第二章
◆第二章 市村への初旅の巻 連載第二回 【弘化元年五月】
【市村への初旅】
弘化元年(1844)五月、41才になった母千代は、男の児達の世話を女中に託し、4才になった私を乳母のタケの手に引かせ、浜中村から笠岡街道を通って、備後国深津郡市村の本庄屋佐藤久兵衛の屋敷に里帰り致しました。笠岡までの一里は当家の駕篭で参りました。笠岡の関所では、父の用意した道中手形を見せると、御奉行は丁重に私共を通されました。途中、笠岡村庄屋の胡屋生長小十郎の屋敷に立ち寄りました。内儀の於幸様は、母千代と懇意でございますので、話が長くなりそうでした。笠岡から舟に乗り、潮の心地よい風に吹かれながら、緑の松の島々をぬって進みました。途中、漁師の釣船に何度も出会いました。
用之江村から茂平、野々浜、引野という村を過ぎ、手城という浜辺の村で舟を下りました。手城から市村まで1里と申し、途中、千間土手という堤に腰を下ろしました。供の女中に運ばせた私の好きな海苔巻きお結び、卵焼、蒲鉾、焼き味噌のお弁当を食べました。今年取れたばかりの新しい竹の皮についた米粒も残さず食べました。母は、御茶をすすりながら、今私達が座っている千間土手は、正保五年(1647)、福山藩主の水野日向守様が家老の神谷治部に命じて造られたもので、それまでの市村沖は広い海であったと言って、私共を驚かせました。市村は、今を去る二百年前まで、穴の海と申す海辺に市の立つ村であったそうで、春日池も海の一部であったと申します。市村から、神辺、府中、神石、東条へ街道が通じ、神辺には備後国の国分寺、府中には備後の国府が置かれて居りました。市村の海蔵寺と府中の国府寺は同じ建物の寺であったと伺いました。海が田圃になった市村沖を、市村沼田、引野沼田、深津沼田と申し、それぞれ百町歩、千石、合計3千石もある大きな平野で、市村沼田の多くは、市村本庄屋佐藤久兵衛と吉田村庄屋をしている前田屋土屋半兵衛の田地だそうでございます。
市村本庄屋佐藤の祖は、丁畠佐藤惣右衛門と申し、春日池築造(寛永二十年(1643))の頃、市村庄屋を勤めたと申します。佐藤と申す姓は藤原氏ゆかりの名にて、かつては市村の一部であった吉田村の春日庄辺りは、藤原氏の氏神春日大社の荘園であったと申します。
その時、母は遠くを指さして、あの大きな山が蔵王山ですよ、と申しました。その山の麓に母の実家があると聞いていた私はその山をじっと見詰めて居りました。今度は西の方を指さして、伊勢守様の御城ですよ、と申しました。西のかなたに白い御城が小さく見えました。 5層の天守閣でございます。タケが私を負んぶしたがるのを断って、私は元気に歩きました。引野という村から、市村沼田に来ると、晴れ着を着た武家の私共を見て、田圃で草取りしていた百姓が畦道まで出て来て、被り物を取り、お辞儀をして行きました。田圃は黄色い麦の波で、空には雲雀が鳴き、小川にはメダカが群れて居りました。刈り取りの終わった麦畑では、百姓が水車を踏んで水を引いておりました。小川沿いに、常夜燈と四ツ堂のある高崎という所を過ぎ、鍋蓋、石道という道を半里程歩きました。
【本庄屋佐藤】
仁伍というところに来ると、下男と一緒に、腰を低くした一人の老人がにこにこして私共を待って居りました。それは母の父、私に雛人形を送って呉れた、祖父の久兵衛定治でございました。88才と申しました。藁葺き屋根の粗末な家々の向こうに、お寺のような瓦葺きの家が見えました。浜中の家と同じく白壁の土蔵のある大きな屋敷で、土蔵の裏には蔵王山が一層大きく見えました。祖父の久兵衛定治、母の兄の保兵衛と内儀の曾野が出迎え、閂を開いた門から、備後表の奥座敷に案内された私共に深々とお辞儀しました。定治の内儀(千代の母)の千賀はすでに文化元年(1804)、千代を出産した後、他界したと聞きました。御千賀は沼隈郡藤江村の山路家から嫁に来て、保兵衛、御久仁、千代を産んだのでございます。市村庄屋を務めている保兵衛は、寛政六年(1794)生まれ、本年50才になる由にて、私の父の仁科在本と同じ歳でございます。 内儀の御曾野は沼隈郡草深村の土居家から嫁いで参りました。
縁側の向こうには、赤と白のつつじと緑の濃い築山が広がって居りました。下女達は、台所で夕餉の支度をしながら、膳棚の陰でひそひそ袖を引き、お武家のお嬢様は可愛いと言っているようでございました。そこへ、備後絣の着物を着た男の子と姉らしい女の子が恥ずかしそうに現れました。仙蔵、タキ(多伎)、ご挨拶しなさい、と母のお曾野に言われ、両人は並んで、「叔母上様よくおいでになりました」と言って、私共にお辞儀致しました。タキは母千代に似た色の白い娘でございました。母千代と久兵衛、保兵衛は何事か長々と話を始めました。それを見て、仙蔵とタキは、私を庭に案内致しました。白壁の蔵が並び、納屋には鍬や鋤、秤や升、さらには恐ろしげな槍・薙刀・捕り物道具も見えました。
築山の奥で何か水に飛び込む音が致しました。池の真ん中に亀が何匹か甲羅干しをしている石積みの島があり、真鯉緋鯉が泳いでいて、タキが飯粒を投げ与えた途端、水が跳ねました。この池は、火事の場合の用水であると申して居りました。奥屋敷の庭に見事な枝振りの紅梅に小さな梅の実が沢山ついて居りました。この紅梅の古木は 福山藩六代藩主の阿部正寧さまが文政12年(1829)にお出でになり, 御覧になったものだと申しました。 仙蔵は天保三年(1832)生まれの12才、タキは文政十一年(1828)生まれの16才。仙蔵という名は文化七年(1810)に他界した曾祖父の三世久兵衛千蔵の名に因むと聞きました。仙蔵の生まれた年は、あの天保の大飢饉の直前でございました。
翌日、帰宅の道すがら、母は「タキがあなたのお姉さんになるかも知れませんよ」と申しました。翌年、タキは私の兄恕平存譲(在本の嫡男)の嫁になり、浜中に嫁いで参ったのでございます。この時は、まさか私がタキと入れ替わりに、浜中から市村本庄屋に嫁に来るとは思ってもいませんでした。
私の祖父の仁科小兵衛光春は庄屋職の傍ら、大の囲碁好きで、以前から近郷の強い打ち手を招いて、石を打っておりました。文化五年(1808)、肥前唐津藩主水野和泉守様の御家来の山崎新次郎(23)と申す江戸の家元の高弟が、御主君に従って、お国入りの途次の神辺宿に逗留中、浜中村に招き、知己になったと聞きました。翌年も、参勤の途次、市村と浜中に立ち寄ったと申します。その縁により、文化九年(1812)、本庄屋佐藤家の娘、於久仁を倅・存本の嫁に迎えたのでございます。
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1990年04月17日 22時32分22秒
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