一生に一度の恋をした
その気持ちは穢れきった自分には似つかわしくないほど澄んだもので
とてもとても大切なものだった
けれど生きる価値のない俺達が恋をすることは
やはり罪なのですか?
なぁ、神様よぉ?
*****
「泥棒だ〜!!!」
空気を切り裂くような声が町中に響く。
声の出所は街角にある洋菓子屋。店主と思われる大男が棒を振り回しながら走っている。
通行人は目線を送るだけで後は無関心。
泥棒など日常茶飯事なので、別段取り立てて騒ぐことでもない。
この街は―この世界―は腐りきっているのだから…。
頻発する盗み。麻薬無法地帯。人身売買は当たり前。女は一人で出歩けない。
ここでは全てに無関心を貫くしか生きる方法はない。
――これは、そんな街でのとある物語―――
はぁはぁっ
息を切らせながら少年は路地を右に曲がった。
その右手には包装されたホールケーキ。
走ってきた方向を振り返り、追っ手がいないことを確認するとふぅと息を吐く。
―どうやらにげきれたようだな
手元のケーキを見やると少々変形していた。
少年は軽く苦笑いをしつつも、まぁいいかと帰路を急ぐ。
所詮俺たちには綺麗なものなんて似合わない
少年の名は三上亮。
この街で生まれ育ったストリートチルドレンである。
「お帰りぃ。」
建物とはいえないようなボロ屋の歪んでいる玄関(隙間がここしかない)から中に入ると真上から声がかかる。
顔を向けると、なんともいえない楽しそうな顔をした少年が顔を覗かせていた。
齢は三上と同じ15歳。
名を中西修二という。
三上と共に育った仲間であり、家族でもある。
そして・・・・・・三上が苦手とする唯一の人間であった。
「・・・・・・。」
気配を消して近寄るなよ!!!と怒鳴りたい衝動に駆られたが、こいつと関わるとろくなことがない、と無視を決め込み中へと進む。
「あれ〜何よミカミン。それは反抗期ってやつかな?思春期真っ盛り子供と大人の狭間で漂うマージナルマンって感じ?ってことは何、ミカミン夜は右手フル活動なの!!!?うわ〜可哀想〜。」
馬鹿にしたような言い回し。中西はおそらく三上をからかうことで生気を養っているのだろう・・・・・・。
「・・・・・・っせぇよ。バカ西。」
「うっわ。三上のくせに生意気。」
といっても頭にきた様子はない。これが彼らの普段の会話なのである。
「阿呆ネギはどうしたんだよ。」
声にもならない声で呟く。
中西が絡んでくるのは大抵根岸が留守の時だ。
そして根岸は不幸にも三上の憂さ晴らしの道具として使われる。
「靖人はおエライさんとデート中。」
地獄耳…。何はともあれ、今の中西の近くにいるのはヤバイ。
情報収集の為とはいえ、大人と会って無事なはずはない。
いつもは中西がさり気なく根岸の代わりに行くのだが、今日根岸がいったということはどうしょうもない何かがあったのだろう。
こういったときはさっさと退散するのが賢い手だ。
「お前も苦労するな。じゃ、俺用事あるし――」
「三上センパイ〜!!!」
ドドドドドドッ!!!
家の奥からけたたましい足音とともに、猪のごとく黒い固まりが三上のほうへ向かってきた。
「うぎゃ〜!!!」
運動神経抜群の三上でさえ、50mを6秒フラットで走り抜ける藤代誠二の突撃を避けることはできず、そのまま押し倒される形となった。
ぶちゅ。
嫌な音がした。
唇に生暖かい感触・・・・・・。
咄嗟に閉じた目を恐る恐る開くと、見慣れた顔のドアップ。
そう、倒れた勢いで三上と藤代はキスをしていたのだ。
「む〜っ!!!むぎゅ〜むご〜!!!!!!」
言葉にならない声でうめく。
藤代が三上の上から覗く気配はない。
あろうことか
「っ!!!むむぎゅ〜っ!!!」
舌までいれてきた。
必死の抵抗も押し倒された形では無力化される。
頭上では中西の笑い声が響く。
いつか殺してやる!冗談ではなく本気でそう思う今日この頃であった。
「藤代。その辺で離してやれよ。」
今度は近い処から声がした。
藤代の体でその姿は見えないが、この年にそぐわない温和な声色の主は間違いなく渋沢克朗。
ここら一帯のストリートチルドレンのリーダーである。
そして、三上に濃厚なキスをかましている藤代の恋人でもあった。
「キャプテ〜ン☆」
「ふぎゅっ!」
飼主の声を聞きつけた愛犬よろしく、藤代は渋沢に飛びついた。
勿論、 三上を踏み台にして。
本日二回目の殺意が三上の中に芽生えたのはいうまでもない…。
「俺だってたまにはヤキモチくらいやくんだぞ。」
「うっわ。俺すっげえ嬉しいっすよ!たまには据え膳も食っとくもんですね!!!」
誰が据え膳だ!という突っ込みは虚しくもかき消された・・・。
涙を浮かべて睨み付ける三上なんてお構いなしに、渋沢と藤代はあつい抱擁を交わす。もし、尻尾があったら思い切り振っていたに違いない・・・。
「何処いってたんすか〜?俺キャプテンいなくてめっちゃ退屈だったんすよ〜!」
ぷぅと頬を膨らます。
しかし1%も険を含んでいない言葉に渋沢は微笑む。
渋沢がこんなに柔らかく微笑むようになったのはごく最近のことだ。
一年前、藤代がこの地域に迷い込み、何故かリーダーである渋沢に懐いた。悪意の欠片も ない純粋な好意に心が溶かされていったのは間違いない。三上達古参のメンバーも渋沢がその強い責任感故に心に負担をかけていたことは承知していたので、リーダーとしてではなく、渋沢個人の笑顔を喜んだ。
勿論、出来れば自分達が彼の心を溶かしたかったのだが・・・。
終わりよければすべてよしである。
「すまんな。今日は近隣の地域との話し合いがあったんだ。」
話し合いというかストリートチルドレン同士での情報収集。
生きるためには情報が不可欠である。
だからその為には大人に足を開くことも厭わない。
全てが生きる為だから。
「何かあっ――」
「何か新しいことあったんすか!!?」
三上の台詞は案の定さえぎられた。
「最近、ストリートチルドレンに対する取締りが一層厳しくなったらしい。」
「・・・・・・。」
空気が一転して険しいものになる。
取締りが強くなるということはイコール生きるのが難しくなるということだ。
勿論食料の入手も困難になる。
場合によっては死に至ることもあるかもしれない。
「大人はこれまで以上に武器を使うことを許されたらしい。だから、より一層生活必需品の調達には気をつけないとな。」
「はっあんな奴らに俺たちが捕まるわけねぇよ。」
「そうですよキャプテン!子供は風の子元気な子っていうじゃないすかっ!!!」
「・・・・・・使う場所が違うんだよ、馬鹿代。」
思い切り頭を引っぱたく。
勿論拳骨でだ。
「そんなぱかぱか殴らないでくださいよ〜。本当に馬鹿になったらどうしてくれるんですか〜!!?」
「てめぇはもう既に手遅れなんだよ!ば〜か!!」
「キャプテ〜ン!三上センパイがいじめる〜!!!」
はっ。たまにはビシッといってやれ渋沢!
「三上、あまり苛めないでやってくれよ。」
「っ!!!」
「キャプテ〜ン☆」
ふと上を見上げると中西の姿はなかった。
甘い空気に当てられる気はないらしい。
自分も逃げ出したかったが、手元を見やり溜息をつく。
「おい馬鹿代。」
「何ですか?バカミセンパイ。」
「っ!!!」
殴りたい衝動にかられたが、早くここから逃げ出したい気持ちが勝りやっとのところで拳を静める。
早くここから離れないと砂糖にまみれて死ぬ!!!
どうにか笑顔をつくり
「ほらっ。」
手にもっていたケーキを差し出す。
先程のどたばたで箱は見事に崩れているが、中身は無事なはずだ。
「オタンジョウビオメデトウフジシロセイジクン。」
ここの仲間達で自分の誕生日を知っているのは新参者の藤代くらいだ。
だからその分祝おうと思った。
皆の分まで。
自分の思考に恥かしくなり三上はその場を後にする。
後ろからはやかましく
「ありがと〜ございます〜三上センパイ〜!今年も宜しく〜!!!」
などとの声が響いた。
今年も宜しく…ねぇ。
三上の顔には痛々しい笑みが浮かぶ。
夢も希望もない俺たちには明日のことすら分からない
だから誰も先の話なんてしないっていうのに・・・。
*****
出会いは一瞬だった
その一瞬が頭にこびりついた
囚われたのはどちらだろうか…?
*****
「……じゃ後は食料品を揃えるだけでいいんだよな。」
「あぁ。」
「お腹すいたっすよ〜」
ある日の昼下がり、俺と渋沢は買出し+偵察に来ていた。
初めから二人で行く予定だったのに、何故か馬鹿犬もついてきている。
ウザイことこの上ない。
大体さっきから飯の話しかしてねぇんじゃねえか?このガキ!
渋沢は渋沢で藤代を野放しにしているからまたウザイ。
ってかその微笑みがもはや気持ち悪い。
渋沢は日々変態へと進化していっているようだ。
しかしそれを口に出すと後が怖いので三上は見て見ぬ振りを決め込む。
その鬱憤の行き場は間違いなく藤代である。
「黙れこのタコっ!お前が勝手について来たんだろっ!!!」
「だって朝から何も食べてないんですもん〜。」
「では食料を揃えたらそのまま食事にしようか。」
「まじっすかっ!!!やったぁ!!!ちょー嬉しいっす!!!」
「……・・・。」
甘い…甘すぎる。
俺たちにとっての食事とは命がけなんだぞ!(死ぬ気もないけど)
金なんかないんだ!
盗むんだぞ!!!
大体が食事なんて一日ニ食出来ればいいほうだってのに!!!
三食も四食も食ってられっかってんだ!
そう心の中で突っ込みまくっていると隣から生ぬるいオーラを感じた。
「食べたくないなら食べなくてもいいんだぞ、三上。」
「人の心を読むんじゃねぇ!!!」
「ほう、何かやましいことでも考えていたのか?」
「っ!!!」
駄目だ……疲れた。
やっぱり何も反論しないほうが身のためだ。
「……おっ俺もお腹すいたなぁ〜。」
「そうっすよね三上センパイvvじゃあさっさと盗んできちゃいましょう!」
「じゃあ30分後に此処で。」
「おっけぃ。」
渋沢達と別れてから俺はまっすぐ目的の店に向かった。
雑貨やら洋服やら食料やらが所狭しと並んでいて、盗みには絶好の場所だ。
店番もトロクサイ大人ばかりで、もし見つかっても簡単に逃げられる。
盗むことに罪悪感なんて感じない。
否、感じていたら生きてなんかいけない。
盗みを終え、待ち合わせ場所に戻る。
まだ渋沢も藤代も来ていないようだ。
広場の方に人だかりが見える。
(人売りか…?)
人売りは大人が子供達を売り買いする酔狂なアソビだ。
売られる子供に人権はない。
好き勝手アソバレテそのままステラレル。
かつて仲間が何人か大人に捕まってそのまま売られた。
(胸糞わりぃ…)
嫌悪感でいっぱいになりながら野次馬に紛れて近づいてみる。
もしかしたら仲間が売られているかもしれない、と。
近づくと、3人の子供達が大人に囲まれていた。
可哀想に靴は履かされず、ボロ布を纏わされているだけ。
とりあえず知っている連中はいない。
ほっと一安心し、集団から抜け出そうとすると、いきなり隣の大人が崩れてきた。
かすかに漂う酒の匂い。
この酔っ払いがっ!と怒りがこみあげてきたが、こんなところで騒ぎをおこすわけにもいかない。
なんとか怒りを鎮めてその場を立ち去ろうとした時、売られている子供の中の一人と目があった。
「――――っ!!!!!」
射抜かれた、と思った。
体が動かなかった。
その瞳から目が離せなかった。
真っ直ぐな瞳に浮かぶのは涙。
それが零れることはない。
窺える強い意志。
どんなに粗末な格好をしていても気高さは失われていない。
その瞳にとらえられた。
*****
何故か、なんて自分でもわからない
気が付いたら体が動いていたのだから
この気持ちをなんと呼ぶのかさえも分からない
*****
「み〜かみセンパイ!」
耳元で響いた馬鹿でかい声に我にかえった。
背中から全体重をかけてきているのは、間違いなく藤代だ。
反射のように藤代をひったぱき、そんな場合じゃないと気付き少年のほうを振り返る。
が、すでに少年の目は逸らされていた。
長い、とてつもなく長い間、見つめあっていたような気がしたのに、実際はほんの一瞬だったようだ。
もう売りは終わったのか、少年はスーツを着た、いかにも金持ちそうな大人に無理やり引っ張られ、馬車のなかに連れて行かれる。
抵抗するでもなく、全てを諦めたかのように従順だった。
それでも、真っ直ぐと前を見据える瞳だけは濁っていなかった。
ぞくっと何故か三上は身震いをした。
「何見てたんすか?あれっ!?あれってタク?」
藤代が示したのは先程の少年。
馬車の扉は閉められていて、こちらの声は聞こえないようだった。
「っお前!知り合いかっ!!!?」
「多分そうっす!!!前いたところで一緒だった奴なんすけど!何か金持ちになっちゃったんすかね!!!」
「馬鹿野郎っ!!!」
バチコーンッと藤代の頭を叩く。
少しは頭を使え頭をっ!!!
「何すんすか!もう〜。」
「何処をどう見たらそう見えんだよっ!売られてんの!ヒ・ト・ウ・り!!!わかったかこの馬鹿!」
1字1字嫌味ったらしくアクセントをつける。
そうこうしている間に馬車は動き出す。
―――ヤバイ!
何故か体が動いた。
人売りなんて、この町じゃ日常茶飯事なのに。
「おい!馬鹿代!」
「何すかもう!!!」
「渋沢に先帰っとけっていっとけ!」
そう言い残して、目の前に置かれていた自転車に飛び乗る。
意外に聡い少年はそれだけで全てを理解したようだ。
「了解っす!!!」
ラジャーと軍人宜しく敬礼する藤代を視線の端で捉え、猛然と自転車を漕ぎ出す。
「あ、あと!そいつの名前なんていうんだっけ!?」
「竹巳っす!笠井竹巳!!!」
馬鹿でかい声だからよく聞こえた。
カサイタクミ
たった6文字の言葉。
どう書くのなんて分からない。
だけれども、それは三上の心に深く刻まれた。
「そうか、三上が・・・。」
遅くなってしまったと急いで待ち合わせ場所にたどり着いたが、出迎えたのは藤代だけだった。
理由を尋ねると、きちんと把握はしていないのか、「タクを追いかけたみたいです。」となんとも意味の分からない説明をされた。
しかし、普段突拍子のない行動をしない三上が、前触れもなく一目散に追いかけたということは、よっぽどその少年が大切だったのだろうと推測した。
三上が誰かに執着しているという噂は聞いたこともないし、渋沢自身気付きもしなかったが、渋沢の知らないところで何かが育まれていたのかと、何だか悲しいような嬉しいような気持ちになった。
藤代が来るまでの人形みたいな自分を一番心配してくれたのは三上だった。
素直じゃない分、それは分かりにくかったが、確かな優しさを三上は与えてくれた。
そんな三上を差し置いて、藤代という恋人をつくってしまったことを渋沢は少しだけ悔いていたのだ。
藤代を愛する気持ちに迷いはない。
しかし、自分だけが心のよりどころを手にしたみたいで。
だからこそ早く三上を愛し、また三上も愛する人が現れればいいなぁと常々考えていたのだ。
しかし、藤代の話によると、もうその相手は現れていたらしい。
詳しい事情は全く分からないが、何でも市場にかけられていたとあっては、三上でなくとも慌てるだろう。
「タクはいい奴っすから!俺が保証します!!」
にっこりと藤代が笑いかける。
それに渋沢も穏やかな微笑で返す。
「そうか。それじゃあ三上が、その――」
「笠井です!笠井竹巳!!」
「笠井を無事につれて帰ってこれるように祈っていよう。」
それは簡単なことではないと渋沢は分かっている。
大人の、それも市場に参加するような金持ちの大人から何かを奪うということがどれだけ難しく、またどれだけ危険であるか。
それでも――
「大丈夫っすよ!子供は風の子元気の子ですから!!きっとタクと一緒に帰ってきます!」
「そうだな。」
祈らずにはいられない。
愛する人たちの幸せを。
――どうか、無事に戻ってきますように
*****
理由なんてない
あるのは身の焦げるような熱さだけ
それを理由と呼ぶのなら――――
*****
藤代と別れてから、三上は尋常でないスピードで自転車をこいだ。
ゆっくりと走っているとはいえ、モタモタしていたら所詮は馬と自転車、カサイタクミを見失ってしまう。
早く早くと、自分自身を急かしながら、ぺタルを持てん限りの力でもって、まわし続けた。
何故自分はこんなことをしているのだろう。
幾度となく自身に問い掛ける。
そしてその度に壁に突き当たった。
もともとカサイタクミをしっていたのなら簡単だ。
しかし、つい数十秒前に出会い―――そう呼ぶのは相応しくないかもしれない。お互いに認識さえしていないのだから―――瞳をかわしただけなのだ。
仲間と呼ぶには相手を知らなさ過ぎる。
何が自分を動かす。
こんな危険を犯してまで、カサイタクミを追いかける理由は何だ?
脳裏に渋沢や藤代、中西が浮かぶ。
彼らのような恋心なのだろうか?
ということは一目惚れ?
いや、違う。
自分の考えを否定するかのようにブンと頭を振る。
自分にそんな殊勝な感情はない。
それは自分がよく知っているし、誰に聞いても肯定される事実だろう。
三上に親はいない。
最も一緒に共同生活をおくっている仲間達も同じように家族をしらない。
その空虚を埋め尽くすかのように、彼らの連帯感は強い。
裏切りは許されないし、仲間が傷つけられたらすぐに報復にでる。
性モラルはないに等しく、男であっても女であっても気が向いた同士、毎夜のように交じり合う。
そんな中でも相手を限定する、三上にしてみたら酔狂な者達もいた。
渋沢と藤代がいい例だ。
彼等は愛し合ってると公言して憚らない。
それを悪いとはいわないが、何故一人に限定するのかが三上には理解できないでいた。
更に理解できないのは中西だ。
彼は根岸を愛している。
そのことをしらないのは、当の根岸だけだ。
彼の愛し方は一方的だ。
根岸からの見返りは求めない。
何も望まない。
ただ傍にいるだけでいいらしい。
それが、仲間に対する気持ちと何が違うのかよく分からないかったが、中西は「三上もいつか分かるようになるよ。」と、いつも飄々としている中西には珍しく、悲哀に満ちた瞳で語っていた。
このように、三上は誰か一人を愛したことがないし、その原理もよく分からないでいた。
どこからが愛なのか、どういった感情を愛と示すのか。
そんなものを知る必要はないし、知るつもりもないと思っていた。
だから、今、戸惑う。
何が今、自分を動かしている?
カサイタクミにもう一度会った時に、その答えが出ると思った。
馬車は街を離れ、森のほうへ入っていった。
流石に野道を自転車で走るわけにもいかず、森の入り口で乗り捨てた。
森を走り回るのは慣れている。
馬車がガタガタと進むそのすぐ後ろについていくことができた。
しかし・・・
この先に屋敷などあっただろうか・・・?
三上の記憶が正しければ、何もない。
ただ崖があるのみだ。
(気付かれたか・・・?)
ちっと舌打ちをする。
しかし、まだ分からない。
もしかしたら知らないだけで、隠居用の屋敷でもあるかもしれない。
どうする?と自分に問い掛ける。
答えはすでに決まっていた。
随分下のほうから、ざざ―っと波が岩場にぶつかる音がする。
音としては近いので、崖の高さがかなりあるということだ。
森をかなりはしったところで、馬車は止まった。
周りには家ばかりか、生き物の気配すらしない。
そのうちにがちゃっと馬車の扉が開く。
馬車の中からは3人の大人と、カサイタクミがでてきた。
カサイの瞳にもはや涙は浮かんでいなかった。
その代わり、何も映していないかのように、何処ともなく視線を彷徨わせていた。
三上は猛烈な焦燥感に襲われた。
隠されてしまった瞳。
隠さざるを得なかった少年。
―――絶対に連れて帰る
その気持ちだけが三上を支配した。
*****
望むのはただ一つ
あの人があの人でありますように――
*****
「姿をみせたらどうだね。」
丸々と太った大人が声をあげた。
全く腹筋に力の入っていないような声だった。
それでも偉そうな態度からこいつがこの中での親玉か、ということが知れた。
(本当は屋敷の主人でもあったが、あまりの威厳のなさに、三上はそこまで考えつかなかった。)
こいつは何の戦力にもならないだろうが、他の二人は違う。
実際、気配を消して行なったはずの尾行に早々と気が付いていたのだから。
隠れていても何の特にもならない、と判断し、三上は音もなく立ち上がる。
三上の姿に、予想外とばかりに大人達は笑い声をあげる。
「ほう。まだ小童ではないか。てっきりこのわしの命を狙った刺客かと思ったわ。」
どこまでも迫力のないその声色に、三上は蔑みの笑みを浮かべる。
「そりゃ、期待にそえなくて悪いことしたな。あいにくあんたみたいな肉饅頭には興味ねぇんだ。」
だからあまり自惚れないでくれと、思い切り馬鹿にしたような態度をとった三上に、男は激昂し、顔を真っ赤にさせた。
肉饅頭じゃなくてタコ饅頭かよと、せせら笑っていた三上も、男の発した言葉に凍りついた。
「では、この少年がお目当てかな。しかし残念だな。この少年はこれからわしと、契りを交わすのだ。」
なっ!!!と驚いた瞬間に後ろから両手を押さえつけられる。
抵抗しようともがくともう一人の大人にナイフを突きつけられた。
「お前はその光景をここでみているがいい。」
にやりと気持ちの悪い顔を更にゆがめる。
三上は自分の軽率さを呪った。
こいつらは”大人”だということを失念していた。
子供ではない。
卑怯な大人だ。
一人一人勝負をすれば勝てるとおもっていた三上も、こう不意打ちをくらっては動けない。
こうなったら――
「タクミ!!!逃げろっ!!!――グッ!!!」
出せる限りの大声をだして叫んだ。
せめてカサイだけでも逃がしたい。
しかし、いきなり名前を呼ばれた笠井はとっさには動けず、三上はナイフを突きつけていた大人に鳩尾を思い切り蹴られた。
がはっと嘔吐しながらも、潤んだ瞳で笠井を見つめる。
笠井も三上から視線を逸らせずにいた。
「―――っ!」
三上と笠井の様子を一しきり観察していた男は、何を思ったのか更に醜く顔を歪めて、笠井を無理やり引き寄せた。
「そうか。お前たちはそういった仲なのだな。面白い・・・。そんなに見つめあいたいのなら、逸らすでないぞ。」
いい終わるとともに、笠井の衣服―――布を纏っていただけだが―――を力任せに裂いた。
「ひっ!」
いきなり肌に触れた冷気に、笠井は身を竦める。
そして自分の体を見下ろし、身に纏うものがほとんどない状態に気が付き、暴れだした。
しかし所詮は非力な子供の抵抗。
すぐに押さえつけられてしまう。
そして、何かを口に含まされた。
必死に頭を振って、飲み込むことを拒んでいたが、口と鼻を押さえつけられ、結局飲み込んでしまった。
げほげほと酸素を求めて咳き込む笠井を、地面に投げ飛ばし、それでも視線だけは三上に残るように仰向かせた。
唇を奪われ、顔中を嘗め尽くされ、足を極限まで開かされる。
笠井は嫌悪感を顔中に浮かべ、今にも吐きそうな状態だった。
しかし、時間が経つにつれ、それがどんどんかわっていく。
肌は上気し、吐く息は熱っぽくなった。
まだ一度も触れられていない性器は勃ち上がりかけていた。
先程飲まされたのはそういった類の薬だったのかと、三上は理解する。
薬に侵され、喘ぎを押さえきれない笠井だったが、その濡れた瞳だけはいつまでも三上を捉えていた。
初めて出会ったときのような強い瞳。
「―――っ!!!」
男が自身をズボンから引き摺りだし、笠井の後穴に押し当てると、笠井の瞳は大きく揺れた。
浮かぶのは恐怖。
「くっそ!!!」
三上は渾身の力をもって暴れた。
襲いくる暴力にも屈せず、ただ笠井だけを求めて。
「カサイ!カサイ!!」
バキッ!!!
鈍い音が響く。
大人の一人が放った右ストレートが三上の顔面を直撃した。
「ぐっ・・・。」
地面に叩き付けられ、痛みにもがいていた三上の耳に聞こえたくなかった悲鳴が木霊した。
「・・・あー―――っ!!!あっ!あっ!」
ろくに慣らしもせず無理やり挿入された笠井は、揺さ振りに合わせて断続的な悲鳴しかあげられない。
「かさっ――ぐはっ!!!」
起き上がり、笠井に駆け寄ろうとした瞬間、また鳩尾に蹴りを食らった。
何度も何度も蹴られ、意識を失いそうになっても、笠井の悲鳴だけが聞こえていた。
どれくらいの時間が経ってであろうか。
最早、三上は自分の力で立ち上がることが出来なくなっていた。
笠井も同じように血に塗れていた。
男は満足したように、身なりを整えると、三上の前髪を引っ張り上を向かせる。
「いいか、小童よ。冥土の土産に聞かせてやる。この少年はこれからわしの性奴になるのだ。お前のことなど忘れるくらい貪り尽くしてやる!!!」
ひゃーはっは!と何処までも下品な笑い声を上げる。
何度か三上を殴り、気が済んだのか、馬車のほうに戻る。
そして、残りの二人に合図をする。
二人は三上に歩み寄り、両脇から三上を支えあげた。
「尾花沢様に逆らった報い、その身にうけよ。」
ずるずると崖のほうに引き摺られていたのは分かっていたが、全く力が入らなかった。
崖の面前に立たされる。
後ろを向くと、笠井が虚ろな瞳をこちらにむけていた。
この気持ちは何だ?
捉えられた
離れない
離れたくない
「タクミ!!!」
最後の力を振り絞って叫ぶと、笠井はびくっと身を震わせる。
それを視界に捉え、三上はにやりと微笑む。
「絶対助けに行くからな!待ってろよ!!!」
そう叫び、大人の手を振り払い、自ら崖の下へ飛び降りた。
どうか、次にあうその日まで
あなたのままでい続けてください――――
*****
神様がいるとしたら、何故僕等だけ愛してくれないのか
*****
目にうつるは赤。
全てが真っ赤だった。
「・・・渋、沢?・・・・・・」
かつての友であろうその固まりの前に三上は立ちすくんだ。
面影などない。
赤。
ただ、着ているその服と体格だけで―――。
腕(と思われるモノ)の中には同じような固まりが。
「・・・藤代。」
こちらはすぐにわかった。
ずっと腕の中にいたのだろう。
その表情も読み取れた。
「・・・・・・何、笑ってやがる。」
満足そうに微笑んでいるその顔が、何よりも三上の心を抉った。
これは、制裁だという。
大人に歯向かった、その罰を仲間達はうけたのだと。
近隣の地区の子供達の姿は見えなかった。
とうに逃げたのだろう。
情報すら残さないで。(最も彼等は三上が生きていることすら知らないのだから当たり前といったら当たり前だろう)
ここで何が起きたということは、皮肉にも大人の口から語られた。
一人残された三上を哀れむような視線をよこし、淡々と語るその口調に、三上は何度も我をなくしかけた。
―――何もしてやらなかったくせに
助けを求める声から、何度耳を塞いだのだろう。
子供達はいつだって叫んでいたのに。
それでも必死に激情を押さえ、仲間達の最期を聞いた。
ことが起こったのは二日前。
何の前触れもなく、大人たちの軍がこの武蔵森地区に攻め入ったらしい。
突然のことに何の抵抗もできないまま、彼等は死んだのだ。
三上が笠井の姿を追って、藤代の前から姿を消したのは四日前のことだ。
崖から落ちた三上は体の回復を待っていた。
漸く動けるようになったあと、仲間達に別れを告げようと、戻ってきたのだ。
体の回復など気にせずに、その足で真っ直ぐ帰ってきていれば間に合ったかもしれない。
幾度となく後悔が襲う。
それでも。
今自分が死んでしまったら誰が笠井を救う?
大人など信用できるわけもない。
自分しかいないのだ。
自分しか笠井を守れないのだ。
仲間も帰る場所も消えた。
今三上を支配するのは笠井への思いだけ。
それだけが三上を支えていた。
この国に埋葬の習慣はない。
死者の為に何かしてやるといった気持ちがないのだ。
しかし。
三上は仲間全ての体に毛布をかけてやった。
安らかに眠れといった気持ちなどない。
ましてや天国にいってほしいとも思わない。
三上は天国など信じていないし、神の存在も信じていない。
いるとしてもそれはくそっくらえな存在だ。
そんなものに願いなどかけたくもない。
死んでしまえば何もない。
何も残らない。
ただ、そのままでは寒いと思ったから。
それは生きている三上だけの感覚だったけれど。
淋しいだろうと、仲間を一箇所に集めた。
渋沢と藤代は動かすのが悪い気がしたので、そのままにしておいた。
それに目がとまったのは何故だろうか?
藤代が体で覆い隠すようにして、握り締めていたもの。
(・・・手紙?)
仲間内で文字の読み書きができるのは渋沢と三上と中西と藤代だけだ。
だから手紙なんて全く書かない。
だからこそ気になった。
普段なら人の持ち物を勝手に見ようなんて思いもしないけど、この時だけは迷いもせず、それを手にとった。
――三上へ
―――守りたい人を守れ。
―――誕生日おめでとう。
――――――笠井竹巳っすよ!
乱雑な藤代の文字と、几帳面な渋沢にしては珍しく走り書きのような文字。
事実、走り書きだったのだろう。
それをしっかりと藤代に握らせて。
「・・・な・・・っだよ・・・。」
じわりと文字が滲む。
天国でも地獄でもない。
ただ一つの帰る場所。
「・・・何・・・ちゃっかり守ってんだよ!・・・」
藤代を守って。
手紙も守って。
この場所すら守ってくれた。
―――守りたい人を守れ
守りたい人。
「・・・笠井、竹巳。」
藤代の文字を指で辿る。
「・・・かさい、たくみ。」
その名を心に刻む。
くしゃりと紙を丸めてズボンの中にしまった。
帰る場所は此処。
次に帰ってくるときは笠井も一緒だ。
「・・・・・・じゃ、行ってくるわ。」
短い挨拶だけして、三上は走りだした。
*****
カルマの坂をのぼる
*****
醜い悲鳴が響く。
その脇を駆け抜ける少年の姿は風のようで、誰の目にも止まらない。
少年の手にはしっかりと、大人から奪った剣が握られていた。
偶然だった。
それはあまりにもこの街ではありふれた光景で。
何故、今、目にとまったのかわからない。
多分、大人に組み敷かれている子供の瞳が光を失っていたからだろう。
路地裏で犯されている子供。
助けをこう気すら失せてしまったのか、人形のように揺さ振られ、断続的な喘ぎをあげていた。
その光景が眼に入った途端、何かが三上の中で弾けた。
――笠井。
気が付いたら子供諸共殺していた。
許せなかった。
当たり前のように子供をおもちゃにする大人も、為す術なく大人のおもちゃになりさがる子供も、それをみていることしか出来ない自分も。
何もかもが許せなった。
お前等の守るものは何だ?
金か?名誉か?
そんなものくそっくらえだ。
子供達が守ろうとしているものに比べたら、そのなんて小さいこと。
そんなものの為に子供達は犠牲になるのだ。
それを、三上は識った。
知っていたけど、今日はじめて識った。
――笠井。
三上は気が付いているだろうか?
自分の瞳がどんどん狂気に満ちていくのを。
守りたいもの。
ただ一つのものを守ろうとする、その真っ直ぐな、一途な思いはやがて狂気になる。
先ほど奪った剣の切っ先をを走りながら日に透かす。
夕日に照らされたそれは赤く、三上の瞳も染めた。
綺麗だ、そう思った。
不意に笑みが零れる。
走る速度を少し、あげた。
「武蔵森壊滅だってよ〜。」
唐突に耳に飛び込んできた単語に、思わず足を止めた。
「驚きだよな〜。あそこはぜってぇ潰れないと思ってたんだけどな。」
まだ年端いかない子供の声だと確認すると、三上はゆっくり声の方向に近づき、息を潜めた。剣の鞘はとうに捨てていた。
「ってかさ、なんでわざわざ武蔵森なわけ?あそこに下手に手ぇ出したらやばいって大人だって分かってるだろうに。」
「あれだろ。100人以上の兵だしたって噂だぜ?」
「マジで?!そりゃぁ渋沢といえども太刀打ちできんわな。」
「尾花沢の家の兵士らしいぜ。やったの。何か制裁の旗掲げてたって。」
「尾花沢ぁ?あぁ、あれか。町外れのでっけぇ館の豚饅頭。」
「制裁って何やったんだろうな、奴等?」
「しらね。尾花沢の前で不純異性行為みせつけちゃったんじゃね〜。」
「不純同性行為だろ。」
「違いねぇ〜!」
「ってかまじうけるよな。子供のくせして操立てだぜ?」
「あぁ、渋沢だろう?あれじゃん。息子がおったってくんねぇから操をたててたっと。」
「うまい!」
ぎゃははは、と響く笑いが唐突に途切れた。
不思議に思ったが、自分の手元を見て合点がいった。
夕日から逃れたはずの剣先が、再び赤く染まっていた。
お前等に何がわかる。
最期まで自分を貫き通した彼らの何が。
町外れのでかい館は三上も知っていた。
制裁の旗。
それは大人が子供に対して行なう制裁の際、必ず掲げる旗だ。圧倒的な力の差をみせつけ、周囲の子供にも恐怖をうえつける為だけに掲げる。
それが武蔵森に対して掲げられたということは・・・
あのときの笠井を連れ去った大人は、笠井を犯した大人は、尾花沢で間違いないということだ。
そして三上への制裁のために武蔵森を襲った。
仲間にはなんの罪も無い。
自分のために仲間は死んだ。
三上の心を黒いものが犯していく。
――笠井。
町外れに向けて、三上は走り出した。
*****
その瞳にうつすのは?
*****
薙ぎ倒した。
誰を、という認識はなかった。
ただ、自分の行く手を遮るものを払いのけた。
血が舞う。
辺り一帯に響く声。
そのどれも今の三上には意味のないものだった。
尾花沢の家に辿り着くと、正面から屋敷に入った。
止めるものは全て切り捨てた。
逃げ惑う人の流れに沿うように進むと、一際大きな部屋が目に入った。
導かれるようにそこに入ると、尾花沢が部屋の隅で縮こまっていた。
誰にも助けてもらえなかったのか。
無意識に口端が上がる。
ガッと音を立てて剣を尾花沢の後ろの壁に突き立てた。
鼻につく匂い。
尾花沢は失禁していた。
ちっと舌打ちをし、鳩尾を蹴り上げる。
力は半分に抑えた。
話が出来なくなられては困るからだ。
「笠井は、何処だ?」
低い声で尋ねる。
ふと、自分はこんな声をしていたか?と頭の隅で思った。
それ程に口から出たのは見知らぬ男の声だった。
尾花沢はぜぃぜぃと荒い呼吸をし、やっとのことで「何が欲しい?」といった。
今度は右首を蹴った。
その反動で左につき立てていた刀に耳が食い込む。
「ぎゃぁ!」と悲鳴をあげた。
「笠井は、何処だ。」
もう一度尋ねた。
ちらりと三上を見上げた尾花沢はひぃ!と体を震えさせた。
それ程に三上の顔は恐ろしかった。
震える手を持ち上げ、部屋の奥に続く扉を指差した。
「むっ・・・・・・向こうだ!向こうの部屋にいる!だか・・・・・・だから・・・・・・命だけ――――――!!!!!」
言い終える前に三上は剣先を右にはらった。
「笠井・・・・・・?」
部屋の奥に進むと、地下に続く階段があった。
それを下ると、扉があらわれた。
精巧な作りのそれは、しかし鍵はかかっておらず、押すと簡単に開いた。
部屋は小さな造りだった。
中央にベットがあり、というよりもベットしか家具と呼べるものはない。
部屋の隅に備え付けられたバスルームには、遮る壁がなかった。
人の気配がしない。
入った瞬間にそう思った。
しかしベットの脇に放心したように座り込む少年がいた。
「笠井・・・・・・?」
もう一度呼びかけた。
反応はない。
ゆっくりと歩み寄り、肩に手をかけると大きく体が震えた。
血が怖いのかもしれないと思い、剣を部屋の隅に投げた。
笠井の前に回りこみ、その顔を覗き込む。
すると小刻みに体が震えているのが分かった。
次第が呼吸が荒くなる。
熱い呼吸の合間に吐き出される言葉に三上は目を見張った。
「・・・・・・ほ・・・しい・・・・・・す・・・・・・り・・・・・・おねが・・・・・・なん・・・・・・もする・・・・・・ら」
薬を、使われていたのか。
症状を見る限り、かなりの量を使われていた。
舌打ちをした。
ここにはもう何を使われていたかわかる人間はいない。
治療すらできない。
「笠井。」
壊れ物を扱うように、ゆっくりと抱き締めた。
瞳と同じ、真っ黒な髪の毛を梳く。
すこしだけ、震えが収まった気がした。
しばらくの間抱き締めた体制で過ごしていると、腕の中の笠井が身じろいだ。
「笠井?」
顔を覗き込むと、ゆっくりと焦点があっていく。
「・・・・・・み・・・かみ・・・・・・せんぱ・・・い・・・・・・?」
それでも何処か夢心地に笠井が首を傾げた。
「お前、何で俺の名前しってんの?」
「街・・・・・・で、誠二の・・・・・・声して・・・・・・そし、たら・・・・・・貴方・・・が・・・・・・追いかけて・・・・・・きた・・・」
だから三上”先輩”なのか。
成る程、と三上は納得し、苦笑した。
「前・・・から・・・・・・少しだけ、誠二の話・・・・・・聞いてて・・・・・・・・・追いかけて・・・きてくれて・・・・・・嬉しかっ・・・・・・た・・・・・・」
「そっか。」
抱く腕に力を込めた。
遠目でみた時よりも、細く感じた。
身長は自分と同じくらいでも、体重はかなり違うだろう。
長い間地下室に閉じ込められていた為か、その体は冷え切っていたが、それでも微かなぬくもりを感じた。
少しずつ、少しずつ、笠井の体が震えを取り戻す。
正気でいられる時間は限られているのだろう。
震えを止めるように抱き締めたが、意外にもしっかりとした力で押し返された。
「笠井?―――――っ!!!」
息を呑んだ。
目の前には、先日見たあの瞳があった。
細められる。
口端は上がっていた。
「俺を、殺してください。」
荒い呼吸を押さえつけて、一文字一文字しっかりと発音した。
頬に流れた涙だけが、全てを語っていた。
最後の一振りを――――――
口付けをした。
もう動かない笠井に。
魅せられた瞳は自分の手で閉じた。
その顔が安らかだと思ったのは、自分の思い込みだろうか。
涙は流れなかった。
どう流すのかが思い出せなかった。
覚えているのはあの温もりと、あの微笑だけ。
それだけが静かに、存在していた。
「腹、減った。」
鳴り始めた腹を抑え、三上は燃え盛る武蔵森をあとにした。
お話は、ここで終わり。
ある時代のある場所の物語。
(完)