりは持ち来りぬさてもだせば 本意にあらずと 10 やをもひけん、 天台宗の中に一行禅師という僻人一人ありこれをかたらひて 漢土の法門をかたらせけり、一行阿 11 闍梨うちぬかれて三論・法相・華厳等をあらあら・かたるのみならず 天台宗の立てられけるやうを申しければ善無 12 畏をもはく 天台宗は天竺にして聞きしにも・なをうちすぐれてかさむべきやうもなかりければ善無畏・一行をうち 13 ぬひて云く 和僧は漢土には・こざかしき者にてありけり、 天台宗は神妙の宗なり今真言宗の天台宗にかさむとこ 14 ろは印と真言と計りなりといゐければ 一行さもやとをもひければ善無畏三蔵一行にかたて云く、 天台大師の法華 15 経に疏をつくらせ給へるごとく大日経の疏を造りて 真言を弘通せんとをもう 汝かきなんやといゐければ一行が云 16 くやすう候、 但しいかやうにかき候べきぞ天台宗はにくき宗なり 諸宗は我も我もとあらそいをなせども一切に叶 17 わざる事一あり、 所謂法華経の序分に無量義経と申す経をもつて前四十余年の経経をば 其の門を打ちふさぎ候い 18 ぬ、法華経の法師品・神力品をもつて 後の経経をば又ふせがせぬ肩をならぶ 経経をば今説の文をもつてせめ候大 0276 01 日経をば三説の中にはいづくにかをき候べきと問ひければ 爾の時に善無畏三蔵大に巧んで云く 大日経に住心品と 02 いう品あり 無量義経の四十余年の経経を打ちはらうがごとし、 大日経の入漫陀羅已下の諸品は漢土にては 法華 03 経・大日経とて二本なれども天竺にては一経のごとし、 釈迦仏は舎利弗・弥勒に向つて大日経を法華経となづけて 04 印と真言とをすてて但 理計りをとけるを羅什三蔵此れをわたす天台大師此れをみる、 大日如来は法華経を大日経 05 となづけて金剛薩タに向つてとかせ給う 此れを大日経となづく我まのあたり天竺にして これを見る、されば汝が 06 かくべきやうは 大日経と法華経とをば水と乳とのやうに一味となすべし、 もししからば大日経は已今当の三説を 07 ば皆法華経のごとくうちをとすべし、 さて印と真言とは心法の一念三千に荘厳するならば 三密相応の秘法なるべ 08 し、三密相応する程ならば 天台宗は意密なり真言は甲なる将軍の甲鎧を帯して 弓箭を横たへ太刀を腰にはけるが 09 ごとし、 天台宗は意密計りなれば甲なる将軍の赤裸なるがごとくならんといゐければ、 一行阿闍梨は此のやうに 10 かきけり、 漢土三百六十箇国には此の事を知る人なかりけるかのあひだ 始めには勝劣を諍論しけれども善無畏等 11 は人がらは重し天台宗の人人は軽かりけり、 又天台大師ほどの智ある者もなかりければ 但日日に真言宗になりて 12 さてやみにけり、 年ひさしくなればいよいよ真言の誑惑の根ふかくかくれて候いけり、 日本国の伝教大師・漢土 13 にわたりて 天台宗をわたし給うついでに真言宗をならべわたす、 天台宗を日本の皇帝にさづけ真言宗を六宗の大 14 徳にならはせ給う、 但し六宗と天台宗の勝劣は入唐已前に定めさせ給う、 入唐已後には円頓の戒場を立てう立て 15 じの論の計りなかりけるかのあひだ敵多くしては 戒場の一事成りがたしとやをぼしめしけん、 又末法にせめさせ 16 んとやをぼしけん皇帝の御前にしても 論ぜさせ給はず弟子等にもはかばかしくかたらせ給はず、 但し依憑集と申 17 す一巻の秘書あり 七宗の人人の天台に落ちたるやうをかかれて候文なり、 かの文の序に真言宗の誑惑一筆みへて 18 候 -----― 真言宗というのは、上の念仏、禅の災いとは比較にならないほどの大邪見の宗派である。その大体のことを述べよう。 大唐の玄宗皇帝の時代に善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の三人が、大日経・金剛頂経・蘇悉地経をインドから中国へ渡した。此の三経の説くところは明らかである。その極理は会二破二の一乗であり、その事相を論ずれば印と真言ばかりである。華厳や般若で説く三一相対の一乗にも及ばず、天台宗で説く爾前の別教や円教ほどの深い法門もない。ただ蔵通の二教を表に説かれているだけである。 そこで善無畏三蔵が思うには、この三経をそのまま説き始めたならば、華厳宗や法相宗からもバカにされ、天台宗からもわらわれるであろう。インドから大事に持ってきた経典である。黙っていては不本意である、と思ったのであろうか。天台宗の中に一行禅師というひねくれ者が一人いた。そこでこの人物をかたらって中国の仏教界の法門を語らせた。一行阿闍梨は、すっかり善無畏にだまされて、三論・法相・華厳等大体の教えを述べたばかりでなく、天台宗で立てられた教義についても説明した。善無畏は、天台宗はインドで聞いていた以上に勝れていて、その上へ出られそうもないと思い、そこで善無畏は一行をだましていうには「貴僧は中国には珍しい賢僧である。天台宗は神妙の宗ではあるが、いま真言宗が天台宗より勝れているところは、印と真言である」といいよった。 一行はそれもそうかと思ったようなので善無畏はさらに「天台大師の法華経に疏をつくったように、大日経の疏を作って真言をひろめようと思うが、汝が書いてくれないか」というと、一行は「それは、やさしいことだ」といった。そして「ただし、どのように書いたらよいのか。天台宗は悪い宗派であり、諸宗が我も我もと争っているが、とてもかなわないことが一つある。いわゆる法華経の序分に無量義経という経をもって法華経以前の四十余年の一切の経を権経なり方便なりとしてその門を封じてしまっている。さらに法華経法師品や神力品をもって、法華経以後の経々を防いでしまっている。また法華経と同時に説かれた経典は、法師品の今説の中に入れられて、責められてしまう。そこでいったい大日経は已今当の三説のうちのどこにおいたらよいのだろうか」と問うた。 ここにおいて善無畏三蔵はおおいににたくらんでいうには「大日経に住心品という品がある。ちょうど無量義経に四十余年未顕真実とあって、他の一切の経を討ち払ってしまうような品である。また大日経の入漫陀羅品以下の諸品は、中国では法華経と大日経とて二本に分かれているが、インドでは一つの経である。釈迦仏は舎利弗や弥勒に向かっては大日経を法華経と名づけて印と真言を捨てて但理ばかりを説いた。それを羅什三蔵が中国へ渡し、天台大師はそれをみたのである。しかしまた、大日如来は法華経を大日経と名づけて金剛薩埵に向かって説いた。これを大日経と名づけ、自分は近しくインドでそれを見ている。されば汝は、大日経と法華経とを、水と乳のように一味とすればよい。そうすれば、大日経は、已今当の三説を皆法華経のように打ち払ってしまうことができるのである。そのうえ印と真言で心法の一念三千に荘厳するならば、それこそ三密が相応する秘法となる。三密が相応すれば、天台宗は単なる意密だけなので劣ることになる。真言はたとえば剛勇なる将軍が甲鎧を帯し、弓箭を横たえ、太刀を腰にはいたようなものである。それに対して天台宗は意密計りなので、剛勇なる将軍が赤裸になっているようなものである」といったので、一行阿闍梨はそのとおりに書いたのである。 中国の三百六十箇国の中で、このことを知る者は一人もなかったので、初めは大日と法華の勝劣について論争したが、善無畏らは、高貴の出身であるのに対し、天台宗の人々は、身分も軽く、また天台大師ほどの智慧がある者もいなかったので、ただ日々に真言宗になりおわってしまったのであった。そして年久しくなるにしたがって、いよいよ真言の誑惑の根が深く隠れていったのである。 日本国の伝教大師は中国へ渡って、天台宗を日本へ渡したついでに、真言宗をも持ってきた。そして天台宗を日本の天皇に授け、真言宗を奈良六宗の高僧たちに習学させた。ただし、六宗と天台宗との勝劣は、唐へ渡る前に決定されていた。唐から帰ってからは、比叡山に迹門の円頓の戒檀を建てるか、建てないかとの議論に対する裁定がおりず、そこで敵が多くては戒壇建立が成就しがたいと思われたのであろう。あるいは、真言の破折は末法にゆずられたのであろうか。天皇の前でも真言については論ぜず、弟子等にも、はっきりしたことはいわれなかった。ただし、天台大師に『依憑集』という一巻の秘書がある。七宗の人々が天台に帰伏したことを書いた書物である。この書の序に、真言宗の誑惑を破したところが一ヵ所ある。 |
会二破二の一乗
声聞・縁覚・菩薩の三乗のうち、声聞・縁覚を二乗とし、菩薩を一乗とする。そして二乗を会して一乗をあらわすのを会二の一乗といい、二乗を破して一乗をあらわすのを破二の一乗という。ゆえに、じつは三乗であって、真実の一仏乗をあらわしたものではない。法相・真言宗などが、このような低級の邪義を立てている。法華経のみが三乗を開会して、真の一仏乗をあらわしているのである。
―――
其の相を論ずれば印と真言と計りなり
真言宗では印と真言ばかりを立てている。印とは、印相または印契ともいい、真言三密のひとつである。真言とは同じく真言三密の一つで口密、真言陀羅尼のことである。これが真言宗の事相である。
―――
三一相対
三とは、声聞・縁覚・菩薩の三乗。一とは一仏乗。華厳経・般若経などでも三乗のほかに一仏乗を立てているので一仏乗という。すなわち華厳宗や三論宗で立てたものである。しかし法華経の開三顕一法門には遠く及ばない。華厳と般若の二経はともに別教を兼帯した円教にすぎず、法華経の純円一実の円教よりは格段に異なっている。
―――
一行禅師
(0683~0727)中国唐代の天台宗の僧であったが、真言宗の善無畏にたぼらかされて、真言の邪義を広めるのに力を尽くした。一行は中国の魏州の人で、唐の高宗、広通元年に生まれ、嵩山で剃髪した。普寂に禅を学び、さらに天台山国清寺で天台学を学んだ。開元4年(0726)、善無畏を助けて大日経を訳し、また善無畏にだまされて「大日経疏」20巻をあらわしたあらわした。これは天台の教えを盗み、また誹謗した邪説である。開元15年(0727)45歳没。
―――
僻人
ひねくれ者。変わり者。悪人。
―――
神妙
殊勝・不思議なこと。
―――
大日経の疏
20巻。中国・唐代の善無畏述・一行記。大毘盧遮那成仏経疏という。略して大日経疏。開元13年(0725)に成る。善無畏の大日経翻訳後に一行に同経を講義した内容を筆記したもので、大日経7巻36品中、前6巻31品についての注釈である。大日経を中国仏教の立場から理解し、密教思想を組織立てたもので、権威ある密教理論の書とされた。日本において、東密では、弘法の伝えた大日経疏を用い、台密では慈覚・智証の伝えた大日経義釈を用いている。
―――
法華経の序分に無量義経
経文を講ずるときに、総じて序分・正宗分・流通分に分けるのを三段分文という。序分とは、まさに説かんとする教義を開明する準備的部分、正宗分とはその主たる教義開説の部分、流通分とはその主たる教義の宣伝についての用意を明かしたものである。観心本尊抄には「法華経等の十巻に於ても二経有り 各序正流通を具するなり、 無量義経と序品は序分なり方便品より人記品に至るまでの八品は正宗分なり、法師品より安楽行品に至るまでの五品は流通分なり」(0248-12)とある。
―――
四十余年の経経
釈尊が30歳のときに成道してのち、法華経を説くまで、42年間のあいだ、かずかずの経文を説いてきた経。
―――
法師品・神力品(撰時抄.22)
法師品には「我が所説の経典は無量千万億にして已に説き今説き当に説かん而も其の中に於て此の法華経最も為難信なり」「我が所説の諸経あり而も此の経の中に於て法華最も第一なり」とあり、神力品には、四句の要法が説かれている。すなわち「如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、みなこの経に於て宣示顕説す」とある。撰時抄において大聖人がこれらの文を引用なされている元意は、あらゆる経の中で法華経が最高なることを示すためである。
―――
後の経経
法華経より後に解かれた経。普賢経・涅槃経のこと。
―――
肩をならぶ経経
法華経と同時に説かれたとされる無量義経。
―――
三説
已今当を三説という。法華経法師品第十に「我が説く所の経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし」とある。天台大師はこの文を法華文句巻八上に「今初めに已と言うは、大品已上は漸頓の諸説なり。今とは同一の座席にして無量義経を謂うなり。当とは涅槃を謂うなり」と釈し、「已説」は四十余年の爾前の経々、「今説」は無量義経、「当説」は涅槃経をさすとしている。
―――
住心品
大日経のはじめの一品で同経の序品。
―――
真言は甲なる将軍の甲鎧を帯して
甲は乙に対してすぐれたことを意味する。智勇がすぐれた将軍が、りっぱな鎧をきていること。「甲なる将軍」とは、法華経の理と大日経が同じくすぐれていることをあらわし「甲鎧」とは大日経の事相をあらわし、法華経には事相がなく、赤裸であるとしている。これは真言の邪義である。
―――
善無畏等は人がらは重し
善無畏は中天竺の仏種王の太子として生まれ、密教の学問をきわめ、唐の玄宗などから重くっ用いられた。これは人品の重厚ゆえであり、所持の法が勝っていたゆえではない。
―――
天台宗を日本の皇帝にさづけ
伝教大師は帰朝した延暦24年(0806)8月、ただちに天台等の経疏を皇帝にたてまつっている。
―――
真言宗を六宗の大徳にならはせ
伝教大師は帰朝した延暦24年(0806)9月1日、高尾寺で、六宗の大徳に密灌をさずけたことをいう。
―――
依憑集
伝教大師が弘仁4年(0813)に著した書。本文は13章からなる。内容は天台の義を規範とし、依憑としながら、真言・華厳・三論・法相宗などが仏法の正義からはずれていることを破している。
―――
七宗の人人の天台に落ちたる
伝教大師の依憑集には、七宗の人々、①律宗の道宣②三論の嘉祥③不明④法相の智周・良寛⑤華厳の法蔵・恵宛・居士通玄・澄観・元暁⑥真言の一行⑦禅宗の惟懿などが天台宗に帰伏し、天台を讃歎し、天台義を用いたとある。
―――
真言宗の誑惑一筆みへて候
伝教大師の依憑集の序に、真言宗の邪説を破折した文が少し残っている。すなわち「「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯し」とある。
―――――――――
念仏と禅に引きつづき、この章では真言宗を破折されている。この章では善無畏を破され、次章以降に弘法、覚鑁を破されているのである。
善無畏の堕地獄
善無畏三蔵は、鳥仗奈国の大王、仏種王の太子である。13歳にして位を捨てて出家し、インドの79ヵ国、9万里を歩き回って、諸経、諸論、諸宗を学び、北インドの金栗王の下で祈請こらしている時に、虚空の中に大日如来を中央とした胎蔵界の曼荼羅が顕あれたという。そこでこの正法をひろめようと決めて中国へ渡り、唐の玄宗皇帝に重く用いられて、真言の密教を授けた。その中国へ渡って真言をひろめる時、一行という天台宗の僧をかたらって、数々の謀略をたくらみ、理同事勝という謗法の根源をつくったことは、本文に詳しく述べられているとおりである。
さて善無畏は、一時、頓死した。数多くの獄卒がきて、鉄縄を七筋かけ、閻魔王宮へ連れていった。王位を捨てて仏道に入り、遠く中国まで弘教して、皇帝からも厚く信用されたような三蔵が、どうして閻魔の責めを受けねばならなかったのか。日蓮大聖人は二つの失ありとされて善無畏三蔵抄に「一つには大日経は法華経に劣るのみに非ず涅槃経・華厳経・般若経等にも及ばざる経にて候を法華経に勝れたりとする謗法の失なり、二つには大日如来は釈尊の分身なり而るを大日如来は教主釈尊に勝れたりと思ひし僻見なり」(0887-12)と仰せである。
また下山御消息には「善無畏三蔵は閻魔王のせめにあづかるのみならず又無間地獄に堕ちぬ、汝等此の事疑あらば眼前に閻魔堂の画を見よ」(0361-09)と仰せであり、当時、鎌倉の閻魔堂には、善無畏が獄卒に呵責され「今此三界」等の法華経の偈を唱えて、ようやく鉄縄が切れた図がかかげられていたものと思われる。また、大日経の疏には、善無畏みずからが堕地獄のありさまを書いているのである。
0276:18~0278:10 第23章 真言の弘法を破すtop
| 01 の勝劣を判じ給いけるに第一真言・第二華厳・第三法華とかかれて候、 此の大師は世間の人人もつてのほかに重ず 02 る人なり、但し仏法の事は申すにをそれあれども・もつてのほかにあらき事どもはんべり、 此の事をあらあら・か 03 んがへたるに漢土にわたらせ給いては 但真言の事相の印真言計り習いつたえて 其の義理をばくはしくもさはぐら 04 せ給はざりけるほどに 日本にわたりて後大に世間を見れば 天台宗もつてのほかに・かさみたりければ、我が重ず 05 る真言宗ひろめがたかりけるかのゆへに 本日本国にして習いたりし華厳宗をとりいだして 法華経にまされるよし 06 を申しけり、 それも常の華厳宗に申すやうに申すならば 人信ずまじとやをぼしめしけん・すこしいろをかえて此 07 れは大日経・竜猛菩薩の菩提心論・善無畏等の実義なりと 大妄語をひきそへたりけれども天台宗の人人いたうとが 08 め申す事なし。 -----― 弘法大師は、伝教大師と同じく延暦年中に唐に入り、青竜寺の慧果に会って真言宗を習学した。日本へ帰って後に、釈尊一代仏教の勝劣を判じて、第一真言・第二華厳・第三法華と書いた。この弘法大師は、世間の人々がもってのほかに重んじて尊敬している人である。しかし、仏法のことについては批判するのは憚りがあるが、もってのほかに見当はずれの誤りが多いのである。 これらの事情を、あらあら考えてみると、中国へ渡ってもただ真言の印と真言だけを習い伝えて、その義理は詳しく思索したり学んだりしないうちに日本へ帰ったあと、よくよく世間を見れば、その昔日本で習ったことのある華厳宗を取り出して、華厳経は法華経に勝るといい出した。それも、つねの華厳宗がいうようにいえば、人々が信じないと思ったのであろうか、少し色を変えて「これは大日経にも、竜猛菩薩の『菩提心論』にもあり、善無畏等のいっているところの実義である」と大妄語をつけ加えたけれども、天台宗の人々は、強くこれをとがめなかった。 -----― 09 問うて云く弘法大師の十住心論・秘蔵宝鑰二教論に云く 「此くの如き乗乗自乗に名を得れども後に望めば戯論 10 と作す」 又云く「無明の辺域にして明の分位に非ず」 又云く「第四熟蘇味なり」又云く「震旦の人師等諍つて醍 11 醐を盗んで各自宗に名く」等云云、 此等の釈の心如何、 答えて云く予此の釈にをどろいて一切経並びに大日の三 12 部経等をひらきみるに 華厳経と大日経とに対すれば法華経戯論・六波羅蜜経に対すれば盗人・守護経に対すれば無 13 明の辺域と申す経文は一字一句も候はず 此の事はいとはかなき事なれども 此の三四百余年に日本国のそこばくの 14 智者どもの用いさせ給へば 定めてゆへあるかとをもひぬべし、 しばらくいとやすきひが事をあげて余事のはかな 15 き事をしらすべし、 法華経を醍醐味と称することは陳隋の代なり六波羅蜜経は唐の半に般若三蔵・此れをわたす、 16 六波羅蜜経の醍醐は陳隋の世にはわたりてあらばこそ 天台大師は真言の醍醐をば盗ませ給はめ、 傍例あり日本の 17 得一が云く天台大師は深密経の三時教をやぶる 三寸の舌をもつて五尺の身をたつべしとののしりしを 伝教大師此 18 れをただして云く深密経は唐の始玄奘これをわたす 天台は陳隋の人・智者御入滅の後・数箇年あつて深密経わたれ 0278 01 り、 死して已後にわたれる経をばいかでか破り給うべきとせめさせ給いて候いしかば 得一はつまるのみならず舌 02 八にさけて死し候いぬ、これは彼にはにるべくもなき悪口なり、華厳の法蔵・三論の嘉祥・法相の玄奘・天台等・乃 03 至南北の諸師・後漢より已下の三蔵人師を皆をさえて盗人とかかれて候なり、 其の上・又法華経を醍醐と称するこ 04 とは天台等の私の言にはあらず、 仏・涅槃経に法華経を醍醐ととかせ給い天親菩薩は法華経・涅槃経を醍醐とかか 05 れて候、竜樹菩薩は法華経を妙薬となづけさせ給う、 されば法華経等を醍醐と申す人・盗人ならば釈迦・多宝・十 06 方の諸仏・竜樹・天親等は盗人にてをはすべきか、弘法の門人等・乃至日本の東寺の真言師・如何に自眼の黒白はつ 07 たなくして弁へずとも 他の鏡をもつて自禍をしれ、 此の外法華経を戯論の法とかかるること大日経・金剛頂経等 08 にたしかなる経文をいだされよ、設い彼彼の経経に法華経を戯論ととかれたりとも訳者のアヤマる事もあるぞかしよ 09 くよく思慮のあるべかりけるか、 孔子は九思一言・周公旦は沐には三にぎり 食には三はかれけり 外書のはかな 10 き世間の浅き事を習う人すら智人はかう候ぞかし、 いかにかかるあさましき事はありけるやらん、 -----― 問うて云う。弘法大師の『十住心論』『秘蔵宝鑰』『二教論』には「各宗とも自宗に仏乗を名のっているが、後の教えに望めば、戯論にすぎない」とあり、また「釈尊は無名の辺域であって、明の分位ではない」とあり、また「法華は第四の熟蘇味の位である」といい、また「中国の人師たちは、争って醍醐味を盗み取って、おのおのの自宗に添加している」等といっているが、これらの釈はどうか。 答えていう。自分もこの釈に驚いて一切経ならびに大日の三部経を開いてみたが、華厳経と大日経に対すると法華経は戯論であるとか、天台宗は六波羅蜜経から醍醐を盗んだ法盗人であるとか、守護経に対すれば法華経は無明の辺域であるという経文は一字一句もないのである。このことは、大変に幼稚な邪義であるが、この三・四百年のあいだ、日本国では多くの智者どもが用いてきたので、定めて理由のあることだと思うであろう。そこで、大変にわかりきったごまかしを少々あげて、そのほかのことも信ずるに足らないことであることを明らかにしよう。 天台大師が法華経を醍醐味といったのは、陳・隋の時代である。ところが六波羅蜜経はその後の唐の半ばごろ般若三蔵がこれを中国へ持ってきたのである。六波羅蜜経の醍醐が陳・隋代に渡ってきていたならば、天台大師は六波羅蜜経を盗まれることができたかもしれない。 ここに同じような例がある。日本の得一は「天台大師は深密経の三時教を破折しているが、これは三寸の舌で五尺の身を断つようなものである」といって天台を非難したが、伝教大師はこれに対して「深密経は唐の初めに玄奘三蔵が持ってきた経典である。ところが天台大師は、陳、隋の人であり、智者御入滅されて数年経って深密経が伝えられた。その死後に伝えられた経を、どうして生前に破折することができようか」と責められたので、得一は返答につまったのみか、舌が八つに裂けて死んでしまったのである。 弘法が天台大師のことを盗人だといっているのは、得一よりも、さらにひどい悪口である。華厳の法蔵・三論の嘉祥・法相の玄奘・天台大師のみでなく南北の諸師、さらに後漢以降の三蔵や人師を、みな、ひとからげにして盗人と書いているのである。そのうえ、また、法華経を醍醐であると定めたのは、天台大師の私の言ではない。仏が涅槃経に法華経が醍醐であると説かれ天親菩薩は法華経と涅槃経を醍醐であると書かれている。また竜樹菩薩は法華経を妙薬であると名づけられている。 されば法華経等を醍醐であるという人が盗人ならば、釈迦・多宝・十方の諸仏・竜樹・天親等は盗人であられるのか。弘法の弟子たちや日本の東寺の真言師たちは、いくら自分の眼の黒白は拙くして見分けがつかなくとも、他の鏡に引き合わせて自らの過ちを知りなさい。たとえ、それらの経々に法華経を戯論と書いてあっても、訳者の誤りということもある。よくよく考えてから、いわなければならないのである。孔子は九たび思って一言出し、周公旦は沐浴するのに、三度も髪を握り、食べる時には三度吐いて、つねに注意を怠らなかったという。外道のはかない世間の浅いことを習う人ですら、智人はこのようにしていたのである。こうしていれば、このような浅はかなことはあるはずがないのである。 |
華厳宗
華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
―――
十住心論
秘密曼陀羅十住心論の略。弘法の書で、全十巻より成る。天長7年(0830)ごろの作といわれ、大日経・菩提心論を依処として、十住心を立て顕密二教を判じた。とくに第八住心に法華経を立て、第九住心に華厳、第十住心に真言を立てて、法華経は華厳経にも劣るとなし、大日に劣る第三の戯論と立てている。
―――
秘蔵宝鑰
弘法の書で三巻から成る。十住心論を要約したもの。天長年中に、淳和天皇が諸宗の要義を聞かれたときに、さし出したものをいう。
―――
二教論
弁顕密二教論の略。弘法の著作で、顕教よりも密教が優れているとの邪義を説いたもの。弘法は横豎において教相を判釈しているが、横の判教が弁顕密二教論であり、豎の判教が十住心論、秘蔵宝鑰であるとしている。
―――
此くの如き乗乗自乗に名を得れども後に望めば戯論と作す
秘蔵宝鑰の文。「出世心中唯蘊、抜業は是れ小乗教にして、他縁以後は大乗心なり。大乗の前の二は菩薩乗、後の二は仏乗なり、かくのごとき乗乗自乗には仏名を得れども後に望むれば戯論と作す」と。ゆえに秘蔵宝鑰というところは、第十の真言宗、第九の華厳宗に望めば、第八の法華宗は戯論の法であると、法華経を誹謗している。
―――
無明の辺域にして明の分位に非ず
秘蔵宝鑰の文。「法身真如一道無為の心理を明かす乃至諸の顕教においてはこれ究竟の理智法身なり、真言門に望むれば是れ則ち初門なり……此の理を証する仏また、常寂光土毘盧遮那と名づく、大隋天台山国清寺智者禅師、此の門によって止観を修し法華三昧を得……かくのごとき一心は無明の辺域にして分位にあらず」と。すなわち、顕教諸説の法身如来の理は、真言門に対すれば、なお仏道の初門であって、このような初門すなわち因門は分位たる果門に対すれば無明の辺域にほかならないというう邪義を述べている。
―――
第四熟蘇味なり
弘法の著、「顕密二経論」に六波羅蜜経を引いて釈している。六波羅蜜経に「八万四千の妙法は摂して五分となる。一には素咀覧、二に毘奈耶、三に阿毘達磨、四に般若波羅蜜、五に陀羅尼門」等云云。とあり、弘法は、はじめの三つは小乗三蔵教である。第四は顕教の諸大乗教、華厳・方等・般若・法華涅槃とし、第五の真言上乗を醍醐としている。すなわち顕密二経論には「此の五法蔵は譬えば乳・酪・生酥・熟酥および妙なる醍醐のごとし……大乗般若はなお熟蘇のごとく、総持門は譬えば醍醐のごとし」と。これは大きな僻見というべきである。
―――
震旦の人師等諍つて醍醐を盗んで各自宗に名く
弘法の著、顕密二経論の文。「仏五味を以て五蔵に配当し、総持を醍醐と称け四蔵に譬う、震旦の人師争って醍醐を盗み各自宗に名づく」とある。弘法はこのような勝手のことをいって、あたかも天台大師が五時八教の教判を立てたのを、真言から盗み取ったようにいっているが、事実は反対で、善無畏や弘法こそ、法華経の一念三千の法門を盗んだのである。
―――
法華経戯論
弘法の秘蔵宝鑰に「後に望めば戯論と作す」と法華経を誹謗したことをさす。
―――
六波羅蜜経
中国・唐の罽賓国・般若三蔵の訳10巻、大乗理趣六波羅蜜経のこと。
―――
六波羅蜜経に対すれば盗人
六波羅蜜経を五分に説いて五に陀羅尼門とし、弘法は陀羅尼門を醍醐にたとえ、諸宗は真言の醍醐を盗み取ったといったこと。
―――
守護経
中国・唐代の般若と牟尼室利の共著。守護国界主陀羅尼経の略。密教部の経とされる。国主を守護することが、人民を守護することになるとの理を明かし、正法守護の功徳が説かれている。
―――
守護経に対すれば無明の辺域
弘法の著、秘蔵宝鑰で、第九の極無自性心の下に「守護経」を引いた文に、「秘密主多劫修行の後尚お仏果を得ずという」として、華厳すら無明の辺域だから、法華経はなお、無明の辺域であるという邪義を立てた。
―――
法華経を醍醐味と称すること
天台大師が涅槃経の正行品によって、法華経信解品に説かれる五時の次第を証明し、なお五時を五味にたとえて、最高の五時八教の教判を打ち立てたのである。このなかに法華涅槃時を醍醐味なりと決定したのである。般若三蔵が六波羅蜜を訳してもってきたのは、このずっとのちのことである。日蓮大聖人は真言見聞に「開皇十七年より唐の徳宗の貞元四年戊辰の歳に至るまで百九十二年なり何ぞ天台入滅百九十二年の後に渡れる六波羅蜜経の醍醐を盗み給う可きや 顕然の違目なり、若し爾れば謗人謗法定堕阿鼻獄というは自責なるや。」(0148-15)と述べられている。
―――
般若三蔵
罽賓国の人、7歳で発心し出家した。のちに唐に入って貞元年中に、新訳華厳40巻・六波羅蜜経10巻・守護国界陀羅尼経などを訳した。
―――
得一
(0749~0824)。平安時代初期の法相宗の僧。徳一・徳溢とも書く。出家して興福寺の修円から法相宗を学び、東大寺で弘教したといわれる。法華一乗は権教であるとして三乗真実・一乗方便の説を立て、伝教大師と法華経の権実に関する論争を行った。著書に「仏性抄」「中辺義鏡」三巻などがある。
―――
深密経
解深密経のこと。五巻。唐代の玄奘訳。内容は、己心の外にあると思われる諸現象は、ただ阿頼耶識によって、認識の対象に似たすがたを心に映じ出されたものにすぎないという唯識の義、および諸法の如実の性相を明かし、実践修行の方法・行位・証果・化他の力用を説いている。なお漢訳には三種がある。法相宗の依経である。
―――
天親菩薩は法華経・涅槃経を醍醐とかかれ
天親菩薩は、法華論に種種譬喩を釈する下にいわく「譬喩というは牛によるがゆえに、乳・酪・生酥・熟酥および醍醐あることを得るがごとし。この五味のうち醍醐第一なり、小乗は乳のごとく大乗は醍醐のごとし」と。また、智証の法華論記にいわく「論の文、大乗は醍醐のごとしというところの大乗は、すなわち是れ法華なり、文にいわく諸菩薩のために大乗経を説いて妙法華と名づくと、乃至今正にこれその時なり、決定して大乗を説く」云云と。天親の時代は大小対当のときであったから、大乗は醍醐のごとしといったが、本意は法華・涅槃を醍醐としているのである。
―――
竜樹菩薩は法華経を妙薬となづけ
竜樹菩薩の「大智度論」には「般若波羅蜜は秘密の法にあらず、しかるに法華等の諸経は阿羅漢の受決作仏を説く、大菩薩能く受持用すること、譬えば大薬師能く毒をもって薬と為すがごとし」と。妙薬とはすなわち醍醐であることを知るべきである。
―――
弘法の門人
東寺や高野山の真言師、総じて日本の真言師をさす。
―――
孔子
(前0551頃~前0479)。中国・春秋時代の思想家。儒教の祖。名は丘。字は仲尼。生まれは魯国の昌平郷陬邑。魯国に仕えたが用いられず、諸国を遍歴した。堯・舜、文王・周公旦等を尊敬し、仁を理想とする道徳を説き、主君や父母に真心をもって仕える忠孝の道を教えた。晩年は魯国に帰り、著述と弟子の育成に務め、六経を編纂したといわれる。死後、弟子が孔子の言行等を記録したのが論語である。
―――
九思一言
孔子の論語のなかに「君子に九の思いあり、視ることは明ならんことを思い、聴くことは聡ならんことを思い、色は温ならんことを思い、猊は恭ならんことを思い、言は忠ならんことを思い、事は敬ならんことを思い、忿には難を思い、得るを見ては義を思う」と。いずれにしても、ことにあたって慎重なことのたとえである。
―――
周公旦
周の文王の子。武王の弟。姓は姫、名は旦。生没年は不明である。文王の死後、武王とともに殷の紂王を討ち、武王を助けた。武王の死後は幼帝の成王を助け、東方の殷の反乱を自ら遠征して鎮めた。この東方遠征は広範囲に及び、これを機に黄河下流の平原を統治圏内におさめ、洛邑の都を建設し、周王朝の基礎を固めた。周公はその統治期間に周一族や功臣を各地方に派遣して封建制を施行し、また殷の一族を各地に分散させる等多くの改革を行なった。また、殷代の神政制度に加えて、社会の道徳を慣習化した「礼」を社会秩序の基礎とした。ここから中国の儒教思想がめばえた。周公の人格と治世は孔子等の儒者からあつく尊敬されたといわれる。
―――
沐には三にぎり食には三はかれけり
周公旦はその子伯禽をいましめて「われは文王の子、武王の弟、成王の叔父なり。われ天下において、また賤しからず、しかも、われ一たび沐うるときに三たび髪を整え、一たび飯するときにに三たび哺を吐く、起きてもって士を待つ、なお天下の賢人を失わんことを恐る。子魯に之て慎んで国をもって人に驕ることなかれ」とある。注意・礼節の大切さを教えている。
―――――――――
通じて真言を破される中で、この章では日本の弘法の邪義を破されている。本抄に「此の大師は世間の人人もってほかに重ずる人なり」と仰せられているので、鎌倉時代にも相当に崇められえいたものとみえる。今日でも、いろいろの面で世にもてはやされており「○○大師」といえば、当然に弘法をさすようにさえなっている。しかし、仏法のことについては「もってのほかにあらき事どもはんべり」なのである。
第四熟蘇味、醍醐を盗む
六波羅蜜経と涅槃経とに五味の譬があるので、その両方を引いてみよう。六波羅蜜経にいわく「所謂八万四千の諸の妙法薀なり(中略)摂して五分と為す。一には素咀纜、二には毘奈耶、三には阿毘達磨、四には般若波羅密多、五には陀羅尼門なり。此の五種の蔵をもって有情を教化す。(中略)此の五の法蔵譬えば乳・酪・生蘇・熟蘇および妙なる醍醐のごとし(中略)総持門とは譬えば醍醐のごとし、醍醐の味は乳・酪・蘇の中に微妙第一にして、よく諸の病を除き、諸の有情をして身心安楽ならしむ」と。
次に涅槃経を示せば「善男子、譬えば牛より乳を出し、乳より酪を出し、酪より生蘇を出し、生蘇より熟蘇を出し、熟蘇より醍醐を出す。醍醐は最上なり。(中略)善男子、仏もまた是の如し、仏より十二部経を出生し、十二部経より修多羅を出し、修多羅より方等経を出し、方等経より般若波羅密を出し、般若波羅密より大涅槃を出す。猶醍醐の如し、醍醐というは仏性に喩う」と。
弘法が法華経を第四に下し、大日経を第五の醍醐とし、天台大師等を盗人扱いしたことは、本文に詳しく論じられているとおりである。なお「開目抄」では「六波羅蜜経は有情の成仏あつて無性の成仏なし何に況や久遠実成をあかさず、猶涅槃経の五味にをよばず何に況や法華経の迹門・本門にたいすべしや、而るに日本の弘法大師・此の経文にまどひ給いて法華経を第四の熟蘇味に入れ給えり、第五の総持門の醍醐味すら涅槃経に及ばずいかにし給いけるやらん、而るを震旦の人師争つて醍醐を盗むと天台等を盗人とかき給へり 」(0222-10)と破折されている。
弘法の邪義
弘法の邪義については、本抄では『秘蔵法鑰』の「後に望めば戯論」同じく「無明の辺域」、『顕密二教論』の「第四熟蘇味」同じく「諍って醍醐を盗んで」等を挙げられている。詳しい仏法上の論議は別にして、もっとも簡単に弘法のごまかしを破折するならば、本抄で述べられているように、それは醍醐を盗む問題である。天台大師の時代には、六波羅蜜経がまだ中国へ渡ってきていなかったのに、天台がそれを盗んで自宗につけたという。じつにありもしない妄語を並べ立てるから、こんなとんでもない誤りをおかしてしまうのである。
「法恩抄」には同じく弘法の誤りを破折するのに、いろいろの現証や説法を挙げて、その虚妄を覆えされている。すなわち一には天長元年(0824)2月の大旱魃の時、人が祈って降った雨を、自分のものにして「弘法の雨」などと名乗っていること。二には弘仁9年(0818)の春、天下に疫病が流行した。弘法が般若心経で祈ったが、病気が治まるとともに、夜太陽が出て輝き出した。三には弘法が帰朝して真言宗を開こうとした時、朝廷に各宗を集め、智拳の印を結んで南方に向かったら、口が俄かに開いて法身仏になった。四には漢土から舟に乗る時に、三鈷を投げ上げておいたら、その願いどおりに高野山で発見された等々。
大体このようなことは、非常識きわまる妄語であって、よくもこんなことで世間の人が迷わされたものだと不思議になるくらいである。しかも、こんな大嘘のほうが、正しく仏法をひろめる聖僧よりも、はるかに尊敬されたり有名になったりしているものである。仏法はあくまでも「法門をもて邪正をただすべし」(0016-13)との御遺訓どおりに、判断していかなければならないのである。
0278:11~0279:12 第24章 聖覚房を破すtop
| 10 かかる僻見の 11 末へなれば彼の伝法院の本願とがうする 聖覚房が舎利講の式に云く「尊高なる者は 不二摩訶衍の仏なり驢牛の三 12 身は車を扶くること能はず 秘奥なる者は両部・漫陀羅の教なり 顕乗の四法は履を採るに堪へず」と云云、 顕乗 13 の四法と申すは法相.三論・華厳・法華の四人、驢牛の三身と申すは法華・華厳・般若.深密経の教主の四仏、此等の 14 仏僧は真言師に対すれば聖覚・弘法の牛飼・履物取者にもたらぬ程の事なりとかいて候、 彼の月氏の大慢婆羅門は 15 生知の博学・顕密二道 胸にうかべ内外の典籍・掌ににぎる、 されば王臣頭をかたぶけ 万人師範と仰ぐあまりの 16 慢心に世間に尊崇する者は大自在天・婆籔天・那羅延天・大覚世尊・此の四聖なり我が座の四足にせんと座の足につ 17 くりて坐して法門を申しけり、 当時の真言師が釈迦仏等の 一切の仏をかきあつめて 潅頂する時敷まんだらとす 18 るがごとし、 禅宗の法師等が云く 此の宗は仏の頂をふむ大法なりというがごとし、 而るを賢愛論師と申せし小 0279 01 僧あり彼をただすべきよし申せしかども 王臣万民これをもちゐず、 結句は大慢が弟子等・檀那等に申しつけて無 02 量の妄語をかまへて悪口打擲せしかども すこしも命もをしまずののしりしかば帝王・賢愛をにくみて つめさせん 03 とし給いしほどに かへりて大慢がせめられたりしかば、 大王天に仰ぎ地に伏してなげひての給はく朕はまのあた 04 り此の事をきひて邪見をはらしぬ 先王はいかに此の者にたぼらされて阿鼻地獄にをはすらんと 賢愛論師の御足に 05 とりつきて悲涙せさせ給いしかば、 賢愛の御計いとして大慢を驢にのせて 五竺に面をさらし給いければいよいよ 06 悪心盛になりて現身に無間地獄に堕ちぬ、 今の世の真言と禅宗等とは此れにかわれりや、 漢土の三階禅師の云く 07 教主釈尊の法華経は第一・第二階の正像の法門なり 末代のためには我がつくれる普経なり 法華経を今の世に行ぜ 08 ん者は十方の大阿鼻獄に堕つべし、 末代の根機にあたらざるゆへなりと申して、六時の礼懺・四時の坐禅・生身仏 09 のごとくなりしかば、 人多く尊みて弟子万余人ありしかどもわづかの小女の 法華経をよみしにせめられて当坐に 10 は音を失い後には大蛇になりてそこばくの檀那 弟子並びに小女処女等をのみ食いしなり、 今の善導・法然等が千 11 中無一の悪義もこれにて候なり、 此等の三大事はすでに久くなり候へばい やしむべきにはあらねども申さば信ず 12 る人もやありあん、 -----― このような弘法等の邪義邪見の末流であるから伝法院の本願と号する聖覚房が舎利供養式の講演で次のようにいっている、「尊高なる者は、不二摩訶衍の大日如来であり、驢牛の三身の仏などは、その車を引く資格すらない。秘奥なる教えは、両部の漫陀羅の教えであり、顕乗の四法の仏やこれを行じている者は、真言の履取りにもおよばないのである」と。顕乗の四法というのは、法相・三論・華厳・法華の四人をさし、驢牛の三身とは法華・華厳・般若・深密経の教主の四仏をいう。これらの仏や僧は真言師に対すれば、聖覚房や弘法の牛飼いか履物取りにもおよばないのであると書いている。 彼のインドの大慢婆羅門は、生まれながらの博学で、顕密の二道に通じていたばかりでなく、内道外道の典籍を掌ににぎるように通達していた。されば王臣も頭を下げ万人が師範とあおいだのである。しかし万人からあおがれるあまり慢心をおこして、世間の人が尊崇しているものは、大自在天・婆籔天・那羅延天と釈尊の四人であるところから、これらの四人を自分のすわる座の四本の足としてその上にすわって説法とした。それはちょうど、現在の真言師たちが、釈迦仏等の一切の仏を書き集めて、潅頂という真言の儀式を行う時に敷まんだらとしているようなものである。また今の禅宗の法師等がこの宗は仏の頂をふむ大法であるというようなものである。 しかるに賢愛論師という小僧が彼の大慢を糺問するといったが、王臣万民ともにこれを用いなかった。決局は大慢は自分の弟子や檀那にいいつけて、無量の妄語をかまえて賢愛論師の悪口をいったり、打ちすえたりしたが、論師は少しも命をおしむことなく大慢の邪見を責めたので、帝王はかえって賢愛論師をにくみ、問答させて追い詰めようとした。ところが結果は逆に大慢が責められたので、帝王は天をあおぎ地に伏して歎いていうには、「朕、まのあたりこのことを聞いて邪見を晴らすことができたが、先王は大慢にたぼらかされたまま死んだので、いまは阿鼻地獄にいるであろう」と賢愛論師の足にとりついて、悲涙にむせんだ。そこで賢愛は大慢を捕えて馬に乗せ、インドじゅうに顔をさらされて、つれ歩いたのでいよいよ悪心が強盛になって、生きながら無間地獄におちてしまった。今の世の真言や禅宗も、これと同じではないか。 中国の三階禅師のいうには、「教主釈尊の法華経は、第一階、第二階の正像の法門である。末法のためには、自分が作った『普経』でなければならない。法華経を今の世に行ずる者は、十方の大阿鼻獄におちるであろう。末代の根機に合わないからである」といって、六時の礼拝懺悔や、四時の坐禅などを行い、生き仏のようになって、多くの人から尊敬されていた。弟子も一万余人もできたのであるが、わずかの少女に法華経をもって三階を責められたので、その場で声が出なくなり、後には大蛇になって、多くの自分の弟子檀那や、少女、処女等を飲み食らったのである。今の善導・法然等の千中無一の悪義もこれと同じである。これらの三つの大悪事は、すでに年久しいことなので、賤しむわけではないが、いわなければ信ずる人もあるであろう。 |
1伝法院
和歌山県那賀郡岩田町根来にある真義真言宗の総本山、大伝法院のこと。根来寺ともいう。開基は覚鑁、本尊は胎内に鳥羽天皇修髪と伝えられる大日如来。大治5年(1130)覚鑁が高野山伝法院が建立し、天承元年(1131)勅願によって堂宇を拡充し大伝法院と称した。長承3年(1134)鳥羽上皇の勅願により、大伝法院の座主が金剛峰寺の座主を兼務すべしとの勅宣を受けた。以後、金剛峰寺との抗争が生じ、紛争が続くなかで、正応元年(1288)頼瑜は大伝法院と覚鑁の住房であった密厳院を根来に移した。これが新義派の起源となった。
―――
聖覚房
(1095~1144)の号で、聖覚房ともいう。真言宗新義派の始祖で、その師弘法と同じく、法華経を誹謗した邪悪の僧である。舎利講の式は覚鑁の著で、仏舎利供養の講演をまとめたものである。五編から成るが、この第四門のなかで覚鑁は、法華経は真言の履物取りにもおよばないと、邪義を述べている。
―――
舎利講の式
覚鑁の著で、仏舎利供養の講演をまとめたものである。五編から成るが、この第四門のなかで覚鑁は、法華経は真言の履物取りにもおよばないと、邪義を述べている。
―――
不二摩訶衍の仏
真言の教主・大日如来のこと。
―――
驢牛の三身
聖覚房が舎利講式のなかで、法華経の教主釈尊をけなした語。正確な意味は不明だが、驢(露)は顕露の意味で、牛は譬喩品の白牛、三身は法華経の三身如来をさしたものであろう。
―――
両部・漫陀羅
真言の本尊。胎蔵界と金剛界の両部の漫荼羅。
―――
顕乗の四法
法相・三論・華厳・法華の所依の経典を軽しめて、真言の立場からいったもの。
―――
大慢婆羅門
インドのバラモン僧。外典に通じ、民衆の尊敬を受けていたので、ついに慢心を起こし外道の三神および釈尊の像をとって高座の四足に作り、自分の徳は、これら四聖にすぐれていると称して説法した。時に賢愛論師は、法論をしてその邪見を破折した。国王は民衆を誑惑していた大慢を処刑しようとしたが、賢愛は制してその罪を減じ、これをなぐさめた。しかし大慢は、なお諭師を罵り、三宝を毀謗したので、大地がさけ、たちまちに地獄へ堕ちた。玄奘三蔵の大唐西域記にある。
―――
生知
生まれながらにして知っていること。
―――
大自在天
梵名マヘーシュヴァラ(Maheśvara)の音写。もとはインドのバラモン教の神で、シヴァ(Śiva)のこと。シヴァは破壊の恐怖と万病を救う両面を兼ねた神とされていた。仏教では、シヴァ神は摩醯首羅天と音写され、大自在天と訳されてあらわれた。摩訶止観輔行伝弘決巻第十によると、摩醯首羅天は色界の頂におり、三目八臂で天冠をいただき、白牛に乗り、三叉戟を執る。大威力があり、よく世界を傾覆するというので、世を挙げてこれを尊敬したという。
―――
婆籔天
梵語ヴァスデーヴァ(Vasu-deva)、音写して婆藪天。「意譯世天」と訳す。此天為毘紐天の子。
―――
那羅延天
梵語ナーラーヤナ(Nārāyaṇa)の音写。大力の神と訳し、堅固力士、金剛力士ともいう。大日経には、毘紐天の別名で、仏の分身であり、迦楼羅鳥に乗って空を行くとある。一切経音義巻六には、この神を供養するものは多くの力を得るとあり、大毘婆沙論にも同様の大力が示されている。
―――
灌頂
頭に水を灌ぎかけることによって、一定の位につくことを示す儀式。①もとインドの国王即位や立太子の際に行った。②大乗仏教では、菩薩が最終の位に入るときの法王の職を受けることを証するという形式で行った。③密教では、大日如来の五智を表す五瓶の水を用いて、秘密法門の印可伝授、師資面接、法燈の継承をさせるとの意味で行った。
―――
敷まんだら
密教の灌頂のとき、壇上に敷く曼荼羅のこと。
―――
賢愛論師
西インドの論師、跋陀羅楼支という。大慢婆羅門を破折したので有名である。西域記によれば賢愛論師は仏教哲学に通じていた。この摩臘婆国のなかに大慢婆羅門という博学のものがあり、弟子1000余人をもち、大自在天、毘紐天、那羅延天、仏の像をつくって、高座の四足において憍慢ぶりを示していた。賢愛は大慢と対論して徹底的に打ち破った。国王は大慢が長い間天下をあざむいていたことを怒って焼き殺そうとした。しかし賢愛の助けで命は救われ、国王は、そのかわりに国じゅうをひきまわして懺悔させた。ところが、大慢はこれを恥として血を吐いて病に伏した。賢愛が見舞いに行ったとき、大慢はさらに賢愛を悪口して大乗仏教を誹謗したので、大地裂けて生きながら地獄におちたとある。
―――
三階禅師
(0540~0597)中国・隋の時代の僧で、名を信行といった。天台とほぼ同時代の人。三階の仏法を立てたのでこの名がある。8歳で出家し、のちに相州の法蔵寺で具足戒を受けた。隋の開皇のはじめ真寂寺で「三階仏法」4巻をはじめ多くの書をあらわした。三階仏法を主張して在家仏法のはじめとなった。隋の開皇14年(0597)55歳で死んだ。三階教は一時は長安、大興の都を中心にひろまったが、隋の文帝、唐代の則天皇后、玄宗などによって圧迫され、やがて亡びてしまった。
―――
法華経は第一・第二階の正像の法門
三階教の立てた教義である。すなわち釈尊滅後1000年または1500年を正像時代とする。その後を末法とする。釈尊滅後500年を正法時代とし、これ第一階で、善をもって悪をおおう衆生であるとし、第二階は次の500年(または1000年)で像法時代となり悪をもって善をおおう衆生であるとし、その後を末法として一向に邪見の衆生であるとする。そして正像時代に法華・華厳などの一乗教を修行すれば無間地獄におちるとする。そして末法には一乗・三乗、高下浅深をわかたない普遍妥当の普法がひろまるといっている。
―――
普経
普教・普法ともいう。三階禅師が勝手につくった教えで、三階がいう末法にひろまるとしている。
―――
六時の礼懺
一日中、晨朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜の六時に、仏を礼拝すること。
―――
四時の坐禅
黄昏(午後8時、夜坐)・後夜(午前2時、暁天坐禅)・早晨(午前10時)・晡時(午後4時)という1日4回の坐禅を組むこと。
―――――――――
この章は真言を破折されるつづきで。弘法につづいて聖覚を破されている。「彼の月氏の大慢婆羅門」からは例を示されている。初めに大慢を挙げて、真言と禅を示し、次に三階禅師を挙げて、浄土宗の例とされている。
邪宗教の輩のいうことは、いずれにしても経文や道理を無視した邪義であるから、別に驚くことではないが、この正覚房の悪口などはずいぶんひどいものである。舎利講の式には、仏と教を挙げて対比しているが、これを大聖人は「此等の仏僧は真言師に対すれば」と仰せられているが、ここのところは「此等の法仏は真言の法仏に対すれば」というべきところではないかとの疑問がおきる。それに対して日寛上人は、顕密ともに三宝は一体であるから、そうされたのであると仰せられている。真言にいわせれば「密教の三宝は顕教の三宝に勝れる」となるが、事実は真言密教の三宝などは、日蓮大聖人の真実の仏法の三宝に比べたならば、天地雲泥の相違があって。問題にならないのである。
邪師の例として引かれた大慢婆羅門は、外道の三神と釈尊とを四本の足にして高座を作り、その上で説法したという。これなどは奇想天外の行動のようにも聞こえるが、事実はよくある例で、大聖人の時代には真言と禅とがこれと同じであると仰せになっている。
三階禅師信行の妄説もまた変わっている。第一階、第二階の衆生は、釈迦仏法で救われるが、末法の第三階の衆生は信行が勝手に作った普教でなければならないという。この教えも中国で一時は相当に流行したようだが、たびたびの弾圧によって、根絶されてしまった。
0279:12~0280:05 第25章 慈覚を破すtop
| 12 これよりも百千万億倍・信じがたき最大の悪事はんべり、 慈覚大師は伝教大師の第三の御弟 13 子なりしかれども上一人より下万民にいたるまで 伝教大師には勝れてをはします人なりとをもひり、 此の人真言 14 宗と法華宗の実義を極めさせ給いて候が 真言は法華経には勝れたりとかかせ給へり、 而るを叡山三千人の大衆・ 15 日本一州の学者等・一同の帰伏の義なり、 弘法の門人等は大師の法華経を華厳経に劣るとかかせ給えるは、 我が 16 かたながらも少し強きやうなれども、 慈覚大師の釈をもつてをもうに 真言宗の法華経に勝れたることは 一定な 17 り、 日本国にして真言宗を法華経に勝るると立つるをば 叡山こそ強きかたきなりぬべかりつるに慈覚をもつて三 18 千人の口をふさぎなば真言宗はをもうごとし、 されば東寺第一のかたうど慈覚大師にはすぐべからず、 例せば浄 0280 01 土宗・禅宗は余国にてはひろまるとも 日本国にしては延暦寺のゆるされなからんには 無辺劫はふとも叶うまじか 02 りしを安然和尚と申す 叡山第一の古徳・教時諍論と申す文に九宗の勝劣を立てられたるに第一真言宗・第二禅宗・ 03 第三天台法華宗・第四華厳宗等云云、 此の大謬釈につひて禅宗は 日本国に充満して すでに亡国とならんとはす 04 るなり法然が念仏宗のはやりて一国を失わんとする因縁は慧心の往生要集の序よりはじまれり、 師子の身の中の虫 05 の師子を食うと仏の記し給うはまことなるかなや。 -----― これら三宗の悪事よりも、百千万億倍信じがたい最大の悪事がある。慈覚大師は伝教大師の第三の弟子であったが、上一人より下万民にいたるまで、伝教大師より勝れていると思うほどの人であった。この人は真言宗と法華宗の実義を学びつくした結果、真言は法華経より勝れていると書きつけた。そして叡山三千人の大衆をはじめ、日本国の学者等が、一人残らず、その邪義に帰伏してしまったのである。弘法の門人たちは、弘法大師が法華経は華厳経にも劣ると書いたのは、自分の師匠ながら少し強すぎるのではないかと思っていたが、慈覚が真言宗は法華経より勝れているといったので、それが決定的となってしまった。 日本国で真言宗を法華経より勝れていると立てる場合に、比叡山こそ強い敵となるべきであるのに、慈覚が比叡山の三千人の口をふさいだので、真言宗の思いどうりになってしまったのである。されば東寺の第一の見方は、慈覚大師にすぎるものはない。 たとえば、浄土宗や禅宗では、ほかの国では自由にひろまるとしても、日本の国では、延暦寺の許可がなければ無辺劫を経てもひろまるわけがないのに、安然和尚という叡山第一の古徳が『教時諍論』という書に九宗の勝劣を立てたが、第一は真言宗・第二は禅宗・第三は天台法華宗・第四は華厳宗であるとした。この大謬釈によって、禅宗は日本国に充満して、すでに日本は亡国にならんとしている。 また法然の念仏宗が流行して、一国が失われようとするにいたった因縁は慧心の『往生要集』の序から始まったものである。まことに「師子は、その身中の虫によって破られてしまう」と仏が記されているのが、もっともなことである。 |
伝教大師の第三の御弟子
伝教大師の弟子の順序としては、義信・円澄・光定・慈覚・修円・勤そうとなるが、延暦寺座主になった順序は、義信・円澄・慈覚となるので、第三の弟子と呼ぶ場合は慈覚をさす場合が多い。
―――
伝教大師には勝れてをはします人なりとをもひり
慈覚は伝教大師の弟子であるが、唐にいた期間は伝教の1年に対して10年であり、大師号も慈覚の弟子の相応和尚が清和天皇の御母の病気を祈ったゆえに、大師号をたまわった。また慈覚は伝教よりも俗受していたので、当時の人々は、伝教よりも慈覚のほうが優れていると思ったのであろう。
―――
叡山三千人の大衆
比叡山延暦寺の僧の数。数字は「平家物語」等による。一説には僧兵を合わせて一万人ともいわれている。
―――
法華経を華厳経に劣る
弘法の立てた邪義、「十住心論」「秘蔵宝鑰」にある。法華経は第三で大日経第一・華厳経第二と立て、悪口している。
―――
安然和尚
(0841~0915)。天台宗の僧。伝教大師の同族といわれる。はじめ円仁の弟子となり、後に遍照について顕密二教の法を受けた。著述に専念し、天台宗を密教化した。著書は「教時問答」四巻、「悉曇蔵」八巻など多数ある。
―――
教時諍論
安然の著。九宗の勝劣を立て、第一真言、第二禅宗、第三法華、第四華厳、第五三論等の邪義を立てている。
―――
師子の身の中の虫の師子を食う
師子の心中に宿り、体内を食み死に至らしめる虫。蓮華面経巻上には「師子はどこで死んでも人々はその肉を食べないが、ただ師子の身中に生じた虫がその肉を食う。そのように、仏法は外部か破壊されないが、内部にいる悪比丘によって破壊される」(取意)とある。このほか、仁王経・梵網経にも同趣旨の文がある。
―――――――――
この章から別して慈覚を破されており、この章はその第一で、真言与同の失を顕されている。
天台法華宗の清浄な比叡山を破壊した元凶は、天台の第三代座主の慈覚であった。この慈覚の誑惑は、後に詳しく出てくるが、たとえば、天台宗の安然によって禅宗がひろめられ、同じく天台宗の慧心によって念仏がひろめられるようになったのと同じく、真言の邪法を日本に流布させた重罪は、とくに慈覚なのである。慈覚こそ、身は天台座主でありながら、みずから真言の邪義へ堕ちた師子身中の虫といわざるをえないのである。
日蓮大聖人はそのことを三大秘法禀承事で「叡山に座主始まつて第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同事勝の狂言を本として我が山の戒法をあなづり戯論とわらいし故に、 存の外に延暦寺の戒・ 清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん」(1023-01)と仰せられ、また、この謗法の罪によって慈覚の死去のありさまが悪かったことを、報恩抄では「死去の後は墓なくてやみぬ」(0310-18)とも、また、慈覚大師事では「慈覚大師の御はかは・いづれのところに有りと申す事きこへず候、世間に云う御頭は出羽の国・立石寺に有り云云、いかにも此の事は頭と身とは別の所に有るか、明雲座主は義仲に頚を切られたり、天台座主を見候へば伝教大師は・さてをきまいらせ候いぬ、第一義真・第二円澄・此の両人は法華経を正とし真言を傍とせり、第三の座主・慈覚大師は真言を正とし法華経を傍とせり、其の已後代代の座主は相論にて思い定むる事無し、第五十五並びに五十七の二代は明雲大僧正座主なり、此の座主は安元三年五月日院勘を蒙りて伊豆の国へ配流、山僧・大津にて奪い取りて後治承三年十一月に座主となりて源の右将軍頼朝を調伏せし程に寿永二年十一月十九日義仲に打たれさせ給う、此の人生けると死ぬと二度大難に値えり、生の難は仏法の定例・聖賢の御繁盛の花なり死の後の恥辱は悪人・愚人・誹謗正法の人招くわざわいなり」(1019-12)とも指摘されている。
0280:06~0281:15 第26章 慈覚の本師違背の失top
| 06 伝教大師は日本国にして 十五年が間・天台真言等を自見せさせ給う生知の妙悟にて師なくしてさとらせ給いし 07 かども、 世間の不審をはらさんがために漢土に亘りて 天台真言の二宗を伝へ給いし時漢土の人人はやうやうの義 08 ありしかども我が心には 法華は真言にすぐれたりとをぼしめししゆへに 真言宗の宗の名字をば削らせ給いて天台 09 宗の止観・真言等かかせ給う、 十二年の年分得度の者二人ををかせ給い、重ねて止観院に法華経・金光明経・仁王 10 経の三部を鎮護国家の三部と定めて宣旨を申し下し永代・日本国の第一の重宝・神璽・宝剣・内侍所とあがめさせ給 11 いき、叡山第一の座主・義真和尚・第二の座主・円澄大師までは此の義相違なし、第三の慈覚大師・御入唐・漢土に 12 わたりて十年が間・顕密二道の勝劣を八箇の大徳にならひつたう、又天台宗の人人・広修・惟ケン等にならはせ給い 13 しかども心の内にをぼしけるは 真言宗は天台宗には勝れたりけり、 我が師・伝教大師はいまだ此の事をばくはし 14 く習せ給わざりけり 漢土に久しくもわたらせ給わざりける故に此の法門はあらうちにをはしけるやとをぼして 日 15 本国に帰朝し・叡山・東塔・止観院の西に総持院と申す大講堂を立て御本尊は金剛界の大日如来・此の御前にして大 16 日経の善無畏の疏を本として金剛頂経の疏七巻・蘇悉地経の疏七巻・已上十四巻をつくる、 此の疏の肝心の釈に云 17 く「教に二種有り 一は顕示教謂く三乗教なり世俗と勝義と未だ円融せざる故に、 二は秘密教謂く一乗教なり世俗 18 と勝義と一体にして融する故に、 秘密教の中に亦二種有り 一には理秘密の教諸の華厳般若維摩法華涅槃等なり但 0281 01 だ世俗と勝義との不二を説いて 未だ真言密印の事を説かざる故に、 二には事理倶密教謂く大日教金剛頂経蘇悉地 02 経等なり亦世俗と勝義との不二を説き 亦真言密印の事を説く故に」等云云、 釈の心は法華経と真言の三部との勝 03 劣を定めさせ給うに真言の三部経と法華とは 所詮の理は同じく一念三千の法門なり、 しかれども密印と真言等の 04 事法は法華経かけてをはせず 法華経は理秘密・真言の三部経は事理倶密なれば天地雲泥なりとかかれたり、 しか 05 も此の筆は私の釈にはあらず 善無畏三蔵の大日経の疏の心なりとをぼせども なをなを二宗の勝劣不審にやありけ 06 ん、はた又他人の疑いをさんぜんとやをぼしけん、 大師慈覚の伝に云く「大師二経の疏を造り功を成し已畢つて心 07 中独り謂らく此の疏仏意に通ずるや否や 若し仏意に通ぜざれば世に流伝せじ 仍つて仏像の前に安置し七日七夜深 08 誠を翹企し祈請を勤修す五日の五更に至つて夢らく 正午に当つて日輪を仰ぎ見弓を以て之を射る 其の箭日輪に当 09 つて日輪即転動す夢覚めての後深く 仏意に通達せりと悟り後世に伝うべし」等云云、 慈覚大師は本朝にしては伝 10 教・弘法の両家を習いきわめ 異朝にしては八大徳並に南天の宝月三蔵等に十年が間・最大事の秘法をきわめさせ給 11 える上二経の疏をつくり了り 重ねて本尊に祈請をなすに智慧の矢すでに中道の日輪にあたりて うちをどろかせ給 12 い、歓喜のあまりに仁明天王に宣旨を 申しそへさせ給い・天台の座主を真言の官主となし 真言の鎮護国家の三部 13 とて今に四百余年が間・碩学稲麻のごとし渇仰竹葦に同じ、 されば桓武・伝教等の日本国・建立の寺塔は一宇もな 14 く真言の寺となりぬ公家も武家も一同に真言師を召して師匠とあをぎ 官をなし寺をあづけ給ふ、 仏事の木画の開 15 眼供養は八宗一同に大日仏眼の印真言なり。 -----― 伝教大師は日本国において、十五年の間、天台真言等の仏法を学ばれた。生まれながらの秀れた智慧で、師匠もなく悟られたのであるが、なお世間の疑いを晴らそうとして唐に渡り、天台・真言の二宗を伝へたのである。当時の中国の人々においてはいろいろの義があったが、伝教大師は我が心には法華経は真言に勝れていると思われたので、真言宗の宗の字をば削り取り、天台宗の止観・真言等と書かれたのである。十二年のあいだ、二人ずつ年分得度者を勉強させ、重ねて一乗止観院で、法華経・金光明経・仁王経の三部を鎮護国家の三部と定めて、天皇の宣旨を申し下し、日本第一の重宝たる神璽と宝剣と内侍所のように、あがめさせられたのである。叡山第一代の座主義真和尚、第二の座主・円澄大師までは、此の義相違なかった。 第三の慈覚大師は、唐へ渡って十年の間、顕密二道の勝劣を八人の高僧から学んだ。天台宗のことは、広修・維蠲等に修学したけれども、心の中で思っていたことは、真言宗は天台宗より勝れている。わが師伝教大師は、いまだこのことをくわしく学ばれなかったに違いない。中国には長くいらっしゃらなかったので、この法門はよく知らなかったのだろうと思って、日本へ帰った。そして比叡山の東塔、止観院の西に、総持院という大講堂を建て、御本尊は真言の金剛界の大日如来として、この前で大日経の善無畏の疏を本にして、金剛頂経の疏七巻、蘇悉地経の疏七巻、以上十四巻を著述したのである。 此の疏の肝心の釈には「教には二種類があって、一は顕示教で、いわゆる三乗教をいう。この教えではまだ世俗諦とが円融していないからである。二は秘密教で、いわゆる一乗教をいう。これは世俗と勝義とが一体になり融合しているからである。その秘密教の中にまた二種類ある。一には理秘密の教で、もろもろの華厳・般若・維摩・法華・涅槃等である。これらの経には、ただ世俗と勝義との不二を説いて、いまだ真言と密印の事を説いていないから。二には事理倶密の教で、大日経・金剛頂経・蘇悉地経等で、いわゆる真言の三部経である。これには世俗と勝義との不二、一体を説き、また真言と密印の事を説いているからである」とある。 この釈の意味は、法華経と真言の三部経との勝劣を定めるのに、真言の三部経と法華とは所詮の理は同じく一念三千の法門である。しかし、密印と真言等の事法は、法華経に欠けて無く、ただ法華経は理秘密のみで、真言の三部経は事理倶密であるから、天地雲泥のように勝れていると書いたのである。しかもこれは自分勝手な意見ではなく善無畏三蔵の大日経の疏の心であると書いたが、しかもなお二宗の勝劣に疑問を持っていたのであろうか。はたまた、他人の疑いを晴らそうと思ったのであろうか、慈覚の伝には、次のように書かれている。 「慈覚は二経の疏を作り、功を成しおわって、心中ひそかに思うのに、この疏は仏の意にかなうかどうか。もし仏意に通じないならば、世に流布するのはよそう。そこで仏像の前に安置し、七日七夜、心をこめて深い祈りをつくした。すると五日目の五更にいたって夢をみた。その夢には、正午になって太陽をあおぎ見て、弓をもってこれを射ると、その箭が太陽に命中し、太陽は動転して落ちた。夢がさめてのち、自分の釈は深く仏意に通達したと思い、後世に伝えるべしと決意した」というのである。 慈覚大師は日本においては伝教・弘法の両大師の教えを習いきわめ、唐へ渡ってからは八大徳を始め、南インドの宝月三蔵等に十年の間、最大事の秘法を習いきわめたうえ、二経の疏を作ったのである。しかも重ねて本尊に祈請をなしたところ、智慧の矢が中道の太陽にあたり、驚き歓喜のあまりに仁明天王に奏聞し宣旨をそえて、天台の座主を真言の官主となし、真言の三部経を鎮護国家の三部といい出して以来今日まで四百余年のあいだ、その流れを汲む学者は稲や麻のように多く、これを渇仰する輩は竹葦のように多かったのである。されば桓武天皇や伝教大師が日本国に建立された寺塔は、一つ残らず真言の寺となってしまった。公家も武家も一同に真言師を召して師匠とあおぎ、官位を与え、寺をあずけている。仏事の木像画像の開眼供養も、八宗とも一同に大日仏眼の印と真言で行うとうになってしまった。 |
伝教大師は日本国にして十五年が間
伝教大師は22歳の時、延暦7年、比叡山にはじめて一乗止観院を建ててから、38歳の23年に入唐するときまでのあいだである。
―――
漢土の¥人人はやうやうの義
中国の人々はあるいは真言すぐれ、法華すぐれ、同等、理同事勝など色々な説があったことをいう。
―――
我が心には法華は真言にすぐれたり
伝教大師は心中では、法華は真言よりすぐれていると思われていた。どうしてこの伝教大師の心中を知ることができるかといえば、第一に法華経をもって宗旨とされている。第二に大日経を傍依となされている。第三に依憑集の序で真言のあやまりを破折されている。
―――
真言宗の宗の名字をば削らせ
伝教大師は、いつも天台宗の名のみ出されて、真言宗の名は出されていない。すなわち「天台宗の止観・真言」等である。
―――
十二年の年分得度の者二人
比叡山延暦寺で、止観と真言の両業を伝えるため、その法器を選び年ごとに二人を得度せしめたという。この選ばれた人は、12年間山門から出ないで、一人は止観行を修め、一人は遮那業を修めた。これを十二年の年分得度という。
止観院
比叡山の根本中道のことで、伝教大師の建立、本尊は薬師如来。
―――
金光明経
釈尊一代説法中の方等部に属する経。正法が流布するところは、四天王はじめ諸天善神がよくその国を守り、利益し、国に災厄がなく、人々が幸福になると説いている。訳には五種がある。①金光明経、四巻十八品、北涼の曇無讖訳、北涼の元始年中②金光明更広大弁才陀羅尼経、五巻二十品、北周の耶舍崛多訳、後周の武帝代③金光明帝王経、七巻十八品、梁の真諦訳、梁の大清元年④合部金光明経、八巻二十四品、隋の闍那崛多訳、大隋の開皇17年⑤金光明最勝王経、十巻三十一品、唐の義浄訳、周の長安3年このうち、①には吉蔵の疏があり、天台大師が法華玄義二巻、法華文句六巻にこの経を疏釈しているため、広く用いられている。わが国では聖武天皇が国分寺を全国に建てたとき、妙法蓮華経と⑤金光明最勝王経を安置した。大聖人が用いられているのは①と⑤である。
―――
仁王経
釈尊一代五時のうち盤若部の結経である。恌秦の鳩摩羅什(0334~0413)訳の「仏説仁王般若波羅蜜経」と、唐の不空三蔵(0705~0774)訳の「仁王護国般若波羅蜜経」がある。羅什訳のほうが広く用いられている。この仁王経は、仁徳ある帝王が般若波羅蜜を受持し政道を行ずれば、三災七難が起こらず「万民豊楽、国土安穏」となると説かれている。このゆえに、法華経、金光明経とともに、護国の三部経として広く尊崇された。般若波羅蜜とは、菩薩行の六波羅蜜の一つであるが、般若とは智慧で、その実体は法華経文底秘沈の大法を信じ、以信代慧によって知恵を得ることである。末法においては、この三大秘法を受持して広宣流布することが般若波羅蜜を行ずることになる。法蓮抄には「夫れ天地は国の明鏡なり今此の国に天災地夭あり知るべし国主に失ありと云う事を鏡にうかべたれば之を諍うべからず国主・ 小禍のある時は天鏡に小災見ゆ今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を、仁王経には小難は無量なり中難は二十九・ 大難は七とあり此の経をば一には仁王と名づけ二には天地鏡と名づく、此の国主を天地鏡に移して見るに明白なり、又此の経文に云く『聖人去らん時は七難必ず起る』等云云、当に知るべし此の国に大聖人有りと、又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を」とある。
―――
鎮護国家の三部
法華経・金光明経・仁王経のこと。これらの三経は、七難を消滅して国家を守護する法を説いているので、伝教大師が嵯峨天皇の弘仁2年7月より、国家守護のために、法華堂において、三部を日々輪次に講演し、長く修したので長講といわれた。
―――
義真和尚
(0781~0833)。平安前期の天台宗の僧。比叡山延暦寺第一代座主。修禅大師と称される。相模(神奈川県)の出身。俗性は丸子連または丸子部。はじめ奈良興福寺で法相を学び、鑑真の弟子から受戒され中国語にも通じた。その後最澄に師事、延暦23年(0804)最澄の入唐時、訳語僧として随行し通訳を務めた。最澄の死後、大乗戒壇設立の勅許を得て戒和上となった。著書に「天台法華宗義集」一巻などがある。「義真・円澄は第一第二の座主なり第一の義真計り伝教大師ににたり」(0310-14)とおおせで、義真が師の正義をよく奉じたことを賞されている。
―――
円澄大師
(0771年~0836)。比叡山延暦寺第二代座主。諡号は寂光大師。武蔵(埼玉県)に生まれ、はじめ道忠のもとで学んだが、後に伝教大師に師事し、円教三身・止観三徳の義などを授けられたという。「第二の円澄は半は伝教の御弟子・半は弘法の弟子なり」(0310-14)、「円澄は天台第二の座主・伝教大師の御弟子なれども又弘法大師の弟子なり」(0320-04)とおおせで、円澄はその心の半分を、他師である弘法の方に向けている、と喝破されている。
―――
八箇の大徳(慈覚の)
慈覚が入唐時代の師とした8人の真言師、宗叡・全雅・元政・義真・法全・宝月・カン阿闍梨・惟謹をいう。
―――
維蠲
中国天台宗、天台山広脩座主の高弟。妙楽大師の法曽孫。
―――
叡山・東塔・止観院
比叡山には、東塔・西塔・横川に分かれる。東塔は根本中堂・戒壇院・大講堂・前塔院・浄土院などがあり、このうちの根本中堂を止観院という。
―――
総持院
比叡山延暦寺の東塔の本院。法華仏頂総持院のこと。慈覚大師伝によると、慈覚は入塔して長安の青竜寺において、義真・法全・元政等から真言の法を受けた。帰朝後、青竜寺の鎮国道場に模して仁寿元年(0851)に建立し、大日如来を本尊とし、十四僧を置いて皇帝本命の道場とした。
―――
金剛界の大日如来
真言密教の本尊の大日如来は、金剛界と胎蔵界の二種がある。慈覚・智証などの台密は金剛を重視し、弘法などの台密は胎蔵界に重点を置く。
―――
善無畏の疏
善無畏が一行をたぶらかして書かせた「大日経疏」20巻のこと。
―――
金剛頂経の疏
金剛頂経は、大日経・蘇悉地経とともに、真言の三部経といわれる。金剛頂経には三訳があるが、不空訳のものが主となっている。慈覚は大日経疏にならって「金剛頂大教王経疏」をつくった。
―――
蘇悉地経の疏
蘇悉地経は真言三部経の一つで、唐の開元14年(0726)善無畏三蔵が訳したもので、慈覚はこの書の注釈書「蘇悉地羯羅経略疏」7巻を作った。
―――
大師慈覚の伝
慈覚大師の別伝であって、寛平親王の撰である。
―――
南天の宝月三蔵
慈覚が学んだ天台宗の八大徳のなかの一人。
―――
天台の座主を真言の官主となし
慈覚は善無畏の大日経疏にならって、金剛頂経疏と蘇悉地経疏をつくり、理同事勝の邪義をとなえ、伝教大師の法華経等の鎮護国家三部経を捨てて、真言の三部経をもってきた。これは天台の座主を真言の座主にかえたことになる。
―――
碩学稲麻のごとし渇仰竹葦に同じ
立正安国論に「僧は竹葦の如く侶は稲麻に似たり」(0020-18)とおおせである。稲も麻も竹も葦も、数だけ多くて役に立たないことを意味する。碩学すなわち僧侶を稲麻に、渇仰する信者を竹葦にたとえたもの。
―――
大日仏眼の印真言なり
本当の仏事の開眼供養は、法華経の一念三千によってやるべきなのに、慈覚以来は大日如来の印真言で仏像の開眼供養を行うようになったのである。
―――――――――
この章は別して慈覚を破される中の第二で、本師伝教大師に違背した失を挙げられている。
伝教大師は日本国にして十五年が間・天台真言等を自見せさせ給う生知の妙悟にて師なくしてさとらせ給いしかども、世間の不審をはらさんがために漢土に亘りて天台真言の二宗を伝へ給いし時漢土の人人はやうやうの義ありしかども我が心には法華は真言にすぐれたり
伝教大師が法華経が真言に勝れていると考えられていたということが、どうしてわかるのかとの問いに対し、日寛上人は、次のように3つの例を挙げられている。
一には、法華経をもって宗旨となすがゆえに。『秀句』にいわく「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり。浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり。天台大師は釈迦に信順し、法華宗を助けて震旦に敷掦し、叡山の一家は天台に相承し、法華宗を助けて日本に弘通す」と。正しくこの文の意は、大日経等の浅きを去って法華経の深きに就くをもって宗旨としている。ここに勝劣が分明ではないか。
二には、大日経等を傍依となすゆえに。『守護章』にいわく「今、山家所伝の円教宗の依経は、正には法華及び無量義に依り、傍には大涅槃・華厳・般若・方等・遮那、一切の円を説く等の諸経諸論に依る」等と。このように法華経を正依の経となし、大日経等をもって傍依の経としているから、勝劣はじつにはっきりしているではないか。
三には、略して真言宗の謬を破すゆえに。『依憑集』の序にいわく「新来の真言家は則ち相承を泯じ」等と。いわんや記十の含光の物語を、さらに『依憑集』に載せているところからみても、はっきりしているではないか。
(なお含光の物語とは、不空がインドへ法を求め帰った時、インドの真言僧から中国の天台大師の教判をインドへ持ってくるように頼まれたということを、不空の弟子の含光が妙楽大師に語ったというもの)
なお報恩抄には「抑も伝教大師いづれの書にかかれて候ぞや」(0307-10)と、伝教大師は、法華と真言が等しいなどと書いたものではないと断定されている。しかし実際には、『牛頭決』には「天台所立の十界互具の文と秘密最大三十七尊住心城の文と大道異なりと雖も不思議一なり」とか、『学生式』には「止観と真言の二羽・両輪」のどと書かれたものがある。
これに対して日寛上人は、二宗が等しいというのは約教一往の傍義であって、約部再往の正意ではない。この約部再往の正義は、法華が勝れ真言が劣ることはいうまでもない。その理由として、
一には真言には宗の名をつけず、伝教大師はただ天台法華宗と称された。
二には『守護章』に大日経を傍依の経とされた。
三には『依憑集』に真言を破すゆえに。
四には記十を引いて中国の真言の元祖、不空を魯人とされた
五にはそのような含光の物語を、『依憑集』に載せられた。
等々とされている。
世俗と勝義の融・不融
世俗は事であり、勝義は理である。慈覚のいわんとするのは理同事勝である。いまその邪義を日寛上人の文段によって破折する。
一には、真言は三部経の中には、開権顕実の妙理を説いていない。ゆえに二乗作仏の文義もない。このゆえに十界互具の理もない。ゆえに真実の妙理ではない。なぜ法華と理同といえるのか。
二には、衆生の成仏は、ただ十界互具の妙理による。それに対して印と真言というものは、成仏した上で自然に表われるものである。もし十界互具の妙理にかない、即身成仏するならば、印と真言とは自然に具足するものである。そうでなくて、成仏はしたが、印も真言もないなどという仏は、声が出ない仏とか、中風で手足の動かない仏ができたようなもので、そんなことがあるわけがない。ゆえに経典には十界互具があるかないかが問題なのであって、印・真言の有無は問題ではないのである。もし、一々なんでも説いていなければ、その経典が事において劣るというなら、阿含経に説かれている世界建立等は大日経には説かれていないので、それでは大日経は阿含経に劣るのか。
三には、いわんやまた、真言の教えは印・真言を説くけれども久遠実成の事を説いていない。どうして事において勝れるといえるのか。
四には、伝教大師は、法華経を最も勝れた経として、天台大師と同じである。慈覚はその流れを汲みながら、なぜ本師に違背するのか。
五には、伝教は唐へ渡ってわずか一年しかいなかったので、勉強が足りないとか、天台大師は大日経等がまだ渡ってきていなかったので、その勝れていることがわからなかったなどというならば、釈迦・多宝・分身の諸仏はどうか。これらの諸仏が、法華第一と証明したことを、うそだとでもいうのか。
六には、すべての一代仏教の中に、真言が勝れ、法華が劣るなどという文は、一字一句もないのではないか。
ゆえに慈覚は現罰を蒙り、あるいは疫病で死んだといわれているのである。
―――――――――
0281:16~0283:06 第27章 問答帰釈して慈覚を破するtop
| 16 疑つて云く法華経を真言に勝ると申す人は 此の釈をばいかがせん用うべきか又すつべきか、答う仏の未来を定 17 めて云く「法に依つて人に依らざれ」竜樹菩薩の云く「修多羅に依れるは白論なり 修多羅に依らざれば黒論なり」 18 天台の云く「復修多羅と合せば録して之を用ゆ 文無く義無きは信受すべからず」 伝教大師云く「仏説に依憑して 0282 01 口伝を信ずること莫れ」等云云、 此等の経論釈のごときんば夢を本にはすべからず ただついさして法華経と大日 02 経との勝劣を分明に説きたらん 経論の文こそたいせちに候はめ、 但印真言なくば木画の像の開眼の事・此れ又を 03 この事なり真言のなかりし已前には木画の開眼はなかりしか、天竺・漢土・日本には 真言宗已前の木画の像は或は 04 行き或は説法し或は 御物言あり、印・真言をもて仏を供養せしよりこのかた利生もかたがた失たるなり、 此れは 05 常の論談の義なり、 此の一事にをひては但し日蓮は分明の証拠を余所に引くべからず 慈覚大師の御釈を仰いで信 06 じて候なり。 -----― 疑っていう。法華経が真言より勝れているという人は、この釈をどうしたらよいのか、用いるのか、それとも捨てなければならないのか。 答える。仏は滅後の仏道修行のあり方を示していうには「法によって判断し、人によって判断してはならない」と。また竜樹菩薩は「経典によっているのは正論で、経典によらないものは邪論である」と。さらに天台大師は「経典に合うものはとりあげて用いよ。文もなく義もないものは信受してはならない」と。そして伝教大師は「仏説に依るべきであって、口伝を信じてはならない」等と述べている。 これらの経論釈のとおりであるならば、夢をもとにしてはならない。ただ直接に法華経と大日経の勝劣を、明らかに説き示した経論の文こそ大切である。ただし、印と真言がなければ木画二像の開眼できないということは、実に笑止な愚論である。それでは真言宗のない時代には木画の開眼はなかったのか。インドでも中国でも日本でも、真言宗以前の木画の像が、歩いたとか、あるいは説法したとか、あるいは物語をしたと伝えられている。かえって印・真言で仏を供養するようになってからは、功徳もいろいろなくなってきている。これは常に語り合われていることである。ただし真言が勝れ法華が劣るということが邪義であるということについては、日蓮は明らかな証拠を余所に求める必要がない。慈覚自身が書いたものにとって明らかであると思うのである。 -----― 07 問うて云く何にと信ぜらるるや、答えて云く此の夢の根源は真言は法華経に勝ると造定めての御ゆめなり、 此 08 の夢吉夢ならば 慈覚大師の合せさせ給うがごとく真言勝るべし、 但日輪を射るとゆめにみたるは吉夢なりという 09 べきか、 内典五千七千余巻外典三千余巻の中に日を射るとゆめに見て吉夢なる証拠をうけ給わるべし、 少少此れ 10 より出し申さん阿闍世王は天より月落るとゆめにみて 耆婆大臣に合せさせ給しかば大臣合せて云く 仏の御入滅な 11 り須抜多羅天より日落るとゆめにみる我とあわせて云く 仏の御入滅なり、 修羅は帝釈と合戦の時まづ日月をいた 12 てまつる、夏の桀・殷の紂と申せし悪王は 常に日をいて身をほろぼし国をやぶる、 摩耶夫人は日をはらむとゆめ 13 にみて悉達太子をうませ給う、 かるがゆへに仏のわらわなをば 日種という、 日本国と申すは天照太神の日天に 14 てましますゆへなり、 されば此のゆめは天照太神・伝教大師・釈迦仏・法華経をいたてまつれる矢にてこそ二部の 15 疏は候なれ、 日蓮は愚癡の者なれば経論もしらず 但此の夢をもつて法華経に真言すぐれたりと申す人は今生には 16 国をほろぼし家を失ひ後生にはあび地獄に入るべしとはしりて候、 今現証あるべし 日本国と蒙古との合戦に一切 17 の真言師の調伏を行ひ候へば 日本かちて候ならば真言はいみじかりけりとおもひ候なん、 但し承久の合戦にそこ 18 ばくの真言師のいのり候しが調伏せられ給し 権の大夫殿はかたせ給い、 後鳥羽院は隠岐の国へ御子の天子は佐渡 0283 01 の嶋嶋へ調伏しやりまいらせ候いぬ、 結句は野干のなきの身にをうなるやうに 還著於本人の経文にすこしもたが 02 はず叡山の三千人かまくらにせめられて一同にしたがいはてぬ、しかるに又かまくら日本を失はんといのるかと申す なり、これをよくよくしる人は一閻浮提一人の智人なるべしよくよく知るべきか。(この部分は創価学会版御書全集 02 にはないが、ほかの書で引かれている文もあるので付記した) 今はかまくらの世さかんなるゆへに東 03 寺・天台・園城・七寺の真言師等と並びに自立をわすれたる法華宗の謗法の人人・関東にをちくだりて頭をかたぶけ 04 ひざをかがめやうやうに武士の心をとりて、 諸寺・諸山の別当となり長吏となりて 王位を失いし悪法をとりいだ 05 して国土安穏といのれば、 将軍家並びに所従の侍已下は国土の安穏なるべき事なんめりと うちをもひて有るほど 06 に法華経を失う大禍の僧どもを用いらるれば 国定めてほろびなん、 -----― 問うて云う。どうして明らかなのか。 答えていう。慈覚のこの夢の根源は、真言は法華経に勝ると造り定めた上での夢である。この夢が吉夢なら、慈覚が夢判断したように真言が勝れていることになる。ただし、太陽を射ると夢にみたことが、吉夢といえるか。内典五千、七千余巻と外典三千余巻の中で、太陽を射ると夢にみたことが吉夢だという証拠をうけたまわりたい。これから二・三申し上げよう。阿闍世王は天より月が落ちると夢にみて、耆婆大臣に判断させたところ、大臣は答えて「仏の御入滅に違いない」といった。また須抜多羅は天より太陽が落ちると夢にみて、みずから夢判断をして「仏の御入滅であり」といった。また修羅は帝釈と戦うとき、まず日月を射るという。そして夏の桀王・殷の紂王という悪王は、常に太陽に弓を引いて身を滅ぼし、国を破ったのである。 また反対に摩耶夫人は太陽を孕むと夢に見て悉達太子をお産みになった。このゆえに仏の幼名を日種というのである。また日本国というのは、は天照太神の日天子にてましますゆえにこの国名である。されば慈覚の夢は、天照太神・伝教大師・釈迦仏・法華経を射たてまつる矢であり、彼の造った二部の疏も同じなのである。日蓮は愚癡の者であるから経論などはくわしいことはわからないが、この夢をもって法華経より真言が勝れているという人は、今世には国を滅ぼし、家を失い、後生には阿鼻地獄へおちるということは知っているのである。 今ここに現証がある。日本国と蒙古との戦いに一切の真言師が敵国の調伏を行って日本が勝つならば、真言は尊いと思うであろう。ただし承久の合戦には、たくさんの真言師が、鎌倉幕府の権の大夫義時を調伏しようと祈ったが、祈られたほうが大勝利し、祈ったほうの後鳥羽院は隠岐の国へ、御子の天子は佐渡等の島々へ流され、逆に調伏されてしまった。決局は、野干は自分が鳴くために、他の動物に殺されるようなもので、「還著於本人」の経文に少しも違わず、比叡山三千人の僧徒は鎌倉に攻められ、一同に従属されてしまった。 それでもまた、鎌倉は日本を滅亡させようと祈るのである。このことを、よくよく知っている人こそ、世界でただ一人の智人であるということをよくよく知らねばならない。今は鎌倉の世が盛んになったため、東寺・比叡山・三井寺・七寺の真言師等と、それに自分の立場を忘れた天台法華宗の謗法の徒が関東に落ち下っては、頭を下げ、ひざをかがめて、さまざまに武士に取りいっている。そして、諸寺・諸山の別当とか長吏などという官位をもらい、朝廷を滅亡させた悪法をとりだして国土安穏を祈っているので、将軍家ならびに家来の侍以下は、そのうちに国土は安穏になるだろうと思っているかもしれないが、法華経を失う大謗法の僧たちを用いれば、国が滅亡することは間違いないであろう。 |
法に依つて人に依らざれ
法の四依の一つで、涅槃経に説いている。仏の経典の説に依って、人師の我見の説などに依るなどということである。法の四依とは、そのほかに「義に依らざれ」「智に依らざれ」「不了義経に依らざれ」がある。いずれも仏滅後に四依の人が必ず遵法すべきものである。涅槃経には、法の四依のほかに、人の四依が説かれている。
―――
修多羅に依れるは白論なり修多羅に依らざれば黒論なり
竜樹菩薩の「十住毘婆娑論」の文。
―――
修多羅
梵語シュタラ(sūtra)の音写。線・① 経文。経典。契経 。②十二分経の一。散文で教理を説いたもの。契経。③ 袈裟の装飾として垂らす、白赤4筋の組みひも。
―――
修多羅と合せば録して之を用いよ文無く義無きは信受すべからず
天台大師の法華玄義・十の上の文である。経論と合するものは用いていくが、経論に文証も義もないものは信じてはいけないということ。
―――
仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ
伝教大師の法華秀句の文である。仏説経明示義勝二の末文で「まことに願わくは一乗の君子、仏説に依憑して口伝を信ずることなかれ、誡文を仰信して偽会を信ずることなかれ」とある。依憑とは依頼する。依りたのむの意。口伝は文字ではなく、言葉で伝えること。奥義を伝えた書。奥義などの秘密を口伝すること等の意で、仏法において、仏法の奥義を口伝することは、重要な相伝である。しかしながら、人師の私我我見などを交えた口伝は信じてはならないとのいましめである。
―――
経論釈
仏の経典を経という。インドの菩薩の訳を論という。竜樹菩薩の大智度論等である。中国・日本の人師の説を釈という。
―――
夢を本にはすべからず
夢を本として経の勝劣を定めるべきではない。ただ分明な経文によって定めるべきである。
―――
五千七千余巻
仏教経典は5000巻、または7000巻あるといわれている法華経題目抄には「像法に入つて一十五年と申せしに後漢の孝明皇帝・永平十年丁卯の歳・仏経始めて渡つて唐の玄宗皇帝・開元十八年庚午の歳に至るまで渡れる訳者・一百七十六人・持ち来る経律論一千七十六部・五千四十八巻・四百八十帙、是れ皆法華経の経の一字の眷属の修多羅なり」(0942-16)とある。
―――
阿闍世王
梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨(うら)みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
―――
耆婆大臣
耆婆とは、梵語でジーヴァカ(Jīvaka)という。祇婆、時婆、耆域と音写し、活、命、能活、固活、更治、寿命等と訳す。得叉尸羅の賓迦羅について、医学を七年間学んで摩竭提(まかだ)国に帰り、難病を治して医王の名をあげた。阿闍世王に大臣として仕え、王が父を殺し母の韋提希(いだいけ)を殺そうとしたのを月光大臣とともに諌め、後に王が身に悪瘡ができたときは釈迦に帰依して信心し懺悔する以外にないと勧め、ついに帰依させた。
―――
修羅は帝釈と合戦
「帝釈」は欲界の第二、忉利天の主であり、忉利天中33天を統領している。帝釈桓因ともいう。「修羅」は十界の一で法華経には、婆稚・伽羅騫駄・毘摩質多羅・羅睺の四阿修羅王を説く。羅睺阿修羅は障持の意で、日月を障持ので、この名前がある。長阿含経には「大阿修羅王あって、羅訶と名づける。二万八千の大身を感じ、須弥山の北大海の底に住する。忉利日月の諸天が修羅の上を行くのを見て、おおいに怒り、兵を起こして大戦す」とある。また増一阿含経にも「形八万四千由延、その口の縦広千里由旬、日月を触れ犯さんと欲するときは、そのその身を倍増して須弥に等しくして十六万八千由延にいたらしめ、日月の前にいたる。日月恐怖して本処に安んぜず、また光明なし。また帝釈は修羅と戦うときは四天王、日月を先峰として、その光は修羅の眼を射る」などとある。これらの伝説から、修羅と帝釈と戦うとき、よく日月を射るといわれる。
―――
夏の桀
夏の桀王のこと。夏王朝最後の王・桀王は大変な暴君のうえ、妺嬉に溺れ、少しも政道を顧みなかった。臣下の関竜逢は、王を諌めたが用いられず、返って首をはねられた。竜逢の忠言を聞かなかったため、夏は急速に衰え、殷の湯王に攻められて滅亡し、桀王も死んだと伝えられる。彼ら比干、竜逢等は、共に「人臣たる者は死を以て諌めざるを得ず」と、命とひきかえに主君の非を諌め、諌臣の任を全うした。
―――
殷の紂
殷王朝最後の王。紀元前12世紀ごろの人で、帝辛ともいう。知力・体力ともに勝れていたが、妲己を溺愛してからは淫楽にふけり、宮苑楼台を建設し、珍しい禽獣を集め、酒池肉林をつくり長夜の宴を催した。そのため民心は離れ、諸侯は反逆し、忠臣は離れ、佞臣のみ近づいた。のちに周の武王に攻められ、鹿台に登って焼け死んだと伝えられる。
―――
日本国と申すは天照太神の日天にてましますゆへなり
天照太神はその名を大日霊尊といって、日神といわれている。日神出生の本国なるゆえに日本国と称でるという。
―――
天照太神
日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
―――
伝教大師
(0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
―――
釈迦仏
釈迦牟尼仏の略称、たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。
―――
法華経
釈尊一代50年の説法のうちはじめの42年にわたって、華厳・阿含・方等・般若と方便の諸経を説き、最後の無量義経で「四十余年未顕真実」と爾前諸経を打ち破り「世尊法久後、要当説真実」と立てて後、8年間で説かれた真実の経。六訳三存。現存しない経。①法華三昧経 六巻 魏の正無畏訳(0256年)。②薩曇分陀利経 六巻 西晋の竺法護訳(0265年)③方等法華経 五巻 東晋の支道根訳(0335年)。現存する経。④正法華経 十巻 西晋の竺法護訳(0286年)⑤妙法蓮華経 八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(0406年)。⑥添品法華経 七巻 隋の闍那崛多・達磨芨多共訳(0601年)このうち羅什三蔵訳の⑤妙法蓮華経が、仏の真意を正しく伝える名訳といわれており、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭提国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山=霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から嘱累品第二十二までは虚空会で説かれたことから、二処三会の儀式という。内容は前十四品の迹門で舎利弗等の二乗作仏、女人・悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめ、宝塔品・提婆品で滅後の弘経をすすめ、勧持品・安楽行品で迹化他方のが弘経の誓いをする。本門に入って涌出品で本化地涌の菩薩が出現し、寿量品で永遠の生命が明かされ「我本行菩薩道」と五百塵点劫成道を示し文底に三大秘法を秘沈せしめ、このあと神力・嘱累では付嘱の儀式、以下の品で無量の功徳が説かれるのである。ゆえに法華経の正意は、在世および正像の衆生のためにとかれたというより、末法万年の一切衆生の救済のために説かれた経典である。即ち①釈尊の法華経二十八品②天台の摩訶止観③大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経と区分する。
―――
二部の疏(慈覚の)
金剛頂経疏と蘇悉地経疏のこと。
―――
権の太夫殿
(1163~1224)。北条義時のこと。建保5年(1217)右京権大夫になったところからこの呼称となる。
―――
還著於本人
法華経観世音菩薩普門品第二十五にある句で、「還って本人に著きなん」と読む。邪法によって相手を調伏すると、祈りが逆に還ってきて、自分が破れることをいう。また法華経の行者、あるいは正法を持つ者を謗り、害せんとする者は、かえって自らの身に害を受ける。
―――
自立をわすれたる法華宗の謗法の人人
延暦寺や園城寺の僧が、自分の法華経を忘れて真言に下った謗法の人々。慈覚・智証を代表とする。
―――――――――
この章では、問答解釈の上から、慈覚を破されている。
宗教の勝劣は夢によって決定されるのではない。その基準は、経文により、道理により、現証によってのみ決定されるのである。
ゆえに釈尊一代の経典のうえからみても、一念三千の法理のうえからみても、功徳と罰という現証のうえからみても、法華経が最も勝れ、真言などは七重の劣となるのであるが、これはすでに詳しく説かれてきたところである。
夢とわれわれの生活との関係
夢には実体がないから、迷いを夢に譬え、悟りを寤に譬える。当体義抄には「人夢に種種の善悪の業を見・夢覚めて後に之を思えば我が一心に見る所の夢なるが如し、一心は法性真如の一理なり夢の善悪は迷悟の無明法性なり」(0510-10)と仰せであり、これによれば、夢を捨てて寤を基にしなければならない。
しかし、さらにその根本を論ずれば、夢も寤もその体は一であり、無明と法性も体一となる。三世諸仏総勘文教相廃立には「夢の時の心を迷いに譬え寤の時の心を悟りに譬う之を以て一代聖教を覚悟するに跡形も無き虚夢を見て心を苦しめ汗水と成つて驚きぬれば我身も家も臥所も一所にて異らず夢の虚と寤の実との二事を目にも見・心にも思えども所は只一所なり身も只一身にて二の虚と実との事有り之を以て知んぬ可し、九界の生死の夢見る我が心も仏界常住の寤の心も異ならず九界生死の夢見る所が仏界常住の寤の所にて変らず心法も替らず在所も差わざれども夢は皆虚事なり寤は皆実事なり」(0566-11)と仰せである。
法華経の安楽行品第十四には、大御本尊を受持し、信心修行に励む者の功徳を「若し夢の中に於いても、但妙なる事を見ん」と説かれている。すなわち、夢で十信に入り、十住、十回向、十地と修行が進み、ついには夢で妙覚の位に入ると。これは実際にも功徳を受けるのである。日常生活が功徳に満ち溢れてこそ、このような幸福の夢をみるようになるのであろう。反対に謗法を犯すと不幸になり、不幸になれば、不幸の夢ばかり見るのである。開目抄に「いたうの大悪人ならざる者が正法を誹謗すれば即時に夢みて・ひるがへる心生ず」(0231-11)と仰せであるが、これは涅槃経に説かれている原理で、折伏を受けた時に、反対して正法を誹謗すると、その人が過去世に謗法の罪がなければ、すぐに夢に羅刹を見、羅刹から信仰しなければ命を断づぞとおどされ、恐ろしくなって、夢がさめてすぐに入信するというのである。
しかし慈覚の夢のごときは、太陽を弓で射落とすというような、凶夢中の大凶夢である。こんなことが真言宗の正しい証拠であるというのは、よほど悪人でなければ、いえないことであろう。
木画の像の開眼の事
木像や画像が生身の仏として、一切衆生を即身成仏せしめる大御本尊と顕れることは、次の御書に明示されているとおりである。四条金吾殿御返事に「国土世間と申すは草木世間なり、草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」(1145-01)と。
この御文に「法華経」と仰せられるのは、寿量品文底の大御本尊である。観心本尊抄には「詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり」(0246-08)と仰せられ、開目抄には「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」(0189-02)と仰せられている。このように、日蓮大聖人の仏法においてのみ、草木成仏も、木画二像の成仏もあるのである。
しからば木画の像が「或は行き或は説法し或は御物言あり」ということはどう拝すればよいのか。これはあくまでも正法時代にそのように言い伝えられ、また書物に記されていることであり、その木画の像の利益を強調されたのであろう。それに対して末法の大御本尊の功徳は、凡夫を一人のこらず即身成仏させるという大功徳なのである。仏像が歩いたり、説法を始めたりしても、肝心の悩める衆生に功徳が顕われなければ、なんにもならない。
観心本尊抄に、妙楽の釈を引いて「一身一念法界に遍し」(0247-08)と仰せのように、事行の一念三千の大御本尊により、われわれ凡夫といえども即身成仏の大益をえて、一身一念が全宇宙に遍満するのである。
ゆえに死んだ先祖をも成仏させることができるのであり、三大秘法の大御本尊の真の法力、仏力によれば、全人類の平和と幸福を築くことができるのである。
これをよくよくしる人は一閻浮提一人の智人
開目抄下の「無眼の者・一眼の者・邪見の者は末法の始の三類を見るべからず一分の仏眼を得るもの此れをしるべし」(0229-06)と仰せられ、また、慈覚大師事には「三千年に一度花開くなる優曇花は転輪聖王此れを見る。究竟円満の仏にならざらんより外は法華経の御敵は見しらさんなり、一乗のかたき夢のごとく勘へ出して候」(1019-10)と仰せである。深く、これらの御文の意を案ずるならば、三類の敵人を知り、これを出でさせ、しかもこれを粉砕された「一閻浮提一人の智人」とは、末法の御本仏の異名というべきである。ゆえに、日蓮大聖人こそ、末法の御本仏であられることが御文によって明々白々なのである。
0283:06~0284:09 第28章 閻浮第一の法華経の行者top
| 06 亡国のかなしさ亡身のなげかしさに身命をす 07 てて此の事をあらわすべし、 国主世を持つべきならばあやしとおもひてたづぬべきところに ただざんげんのこと 08 ばのみ用いてやうやうのあだをなす、而るに法華経守護の梵天・帝釈・日月・四天・地神等は古の謗法をば不思議と 09 はをぼせども此れをしれる人なければ 一子の悪事のごとくうちゆるして、 いつわりをろかなる時もあり又すこし 10 つみしらする時もあり、 今は謗法を用いたるだに不思議なるにまれまれ諌暁する人をかへりてあだをなす、 一日 11 二日・一月・二月・一年・二年ならず数年に及ぶ、 彼の不軽菩薩の杖木の難に値いしにもすぐれ覚徳比丘の殺害に 12 及びしにもこえたり、而る間.梵釈の二王・日月・四天・衆星.地神等やうやうにいかり度度いさめらるれども・いよ 13 いよあだをなすゆへに天の御計いとして 隣国の聖人にをほせつけられて此れをいましめ 大鬼神を国に入れて人の 14 心をたぼらかし自界反逆せしむ、 吉凶につけて瑞大なれば難多かるべきことわりにて 仏滅後・二千二百三十余年 15 が間いまだいでざる大長星いまだふらざる大地しん出来せり、 漢土・日本に智慧すぐれ才能いみじき聖人は 度度 16 ありしかどもいまだ日蓮ほど法華経のかたうどして 国土に強敵多くまうけたる者なきなり、 まづ眼前の事をもつ 17 て日蓮は閻浮提第一の者としるべし、 仏法日本にわたて七百余年・一切経は五千七千・宗は八宗十宗・智人は稲麻 18 のごとし弘通は竹葦ににたり、 しかれども仏には阿弥陀仏・諸仏の名号には 弥陀の名号ほどひろまりてをはする 0284 01 は候はず、此の名号を弘通する人は 慧心は往生要集をつくる日本国・三分が一は一同の弥陀念仏者・永観は十因と 02 往生講の式をつくる 扶桑三分が二分は一同の念仏者・法然せんちやくをつくる本朝一同の念仏者、 而れば今の弥 03 陀の名号を唱うる人人は一人が弟子にはあらず、 此の念仏と申すは雙観経・観経・阿弥陀経の題名なり権大乗経の 04 題目の広宣流布するは実大乗経の題目の流布せんずる序にあらずや、 心あらん人は此れをすひしぬべし、 権経流 05 布せば実経流布すべし 権経の題目流布せば実経の題目も又流布すべし、 欽明より当帝にいたるまで七百余年いま 06 だきかずいまだ見ず 南無妙法蓮華経と唱えよと他人をすすめ我と唱えたる智人なし、 日出でぬれば星かくる賢王 07 来れば愚王ほろぶ 実経流布せば権経のとどまり智人・南無妙法蓮華経と唱えば 愚人の此れに随はんこと影と身と 08 声と響とのごとくならん、 日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし、 これをもつてすいせよ漢土月 09 支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず。 -----― その亡国の悲しさ、亡身のなげかしさに、身命を捨てて、その邪義邪見を明らかにしていこう。国主たる者が世を持つことを願うならば、そのような意見を不審に思って、尋ね求めなければならないはずである。ところが、ただ讒言のことばのみを用いて、さまざまな迫害、弾圧を加えてきた。 しかるに、法華経守護の梵天・帝釈・日月・四天・地神等は、昔の謗法をば、不都合と思われたが、これを謗法であるといって責める人もいなかったので、一人しかいない子が悪いことをしても、おおめに見て許しておくように、知らぬふりをして許したこともあったし、また少しは誡めて思い知らせる時もあった。しかし今は謗法の徒を用いることさえ不思議であるのに、たまたま諌暁する人に対し、かえって迫害杖木を加える。それも一日二日・一月二月・一年二年だけでなく、数年に及んでいる。彼の不軽菩薩が、杖木を加えられる難よりもひどく、覚徳比丘が殺害されるにいたったものにも越えている。 その間、梵天・帝釈の二王・日月・四天・衆星・地神等は、さまざまに怒りをなして、たびたび諌められたが、いよいよ迫害を加えるので、天の御はからいとして、隣国の聖人に命令してこれをいましめ、大鬼神を国内に入れて人の心をたぼらかし、内乱を起こさせた。吉につけ凶につけて、瑞が大きければ難が多いのが道理であって、仏の滅後・二千二百三十余年の間、いまだ出たことのない大きな彗星や、いまだ揺れたことのないような大地震が起きた。中国にも日本にも智慧が勝れ、才能の高い聖人は、たびたびあったけれども、いまだ日蓮ほど法華経の味方となって、国土に多くの強敵をつくった者はない。まず眼前の事実をもって、日蓮は世界第一の者であることを知るべきである。 仏法が日本に渡って七百余年、一切経は五千、七千巻、宗は八宗、十宗もあり、智人は稲麻のごとく多く、その弘通の盛んなことは竹葦のようである。しかれども仏といえば阿弥陀仏であり、諸仏の名号といえば、阿弥陀の名号ほど弘まっているものはない。この名号をひろめた人は、まず慧心先徳であり『往生要集』を作って日本の三分の一が念仏者になってしまった。次に永観が『往生十因』『往生講の式』を作って、日本の三分が二分を念仏者にしてしまった。そして法然は『選択集』を作り、日本一同を念仏者にしてしまったのである。だから、今の、弥陀の名号を唱える人々は、一人が弟子ではない。この念仏というのは、雙観経・観経・阿弥陀経の題名である。このように権大乗経の題目が広宣流布しているということは、実大乗経たる法華経の題目が流布するための序ではないか。心ある人は、このことを推察しなさい。権経が流布すれば実経が流布するはずである。権経の題目が流布すれば実経の題目も又流布するはずである。 欽明天皇より、当帝にいたるまで七百余年の間に、いまだ南無妙法蓮華経と唱えよと、他人にすすめ、みずからも唱えた智人は聞いたことも見たこともない。太陽が出れば星は隠れる。賢王来れば愚王は滅ぶ。これと同じで、実経が流布すれば権経は止まり、智人が南無妙法蓮華経と唱えれば、愚人がこれに随うであろうことは、影と身が相応じ、声と響きが相応ずるようなものである。日蓮は日本第一の法華経の行者であることは、あえて疑いないところである。これをもって中国にもインドにも、全世界の中にも肩を並べるものはありえないということを推察すべきである。 |
ただざんげんのことばのみ用いて
鎌倉幕府は日蓮大聖人のおおせを聞き入れようとせず、ただ良観や諸宗の僧や尼御前などの讒言のみを用いて、大聖人を迫害したのである。治病大小権実違目には「国主も又一には多人につき或は上代の国主の崇重の法をあらため難き故・或は自身の愚癡の故・ 或は実教の行者を賎しむゆへ等の故彼の訴人等の語を・をさめて実教の行者をあだめば」(0996-18)とあり、ただこれらの讒言のみを用いて、実経の行者をあだむのである。
―――
不軽菩薩の杖木の難
不軽菩薩は、法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている常不軽菩薩のこと。威音王仏の滅後の像法時代に出現し、増上慢の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆から悪口罵詈・杖木瓦石の迫害を受けながらも、すべての人に仏性が具わっているとして常に「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」と唱え、一切衆生を礼拝した。あらゆる人を常に軽んじなかったので、常不軽と呼ばれた。釈尊の過去の姿の一つとされる。常不軽菩薩は命終に臨み、広く法華経を説いた。この時、かつて菩薩を軽賤・迫害した者は、みな信伏随従した。しかし、消滅しきれなかった謗法の余残によって、千劫の間、阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受けた後、再び不軽の教化にあって仏道に住することができたという。
―――
覚徳比丘の殺害
涅槃経の金剛身品に説かれている。歓喜増益如来の末法に、正法を護持する覚徳比丘が破戒の悪僧に攻められたところを有徳王が守った。王はこの戦闘で全身に傷を受けて死んだ。しかし、護法の功徳によって阿閦仏の第一の弟子となり、のちに釈尊として生まれたという。
―――
吉凶につけて瑞大なれば
呵責謗法滅罪抄には「瑞相と申す事は内典・外典に付いて必ず有るべき事の先に現ずるを云うなり、 蜘蛛かかつて喜事来りカサ鵲鳴いて客人来ると申して小事すら験先に現ず何に況や大事をや、されば法華経序品の六瑞は一代超過の大瑞なり、涌出品は又此れには似るべくもなき大瑞なり、故に天台の云く『雨の猛きを見ては竜の大きなる事を知り華の盛なるを見ては池の深き事を知る』と書かれて候、妙楽云く『智人は起を知り蛇は自ら蛇を知る』と云云、今日蓮も之を推して智人の一分とならん,去る正嘉元年太歳丁巳八月二十三日.戌亥の刻の大地震と、文永元年太歳甲子七月四日の大彗星、此等は仏滅後二千二百余年の間・未だ出現せざる大瑞なり、此の大菩薩の此の大法を持ちて出現し給うべき先瑞なるか、尺の池には丈の浪たたず驢・吟ずるに風・鳴らず、日本国の政事乱れ万民歎くに依つては此の大瑞現じがたし、誰か知らん法華経の滅不滅の大瑞なりと」(1128-18)とある。釈尊の法華経が滅して、日蓮大聖人の三大秘法が広宣流布する瑞相をあらわすのである。
―――
一切経は五千七千
仏教経典は5000巻、または7000巻あるといわれている法華経題目抄には「像法に入つて一十五年と申せしに後漢の孝明皇帝・永平十年丁卯の歳・仏経始めて渡つて唐の玄宗皇帝・開元十八年庚午の歳に至るまで渡れる訳者・一百七十六人・持ち来る経律論一千七十六部・五千四十八巻・四百八十帙、是れ皆法華経の経の一字の眷属の修多羅なり」(0942-16)とある。
―――
八宗
日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。
―――
十宗
日本において奈良時代にあった俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の六宗に、平安時代初めに興った天台・真言の二宗を加えた八宗をいう。それに平安末から鎌倉時代に興った禅宗を加えて九宗とし、更に浄土宗を加えて十宗という。
―――
扶桑
日本の国の別称。もとは中国の書にあり、のちに日本書紀などでも用いている。呂氏春秋には「東は扶木に至る」と述べ、淮南子には「東、日出の次、榑木の地、青土樹木の野に至る」と、日本書紀には「天下無為、扶桑の域仁に帰す」とある。
―――
雙観経
無量寿経のこと。方等部に属し、浄土三部経の一つ。北魏の康僧鎧が嘉平4年(0252)に訳し、上下二巻からなるので、雙観経ともいう。上巻はかつて阿弥陀如来が法蔵比丘と称していたとき、四十八願を立てて因行を満足し、その果徳によって西方十万億土の安楽浄土に住して、その荘厳な相を説く。下巻は衆生が安楽浄土へ往生する因果とその行を説いている。
―――
観経
観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたaaというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。
―――
阿弥陀経
鳩摩羅什の訳。釈迦一代説法中方等部に属する。欲界・色界二界の中間、大宝坊で説かれた。無量寿経・観無量寿経とともに浄土の三部経のひとつ。教義は、この世は穢土であり幸福はありえないかあら、死後極楽浄土へ往生する以外にない。そのためには阿弥陀仏の名号を唱えよというもの。現世の諦めを根底とする方便の権教である。
―――
欽明より当帝にいたるまで七百余年
仏法が朝鮮より日本に渡ったのは、欽明天皇13年(0552)であり、当帝とは第91代後宇多天皇で、建治元年(1275)まで、724年になる。
―――
日出でぬれば星かくる
日蓮大聖人の三大秘法の大仏法が出現すれば、釈迦仏法・一切の小法は姿を消すということ。
―――――――――
仏法は機によらず、時によるべきである。末法になると釈尊の白法が穏没し、わが国の仏教界には念仏・禅・真言という邪宗教が横行し、民衆は不幸につぐ不幸の連続で、ついには身を滅ぼし国が滅びようというところまできた。いったい、末法には、いかなる仏が出現し、いかなる仏法によって、民衆は幸福になれるのであろうか。
前章までの邪義につづき、この章からは顕正であって、正とはすなわち最大深秘の大法である。それを人法にわけると、末法流布の正体、本門の本尊・妙法蓮華経の五字は所持の法であり、日蓮大聖人が能持の人であらせられる。能持の人はすなわち末法下種の教主である。いま当抄の意は、能持、所持の中においては、能持の人をもって表とされている。たとえば「妙法なるがゆえに人貴し」(1578-12)の意のごときものである。そしてこの章から第35章にいたるまで三義を示して、日蓮大聖人が末法下種の教主であることを顕されているのである。
その三義とは
一には、日蓮大聖人は閻浮第一の法華経の行者として前代未聞の大法を弘通されるゆえである。
二には、日蓮大聖人は閻浮第一の智人なるゆえ、すなわち瑞相の根源を知っておられたゆえである。
三には、日蓮大聖人は閻浮第一の聖人なるゆえに、かねてから自他の兵乱を知っておられるゆえである。
ゆえに日蓮大聖人は末法下種の教主であり、末法下種の人本尊ななである。
欽明より当帝にいたるまで七百余年いまだきかずいまだ見ず南無妙法蓮華経と唱えよと他人をすすめ我と唱えたる智人なし
先に本章で「無妙法蓮華経と一切衆生にすすめたる人一人もなし、此の徳はたれか一天に眼を合せ四海に肩をならぶべきや」との仰せの辺は、今の御文の「欽明より当帝にいたるまで七百余年いまだきかずいまだ見ず南無妙法蓮華経と唱えよと他人をすすめ我と唱えたる智人なし」の御文と、まったく一致している。
しかし本章には「日本国に仏法わたて七百余年、伝教大師と日蓮とが外は一人も法華経の行者はなきぞかし」との仰せもあり、法華経の行者は日蓮大聖人に限らず、伝教大師もそうであるように思われる。
それについて日寛上人は像法当分に約すとき、伝教大師も法華経の行者である、とされている。なぜなら伝教大師は像法時代としては、時にかなった如説修行の行者であったからである。しかし、もし末法に相対する時は、真の法華経の行者ではない。ここに二つの意味があり、その一つは像法時代は法華経の正しく流布すべき時代でなかったからである。それは同じく本抄に「法華経の流布の時・二度あるべし所謂在世の八年・滅後には末法の始の五百年なり、而に天台・妙楽・伝教等は進んでは在世法華経の時にも・もれさせ給いぬ、退いては滅後・末法の時にも生れさせ給はず中間なる事をなげかせ給いて 末法の始をこひさせ給う御筆なり」と仰せのとおりである。そして二には、伝教大師は南無妙法蓮華経と一切衆生にすすめなかった。ゆえに真の法華経の行者ではないのである。
なお欽明天皇の13年(0552)に仏教が伝来してから、日蓮大聖人の建長5年(1253)の立宗までが、ちょうど700年である。日蓮大聖人は本門戒壇の大御本尊を建立され、法体の折伏を成就されたが、今700年を期して、創価学会が折伏の大行進を起こし、以来、世界広宣流布が徐々に展開しているというこの実現を見る時、700年という時の不思議な一致を痛感するものである。
一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず
何をもって、日蓮大聖人が一閻浮提第一の法華経の行者であり、一閻浮提の内に日蓮大聖人と肩を並べる者がいないということを知ることができるであろうか。
日寛上人は、これについて顕仏未来記の御文を挙げられている。すなわち「疑つて云く如来の未来記汝に相当れり、但し五天竺並びに漢土等にも法華経の行者之有るか如何、答えて云く四天下の中に全く二の日無し四海の内豈両主有らんや」(0508-01)と。また、法華文句記には「世に二仏なく、国に二王無し、一仏の境界に二つの尊号無し」とある。これをもって、日蓮大聖人はまさしく末法の御本仏であられることを明らかに知るべきである。
そして、また報恩抄には「法華経の行者・漢土に一人・日本に一人・已上二人釈尊を加へ奉りて已上三人なり」(0310-10)と仰せである。すなわち、法華経の行者とは、仏の異名であり、末法の法華経の行者とは、末法の御本仏の異名なのである。
0284:10~0285:05 第29章 閻浮第一の智人top
| 10 問うて云く正嘉の大地しん文永の大彗星はいかなる事によつて出来せるや 答えて云く天台云く「智人は起を知 11 り蛇は自ら蛇を識る」等云云、 問て云く心いかん、 答えて云く上行菩薩の大地より出現し給いたりしをば弥勒菩 12 薩・文殊師利菩薩・観世音菩薩・薬王菩薩等の四十一品の無明を断ぜし人人も 元品の無明を断ぜざれば愚人といは 13 れて寿量品の南無妙法蓮華経の末法に流布せんずるゆへに、 此の菩薩を召し出されたるとは しらざりしという事 14 なり、問うて云く 日本漢土月支の中に此の事を知る人あるべしや、 答えて云く見思を断尽し四十一品の無明を尽 15 せる大菩薩だにも此の事をしらせ給はずいかにいわうや一毫の惑をも断ぜぬ者どもの 此の事を知るべきか、 問う 16 て云く智人なくばいかでか此れを対治すべき例せば病の所起を知らぬ人の病人を治すれば 人必ず死す、 此の災の 17 根源を知らぬ人人がいのりをなさば国まさに亡びん事疑いなきか、 あらあさましやあらあさましや、 答えて云く 18 蛇は七日が内の大雨をしり烏は年中の吉凶をしる此れ則ち大竜の所従又久学のゆへか、 日蓮は凡夫なり、 此の事 0285 01 をしるべからずといえども汝等にほぼこれをさとさん、 彼の周の平王の時・禿にして裸なる者出現せしを 辛有と 02 いゐし者うらなつて云く百年が内に世ほろびん 同じき幽王の時山川くづれ大地ふるひき白陽と云う者 勘えていは 03 く十二年の内に大王事に値せ給うべし、 今の大地震・大長星等は国王・日蓮をにくみて亡国の法たる禅宗と念仏者 04 と真言師をかたふどせらるれば天いからせ給いていださせ給うところの災難なり。 -----― 問うて言う。正嘉の大地震と、文永の大彗星とは、なぜ起きたのか。 答えて言う。天台は「智人は将来起こりことを知り蛇はみずから蛇のことを知っている」といっている。 問うて言う。それは何を意味するのか。 答えて言う。上行菩薩が大地より出現されたことを、弥勒菩薩・文殊師利菩薩・観世音菩薩・薬王菩薩等の四十一品の無明を断じた菩薩たちも元品の無明をまだ断じていなかったので愚人といわれ、寿量品の南無妙法蓮華経を末法に流布せしめるために、上行菩薩を召し出されたのだとは知らなかったということである。 問うて言う。日本・中国・インドの中にこのことを知っている人があるか。 答えて言う。見惑・思惑を断じ尽くし、四十一品の無明を立ち切った大菩薩さえも、このことをご存知なかった。いかにいわんや、少しの惑をも断じていない者たちが、このことを知りえようか。 問うて言う。智人がいなければ、どうして大災難を対治できようか。病の起こる原因を知らない人が、その病気をなおそうとすれば、必ず病人は死んでしまう。この大災難の根源を知らない人々が祈りを下ならば、国はまさに滅びることは疑いない。まことにあさましい限りである。 答えて言う。蛇は七日が内の大雨を知り、烏はその年の吉凶を知るという。これは蛇は大竜の家来であり、鳥は長年の学の結果によるのであろう。日蓮は凡夫であるから、そのことを知る由もないが、汝等に、ほぼこのことを教えさとそう。 彼の周の平王の時に、頭を禿にして裸になっている者が出現したが、辛有という人がそれを占っていうには「百年の内に世がほろびるであろう」と。同じく周の幽王の時に山や川が崩れる大地震があった。白陽という者が考えていうには「十二年の内に大王は事に遭うであろう」と。さて今の大地震と、大彗星は、国王が日蓮をにくみ、亡国の邪法たる禅宗と念仏者と真言宗の味方をするので、天が怒られて起こされたところの災難なのである。 ―――――― 01 をしるべからずといえども汝等にほぼこれをさとさん、 彼の周の平王の時・禿にして裸なる者出現せしを 辛有と 02 いゐし者うらなつて云く百年が内に世ほろびん 同じき幽王の時山川くづれ大地ふるひき白陽と云う者 勘えていは 03 く十二年の内に大王事に値せ給うべし、 今の大地震・大長星等は国王・日蓮をにくみて亡国の法たる禅宗と念仏者 04 と真言師をかたふどせらるれば天いからせ給いていださせ給うところの災難なり。 -----― 問うて言う。正嘉の大地震と、文永の大彗星とは、なぜ起きたのか。 答えて言う。天台は「智人は将来起こりことを知り蛇はみずから蛇のことを知っている」といっている。 問うて言う。それは何を意味するのか。 答えて言う。上行菩薩が大地より出現されたことを、弥勒菩薩・文殊師利菩薩・観世音菩薩・薬王菩薩等の四十一品の無明を断じた菩薩たちも元品の無明をまだ断じていなかったので愚人といわれ、寿量品の南無妙法蓮華経を末法に流布せしめるために、上行菩薩を召し出されたのだとは知らなかったということである。 問うて言う。日本・中国・インドの中にこのことを知っている人があるか。 答えて言う。見惑・思惑を断じ尽くし、四十一品の無明を立ち切った大菩薩さえも、このことをご存知なかった。いかにいわんや、少しの惑をも断じていない者たちが、このことを知りえようか。 問うて言う。智人がいなければ、どうして大災難を対治できようか。病の起こる原因を知らない人が、その病気をなおそうとすれば、必ず病人は死んでしまう。この大災難の根源を知らない人々が祈りを下ならば、国はまさに滅びることは疑いない。まことにあさましい限りである。 答えて言う。蛇は七日が内の大雨を知り、烏はその年の吉凶を知るという。これは蛇は大竜の家来であり、鳥は長年の学の結果によるのであろう。日蓮は凡夫であるから、そのことを知る由もないが、汝等に、ほぼこのことを教えさとそう。 彼の周の平王の時に、頭を禿にして裸になっている者が出現したが、辛有という人がそれを占っていうには「百年の内に世がほろびるであろう」と。同じく周の幽王の時に山や川が崩れる大地震があった。白陽という者が考えていうには「十二年の内に大王は事に遭うであろう」と。さて今の大地震と、大彗星は、国王が日蓮をにくみ、亡国の邪法たる禅宗と念仏者と真言宗の味方をするので、天が怒られて起こされたところの災難なのである。 |
正嘉の大しん
正嘉元年(1257)8月23日戌亥の刻鎌倉地方に、かつてない大地震が襲った。吾妻鏡第四十七に同日の模様を次のように記している。「二十三日、乙巳、晴。戌尅大地震。音有り。神社仏閣一宇として全き無し。山岳頽崩す。人屋顛倒す。築地みな悉く破損す。所々に地裂け水涌出す。中下馬橋辺の地裂け破れ、その中より火炎燃え出ず、色青し」云々とある。
―――
文永の大彗星
文永元年(1264)6月26に、東北の空に大彗星があらわれ、7月4日に再び輝きはじめて八月にはいっても光りが衰えなかった。このため、国中が大騒ぎし、彗星を攘う祈りが盛んに修された。安国論御勘由来(0034)に「又其の後文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず」とある。
―――
智人は起を知り蛇は自ら蛇を知る
妙楽大師の法華文句記巻第九中に「然るに智人は起を知り、蛇は自ら蛇を識る。豈補処の人その真応を識らざらんや」とある。文意は、智者は物事の起こる由来を予知し、蛇は蛇だけの知る世界を知っている。それゆえ、仏法の法灯を継ぐ智者は仏法の極理を知る、すなわち唯仏与仏と経にある通り、悟達の聖人のみが宇宙森羅万象の本質を知り予知している、との意である。
―――
上行菩薩の大地より出現し給いたりし
涌出品において、上行菩薩を上首とする地涌の菩薩が、大地より出現したとき、弥勒菩薩等は、そのりっぱなことにおどろき「われ常に諸国に遊べども、いまだ曾てこの事を見ず。われこの衆の中において、乃し一人をも識らず、忽然に地より出でたり」といった。
―――
四十一品の無明
別教では菩薩の位を四十二位にわける。すなわち十住・十行・十廻向・十地・等覚・妙覚であり、妙覚をのぞく四十一品の無明をいう。
―――
元品の無明
釈迦仏法において立てる三惑の第三、無明惑の根本である。無明惑とは中道法性を障えるいっさいの生死、煩悩の根本であり、別教では十二品・円教では四十二品をたてる。四十二のうち最後の無明惑を元品の無明というのである。大聖人の仏法から見るならば、元品の無明とは、三大秘法の大御本尊を信じない惑であり、根本の迷いなのである。元品とは生命と訳し、迷えば無明になり、悟れば法性となる。御義口伝には「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり無疑曰信の釈之を思ふ可し」(0751-15)と仰せである。すなわち衆生の生命に本然にそなわっている根本の迷いのこと。元品は根本または元初の意。無明は迷いで物事が明らかにみえないこと。勝鬘経によると無明に二種あり、貪瞋癡などの煩悩と相応して起こる無明を四住地の惑、煩悩と相応せず独り起こる無明を無始無明住地の惑といい、合わせて五住地という。この無始無明住地の惑こそ最勝の力を持つ一切の煩悩の根本であり、如来の悟りの智慧のみがこれを断ずることができると説かれている。日蓮大聖人の仏法においては、南無妙法蓮華経という真如の理に対する根本的な迷いが元本の無明となる。
―――
寿量品の南無妙法蓮華経
寿量文底、三大秘法の南無妙法蓮華経であり、御本尊である。
―――
此の事を知る人あるべしや(撰時.29)
「此の事」とは、瑞相のいわれ、正嘉の大地震・文永の大彗星は、滅後の瑞相であり、地涌の菩薩の出現の瑞相である。
―――
見思を断尽し
見惑・思惑を断尽すること。。見惑は、物事の道理に迷うこと。後天的、知的な迷いをいい、辺見・邪見等の妄見をいう。思惑は、貪・瞋・痴等の煩悩による本能的な迷いをいう。
―――
蛇は七日が内の大雨をしり
開目抄に「蛇は七日が内の洪水をしる竜の眷属なるゆへ烏は年中の吉凶をしれり過去に 陰陽師なりしゆへ鳥はとぶ徳人にすぐれたり」(0222-16)とある。
―――
日蓮は凡夫なり
日蓮大聖人は全世界第一の智人であられ、聖人であられ、末法の御本仏であられる。ここで「凡夫なり」とおおせられたのは、ただ謙下、ご謙遜のお立場である。
―――
周の平王の時
周の平王は、東周最初の王である。幽王が犬戎のために滅ぼされたとき、位をついで東方洛邑にうつった。前8世紀で在位は51年。左伝第六、僖公22年のでんにあり、立正安国論にも引用されている。
―――
幽王の時
幽王は平王の前の王で、西周最後の王であり、在位11年で亡びた。山川くずれ等は史記に出ている。「幽王の2年・西周の山川皆震う。伯陽哺が曰く『周将に亡びんとす』夫れ天地の気其の序を失せず、若し序を過つ時は民之れ乱るるなり。乃至夫れ国は必ず山川に依る。山崩れ川竭るは亡国の徴なり。川竭る時は必ず山崩る。若し国の亡ぶる十年に過ぎざるは数の紀なり」とある。
―――――――――
これより日蓮大聖人が閻浮第一の智人であることを明かされている。「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う」(0974-01)と仰せのとおり、三世にわたる因果のうえから、災難の起こる原因を知り、さらにまた災難対冶の方法を知る人が聖人であり、智人なのである。
「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」について、日寛上人は次のように述べられている。一義にいわく、但仏の智人のみ本化の智人の出現を知る。迹化の愚人は本化の智人の出現を知らないのである。一義にいわく、但仏の智人のみ自らの仏の智を知る。蛇は自ら蛇足を知るようなものである。仏の智者は近きをもって遠きを推し、現在から未来を知る。譬えば雨の猛きを見て竜の大なるを知り、華の盛んなることを見て池の深きことを知るようなものである。今またこのとおりであって、本化出現の大瑞を見て寿量品の妙法が末法に流布することを知るのである。これすなわち仏の智である。仏の智人のみ自らの智を知り、迹化の愚人は知らないのである。と。聖人知三世事にいわく「予は未だ我が智慧を信ぜず然りと雖も自他の返逆・侵逼之を以て我が智を信ず敢て他人の為に非ず」(0974-08)と。
0285:06~0286:17 第30章 智人たるの証文top
| 05 問うて云くなにをもつてか此れを信ぜん、 答えて云く最勝王経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが 06 故に星宿及び風雨皆時を以て行われず」等云云、 此の経文のごときんば 此国に悪人のあるを王臣此れを帰依すと 07 いう事疑いなし、 又此の国に智人あり国主此れをにくみてあだすという事も又疑いなし、 又云く「三十三天の衆 08 咸忿怒の心を生じ 変怪流星堕ち二の日倶時に出で他方の怨賊来りて国人喪乱に遭わん」等云云、 すでに此の国に 09 天変あり地夭あり他国より此れをせむ 三十三天の御いかり有こと又疑いなきか、 仁王経に云く「諸の悪比丘多く 10 名利を求め国王太子王子の前に於て自ら破仏法の因縁破国の因縁を説く其王別ずして信じて 此語を聴く」等云云、 11 又云く「日月度を失い時節反逆し 或は赤日出で 或は黒日出で二三四五の日出で 或は日蝕して光無く或は日輪一 12 重二重四五重輪現ず」等云云、文の心は悪比丘等・国に充満して国王・太子・王子等をたぼらかして破仏法・破国の 13 因縁をとかば 其の国の王等此の人にたぼらかされてをぼすやう、 此の法こそ持仏法の因縁・持国の因縁とをもひ 14 此の言ををさめてをこなうならば 日月に変あり大風と大雨と大火等出来し 次には内賊と申して親類より大兵乱お 15 こり我がかたうどしぬべき者をば 皆打ち失いて後には他国にせめられて 或は自殺し或はいけどりにせられて或は 16 降人となるべし 是れ偏に仏法をほろぼし 国をほろぼす故なり、 守護経に云く「彼の釈迦牟尼如来所有の教法は 17 一切の天魔外道悪人五通の神仙皆乃至少分をも破壊せず而るに此の名相の諸の悪沙門 皆悉く毀滅して余り有ること 18 無からしむ須弥山を仮使三千界の中の草木を尽して 薪と為し長時に焚焼すとも一毫も損すること無し 若し劫火起 0286 01 りて火内従り生じ 須臾も焼滅せんには灰燼をも余す無きが如し」等云云、 蓮華面経に云く「仏阿難に告わく譬え 02 ば師子の命終せんに 若しは空若しは地若しは水若しは陸 所有の衆生敢て師子の身の宍を食わず 唯師子自ら諸の 03 虫を生じて自ら師子の宍を食うが如し 阿難我が之の仏法は余の能く壊るに非ず 是れ我法の中の諸の悪比丘我が三 04 大阿僧祇劫積行勤苦し集むる所の仏法を破らん」 等云云、 経文の心は過去の迦葉仏釈迦如来の末法の事を訖哩枳 05 王にかたらせ給い釈迦如来の仏法をば いかなるものがうしなうべき、 大族王の五天の堂舎を焼き払い十六大国の 06 僧尼を殺せし 漢土の武宗皇帝の九国の寺塔四千六百余所を消滅せしめ 僧尼二十六万五百人を還俗せし等のごとく 07 なる悪人等は釈迦の仏法をば失うべからず、 三衣を身にまとひ一鉢を頚にかけ 八万法蔵を胸にうかべ十二部経を 08 口にずうせん僧侶が彼の仏法を失うべし、 譬へば須弥山は金の山なり 三千大千世界の草木をもつて四天六欲に充 09 満してつみこめて 一年二年百千万億年が間やくとも一分も損ずべからず、 而るを劫火をこらん時須弥の根より豆 10 計りの火いでて須弥山をやくのみならず三千大千世界をやき失うべし、 若し仏記のごとくならば十宗・八宗・内典 11 の僧等が仏教の須弥山をば焼き払うべきにや、 小乗の倶舎・成実・律僧等が大乗をそねむ胸の瞋恚は炎なり真言の 12 善無畏・禅宗の三階等・浄土宗の善導等は仏教の師子の肉より出来せる蝗虫の比丘なり、伝教大師は三論・法相・華 13 厳等の日本の碩徳等を六虫とかかせ給へり、 日蓮は真言・禅宗・浄土等の元祖を三虫となづく、又天台宗の慈覚・ 14 安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子の身の中の三虫なり。 -----― 問うて言う。何をもってこれを信ずることができるのか。 答えて言う。最勝王経には「悪人を愛敬し、善人を罰することによって、星宿や風雨が順調でなくなる」とある。この経文のとおりであれば、この日本の国に悪人がおり、王臣がその悪人に帰依していることは疑いない。またこの国に智人があり、国主がこれを憎み迫害を加えていることも、間違いない。また同じく最勝王経には「三十三天の衆が、みな怒りの心をおこしているから、怪しい流星がおちたり、二つの太陽が同時に出たり、他国の怨賊が攻めきたって国中が戦乱の巷になるであろう」とある。すでに日本の国には、天変もあり地夭もある。また他国よりより蒙古が攻めきたっている。三十三天の怒っていることも、疑いないであろう。 仁王経には「もろもろの悪比丘が多くの名誉や利益を求め、国王・太子・王子の前において、みずから仏法を破失する因縁や、国を破る因縁を説く。その王はこれをわきまえないで、悪比丘を信じ、その語を聞いている」とあり、また「日月が度を失って不規則になり、時節が逆になったり、あるいは赤い日、黒い日、あるいは二三四五の日が出たりする。あるいは日が蝕して光がなく、あるいは太陽が一重二重に出たり四五重輪出たりする」とある。 これらの経文の心は、悪比丘が国に充満して、国王・太子・王子等をたぼらかして破仏法・破国の因縁を説く。その国の王等はこの悪人にたぼらかされて、この法こそ持仏法の因縁であり、持国の因縁であろうと思い、そのことばを用いていくならば、日月に変があり、大風と大雨と大火が起こり、次には内賊といって親しい中から大兵乱がおこり、自分の味方をする者などをみな打ち殺してしまい、のちには他国に攻められて、あるいは自殺し、あるいは生け捕りにされ、あるいは降人として敵にとられるであろう。これはひとえに、仏法を滅ぼし国を滅ぼすゆえである。 守護経にいわく「彼の釈迦牟尼如来のたもつところの教法は、一切の天魔・外道・悪人・五神通をえた神仙のような敵はこれを少しも破壊することはできない。しかし、名ばかりの悪僧が、ことごとく仏法を破り滅してしまうであろう。須弥山を、たとえ三千世界の中の草木を全部あつめて薪として長時間焼いたところで、須弥山は少しも損じない。しかし、もし劫火がこの地の内より生じたならば、たちまち焼滅し、その灰さえ残らないであろう」と。 蓮華面経にいわく「仏が阿難に告げていうには、たとえば師子が死んだ時に、もしは空、もしは地、もしは水、もしは陸地に棲んでいるいかなる動物もあえて師子の肉を食べようとしない。ただ師子がみずからの死体のなかにもろもろの虫が発生して、この虫が師子を食うのである。阿難よ。それと同じようにわが仏法も外部から破ることはできないが、仏法中の悪比丘が、仏が三大阿僧祇劫にもわたって行を積み、勤苦して集めたところ仏法を破るであろう」と。 この経文の心を述べるならば、過去の迦葉仏が釈迦如来の末法にその仏法をいかなる者が滅するということを訖哩枳王に説かれたところによれば、かの大族王は全インドの寺院を焼き払い、十六大国の僧尼を殺した。また中国の武宗皇帝は九国の寺塔四千六百余所を消滅させ、僧尼二十六万五百人を還俗させたが、このような悪人は、釈迦の仏法を滅失することはできない。三衣を身にまとい、一鉢を頚にかけ、八万法蔵を胸にうかべ、十二部経を口に誦す僧侶たちが、仏法を破り失うであろう。と。 たとえば須弥山は金の山である。三千大千世界の草木を、四天王より六欲天まで、いっぱいにつめて、一年二年、百千万億年の間焼いても、一分も焼け損ずることはない。しかし劫火がおきる時には、須弥山のふもとから豆つぶばかりの火が出て、須弥山を焼きつくすのみならず、三千大千世界をも焼き失うのである。 仏の予言のごとくであるならば、十宗・八宗といわれる仏門の僧たちが、仏教の須弥山を焼き払うのである。小乗の倶舎・成実・律の僧たちが大乗を嫉む胸の怒りは炎である。真言の善無畏、それに禅宗の三階等や、浄土宗の善導等は、仏教の師子の肉から発生した蝗虫のような坊主である。伝教大師は三論・法相・華厳等の日本の高僧等を六虫と書かれた。日蓮は真言・禅宗・浄土等の元祖を三匹の虫と名づける。天台宗の慈覚・安然・慧心は法華経・伝教大師の師子の身の中の三虫である。 -----― 15 此等の大謗法の根源をただす日蓮にあだをなせば 天神もをしみ地祇もいからせ給いて災夭も大に起るなり、さ 16 れば心うべし一閻浮提第一の大事を申すゆへに 最第一の瑞相此れをこれり、 あわれなるかなや・なげかしきかな 17 や 日本国の人皆無間大城に堕ちむ事よ、 悦しきかなや・楽かなや不肖の身として 今度心田に仏種をうえたる、 -----― これらの大謗法の根源を糺明する日蓮に、迫害を加え怨嫉をいだくことにより、天神も光をおしまれ、地の神も怒られて、災夭も大いにおこるのである。されば心得なさい。一閻浮提第一の大事を申すゆへに、最第一の瑞相がここにおきたのである。あわれなるかな、なげかわしいかな、日本国の人はみな無間大城におちることよ。悦ばしいかな、楽しいかな、不肖の身として、このたび心田に仏種を植えたことよ。 |
最勝王経
中国・唐代の義浄訳の金光明最勝王経のこと。10巻31品からなる。金光明経漢訳5本の一。仏が王舎城耆闍崛山に住していた時に説いたとされる方等部の経、この経は諸経の王であり、護持する者は護世の四天王をはじめ、一切の諸天善神の加護を受けるが、逆に、国王が正法を護持しなければ、諸天善神が国を捨て去るため、三災七難が起こると説かれている。
―――
三十三天
帝釈天のこと。
―――
仁王経
釈尊一代五時のうち盤若部の結経である。恌秦の鳩摩羅什(0334~0413)訳の「仏説仁王般若波羅蜜経」と、唐の不空三蔵(0705~0774)訳の「仁王護国般若波羅蜜経」がある。羅什訳のほうが広く用いられている。この仁王経は、仁徳ある帝王が般若波羅蜜を受持し政道を行ずれば、三災七難が起こらず「万民豊楽、国土安穏」となると説かれている。このゆえに、法華経、金光明経とともに、護国の三部経として広く尊崇された。般若波羅蜜とは、菩薩行の六波羅蜜の一つであるが、般若とは智慧で、その実体は法華経文底秘沈の大法を信じ、以信代慧によって知恵を得ることである。末法においては、この三大秘法を受持して広宣流布することが般若波羅蜜を行ずることになる。法蓮抄には「夫れ天地は国の明鏡なり今此の国に天災地夭あり知るべし国主に失ありと云う事を鏡にうかべたれば之を諍うべからず国主・ 小禍のある時は天鏡に小災見ゆ今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を、仁王経には小難は無量なり中難は二十九・ 大難は七とあり此の経をば一には仁王と名づけ二には天地鏡と名づく、此の国主を天地鏡に移して見るに明白なり、又此の経文に云く『聖人去らん時は七難必ず起る』等云云、当に知るべし此の国に大聖人有りと、又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を」とある。
―――
守護経
中国・唐代の般若と牟尼室利の共著。守護国界主陀羅尼経の略。密教部の経とされる。国主を守護することが、人民を守護することになるとの理を明かし、正法守護の功徳が説かれている。
―――
名相の諸の悪沙門
名前は姿形ばかりの僧侶。
―――
蓮華面経
隋の那連提那舎訳2巻のこと。
―――
訖哩枳王
過去の迦葉仏のときに出現した王で、迦葉仏の父といわれる。迦葉仏の仏法を深く信じていた。ある夜、十弥猴と一白象の二夢を見た。その第一の十弥猴のなかで九猴は城中で乱暴をはたらき略奪したが、一猴のみ樹上にあって人を悩ますことがなかった。迦葉仏は九猴を破戒の坊主、一猴を正法の行者にたとえて末法の相を示した。伝教大師の顕戒論に、この十種類の沙門を次のように説いている。①貧畏不活沙門②奴有怖畏沙門③怖畏債負沙門④仏法の過失を求める沙門⑤勝他のための沙門⑥名称のための沙門⑦生天のための沙門⑧利養のための沙門⑨生王のための沙門⑩真実心の沙門。前の九種の沙門は破仏法宗であり、第十のみ真実の沙門である。
―――
大族王
大唐西域記巻四にある。大族王は、北インド・結迦国の王で、邪見にして仏法を破壊した。時に、摩竭陀国の王、幻日王は篤く仏法を崇敬し、大族王との戦に勝った。大族王は幻日王の母のとりなしで、国に還るよう放されたが、大族王は加湿弥羅国に投じ、その国を奪って自立した。その勢いに乗り健駄羅国を征伐し仏教徒を殺害した。大族王は国に還ろうとしたが、中途で死んだ。幻日王は後に王位を捨てて出家した。
―――
五天
五天竺のこと。インドの古称。全インドを東・西・南・北・中天竺と区分する。五印度・五天・五印ともいう。
―――
十六大国
釈尊在世の時代、インドにあった十六の大国のこと。長阿含経巻五には①鴦伽、②摩竭堤、③迦尸、④居薩羅、⑤抜祇、⑥末羅、⑦支堤、⑧抜沙、⑨居楼、⑩般闍羅、⑪頗漯波、⑫阿般堤、⑬婆蹉、⑭蘇羅婆、⑮乾陀羅、⑯剣并沙の国を挙げている。その他経論によって諸説がある。
―――
武宗皇帝
(在位0841~0847)唐の第15代皇帝。はじめ念仏宗を重んじたため、外敵の侵入と節度使の内乱が続発した。そこで同士・趙帰真を重用して仏教排斥に転じ、会昌5年には仏寺46,000を破壊し、僧尼26万余を還俗せしめ、田を数1000万頃、奴隷15万人を没収、仏教を弾圧した。御書には念仏追放のために比叡山の大衆が出した奏状が引かれており、その一条に徽宗皇帝の礼を引いて、唐の世の乱れた原因を「是れ則ち恣に浄土の一門を信じて 護国の諸教を仰がざるに依つてなり」(0088)と述べられている。
―――
須弥山は金の山なり
竜樹の大智度論には「五色須弥山に近づけば自らその色を失い、みな同じく金色となるがごとし」とあり、僧肇の註維摩詰経には「須弥山は帝釈天の住所金剛山なり」とある。
―――
三千大千世界
古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。
―――
四天
四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
―――
六欲
欲界には六重の天がある。すなわち四王天・忉利天・夜摩天・兜率天・化楽天・他化自在天で、このうち四王天は須弥山の中腹にあり、忉利天は須弥山山頂にあるという。これを地居天また三十三天と名づけ、兜率天以上は空中にあるので、空居天と名づける。なお、欲界とは、下は地獄界から上は天上界の六欲天までのすべてを含み、食欲、性欲などの欲望の世界である。
―――
劫火
四劫の中の壊劫の時に起きる大の三災のなかの火災。世界を滅ぼす大火災のこと。
―――――――――
さきに大地震と大彗星のいわれを問われたのに対し、その瑞相は禅・念仏・真言という亡国の悪法を重んじ、三大秘法を建立される日蓮大聖人を迫害するゆえ、天が怒って起きるところの大難であると答えられたのに対して、この章ではその証文を述べられている。
その文証として、最勝王経・仁王経・守護経・蓮華面経を引かれている。これらはともに、禅・念仏・真言が亡国の悪法である証文である。
ゆえに御書には「諌暁八幡抄」「御義口伝」「秋元御書」等々各所に、真言は亡国・禅は天魔・念仏は無間地獄等と仰せられているが、日寛上人はそれは一往であって、再往はこれらの三宗が亡国であるとされている。無間地獄へは堕ちるが、天魔でもない。亡国でもないということはありえない。地獄へおとす悪法は、天魔でもあり亡国でもあるということである。
師子の身の中の虫
「師子身中の虫」とは、一般によく使われることわざである。蓮華面経の文によると、師子は死んでもほかの動物がよりつかないほど、力もあり権威があると考えられている。しかし、いかに師子に力があっても、その身中に発生する小虫によって、食いつくされてしまうとう。ゆえに力もない。権威もない存在ならば、身中の虫をまつまでもなく外敵に滅ぼされ、押し潰されてしまう。いまの創価学会に、もし創価学会に害する力があるとすれば、それは師子身中の虫以外には、なにものもないであろう。
本抄に示されているように、伝教大師は奈良の六宗を、六匹の虫とされた。日蓮大聖人は真言・禅・浄土の元祖を三虫とし、また天台宗の慈覚・安然・慧心を法華経の三虫とされている。これらはみな仏教の中から仏教を破り、天台宗の中から法華経を破ったものである。また「日興遺誡置文には「偽書を造つて御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心得可き事」(1617-08)ときびしく戒められている。日蓮大聖人の滅後このような師子身中の虫が数多く発生した。その一つが現在の日蓮正宗であり、さらに最近になって偽日蓮宗が数多く発生しているが、みな害虫であることに変われはない。
最近でも、日蓮宗身延派のある学者は「四箇の格言が、そのまま今日も生きているとおもうものがあるとすれば、ナンセンスである」というような、日蓮大聖人の邪宗折伏の大獅子吼を否定する暴言を吐いている。また日蓮門下と称しながら「現代は折伏にあらずして摂受である」とこいったりするものも多い。さらにもっと甚だしいものは、師敵対の五老僧以来の御本尊雑乱であろう。このような邪宗日蓮宗の徒もまた、末法の仏法の中の師子身中の虫というべきである。
0286:18~0287:07 第31章 閻浮第一の聖人top
| 18 いまにしもみよ 大蒙古国・数万艘の兵船をうかべて日本をせめば 上一人より下万民にいたるまで一切の仏寺一切 0287 01 の神寺をばなげすてて各各声をつるべて南無妙法蓮華経・ 南無妙法蓮華経と唱え掌を合せてたすけ給え、 日蓮の 02 御房・ 日蓮の御房とさけび候はんずるにや、 例せば月支のいう大族王は幻日王に掌をあはせ日本の宗盛はかぢわ 03 らをうやまう、 大慢のものは敵に随うという・このことわりなり、 彼の軽毀大慢の比丘等は始めには杖木をとと 04 のへて不軽菩薩を打ちしかども 後には掌をあはせて失をくゆ、 提婆達多は釈尊の御身に血をいだししかども 臨 05 終の時には南無と唱えたりき、 仏とだに申したりしかば地獄には堕つべからざりしを 業ふかくして但南無とのみ 06 となへて仏とはいはず、 今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすと も南無計りにてやあらんずらんふび 07 んふびん。 -----― いまに見るがよい。大蒙古国が数万艘の兵船をうかべて、日本へ攻めてくるならば、上一人より下万民にいたるまで、いっさいの仏寺やいっさいの神社をば投げ捨てて、おのおの声を合わせて南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えて「たすけたまえ、日蓮の御房、日蓮の御房」と叫ぶようになるであろう。たとえばインドの大族王は幻日王に手を合わせ、日本の平宗盛は梶原景時を敬ったようなものである。このように、大傲慢をきわめるものは、逆に敵に従わなければならないというのが道理である。 不軽菩薩を軽んじ迫害を加えた大慢の比丘たちは、初めには杖や木を用意して不軽菩薩を打ったが、彼に手を合わせて、その誤りを悔い改めた。提婆達多は釈尊の御身から血を出すほどの危害を加えながらも、臨終の時には「南無」と唱えた。「南無仏」といえば地獄にはおちないですんだのに、謗法の罪業が深く、ただ「南無」とだけ唱えて、「仏」とまでいえなかった。今、日本国の高僧たちも、「南無日蓮聖人」と唱えようとしても、南無だけで終わるのではなかろうか。かわいそうである。かわいそうである。 |
声をつるべて
声をあわせて、声をつらねて。
―――
大族王は幻日王に掌をあはせ
大唐西域記巻四にある。大族王は、北インド・結迦国の王で、邪見にして仏法を破壊した。時に、摩竭陀国の王、幻日王は篤く仏法を崇敬し、大族王との戦に勝ち、大族王を生け捕りにした。幻日王は仏法破壊の罪をもって大族王を極刑にしようとしたがの母のとりなしで放たれた。
―――
宗盛はかぢわらをうやまう
平家物語には「元暦二年九郎大夫半眼義経、大臣殿父子を具足し奉って鎌倉へこそ下されけれ、梶原平三景時向て大臣殿父子請取奉りて源二位殿の亭に入れ奉る。向なる座に居奉りて床を隔て対面あり。鎌倉殿比企十四郎能員(大聖人の信徒・大学三郎の父)をして、大臣殿へ申しけるは」とある。すなわち平宗盛は、平家が壇ノ浦で亡びたとき、捕らえられて鎌倉に送られた。一度は梶原景時に助けられたが、のちに京都に送られ、近江国篠原(滋賀県近江八幡市篠原)で斬られた。
―――
臨終の時には南無と唱えたりき
三逆罪を犯した提婆達多は、臨終の時、南無仏といわんとして、ただ南無とのみとなえて生身のまま無間地獄に落ちたとある。
―――
南無日蓮聖人
南無日蓮大聖人とは、末法の御本仏の文証である。聖人知三世事には「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」(0974-12)とある。方便品には「慧日大聖尊」と。尊は人である。人は尊である。唯我独尊・唯我一人も同じ意であるゆえである。まさに大聖人とは仏の別号なることを知るべきである。すなわち日蓮大聖人は末法下種の教主であられる。南無日蓮大聖人とは、御本仏の御宣言と拝すべきである。
―――――――――
これより日蓮大聖人が末法下種の教主であることを顕されるなかの第三として、日蓮大聖人が閻浮第一の聖人であることを明かされる。閻浮第一の聖人とは、末法の御本仏の御事である。聖人知三世事には「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う」(0974-01)と仰せられ、外道の聖人、小乗の聖人、通教、別教、法華経迹門、本門と挙げ終わって「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」(0974-12)と断定されている。
堕婆達多は釈尊の御身に
三逆罪を犯した提婆達多は、臨終のときに南無仏といおうとして、ただ南無とのみ唱えて生身のまま無間地獄に堕ちたという。増阿含経四十七にいわく「提婆達兜火のために焼かるる所すなわち悔心を発し、如来の所において正に南無仏と称せんと欲す。しかるに究竟せず適に南無と称することを得、すなわち地獄に入る」と。また天台大師の法華秀句四には「調達臨終に南無と称し、いまだ仏と称するを得ず、すなわち地獄に堕つ」とある。それと同じように、いま日本国の高僧も臨終の時に心から悔いて南無日蓮大聖人と唱えようとするが、結局、地獄へ堕ちてしまうであろうと仰せなのである。
また「南無日蓮大聖人ととなえんとすとも南無計りにてやあらんずらんふびんふびん」との仰せは、じつに絶対の御確信に立たれてのおことばである。真実の末法の御本仏にあらずして、なぜこのように断言できようか。日蓮大聖人こそ、末法に三大秘法を広宣流布される御本仏であらせられるのである。
御義口伝には「南無とは梵語なり此には帰命と云う、人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり」(0708-02)と仰せのように「南無」とは人本尊・法本尊に帰依したてまつることをいうのである。ゆえに「南無釈尊」といわないで、「南無日蓮大聖人」と唱えられるからには、法本尊もまた「釈尊の法華経」ではなくて、南無妙法蓮華経でなくてはならない。
ゆえに経王殿御返事には法の面から「仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(1124-12)と仰せであり、さらに観心本尊抄では、より簡潔に「彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(0249-17)と仰せなのである。
0287:08~0288:07 第32章 聖人たるを広く釈すtop
| 08 外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを 聖人という余に三度のかうみようあり一には去し 09 文応元年太歳庚申七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時宿谷の入道に向つて云く禅宗と念仏宗と 10 を失い給うべしと申させ給へ 此の事を御用いなきならば 此の一門より事をこりて他国にせめられさせ給うべし、 11 二には去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く 日蓮は日本国の棟梁なり 予を失なうは日本国の 12 柱橦を倒すなり、 只今に自界反逆難とてどしうちして他国侵逼難とて 此の国の人人・他国に打ち殺さるのみなら 13 ず多くいけどりにせらるべし、建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきは 14 らいて彼等が頚をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ、第三には去年文永十一年四月八日左 15 衛門尉に語つて云く、 王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも 心をば随えられたてまつるべか 16 らず念仏の無間獄・禅の天魔の所為なる事は疑いなし、 殊に真言宗が此の国土の大なるわざはひにては候なり 大 17 蒙古を調伏せん事・真言師には仰せ付けらるべからず若し 大事を真言師・調伏するならば いよいよいそいで此の 18 国ほろぶべしと申せしかば 頼綱問うて云くいつごろよせ候べき、 予言く経文にはいつとはみへ候はねども天の御 0288 01 気色いかりすくなからず・きうに見へて候よも 今年はすごし候はじと語りたりき、 此の三つの大事は日蓮が申し 02 たるにはあらず 只偏に釈迦如来の御神・我身に入りかわせ給いけるにや我が身ながらも 悦び身にあまる法華経の 03 一念三千と申す大事の法門はこれなり、 経に云く所謂諸法如是相と申すは何事ぞ 十如是の始の相如是が第一の大 04 事にて候へば仏は世にいでさせ給う、 智人は起をしる蛇みづから蛇をしるとはこれなり、 衆流あつまりて大海と 05 なる微塵つもりて須弥山となれり、 日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一渧・一微塵のごとし、 法華経を二 06 人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし仏になる道は 07 此れよりほかに又もとむる事なかれ。 -----― 外典に云う。「将来に起きることを知るのを聖人という」と。内典に云く「三世を知るを聖人という」と。 日蓮には三度の大功績がある。 一には、去る文応元年七月十六日に「立正安国論」を最明寺入道時頼にたてまつった時に、宿谷の入道に向って「禅宗と念仏宗は捨てなさいと執権時頼に忠告しなさい。この意見を用いないならば、北条の一門から内乱がおき、ついには他国から攻められるであろう」といったことである。 二には去る文永八年九月十二日の夕刻、平左衛門尉に向って「日蓮は日本国の棟梁である。日蓮を失うということは日本国の柱を倒すことになる。ただいまに自界反逆難とて、一族の同士打ちが始まり、そのうえ他国侵逼難といって、此の国の人人が他国から打ち殺されるのみならず、多く生け捕りにされるであろう。建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺などの一切の念仏者や禅僧などの寺院を焼き払って、彼らの首を由比の浜で斬らなければ、日本の国はほろびるであろう」といったことである。 三には去年文永十一年四月八日に、平左衛門尉に「鎌倉幕府の代に生まれあわせた以上は、身は幕府に随えられているようであるが、心まで随っているではない。念仏は無間獄・禅は天魔の所為であることは疑いない。ことに真言宗が此の国土の大なる禍いである。大蒙古の調伏を真言師に仰せつけてはならない。もしこの大事を真言師に調伏するならいよいよ急いでこの国が滅びるであろう」と申したところ、頼綱は「いつごろ寄せてくるであろうか」ときいた。そこで日蓮は「経文には何時とは書いていないが、天のようすから怒りがすくなくないように思う。襲来の時は迫っていて、恐らく今年を越すことはあるまい」と答えたのである。 この三つの大事は、日蓮が述べているのではない。ただひとえに釈迦如来の御心が、わが心に入り替わられてのことであろう。わが身ながらも喜びが身にあまる思いである。法華経の一念三千と申す大事の法門がこれである。法華経方便品の「いわゆる諸法の是の如き相」というのはいかなる意味か。十如是の初めの「相如是」が第一の大事であるから、仏は世に出現されるのである。「智人は将来の起こることを知り蛇は自から蛇を知る」というのがこのことである。 多くの流れが集まって大海となる。わずかの塵がつまって須弥山となる。日蓮が法華経を信じ始めたころは、日本の国にとっては一つの渧、一つの微塵のようであるが、その結果二人・三人・十人・百千万億人と唱え伝えるならば、やがて妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるであろう。仏になる道はこれよりもかに求めてはならないのである。 |
未萠をしるを聖人という
三沢抄には「聖人は未萠を知ると申して三世の中に未来の事を知るを・まことの聖人とは申すなり」(1488-09)聖人知三世事「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う、儒家の三皇・五帝並びに三聖は但現在を知つて過・未を知らず外道は過去八万・未来八万を知る一分の聖人なり、小乗の二乗は過去・未来の因果を知る外道に勝れたる聖人なり、小乗の菩薩は過去三僧祇菩薩、通教の菩薩は過去に動踰塵劫を経歴せり、別教の菩薩は一一の位の中に多倶低劫の過去を知る、法華経の迹門は過去の三千塵点劫を演説す一代超過是なり、本門は五百塵点劫・過去遠遠劫をも之を演説し又未来無数劫の事をも宣伝し、之に依つて之を案ずるに委く過未を知るは聖人の本なり」(0974-01)一昨日御書「夫れ未萠を知る者は六正の聖臣なり」(0183-08)等とある。外典とは仏教典以外の書であり、説苑や文選をさす。「未萠」とは、草木の萌芽がまだ生じない姿を、事の起こらないことをたとえていうことばである。いまだ兆しがはっきりしないのに、未来のことを知る人は聖人なのである。
―――
三世を知るを聖人という
聖人知三世事には「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う、儒家の三皇・五帝並びに三聖は但現在を知つて過・未を知らず外道は過去八万・未来八万を知る一分の聖人なり、小乗の二乗は過去・未来の因果を知る外道に勝れたる聖人なり、小乗の菩薩は過去三僧祇菩薩、通教の菩薩は過去に動踰塵劫を経歴せり、別教の菩薩は一一の位の中に多倶低劫の過去を知る、法華経の迹門は過去の三千塵点劫を演説す一代超過是なり、本門は五百塵点劫・過去遠遠劫をも之を演説し又未来無数劫の事をも宣伝し、之に依つて之を案ずるに 委く過未を知るは聖人の本なり」(0974-01)蒙古使御書「仏のいみじきと申すは過去を勘へ未来をしり、三世を知しめすに過ぎて候御智慧はなし」(1473-04)と。内典とは仏法の経典をいう。聖人とは仏の異名である。すなわち仏教では、過去・現在・未来の三世を知っているのを、聖人といい仏というのである。
―――
余に三度のかうみようあり
「かうみょう」とは高名の名高き、功名を意味する。日蓮大聖人の三度の予言がすべて適中したこと。①文応元年(1260)7月16日、「立正安国論」を鎌倉幕府の前執権・北条時頼に提出、念仏・禅等の邪宗・邪義が三災七難の根本原因であるとし、これらを捨てないならば、残っている自界叛逆難・他国侵逼難が起こると警告したこと。②文永8年(171)9月12日、竜の口の法難直前、鎌倉幕府侍所の権力者・平左衛門尉頼綱が大聖人を襲った時に、日本国の柱である日蓮をうつならば、自界叛逆難・他国侵逼難の2難が起こり、必ず滅亡するであろうと厳しく警告したこと③文永11年(1274)4月8日、佐渡流罪の赦免後、鎌倉に戻られた時、再度、平左衛門尉を諌めて、念仏・禅、特に真言宗が日本の最も大きな災いのもとであり、必ず今年中には蒙古の大軍の襲来があると断言し、文永の役、文永11年(1274)。弘安の役弘安4年(1281)が競い起こったこと。
―――
最明寺殿
北条時頼(1227~1263)のこと。時氏の子、母は安達景盛の娘である。鎌倉幕府第五代の執権になったが、隠退し最明寺で出家したので、最明寺殿とも最明寺入道とも呼ばれた。宝治元年(1247)舅の景盛と謀って幕府成立以来の豪族三浦氏を滅ぼし、建長元年(1249)引付衆を設けて訴訟制度の能率化を図り、建長4年(1252)将軍藤原頼嗣を廃して、宗尊親王を京都から迎えるなど、幕府の刷新と執権北条氏の権力確立に努力を傾けた。宋僧蘭渓道隆について禅を受け建長寺を建立した。康元元年(1256)執権職を重時の子長時に委ね、最明寺に住んだが得宗として家長の権限を握り、幕府の最高権力者であるということに変わりはなかった。
―――
宿屋の入道
宿屋左衛門入道光則のこと。執権北条時頼、時宗父子の側近として仕えた武士。文応元年(1260)7月16日、日蓮大聖人は寺社奉行の宿屋入道を通じて、立正安国論を北条時頼に奏した。その後文永8年(1271)大聖人の竜口の法難の際、日朗等の五人の弟子を自分の邸の土牢に入れた。このとき日朗に折伏され、良観の帰依をやめて、大聖人の門に入ったと伝えられている。
―――
禅宗と念仏宗とを失い給うべし
日蓮大聖人の立正安国論には、ただ法然の念仏を破折されたのに、なぜ禅宗を入れられたかといえば、安国論は念仏を一例として全邪宗を打ち破られたのである。また、とくに諸宗のなかで、禅宗は北条時頼の帰依していた宗教であるから、宿屋入道に向かって「禅宗と念仏宗は、とくに止めよ」といわれていたのである。報恩抄には「国主は禅宗を尊む日蓮は天魔の所為というゆへに我と招ける・わざわひなれば」(0332-10)とある。
―――
此の一門より事をこりて他国にせめられさせ給うべし
三度の高名の第一。「此の一門」とは北条氏、「他国」とは大蒙古国である。種種御振舞御書には「 去ぬる文永五年後の正月十八日・西戎・大蒙古国より日本国ををそうべきよし牒状をわたす、日蓮が去ぬる文応元年庚太申歳に勘えたりし立正安国論今すこしもたがわず符合しぬ」(0909-01)とある。
―――
二には去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く
三度の高名の第二。竜の口の法難の直前に、鎌倉・日蓮大聖人の草庵に、平左衛門尉の軍勢数百の兵士が押し寄せてきたとき、大聖人は平左衛門に向かって自他の難が起こることを予言されている。種種御振舞御書には「日蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし、梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし、其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし、其の時後悔あるべしと平左衛門尉に申し付けしかども」(0911-10)とある。
―――
平左衛門尉
日蓮大聖人に敵対した鎌倉幕府の実力者(~1293)。名を頼綱という。執権北条氏の家司で侍所の司を兼ねていた。鎌倉幕府の機構は、評定制度であるが、最後の決定権は執権職が握っていた。しかるに平左衛門尉は、北条家の家司であるから、身分は評定衆よりはるかに下だが、実際の政治上、司法上の陰の実力は、政所の執事二階堂氏、問注所の執事太田氏などよりも強力であり、くわえて侍所の実権も握っているため、政兵の大権を自由にしていたことがわかる。終始、日蓮大聖人迫害の中心となり、大聖人を伊豆伊東、佐渡に流罪したのも、熱原の三烈士を斬首したのも彼であった。だが日蓮大聖人は、この平左衛門尉を「平左衛門こそ提婆達多よ」(0916)と、大聖人成道の善知識であると述べられている。
―――
日蓮は日本国の棟梁なり
日蓮大聖人が主・師・親三徳具備の末法の御本仏であることを示すなかで、主徳を強調されている文。種種御振舞御書には、「日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければ・たもたず人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり平左衛門既に 日本の柱をたをしぬ、只今世乱れてそれともなく・ゆめの如くに妄語出来して此の御一門どしうちして後には他国よりせめらるべし」(0919-03)とある。
―――
自界叛逆
仲間同士の争い、同士討ちをいう。一国が幾つかの勢力に分かれて相争うこと。一政党の派閥、家庭内で、互いに憎みあうこと。現代においては、同じ地球共同体である国家と国家の対立も、自界叛逆難である。金光明経に「一切の人衆皆 善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん」大集経に「十不善業の道・貪瞋癡倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿の如くならん」とあるように、民衆の生命の濁り、貧瞋癡の三毒が盛んになることから自界叛逆難は起こる。また、更にその根源は仁王経に「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」とあるように、鬼神、すなわち思想の混乱が、全体の利益、繁栄しようとする統一を阻害し、いたずらに私欲、小利益に執着させ、利害が衝突し、争いが起こるのである。
―――
建長寺
神奈川県鎌倉市にある臨済宗建長寺派の本山。鎌倉五山の首位。巨福山と号す。建長元年(1249)第五代執権・北条時頼が建立を発願し、栄僧・蘭渓道隆を開山として建長5年(1253)に完成した。仏殿は尺六の地蔵を本尊とし、脇士に千体の小地蔵を置く。吾妻鏡の建長5年11月25日の条には落慶の模様が「建長寺の供養なり。尺六の地蔵をもって中尊となし、また同象千体を安置す。相州殊に精誠を凝さしめたまう(中略)願文の草は前大内記茂範朝臣。清書は相州。導師は栄朝の僧道隆禅師」と記されている。
―――
寿福寺
神奈川県鎌倉市にある臨済宗寺院。正治2年(1200)北条政子の発願によって建立。栄西が開山。初期の禅宗の発展に重要な位置を占めた。吾妻鏡の正治2年(1200)閏2月13日の条には「亀谷の地を葉山房律師栄西に寄付せられ、清浄結果の地たるべきの由、仰せ下さる。午の剋、結衆等その地に行道す。施主監臨したまう。所右衛門尉朝光、御輿に供奉す。義清仮屋を構え、珍膳を儲くと云々。未の剋、堂舍造作の事始なり。善信・行光等これを奉行す」と寿福寺の造営の始めについて記している。開山の栄西は興禅護国論巻上に「戒律は是れ令法久住の法なり。今此の禅宗は戒律を以って宗となす」と述べており、寿福寺では、戒律が重んじられたと思われる。
―――
極楽寺
神奈川県鎌倉市にある真言律宗の寺院。霊鷲山感応院または霊山寺と号す。奈良・西大寺の末寺。元享釈書、縁起等によると、正元元年(1259)創建。幕府の重臣・北条重時の子の長時・業時の協力を得て開き、弘長元年(1261)12月、長時が良観を招いた。建治元年(1275)3月、火事で堂舎が灰塵に帰し、後に復興された。弘安4年(1281)蒙古調伏の祈禱を行ったことから、北条時宗によって祈願寺となり、元弘2年(1333)には後醍醐天皇の勅願寺になる。また極楽寺は飯島津=和賀江島を管轄し、六浦で通行税を徴収する特権を得ていた。
―――
大仏(鎌倉)
大仏殿の事。大霊山浄泉寺と号する。建長寺の持分で、坐像長三丈六尺といわれ、阿弥陀仏であるから念仏宗である。寛元元年に浄光が建立した。
―――
長楽寺
法然の弟子・隆観が住んでいたという。北条の一門である名越家の建立で現存しない。
―――
第三には去年文永十一年四月八日左衛門尉に語つて云く
三度の高名の第三。大聖人が佐渡から御帰りの直後である。文永11年(1274)2月14日に御赦免、3月8日に赦免状が佐渡に着き、3月26日に鎌倉に入られ、4月8日に、平左衛門と対面されたのである。種種御振舞御書には「平の左衛門尉は上の御使の様にて大蒙古国はいつか渡り候べきと申す、日蓮答えて云く今年は一定なりそれにとつては 日蓮已前より勘へ申すをば御用ひなし、譬えば病の起りを知らざる人の病を治せば弥よ病は倍増すべし、真言師だにも調伏するならば 弥よ此の国軍にまくべし・穴賢穴賢、真言師・総じて当世の法師等をもつて御祈り有るべからず・各各は仏法をしらせ給うておわさばこそ 申すともしらせ給はめ、又何なる不思議にやあるらん他事には・ことにして日蓮が申す事は御用いなし」(0921-04)とある。
―――
王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず
「王地」とは、生まれてきた国土。「身をば随えられたてまつる」とは、行政機関の立てた規則・法律・条令等には逆らわないこと。「心をば随えられたてまつるべからず」とは、自己の信念・信条・意思を意味し、人間宣言の語である。ユネスコの「語録 人間の権利」にも収録されている。
―――
よも今年はすごし候はじ
ここでいう今年とは文永11年(1274)で、蒙古の襲来を予言している。種種御振舞御書には「同十月に大蒙古国よせて壱岐・対馬の二箇国を打ち取らるるのみならず、太宰府もやぶられて少弐入道・大友等ききにげににげ其の外の兵者ども其の事ともなく大体打たれぬ」(0923-02)とある。
―――
只偏に釈迦如来の御神・我身に入りかわせ給いけるにや
「釈迦如来の御神」とは、即これ久遠元初自受用身であり、即日蓮大聖人である。「我身に入りかわせ給いけるにや」とは大聖人自身こそ久遠元初自受用であるとの御宣言である。御義口伝には「事の一念三千は、日蓮が身に当りての大事なり」(0717-12)とある。
―――
十如是の始の相如是が第一の大事にて候へば仏は世にいでさせ給う
「相」とは、前相・瑞相である。ゆえに一切に通ずるといえども、「相如是」とは、正に本化涌出をさすのである。「相如是」と名づけまた「出世の大事」と名づけるのである。これすなわち本化地涌は寿量の妙法、末法流布の瑞相であるからである。また「第一の大事」とは、三大意法をもって仏の出世の大事とされるのである。
―――
日蓮が法華経を信じ始めしは
日蓮大聖人が法華経を信じて題目を唱えはじめたのは、との意味。おそらく、建長5年(1253)4月28日以前であろうと推測しておく。
―――
妙覚の須弥山
悟りの山の意味。
―――
仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ
生死一大事血脈抄には「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か」(1337-12)「生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ」(1338-09)とある。
―――――――――
この章は、日蓮大聖人が一閻浮提第一の聖人であらせられることを、広く釈だれている。聖人とは三世を知ること、また、将来の起こることを知ってその対策をもっていること等については、すでにのべてきたとおりである。
種種御振舞御書には「去ぬる文永五年後の正月十八日・西戎・大蒙古国より日本国ををそうべきよし牒状をわたす、日蓮が去ぬる文応元年庚太申歳に勘えたりし立正安国論今すこしもたがわず符合しぬ、此の書は白楽天が楽府にも越へ仏の未来記にもをとらず末代の不思議なに事かこれにすぎん、賢王・聖主の御世ならば日本第一の権状にもをこなわれ現身に大師号もあるべし」(0909-01)と仰せである。「仏の未来記」とは本抄にも詳しく論じられているように、正像末の三時にわたる釈尊の予言である。いま安国論はその「仏の未来記にもをとらず」と仰せられているのである。そのことを立正安国論には「此の書は徴有る文なり」(0033-06)と仰せである。
只今に自界反逆難とて
北条一門には、この同士討ちが多かった。佐渡御書には「宝治の合戦すでに二十六年今年二月十一日十七日又合戦あり」(095713)と仰せである。「今年」というのは、文永9年(1272)であって次の御書にもこれと同じである。すなわち日妙聖人御書にいわく「当世は世乱れ去年より謀叛の者・国に充満し今年二月十一日合戦、其れより今五月のすゑ・いまだ世間安穏ならず」(1217-12)と。
宝冶の合戦とは、日蓮大聖人が聖寿26歳の宝冶元年(1247)6月5日、鎌倉幕府の執権たる北条時頼によって、三浦泰村がほろぼされた戦のことである。すでに三浦一族は北条氏と姻戚関係に結び、泰村は承久の乱に奮戦し、一門に豪族も多く、荘園数万町といわれていた。しかし謀叛の疑いをかけられて兵乱となり、安達景盛はかねて三浦の勢威を恐れたので、これを攻め、時頼もまた三浦を討たしめたので、一族ことごとく滅亡した。兄弟抄の「わかさのかみが子となりし」(1084-08)等との仰せがおれである。
次の文永9年(1272)2月11・17日の合戦は、日蓮大聖人が佐渡へ流罪した翌年に、たちまち起きた内乱である。北条時頼は長子時輔をおいて次子の時宗に家督をゆずったため、時輔は六波羅の南方にいて、時宗を誅殺しようと謀った。しかし事が発覚し、2月11日には鎌倉において一味が殺され、15日には早馬が京都に着き、六波羅北方の義宗が急に南方の時輔を攻めて一族を滅亡させた。
聖人御難事に「平等も城等も」(1190-13)と仰せであるが、この平と城の二家が、大聖人御在世中には最も強大な権力者であった。宝治の合戦で三浦を攻め滅ぼした安達景盛は、秋田城介という官位についた。代々の一族が、城介の官位を世襲したので、この一族を「城等」という。安達一族もまた北条氏と重々の姻戚関係を結び、強大な勢力となり、「平等」の平左衛門と権勢を競っていたのである。弘安5年(1282)安達宗景が秋田城介に任ぜられたが、宗景は狂奢な性格で、姓を源氏と改めたりした。平左衛門は執権貞時にすすめて、叛逆の恐れあるとして、弘安8年(1285)11月17日、これを攻めて安達一族をことごとく誅戮した。
次の「平家」の平左衛門は、執権の執事と、侍所の所司という権力の座におり、前記のように競争相手となる権力者を次々と覆滅し、ひとり強大をきわめていた。しかも、日蓮大聖人の御一生を通じて迫害・弾圧を加え、第二の高名も、第三の高名も、平左衛門を諌められたものである。平左衛門は大聖人の教えを用いないのみか、弘安2年(1279)の熱原の法難には、20人の農民を捕えて自宅の牢に入れ、ついに3人の首を斬り、17人を追放するという弾圧を加えた。その結果は大聖人の御予言のとおり、熱原法難の14年後の永仁元年(1293)謀叛の罪によって、一族ことごとく誅戮されたのである。これすなわち法華の厳罰以外の何物でもないのである。
彼等が頸をゆひのはまにて切るらずば
由比が浜で念仏者や禅僧らの首を斬れとの経文の根拠は、涅槃経にある。すなわち「仏がその昔に大王と生まれて仙予といった。その時に婆羅門が大乗を誹謗するのを聞いて、その命を断った。仙予国王はこの因縁によって、これより後には地獄に堕ちないのである」と。また「有徳王の時代に覚徳比丘という正法の行者があった。その時に多くの破戒の比丘があって、覚徳比丘を責めた。有徳王は護法のために、悪比丘と戦って全身に傷を受けて戦士し、阿閦仏の国に生まれて、彼の仏の第一の弟子となった」と。
立正安国論には「釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む」(0030-17)と仰せである。これについて「釈尊以前は邪宗の徒を斬ったが、釈尊以後においては、その布施をとどめるべきであって、本抄のように由比が浜で首を斬ってはならないのではないか」との疑問がおこる。これに対して日寛上人は、その施をとどめるとは為人悉檀に約し、首を斬れとは対冶悉檀に約するのである。涅槃経の文に両意があるから、それぞれ一意に拠ったのであるとされている。
また冶部房御返事に「又法華経のかたきとなる人をば父母なれども殺しぬれば大罪還つて大善根となり候」(1426-09)との御文があるが、これも本抄と同じで、謗法の心を殺すということなのである。
殊に真言宗が此の国士の大なるわざはひ
三度の高名のうち第一回と第二回は、ともに念仏と禅を破されたのに、なぜ第三回は別して真言を破されるのか。それに対して日寛上人は三沢抄の「法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」(1489-07)との御文を挙げられ、次のように述べられている。
ここに二義があり、一には所破、二には所顕である。所破というものは佐渡以前はいまだ真言を破されていないからであって、その次の文の下に「此の国の国主我が代をも・たもつべくば真言師等にも召し合せ給はんずらむ、爾の時まことの大事をば申すべし、弟子等にもなひなひ申すならばひろうしてかれらしりなんず、さらば・よもあわじと・をもひて各各にも申さざりしなり」(1489-07)と仰せのように、真言を国主諌暁の時に破折されようと思って、佐渡以前においては弟子たちにもいわれなかったのである。
次に所領というのは、いまだ三箇の秘法を顕わされなかったからである。ゆえにまた次の文に「而るに去る文永八年九月十二日の夜たつの口にて頚をはねられんとせし時より・のちふびんなり、我につきたりし者どもにまことの事をいわざりけるとをもうて・さどの国より弟子どもに内内申す法門あり、此れは仏より後迦葉・阿難・竜樹・天親・天台・妙楽・伝教・義真等の大論師・大人師は知りてしかも御心の中に秘せさせ給いし、口より外には出し給はず」(1489-10)と仰せである。
佐渡以前にもっぱら真言を破されて、三箇の秘法を顕されるのである。たとえば釈尊が、法華にいたって初めて三乗を破して一仏乗を顕し、また迹を破して本を顕すのと同じである。爾前の中には、このような破顕の二義はない。佐渡以前はまたこれと同じであるゆえに「ただ仏の爾前の経」と仰せられているのである。もし通じて、これを論ずれば、爾前は末顕真実であり、佐渡以前も未顕真実なのである。
日蓮大聖人滅後に兼知末萌が符合したこと
日蓮大聖人は、三度目の国主諌暁により、自界叛逆と他国侵逼を予言された。その御予言どおりに、佐渡流罪後、100日目の文永9年(1272)2月11日に北条時輔を誅殺するという内乱が起き、同じく3年後文永11年(1274)11月10日、さらに7年後の弘安4年(1281)7月には、元の大軍が襲来するという大戦乱となった。これはいずれも御生前のことである。
ここにおいて日寛上人は「三度の兼知、毫末も差わず。豈大聖人に非ずや。佐渡御書にいわく「現世に云をく言の違はざらんをもて後生の疑をなすべからず」(0957-17)等云云。比に於いて暫時、筆を閣いて紅涙白紙を点す」と仰せである。
さて日蓮大聖人の滅後においてはやはり予言が的中して今日にいたっている。まず日寛上人の文段によってその概要を見てみよう。下山御消息に「教主釈尊より大事なる行者を法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち十巻共に引き散して散散にフミたりし大禍は現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ」(0363-01)とおおせのように、このような乱暴の限りをつくした平左衛門頼綱は、宗祖滅後12年にして一類が皆滅亡した。
ここにおいて日寛上人は、平左衛門が首を斬られたのは、日蓮大聖人のお顔を打ったゆえであり、最愛の次男安房守が首を斬られたのは、安房の国の大聖人の御首をはねんとしたゆえである。また長男が佐渡へ流されたのは、大聖人を佐渡へ流したゆえであると仰せである。
それに対し、平左衛門が首を斬られたのは、熱原法難の三烈士を斬ったからではないかという疑問がおきる。上野殿御返事には「あつはらのものどもの・かくをしませ給へる事は・承平の将門・天喜の貞当のやうに此の国のものどもは・おもひて候ぞ、これひとへに法華経に命をすつるがゆへなり、 まつたく主君にそむく人とは天・御覧あらじ」(1579-01)と仰せであり、日興上人の本尊脇書にも「駿河国富士下方熱原郷の住人、神四郎、法華宗と号して平左衛門尉が為に首を刎ねらるる三人の内なり、左衛門入道、法華宗の頸を切るの後十四年を経て、謀叛を企つる間、誅せられ、その子孫、跡形も無く滅亡し畢んぬ。徳治三年(1308)戊申卯月八日、日興在判」とお認めである。以上のように平左衛門の滅亡は熱原法難の現罰なのである。
これに対して日寛上人は、現報には遠近があり、遠因は日蓮大聖人を打った罰であり、近因は熱原の信徒殺害にあるが、日興上人は近く現報を論じられ、いま本抄は遠くこれを論じるのであるといわれている。
十如是の始の相如是が第一の大事
この御文は解しがたく、知りがたいため、古来多くの解釈がある。いま日寛上人の「撰時抄愚記」から、その大意を取って次に示そう。
まず多くの釈をあげると、
一には、「如来の出世は衆生本具の仏知見を開示悟入せしめんがためである。しかるに如来は、衆生の仏知見を開くべき先相を照見して出世し給う。ゆえに相如是が第一の大事という」
二には、「十如是の中において、初めの如是相は別して実相の義を顕し、三千皆実相、相々宛然、深旨灼然である。ゆえに如是相が最も肝要であり、ゆえに第一の大事という」
三には「事に即して真、当位即妙は法華の深旨、円宗の洪範である。ゆえに相如是が第一の大事という」
四には「わが祖は台家理具の分斉を簡び、一念三千、事々互具を顕す。ゆえに相如是が大事という」
五には「仏が出世し、善悪の因果をもって、未来作仏の記を授けたまう事も、しかしながら諸の法相の隠顕を能く明らかに照見したまう上の事なるがゆえに、相如是が大事という」
等々である。
それに対して日寛上人は、相とは、前相であり、瑞相である。ゆえに通じて一切にわたるといえども、別して今いうところの相如是とは、正しく本化の湧出を指して、相如是と名づけ、また出世の大事と名づけるのである。すなわち本化の湧出は、寿量の妙法の末法流布の瑞相なるゆえである。ゆえに「智人は知を知る」等の文を引かれて、この義を証されるのである。
呵責謗法滅罪抄に「されば法華経序品の六瑞は一代超過の大瑞なり、涌出品は又此れには似るべくもなき大瑞なり」(1129-01)と仰せであるが、ここに仰せの大瑞とは相如是のことである。湧出品には「無量千万億の 大衆の菩薩は」「四方の地震裂して 皆中より湧出せり」「是の諸の菩薩衆 本末の因縁あるべし無量の世尊 唯願わくは衆の疑を決したまえ」「爾の時に釈迦牟尼仏、弥勒菩薩に告げたまわく」「乃し能く仏に是の如き大事を問えり」とある。弥勒は本化出現を問うている。仏が答えて「是の如き大事」といっている。ゆえに本化の出現を「大事」と名づけていることは明らかである。
日蓮大聖人はなぜ「第一の大事」と仰せられたのか。およそ「第一」とは最極の義である。ひろく出世の大事を論ずるに三意がある。一には迹門の顕実を大事となす。三大秘法抄の「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は 此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」(1023-13)との仰せがこの意である。そしてこの第三が最勝の義である。本化の湧出はこの第三の最勝の妙法の末法流布の瑞相である。ゆえに「第一の大事」というのである。
次に、「智人は知を知る」の文を引かれているのは、いかなる意味か、答う、この文には面裏がある。文の裏の意は迹化が知らないことをいい、文の面の意は、ただ仏のみ能く知ることをいう。今の引用はこの辺であり上行菩薩が大地より出現したまうを、仏は元品の無明を断つゆえに智人であり、寿量品の南無妙法蓮華経を末法に流布するために、この菩薩が出現したということを仏が知っていらっしゃるということである。
0288:08~0289:07 第33章 日本第一の大人top
| 08 問うて云く 第二の文永八年九月十二日の御勘気の時はいかにとして我をそんせば自他のいくさをこるべしとは 09 しり給うや、 答う大集経五十に云く「若し復諸の刹利国王諸の非法を作し世尊の声聞の弟子を悩乱し若しは以て毀 10 罵し刀杖をもて打斫し及び衣鉢種種の資具を奪い 若しは他の給施に留難を作す者有らば 我等彼をして自然に卒に 11 他方の怨敵を起さしめ及び自界の国土にも亦 兵起り飢疫飢饉非時の風雨闘諍言訟譏謗せしめ、 又其の王をして久 12 しからずして 復当に己れが国を亡失せしむべし」等云云、 夫れ諸経に諸文多しといえども此の経文は身にあたり 13 時にのぞんで 殊に尊くをぼうるゆへにこれをせんしいだす、 此の経文に我等とは梵王と帝釈と第六天の魔王と日 14 月と四天等の三界の一切の天竜等なり、此等の上主・仏前に詣して誓つて云く仏の滅後・正法・像法・末代の中に正 15 法を行ぜん者を 邪法の比丘等が国主にうつたへば 王に近きもの王に心よせなる者・我がたつとしとをもう者のい 16 うことなれば 理不尽に是非を糾さず・彼の智人をさんざんとはぢにをよばせなんどせば、 其の故ともなく其の国 17 ににわかに大兵乱・出現し後には他国にせめらるべし 其の国主もうせ其の国もほろびなんずととかれて候、 いた 18 ひとかゆきとはこれなり、 予が身には今生にはさせる失なし但国をたすけんがため 生国の恩をほうぜんと申せし 0289 01 を御用いなからんこそ本意にあらざるに、あまさへ召し出して法華経の第五の巻を懐中せるをとりいだしてさん 02 ざんとさいなみ、 結句はこうぢをわたしなんどせしかば申したりしなり、 日月天に処し給いながら日蓮が大難に 03 あうを今度かわらせ給はずば 一つには日蓮が法華経の行者ならざるか 忽に邪見をあらたむべし、 若し日蓮・法 04 華経の行者ならば忽に国にしるしを見せ給へ 若ししからずば今の日月等は釈迦・多宝・十方の仏をたぶらかし奉る 05 大妄語の人なり、 提婆が虚誑罪・倶伽利が大妄語にも百千万億倍すぎさせ給へる大妄語の天なりと 声をあげて申 06 せしかば忽に出来せる自界反逆難なり、 されば国土いたくみだれば 我身はいうにかひなき 凡夫なれども御経を 07 持ちまいらせ候分斉は当世には日本第一の大人なりと申すなり。 -----― 問うて言う。第二の諌暁、文永八年九月十二日の御勘気の時は、日蓮を失うと内乱がおき、他国から攻められるとは、どうして知ることができたのか。 答えて言う。大集経にいわく「もしまた、もろもろの刹帝利種の国王が、もろもろの非法をなし、世尊の声聞の弟子を悩乱させ、または悪口をいって刀杖で打ち、衣鉢や種種の資具を奪ったり、他の布施供養するものに妨害を加える者があれば、自然のうちにすみやかに他国の怨敵をおこさせ、また自国の内にも兵乱をおこさせ、飢疫や飢饉や時にあらざる風雨や種々の争いを生じさせ、またその王をして久しからず己れの国を失わせるであろう」と。 諸経に諸文が多いとはいえ、この経文は身にあたり、時に臨んで、ことに尊くおもれるゆえにこの文を選び出すのである。この経文に「われら」とは梵王と帝釈と第六天の魔王と日月と四天等の三界の一切の天竜等である。これらの上主たちが、仏前にまいって誓っていうには、仏の滅後・正法・像法・末代の中に正法を行ぜん者を、邪法の比丘等が国主に訴えれば、王に心をよせている者たちは、自分が尊いと思っている僧たちの訴えであるから、理不尽にも是非を糾さず、その智人をさんざんにはずかしめれば、理由もなくその国に、にわかに大兵乱が出現し、後には他国から攻められて、その国主も滅び、その国も滅びるであろうと説かれている。 「かけば痛し、かかざればかゆし」というのはこのことである。日蓮が身には今生には大した失はない。ただ国をたすけんがため、生まれた国の恩を報ぜんがために申すことを、用いられないことこそまことに不本意である。その上さらに召し出して、法華経の第五の巻を懐中から取り出して、さんざんに打ちつけ、最後は小路を引き回しなどしたので「日天も月天も天におりながら日蓮が大難にあうのを見て、このたび取って替わらないのは、一つには日蓮が法華経の行者ではないのか、もしそうなら、たちまちに邪見を改めなければならない。しかしもし日蓮が法華経の行者であるならば、たちまち国にしるしを見せるべきである。もしそうでなければ、今の日月天は、釈迦・多宝・十方の仏をたぶらかす大妄語の人である。 提婆が虚誑罪・倶伽利の大妄語よりも百千万億倍過ぎた大妄語の天となるではないか」と声を上げて言ったところ、たちまち出現した自界反逆難である。されば国土が大変に乱れ、わが身はいうにかいなき凡夫であって、法華経を持つからには、当世には日本第一の大人であると申すのである。 |
刹利国王
刹帝利国王。インド四姓の一つ。刹帝利は梵語クシャトリア(kşatriya)の音写で、訳して王種という。四姓とは婆羅門、刹帝利、毘舎、首陀のことで、国王、大臣、武人は必ず刹帝利から出る。
―――
衣鉢種種の資具
僧侶の持つ三衣一鉢や、その他の僧侶の修行、生活に必要な資材道具をいう。
―――
法華経の第五の巻
法華経八巻の巻第五。提婆品・勧持品・安楽行品・涌出品からなる。このうち勧持品の二十行の偈には、末法の法華経の行者を迫害する三類の強敵が説かれている。
―――
さいなみ
呵責・いじめること。
―――
こうぢをわたし
「こうぢ」とは小道・小路のこと、「わたし」とはひきずりまわすさま。
―――
提婆が虚誑罪
虚誑罪は十逆の一つである。悪心をもって他人をあざむくこと。提婆達多は仏法不信でありながら「われわ仏果をえた」等と妄語し、阿闍世王などを味方にして、三逆罪を犯したのである。
―――
倶伽利が大妄語
瞿伽利とは梵語であり、悪時者、守牛などと訳す。釈迦族の一人で浄飯王の命で出家し、仏弟子となった。のちに提婆達多を師として仏法に反逆した。竜樹の大智度論十三に「常に舎利弗・目連の過失を求めていた。二人はある日、雨に値って陶師の家に雨宿りした。暗中だったので、先に女人が雨宿りしているのを知らないでいた。女人が朝、洗濯しているのを証拠として、瞿伽利は男女三人で不浄行をしたと二人を謗った。梵天はそうでないことをさとし、釈迦もまた三度、瞿伽利を呵責したが、受けつけなかった。瞿伽利はのちに、全身に悪瘡を生じ、叫喚しながら死して堕獄した」といわれている。
―――
当世には日本第一の大人なり
大人とは大聖人ということである。開目抄には「仏世尊は実語の人なり故に聖人・大人と号す、外典・外道の中の賢人・聖人・天仙なんど申すは実語につけたる名なるべし此等の人人に勝れて第一なる故に世尊をば大人とは・申すぞかし」(0191-05)とある。すなわち「当世には日本第一の大人なり」とは、末法の御本仏であられるとの宣言である。
―――――――――
この章は、日蓮大聖人こそ日本第一の大人たることを顕されている。「大人」とは「大聖人」ということである。ゆえに開目抄には「仏世尊は実語の人なり故に聖人・大人と号す、外典・外道の中の賢人・聖人・天仙なんど申すは実語につけたる名なるべし此等の人人に勝れて第一なる故に世尊をば大人とは・申すぞかし」(0191-05)と仰せである。この御文と、いまの「当世には日本第一の大人なり」の御文と合わせ拝するならば、日蓮大聖人みずから御本仏であると宣言されていることは明らかである。ところが身延派とか池上派とか仏立宗などという邪宗日蓮宗は、このような明文にも迷って「日蓮大菩薩」などとしているのである。これみな師子身中の虫である。
いたひとかゆきとはかれなり
「かけば痛しかかざれば痒し」という譬えである。日蓮大聖人の予言が符合すれば日本の国が滅びることになるし、符合しなければ、大聖人が法華経の行者であり末法の御本仏であることが顕れないで終わってしまう。日本の国が滅びることは何としてでも避けなければならないが、仏法の正義は断じて示さなければならないとのお御心情がにじみ出ている御文である。
日蓮大聖人の時代には、大聖人の祈りによって亡国の悲運からはまぬかれたが、たとえ本門戒壇の大御本尊がいまします日本の国であっても、あまりにもその謗法が過ぎれば亡国となるのである。そのことは御書に「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし、何に況や数百人ににくませ二度まで流しぬ、此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」(0919-16)との仰せからも明らかである。
すなわち、日蓮大聖人の滅後600数十年にして、あまりにもその謗法が過ぎ、ついに第二次世界大戦の敗戦により国が滅びたのである。しかるに大御本尊の大功徳は、そのような逆縁の衆生、逆縁の国土にもかえって変毒為薬の大功徳を生じさせ、創価学会の出現とともに、広宣流布が着々と実現しつつあるのである。
「若し日蓮・法華経の行者ならば忽に国にしるしを見せ給へ」との仰せどおり、日本の国には内乱が相つぎ、ついには世界の国々を敵として戦って敗れるという「国にしるし」が顕れた。もししからば広宣流布という「国にしるし」が顕れないわけがない。もし創価学会がなければ、広宣流布もなく、日蓮大聖人のすべての兼知末萠が大虚妄となるところであった。ここに創価学会の重大な使命がありと信ずるのである。
0289:08~0290:14 第34章 外難を遮すtop
| 08 問うて云く慢煩悩は七慢・九慢・八慢あり汝が大慢は仏教に明すところの大慢にも百千万億倍すぐれたり、彼の 09 徳光論師は弥勒菩薩を礼せず・大慢婆羅門は四聖を座とせり、 大天は凡夫にして阿羅漢となのる・無垢論師が五天 10 第一といゐし、 此等は皆阿鼻に堕ちぬ無間の罪人なり 汝いかでか一閻浮提第一の智人となのれる地獄に堕ちざる 11 べしやおそろしおそろし、 答えて云く汝は七慢・九慢・八慢等をばしれりや大覚世尊は三界第一となのらせ給う一 12 切の外道が云く 只今天に罰せらるべし大地われて入りなんと、 日本国の七寺・三百余人が云く最澄法師は大天が 13 蘇生か鉄腹が再誕か等云云、 而りといえども天も罰せずかへて左右を守護し地もわれず金剛のごとし、 伝教大師 14 は叡山を立て一切衆生の眼目となる 結句七大寺は落ちて弟子となり諸国は檀那となる、 されば現に勝れたるを勝 15 れたりという事は 慢ににて大功徳なりけるか、 伝教大師云く「天台法華宗の諸宗に勝れたるは所依の経に拠るが 16 故に自讃毀他ならず」等云云 法華経第七に云く「衆山の中に須弥山これ第一なり 此の法華経も亦復かくの如し諸 17 経の中に於て最もこれ其の上なり」等云云、 此の経文は已説の華厳・般若・大日経等、今説の無量義経、当説の涅 18 槃経等の五千.七千.月支.竜宮.四王天.トウ利天.日月の中の一切経.尽十方界の諸経は土山.黒山・小鉄囲山・大鉄囲 0290 01 山のごとし日本国にわたらせ給える法華経は須弥山のごとし。 -----― 問うて言う。慢煩悩は七慢・九慢・八慢がある。汝が大慢は仏教に明かすところの大慢よりも百千万億倍も勝れている。彼の徳光論師は弥勒菩薩を礼拝しなかったし、大慢婆羅門は四人の聖人を柱として、その上にすわらせたという。また大天は凡夫でありながら阿羅漢と名のり、無垢論師はインド第一といった。これらのものはみな、 阿鼻地獄に堕ち無間の罪人となった。汝は何ゆえに一閻浮提第一の智人となのるのか。地獄に堕ちないわけがない。じつに恐ろしいことである。 答えて言う。汝は七慢・九慢・八慢等を知っているのか。釈尊は三界第一と名のられた。これに対していっさいの外道は、ただいま天に罰せられるであろう、大地が割れて入るであろうなどといった。日本国においては、奈良の七寺の三百余人が「最澄法師は大天の生まれかわりか、鉄腹婆羅門が再誕したのか」等といった。しかし天も罰することなく、かえって左右を守護し、地も割れないで、金剛のごとくであった。伝教大師は叡山を立てて、一切の衆生の眼目となった。結局、伝教を非難した奈良七大寺は伝教大師に降伏して、その弟子となり、諸国の人々はみな檀那となったのである。されば事実勝れていることは、慢に似てじつは大功徳なのである。 伝教大師は「天台法華宗が諸宗より勝れているということは依りどころとする法華経が勝れているからである。ゆえに自讃毀他ではない」といっている。また法華経の第七には「多くの山の中では須弥山が第一である。この法華経も同じで、多くの経典の中において、もっともその上にあるのである」とある。この経文は已説の華厳・般若・大日経等や、今説の無量義経、当説の涅槃経等の五千・七千・インド、竜宮・四王天・忉利天。日月の中の一切経およびそのほか十方世界のあらゆる経々は土山・黒山・小鉄囲山・大鉄囲山のようなものであるが、日本へ渡った法華経は、須弥山のようなものであるとの意である。 -----― 02 又云く「能く是の経典を受持すること有らん者も、亦復是くの如し、 一切衆生の中に於て亦これ第一なり」等 03 云云、此の経文をもつて案ずるに華厳経を持てる普賢菩薩・解脱月菩薩等・竜樹菩薩・馬鳴菩薩・法蔵大師・清涼国 04 師.則天皇后・審祥大徳・良弁僧正・聖武天皇.深密般若経を持てる勝義生菩薩.須菩提尊者・嘉祥大師・玄奘三蔵.太 05 宗.高宗・観勒・道昭.孝徳天皇、真言宗の大日経を持てる金剛薩タ.竜猛菩薩・竜智菩薩.印生王・善無畏三蔵・金剛 06 智三蔵・不空三蔵.玄宗・代宗・慧果.弘法大師・慈覚大師、涅槃経を持てる迦葉童子菩薩.五十二類.曇無懺三蔵、光 07 宅寺の法雲南三北七の十師等よりも末代悪世の凡夫の一戒も持たず 一闡提のごとくに人には思はれたれども、 経 08 文のごとく已今当にすぐれて法華経より外は仏になる道なしと強盛に信じて 而も一分の解なからん人人は、 彼等 09 の大聖には 百千万億倍のまさりなりと申す経文なり、 彼の人人は或は彼の経経に且く人を入れて法華経へうつさ 10 んがためなる人もあり、 或は彼の経に著をなして法華経へ入らぬ人もあり、 或は彼の経経に留逗のみならず彼の 11 経経を深く執するゆへに 法華経を彼の経に劣るという人もあり、 されば今法華経の行者は心うべし、譬えば「一 12 切の川流江河の諸水の中に海これ第一なるが如く 法華経を持つ者も亦復是くの如し、 又衆星の中に月天子最もこ 13 れ第一なるが如く 法華経を持つ者も亦復是くの如し」等と御心えあるべし、 当世日本国の智人等は衆星のごとし 14 日蓮は満月のごとし。 -----― また同品に「よく是の経典を受持するものも、またこのとおりであって、一切衆生の中においてまた第一である」とある。この経文から考えてみると、華厳経を持っている普賢菩薩・解脱月菩薩や・竜樹菩薩・馬鳴菩薩・法蔵大師・清涼国師・則天皇后・審祥大徳・良弁僧正・聖武天皇や、また深密・般若経を持っいる勝義生菩薩.須菩提尊者・嘉祥大師・玄奘三蔵・太宗・高宗・観勒・道昭。孝徳天皇や、更に真言宗の大日経を持っている金剛薩タ・竜猛菩薩・竜智菩薩・印生王・善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・玄宗・代宗・慧果・弘法大師・慈覚大師等や、それに涅槃経を持っている迦葉童子菩薩・五十二類。曇無懺三蔵・光宅寺の法雲・南三北七の十師等よりも、末代悪世の凡夫で、一戒も持たず、一闡提のようにおもわれているが、経文どうりに已今当に勝れている法華経より外は仏になる道なしと強盛に信じて、しかも一分のない人々の方が、彼の大聖等より百千万億倍も勝れているという経文である。 これらの人々は、あるいは法華経へ移るために経々にしばらく人を入れる人もあり、あるいは彼の爾前経に執着して法華経へ入らぬ人もあり、あるいは彼の経々にしばらくふみとどまるのみならず、彼の経々に長く執着するゆえに、法華経を彼の経より劣るという人もある。されば今、法華経の行者は、譬えば「いっさいの川流、江河の諸水の中にあって海がもっとも第一であるように、法華経を持つ者もまた同じである」とあるが、この経文のように心得るべきである。また多くの星の中に月天子がもっとも第一であるように、法華経を持つ者もまたまた同じでる」とあるが、この経文のように心得るべきである。当世日本国の智人等は、多くの星のようなものであり日蓮は満月のようなものである。 |
慢煩悩
十六惑のひとつで、慢とは、自分を恃んで他人に対して高くあげるのを慢というのである。七慢・九慢・八慢などがある。
―――
七慢
①慢、自分より劣っている人に対しては、自分が勝っているとうぬぼれ、同等の人には自分と等しいと心を高ぶらせる。②過慢、自分と同等の人に対して自分が勝っているとし、自分以上の人は、自分と同等とする。③、慢過慢、勝っている人を見て自分はさらに勝っているとうぬぼれる。④我慢、自負心が強く、自分本位。⑤、増上慢、悟っていないのに悟ったと思い、得ていないのに得たと思い、おごり高ぶる.。⑥卑慢、非常に勝れている人を見て、自分は少し劣っていると思う。⑦邪慢、間違った行いをしても、正しいことをしたと言い張り、徳が無いのに有ると思う。
―――
九慢
七慢の中の「慢」・「過慢」・「卑慢」をさらに九種類に分類したもの。①我勝慢類(過慢)。②我等慢類(慢)。③我劣慢類(卑慢)。④有勝我慢類(卑慢)。⑤有等我慢類(慢)。⑥有劣我慢類(過慢)。⑦無勝我慢類(慢)。8無等我慢類(過慢)。⑨無劣我慢類(卑慢)。
―――
八慢
涅槃経で説く八慢と天台大師が説く八慢では、異なるが、七慢に類似するところが多い。(イ)涅槃経の慢。①慢。②慢慢。③不如慢。④増上慢。⑤我慢。⑥憍慢。⑦邪慢。⑧大慢。(ロ)天台大師の説く八鳥に配した八慢(憍)。①盛壮憍(鳶のごとく)。②姓憍(梟のごとく)。③富憍(鵰のごとく)。④自在憍(鷲のごとく)。⑤寿命憍(烏のごとく)。⑥聡明憍(鵲のごとく)。⑦行善憍(鳩のごとく)。⑧色憍(鴿のごとく)とあり、他を凌ぐのを慢といい、みずから尊いとするのを憍としている。
―――
徳光論師は弥勒菩薩を礼せず
徳光論師は幼少から碩学多聞で、もと大乗を学んでいたが、玄奥をきわめないうちに、たまたま毘婆沙論をみて小乗に転落し、数十部の論をつくって大乗を誹謗した。のちに大乗と小乗を解決しようとして天軍羅漢にあい、兜率天に行って弥勒菩薩に会い、その疑いを解決したいと願った。天軍羅漢は通力をもって徳光を天宮に上らせた。徳光は天宮にいたって弥勒を見たが、少しも礼拝しなかった。天軍羅漢は、なぜ徳光が補処の菩薩に対して礼拝しないのかと問いただすと、徳光は、自分は出家のでしであるが、弥勒は福楽を受けているが出家の仲間ではないからといって礼拝しなかったのである。徳光論師はついにその我慢のために、疑いを解決することができなかったのである。
―――
大慢婆羅門は四聖を座とせり
大慢婆羅門はインドの外道で、慢心を起こし、外道の三神と釈迦像をとって高座の四足につくり、わが徳は四聖よりも勝れていると慢じた。賢愛論師に邪見を打ち破られ、のちに大地裂けて生きながら地獄におちた。
―――
大天は凡夫にして阿羅漢となのる
大天は出家する前、在俗のとき三逆罪をおかし、父母および阿羅漢を殺した。その滅罪のために摩竭提国の鶏園寺で出家した。ことば巧みに人々の尊敬をえたことをよいこととして、また五悪見をおこし、また慢心を生じて自分から阿羅漢をえたと称した。死時は悲惨であった。
―――
無垢論師が五天第一といゐし
無垢は迦湿弥羅国の人で、もと小乗において出家し、五天竺のなかを遊学した。三蔵を学び、のちに大乗を誹謗した。そのために心に狂乱をおこし、五舌重出して熱血を流出し、命終しようとした。これを悔いたが、とうとう大乗毀謗の失によって、無間地獄におちた。
―――
大覚世尊は三界第一となのらせ給う
釈尊は長阿含経・瑞王経などに「天下唯我独尊」といい、譬喩品にも「今此の三界は皆是れ我が有なり、其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり、乃至唯我一人のみ能く救護をなす」とある。
―――
最澄法師は大天が蘇生か
伝教大師に打ち破られた南都七大寺の僧たちが、はじめ、くやしがって、奏文を出して「昔大天に依りて部二十を分かつ、仏法斯に因りて遂に衰滅せしむ。今比叡山人法を部判す即ち知んぬ是れ滅法の先兆なることを」などと悪口したのである。
―――
鉄腹が再誕か
鉄腹とは、南インドの憍慢の外道で、名を提舎という。わが腹中に一切の智慧をいれているから、その腹の破裂するのを恐れて、鉄鍱をもって、その腹をまいていたという。また頭上に火をのせて、これをもって世上の愚痴の大闇を破るものであるなどと称していたという。
―――
現に勝れたるを勝れたりという事は慢ににて大功徳なりけるか
伝教大師は法華経を奉ずるがゆえに勝れており、勝れているというのは、慢に似て慢に似ず、法華経の妙用をあらわす大功徳があるのである。いわゆる法華の慢は慢ではないのである。聖人知三世事には「身を挙ぐれば慢ずと想い身を下せば経を蔑る」(0975-01)とある。
―――
竜宮
竜王の住む宮殿。水底、または水上にありという。長阿含経巻十九に「大海水底に娑竭龍王宮あり。縦広八万由旬なり。宮牆七重にして、七重の欄楯、七重の羅網、七重の行樹あり。周匝厳飾皆七宝より成る」とある。
―――
土山
須弥山の外の七山のこと。
―――
黒山
須弥山の外の七山のこと。
―――
小鉄囲山
須弥山の九山・八海をめぐる山
―――
大鉄囲山
須弥山の周囲、大千世界をめぐっているとされる山。
―――
普賢菩薩
東方の宝威徳上王仏の弟子。釈尊の法華経の説法が終わろうとした時、娑婆世界に来至し、仏滅後いかにしてこの法を持つかを尋ねた。そして末法に正法を守り弘め、正法たる法華経を受持する行者を守護することを誓った。法華経普賢菩薩勧発品第二十八に「世尊よ。我れは今、神通力を以ての故に、是の経を守護して、如来の滅後に於いて、閻浮提の内に、広く流布せしめて、断絶せざらしめん」とある。なお、普賢菩薩は理徳、定徳、行徳をあらわし、文殊菩薩は智徳、慧徳、証得をあらわす。
―――
清涼国師
(0738~0839)澄観のこと。中国華厳宗の第四祖。浙江省会稽の人。姓は夏侯氏、字は大休。清涼国師と号した。11歳の時、宝林寺で出家し、法華経をはじめ諸経論を学び、大暦10年(0775)蘇州で妙楽大師から天台の止観、法華・維摩等を学ぶなど多くの名師を訪ねる。その後、五台山大華厳寺で請われて華厳経を講じた。著書には「華厳経疏」60巻、「華厳経綱要」1巻などがある。
―――
審祥大徳
韓国の新羅の人で、唐に渡って賢首大師法蔵に華厳を学び、天平のころ日本へ来て良弁らとともに、華厳宗をひろめた。
―――
勝義生菩薩
解深密経の対告衆。
―――
須菩提尊者
梵語スブーティ(Subhūti)の音写。法華経信解品第四に慧命須菩提とある。祇園精舎を供養したスダッタ(Sudatta)長者の弟の子といわれる。釈尊の十大弟子の一人。思索にすぐれ、よく諸法の真理を悟った。解空第一と称される。法華経授記品第六で、名相如来の記別を受けた。
―――
嘉祥大師
(0549~0623)。吉蔵大師の異名。中国隋・唐代の人で三論宗の祖。祖父または父が安息人であったことから胡吉蔵と呼ばれた。姓は安氏。金陵(南京)の生まれで幼時父に伴われて真諦に会って吉蔵と命名された。12歳で法朗に師事し三論を学んだ。隋代の初め、開皇年中に吉蔵が嘉祥寺(浙江省紹興市会稽)で8年ほど講義をはって三論、維摩等の章疏を著わした。これにより吉蔵は嘉祥大師とも呼ばれた。「法華玄論」10巻をつくり、法華経を讃歎したが、後年、妙楽から「法華経を讃歎しているようにみえても、毀りがそのなかにあらわれている。どうして弘讃といえようか」と破折されている。後に天台大師に心身ともに帰伏し7年間仕えた。
―――
玄奘三蔵
(0602~0664)。中国・唐代の僧。中国法相宗の開祖。洛州緱氏県に生まれる。姓は陳氏、俗名は褘。13歳で出家、律部、成実、倶舎論等を学び、のちにインド各地を巡り、仏像、経典等を持ち帰る。その後「般若経」600巻をはじめ75部1335巻の経典を訳したといわれる。太宗の勅を奉じて17年にわたる旅行を綴った書が「大唐西域記」である。
―――
金剛薩埵
真言八祖の第二祖。大日経の対告衆。
―――
竜智菩薩
真言宗の第四祖。竜樹菩薩の弟子で、金剛智の師。
―――
印生王
竜樹に帰依し、妙薬により数百年も生きたと西域記にある。
―――
善無畏三蔵
(0636~0735)。中国真言宗の開祖。中インドの人。烏萇奈国(烏荼国)の王子であったが、唐へ渡って真言宗を弘めた。13歳で王位についたが、兄弟が嫉んだので兄に位を譲って出家した。諸国を巡って仏典を学び、唐の開元4年(0716)に中国に渡り、長安では玄宗皇帝の勅命を受けて興福寺および西明寺に住み、経典の翻訳に従事した。翌年「大日経」七巻を訳し、一行禅師の助けをかりて「大日経疏」20巻を編纂した。さらに「蘇婆呼童子」三巻、「蘇悉地羯羅経三巻を訳した。開元二十年、翻訳が終わってインドへ帰ろうとしたが、皇帝に許されず、同23年、99歳で死んだ。とくに大日経において、法華経の一念三千の法門を盗みとって、理同事勝の邪義をうちたてた。
―――
迦葉童子菩薩
迦葉には①釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。②優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、③十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などあるが、本項の迦葉はそのいずれでもなく、④涅槃経ではじめて現れ、仏に三十六の問を発し、その対告衆となっている捃拾の機の迦葉のこと。
―――
五十二類
五十二衆ともいう。涅槃会上の五十二の異類衆生である。釈尊が入滅するとき光明を放ったのをみて、雲のように四方から集まってきた。そのなかには、多くの比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・大臣長者・諸王夫人・竜王・鬼神・阿修羅王・四天王・梵天・帝釈などが含まれている。
―――
曇無懺三蔵
大涅槃経40巻の訳者。中インドのバラモンの家に生まれ10歳で出家、はじめ小乗を学び、のちに涅槃を読み大乗に入った。
―――――――――
この章は外難を遮される断である。すでに日蓮大聖人は一閻浮提の法華経の行者であり、第一の智人であり、第一の聖人であり、第一の大人である等と述べられてきた。それに対して、そのことは仏教に明かすところの大慢より百千万億倍もすぎていると非難しているのである。そうした論難を破折されているところである。
「現に勝れたるを勝れたりという事は慢にして大功徳なりけるか」と。じつに日蓮大聖人が第一の聖人、智人、大人であらせられることは、現にそのように勝れているからなのである。そのゆえは日蓮大聖人は久遠元初の自受用身であり、事行の一念三千、人法一箇の南無妙法蓮華経の大御本尊の後当体であらせられるからである。
日蓮大聖人がそのように勝れているから、その大聖人の教えを信じ、大御本尊を持ち、南無妙法蓮華経と唱えるわれわれ末弟もまた一切に勝れているのである。本文に示されているように、華厳宗・困権宗その他各宗を信じている人たちは、いかに世間的には高位高僧であっても、持つところの経典が低級であるから、その思想も人格も低級になってしまう。
御書に「法妙なるが故に人貴し」(1578-12)と仰せであり、さらに「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり、上一人より下万民に至るまで之を軽毀して刀杖を加え流罪に処するが故に梵と釈と日月・四天と隣国に仰せ付けて之を逼責するなり、大集経に云く・仁王経に云く・涅槃経に云く・法華経に云く・設い万祈を作すとも日蓮を用いずんば必ず此の国今の壱岐・対馬の如くならん、我が弟子仰いで之を見よ此れ偏に日蓮が貴尊なるに非ず法華経の御力の殊勝なるに依るなり、身を挙ぐれば慢ずと想い身を下せば経を蔑る」(0974-12)と仰せであるが、これらの御書を合わせ拝すべきである。
彼の人人は或は彼の経経に
三類の人を示されている。一には爾前経にしばらく人を入れて後に法華経を信じさせようとする者。これは色心ともに法華経を信ずるようになった者で、三論の嘉祥等である。開目抄には「三論の嘉祥は法華玄十巻に法華経を第四時・会二破二と定れども天台に帰伏して七年つかへ廃講散衆して身を肉橋となせり」(0216-11)と仰せである。二には爾前経に執着して法華経に入らぬ者。これは心は移っても身の移らない者であり、法相の慈恩等である。開目抄には「法相の慈恩は法苑林・七巻・十二巻に一乗方便・三乗真実等の妄言多し、しかれども玄賛の第四には故亦両存等と我が宗を不定になせり、言は両方なれども心は天台に帰伏せり」(0216-12)と仰せである。三には爾前経にとどまるのみならず、彼の経に深く執するゆえに、法華経は爾前経より劣るという者、これは色心ともに法華経にうつらなかった善導や法然等である。
0290:15~0291:11 第35章 現証の文を引くtop
| 15 問うて云く古へかくのごとくいえる人ありや、 答えて云く伝教大師の云く「当に知るべし他宗所依の経は未だ 16 最為第一ならず其の能く経を持つ者も亦未だ第一ならず 天台法華宗は所持の経最為第一なるが故に能く法華を持つ 17 者も亦衆生の中に第一なり、 已に仏説に拠る豈自歎ならんや」等云云、 夫れ麒麟の尾につけるだにの 一日に千 18 里を飛ぶといゐ、 転王に随える劣夫の須臾に四天下をめぐるというをば難ずべしや 疑うべしや、 豈自歎哉の釈 0291 01 は肝にめいずるか 若し爾らば法華経を経のごとくに持つ人は梵王にもすぐれ帝釈にもこえたり、 修羅を随へば須 02 弥山をもになひぬべし 竜をせめつかはば大海をもくみほしぬべし、 伝教大師云く「讃むる者は福を安明に積み謗 03 る者は罪を無間に開く」等云云、 法華経に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て 軽賎憎嫉して結恨を懐 04 かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」等云云、 教主釈尊の金言まことならば 多宝仏の証明たがずば 十方の 05 諸仏の舌相一定ならば 今日本国の一切の衆生・無間地獄に堕ちん事疑うべしや、 法華経の八の巻に云く「若し後 06 の世に於て 是の経典を受持し読誦せん者は乃至諸願虚しからず、 亦現世に於て其の福報を得ん」又云く「若し之 07 を供養し讃歎すること有らん者は 当に今世に於て現の果報を得べし」等云云、 此の二つの文の中に亦於現世・得 08 其福報の八字・当於今世・得現果報の八字・已上 十六字の文むなしくして 日蓮今生に大果報なくば 如来の金言 09 は提婆が虚言に同じく 多宝の証明は倶伽利が妄語に異ならじ、 謗法の一切衆生も阿鼻地獄に堕つべからず、三世 10 の諸仏もましまさざるか、 されば我が弟子等心みに法華経のごとく 身命もおしまず修行して 此の度仏法を心み 11 よ、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。 -----― 問うて言う。昔もそのように言った人がいるのか。 答えて言う。伝教大師は「まさに知るべし、他宗の依りどころとする経は未だ最も第一ではない。したがって能くその経を持つ人も第一ではないのである。天台法華宗は、持つところの経が第一であるから、よく法華経を持つ人もまた衆生の中の第一である。このことは、すでに仏説によるのであって、自分勝手にほめたたえているのではない」といっている。麒麟の尾についた蜱は、一日に千里を飛ぶといい、転輪聖王に随っている劣夫は、瞬間に世界中をかけめぐるということを難じたり疑うものはないであろう。「あに自歎ならんや」という釈は肝に銘ずべきである。そうであれば、法華経を経のとおりに持つ人は、梵天にもすぐれ帝釈にもこえているのである。修羅を従えれば須弥山を荷い、竜を使えば大海も乾すことができるのである。 伝教大師は「法華経を讃める者は福を須弥山のごとく高く積み、謗る者は無間地獄へおちる大罪をつくる」と。法華経には「法華経を読誦し書持する人を見て、軽んじたり賎めたり憎んだり嫉んだり、恨みをだく、その人は命が終わって阿鼻地獄へおちるであろう」と。教主釈尊の金言が真実ならば、また多宝仏の証明も違わず、十方の分身の諸仏の舌相がそのとおりであるならば、いま日本国の一切の衆生が無間地獄におちることは疑いないのである。 法華経の巻八には「もし後の世においてこの経典を受持し読誦する者は、諸願が虚しからず、また現世においてその福報を得るであろう」とあり、また「もし法華経を供養し讃歎する人は、まさに今世において現の果報を得るであろう」とある。この二つの文の中に、「亦於現世・得其福報」の八字と「当於今世・得現果報」の八字の以上十六字の文が虚しくて、日蓮が今生に大果報を得なければ、如来の金言は提婆達多の虚と同じになり、多宝如来の証明は倶伽利の妄語に異ならない。そうであれば謗法の一切衆生も阿鼻地獄にはおちないし、三世の諸仏もいないことになってしまう。されば我が弟子よ、試みに法華経のとおり身命もおしまず修行して、このたび仏法を試してみよ。南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。 |
麒麟の尾につけるだにの一日に千里を飛ぶ
麒麟とは、一日に千里も走るという駿馬のことで、中国の想像上の動物と関連して用いられている。だにとは、人畜に寄生して血を吸う虫。すなわち飛べないダニでさえ、キリンの尾についていれば、一日に千里も飛ぶことができること。麒麟は三大秘法の御本尊の御力と功徳であり、だにとは、われら凡夫をさす。同意の文が立正安国論にある。「蒼蝿驥尾に附して万里を渡り 碧蘿松頭に懸りて千尋を延ぶ」(0026-04)。
―――
輪王に随える劣夫の須臾に四天下をめぐる
転輪聖王は、一瞬の間に四天下をめぐることができるという話がある。劣夫といえども転輪聖王にしたがえば、同じく一瞬の間に四天下をめぐることができる。輪王とは大御本尊・劣夫とは、われら凡夫のことである。
―――
修羅を随へば須弥山をもになひぬべし
大智度論には「羅睺阿修羅王は大海の中に立つ膝水上に出づ、両手を以て須弥を隠し、下に向かって忉利天憙見城を見る」。雑阿含経には「修羅は四大海水膝を過ぐる能わずして大海中に立ち、身須弥を過ぎて手山頂に拠りて忉利天を下見す」とある。
―――
竜をせめつかはば大海をもくみほしぬべし
竜王のすむ竜宮には、宝の両珠があって、旱珠をいれれば海水が減じ、満珠を入れれば海水がみちてくるという話がある。
―――
讃むる者は福を安明に積み謗る者は罪を無間に開く
伝教大師の「天台依憑集」の文である。安明とは須弥山のことで、無間とは無間地獄のことである。すなわち三大秘法の大御本尊を讃歎するものは、須弥山のように大きな福運をわが身に積み、大御本尊を誹謗するものは無間地獄に堕ちるという意である。
―――
十方の諸仏の舌相
神力品の第一の吐舌相である。諸仏の舌相は、法華経が虚妄でないことを示している。
―――――――――
この章は「現に勝れたる」といわれるその文証を引かれている。「法華経を経のごとくに持つ人は梵王にもすぐれ帝釈にもこえたり」の御文について、日寛上人は、梵王に勝れるとは親の徳であり、帝釈に越えるとは主徳である。そして師の徳は略されているが、前章の終わりの「日蓮は満月のごとし」は師の徳であると示されている。ここにおいて、「法華経を経のごとくに持つ」とは、大御本尊を日蓮大聖人の教えどおりに持つことである。そうすれば梵王にも勝れ、帝釈にも越えて、親の徳、主の徳をそなえ、さらに満月のごとき師徳をもそなえるのである。「法妙なるが故に人貴し」(1578-12)であって、大御本尊の功徳により、われわれのごとき幼稚貧窮の徒も、すなおに信心、折伏に励んでいくならば、あらゆる社会、あらゆる職場において、なくてはならない存在となり、民衆の依怙依託となっていくのである。
現世に於いて其の福報を得ん
すでに本抄では、日蓮大聖人が兼知末萠の聖人であられるがゆえ、御在世中においても自界叛逆、他国侵逼とすべての御予言が的中したことを述べられた。さらに滅後の未来においてもまた、大聖人の御予言に寸分の違いがなかったことも本講義ですでに触れられたとおりである。法蓮抄には「近き現証を引いて遠き信を取るべし」(1045-03)と仰せられ、また、法門申さるべき様の事には「小事たる今生の御いのりの叶はぬを用つてしるべし・大事たる後生叶うべしや」(1268-17)と御指南である。さらに三三蔵祈雨事には「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(1468-16)とも、また顕立正意抄には「設い日蓮富楼那の弁を得て目連の通を現ずとも勘うる所当らずんば誰か之を信ぜん」(0537-04)とも仰せである。
要するに正しい仏法によってわれわれの願いがこの世においてかない、絶対の幸福を実現することができるのである。いま信心に折伏に励んでいても、さまざまな不幸や悩みがあるかもしれない。これらの一切の悩みを解決していくために、信心しているのである。ゆえに日蓮大聖人の仰せのごとく「我が弟子等心みに法華経のごとく身命もおしまず修行して此の度仏法を心みよ」の大精神をもって、何があっても強くたくましく進んでまいりたい。
0291:12~0292:17 第36章 御身の符合を明かすtop
| 12 抑此の法華経の文に 「我身命を愛せず但無上道を惜しむ」 涅槃経に云く「譬えば王使の善能談論して方便に 13 巧なる命を他国に奉るに 寧ろ身命を喪うとも終に王所説の言教を匿さざるが如し 智者も亦爾なり凡夫中に於て身 14 命を惜まずかならず 大乗方等如来の秘蔵一切衆生に皆仏性有りと宣説すべし」等云云 いかやうな事のあるゆへに 15 身命をすつるまでにてあるやらん委細にうけ給わり候はん、 答えて云く予が初心の時の存念は伝教・弘法・慈覚・ 16 智証等の勅宣を給いて 漢土にわたりし事の我不愛身命にあたれるか、 玄奘三蔵の漢土より月氏に入りしに六生が 17 間・身命をほろぼししこれ等か、雪山童子の半偈のために身をなげ、 薬王菩薩の七万二千歳が間・臂をやきし事か 18 なんどをもひしほどに 経文のごときんば此等にはあらず、 経文に我不愛身命と申すは上に三類の敵人をあげて彼 0292 01 等がのりせめ刀杖に及んで 身命をうばうともみへたり、 又涅槃経の文に 寧喪身命等ととかれて候は 次下の経 02 文に云く「一闡提有り 羅漢の像を作し空処に住し方等経典を誹謗す、 諸の凡夫人見已つて皆真の阿羅漢是れ大菩 03 薩なりと謂わん」等云云、 彼の法華経の文に第三の敵人を説いて云く「或は阿蘭若に納衣にして 空閑に在つて乃 04 至世に恭敬せらるること六通の羅漢の如き有らん」等云云、 般泥オン経に云く「羅漢に似たる一闡提有つて悪業を 05 行ず」等云云、 此等の経文は正法の強敵と申すは悪王悪臣よりも外道魔王よりも破戒の僧侶よりも、 持戒有智の 06 大僧の中に大謗法の人あるべし、 されば妙楽大師かいて云く「第三最も甚し 後後の者は転識り難きを 以ての故 07 なり」等云云、 法華経の第五の巻に云く「此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり、 諸経の中に於て最も其の上に 08 在り」等云云、 此の経文に最在其上の四字あり、 されば此の経文のごときんば 法華経を 一切経の頂にありと 09 申すが法華経の行者にてはあるべきか、 而るを又国王に尊重せらるる人人あまたありて、 法華経にまさりてをは 10 する経経ましますと申す人にせめあひ候はん時、 かの人は王臣に御帰依あり法華経の行者は貧道なるゆへに、 国 11 こぞつてこれをいやしみ候はん時、 不軽菩薩のごとく賢愛論師がごとく申しつをらば身命に及ぶべし、 此れが第 12 一の大事なるべしとみへて候 此の事は今の日蓮が身にあたれり、 予が分斉として弘法大師・慈覚大師・善無畏三 13 蔵・金剛智三蔵・不空三蔵なんどを法華経の強敵なり 経文まことならば無間地獄は疑なしなんど申すは 裸形にて 14 大火に入るはやすし 須弥を手にとてなげんはやすし 大石を負うて大海をわたらんはやすし日本国にして此の法門 15 を立てんは大事なるべし云云。 -----― そもそも、この法華経の文には「われ身命を惜しまず、ただ無上道を惜しむ」とある。涅槃経には「たとえば談論にすぐれた交渉にたくみな王の使いが、王の命をうけて他国に行ったときには、むしろ身命をうしなっても必ず王からのことばをかくさずに述べて王命をはたすように、仏法をひろめる智者もまた同じである。凡夫の中にあって身命を惜しまずに如来の秘要の蔵である大乗方等の教え、すなわち一切衆生にみな仏性があるという法門を宣説しなさい」等と説かれている。 どのような理由があって、身命まで捨てなければならないであろうか、くわしくうけたまわりたいものである。 答えて言う。私が初心のころの考えでは、伝教大師や弘法・慈覚・智証などが勅宣をうけて中国に渡ったことが、我不愛身命にあたるのではないかと思っていた、また玄奘三蔵が中国からインドに行くのに、六度も生命をうしなったことが、そうではないかとも思った。さらに、雪山童子が半偈のために身体を投げたことや、薬王菩薩が七万二千歳のあいだ、臂を焼いたことなどではないのか等と考えたのであるが、経文によれば、これらのことではないのである。 経文に我不愛身命とあるのは、その前に三類の敵人をあげて、彼等が悪口したり迫害したり、ついには刀や杖で傷つけ、身命まで奪うであろうと説かれている。また、涅槃経の文に、むしろ身命をうしなうとも、と説かれているのは、その次の経文に「一闡提があり、羅漢の姿をして、静かな所などに住み、大乗方等経典を誹謗する。多くの凡夫は、その邪悪な人を見て、みな真の阿羅漢であり大菩薩であろうというであろう」と書かれている。また、その法華経の経文に、第三の敵人を説いていうのには「あるいは静かな所に住み三衣を身につけ、世の人々から六神通をえた羅漢のようにうやまわれている者がいる」等とある。また般泥洹経には「羅漢に似せた一闡提があって、悪業をはたらいている」等と説かれている。 これらの経文によれば、正法の強敵というのは、悪王や悪臣よりも、外道の魔王よりも、破戒の僧侶よりも、戒律を固く持ち智者といわれる高僧のなかに、大謗法の人がいるということである。ゆえに、妙楽大師は「第三が最も邪悪である。後々の者はなかなか邪見を見破れないからである」といっている。 また、法華経の第五の巻には「この法華経は、諸仏如来の秘密の蔵である。ゆえに、あらゆり経々のなかで、もっとも上に位する」と説かれているこの経文には「最在其上」という四字がある。ゆえに、この経文のとおりであるならば、法華経を一切経の頂にあるという人が、法華経の行者というべきではいか。しかるに国王に尊重される人々がたくさんいて法華経よりもすぐれている経々があるという者たちと法論するとき、その者たちは王臣の帰依があるが、法華経の行者は貧道なので、国中の人々がこぞって法華経の行者をいやしむときに、不軽菩薩や賢愛論師のように、強く破折するならば、身命におよぶ大難がおこるであろう。これが第一の大事であると書かれているのである。 この事は、今の日蓮の身に符合している。日蓮の分斉として、弘法大師や、慈覚大師や、善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵などを、法華経の強敵であり、経文が真実であるならば無間地獄におちることは疑いないなどいうのは、赤裸のまま大火に入ることはやさしい、須弥山を手にとって投げることもやさしい。また大石を背負って大海原をわたることもやさしいとあるが、日本国でこのようにいうことは大事なのである。 -----― 16 霊山浄土の教主釈尊.宝浄世界の多宝仏.十方分身の諸仏・地涌千界の菩薩等・梵釈.日月・四天等.冥に加し顕に 17 助け給はずば一時一日も安穏なるべしや。 -----― 霊山浄土の教主釈尊・宝浄世界の多宝仏・十方分身の諸仏・地涌千界の菩薩・梵天・帝釈・日天・月天・四天王などの冥顕の御加護がなければ、一日一時も安穏でいられようか。 |
無上道
種脱相対して、無上道とは文底下種の妙法であり、無上のなかの無上である。御義口伝には「無上道とは南無妙法蓮華経是なり」(0749-第十三但惜無上道の事-02)「今日蓮等の類いの心は無上とは南無妙法蓮華経・無上の中の極無上なり」(0727-第五無上宝聚不求自得の事-05)等とある。
―――
雪山童子の半偈のために身をなげ
雪山童子とは、釈尊が過去世で修行していたときの名。涅槃経巻十四等に出てくる。釈尊は過去の世に雪山で法を求めて修行していた。ここで木の実を食べ、思惟坐禅して無量歳を経た。ある時、帝釈天が羅刹に化身して現れ、童子に向かって過去仏の説いた偈を「諸行無常・是生滅法」と半分だけを述べた。これを聞いた童子は喜んで残りの半偈を聞きたいと願い、この身を捨て、羅刹に食せしめることを約束して半偈の「生滅滅已・寂滅為楽」を聞いたのである。童子はその偈を石、壁、樹、道に書写してから高い樹に登り、身を投げた。その時、羅刹は帝釈天の姿に戻り、童子の体を受け止め大地に置き、その不惜身命の姿勢をほめて、未来に必ず成仏するであろうと説いて姿を消したという。
―――
薬王菩薩の七万二千歳が間・臂をやき
薬王菩薩は法華経薬王菩薩本事品第二十三に説かれている菩薩。日月浄明徳仏の世に、一切衆生憙見菩薩といわれ、仏から法華経を聞き、現一切色身三昧を得た。そして身をもって供養しようと、身を焼いて法華経および日月浄明徳仏に供養した。そののち再び生まれて日月浄明徳仏から付嘱を受け、仏の涅槃に際しては、七万二千歳のあいだ臂を灯して供養した。
―――
三類の敵人
法華経勧持品第十三に説かれる。仏滅後の悪世に法華経の行者を種々の形で迫害する三種の敵人のこと。妙楽大師は法華文句記巻八の中で、勧持品の文から三類に約している。
―――
一闡提
梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写。一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏する機縁をもたない衆生のこと。
―――
阿練若
梵語(Aranya)阿蘭若・阿蘭那・阿練茹とも書く。訳して無諍声・無声所・遠離処・意楽処・無諍行・閑静・寂静処・空寂・無諍・空家等という。人里離れた静かな山寺のこと。
―――
納衣
法衣の一種、人の捨てた布を拾い集めて選択し、これを繕って作った衣。納は繕うの意味。糞掃衣ともいう。
―――
六通の羅漢
六神通を得た二乗の阿羅漢。六神通とは①天眼通、世の中のすべてのことを見通す力。②天耳通、あらゆることを悉く聞きうる力。③他心通他人の心の中をすべて読み取る力。④宿命通、自他の過去世に於ける生存の状態を悉く知る力。⑤神足通機に応じて自在に身を現し、思うままに山海を飛行し得るなどの通力。⑥漏尽通。煩悩を打ち消して悟りの境地に至っていることを知る力。をいう。
―――
般泥洹経
一般には法顕訳の仏説大般泥洹経をいう。
―――
第三最も甚し後後の者は転識り難きを以ての故なり
妙楽の法華文句記の文。「第三」とは三類の強敵の第三類・僭聖増上慢のこと。この第三類の難がもっとも大であるとの意。
―――
貧道
僧みずから呼ぶ謙称。道を修めることが、きわめて貧しいという意からいわれる。
―――
裸形にて大火に入るはやすし
宝塔品の偈にある六難九易のひとつ。「仮使劫焼に乾れたる草を担い負うて、中に入って焼けざらんも、亦未だ難しとせず」とある。
―――
宝浄世界
多宝如来が住む土。宝塔品に「過去に、東方の無量千万億阿僧祇の世界に、国を宝浄と名づく。彼の中に仏有す、号を多宝と曰う」とある。生命論からいうならば、母の胎内である。御義口伝には「其の宝浄世界の仏とは事相の義をば且らく之を置く、証道観心の時は母の胎内是なり故に父母は宝塔造作の番匠なり、宝塔とは我等が五輪・五大なり然るに詑胎の胎を宝浄世界と云う故に出胎する処を涌現と云うなり、凡そ衆生の涌現は地輪より出現するなり故に従地涌出と云うなり、妙法の宝浄世界なれば十界の衆生の胎内は皆是れ宝浄世界なり」(0797一宝塔品)とある。
―――
地涌千界の菩薩
法華経従地涌出品第十五に「仏は是れを説きたまう時、娑婆世界の三千大千の国土は、地皆な震裂して、其の中於り無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に涌出せり」とある。この地涌の菩薩の出現は、釈尊の滅後の布教を誓った本化の菩薩のこと。滅後末法の弘通を勧める釈尊の呼びかけに応じて、大地から湧き出てきたゆえに、地涌の菩薩という。地涌は地より涌き出る意で、千界は千世界微塵の意で、数がおおいことをあらわす。
―――――――――
すでに日蓮大聖人が末法の御本仏であり、一閻浮提第一の智人であり、聖人であり大人であることを明かされてきたが、この章は最後に、釈尊の予言に日蓮大聖人の御身が符合することを明かされている。その予言として、法華経勧持品第十三の「我身命を愛せず」の文と、涅槃経の「譬えば王使の善能談論して」の文を挙げられている。いずれも三類の強敵と、身命を捨てて戦い抜くという経文である。
「身命を捨てる」とはいかなる意味か。それは本文に示されているように、時によって異なるものである。ある時には万里の波濤を渡って、教えを求め、経典を求めることであり、またある特には、半偈のために身を投げたり、七万二千歳の間、臂を焼くことが身命を捨てることになる。しかしながら末法の日蓮大聖人にとっては、三類の強敵と戦うことがこれにあたるのである。われわれは日蓮大聖人の眷属であるゆえ、われわれの身命を捨てるのも、三類の強敵との戦いにあることはいうまでもない。
創価学会の実践活動
日蓮大聖人の滅後700年になろうとしているが、この間に大聖人の仰せのごとく、身命を捨てて三類と戦ったのが、わが創価学会である。牧口初代会長の不惜身命の戦いについて、戸田前会長は次のように述べられている。「創価学会の歴史と確信」にいわく「牧口会長のあの確信を想起せよ。絶対の確信に立たれているではないか。あの太平洋戦争のころ、腰抜け坊主が国家に迎合しようとしているとき、一国の隆昌のためには国家諌暁よりないとして、『日蓮正宗をつぶしても国家諌暁をなして日本民族を救い、宗祖の志をつがなければならぬ』と厳然たる命令をくだされたことを思い出すなら、先生の確信のほどがしのばれるのである。
さらに戸田前会長は御自身の会長就任のご確信を次のように述べられている。同書にいわく「しかるに、こんどは学会総体に偉大な自覚が生じ、偉大なる確信に立って活動を開始し、次のごとく、牧口会長にこたえることができたのである。『教相面すなわち外用のすがたにおいては、われわれは地涌の菩薩であるが、その信心においては、日蓮大聖人の眷属であり、末弟子である。三世十方の仏菩薩の前であろうと、地獄の底に暮らそうと、声高らかに大御本尊に七文字の法華経を読誦したてまつり、胸にかかげたる大御本尊を唯一の誇りとする。しこうして、日蓮大聖人の教えを身をもってうけたまわり、忠順に自行化他にわたる七文字の法華経を身をもって読みたてまつり、いっさいの邪宗を破って、かならず東洋への広宣流布の使命として、私どもは、故会長の意志をついで、大御本尊の御前において死なんのみであります』この確信が学会の中心思想で、いまや学会に瀰漫しつつある。これこそ発迹顕本であるまいか」
以上のような決意のもとに、牧口初代会長は軍部、特高警察と戦いつつ、巣鴨の拘置所において獄死され、戸田前会長は出獄されて、じつに80万世帯の大折伏を成し遂げられたのである。昭和18年(1943)いよいよ軍部、特高警察の弾圧が開始されようとしているとき、牧口会長はただひとり国主諌暁を叫ばれた。そして門下の弟子に対しては、発迹顕本を強く要求された。この牧口会長に応えて、戸田会長は昭和26年(1951)、ようやく学会全体が発迹顕本したとされ、偉大な確信に立って、折伏の大行進の開始を宣言されたのが、前述の一文である。
広宣流布の実現
数百年にわたる弾圧の歴史もようやく終わり、ここに順縁広布の時代を迎え、わが創価学会は500万世帯の折伏を成し遂げた。
戸田前会長は開目抄講義に、三類の強敵を次のように論じている。「禅・念仏・律・真言等の既成宗教は、あるいは皇帝との姻戚関係を結び、あるいは一部の者が政界に進出して腐敗堕落の先頭に立ち、あるいは大学等を経営して学者ぶりをみせてはいるものの、彼らには民衆の心を動かし、世論を呼び起こすような力があるかどうかははなはだ疑問である。日蓮宗各派と称するものも惰眠を貪り、葬儀屋に点においてはまったく同じである。むしろ大衆の生活に喰い入っている点では、霊友会・立正佼成会・天理教等のごとき、まったくお話にならない愚迷の新興インチキ宗教のほうが一歩進んでいるではないか。これとて第三類とは思われない。しこうしてさらに思考するに、世間の人々に指導者として信頼される学者および評論家、文学者および世の指導機関たる一流の日刊新聞の論説などが、その利益および感情のために官憲等と組んで、下種仏法とその広宣流布への活動に強く攻撃を加える時が現われるとすれば、第三類の強敵出現と断ずることができるであろう」と。
以上、戸田会長の論じられたように、われわれの敵はだ三類であるが、その正体は寺の中に住んでいる線香臭い坊主ではない。そのような寺や神社は荒廃をきわめ、民衆の心はすでに離れきっている。いま広宣流布実現の戦いにおける第三類とは一般評論家である。
いままでにも、これらの機関が創価学会に対して、攻撃を加えることはしばしばあった。彼らは論評し、驚き、怒り、嫉み等々、さまざまな反応を示しつつある。いよいよ第三類の出現の胎動と断定できるであろう。
ここに深く思いをいたすべきことは、たとえ第三類が出現しても、いまは順縁広布の時である。いたずらに敵をつくったり、抗争すべきではない。「魔及び魔民有りと雖も、皆仏法を護らん」という時代であり、もし広宣流布を妨害するものがあれば、これらの魔および魔民たちが、仏法を守る働きをなすことを強く確信して進むべきである。
此の法門を立てんは大事なるべし
日蓮大聖人の御弘通にあっては、鎌倉幕府から流罪・死罪の迫害を受け、三類の強敵と戦い抜かれて本門戒壇の大御本尊を建立されたことが「第一の大事」であった。しかるにわが創価学会の戦いには、流罪もなければ死罪もない。しからば、何が「第一の大事」かといえば、それは広宣流布の実現である。日蓮大聖人は国家権力と与した全邪宗教の破折を「赤裸で大火に入る」よりも困難であると仰せられ「此の法門を立てんは大事なるべし」と仰せられている。ゆえにわれわれにとっても、真実の広宣流布の戦いは「赤裸で大火に入る」よりも困難なのである。ゆえに御本仏日蓮大聖人が「冥に加し顕に助け」給わんことを確信して、戦い抜く以外にない。
いまここに「撰時抄」の講義を終わるにあたり、文化・教育・平和等に仏法を基調とした活動が、今後の広宣流布実現のための、最も重要な戦いであり、御本仏日蓮大聖人から必ずや賞賛されるであろうことを確信し筆を置くこととする。
2010:4:6:7:8月号 大白蓮華より。先生の講義top
第一回top
「世界広布」即「平和創出」の時が到来!
恩師・戸田城聖先生が、戦後の混乱期に一人立たれ、獅子吼された一言一言は、今もって私の耳朶から離れることはありません。
「民衆をこれ以上の惨苦の底に堕としたくない」
「末法の衆生は苦悩に沈んでいる」
「悩みの世界をだれが救い、だれが助けるのか」
「今こそ広宣流布の時である!」
世界各地の動乱や国内外の災害の報に接するたびに民衆の悲嘆に涙し、この地上に不幸が二度と起きないように、妙法流布の決意を新たにされる恩師であられた。
「この地上から悲惨の二字をなくしたい」との思いこそ、恩師の偽らざる真情であり、生涯にわたって変わることのない信念であった。
この思いこそ創価学会の「指導者の心」であると、私は受け止めてきました。
悲惨と不幸に喘いでいる眼前の民衆をどう救うのか。今、立ち上がらずして、いつ立ち上がるのか。「時」を感じた恩師は師子となって一人決然と広宣流布の指揮を執ってくださった。
恩師は叫ばれました。「大聖人御出現の『南無妙法蓮華経』という法門によって、日本中、いな東洋中、いな世界中の人々を幸せにするためである」と。
仏法は、どこまでも「時」を重視します。それは、仏法が「今の時を生きている民衆」のためにあるからです。
ゆえに本抄の題号の「撰時」が重要なのです。
「時を撰ぶ」おは「広宣流布の時として末法を撰び取る」との意です。
すなわち、末法の時に出現された日蓮大聖人が「時を得た人」、つまり末法の「時」の本質を会得された方として「時に適った法」を選びとられ、「今の時を生きている民衆」を苦悩からすくうために、その法を弘められていくことです。
「時」と「人」と「法」が一致することによって初めて、「その時代を生きる民衆を根底から救う道」が開けてくるのです。
日蓮大聖人は、末法という「闘諍の時」の初めに立たれて、今、この「時」に、民衆に説き弘めるべき「法」を的確に選び取られた。その「法」こそ法華経の肝心、寿量文底の大法たる南無妙法蓮華経でると本抄では仰せです。
大聖人が末法の時に適った法として弘められた南無妙法蓮華経は、仏を仏ならしめている仏種にほかならない。妙法を信ずる「信の利剣」で生命を覆っている無明の暗雲を打ち払えば、生命は妙法の光に照らされて、直ちに「本有の尊形」をあらわしていくことができる。すなわち、妙法の無限の力が生命のうえに開花し、仏の生命が顕現する。この本因本果の一念が南無妙法蓮華経にほかなりません。
南無妙法蓮華経という究極的な平等の法に目覚めていくことが、万人を結びつける根源の絆となり、末法闘諍の時を乗り越えて、平和と幸福を創出していく力となるのです。
また南無妙法蓮華経という根本的な成仏の法を民衆一人一人の生命に直ちに開いていく広宣流布の実践によって、闘諍言訟・白法穏没という法滅の危機を確実に克服していくことができるのです。
大聖人は、この「末法の初め」の戦いを担われた御本仏であられます。本抄は、その大聖人の「法華経の行者」としての大法戦を明らかにされています。
その意味で「撰時抄」とは、別して、正しく「時」を選び取る指導者、すなわち末法救済の真実の仏法の師匠とは誰かを宣言せられた御書であると拝することもできます。
とともに、末法は万年にわたって続きます。特に、大聖人は本抄で「前代未聞の大闘諍」が全世界に起こると言われている。「戦争の世紀」と言われた20世紀には、この表現に合致する大闘諍が事実として起きたと言わざるをえない。創価学会は、その渦中に誕生したのです。
そして、初代会長の牧口常三郎先生は20世紀最大の戦争を引き起こした軍部政府からの弾圧を受け、獄死されました。
ここに創価学会による、平和実現の仏法としての日蓮仏法の重大な継承があります。
今日において、日蓮仏法を現代社会にどう弘め、平和に貢献する人類益の宗教として光彩を放たせていくか。ここに現代に時を得て出現した創価学会の宗教的使命と課題があります。
私自身、民衆の幸福と世界の平和のために、「人間のための宗教」をいかに弘めるのかの一点を思索し、行動に移してきました。
とりわけ、この50年、広宣流布の一切の責任を担い、「撰時抄」に仰せの如く「時」に焦点を結び、行動すべき「時」を選び、大聖人の御精神を現代社会に宣揚するために真剣に戦ってまいりました。
私は戸田先生の弟子として、また民衆の一人として、戦火なき世界のために、あらゆる壁を超えて人間と人間を結び国と国を結び、信頼と友情の「平和の橋」をかけてきました。「時」を知り「時」に適った行動を実践し、さらには、民衆の力を結集すれば、必ず平和実現の足跡をのこせることを、後継の青年のために証明しておきたかったのです。
今、創価学会は、日本と世界の広宣流布の盤石な基盤を総仕上げしゆく時を迎えました。本年は、更に幾重にも意義を刻む、広宣流布の歴史に輝く節目です。
この時にあたり、全同士とともに「撰時抄」を拝し、大聖人が御予言なされた世界広宣流布の「時」が到来している意義を学んでまいりたい。そして、広宣流布の時を創りゆく不惜の魂を燃え上がらせていきたい。
今という「時」の集い、広布に生き抜く崇高な使命と誉れを胸に、共々に威風も堂々たる前進を開始してゆく皆さまの勇気の源泉になればと祈りつつ、講義を進めてまいります。
| 01 夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし、 ・ -----― 一体、仏法を修学するの道は、必ず時を習わなければならない。 |
「撰時抄」とは「時を撰ぶ御抄」
「撰時抄」の主題となる「時」の重要性について述べられた冒頭の一節です。
本抄は、身延に入山された日蓮大聖人が建治元年(1275)54歳の御時に認められ、駿河国の西山由比氏に与えられたとされています。
文永11年(1274)10月には、日本は蒙古の襲来を受けました。されは、大聖人が「立正安国論」で御予言なされた他国侵逼難にほかなりませんでした。そして、蒙古の再びの襲撃が必至の情勢であり、日本国中が騒然とするさなかにあって、大聖人は本抄を御執筆なされたのです。
本抄では、「闘諍堅固・白法隠没」という法滅の危機を乗り越え、戦乱の濁世にあって一切衆生を救済しゆくために、大聖人が閻浮提第一の「聖人」「智人」として、南無妙法蓮華経の大白法を掲げ、世界広宣流布の時を創る不惜の戦いに一人立ち上がられたことを明かされています。
そして、わが弟子等も、この戦いに続け、と結ばれている。 これが「撰時抄」の大意であります。
本抄の冒頭で、仏法を学ぼうとおもうのであれば、必ず最初に「時」を習わなければならないと断言されています。ここで大聖人は「必ず」「まず」と、「時」を習うことは仏法者の必須の要件であることを強調しておられます。
本抄で言われている「時」とは、端的にいえば「法を説く時」であると拝されます。
大聖人は本抄で大通智勝仏や釈尊、弥勒菩薩などの仏・菩薩等が、「時」を待つ間は法を説かず、しかるべき「時」を選んで初めて法を説いたことを述べられています。
すなわち、仏は、たとえ衆生から請い願われても、「時」が到来しない限り、法を説かれない。「時」が至らなければ、たとえ機根の勝れた相手が目の前にいても成仏の法は説かなかった。反対に、「時」が至れば、相手が劣機とされる衆生であろうと成仏の法を説いた。
ここから大聖人は、釈尊の説法では、機根が熟しているか熟していないかよりも、成仏の法を説くべき「時」が来ているかどうかということこそが、法を説く上で最大に重視されていたことを確認されています。
こうした仰せは、大聖人御在世の当時の仏教界では、「時」よりも「機」を重視する通念があり、それを打ち破るためであったと拝察されます。
もちろん大聖人も、衆生の機根を軽視していたわけではありません。御消息文の諸御抄にも明らかなように、一人一人の門下の機根の状況によって、こまやかな配慮をされています。
しかしそれ以上に、一切衆生の救済のためには、人々がどのような機根であれ、いかなる迫害があろうとも、徹して正法を語り抜かなければならない「時」が末法である。この一点を大聖人は深く知悉なされていたがゆえに、「時」を最優先に重視され、本章で徹底して「時」を論じておられるのです。
| 09 霊山会上の砌には閻浮第一の不孝の人たりし阿闍世大王座につらなり、一代謗法の提婆達 10 多には 天王如来と名をさづけ五障の竜女は蛇身をあらためずして仏になる、決定性の成仏はイレル種の花さき果な 11 り久遠実成は百歳の臾・二十五の子となれるかとうたがふ、 一念三千は九界即仏界・仏界即九界と談ず、されば此 12 の経の一字は如意宝珠なり一句は諸仏の種子となる 此等は機の熟不熟はさてをきぬ時の至れるゆへなり、 経に云 13 く「今正しく是れ其の時なり決定して大乗を説かん」等云云。 -----― さて、いよいよ霊鷲山において法華経を説くことにあたっては、父の頻婆沙羅王を殺して世界第一の不幸者となった阿闍世王も、その会座に連なり、一生の間、謗法を犯しつづけた提婆達多には天王如来の記を授けられ、女人として罪深い五障の竜女は、蛇の身を改めないで畜生のままで即身成仏の現証を示した。決定性の二乗は、永遠に二乗の境地から抜け出ることができないはずだったのに、その二乗すら成仏すると説かれたことは、あたかも燋れる種がふたたび芽を出して華が咲き果がなったようなものであり、また、本門へ入って久遠実成を説く時は百歳の老人が二十五の若者の子供になったかと疑わしめた。すなわち老人とみられた地涌の大菩薩たちを、実は釈尊が五百塵点劫のその昔に成道して已来教化してきたのであると説いた。しかして、一念三千は九界即仏界・仏界即九界と説いて本有常住の十界互具を説き明かした。されば、この法華経の迹門も、本門も爾前経に対すれば、その一字が如意宝珠であり、法華経の一句は諸仏の種子となっている。しかして、日蓮大聖人は、権迹相対、迹本相対のうえに種脱相対を立てられて、本門寿量品の文の底に秘し沈められている。文底下種事行の一念三千の御本尊を、建立あそばされたのである。 さて、このように爾前四十余年と法華経八年が相違するのは、衆生の機根の熟・不熟はさておいて、時のいたるゆえである。法華経方便品第二に「今正しくこれその時なる、決定して大乗を説く」と説いているのは、この意である。 |
法華経だけが「末法の時」に相応する経典
華厳経の寂滅道場では機根の勝れた大菩薩が列なっていても成仏の法がとかれなかった。
これに対して、法華経の霊山会では、閻浮第一の不幸の阿闍世王、一代謗法の提婆達多、畜身の竜女、永不成仏と断呵された二乗など、機根が劣るとされる者たちに成仏の法が説かれていきます。
しかも、こうした悪人・女人・二乗の九界の衆生の成仏が強調されていきます。
さらに久遠実成が説かれ、釈尊は永遠の仏であるにもかかわらず、現実世界に九界の姿を現して菩薩行を繰り返すと説かれます。
これらはすべて、真実の成仏の法である「十界互具」を示しているのです。「十界互具」こそが成仏の法であるならば、成仏は機根の上下とは本質的に関係がないということです。この段の御文に「一念三千は九界即仏界・仏界即九界と談ず」とあります。
「九界即仏界・仏界即九界」とは十界互具と同義です。地獄界から菩薩界までの九界の迷いの衆生にも、仏の悟りの境涯が具わっており、同様に仏界にも九界が具わっている。すなわち、仏界も九界も別々の存在ではなく、互具の関係にあるのです。
法華経は全体として、この不可思議なる十界互具が真実であることを示す教えです。この法華経の教えを信受すれば、その信の力で我が身に本来具わっている仏界が涌現するのです。
ゆえに大聖人は、法華経の一字は如意宝珠であり、一句は諸仏の種子になると仰せです。
如意宝珠とは、意のままに何でも取り出す宝の珠のことで、一念三千の妙法の功力を表わしています。そして法華経の一字一句が一念三千の宝珠であるがゆえに、諸仏を仏たらしめる種子となるのです。
法華経以前の爾前経では、十界互具・一念三千が説かれていないので、九界と仏界の間の断絶を乗り越えることができません。ゆえに、九界の一定の人の機根を熟成させる限定された力はあっても、一切衆生の成仏の種子とはなり得ません。
では、法華経で十界互具・一念三千という成仏の法が初めて説かれたのは何故でしょうか。
それは、機根の「熟不熟」によるのではなく、どこまでも「時の至れる」ゆえであると仰せです。仏が法華経を説くのはそれまで衆生の機根を成熟させてきたかどうかというよりも、仏の随自意のうえから、説くべき「時」が来たと明確に覚知されたからです。
| 18 求め 0258 01 て云くすこしも知る事あるべからざるか、 答えて云く仏眼をかつて時機をかんがへよ 仏日を用て国土をてらせ、 02 問うて云く其の心如何、 答えて云く大集経に大覚世尊・月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり 所謂我が滅度の 03 後の五百歳の中には解脱堅固.次の五百年には禅定堅固已上一千年次の五百年には読誦多聞堅固.次の五百年には多造 04 塔寺堅固已上二千年次の五百年には我法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん等云云、此の五の五百歳・二千五百余 05 年に人人の料簡さまざまなり、 漢土の道綽禅師が云く正像二千・四箇の五百歳には小乗と大乗との 白法盛なるべ 06 し末法に入つては彼等の白法 皆消滅して浄土の法門・念仏の白法を修行せん人計り生死をはなるべし、 日本国の 07 法然が料簡して云く今日本国に流布する法華経・華厳経並びに大日経・諸の小乗経・天台・真言・律等の諸宗は大集 08 経の記文の正像二千年の白法なり 末法に入つては彼等の白法は皆滅尽すべし 設い行ずる人ありとも一人も生死を 09 はなるべからず、 十住毘婆沙論と曇鸞法師の難行道・道綽の未有一人得者・善導の千中無一これなり、彼等の白法 10 隠没の次には浄土三部経・ 弥陀称名の一行ばかり大白法として出現すべし、 此を行ぜん人人はいかなる悪人・愚 11 人なりとも十即十生・百即百生・唯浄土の一門のみ有つて路に通入すべしとはこれなり、 されば後世を願はん人人 12 は叡山・東寺・園城・七大寺等の日本一州の諸寺・諸山の御帰依をとどめて彼の寺山によせをける田畠郡郷をうばい 13 とつて念仏堂につけば決定往生 ・南無阿弥陀仏とすすめければ 我が朝一同に其の義になりて今に五十余年なり、 14 日蓮此等の悪義を難じやぶる事はことふり候いぬ、 彼の大集経の白法隠没の時は 第五の五百歳当世なる事は疑ひ 15 なし、 但し彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の 一閻浮提の内・八万の国あり其の 16 国国に八万の王あり王王ごとに 臣下並びに万民までも今日本国に弥陀称名を 四衆の口口に唱うるがごとく広宣流 17 布せさせ給うべきなり。 -----― 問うていう。少しもしることができないのか。 答えていう。仏眼たる経文を借りて時機をかんがえよ。衆生の闇をはっきりと照らす仏日を用いて国土を照らしてみよ。そうすれば、はっきりわかることである。 問うていう。それはどういう意味なのか。 答えていう。釈迦仏は大集経において月蔵菩薩に対して未来の時を定めている。それによれば釈迦滅度の日から最初の五百年は解脱堅固であって、仏教を修行しては皆よく解脱することができる。次の第二の五百年は禅定堅固であって、修行しては盛んに禅定に入る時代となる(已上一千年である)。次に第三の五百年は読誦多聞堅固であって、経典をよく読み誦し多く聞くことが盛んとなる。次に第四の五百年は多造搭寺堅固であって、多くの塔寺を盛んに造立する時代となる(已上二千年である)。さて次に第五の五百年はわが仏法の中において闘諍言訟が盛となり、闘諍に明け暮れ善法である白法が隠没してしまうであろうと予言している。 ところがこの第五の五百年・二千五百余年について人々の料簡がさまざまである。中国の道綽禅師がいうには正像二千年・四箇の五百歳には小乗と大乗の白法が盛んに流通するが、末法に入っては彼等の白法が皆消滅して浄土の法門たる念仏の白法を修行する人ばかりが生死が離れるであろう。日本の法然が料簡していうには今、日本国に流布するところの法華経・華厳経を初め大日経や諸の小乗教、天台・真言・律等の諸宗は大集経の予言に記された正像二千年の白法である。末法に入っては彼等の白法は皆滅尽するであろう。たとえ行ずる人はあっても一人も生死を離れることはできない。竜樹菩薩の十住毘婆沙論と曇鸞法師の言っている難行道というのがこれであり、道綽は念仏以外の教えではいまだ一人も得者する者がないといい、善導が千人の中に一人もできないといっているのもこの意である。彼等の白法が隠没して終わった次には浄土の三部経・阿弥陀の名号を称えるわが念仏の一行ばかりが大白法として出現するのである。これを修行する人人はいかなる悪人・愚人であっても、十即十生・百即百生であって、ことごとく極楽浄土へ往生することができる。すなわち浄土の一門のみあって路に通入すべしというのである。 されば後世を願う人人は比叡山・東寺・石山寺・七大寺等の日本一州の諸寺や諸山の御帰依をやめてさらに彼の寺山に寄進した田畠郡郷を奪い取り念仏堂へ寄進するならば決定往生疑いなし。ただひたすら南無阿弥陀仏と唱えよとすすめたのである。我が日本国は一同に其の義に染まって今に五十余年となる。日蓮はまた立宗以来この念仏の悪義を難じ破りつづけて年月を経ている。 彼の大集経の白法隠没の時は第五の五百歳であり、今日・当世であることには疑いがない。ただし彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる寿量品文底の南無妙法蓮華経こそ大白法として広宣流布する。一閻浮提の内に八万の国があり其の国々に八万の王がありこれらの王が全部・また王の臣下・万民までも、ことごとく今日本国に弥陀の称名を口口に唱うるごとく南無妙法蓮華経が広宣流布するのである。 |
末法には「法華経の肝心」が流布
仏は「機根」ではなく「時」にしたがって法を説くとの仰せを踏まえて、ではどのような時に小乗経や権教を説かれ、どのような時に法華経を説かれるのか。凡夫は一体、どのようにすれば時や機を知ることができるのであろうか。という問いが立てられます。
これに対する答えとして、大聖人は「仏眼をもって時機をかんがへよ仏日を用て国土を照らせ」と仰せです。
「仏眼」とは、すべての事象を如実知見する仏の眼であり、「仏日」とは、太陽のようにすべてを照らし出す仏の智慧を指します。
「仏眼を借りて時機を考える」とは、仏が説いた経文に照らして時や機を知ることであり、「仏日を用いて国土を照らす」とは、やはり経文に照らして国土を現実に知ることです。
すなわち、時や機、そして国土の実情は、人師・論師の勝手な判断ではなく、あくまでも仏の教えを根本として判断すべきであると示されています。
さて、大聖人は「時」を知るための経文として、大集経の「五箇の五百歳」を挙げられます。
周知のように、釈尊滅後の500年ごとに「解脱堅固」「禅定堅固」「読誦多聞堅固」「多造搭寺堅固」「闘諍言訟・白法隠没」という時代が訪れることが説かれています。「撰時抄」の後の段では、それぞれの時代の弘教について詳細に述べられていきます。
とりわけ、ここで焦点とあるのは、第五の500年です。「闘諍言訟・白法隠没」とは、仏法の中で争いが起こり、正しい教えが穏没する時代となります。実際に大聖人の御在世における日本はまさにこの様相を呈していました。
釈尊の仏法は、八宗・十宗という宗派に分裂し、それぞれが自己の正しさを主張して対立し、仏教界は混迷の度を深めていた。さらには、その思想・宗教の乱れから、人々の生き方も乱れ、災害・戦乱が相次ぎ、民衆は不幸に喘ぎ悲嘆に暮れていたのです。
当時の念仏宗は、釈尊の仏法が隠没した次は、浄土三部経の大白法が広まるという考え方を示していました。これは、末法の劣機の衆生には、念仏の易行がふさわしいという機根偏重の考え方に基づいたものです。
これに対して、日蓮大聖人は本抄で、経文に照らし、「時」を根本とする考え方のうえから、白法穏没の次は、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法が閻浮提に広まる「時」であると明確に示されています。
これは、白法穏没という末法の時を、南無妙法蓮華経の大白法が広宣流布そる時に転換しゆく主体者として立ち上がられた大宣言であると拝されます。
すなわち、末法の衆生を救うためには、機根の勝劣に関係なく、誰人の生命にもある仏性を直接呼び覚ます下種の大法でなければならない。一切の諸仏を成仏せしめた根本の仏種である南無妙法蓮華経の法でしか、末法の衆生の生命を変えることはできないからです。
| 06 文の心は第五の五百歳の時・悪鬼の身に 07 入る大僧等・国中に充満せん其時に智人一人出現せん 彼の悪鬼の入る大僧等・時の王臣・万民等を語て悪口罵詈・ 08 杖木瓦礫・流罪死罪に行はん時釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌の大菩薩らに仰せつけ大菩薩は梵帝・日月・四天等に 09 申しくだされ其の時天変・地夭・盛なるべし、 国主等・其のいさめを用いずば鄰国にをほせつけて彼彼の国国の悪 10 王・悪比丘等をせめらるるならば 前代未聞の大闘諍・一閻浮提に起るべし其の時・日月所照の四天下の一切衆生、 11 或は国ををしみ或は身ををしむゆへに 一切の仏菩薩にいのりをかくともしるしなくば 彼のにくみつる一の小僧を 12 信じて無量の大僧等八万の大王等、 一切の万民・皆頭を地につけ掌を合せて一同に南無妙法蓮華経ととなうべし、 -----― さて、これらの諸文の意は、次のような次第を説いているのである。すなわち、 第一に、勘持品に示すごとく、第五の五百歳の時・白法穏没の時、悪鬼がその身に入ったところの高僧名僧が出現する。 第二に、その時に智人が一人出現する。これは「悪世末法の時能く此の経を持つ者」に当たり、すなわち地涌の菩薩である。 第三に、彼の悪鬼の身に入る大僧等が、時の王臣・万民等を語らいて、一人の智人を悪口罵詈し杖木瓦礫を加え流罪死罪に行なうであろうと。これすなわち「況や滅度の後をや」に当たる。 第四に、その時は釈迦・多宝・十方の諸仏が地涌の大菩薩に仰せつけ大菩薩はまた梵帝・日月・四天等に申し下されて、その謗法を責めるから天変・地夭が盛んに起こるであろう。それでも国主等が其のいさめを用いないで謗法をつづけるならば、隣国に仰せつけてを彼彼の国国の悪王・悪比丘等をせめらるるならば、前代未聞の大闘諍が一閻浮提に起こるであろう。これすなわち大集経の「闘諍堅固」の文にあたる。 第五に、その時に日月所照の四天下の一切衆生は、この大闘争に襲われて、あるいはわが身を惜しむゆえに、一切の仏菩薩にいのりをかけるとも、一向にそのしるしがなく、ますます不幸のどん底に沈むならば、ついに彼の憎んでいた一の小僧を信じて、無量の大僧・八万の大王・一切の万民等ことごとく頭を地につけ、掌を合せて一同に南無妙法蓮華経と唱うるであろう。 |
末法広宣流布を法華経が予言
末法に妙法が広宣流布していることを、法華経薬王品や勧持品などの経文をあげて確認されていきます。そして、これらの経文を踏まえて、大要、次の諸点について述べられています。
(1)第五の500年である「闘諍言訟・白法穏没」の時には、悪鬼入其身の高僧等が国中に充満する。
これは、法華経勧持品に説かれる「僭聖増上慢」をはじめとする三類の強敵が、末法の時代に出現することを示しています。
(2)その時に「智人」が一人出現する。
これは言うまでもなく、日蓮大聖人御自身のことであります。
(3)悪鬼入其身の高僧が、時の権力者や民衆に向かって、智人を悪口罵詈し、杖木瓦礫の難を加え、流罪・死罪に処しようとする。
(4)智人が迫害される時、諸天の治罰として天変地夭が盛んに起こる。それでも国主らが諌めを用いなければ「前代末聞の大闘諍」が一閻浮提に起こる。
(5)その時、人々は国を惜しみ、わが身を惜しむゆえに、それまで迫害してきた智人を信じて、一同に南無妙法蓮華経と唱えるようになる。
ここで、大聖人御在世当時の「前代末聞の大闘諍」とは、蒙古襲来という、日本がいまだかって経験したことのなかった他国からの侵略です。
前述した通り、「立正安国論」で他国侵逼難として予言され、民衆を戦乱の不幸から救うために、迫害をも覚悟で国主諌暁なされたのです。
したがって、私は「撰時抄講義」を上梓しました。これは、恩師戸田先生が生前に「撰時抄講義」の執筆に着手されたものを、私が引き継ぎ完成させた。いわば師弟合作の講義録となりました。そのなかで、私が強く深く確信した部分があります。
それは、現代の私たちにとって「前代未聞の大闘諍」をどのように拝読するかでありました。
すなわち、一閻浮提に起こる「大闘諍」とは、第3次世界大戦が起こるという考え方もあるかもしれない。しかし、核兵器時代の世界大戦は人類の終末をもたらす危機となるゆえに、われわれは断じて第3次世界大戦を起こしてはならない。そのためにも「前代未聞の大闘諍」とは、第2次世界大戦を指すものとし、絶対平和の世界のため、広宣流布の道を力強く前進すべきことを主張してやまない。
私は、この心情は今も変わりません。いな、ますます強めております。いな、断固として平和を実現していかねばならない。昨秋も、核兵器廃絶の提言を行いました。戸田先生が原水爆禁止宣言で喝破された「核を生み出した心の奥に隠されているところの爪をもぎ取りたい」との思いを受け、行動してきました。この「世界広布」即「平和創出」のハンドルを次の青年に託したい。
ともあれ日蓮仏法の軸は、民衆の平和と安穏にあることは間違いありません。「立正安国論」で国主に強く迫られたのも、残る二難、すなわち内乱と侵略という戦乱を未然に防ぐための諌暁です。「撰時抄」の呼びかけもまた、手遅れにならないうちに民衆の安泰を実現すべきであるとの大獅子吼と拝されます。
人々を苦しめる大闘諍はこれ以上、絶対に起こさせない!
世界の安穏と繁栄のため、断固として平和社会を実現する!
これこそが仏法者の根本姿勢であり、日蓮仏法の魂です。
人間尊厳の「慈悲の社会」を
日蓮大聖人が出現されたのは、闘諍堅固の時であり、日本で初めての武家社会が誕生した鎌倉時代で、日本が侵略の危機にさらされている渦中でありました。
まさしく「時を撰ぶ御抄」とは、その意義を考えれば「平和の選択の書」ともいえるかもしれません。
そして冒頭にも述べたように、創価学会が誕生したのも、第1次世界大戦と第2次世界大戦の間であり、日本が軍国主義に暴走していったさなかでありました。
また、SGIが発足したのも、戦後の冷戦が続き、さらには中ソの対立が深まっていた時であったことは歴史の事実です。
人類は二度の大戦で、何を教訓にすべきか。それは「戦争ほど、悲惨なものはない」「平和ほど、尊きものはない」という絶対の真理を、人類の普遍の価値とすべきだということです。ここに創価の使命が厳然とあります。
恒久平和へ、仏法の生命尊厳の思想を広めることの深い意義もそこにあります。
戸田先生の原水爆禁止宣言にあった、人間生命の「奥に隠されているところの爪」とは「元品の無明」です貧・瞋・癡をもたらし、悪と不幸のもとになる暗い衝動的な迷いです。
「撰時抄」で大聖人が選択された法華経の経文は、まさしく闘諍言訟の本質を示したものでした。
悪魔・魔民などの悪鬼が、名聞名利・増上慢の僧が身に入り、正法ならびに正法の行者を破る。ある意味でこれ以上の無明はありません。法性の生命を開く可能性を悉く否定しようとする働きです。
「元品の無明」との戦いとは、いうなれば人間の根本悪との戦いです。その闘争にあって一歩も退かない。それが法華経の行者です。
そして三障四魔・三類の強敵に勝利する姿ことで、人間の持つ「元品の法性」の可能性を満天下に証明することになります。これが万人に最大の動執生疑を与えるのです。
「人類不信の壁」を破り、人間の尊極さに目覚めさせる。「前代未聞の大闘諍」とは、人々の胸中にある「差別の壁」「無力感の壁」を破る動執生疑であると拝することもできましょう。
魔性に対して人間性が断じて勝利すること。これが、広宣流布の戦いです。
「慈悲」の暖流で人類を包みこむことが、仏教の目的です。恩師は「真に時に相応した仏法を修行すると、自然に慈悲の行業をなしうるのである」と語られました。「一人を大切にする」私たちの行動が、人間尊厳の慈悲の社会を築きあげるのです。
さらに恩師は、凡夫が慈悲行を貫くには、勇気が必要だと言われました。その勇気とは、いかなる勇気か。
恩師は「人を救おう」「自分を向上させよう」「人間革命しよう」「日本を、世界を広宣流布しよう」という勇気であると言われました。
21世紀の今、善の連帯である「人間党」によって、生命の尊厳・人間尊厳の思想が確立されるのか、あるいは、無明の発動による不信と憎悪の連鎖で、生命軽視・人間蔑視の思想がはびこってしまうのか。
人類が岐路を迎えている、今この「時」にあたって、善性を薫発する創価のスクラムが世界中に起こり始めた意義は、計り知れないと確信します。
「時代」の流れに人心は揺れ動きます。善の行動があければ、どこへ行くかわかりません。その時代を、確固たる「大善」へ向かわせる強靭な「意志」こそ、私たちにおける「時を創る」原動力です。
「時」とは、単に客観的な条件ではありません。断固たる「意志」こそ、その本質です。一日一日、一歩一歩、誰が見ていようといまいと、戦い勝つ「意志」が、確かな「時代」をつくります。
戸田先生は言われました「一人の新たなる真の同士をつくる。それから一人、また一人と作っていく。これがとりもなおさず、時を作ることになる」と。
ともあれ、「時」とは、待つのではなく、つくるものだと、若き日の苦境の中で、私は恩師から教わりました。
「時」とは、自らの意志と努力で勝ち取るものだ、自らが決めて戦うことに帰着する。坐して瞑想にふけるよりも、祈って、動いて、書いて、話して、人々の心の扉を開き、心に崩れぬ平和と幸福の砦を構築しゆかん。この信念で私は一貫して行動してきたつもりです。そしてまた、これが、私たちの「撰時」時を撰ぶ実践だと確信します。
御本仏・日蓮大聖人は仰せられました。
「今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり」(1023-10)と。
恩師・戸田先生は叫ばれました。
「時にあい、時にめぐりあって、その時にかなうということは、生まれてきたかいがあるものです」「広宣流布の仏勅を受けているということは、何にもました私の喜びであります」。
第ニ回top
人間勝利の讃歌!民衆仏法の時代が開幕
恩師・戸田先生は叫ばれました。
「時はすでに熟しきっている。日蓮大聖人の立宗宣言あって700年、創価学会のごとき団体の出現が、過去700年間に、いったいどこに、どの時代にあったでありましょうか。大いに誇りをもっていただきたいのであります」
戸田先生は、現代に出現した創価学会こそ、仏勅の大使命を体した希有の団体であることを烈々と獅子吼された。
戦時中の弾圧、さらに戦後の再建の苦闘を乗り越え、折伏の大師匠として、戸田先生は広宣流布の指揮を執られました。
この地上から悲惨の二字をなくさずにはおくものかとの深い覚悟のうえから、立ち上がられたのです。
仏語が真実ならば、必ず広宣流布はできる!広宣流布の時は到来した!今、広宣流布しなければ民衆は救えない! と。
世界広布の道を開け
御師は常々「時を逃してはいけない」と指導されました。ゆえに「今こそ広宣流布の時」と敢然と定め、日本の広宣流布の基盤確立のために身命を賭して戦われた。そして、仏法西還の御遺命の実現、一閻浮提広宣流布という大いなる使命を、不二の弟子である私に託されました。
「大作、私は、日本の広宣流布の盤石な基礎をつくる。君は、世界の広宣流布の道をひらくんだ。頼んだぞ!」
この師匠の厳命は、瞬時たりとも耳朶から離れません。御師の心を受け継いだ私にとって、世界広宣流布こそ、師弟の誓願であり、共戦の悲願だからです。私が世界広宣流布の一歩を踏み出して50年、今SGIの盤石な礎が完成しました。今年はSGI発足35周年でもあります。月々・日々に新たな地涌の勇者が陸続と誕生しています。世界中で青年の陣列が整いました。世界広宣流布の大潮流は、もはや誰人も止めることはできない。
この世界広布の「時」にめぐりあい、この「時」を創りゆくために存分に戦える私たちの福徳は計り知れません。なぜならば、「撰時抄」に仰せのように、末法濁世においては、悪を力強く押し返している滔々たる広宣流布の潮流こそ「仏になる道」があるからです。
| 14 今末法に入つて二百余歳・大集経の於我法中・闘諍言訟・白法隠没の時にあたれり仏語まことならば定んで一閻 15 浮提に闘諍起るべき時節なり、 伝え聞く漢土は三百六十箇国・二百六十余州は すでに蒙古国に打ちやぶられぬ華 16 洛すでにやぶられて徽宗・欽宗の両帝・北蕃にいけどりにせられて韃靼にして終にかくれさせ給いぬ、 徽宗の孫高 17 宗皇帝は長安をせめをとされて 田舎の臨安行在府に落ちさせ給いて今に数年が間京を見ず、 高麗六百余国も新羅 18 百済等の諸国等も皆大蒙古国の皇帝にせめられぬ、 今の日本国の壱岐・対馬並びに九国のごとし 闘諍堅固の仏語 0265 01 地に堕ちず、 あたかもこれ大海のしをの時をたがへざるがごとし、 是をもつて案ずるに大集経の白法隠没の時に 02 次いで 法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか、 -----― 今は末法に入って二百余年になる。大集経に予言されている「我が法の中において闘諍言訟して白法隠没せん」の時にあたっている。そして仏の予言が真実であるならば、間違いなく一閻浮提に闘諍が起こるべき時節である。 伝え聞くところによれば、中国の三百六十ヵ国・二百六十余州はすでに蒙古の軍勢に打ち破られたという。また都はすでに破られて徽宗・欽宗の二人の帝は北方の金の軍勢にいけどりにされて韃靼で亡くなられた。また徽宗の孫高宗皇帝は都の長安をせめおとされて、田舎の臨安行在府へ逃げて、今に数年の間都をみることができないでいる。また高麗六百余国も新羅や百済の朝鮮半島の諸国もみんな大蒙古国の皇帝に攻められた。今の日本の壱岐・対馬や九州のようなものである。闘諍堅固と予言されている仏語は地におちることなく、あたかも大海の潮が、時を違えることなく満ち干するようなものである。 このようなことから考えてみれば、大集経の白法隠没の時に次いで、法華経の大白法が日本の国をはじめ全世界に広宣流布することも疑いのないことであろう。 |
「末法」をどう捉えるか
日蓮仏法の焦点の一つは「末法」をどう捉えるかにあります。
「末法」とは正・像・末の三時の一つで、仏の入滅後に訪れるとされる「法滅の時代」、すなわち仏法が滅していく時代をいいます。
正・像・末の三時については諸経典に説かれていますが、それぞれの時代の特色は、教・行・証によって説明するのが分かりやすいでしよう。仏の入滅後、まず教・行・証のどの面においても仏法が正しく保たれている「正法」時代があります。次に、教や行は保たれていても、証が得られなくなり、仏法が次第に形骸化していく「像法」時代に入ります。
そして、最後に、教法は残っていても、行も証も失われた法滅の時である「末法」に至る。
以上が正・像・末の三時の様相です。
本抄では、末法の衆生を救う人と法を明かすために、正像末の三時の弘教の次第について、2回にわたって詳しく述べられています。
最初の叙述を俯瞰すると、正像末の趨勢とは、万人成仏を願う仏意の忘失と復興の歴史であると拝されるでしょう。
仏の教えの本質を見失った種々の勢力が広がり、その混乱の危機に当たって仏の真意を覚知した智者が現れ正しい法義を宣揚する。しかしまた見失われて再び新たな智者によって、より鮮明に明かされていく。
それは、偽物の仏弟子が蔓延して人々を不幸に陥れる時代の流れに対して、本物の仏弟子が一人立って正義の旗を掲げて戦って人々を救い、捲土重来の闘争を繰り広げる歴史です。
このような歴史観に立てば、法滅の悪世である末法においては、仏の真意を直ちに明かす最も優れた肝要の法を説くことこそ最大事です。
ところが、大聖人御在世当時の宗教界では、衆生の「機根」が劣ることにとらわれ、やさしい法ですら理解できない悪機・劣機の人々が、優れた妙法など実践できないと考えがちがったのです。
例えば、法然が立てた専修念仏の信仰は、衆生の「機根」の面を偏重して捉えて立てられたものです。すなわち、末法の悪機・劣機の衆生には自分で悟りを得ていく修行は不適であり、阿弥陀仏の絶対的な他力で死後に西方極楽浄土に往生する以外に救いはないとするのです。
「機根」を中心に末法の人々の救済を考えるということは、一見すると民衆を重視する姿勢に見えるかもしれない。しかし、決してそうではありません。まぜならば、民衆を「悪機」あるいは「劣機」とする一方、その人々を救えるのは、人間からかけ離れた絶対的な救済者である仏菩薩とします。師である仏と弟子である衆生を分断し、差別を固定化してしまいます。そういう僧侶・聖職者は、仏と民衆の間に位置づけ、仏の権威をかさに着て、あるいは傲慢に、あるいは巧みに民衆を支配していったのです。
これに対して、日蓮大聖人は、まず第一に、教主たる釈尊の真意を重んじられます。衆生に合わせた随他意の方便の教えではなく、釈尊の究極の真意を明かす随自意の法華経を、何よりも重んじられます。迷っている人々が求めている随他意の教えではなく、仏の覚りの側から本当に必要不可欠である肝要の法を与えるべきであると喝破されているのです。
末法という「時」の大問題について、衆生に寄り添って機根から考えるのではなく、問題を解決する力のある「法」とは何か、と大聖人は探究されるのです
その結論が、法華経の肝要たる法の南無妙法蓮華経なのです。
それゆえ大聖人は、法華経で釈尊が洞察し予言した「法華経広宣流布の時」「一閻浮提広宣流布の時」として、末法を捉えられるのです。
すなわち「万人は本来菩薩である」「万人に成仏の可能性がある」と説く法華経であればこそ、末法に充満している悪機・劣機の人々をも救える。この妙法に基づくことによって「真の民衆勝利」「人間讃歌」の時代として、末法の「時」の意義を確立できます。
したがって、法華経が説く末法とは、「絶望の末世」ではなく「希望の変革期」なのです。
末法は「世界広宣流布の時」
さて、御文では、末法は法華経の大白法が全世界に広宣流布する「時」であることを宣言されています。
大集経の「五箇の500歳」説では、第5の500歳である末法の特徴を「闘諍言訟・白法穏没」あるいは「白法穏没・闘諍堅固」と示しています。つまり、釈尊の教えの中で争いが多発するために、正法が隠没してしまう。また、その仏法の乱れが社会に反映して、争いが絶えない時代になるというのです。この大集経のままでは、末法は全く希望のない時代であることになります。
しかし、この大集経の説に込められた仏意は、法華経によって明らかになります。
すなわち、法華経薬王品第23には「我が滅度の後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無かれ」と説かれています。
まさに、闘諍言訟・白法穏没という法滅の危機を迎える「第五の500歳」とは、法華経が「閻浮提」に広宣流布すべき「時」にほかならない。すなわち「世界広宣流布の時」なのです。
薬王品には「悪魔・魔民等に広宣流布を断絶させてはならない」とあります。末法において迎える世界広宣流布の時においては、あらゆる魔性と戦って勝っていかなければならないと命じられているのです。
法滅の末法を、万人成仏・世界広宣流布の時へと転ずる力は、この「魔性と戦う法華経の行者」の実践にあります。
あらゆる魔性に打ち勝って世界広宣流布の源流を開く法華経の実践を、現実に不惜身命で行ってこられたのが、大聖人御自身であられます。そのことを、この「撰時抄」では、力強く宣言なされています。
「万人の成仏」といっても、言葉だけでは一人の成仏さえも実現できません。理念や理想にとどまっていては、まだ「広宣流布の前進」とは言えない。
法華経の理念・理想を知悉する先覚者が、その実現を妨げる障壁を一つ一つ乗り越える「行動」に打って出る。その時こそ、初めて現実における広宣流布の一歩前進であります。この一歩前進が、理念と現実の間にある無限の距離を超える、いわば“命の飛躍”を遂げ得た勝者こそが「法華経の理想を実現しうる行動者」すなわち「法華経の行者」なのです。
大聖人は、本抄で御自身を「一閻浮提第一の法華経の行者」と言われています。それは、不惜身命の実践で「万人の成仏」「世界広宣流布」の基盤を確立したと明言されているのです。
この日蓮大聖人の不滅の大闘争によって、民衆が迷い苦しむ悪世末法から、万人成仏・立正安国を実現する世界広宣流布の「時」へ、大転換が始まったのです。
| 05 釈尊は重ねて 無虚妄の舌を色究竟に付けさせ 06 給いて後五百歳に一切の仏法の滅せん時 上行菩薩に妙法蓮華経の五字をもたしめて 謗法一闡提の白癩病の輩の良 07 薬とせんと梵帝・日月・四天・竜神等に仰せつけられし金言虚妄なるべしや、 大地は反覆すとも高山は頽落すとも 08 春の後に夏は来らずとも 日は東へかへるとも月は地に落つるとも此の事は一定なるべし、 -----― まして法華経は釈尊が「要ず当に真実を説くべし」と証明し、多宝仏も「法華経はみなこれ真実なり」と証明し十方の諸仏は広長舌を梵天にまでつけて説法の真実なることを証明している。その上に釈尊は無虚妄の舌を色究竟天のまでつけられて、後の五百歳に一切の仏法が滅してしまう時、上行菩薩に妙法蓮華経の五字を持たしめて、謗法一闡提の白癩病の輩の良薬にしようと、梵帝・日月・四天・竜神等に仰せつけられた金言が、虚妄となるはずがあろうか。大地が反覆しても、高山がくずれ落ちても、春の後に夏がこなくても、日が東にかえっても、月が地に落ちても、このことは間違いのないことである。 |
謗法の重病をも治す大良薬
ここでは、「白法穏没」の末法において「謗法一闡提」という重病に苦しむ衆生を根本から救う「大良薬」の教えとは南無妙法蓮華経であると明示されています。
先に確認したように、末法の衆生は、仏法理解の能力が低い悪機・劣機とされます。たまたま仏法に帰依しても、悪師にだまされて偏頗な諸宗に執着し、かえって円満具足の妙法に反発し誹謗してしまう。すなわち謗法に陥っているのです。
「一闡提」とありますが、これは、現世の欲望を追究するあまり、仏の説いた正法を決して信じない人、むしろ正法を誹謗する人のことです。そのために、仏性はあるが成仏できないと涅槃経に説かれます。だからこの「謗法一闡提」を、病気で言えば、重病中の大重病、不治の病に譬えられているのです。
この謗法は、一人一人の心を蝕むものであり、社会の精神的支柱を倒壊させるのです。人々を不幸にし社会を混乱させる。まさに「一凶」です。これは立正安国論に指摘されている通りです。
この不幸の元凶を根本から「治す」ものこそ、個人の次元では「妙法受持」であり、社会の次元では「立正安国」です。謗法とは正法への違背・誹謗であるから、その悪を直ちにとどめる。そして、その対極の実践、すなわち妙法を信受して不惜身命の実践を貫き、社会に確固たる精神的支柱を打ち立てることこそ、根本的な解決策なのです。それゆえ大聖人は、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経こそ末法を覆う「謗法」という重病をも治す力をもっている大良薬であると仰せなのです。
「謗法」とは、万人の成仏を説く法華経への誹謗であり、その根底には、人間生命に潜む人間蔑視・生命軽視の無明がある。それが、人間を不当に差別し、抑圧し、社会を狂わす種々の思想的な病を生み出すのです。
そのような一闡提の重病を治す力を持っているのが、南無妙法蓮華経の大良薬です。
どうして、そのような大いなる力が南無妙法蓮華経にはあるのか、南無妙法蓮華経の仏種、すなわち仏の生命力の根源そのものだからです。
御文では、法華経如来神力品第21における釈尊から上行菩薩の付嘱に言及されています。
同品では「妙法蓮華経」について「菩薩を救うる法にして、仏に護念せらるる」と説きます。つまりは、仏は妙法蓮華経を常に心に持ち実践しているがゆえに仏であり、仏の真の弟子たる菩薩に教える時もその妙法を教えるということです。
それゆえ、滅後弘通を誓った上行菩薩をはじめとする地涌の菩薩に、この法を持ち弘めよと付嘱したのです。
また釈尊は「如来の一切の所有の法、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事」という四句に要約して、滅後弘通を誓った上行菩薩をはじめとする地涌の菩薩に、この法を付嘱しました。「一切の」と繰り返されているように、釈尊が成仏する因となった修行と、成仏して得た功徳のすべてが、この妙法蓮華経の五字に収まっているのです。
さらに同品では、上行菩薩は、この妙法蓮華経を仏滅後、悪世の娑婆世界に弘めて、日月の如く衆生の闇を晴らすと説かれます。この仏種たる妙法を万人の心の田に植えて咲き薫らせることこそ、地涌の菩薩の使命なのです。
この地涌による大いなる民衆開花の運動は、一人一人の心の世界の根本的な変革をもたらすがゆえに、当然のことながら反発もあります。しかし、決して孤立無援ではありません。
御文にもあるように、同品では、この地涌の大闘争に対して釈尊は諸天善神に守り支えるように仰せつけているのです。これは、地涌の菩薩による末法広宣流布に、諸天の加護があることは疑いないということです。
ただし、ここで重要なことは、上行を筆頭とする地涌の菩薩が不惜身命の戦いがあるからこそ、諸天の加護を呼び起こすということです。
大聖人自身が、謗法と戦い、民衆を末法の苦悩から救っていく法華経の行者としての実践の中で、声も惜しまず身も惜しまずに唱え抜き、広め抜いているがゆえに、南無妙法蓮華経は社会の大反発を打ち返して現実に広まり人々を救っていったのです。その不屈の大闘争の中で、共感し共戦する働きが現れ加勢していきます。一人立つ正義の勇者の奮闘によって時が開かれ、時が創られていったのです。
この末法広宣流布の大潮流は、たとえ大地がひっくりかえっても、太陽が西から東に還ろうとも、絶対に間違いないことである。と断言されています。
これは、まさに大聖人が身をもって証された大確信であると拝察されます。
謗法の重病をも治す大良薬
ここでは、「白法穏没」の末法において「謗法一闡提」という重病に苦しむ衆生を根本から救う「大良薬」の教えとは南無妙法蓮華経であると明示されています。
先に確認したように、末法の衆生は、仏法理解の能力が低い悪機・劣機とされます。たまたま仏法に帰依しても、悪師にだまされて偏頗な諸宗に執着し、かえって円満具足の妙法に反発し誹謗してしまう。すなわち謗法に陥っているのです。
「一闡提」とありますが、これは、現世の欲望を追究するあまり、仏の説いた正法を決して信じない人、むしろ正法を誹謗する人のことです。そのために、仏性はあるが成仏できないと涅槃経に説かれます。だからこ「謗法一闡提」を、病気で言えば、重病中の大重病、不治の病に譬えられているのです。
この謗法は、一人一人の心を蝕むものであり、社会の精神的支柱を倒壊させるのです。人々を不幸にし社会を混乱させる。まさに「一凶」です。これは立正安国論に指摘されている通りです。
この不幸の元凶を根本から「治す」ものこそ、個人の次元では「妙法受持」であり、社会の次元では「立正安国」です。謗法とは正法への違背・誹謗であるから、その悪を直ちにとどめる。そして、その対極の実践、すなわち妙法を信受して不惜身命の実践を貫き、社会に確固たる精神的支柱を打ち立てることこそ、根本的な解決策なのです。それゆえ大聖人は、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経こそ末法を覆う「謗法」という重病をも治す力をもっている大良薬であると仰せなのです。
「謗法」とは、万人の成仏を説く法華経への誹謗であり、その根底には、人間生命に潜む人間蔑視・生命軽視の無明がある。それが、人間を不当に差別し、抑圧し、社会を狂わす種々の思想的な病を生み出すのです。
そのような一闡提の重病を治す力を持っているのが、南無妙法蓮華経の大良薬です。
どうして、そのような大いなる力が南無妙法蓮華経にはあるのか、南無妙法蓮華経の仏種、すなわち仏の生命力の根源そのものだからです。
御文では、法華経如来神力品第21における釈尊から上行菩薩の付嘱に言及されています。
同品では「妙法蓮華経」について「菩薩を救うる法にして、仏に護念せらるる」と説きます。つまりは、仏は妙法蓮華経を常に心に持ち実践しているがゆえに仏であり、仏の真の弟子たる菩薩に教える時もその妙法を教えるということです。
それゆえ、滅後弘通を誓った上行菩薩をはじめとする地涌の菩薩に、この法を持ち弘めよと付嘱したのです。
また釈尊は「如来の一切の所有の法、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事」という四句に要約して、滅後弘通を誓った上行菩薩をはじめとする地涌の菩薩に、この法を付嘱しました「一切の」と繰り返されているように、釈尊が成仏する因となった修行と、成仏して得た功徳のすべてが、この妙法蓮華経の五字に収まっているのです。
さらに同品では、上行菩薩は、この妙法蓮華経を仏滅後、悪世の娑婆世界に弘めて、日月の如く衆生の闇を晴らすと説かれます。この仏種たる妙法を万人の心の田に植えて咲き薫らせることこそ、地涌の菩薩の使命なのです。
この地涌による大いなる民衆開花の運動は、一人一人の心の世界の根本的な変革をもたらすがゆえに、当然のことながら反発もあります。しかし、決して孤立無援ではありません。
御文にもあるように、同品では、この地涌の大闘争に対して釈尊は諸天善神に守り支えるように仰せつけているのです。これは、地涌の菩薩による末法広宣流布に、諸天の加護があることは疑いないということです。
ただし、ここで重要なことは、上行を筆頭とする地涌の菩薩が不惜身命の戦いがあるからこそ、諸天の加護を呼び起こすということです。
大聖人自身が、謗法と戦い、民衆を末法の苦悩から救っていく法華経の行者としての実践の中で、声も惜しまず身も惜しまずに唱え抜き、広め抜いているがゆえに、南無妙法蓮華経は社会の大反発を打ち返して現実に広まり人々を救っていったのです。その不屈の大闘争の中で、共感し共戦する働きが現れ加勢していきます。一人立つ正義の勇者の奮闘によって時が開かれ、時が創られていったのです。
この末法広宣流布の大潮流は、たとえ大地がひっくりかえっても、太陽が西から東に還ろうとも、絶対に間違いないことである。と断言されています。
これは、まさに大聖人が身をもって証された大確信であると拝察されます。
| 11 法華経をひろむる者は日本国の一切衆生の父母なり 章安大師云く「彼が為に悪を除 12 くは即ち是れ彼が親なり」等云云、されば日蓮は当帝の父母・念仏者・禅衆・真言師等が師範なり又主君なり、 -----― 法華経をひろめる者は、日本国の一切衆生の父母である。章安大師は「相手のために悪を除いてあげることは相手の人にとっては親である」といっている。されば、日蓮は日本の皇帝の父母であり、念仏者・禅衆・真言師等の師範であり、また主君である。 |
民衆仏法の確立
法華経の行者にこそ主・師・親の三徳が具わることを明かされた大確信のお言葉です。
末法における法華経の行者とは「元品の無明」に覆い隠されてきた仏の生命の根源そのもの、すなわち南無妙法蓮華経を、わが生命に現し、人々に弘める人です。ゆえに「元品の無明」を打ち破り、謗法・一闡提の衆生をも救っていくことができるのです。
その法華経の行者が末法の庶民の中に生まれ出たことこそ、本当に尊いことです。悪機・劣機の凡夫でありながら、妙法流布の不惜の実践をして生命に本来具えわる成仏の大境涯を現すのです。だからこそ、凡夫の手本となり鏡となることができるのです
ゆえに「日本国の一切衆生の父母なり」と民衆に対する親の徳を示されます。
法華経の行者として身命を惜しまず戦われる大聖人こそが、一切衆生を真に護る父母であるとの宣言です。
「法華経の行者」は、知らず知らずのうちに人々が陥っている謗法の悪を除く。ゆえに「彼が為に悪を除くは即ち彼が親なり」との章安大師の言葉を引かれ、法華経の行者の慈悲を示されているのです。
また、「当帝の父母」とも言われています。国中に謗法が充満するなかで、国の恩を報ずるために王難を覚悟で国主に謗法禁断の直言をされたのが大聖人であられる。大聖人こそ、真の意味で国主を護られる方であり、真に国土の安泰を実現しうる国師であられることを明言されているのです。
また、当時の宗教者たちの「師範」であり、「主君」であるとも仰せです。これは、大聖人こそが、白法穏没の仏教界を蘇生させる真の宗教的リーダーであられると明かされているのです。
ここで、まず第一に「一切衆生の父母」と断言されたうえで、次に「されば」と言われて「当帝の父母」であり、念仏者・禅衆・真言師などの「師範」「主君」であると喝破されていることに注目したい。
大聖人の慈眼は、まず誰よりも、知らないうちに謗法の悪に染められていく民衆の救済に向けられていた。つまり「民衆仏教」を志向されていた。これは、万人の成仏の理想を実現しゆく広宣流布の戦いの真髄であると拝されます。
国主や宗教者も、本来は、民衆の幸福のために奉仕しなければならない。しかし、大聖人のみが、真の民衆救済の戦いをなされている。その意味から、大聖人は、国主の父母であり、宗教者たちの師範であり、主君であると仰せなのです。
当時の諸宗は、大部分が国主や権力者を護るための祈禱を行っていた。
大聖人は末法の時における仏教のあるべき姿は民衆仏法であらねばならないと考えておられたと拝されます。ゆえに、国主への諌暁に際しては、民衆と国土を護るための宗教・信仰という考え方を示されて意識変革を迫られた。宗教界に対しては、国主・権力者との癒着を厳しく批判なされた。これが大聖人の「立正安国」の実践であられたのです。
勝つ「時」は今
大聖人の法華経の行者としての戦いによって末法流布の大法をあらわされました。そして末法万年の流布すべき真の民衆仏法が確立されたのです。
この民衆仏法を全世界に弘めてきた唯一の団体が、創価学会SGIです。
私たちも、広宣流布の戦いに連なった時、自身の「法華経の行者」の生命が涌現し、大いなる自身を築きあげることができます。
広宣流布に戦えば、大難が即身成仏の道となることは、幾多の先輩方が証明してきました。
戸田先生は叫ばれました。「一度、広宣流布の旗を掲げた以上、最後まで貫き通せ。大難に屈して退転してはいけない」と。
「いまここに、広宣流布という大業に、われわれはぶつかったのであります。いま、この広宣流布の大行進に脱落するならば、私とともに時を得て、同じく法難を受けながら、その時に広布に生きることができなかった過去の同志と同じく、皆さまには生涯の幸福というものをみることができないでありましょう。もしも、この広宣流布の大行進に、志を同じうして立つならば、幸福をつかみうること、火をみるよりも明らかであります」
「断じて、断じて、広宣流布の大行進には、遅れてはなりません。
戦い、そして勝つ「時」は、今なのです。
第三回top
一国の宿命転換担う法華経の行者の闘争
日蓮大聖人の仏法は、個人の宿命転換を厳然と実現する「人間革命のための宗教」です。
また、一国、一時代の宿命転換のために「今、ここで」断固として戦い続けゆく「立正安国の宗教」です。
その宿命転換の鍵は、万人の生命を根本から目覚めさせる南無妙法蓮華経の大法です。
蓮華は、いかに汚れた泥沼にあっても清らかな花を開花させる。
妙法に生き抜けば、いかに宿命の深い苦悩にあえぐ人間生命も、仏界の燦然たる輝きを放つことができます。
また、この妙法に生き抜く人間が広がっていけば、いかに亡国の危機迫る国土も、平和と繁栄の楽土へ力強く転換していくことができます。
この現実変革の力に満ちた仏法こそが日蓮大聖人の末法救済のために打ち立てられた宗教です。
この宗教を打ち立てるためには、不惜身命の行動を貫いて、自身の人生に妙法五字を体現する「法華経の行者」の存在が不可欠となります。
本抄では「法華経の行者」とは、凡夫の生命に仏種を植え、仏の智慧を現し得た「智人」であり、未来を見通して末法の人々を正しく導く徳をもつ「聖人」であり、凡夫でありながら法と一体の偉大な人格を成就した「大人」であるとも仰せです。
本抄に説かれる「法華経の行者」としてのすべての徳は、妙法を信ずる確固たる信の中に具わるのであり、更に、仏が説くとおりに時に適った実践に立ち上がっていく勇気によって現われてくるのです。
今回と次回にわたり、末法広宣流布の時を迎えて一人立ち上がられた日蓮大聖人の「法華経の行者」としての不惜の大闘争を、深く拝してまいりましょう。
| 13 答えて云く迦葉阿難等の弘通せざる大法を馬鳴・ 14 竜樹・提婆・天親等の弘通せる事前の難に顕れたり、 又竜樹・天親等の流布し残し給える大法天台大師の弘通し給 15 う事又難にあらはれぬ、 又天台智者大師の弘通し給はざる円頓の大戒を 伝教大師の建立せさせ給う事 又顕然な 16 り、但し詮と不審なる事は仏は説き尽し給えども仏滅後に迦葉.阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親.乃至天台・伝教のい 17 まだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法経文の面に現前なり、 此の深法・今末法の始五五百歳に 一閻浮提に広宣 18 流布すべきやの事不審極り無きなり。 -----― 答えて云う。迦葉・阿難等の弘通しなかった大法を馬鳴・竜樹・提婆・天親等の弘通したということは、前の問答ではっきりした。また竜樹・天親等の流布し残した大法を、天台大師が弘められたことは、また前の問答ではっきりした。また天台智者大師の弘通されなかった円頓の大戒を、伝教大師が建立されたことも、はっきりしている。ただし、ここでもっとも不審に思うことは、釈尊は一切経を説きつくされたが、仏の滅後において迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親・乃至天台・伝教のいまだ弘通されていない最大の深密の正法が、経文の面に現前と説かれている。この最大深密の正法が、いま末法の初めの五五百歳に世界に広宣流布すべきか否かの問題が、もっとも不審きわまりないところである。 |
「最大の秘密の正法」とは上行弘通の妙法
前回に学んだように、本抄では、正像二時の仏教史をたどり、末法こそ法華経の大白法が一閻浮提に広宣流布する時であると宣言されています。
これに対して、末法広宣流布というのが、すでに正法時代にも、像法時代にも、法華経が大いに弘められた時があったではないか、という問いが設けられます。「末法流布の時とは何か」と明かしてくための重要な問いです。
本抄では、この問いに答える形で、再び正像末の三時の弘教の次第について詳しく述べられていきます。
そして、その結論として、まず正法時代の竜樹や天親は、末法に流布すべき「法華経の実義」をただ自分自身が内鑑冷然しているだけであり、外にはもっぱら権大乗教を説き弘めたと示されています。
これに対して、像法時代の天台大師と伝教大師は、それぞれ南三北七や南都六宗という権教に基づく諸宗を徹底して破し、釈尊の真実の教えである法華経を大いに宣揚しました。その結論として、天台は理の一念三千を説いて円慧・円定を明かし、伝教は円戒である法華円頓の別受戒を立てました。ここに法華経に基づく「戒定慧の三学」という具体的な実践がはじめて揃ったのです。しかし、これはまだ法華経に明らかに説かれている「最大の秘密の正法」ではありません。
それゆえ、正法・像法時代は、まさしく法華経が広宣流布した時代とはいえないとの結論になります。
そして、この「最大の秘密の正法」は、果たして本当に末法の一閻浮提に広宣流布されていくのであろうかとの不審が立てられ、この答えは終わっています。
そこで次の問いは「いったい、どのような秘法が末法には説かえるのか、その名目や内容を聞きたい」と始まります。
しかし、ここでは「最大の秘密の正法」の名目や内容は示されません。本抄全体から拝するならば、法華経で上行菩薩が釈尊から付嘱されて末法に弘める「妙法蓮華経の五字」がそれに当たることは明らかです。
本抄の翌年に著された「報恩抄」では、本抄と同じく正像末弘を論じた上で、末法流布の法として本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目の「三大秘法」を明かされています。すなわち三大秘法の「形貌」が明かされていくのです。
| 05 此の法門を申さん事は 経文に候へばやすかるべ 06 し但し此の法門には先ず三の大事あり 大海は広けれども死骸をとどめず 大地は厚けれども不孝の者をば載せず、 07 仏法には五逆をたすけ不孝をばすくう 但し誹謗一闡提の者持戒にして第一なるをばゆるされず、 此の三のわざは 08 ひとは所謂念仏宗と禅宗と真言宗となり、 -----― 答えて云う。此の秘密の法門を教えてあげることは経文に明らかに説かれているから容易である。ただしこの法門には、まず三つの大事がある。大海は広いけれども死骸はとどめない。大地は厚いけれども、不孝の者はのせない。仏法では五逆の罪を犯した者でも、不孝の者でも救うことができる。ただし正法を誹謗する一闡提の者と、表面だけ持戒第一の姿をした徒は許さないのである。 この三つの災いとは、いわゆる念仏宗と禅宗と真言宗である。 |
「わざわい」もたらす三宗を破折
「最大の深密の正法」を明かすには「顕正」と「破邪」の両面があります。本抄では、まず「破邪」を表に立てて論じられています。
すなわち、ここでは「最大の秘密の正法」の名目や内容を示すのは経文に明確であるから、たやすいことであるとされたうえで、天台・伝教によって確立された法華経第一を覆い隠してしまった「謗法」を取り上げ、明快に破折されていきます。その後に、謗法を打ち破り「最大の秘密の正法」たる妙法蓮華経の五字を弘めていく「法華経の行者」の境地と実践が明かされていくのです。
では、本抄の仰せにそって、大聖人の「破邪顕正」の精神を拝していきましょう。
大聖人は、「破邪」の対象として、当時、日本中に弘がっていた念仏・禅・真言の三宗がもたらしている「わざわい」を挙げられます。
念仏は、「四衆の口あそび」と仰せのように庶民の日常に広まっていました。
禅宗については「大慢の比丘」であるにもかかわらず、「一天の明導」すなわち模範的な僧侶とみなされて国中の尊敬を集め、帰依が増していたのです。
真言については、蒙古襲来の危機におびえていた当時、諸宗の高僧が敵国調伏の祈りに盛んに真言の修法を用いていたのです。
三宗によって進行した日本一国の謗法化
像法の末に伝教大師がせっかく「法華経最第一」を確立したにもかかわらず、なぜ、この三宗の謗法が広まったのでしょうか。
日本の一国謗法化の一凶は「立正安国論」で詳しく明確にお示しのように、専修念仏を説いた法然です。
「安国論」では、こう呵責されている。法然は比叡山の僧でありながら、中国の曇鸞・道綽・善導の説に基づき、それをさらに捻じ曲げた。浄土念仏宗以外のすべての教えを排除し、法華経まで誹謗した。
このような法然を生み出したのは、念仏尊重の風土がすでにあったからです。法然は、天台宗の高僧・恵心が念仏礼讃の書「往生要集」を著し、さらには三論宗の永観が念仏を賞讃する法義を説いたのを、自分の法義の権威づけに用いたのです。これによって、天台宗の最高責任者である座主・顕真までもが専修念仏に傾倒してしまったのです。
こうした経緯の末に、日本国の人々が、法然の邪義に毒されて、一国をあげて法華経を捨て、釈尊をないがしろにして、他土の阿弥陀仏に救済を求める大謗法が国中に充満してしまったのです。
その結果、「立正安国論」や本抄で指摘されているように、謗法の教えを奉じた為政者・高僧らは魔性に魅入られ、内乱を起こしたり、悪事をなしたりして自滅してしまったのです。
次に、禅宗です。禅宗には「教外別伝」といって、仏が説いた経典を否定し、軽視する傾向があります。
これゆえ大聖人は「大慢の比丘」と指摘されているのです。根本である仏が明確に説き残した経典よりも枝葉の人師の口伝を重んずるのは、本末転動の大慢心だからです。
しかし禅宗は、当時、中国に留学した栄西らによって伝承された目新しい宗でした。また伝統的宗派が腐敗堕落していた中で、戒律を重視し、生活規範を整える側面を大切にすることを標榜していたため、尊敬を集めていきました。また「持斎」という断食の修行を在家に勧め、その効用を説いたため、広まっていったのです。
釈尊の教えの根本を否定しているにもかかわらず、外見的には戒を持ち、尊げな様子をかもしだすといういき方は、当時の乱れた風潮の中で、支持されたようです。親不孝のゆえに父母から捨てられた者、無礼ゆえに主君から勘当された者、若くて未熟な僧でありながら学問に励まない者など本性と同様なもので、合致して流行ったと大聖人は指摘されています。
人々の心を根から腐らせていく禅宗・持斎を、大聖人は「国の百姓をくらう蝗虫」という譬喩で厳しく批判されています。
最後に真言宗です。念仏・禅とは比べものにならない。とりわけ大きな「わざわい」であると大聖人は強く糾弾されています。
真言による祈禱は、当時、宗派を超えて行われていました。特に比叡山・東寺・南都七大寺・園城寺などの大寺らは、みな朝廷・国家のための祈禱を行い、絶大な権威・権力を誇っていました。また、当時、鎌倉に幕府ができて、政治の実権が移っていく中で真言師たちも関東に下り、真言の祈禱が盛んに行われるようになったのです。
なぜ真言は、これほど広がっていったのか。その理由として、中国でも日本でも「法華経最第一」の義が確立されてより後に真言が伝来したことを大聖人は示されています。
中国では、天台が南三北七の邪義を破り、法華一乗の正義を確立した時には、真言はまだ伝来していません。日本でも伝教が南都六宗の邪義を破った後に、弘法によって伝来します。したがって、天台・伝教の破折はまぬかれているのです。悲しいかな、そのことが天台宗の人々が真言に籠絡されていく落とし穴となってしまったのです。
天台亡き後、中国に真言を伝えた善無畏や、伝教の後に現われた弘法は、天台宗の卓越性を知っていて、それを覆い隠すために、真言宗は天台宗と法理の次元では同じだが、天台宗にはない印と真言という事相があるから勝れているという邪義を立てたのです。
| 12 これよりも百千万億倍・信じがたき最大の悪事はんべり、 慈覚大師は伝教大師の第三の御弟 13 子なりしかれども上一人より下万民にいたるまで 伝教大師には勝れてをはします人なりとをもひり、 此の人真言 14 宗と法華宗の実義を極めさせ給いて候が 真言は法華経には勝れたりとかかせ給へり、 而るを叡山三千人の大衆・ 15 日本一州の学者等・一同の帰伏の義なり、 -----― これら三宗の悪事よりも、百千万億倍信じがたい最大の悪事がある。慈覚大師は伝教大師の第三の弟子であったが、上一人より下万民にいたるまで、伝教大師より勝れていると思うほどの人であった。この人は真言宗と法華宗の実義を学びつくした結果、真言は法華経より勝れていると書きつけた。そして叡山三千人の大衆をはじめ、日本国の学者等が、一人残らず、その邪義に帰伏してしまったのである。 |
師匠の本義を歪めた師敵対の慈覚
真言宗の策略にかかり、落とし穴へと貶めてしまったのは、比叡山第3代座主、慈覚です。その大罪を大聖人は本抄で、御化導上はじめて徹底的に破折されています。
この伝教の直弟子で、第3代座主という天台法華宗の最高責任者が、真言の主張に同調して、「理同事勝」との邪義を唱えて、法華経よりも真言が勝るとしたことが、後の人々をすべて「謗法」という誤った道へと向かわせる端緒となったのです。
慈覚は、善無畏や弘法の主張に乗っかって、法華経と大日経の精髄は一念三千の「理」で同じであるが、印と真言という「事」を説く大日経は法華経に勝れると主張したのでした。
慈覚自身は、“法華劣・真言勝”の判断に少し迷いがあったものの、それを事もあろうに、太陽を射抜く夢をみたことを根拠に、正しいものと最終的に決断してしまったのです。
そして時の天皇にも報告して、鎮護国家の法についても、法華経などの三部経に代わって大日経などの真言の三部経を用いるようにした。その結果、真言宗の祈禱が平安時代・鎌倉幕府の鎮護国家の祈禱法として支配的になってしまったと大聖人は記されています。
その後、真言の寺がますます増え、一般の人々も法華経を捨てて真言師に頼んで祈禱を盛んに行うようになり、仏像の開眼も真言を用いるようになるなど、日本国の謗法化が進行していったのでした。
大聖人は、この慈覚の暴挙を2点から破折されています。
一つは、慈覚の判断が、仏の経、竜樹の論、天台・伝教の釈という本来基づくべき正統な根拠ではなく、善無畏や弘法などの人師の誤った注釈に基づいている点です。
仏の仰せである経のとおり、説の如くに拝していく。これが仏法者としての肝要です。慈覚の判断は正反対です。仏に背く、師敵対の極みにほかならないのです。
もう一点は、太陽を射る夢を判断の決定打として用いたことです。
夢は奥底の心の反映です。大聖人は、慈覚の心の奥底に、「真言は法華経に勝る」と「造定めて」いたと、そのゆがんだ心根を喝破されています。
その心のゆがみは、何に由来するか。
慈覚は中国に渡って十年にわたり顕密の二教の勝劣を学び、天台宗の碩学たちに師事しながら、心の内に「真言宗は天台宗に勝れたりけり」と思っていたのです。そして師匠である伝教に対して「師匠はまだ真言を習っていず、中国で長く学ぶということをしていないから、あらあらしか分かってない」と心の奥底で見下していたのです。
実は、師匠である伝教は、諸宗を15年にわたり研究して、法華経第一であると自らの智慧で悟って、その上で念のために中国にわたって法華経第一であることが正しいと確認していたのです。「法華は真言に勝れたり」というのが師の心です。
この師の心に真っ向から背く邪義を慈覚は立てたのです。
それは、自身は長く留学した、本場を見たという表面的な事実から慢心を起こし、師を見下したことが原因だったのです。
そして師匠が伝えなかった目新しい真言などの教えを説いて世間の評判を取り、「上一人より下万民にいたるまで伝教大師には勝れてをはします人なり」と思わせていったのです。
師匠を宣揚するのではなく自分の名聞名利を重んじていた。そこには報恩感謝の思いなどなく、傲慢不遜な忘恩の邪心しか感じられません。大聖人も「言は伝教大師の御弟子とは・なのらせ給ども心は御弟子にあらず」(0308-07)と仰せです。
師である伝教は、万人成仏の法華経を根本とする法華宗を確立しようと生涯、戦いました。得一などの法華経の敵と晩年まで戦い続け、その生涯の結実として法華円頓の別受戒の建立が実現したのです。
慈覚は伝教の直弟子であり、法華宗の座主となったのですから、その師の心をこそ根本として法華誹謗を阻止するために断固と戦わねばならなかった。慈覚には、師の精神を厳格に受け止める信心がないゆえに、真言密教の法華誹謗に安易に同調してしまったと断じざるをえません。「人間」が欠落する真言の「理同事勝」
すべては慈覚の師敵対から始まったのです。その根本の狂いゆえに、伝教が一生にわたる闘争で確立した「法華最第一」を、真の意味で深く理解できず、「理同事勝」の義に迷乱し、天台宗の真言密教に踏みきってしまったと考えられる。
慈覚は、一代聖教を顕示教と秘密教に分け、法華経は秘密教のうち理秘密であるが、印と真言が説かれていないゆえに、事理具密の真言三部経には劣ると説きました。
しかし、まず、「理」について言えば、法華経の「一念三千の理」は十界互具を前提にしています。したがって、法華経の久遠実成の仏のような十界互具の仏も、二乗作仏のような十界互具の成仏も説かない大日経では、「一念三千の理」自体が成り立ちません。したがって、決して「理同」とはいえない。
次に、「事」について言えば、「理同時勝」の義における「事」とは、印と真言です。これは、仏・菩薩を象徴する手印等と呪文の言葉です。仏・菩薩の手の形や言葉をまねれば同じことになるという、表面的な形式主義です。
本来仏教が求める身口意の三業による修行とは、全身全霊での仏道の実践です。仏の心をわが心とし、仏であればどう語るか、仏であればどう振る舞うのか、それを考え、心に仏を思い浮かべながら、対話しながら、日々刻々と実践していくことではないでしょうか。
この一個の人間のたゆまぬ努力、そしてその一人一人の営みの集積によって築かれていく平和で幸福な社会・国土こそが本当の「事」といえるでしょう。
宗教は人間の幸福のためにあるのです。困難の渦巻く現実の中で、歯を食いしばり、嶮しき苦難の岸壁に爪を立てて乗り越え、確かな幸福の軌道を開きゆく中にこそ、真実の宗教はあるのです。
この点を見失い、万人の幸福のために戦う仏法の根本精神を忘れて、形式や技術で取り繕おうとするようになれば、その言葉や行動は、真言の印・真言、すなわち、まやかしの呪文や呪術に堕していきます。どの思想も宗教も、現実の変革のために戦い続ける精神を失えば、すぐに形骸化していきます。これは、よくよく心しなければならない点です。
| 13 日蓮は真言・禅宗・浄土等の元祖を三虫となづく、又天台宗の慈覚・ 14 安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子の身の中の三虫なり。 15 此等の大謗法の根源をただす日蓮にあだをなせば 天神もをしみ地祇もいからせ給いて災夭も大に起るなり、さ 16 れば心うべし一閻浮提第一の大事を申すゆへに 最第一の瑞相此れをこれり、 あわれなるかなや・なげかしきかな 17 や 日本国の人皆無間大城に堕ちむ事よ、 悦しきかなや・楽かなや不肖の身として 今度心田に仏種をうえたる、 -----― 日蓮は真言・禅宗・浄土等の元祖を三匹の虫と名づける。天台宗の慈覚・安然・慧心は法華経・伝教大師の師子の身の中の三虫である。 これらの大謗法の根源を糺明する日蓮に、迫害を加え怨嫉をいだくことにより、天神も光をおしまれ、地の神も怒られて、災夭も大いにおこるのである。されば心得なさい。一閻浮提第一の大事を申すゆへに、最第一の瑞相がここにおきたのである。あわれなるかな、なげかわしいかな、日本国の人はみな無間大城におちることよ。悦ばしいかな、楽しいかな、不肖の身として、このたび心田に仏種を植えたことよ。 |
亡国の根源は慈覚
三宗および慈覚破折の結びとなる御文です。
日本一国の謗法化を進めた真言宗・禅宗・浄土宗において、それぞれの謗法の義を立てた各宗の開祖たちを、作仏の苗を荒らす害虫に譬えられています。
また、慈覚・安然・慧心は「師子の身の中の三虫」であると糾弾されています。
この三人は、天台宗の高僧でありながら、それぞれ真言・禅・念仏の三宗を法華経より勝れたものと位置づけ、謗法の教えを決定づけて、法華経を内側から破戒したのです
真言を法華経の上に置き、謗法の端緒を開いた元凶である慈覚については既に述べました。
安然は、慈覚の弟子に当たる平安前期の人で、天台密教を大成したといわれます。本抄では、天台法華宗を禅宗の下に位置づけて、禅宗の慢心を促した人と責められています。
恵心は、天台宗の碩学でありながら、その著「往生要集」で、念仏は末代濁世の愚人に適う法であると讃嘆し、法然の念仏が広まるのを促す役割を果たしました。
法をより深く蝕む根本の害虫は、他宗ではなく正法を弘めるべき天台宗の中にいた。その極悪の正体をはっきりと見極め、責め続けておられるのです。
中でも、日本で最初に、師匠の伝教大師と同時に、大師号を贈られ、高徳・碩学と仰がれた慈覚が、天台宗の「法華最第一」の原則を崩したことは、後世の安然や恵心の考えを引き出す呼び方になった。その意味で、今日の日本国が亡国の姿に陥っていることのすべての元凶は慈覚にありとすらいえるのです。
末法の白法穏没を決定的にするのは、時代の悪さでも、民衆の機根の低さでもありません。正法を守るために戦うべき人が戦わないことこそ、法滅を決定づけるのです。
大聖人は本抄で御自身を「大謗法の根源をただす日蓮」と仰せです。亡国の現証が起きた根本の原因は慈覚の謗法にあったと、恐れずに論証しきったのが本抄「撰時抄」です。
それは、ひとえに日本国の亡国を阻止し、民衆を堕地獄から救うためです。亡国・亡民の根本原因を明かし、国土と民衆を救っていくこと以上の大事はありません。ゆえに、「一閻浮提第一の大事」と仰せなのです。
また、今起こっている蒙古襲来や大災害や大凶兆は、この「一閻浮提第一の大事」を明らかすために戦っている大聖人を迫害するゆえに起こっている瑞相であると仰せです。大聖人の戦いの意味がわからないゆえに、迫害を続けてきた幕府要人たちに気づかせるために「最第一の瑞相」として蒙古の襲来等が起こっていると言われます。
いかに時代が悪くても、また、いかに悪人が多くても、戦うべき人が戦えば、必ず大白法興隆の時を迎えることができるのです。
その戦いの先駆者が上行菩薩です。
「大悪大善御書」には「上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか」(1300-03)と仰せです。大悪の時に躍り出て妙法流布に挑戦する人、その勇気、その敢闘精神その生命の躍動こそ、妙法流布の力になるのです。
この上行菩薩としての戦いを成し遂げていく、真実の法華経の行者の御境地を「悦しきかなや・楽かなや不肖の身として今度心田に仏種をうえたる」と表現されています。
仏種たる妙法蓮華経の躍動が大聖人の御生命の全体を満たしている大歓喜の御境地と拝せます。この生命の躍動によってこそ、他の人々に仏種を伝えることができるのです。
大聖人の宗教革命を受け継いだ創価学会
この日蓮大聖人の宗教革命を受け継ぎ、一生成仏と立正安国論の闘争を広範に展開しているのが、創価学会にほかなりません。
創価の御師・牧口常三郎先生は、「宗教改造作なし」と言われ、「出所の曖昧なる、実証の伴はざる観念論に従って、貴重なる自他全体の生活を犠牲にすることは、絶対に誡しめられなければならぬ」、また「所詮宗教革命によって心の根底から立て直さなければ、一切の人事の混乱は永久に冶すべからず」と喝破されました。
さらに恩師・戸田城聖先生は、「われわれは、人間革命によってこそ、ほんとうの幸福をつかみ、平和な社会を建設することができる」と叫ばれました。
私は青年時代、戸田先生から受けた法華経の講義の感動を、次のようにノートに綴ったことがあります。
「戸田先生こそ、人類の師であらん」「宗教革命、即、人間革命なり、かくして、教育革命、経済革命あり、政治革命とならん」「学会の使命、重大なり」「若人よ、大慈悲を抱きて進め。若人よ、大哲理を抱きて戦え。吾れ、二十代にして、最高に栄光ある青春の生きゆく道を知る」
この心境は今も変わりません。いな、いやまして強くなっております。私たち学会の使命は、どこまでも、平和と安穏の社会を築く立正安国の正道を歩むことです。
「閻浮提第一」の大聖人に連なる喜びと誉れを胸に、雄々しく前進し、破邪顕正の大言論戦を勇敢に勝ち開いていこうではありませんか。
第四回top
今こそ「民衆の時代」へ世界広布の大潮流を
仏教は「人間のための宗教」です。
人間自身の内に「尊極の生命」という“究極の希望”を見いだす教えだからです。
この“究極の希望”を自身に見いだした人は、同時に、他の人々の内にも、その希望の輝きを発見できます。さらに、この自他の根源的な共感をもって、「生命尊厳・人間尊厳」の新しい世界を築くことこそ「我が使命なり」と目覚めます。そして、困難な現実にも敢然と立ち向かって、変革と創造の道を歩み始めるのです。
これが、法華経に説かれる「地涌の菩薩」です。一人の変革から、万人の変革へ、世界の変革へ、正義と希望の波動を広げていくことが「地涌の義」であります。
そのためには、最初に目覚めて行動する「一人」の存在が最も重要です。
末法は闘諍言訟・白法穏没の時代です。この時代にあって、日蓮大聖人は、一国の災難の原因が謗法にあることを知った「智人」として屹然と一人立たれました。その謗法を放置すれば、まだおこっていない内外の兵乱が起こると、命懸けで時の権威・権力に諌暁・警告をされた「聖人」であられました。謗法の病を根本から治療する大良薬である南無妙法蓮華経を弘通し、民衆を苦悩から救い、悪世を変革するために戦い抜いた「法華経の行者」であられたのです。
経文通りに法華経を死身弘法される、大聖人こそが、「閻浮第一の法華経の行者」であり、全世界の広宣流布を実現していく先覚者であられることを力強く宣言された書が、この「撰時抄」にほかなりません。
正法を覚知し、正法を体現されている大聖人こそ、苦悩深き末法のすべての人を救う大指導者、すなわち末法の御本仏であられることを明確に示されているのです。
本当に敬い仰ぐべきは、誰か。それは、見せかけの学識や宗教的な権威や政治権力などではなく、民衆の苦悩を根源から解決する真の方途を身を賭して教え広める、本物の智者であり、本当の勇者です。本抄では、まさに「人間の真実の価値」とは何かを、教えられているのです。
大聖人は立宗以来、末法における妙法流布の先駆けとして、悪鬼入其身の悪僧が充満し、大謗法と化した一国の変革のため戦い続けてこられました。続々と姿を現した三類の強敵の迫害に対して、不惜身命で戦い抜き、勝ち越えてこられたのです。
本抄御執筆の当時は、大聖人の予言した二つの難が現実のものとなって、不当な佐渡流罪からも解放されました。幕府も、いまだ歪んだものにせよ、大聖人への畏怖の念をもち、妥協を示そうとしました。
しかし、結局は、「生命尊厳・人間尊厳」の妙法の核心が分からず、「立正安国」という理想を受け入れることはなかったのです、民衆根本の冶世の確立と、平和で豊かな社会の構築を指し示す至誠の諌めを無視し、目前に迫った蒙古襲来への弥縫策に汲々としていました。諸宗にも協力させ、国家を挙げた防御体制作りに走ったのです。それに同調せず、厳しく戒める日蓮大聖人の一門へは、迫害がさらに強まっていきました。
このような状況下で、師匠の正義を掲げて戦っている弟子たちに対して、御自身が自覚された「地涌の使命」、また御自身が貫かれた三類の強敵と戦う「不惜身命の実践」を教えておきたいとの強い願いが、本抄から拝されます。
不惜身命の闘争を受け継ぐところにのみ、一人一人の人間革命の道があり、悪と苦悩が渦巻く現実社会を変革する道がある。ここにこそ、万人が無明を打ち破って自他ともの幸福の世界を実現する、人類の宿命転換の道があるのです。
| 18 いまにしもみよ 大蒙古国・数万艘の兵船をうかべて日本をせめば 上一人より下万民にいたるまで一切の仏寺一切 0287 01 の神寺をばなげすてて各各声をつるべて南無妙法蓮華経・ 南無妙法蓮華経と唱え掌を合せてたすけ給え、 日蓮の 02 御房・ 日蓮の御房とさけび候はんずるにや、 例せば月支のいう大族王は幻日王に掌をあはせ日本の宗盛はかぢわ 03 らをうやまう、 大慢のものは敵に随うという・このことわりなり、 彼の軽毀大慢の比丘等は始めには杖木をとと 04 のへて不軽菩薩を打ちしかども 後には掌をあはせて失をくゆ、 提婆達多は釈尊の御身に血をいだししかども 臨 05 終の時には南無と唱えたりき、 仏とだに申したりしかば地獄には堕つべからざりしを 業ふかくして但南無とのみ 06 となへて仏とはいはず、 今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすと も南無計りにてやあらんずらんふび 07 んふびん。 -----― いまに見るがよい。大蒙古国が数万艘の兵船をうかべて、日本へ攻めてくるならば、上一人より下万民にいたるまで、いっさいの仏寺やいっさいの神社をば投げ捨てて、おのおの声を合わせて南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えて「たすけたまえ、日蓮の御房、日蓮の御房」と叫ぶようになるであろう。たとえばインドの大族王は幻日王に手を合わせ、日本の平宗盛は梶原景時を敬ったようなものである。このように、大傲慢をきわめるものは、逆に敵に従わなければならないというのが道理である。 不軽菩薩を軽んじ迫害を加えた大慢の比丘たちは、初めには杖や木を用意して不軽菩薩を打ったが、彼に手を合わせて、その誤りを悔い改めた。提婆達多は釈尊の御身から血を出すほどの危害を加えながらも、臨終の時には「南無」と唱えた。「南無仏」といえば地獄にはおちないですんだのに、謗法の罪業が深く、ただ「南無」とだけ唱えて、「仏」とまでいえなかった。今、日本国の高僧たちも、「南無日蓮聖人」と唱えようとしても、南無だけで終わるのではなかろうか。かわいそうである。かわいそうである。 |
謗法の悪鬼入其身の恐ろしさ
日蓮大聖人の仏法の目的は「立正安国」です。「生命尊厳・人間尊重」の思想の確立であり、それに基づく「民衆の幸福」と「平和社会の繁栄」の実現です。
“すべての人を最高の正しい軌道に導き、私と同じく、揺るぎない絶対的幸福境涯を得させたい”これが仏の心です。その心をまっすぐに説いたのが法華経です。
法華経を受持することは、この仏の魂の息吹を全身に漲らせて行動することです。
逆に、法華経を誹謗する謗法とは、仏の心の否定です。人々の善心と幸福を破壊する、魔に魅入られた「悪鬼入其身」の振る舞いです。それは、生命を濁らせて、欲望を肥大化させ、小さな自己の名声や地位や利益のみに固執し、万人の幸福を犠牲にして恥じないという風潮が蔓延し、人間性が衰弱した社会は、内からも乱れ、また、他との社会との争いも絶え間なくおこります。
「謗法の災害が根源であり、このままでは戦乱を招き、亡国は必然である」との諸の経文は、このような洞察を端的に表現したものではないかと考えられます。
もちろん、大聖人は、自身の予言が的中し、戦乱が起こることを望まれたのではありません。むしろそうした事態にならないように、民衆が塗炭の苦しみに陥って、手遅れにならないために警告をされているのです。それゆえ、未萠を知る警世の聖人であらせられるのです。
本抄では、謗法に毒された人々を目覚めさせるためには、あえて強い言葉で、大聖人こそが亡国を救う「聖人」であることを明言されています。そして、人々は亡国・亡身の危機に直面してはじめて、今まで憎んでいた法華経の行者に対して掌を合わせ、一同に南無妙法蓮華経と唱えることは間違いない、とまで断言されています。
ところが、大聖人を迫害した張本人である僭聖増上慢の高僧たちは、かりに助けを求める心が起きても、「南無」とまでしか唱えられないであろう。これほど哀れなことはないと言われています。これは提婆達多が「南無仏」と言えず「南無」とだけ唱えながら地獄に堕ちた例と同じであるとも仰せです。ここでは、当時の僭聖増上慢の高僧たちの謗法の罪が、いかに深いかを示されています。
しかし、これは逆縁・毒鼓の縁でもあります。それらの人々でさえ、不軽菩薩を迫害した人々の例などを見れば、その大苦悩の中で、ついには人間として本当に大切な真実・正義に目覚め、気づくことになるのです。
このように道理を示された後、今度は「三度の高名」の“実証”を通して、大聖人が「聖人」であることを示されていくのです。
| 08 外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを 聖人という余に三度のかうみようあり一には去し 09 文応元年太歳庚申七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時宿谷の入道に向つて云く禅宗と念仏宗と 10 を失い給うべしと申させ給へ 此の事を御用いなきならば 此の一門より事をこりて他国にせめられさせ給うべし、 11 二には去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く 日蓮は日本国の棟梁なり 予を失なうは日本国の 12 柱橦を倒すなり、 只今に自界反逆難とてどしうちして他国侵逼難とて 此の国の人人・他国に打ち殺さるのみなら 13 ず多くいけどりにせらるべし、建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきは 14 らいて彼等が頚をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ、第三には去年文永十一年四月八日左 15 衛門尉に語つて云く、 王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも 心をば随えられたてまつるべか 16 らず念仏の無間獄・禅の天魔の所為なる事は疑いなし、 殊に真言宗が此の国土の大なるわざはひにては候なり 大 17 蒙古を調伏せん事・真言師には仰せ付けらるべからず若し 大事を真言師・調伏するならば いよいよいそいで此の 18 国ほろぶべしと申せしかば 頼綱問うて云くいつごろよせ候べき、 予言く経文にはいつとはみへ候はねども天の御 0288 01 気色いかりすくなからず・きうに見へて候よも 今年はすごし候はじと語りたりき、 此の三つの大事は日蓮が申し 02 たるにはあらず 只偏に釈迦如来の御神・我身に入りかわせ給いけるにや我が身ながらも 悦び身にあまる法華経の 03 一念三千と申す大事の法門はこれなり、 -----― 外典に云う。「将来に起きることを知るのを聖人という」と。内典に云く「三世を知るを聖人という」と。 日蓮には三度の大功績がある。 一には、去る文応元年七月十六日に「立正安国論」を最明寺入道時頼にたてまつった時に、宿谷の入道に向って「禅宗と念仏宗は捨てなさいと執権時頼に忠告しなさい。この意見を用いないならば、北条の一門から内乱がおき、ついには他国から攻められるであろう」といったことである。 二には去る文永八年九月十二日の夕刻、平左衛門尉に向って「日蓮は日本国の棟梁である。日蓮を失うということは日本国の柱を倒すことになる。ただいまに自界反逆難とて、一族の同士打ちが始まり、そのうえ他国侵逼難といって、此の国の人人が他国から打ち殺されるのみならず、多く生け捕りにされるであろう。建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺などの一切の念仏者や禅僧などの寺院を焼き払って、彼らの首を由比の浜で斬らなければ、日本の国はほろびるであろう」といったことである。 三には去年文永十一年四月八日に、平左衛門尉に「鎌倉幕府の代に生まれあわせた以上は、身は幕府に随えられているようであるが、心まで随っているではないか。念仏は無間獄・禅は天魔の所為であることは疑いない。ことに真言宗が此の国土の大なる禍いである。大蒙古の調伏を真言師に仰せつけてはならない。もしこの大事を真言師に調伏するならいよいよ急いでこの国が滅びるであろう」と申したところ、頼綱は「いつごろ寄せてくるであろうか」ときいた。そこで日蓮は「経文には何時とは書いていないが、天のようすから怒りがすくなくないように思う。襲来の時は迫っていて、恐らく今年を越すことはあるまい」と答えたのである。 この三つの大事は、日蓮が述べているのではない。ただひとえに釈迦如来の御心が、わが心に入り替わられてのことであろう。わが身ながらも喜びが身にあまる思いである。法華経の一念三千と申す大事の法門がこれである。 |
「三度の高名」は権力に対せる正義の勝利
「三度の高名」とは、大聖人が三度にわたって権力者への諌暁の中で示した予言が的中したことを指します。
この「高名」とは、民衆を救おうとする慈悲と責任感から卓越した智慧を出されたことを示されていると拝されます。
とともに、権威や権力に屈したり媚びたりすることなく、一個の人間として、自らの信ずる正義を堂々と主張してこられた。屹立した魂の尊厳が拝されてなりません。
まず、1回目は、大聖人が北条時頼に「立正安国論」を提出されたときである。安国論を取り次いだ宿屋入道に対して、「『禅宗と念仏宗を退けなさい』と、時頼殿に申し上げてください。このことを用いなければ、この北条一門の内から事件が起こり、また、他国に攻められるに違いない」と述べられたことです。
続いて2回目は、竜の口の法難の際に行われた諌暁です。法難はその日、大軍勢を率いて捕縛に来た平左衛門尉頼綱に対して、大聖人は厳然と叫ばれました。
「日蓮は、日本国という家を支える棟・梁である。私を失うことは、日本国の柱を倒すことだ。このようなことをすれば、たちまちに自界叛逆難といって同士討ちが起こり、また他国侵逼難といって、この国の人々が他国の軍勢に打ち殺されるだけでなく多くの人々が生け捕りにされるであろう。建長寺、寿福寺、長楽寺など、すべての念仏者・禅僧などの寺塔を焼き払い、彼らの頸を由比ヶ浜で切らなければ、日本は必ず滅びるであろう」
捕縛にきた平左衛門尉に、“私を倒すのは、日本の柱を倒すことだ”大罪ありとして頸を切るならば、正法によって国を救おうとするこの日蓮ではなく、むしろ邪法によって国を滅ぼしている念仏者・禅僧の方であろう“と、彼の為政者としての狂いを喝破されています。ここで「首を刎ねよ」というのは謗法禁断の意であり、それについては「立正安国論」に「謗法の布施を止めよ」ということであると仰せです。
平左衛門尉は当時、執権・時宗から重要され、侍所の所司として、幕府の実権を握っていた一人です。この平左衛門尉に対して、ここまで威風堂々と諌暁されること自体、不惜身命の行動の証にほかなりません。
最後は、佐渡流罪からの赦免直後、3度目の諌暁をされた時です。
平左衛門尉は、打って変わって丁重な態度を見せます。そして、蒙古調伏の祈禱をすれば寺院を寄進しようなどと、露骨な懐柔を図ってきたのです。今の今まで弾圧を主導してきた人間です。もし自分の申し出に背いたら、この後、どうなるのか分かっているのか。表面的には丁重でも、実質的な恫喝であったとも考えられます。横暴な権力者の内実は、何も変わっていなかったに違いない。
これに対して大聖人は「王地に生まれたば身をば随えたてまつるようなりとも心をば随えられたてまつるべからず」と仰せになり、平左衛門尉の申し出を一蹴されます。ユネスコが「世界人権宣言」の20周年を記念して編纂した『語録、人間の権利』にも収録された、世界的にも有名な一節です。
この身は、権力によって従えられるかもしれない。しかし、精神までは絶対に従えられはしない。民衆のために「権力の魔性」と戦い抜かれた大聖人の御精神が、この一節に凝縮しています。
この時、大聖人は権力への迎合を拒み、むしろ幕府が進めていた真言の祈禱による蒙古調伏を行えば、還著於本人で国は必ず滅ぶと、はっきりと断言し破折されたのです。
目覚めた人間の精神は、どんな強大な権力たりとも支配できません。その精神は、たとえ一時は権力の鉄鎖に縛られるように見えても、不撓不屈の闘争を貫き通す。最後には、いかなる鉄鎖をも断ち切って、この現実世界に生命の勝ち鬨をあげる。その「人間尊厳・人間尊敬の勝利こそ「立正安国」ほかならないものです。
予言は仏の智慧の発露
大聖人の予言は、どこまでも、仏の智慧の言葉をもって、「今」という現実を照らし出すものです。真摯に経典に照らして現実を考察したときに、その智慧は開花されてくるものであると考えられます。
「安国論奥書」には「此の書は徴有る文なり是れ偏に日蓮が力に非ず法華経の真文の感応の至す所か」(0033-06)と仰せです。安国論の予言が的中したのは、「法華経の真文」、すなわち仏が説いた真実の智慧の言葉の力にほかならないことを明確に示されています。
したがって、安国論における予言は、仏の智慧の発露であるといっても過言ではありません。
大聖人は「三度の高名」について述べられたのではなく、ひとえに「釈迦如来の御神」が自分に入れ変って言わせたものである。と仰せです。
ここで「釈迦如来の御神」とは、釈尊をはじめとする仏の生命の根源、すなわち、妙法と一体の生命にほかなりません。
すなわち、日蓮大聖人御自身の仏界の生命が躍動し、民衆を救う慈悲と智慧と勇気の行動の言葉として「三度の高名」を実現させたと拝することができます。この境地を「我が身ながらも喜び身にあまる」と深く享受されています。
この仏の生命の発動について「一念三千と申す大事の法門はこれなり」とも仰せです。
そのうえで、この「釈迦如来の御神」は、釈尊が示した一切衆生を慈しむ慈悲の精神であるとも拝することができます。
法華経には「今此の三界は、皆是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり、而るに今此の処は、諸の患難多し 唯だ我れ一人のみ、能く救護を為す」とあります。
全世界の国土と民衆を守り、救う、これが釈尊の心です。釈尊は、そのために万人成仏の法たる法華経を説きました。この「仏の精神」を、そのまま体現して行動するのが「法華経の行者」です。この仏の魂たる法華経の真髄をそのままに生き抜かれ、万人を守り、教え、育む主師親の三徳を体現されたからこそ、大聖人の末法の御本仏と尊崇するのです。
| 04 衆流あつまりて大海と 05 なる微塵つもりて須弥山となれり、 日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一渧・一微塵のごとし、 法華経を二 06 人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし仏になる道は 07 此れよりほかに又もとむる事なかれ。 -----― 多くの流れが集まって大海となる。わずかの塵がつまって須弥山となる。日蓮が法華経を信じ始めたころは、日本の国にとっては一つの渧、一つの微塵のようであるが、その結果二人・三人・十人・百千万億人と唱え伝えるならば、やがて妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるであろう。仏になる道はこれよりもかに求めてはならないのである。 |
広宣流布の戦いこそ「仏になる道」
一人目覚めた師子が立ち、大難を勝ち越えていくことで、広宣流布のが現実のものとなります。
日蓮大聖人の「一閻浮提第一の法華経の行者」としての戦い、また「智人」「賢人」としての振る舞いは、仏国土の建設も一人の人間の生命の変革から始まることを示されています。
あらゆることは、一滴、一微塵から始まるのです。しかし、その一滴、一微塵の確かな存在であれば、同じ志で次の「一人」が立ち上がり、着実に積み重ねてきます。
法華経は万人が目覚める教えです。一人一人の無明を力強く打ち破って、法性の生命を呼び覚ます力がある。一人の「法華経の行者」が行動を起こせば、太陽の如く周囲の闇を照らし、晴らしていくことができます。
そして、二人・三人・十人・百千万億人と人々が目覚めていく。目覚めた人が立ち上がり、また、大勢の人を目覚めさせていく。
その確かな、一微塵、一滴の積み重ねは、間違いなく「妙覚の須弥山」「大涅槃の大海」となっていく。やがて、妙法の智慧と慈悲が世界を包み、法華経の人間主義が人類の精神基盤になれば、平和社会が創出されるのです。
不屈の先覚者の精神に連なる偉大な「一人」が百千万億人と続いてこそ、必ず「妙覚の須弥山」「大涅槃の大海」となることを教えられているのです。
御文では、この一人の人間革命から始まる広宣流布の潮流を築く以外に「仏になる道」を求めてはならないと仰せです。万人の幸福・世界平和という仏の大願を実現する戦いの中でしか、仏の境涯は開かれないからです。それゆえに「撰時抄」では、大聖人は、大境涯を開きゆく広宣流布の共戦を、わが門下によびかけられていくのです。
| 07 此の二つの文の中に亦於現世・得 08 其福報の八字・当於今世・得現果報の八字・已上 十六字の文むなしくして 日蓮今生に大果報なくば 如来の金言 09 は提婆が虚言に同じく 多宝の証明は倶伽利が妄語に異ならじ、 謗法の一切衆生も阿鼻地獄に堕つべからず、三世 10 の諸仏もましまさざるか、 されば我が弟子等心みに法華経のごとく 身命もおしまず修行して 此の度仏法を心み 11 よ、 -----― この法華経と、普賢経の二つの文の中に、「亦於現世・得其福報」の八字と「当於今世・得現果報」の八字の以上十六字の文が虚しくて、日蓮が今生に大果報を得なければ、如来の金言は提婆達多の虚と同じになり、多宝如来の証明は倶伽利の妄語に異ならない。そうであれば謗法の一切衆生も阿鼻地獄にはおちないし、三世の諸仏もいないことになってしまう。されば我が弟子よ、試みに法華経のとおり身命もおしまず修行して、このたび仏法を試してみよ。 |
不惜身命で広宣流布の大道を
「撰時抄」を結ばれるにあたって、大聖人は、弟子たちに、仏勅の広布の闘争に不惜身命で共に立ち上がろうと促されています。法華経を持つ者が得られる広大な境涯を、わが門下たちにも会得してほしいからです。
まず大聖人は、法華経の「この第一の経を持つ人は第一の人である」という経文を掲げられます。
この経文を信じ、この仏の讃歌の言葉を胸に誇りをもって勇敢に実践せよ。そうすれば経文にあるようにこの現世において大果報、すなわち仏の境涯を得ることができる。わが弟子はそれを証明せよ このように教えられているのです。
大聖人御自身が「法華経第一」を証明する大闘争が現実に繰り広げてこられました。「民が子」として誕生され、ただただ人々の幸福のために、大難を乗り越えてこられた。法華経を身で読みきって、御自身のうちに具わる仏界、すなわち何ものにも揺るがぬ絶対的幸福を開き顕されたものです。その大宇宙に広がる大境涯、無量の福徳を弟子たちにも得させたいと強く強く願われて、よびかけられているのです。
本抄では、法華経の「亦た現世に於いて、其の福法を得ん」「当に今世に於いて、現の果報を得べし」との経文を示されています。
かりに大聖人御自身が成仏の大果報を得られないならば、万人成仏を保証した釈尊や諸仏は、提婆達多よりも大嘘つきになると仰せです。
そして「されば我が弟子等心みに法華経のごとく身命をおしまず修行して此の度仏法を心みよ」と呼びかけておられます。
あらゆる大難を勝ち越えて、無上の智慧と慈悲を示してこられた大聖人は、まさに末法の御本仏としての大境涯を確立されます。
大聖人が示されたように法華経の大功徳は絶対に間違いない。ゆえに、「わが門下よ、法華経を如説に修行して、この大境涯を得て、人生を勝ち飾れ」と、師弟不二の実践を訴えておられるのです。
なぜ「不惜身命」という覚悟が必要なのか。それは、末法悪世であり、謗法が充満しているからです。法華経の経文通りに、三類の強敵、なかんずく僭聖増上慢との闘争になるからです。
僭聖増上慢とは「持戒有智の大僧」すなわち、行いが立派そうで、智慧があるように見え、人々から帰依される高僧です。これに対して、末法の法華経の行者は「凡夫」「貧道」です。地位や身分もなく、学識を誇るものでもない。それ故、人々や権力者は僭聖増上慢にたぶらかされて、法華経の行者を軽んじ、その勝れた主張に耳を傾けるどころか、かえってその命を狙おうとさえする。
まさに命懸けでなければ、戦い切れるものではありません。しかし、戦わなければ、法華経は隠没し、末法の闇が永遠に続きます。また、中途半端な戦いで決局破れてしまえば、闇はいっそう深くなるだけです。
大聖人の御在世には、この師匠の呼びかけに応じて、「身命もおしまず修行して」戦う弟子が出現しました。四条金吾や池上兄弟らが僭聖増上慢の勢力と戦い、三障四魔に打ち勝つ信心を確立していきました。さらに、日興上人とともに大難と戦い、難に屈しなかった熱原の三烈士をはじめとする農民信徒が出現しました。こうした弟子たちが立ち上がって、師弟不二の宗教が成ったのです。
民衆による民衆のための大闘争
そして、この大聖人のが開かれた、民衆を主体とする大闘争を現代に継承したのが創価の三代の師弟であります。
日蓮仏法が人類に果たすべき使命とは、民衆自身による民衆救済であることを、創価の父、牧口先生は明確に知悉されていました。それゆえに、不惜身命で立ち上がられました。死身弘法を貫き、殉教されたのです。
牧口先生は、こう述べていきます。
「ここに世界人類が等しく渇望する所の無上最大の生活法即ち成仏の妙法が、誰にもたやすく解るようになったとすれば、その功徳を普く一切に施して、無上最高の幸福に至らしめなければ止む能わざる所であろう」
「我々は国家を大善に導かなければならない。敵前上陸も同じである。数千人の説教中に一人も残らないような従来の教化運動とは異なり、十年前はただ一人だった同志が、この様に繁栄したのは全く信仰の基礎に立ち、現証を示し合えばこそである。ここまで来たものを以て察するに、今後ともに家庭を救い、そうして広宣流布に到るまでの御奉公の一端も出来ると信ずるのであります。
この牧口先生の戦いは、そのまま、戸田先生に引き継がれました。戸田先生は、こう言われました。「真に国家を憂い、民衆の幸福を願うの心ある青年であるならば、まず自らが、この高慢な人間革命の真髄を求めて、いかなる三類の強敵・三障四魔とも戦い抜き、勝ち抜いて、勇猛精進すべきではなかろうか」
「日蓮仏法は、人類の闇を打ち破る『全世界の太陽』である」
この不惜身命の未聞の精神闘争を、私も命を賭して世界に広げていきました。草創以来、多くの同士が、私と同じ勇気で立ち上がり、この広布の戦に連なってくださった。大聖人が切り開いてくださった“民衆の民衆による民衆のための戦い”は、わが創価学会の中にのみ、脈打っているのです。
法華教の経文には地涌の菩薩が娑婆世界の三千大千の国土に、同時に湧出したことが説かれています。今、まさしく経文通りに、世界中に地涌の菩薩が同時に出現し、人類の宿命転換を実現しゆく勇者の陣列が誕生しました。「閻浮提中広宣流布」が現実のものとなっているのです。
人類のために貢献する「人材の大山脈」が築かれ、万人の幸福を共に実現していく「民衆の大海原」が広がって、仏教は真の人類宗教となります。法華経の行者は、この世界広宣流布の大潮流を創りあげる人です。
それはまた、人々を幸福にする哲学を持ち、実践し、人間としての共感と信頼を広げ、わが郷土を大切にしつつ、地球を結んでいく「世界市民」です。学会員こそ、人類最高の人間性の方々です。この創価の世界市民の陣列を、世界各界の識者が賞讃する「時」を迎えました。いよいよ、この大潮流を、より大きく、より確かなものにしていくことが、21世紀の私たちの責務です。
私は、この、「時」にめぐりあえた喜びを、日本、そして世界の友と一緒に分かち合いたい。世界広宣流布の絢爛たる実証へ、「身命もおしまず修行して此の度仏法を心みよ」との御聖訓を身で読む時は、まさに「今」の時です
人類の境涯を開く、私たちの不惜身命の大闘争は、いよいよ、これからなのです。
世界広布五十周年の時に
わが愛する青年部に
「閻浮提広宣流布」の
未来の一切を託しつつ。