2014年5月6日、久しぶりの「歴史散歩万葉の旅」
高校同期会の仲間を道案内するための
嫁さんとの下見でしたが、山辺の道への旅は実現せず
6月8日は奈良市内への旅となりました。
「山辺の道」
天理・「石上神宮」から桜井・「大神神社」へ歩きます。
背景は長岳寺の放生池の平戸つつじと杜若



クリックすると拡大します。
2014年5月6日
 嫁さんと「山辺の道への旅」に出かけました。好天気です。「歴史散歩・万葉の旅」は、2009年9月21日の「佐紀・佐保路への旅」     2008年11月2日の「箸墓から三輪山そして大神神社へ」      以来になるようです。ホントご無沙汰してしまっています。
 8時45分、最寄駅「JR大住駅」で「木津駅」行きの電車を待ちます。駅のホームから真北に、京都盆地を挟んで、「比叡山」見えています
 木津駅、奈良駅で乗り換え、10時に「天理駅」に着き、「石上神宮」へのアーケード道を歩きます。この道はJR・近鉄天理駅から「天理教本部教会」への一本道でもあり、本部教会前を通ります

 「石上神宮」
 
 10時27分、石上神宮へ到着。    赤い鳥居をくぐります

 「歴史散歩万葉の旅」のページは、「2003年5月3日、万葉の旅・佐紀、佐保路へ」から始まり、  「7月26日、山辺の道へ」  「8月2日、箸墓伝承」    「景行天皇陵・崇神天皇陵」     「8月13日、大和三山登頂成功」   と続き、その後は、「明日香」へ広げていきました。土日を利用して、毎週のように歩き回ったものです。道案内として利用させていただいたのは、扇野聖史氏の「万葉の道」です。思い返して、巻二 山辺編 山辺の道(南) の書き出しを思い出してみます。

 
倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし    古事記中巻の日本武尊(倭建命)の思国歌(くにしのびうた)(書記では景行天皇の思邦歌)である。もともとこの歌は、国見の際の国ほめの歌であったろう。ところが、日本武尊の物語の中に入って詞書(ことばがき)がつくと、一変して痛々しいペーソスにみちてくる。そういう不思議な二面性をこの歌はもちあわせている。
 「まほろば」は(書記では「まほらま」)という言葉も不可解な古語である。堀内民一氏は、「国土の豊穣を物語るらしい不透明な」成語とし、マは完全、ホが中心で緘黙(しじま)(現在は かんもく としか表記されていません)の神の示す物質表象とするが、感覚的には理解できても、意味は難解でわかりにくい。『時代別国語大辞典・上代編』では、マホへ真=秀で、ラ・接尾語、マ・空間、状態を表す接尾語となっている。
 いったい、古代大和びとは「まほろば」という言辞を、実体験としてどのように認識していたのであろうか。わたくしは、「山辺の道」歩きの目的のひとつに、古代びとの追体験を試みたいという願いをもっている。山辺の道は、そんな追体験を容易ならしめる格好の古い風土環境を備えていたのである。

 小椋一葉氏の「消された覇王 伝承が語るスサノオとニギハヤテ」に以下の記述があります。

 [国の曙の宝」
 
天理市布留町布留山にある石上神宮。実はここに、日本の曙の至高の宝がひっそりと祀られているのをご存じだろうか。
 ここには、スサノオがニギハヤヒを大和へ送り込む時に授けた十種神宝(瑞宝 みずのかんだから)十種ともいう)と、もう一つ、スサノオがオロチを退治した時の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)が祀られているのである。
 石上神宮には、古来から禁足地とされているところがある。石上布留の高庭といわれる拝殿の後方、瑞垣内の地で、剣先状の石玉垣で囲み、最も神聖な霊域として人々は深い畏敬を捧げてきた。
 「神ノ御座」と仰がれるこの禁足地の中央には、土中深く磐座が設けられ、二つの宝が埋斎されていると伝えられてきたからである。明治7年、近代の夜明けとともに発掘が行われ、伝え通り、不都御魂剣と管玉勾玉などの数々の宝物が発見された。偉大な覇王の宝は千数百年余の永い眠りから醒め、その輝かしい雄姿を再び見せたのである。考古学ブームの昨今ならば、おそらく一大センセーションを呼び起こしたに違いない。
 布都御魂剣については、その時の石上神宮の調書をみると、総長88.6センチ、「神剣は環頭内反の鉄刀であることから、中国の漢代の素環頭鉄刀が将来されたものと考えられる」と記されている。スサノオは二世紀初頭の人だが、中国はちょうど漢の時代である。おそらく当時の出雲地方でも珍しい外国製品だったにちがいない。 
 数々の玉の方は、色や形などどれも特異で、類例のない気品のある優品であると記されている。
 それにしても、スサノオがオロチを退治した剣やニギハヤヒに与えた神宝が、今なお現存しているというこの明白な事実。日本に「神代」などというものがなかったことを、これほどはっきりと物語っているものが他にあるだろうか。

 神宮の社記をみると、ほぼ次のように書かれている。

 (祭神) 布都御魂大神(ふつみたまのおおきみ)

 (配祀) 布留御魂大神(ふるみたまのおおきま) 布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ) 五十瓊敷命(いにしきのみこと) 宇摩志麻治命(うましまじのみこと) 白河天皇 市川臣命 

 (創祀) 神武天皇即位元年、宮中に奉祀せらる

 (鎮座) 崇神天皇7年、宮中より現地、石上布留高庭に移し鎮め祀る

 (由緒) 布都御魂大神は国平けの神剣、布都御魂(御霊)である。神武天皇東征の砌、紀の国熊野において遭難の折、再び天降り建国の基礎を定めた。神武天皇即位の後、永く宮中に奉斎されていたが、第十代崇神天皇7年に物部の祖、伊香色雄命が勅により現地石上布留の高庭に鎮め祀り石上大神と称(となえ)えまつったのが当宮の創(はじめ)である。

 布留御魂大神は、天璽瑞十種(あまつしるしみずのかんだから)の御霊威(みたま)である。瑞宝十種、いわゆる
 瀛津鏡(おきつかがみ) 一つ、辺津鏡(へつかがみ) 一つ、八握剣(やつかのつるぎ) 一つ、生玉一つ、足玉一つ、死反玉(まかるかえるのたま)一つ、道反玉(ちかえしのたま)一つ、蛇比礼(へみのひれ)一つ、 蜂比礼一つ、品物比礼(くさぐさのもののひれ)一つ・・・

 石上神宮は神話と歴史をつなぐであろう大切な史跡のようです。

 「楼門」(重文)と「回廊」      「拝殿」(国宝)(本殿はなかなか拝むことができません)       「天神社」       「天神社」横から「楼門」を      

 布留万葉
 石上 布留の神杉(かむすぎ) 神(かむ)さぶる 恋をも我は 更にするかも (巻11・2417)(人麻呂歌集)

 娘子(をとめ)らが 袖布留山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひき我は (巻4・501)(人麻呂相聞歌)


 さとはあれて 人はふりにし やどなれや 庭もまがきも 秋ののらなる (「新古今和歌集」 僧正遍照
 
 布留を歌った布留万葉歌群は、「布留の里」・「布留山」・「布留川」を含めて全部で15首、その内相聞歌が12首と実に八割を占め、華やかな恋歌の花を群生させている。(『万葉の道』から)

 10時37分、「石上神宮」から「山辺の道」を歩き始めます。        写真にある「歌碑」です。
 
 10時42分、丁寧な案内板が新設されていました。石上神宮を出てから、5分歩いて来ています。
 

 10時47分、「芭蕉句碑」です。      芭蕉句碑 うち山や とざましらずの 花ざかり 宗房(むねふさ)(後の松尾芭蕉)

 10時49分、「内山永久寺本堂付近の池」 
永久寺は、永久年間(1113−18年)に鳥羽天皇の勅願によって創建されたといわれています。山号は四方山に包まれたところから、「内山」と名づけられたといわれています。「内山永久寺」は大きな寺域を持っていたようです。
 
 10時58分、十市 達忠の歌碑   月待て 嶺こへけりと 聞きままに あはれよふかき はつかりの声
 
 11時02分、「夜都伎神社」へは1キロです。      11時05分、ここから「二上山」が望めます。       11時09分、「大手毬」の群生。       11時12分、「二上山」をアップで        11時16分、「夜都伎神社」に着きました。       朱色の社殿が建てられています。      11時20分、「二上山」遠望します。       
 11時21分、「夜都伎神社」を出たところにある案内板。       11時25分、石上神宮3キロ、長岳寺3.6キロの標識。      11時28分、「竹之内環濠集落」へ向かう地点での案内板。        竹之内環濠集落の説明板。        写真入り竹之内環濠集落の解説。        11時42分、大和(おおやまと)古墳群の説明文        その写真部の拡大        11時48分、案内板       11時54分、「衾田陵」への道案内があり、坂を上ります。        
 
 
「五社の森」とも呼ばれた五社神社前から枝道にはいり、いよいよ大和(おおやまと)古墳群最大規模で、継体天皇(26代)皇后、手白香皇女(たしらかのひめみこ)の衾田陵(ふるまだりょう)に向かうととなる。
 衾田陵は全長140メートルの前方後円墳で、南面して造られた山上墓だ。西殿塚古墳とも呼ばれ、、その東にある前期古墳、東殿塚古墳をはじめ付近には古墳が多い。
 丘陵上からの展望はまことに雄大だ。竜王山(585メートル)を中心に置いて、竜王山系を南北にのび、まさに奈良盆地の東壁といった感が深い。(『万葉の道』から)

 11時56分、家々に挟まれた小道をあがると、衾田陵の全貌が明らかなります。          11時59分、南面する陵の祭祀場
に着きました
。        手白香(たしらか)皇女衾田陵の碑が立っています。        宮内庁の継体天皇皇后陵との指定が記されています
       陵の前に「西殿塚古墳」、「東殿塚古墳」の説明板
 
 これらの陵は奈良盆地の東詰めに位置していますから、西山まで一望の位置にあります。     「耳成山」、「畝傍山」が重なって見える向こうに「金剛山系」が見えています。     東方面は「生駒山」まで続きます
 
 陵からの下りの道は、「衾道(ふすまみち)」です
 
 衾道を 引手の山に 妹を置きて 山道(やまぢ)を行けば 生けりともなし  (巻二・212)

 
妻を失って、人麻呂流血哀慟して作った歌2首のうち、後の一首につけられた短歌である。長歌をよむと、みどり子を残して死んでいった妻は、羽易(はかい)の山に火葬されたらしい。人麻呂は亡妻を尋ねて、その羽易の山に岩を押し分け登って行った。
 ・・・・
山中観音堂などのある丘陵から斜向して急坂を下ると、広い谷間の田地に出る。そのほぼ中央部に、犬養孝氏の「衾道を」の万葉歌碑がたっている。歌碑は屹立(きつりつ)する竜王山を背にして西面し、雄大な山野にとけこんで素晴らしい舞台装置をしつらえる。・・・

 12時30分、長岳寺へ向かう道の案内板です。      12時35分、長岳寺へはあと300メートル地点の道標。       12時38分、「長岳寺」へ着きます。        大門を老夫婦が入っていきます
 

 ・・・長岳寺は天長元年(824年)、淳和天皇(53代)の勅願によって弘法大師が釜口山に創建したのにはじまるという。山号は釜口山、俗に釜口大師と呼ばれる。・・・
 

 頭上に茂木々や平戸つつじの参道を歩きます。       見事な平戸つつじ。        見事という以外はないつつじの花々。      
 寺内の「放生池」を巡り、新緑の木々と、花々の愛でて歩きます。   A) 池面に写るつつじ、杜若    B)  見事です。      C) 杜若の群生       D) 杜若をアップで        E) いま一つの主役、大手鞠も含めます。        F) 木々に囲まれた池の向こうの本堂を拝みます。        G) 池を巡る写真の内のベストショットと自負したい

 13時5分、「天理市トレイルセンター」に着きます。      トレイルセンター内の付近の地図        

 龍王山へ登ったこともあります。天理ダムから龍王山、城跡へ、そして長岳寺へ降りました。秋でした。
 

 



崇神天皇陵が見えてきます。
崇神天皇陵・景行天皇陵へ

 崇神天皇陵(山辺道匂岡上陵)
 13時8分、トレイルセンターを出ると、すぐに、緑に覆われた巨大な堤が見えてきます。    近づいて、堤に上がることにします。    満々と水をたたえた濠の中に、巨大な前方後円墳があり、石造りの拝場の鳥居が見えています。     濠に映る古墳      堤の上を歩き、景色を撮ります。      堤、近くの家々、奈良盆地、遠くに山々が見える景観を撮ります。       ここに、このあたりをはっきりと示してくれる地図がありました
   
 
 長岳寺から南行してくると、正面に美しい高堤とその後に緑樹深茂した山が見えてくる。崇神天皇陵とされる山辺道匂岡上陵(やまのべのみちかおりのおかのへのみち)だ。古事記に「御陵は山辺の道の匂の岡の上に在り」と記録される通、御陵のほとりに「山辺の道」と呼ばれた古道が通じていたのであろう。この陵がただちに崇神天皇陵とは断定できないまでも、古事記のむかしから山辺の道は、このあたりの山の裾みをめぐっていたにちがいない。
 堤防の上にたつと、壮大な周壕をめぐらした堂々たる墳墓であることがよくわかる。全長240メートルのこの前方後円墳は、付近に陪冢と思われるいくつかの古墳を従え、山の辺の美しい景観に色ぞえをした歴史的風物となっている。・・・(以上 万葉の道)

 ここで、第十代 崇神天皇について、鈴木亨氏の「古代 天皇の都」を引用します
・・・三輪山は古くから大和の人びとに愛されてきた山であると同時に、山全体が御神体として崇められてきた。大神神社の祭神は大物主命だが、この三輪山そのものが大物主命の化身なのである。
 この三輪山の山麓に、かって三輪王朝とよばれる古代主権が発祥したとされる。その王権の始祖は崇神天皇と伝えられる。
 その都、磯城瑞離宮(しきみずがきのみや)は大神神社の拝殿横から山ノ辺の道ぞいに南へ下ったところにある。訪ねあてたそこには、志貴御県座神社(しきみあがたにいますじんじゃ)という、小さな社が鎮座していた。・・・
 ・・・崇神天皇が実在した初の天皇であろうごいうことは、いまや定説になっている。伝説の帳をひらいて、天皇はようやく現身の姿をここにあらわしたのだ。『日本書紀』この天皇を「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」とたたえている。つまり、はじめて国を統治した天皇という称号を与えているのである。
 だが、ハツクニシラススメラミコトはもう一人いる。第一代神武天皇の称号もまた「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」なのだ。はじめて国を統治した天皇が2人存在するのである。しかし、神武天皇が崇神天皇の投影によってつくりあげられた像らしいということも、これまた定説になっている。(ただ、ニギハヤヒの活躍を主張する人たちは神武天皇の存在も実在と考えているようです)  (また、江上波夫氏の「騎馬民族征服説」がありますが、現在はほとんど無視されています。)
 ・・・崇神天皇の統治ぶりをみよう。崇神天皇7年春2月、疫病が流行し、人民が死亡、流離があいついだので、天皇は神浅茅原(かんあさじはら)に八十万(やそよろず)の神をあつめて神意を問うた。このとき倭迹迹日百襲姫(やまととひももそひめ)命が神明憑(かみがかり)していった。「天皇はどうして国の治まらぬことを憂えるのか。はもし私をうやまいまつれば、かならず国内は平穏になるであろう」 「そういうあなたは、しずれの神でありますか」   という天皇の問いに答えて神はいう。 「私は倭国の域内にいる神、名は大物主神である」  そこで天皇は大物主神の子孫である太田田根子を祭主として宮を営んだという。これがいまも三輪山山麓に鎮座する大神神社なのである。そしてここに国内はようやくしずまったという。崇神天皇の政治は、まず三輪山の神をまつることから始まったのだ。・・・

 景行天皇陵(山辺道上陵・渋谷向山古墳)
 13時19分、道の分かれめに置かれた道標です。景行天皇陵へは1.5キロです。       道標に従い、小さい石が敷かれた細い方の道を下ります。       13時26分、何度目かの地図入り道標 
 13時28分、景行天皇陵の向こうに三輪山が見えてきます。        13時31分、濠沿いを歩きます。     崇神天皇陵の濠の池の水の色が違います。      陵の向こうには、耳成山、畝傍山、遠くに金剛山、葛城山がかすんでいます
 13時34分、道標です

 「古代天皇の都」では、
 
山ノ辺の道の陵墓   五十八年の二月、景行天皇は纏向の地を去り、近江の志賀高穴穂宮に移った。そして2年後に百六歳で崩じたという。しかしその遺体はまた纏向は戻ってくる。日代宮(ひしろのみや)から眼下に見下ろす山辺道上陵が奥津城である。・・・
 「万葉の道」では
 
景行天皇陵も、古い山辺の道をしのばせる陵名をもちあわせている。古事記に「御陵山辺の道の上にあり」、日本書紀に「山辺道上陵に葬りまつる」と記され、陵の所在地が山辺の道のほとりにあることを証している。・・・
 
 13時36分、三輪山の秀麗さを際立たせている地点に歌碑が置かれています。
 天智天皇が都を近江に移そうとするとき、額田王が歌ったとされる 
    三輪山を 然も隠すか 雲だにも 心あらなも 隠そふべしや (巻1・18)
 
 13時39分、三輪山が全景を現します。      13時42分、古い地道からアスファルトの道路に出ます。道を東に、登りの路です。      13時44分、「万葉の楽園」と名付けられた花園がありました。      楽園内の花々は        各種の芍薬が咲くには少し早いようです。奈良盆地が見渡せる絶好の地点にあります。景行天皇陵の遥か向こうは生駒山系が霞んでいます。       花をつけた薬草もありました。  

 13時49分、「大兵主神社」(穴師坐兵主神社・穴師大兵主神社・巻向坐若御魂神社の三社を総称して穴師神社というようです))への道と「桧原神社」への道の分岐点を示す道標がありました。
 大兵主神社への道を少し上がると、「景行天皇纏向日代宮跡」の石塔が立っています。       この解説板です。       2003年頃の穴師兵主神社が小さく撮影されています。 

 第12代 景行天皇の「纏向日代宮」について「古代 天皇の都」には
 
『古事記』にはこの日代宮の情景をこう詠っている。   纏向の 日代の宮は 朝日の 日照る宮 夕日の 日がける宮 竹の根の 根垂(だ)る宮 木の根の 根が蔓(ば)ふ宮  
 光りかがやくこの宮に即位した景行天皇(大足彦忍代別尊・おおたらしひこおしろわけのみこと)は、『日本書紀』にはみずから諸国を平定した武勇あふれる大王として描かれている。・・・・だが、『古事記』のほうは、景行天皇のこうした事跡は伝えていない。もっぱら息子日本武尊(やまとたけるのみこと)の英雄的な伝承が語られている。・・・

 穴師周辺の万葉
 ぬばたまの 夜さり来れば 巻向の 川音高しも あらしかも疾(と)き (巻7・1101)

 痛足川(あなしがわ) 川波たちぬ 巻向の 弓月が岳に 雲居立つらし (巻7・1087) 人麻呂歌集

 巻向の 穴師の山に 雲居つつ 雨は降れども 濡れつつそ来し (巻12・3126) 万葉集の恋の応答歌

 巻向万葉歌集
 あしびきの 山かも高き 巻向の 岸の小松に み雪降り来る (巻10・2313) 人麻呂歌集

 三諸の その山並に 児らが手を 巻向山は 継ぎの宜しも (巻7・1093) 人麻呂歌集

 あしひきの 山川の瀬の 鳴るなへに 弓月が岳に 雲立ち渡る (巻・1088) 人麻呂歌集

 巻向の 桧原もいまだ 雲居ねば 小松が末(うれ)ゆ 淡雪流る (巻・2314) 人麻呂歌集


 三輪の桧原へ

 13時52分、桧原神社へ1.5キロ地点まで来ました。    13時57分、「ぬばたまの・・・」の歌碑です。    14時、「あしびきの・・・」の歌碑。   読みやすい歌碑が横に。     14時06分、案内板、この地点から急角度で右折します。     
 

 ・・・三輪山が迫ってきたところで、道は鋭角に屈折し、三輪山麓の裾をめぐる地道に入る。右手(北側)一帯はみかん畠がつづき、ゆるいカーブを描いためぐると、眼前に奈良盆地がひらける。山の岬端で、素晴らしい遠望をきく大地だ。桧原神社はその山裾に西面して祀られている。・・・      
 
 14時07分、「みわやまの山辺まそゆふみじか木綿かくのみからに長くと思ひき  高市皇子 入江泰吉書」の歌碑と    その読みやすい歌碑。     
 14時10分、丘のよこはらを歩く、緑深い古道らしい道の右手に遠く、生駒山、信貴山が望めます。    この地の景観に感動し、再度、シャッターをきりました。      「大和の青垣」の説明板       

 
・・・この桧原神社の地は、天照大神が伊勢神宮に鎮座する以前に、はじめて宮中から移祀されたところという笠縫邑(かさぬいむら)の伝承居地である。  ( 桧原神社 崇神紀6年の条に「天照大神・倭大国魂、二つの神を、天皇の大殿の内に並祭る。然して其の神の勢いを畏りて、共に住たもふに安からず。故、天照大神を以ては、豊鍬入姫命の託けまつりて、倭の笠縫邑に祭る」とある)     したがって、「元伊勢」とも呼ばれている聖地だ。別に巻向坐若御魂神社の旧鎮座地とする説もある。  そしてここはまた、万葉の「三輪の桧原」と考えられる。

  行く川の 過ぎにし人の 手折らねば うらぶれ立てり 三輪の桧原は (巻7・1119)  人麻呂歌集

 14時14分、桧原神社、小鳥居手前の地図です。     桧原神社への小鳥居です
  桧原神社境内は  A) 正面左手から神社を拝みます        B) 緑の木々に囲まれた豊鍬入姫を祀っている小宮が見えています       C) 大神神社摂社桧原神社の祭神は       D) 桧原神社と豊鍬入姫の由緒書

 
桧原社からまっすぐ西に下る桧原周辺をしばらく散策するとよい。真正面に二上山が峙ち、盆地がひらける桧原からの景観は、大和路の秀れたヴィスタ・ポイントのひとつだ。・・・出手池は美しい三輪山の悠久の姿を水面におとしている。・・・
 
 二上山を望みます。      二神山は        箸墓から桧原神社への道の途中には井手池があります。      以前にアップした箸墓から桧原神社への道です

 
 14時27分、桧原神社を後にします。                


大神神社へ

 14時29分、「山辺道」をあらわす標識       14時28分、整備された木々のしげる快適な古道です。      人麻呂歌碑「古の人の植ゑけむ杉が枝に霞たなびく春は来ぬらし」        14時31分、石清水の一筋の落水        歌碑「山吹の立ちよそひたる山清水汲みにゆかめど道の知らなく 高市皇子 巻2・0158」 
(柿本人麻呂の高市皇子を偲ぶ挽歌。あるいは、十市皇女を忍高市皇子の歌。天武天皇の第一皇子)

 すぐに、14時32分、「玄賓庵(げんびんあん)」前に出ます。       14時36分、大神神社へはあと1キロ       快適な石畳の道を歩きます。      14時43分、今は小川となった「狭井川」を渡ります
 

 ・・・ 狭井河よ 雲立ちわたり 畝傍山 木の葉騒ぎぬ 風ふかむとす  (古事記歌謡)  (神武天皇の后、伊須気余理比売(いすきよりひめの皇子3人による皇位争いの始まりを警戒した歌) 皇后の歌で、これだけをとり出してみると立派な叙景歌だが、物語の中では危急を知らせる一種の風刺歌となっている。こんにち狭井川はひとまたぎの細流でしかない。・・・
 
 狭井坐大神荒魂神社(さいにますおおみわあらたまじんじゃ)  ・・・大神荒魂神を主神に、ほか4座を祀り、大神神社の摂社となっている。この狭井神社から三輪山山上に登る登拝口があり、社務所に願い出ると「お山する」ことを許される。・・・
 狭井神社の鳥居をくぐります。       故三島由紀夫氏の筆による碑が池の前に        石段を上がり社殿まえに      ここに三輪山への登り口があり、2回、登山をしました。       磐座神社        活日神社(神酒を醸造し、天皇に献げた活日(いくひ)を祀っています。       など、大神神社の摂社が続きます。
   
 14時56分、大神神社に到着しました。      豪華な拝殿と杉の巨木が、その脇には蛇の為の捧げものが置かれています       

 ・・・日本最古の社といわれ、大物主大神(大国主神)を祀る大神神社の社前に出てくる。『延喜式』の名神大社に列せられ、大神大物主神社と記されている。俗称は三輪明神という。   古事記の中で、大国主神は、「吾をば青垣の東の山の上に伊都岐奉れ」と告り、この神を「御諸山の上に坐す神なり」としている。・・・

 (「消された覇王」によれば、大物主大神はスサノオの血を引くニギハヤヒであり、彼の娘とカムヤマトイワレヒコ(神武天皇)の婚姻により、大和の王権が神武天皇に移ったとしています。配祀されている大己貴神が大国主神ということです。)

 三輪山万葉
 三輪山(467メートル)は、万葉集では「三輪の山」・「神(かむ)山」・「三諸(室)」・「守山」など様々な名で呼ばれたらしい。・・・
 
   うまさけ 三輪の社の 山照らす 秋の黄葉の 散らまく惜しも (巻8・1517)
   春山は 散り過ぎぬとも 三輪山は いまだ含めり 君待ちかかてに (巻9・1684)
   うまさけを 三輪の祝(はふり)か 斎(いは)ふ杉  手触れし罪か 君に逢ひかたき (巻4・712)
   三輪山を 然も隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや (巻1・18)            (以上 「万葉の道」から)
   
  14時59分しめ縄が横木となっている独特の鳥居をくぐり        15時01分参道を下り、JR三輪駅へ向かいます
 
 10時半に天理駅を出てから、三輪駅まで、約16キロ(5時間)の旅でした。強い日差しもあり、少々疲れが残りました。
 
 15時11分発の電車に間に合い、岐路につくことが出来ました。


作者近況へ
万葉の旅へ



追加として、上記の万葉歌を、中西 進氏の「万葉集」により、読んで行きたい。(万葉仮名の?部分はパソコンの辞書にはありますが、印字されない文字です)
 
 布留万葉
 石上 布留の神杉(かむすぎ) 神(かむ)さぶる 恋をも我は 更にするかも (巻11・2417)(人麻呂歌集)
 
石上 振神杉 神成 恋我 更為鴨 
 石上の布留の神杉のように神さびていても、また私は恋をするのかなあ。
 
 柿本朝臣人麿の歌3首
 娘子(をとめ)らが 袖布留山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひき我は (巻4・501)(人麻呂相聞歌)
 
未通女等之 振袖山乃 水垣之 久時従 憶寸吾者
 神おとめ達が神を迎える袖を振る、布留山の社の瑞垣が年久しいように、長い月日をずっと恋いつづけて来たことだ、私は。
 

 
夏野ゆく 牡鹿の角の 束の間も 妹が心を わすれて思へや (巻4・502)
 
夏野去 小牡鹿之角乃 水垣毛 妹之心乎 忘而念哉

 珠衣(たまぎぬ)の さゐさゐしづる 家の妹に もの言はず来て 思ひかねつも (巻4・503)
 珠衣乃 狭藍左謂? 家妹? 物不語来而 思金津裳
 

 衾道を 引手の山に 妹を置きて 山道(やまぢ)を行けば 生けりともなし  (巻2・212)
 
衾道乎 引手乃山? 妹乎置? 山径徃者 生跡毛無
 
衾道よ、引手の山中に妹をおいて山道をたどると、生きた心地もしない
 
 三輪山を 然も隠すか 雲だにも 心あらなも 隠そふべしや (巻1・18)
 
三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉

 この歌は、以下の長歌の反歌です。
 額田王の近江国に下りし時に作れる歌、井上王(ゐのへのおおきみ)のすなはち和(こたへ)たる歌
 味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 情なく 雲の 隠そふべしや   (巻1・17)

穴師周辺の万葉
 ぬばたまの 夜さり来れば 巻向の 川音高しも あらしかも疾(と)き (巻7・1101)
 
黒玉之 夜去来者 巻向之 川音高之母 荒足鴨疾
 
 痛足川(あなしがわ) 川波たちぬ 巻向の 弓月が岳に 雲居立つらし (巻7・1087) 人麻呂歌集
 
痛足河 浪立奴 巻目之 由槻我高仁 雲居立有良志

 巻向の 穴師の山に 雲居つつ 雨は降れども 濡れつつそ来し (巻12・3126) 万葉集の恋の応答歌
 
巻向之 病足乃山? 雲居乍 雨者?雫 所沽乍?来

 巻向万葉歌集
 あしびきの 山かも高き 巻向の 岸の小松に み雪降り来る (巻10・2313) 人麻呂歌集
 
足曳之 山鴨高 巻向之 木志乃子松二 三雪落来
 
 山を詠める
 鳴神の 音のみ聞きし 巻向の 檜原の山を 今日見つるかも (巻7・1092) 人麻呂歌集
 
詠山   動神之 音耳聞 巻向之 檜原山乎 今日見鶴鴨
 
 三諸の その山並に 児らが手を 巻向山は 継ぎの宜しも (巻7・1093) 
 
三毛信之 其山奈美? 児等手乎 巻向山者 継之宜霜
 神の山に並び、まるでいとしい子の手を枕にするような巻向山は、つづきぐあいの何とよいことよ。

 我が衣 色つけ染めむ 味酒(うまさけ) 三室の山は 黄葉しにけり (巻7・1094)
 
右の三首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ
 
我衣 色服染 味酒 三室山 黄葉為在

 三諸つく 三輪山見れば 隠口(こもりく)の 始瀬(はつせ)の檜原 思ほゆるかも (巻7・1095)
 
三諸就 三輪山見者 隠口乃 始瀬之檜原 所念鴨

 いにしえの 事は知らぬを われ見ても 久しくなりぬ 天の香具山 (巻7・1096)
 
昔者之 事波不知乎 我見而毛 久成奴 天之香具山

 わが背子を いて巨瀬山と 人は云へど 君も来まさず 山の名あらし (巻7・1097)
 
吾背子乎 

 あしひきの 山川の瀬の 鳴るなへに 弓月が嶽に 雲立ち渡る (巻7・1088) 人麻呂歌集
 足引之 山河之瀬之 響苗? 弓月高 雲立渡
 
 巻向の 桧原もいまだ 雲居ねば 小松が末(うれ)ゆ 淡雪流る (巻10・2314) 人麻呂歌集
 
巻向之 檜原毛末 雲居者 子松之末由 淡雪流
 巻向の裾の檜原にはまだ雲がかかっていないのに、小松のこずえに淡雪が流れ降ることよ。

 ./2013_12_12_fumisanga.htm