前々から気になってはいたのだ。
ただ、聞くタイミングがなかっただけで。
「ねえ、なんでわざわざ腕時計を置くの」
部室に時計がないわけじゃないのにさ、と手塚の腕時計に指を絡ませながら不二は尋ねた。
部員はすでになく、窓ガラスは真っ赤な夕焼けで彩られていた。
室内は奇妙な静寂が支配していた。
青白い蛍光灯の光がペンをはしらせる手塚の長い指をちらちらと映し出していて、
ああ、幻想的だな、と不二はたわいもなく思った。
手塚は一瞬手を止めて不二を見、それからその手にある時計を見て
「いけないか?」
と一言聞くと、また部誌にペンをはしらせた。
べつにいけないとも言ってないんだけど。
不二は苦笑して腕時計を手のひらで転がした。
「なんとなく気になったから」
手塚は部誌を書くときに決まって、自分の腕時計をはずして机に置く。
最初は厳格な彼のことだから一分一秒寸分違わぬ時間が欲しいのかと思っていた。
だから自分の時計を見るのかと。
しかしそれはどうも違うということに最近気がついた。
というのも何故か変なところにこだわる我らがデータマン―つまり乾が―
朝練の前に三日置きほどの割合で時報に部室の時計を合わせているからだ。
おかげで時計がうっかり遅れていたからといって朝礼に遅刻することも、
バスに乗り遅れることもないのだが、そうなるとやはり謎は残ってしまうのである。
手塚は何故、わざわざ腕時計を置くのか…
(いや、別にいいんだけどね。)
部誌に目を落とした手塚を見て不二はそっと息を吐いた。
どの時計を見ようが、あるいは時計自体を見まいが、
それは本人の自由でそれをどうこうするつもりなんかない。ましてや相手は手塚だ。
不二は一応世間で言う手塚の「恋人」だったけれど、彼の行動を制限するつもりはないし、しようとも思わなかった。
それは不二本人が束縛やその類を嫌っているからでもあるし、手塚に思うように生きていて欲しいと思うからでもあった。
彼にはきっとテニスしか見えていない。
でもそれでいいと不二は思う。手塚はそれでいい。
自分のように打算や利害でテニスを見ている人ではないから。
真っ直ぐに真っ直ぐに高見を目指して上り詰めればいい。彼にはそれができるのだ。
手塚は思うようにすればいい。
その結果、彼が別れを選択したとしても不二は笑って受け入れるだろう。
それでどんなに自分の胸が痛んだとしても。
「好きなんだ、音が。」
不意に手塚が言った。何のことか分からなかった不二は面食らって一瞬沈黙した。
(ああ、時計のことか。)
「音なんてしな……?」
しない、と言おうとした不二の耳に手塚は無言で腕時計を近づけた。
わずかに耳と頬に触れる手塚の体温と自分を真っ直ぐに見つめる視線を感じて 、不二は息が止まりそうになった。
クッと胸が痛くなる。
がらにもなく緊張した。首筋がチリチリと痛む。
鼓動があからさまに早くなるのを感じた。
(心臓の音の方が聞こえそうだ…)
手塚の端正な顔を見つめ、不二はこくっと息をのんだ。
と…集中させていたその先から、規則正しくリズムを刻む音が不二の耳へとこぼれてきた。
「あ…」
ピンピンとバネをはじくようなクリアな音。
カリカリと歯車の噛み合うような軽快な音。
かつんかつんと秒針の動く音。
生きているようだった。
世界があるみたいだった。
不二はそっと目を閉じると、吸い込まれるようにそのリズムに聴き入った。
ッ…
ッ…
ッ…
ッ…
なんて不思議な音色なんだろう。
これが時を刻む、音。
初めて聴くような、それでいて酷く懐かしいような、そんな素朴な音。
どこかで、聞いた…?
(ああ、そうか…)
唐突に気づいた。海に似ているのだ。
不二は初めて海を見た時の事を思い出した。
あれはまだ自分がちいさい頃のことで。まだ残暑の残る蒸し暑い秋の夜だった。
両親と、姉と、弟と、久しぶりに外食がてらドライブをした帰りに、姉が「海が見たい」と言い出したのだ。
当時自分は海を知らなかった。
あの夜初めて波の音を聞き、海に触れた。
まるで四方から覆い被さってくるようにざぁーざぁーと響く波の音の中で、不二は奇妙な感覚におそわれた。
初めてなのに、初めてじゃない。
知っている、と思った。この感じを自分は知っている。
母にそれを話すと、彼女はふふっと柔らかく笑ってこう言った。
『生き物は全て、海から産まれたのよ。』
だから、もしかしたら貴方の中にも海に抱かれた記憶が残ってるのかもしれないわね。
その意味はそのときにはよく分からなかったけれど。
すっと不二を支配していた音が、手塚の温もりとともに遠のいた。
不二はゆっくりと目を開けた。そしてはたはたと瞬きをした。
青白い蛍光灯の光が瞳の奥に凍みた。
「この音を聴いていたの?」
ああ、と手塚はペンをしまいながら短く答えた。
「でも、」
「なんだ?」
「…ううん、なんでもない。」
でも、こんなかすかな音ではたとえ机の上でも聞こえないだろうと不二は思った。
あの波の音がここまで届かないように。
古代の記憶がこの体に沈んでいたとしても、それを取り出すことはできないように。
この音は君には届かない。
かつん、かつん、と進み続ける秒針をみて不二は少しむなしくなった。
「帰ろうか。」
パタンと部誌を閉じた手塚を見て、不二は微笑んだ。
窓の外はすっかり夕闇に塗られていた。
忘れ物はないかな、と辺りを見回す不二を見て手塚は口を開いた。
「たとえ聞こえなくても、消えたわけじゃない。」
は、っと不二が振り向いた。
「だから、見ていたいと思う。」
真っ直ぐな瞳だった。
「帰るぞ。」
手塚はつと部室の扉を開けた。彼の姿が夕闇で覆われる。
(ああ、ホントに君って…)
不二は苦笑した。
ずうっとそうでいて欲しいと思う。
そのままの彼であって欲しいと思う。
真っ直ぐに真っ直ぐに、全ての本質を射抜く鋭さを持って…。
「ごめん、今出るから。」
肩にテニスバックをかけると、電気を消して不二はするりと外へ出た。
ひやりとした外気が頬をなでる。
不二はぶるっと身震いをした。そしてくすっと笑った。
「どうした?」
「なんでもないよ?」
眉をひそめる手塚を見て、不二はまたくすっと笑った。
自分は手塚の中で消えない存在になれただろうか。
それとも決別の次の日には彼の奥深くに沈み込んで、そのまま眠りについてしまうのだろうか。
どちらでもいいと思った。
いつの日か、手塚が別れを選択し不二の事を思い出さなくなったとしても、
ふとした瞬間に「懐かしい」とか、「綺麗」だとか感じてくれたら、いい。
真っ直ぐな彼の、心の一部になれるならそれで、いい。
それで十分だ。
たとえこの心が、別離の痛みに引き裂かれようとも。
たとえこの心臓が、切なさに溺れて止まろうとも。
背後でがちゃりと鍵のかかる音がした。
「ねえ、手塚。」
今日、寄り道して帰ろうよ。
近づいてくる足音に不二はくるりと振り返った。
「もう遅いぞ?」
「いいんだよ、今日は。今日ぐらい…」
手塚はふっと唇の端をゆるめた。不二がここまで言うのも珍しい。
「そうだな。」
今日ぐらいは。
不二はそんな手塚を見てふわっと微笑んだ。
鍵を返してくる、と手塚は不二に背を向けた。
不二はちろちろと星の瞬く空を見上げて、いつかの海にそっと耳を澄ませた。
自分の耳のその奥で、ざぁーーーと波音が聞こえた気がした。
END