| 2016年春 京都の旅 高校時代からの仲間8人で 春の京都を楽しみました。 2016年4月11日、12日 |
![]() 仁和寺の御室桜と五重塔 |
| 2016年4月11日 13時前にはグランヴィアロビーに8名が無事に集合、ジャンボタクシーの到着を待ちます。今朝、松本方面では雪が舞っていたとの話があり、冷たい風が吹いており、その風が静まってくれるのを祈りました。 私の認識不足で、グランヴィアには専用のタクシー乗り場があり、一般のタクシー乗り場に仲間を待たせることになりました。都タクシーの運転手M氏はちゃんと13時前には来てくれていたのです。 13時には少し遅れましたが、栂尾の高山寺、神護寺を目指してもらいます。「高山寺までは約45分、紅葉の秋はこんな短時間では無理でしょうね ../isacha64/takagaminehe.htm」ということでした。 14時05分、「高山寺裏参道」横の駐車場に到着しました。 「高山寺」の概要を地図で確認します。 「栂尾山高山寺」 ここで「栂尾山(とがのおさん)高山寺略記」を頂戴したパンフレットから整理します。平成6年(1994)には「世界文化遺産」に登録されています。 歴史 後鳥羽上皇の勅額「日出先照高山之寺」で知られる当山は、774年(宝亀5年)光仁天皇の勅願によって開創され、神護寺都賀尾坊といったが、814年(嵯峨天皇の弘仁5年)、栂尾十無尽院と改称された。その後、876年(貞観18年)には後の13代天台座主となり、天神縁起絵巻で菅公の怨霊を鎮めたといわれる法性坊尊意僧正が、11才より4年間当山で修行し、大いに法力を得たと伝えられている。 鎌倉時代、明恵上人(成弁、後に高弁と改名)が出て、後鳥羽上皇・近衛・鷹司・西園寺家等の帰依により堂坊を復興し中興開山した。明恵上人は、後鳥羽上皇の院宣によって南都東大寺の華厳を根本とし戒密禅を兼ねた寺とし、1206年に勅額「日出先照高山之寺」を賜ったので、寺号を「高山寺」と改称した。 石段を上がるとお目当ての一つである「石水院」に着きました。 石水院 国宝。明恵上人が後鳥羽院より学問所として賜わった建物で、上人時代の唯一の遺構である。金堂の東の位置にあったものを、明治22年現在地に移した。簡素な中に優雅さを保ち、きわめて機能的な構造をもっており、生活の知恵の結晶ともいえる住宅建築の傑作である。「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)」の厳しくも合理的な精神が今もなおうかがわれる。 崖の上にある質素な苔むしたお庭 石水院の部屋、「善妙童子」が置かれています。 「樹上座禅像」(成忍作)が飾られた一室、 「樹上座禅像」 右手に「鳥獣人物戯画」が置かれています。 縁側からは特に山深さを感じさせます。 「鳥獣人物戯画」イ) ロ) ハ) ニ) 風雅な小さいお庭も備えています。 この地では数少ない桜が1本 石水院客殿の間にその桜木が植えられています。 少し石段を上がると「日本最古の茶園」の表記が。 茶園です。 古くから明恵上人は茶祖。栂尾山は茶の発祥地といわれている。鎌倉初期、栄西禅師が宋に渡り養生の仙薬、延命の妙術としてこれを広めようと茶種をもって帰国しこれを明恵上人に贈られた。上人は、栂尾深瀬三本木にこれを植え、宇治(跡影園 あしかげえん)その他の地にも広く移し植えられた。 「聖観音像」、どことなく聖母マリアの雰囲気を持つ観音像です。 明恵上人の開山堂。 石段を上がると「明恵上人の御廟」があります。 「明恵上人の御廟」 「仏足石」 「高山寺金堂」 下り道での境内全図です。 14時50分、表参道入口に着きました。 いずみ たく氏 作曲の「女ひとり」の2番の歌詞に以下の文句があります。昔は歌った記憶があります。京都の南端に住むものですが、忘れてよいものではありません。 京都 栂尾 高山寺 恋に疲れた 女が一人 大島紬に つづれの帯が 影を落とした 石畳 京都 栂尾 高山寺 恋に疲れた 女が一人 いかにもいい女の様を歌った曲ではあります。ジジイが歌っていい歌ではありませんが、歌っていたのは「デューク・エイセス」でした。 高山寺は山深い、けものが住む、けものと共に住む山峡で、明恵上人の住んだ時代の模様は想像すらできません。この高山寺に「鳥獣人物戯画」が残されていたことは意義のあるものだったでしょう。 高山寺について梅原猛氏の「京都発見」からの”しおり”です。 「高雄山神護寺」 14時50分、紅葉の時期には決して駐車場が空いているとは考えられませんが、春の今日はガラガラ、駐車場の管理人に喜ばれて少し歩きます。そして、清滝川を渡り神護寺登山口に着きました。清滝川に架かる赤い「高雄橋」周辺の風情をカメラに収めました。イ) ロ) ハ) 向こう山中腹に「ミツバツツジ」の群生が見えます。 時期柄さくらと見間違う 「ミツバツツジ」イ) ロ) ハ) 「神護寺」で頂戴したパンフレットから 神護寺のはじまり 平安京造営の最高責任者であった和気清麻呂は、都の北西に位置し古くから紅葉の名所として知られるこの地に、愛宕5坊の一つとして高雄山寺を創建されました。天長元年(824)には高雄山寺と、清麻呂公が国家安泰を祈願するために河内に建てられた神護寺を合併して、「神護国祚真言寺(じんごこっかそしんごんじ)」と改められました。 高雄山寺の時代には和気一族に招かれて、比叡山の伝教大師最澄や、弘法大師空海が入山され、平安仏教の中心的な役割を果たして行くのです。ことに弘法大師は唐(中国)より帰朝して、大同4年(812)には伝教大師最澄らに真言密教の儀式である灌頂を授け、真言宗立教の基礎を築かれたのです。 この頃、弘法大師は高雄山の納涼房を住まいとされ、冒頭にあげた抒情あふれる五言八句の詩をのこされたのです。 「納涼房に雲雷を望む」 雲蒸してたに浅きに似たり 雷渡りて空地の如し さつさつとして風房に満ち 祁祁(きき)として雨あらしを伴う ・・ 石段を中腹まで上がります。15時10分、「硯石」地点。 高雄橋地点で望めた「ミツバツツジ」の群生が見えます。 15時15分、「神護寺楼門」に到着します。 神護寺解説版 神護寺解説版英文 楼門内の境内は、高山寺と大きく違い、広々とした空間が開けています。 枝垂桜 近くで「ミツバツツジ」を確認 巨大な「金堂」 「金堂」の解説版 「金堂」内に入り、ご本尊の「薬師如来」を拝みます。実物を拝観するのは初めてのことです。写真等で紹介されているのは黒々としたお体、威圧的にも見受けられます。実物は白木の如来、薬師如来らしく大変優し気な雰囲気の仏さまでした。修復が済んでいるのでしょう。 全身 お顔 金堂から「和気公霊廟」と「明王堂」を見下ろします。 「神護寺多宝塔」 「多宝塔」の正面門です。 石段上の「金堂」を見上げます。 神護寺名物「からわけ投げ」の場に。 「からわけ」を売ってくれているおばさんの話を聞き、試しに100円玉を投資します。「上手い人は向こう岸の山腹まで届」くとのことで、試してみますが、全く無理でした。 神護寺について梅原猛氏の「京都発見」からの”しおり”です。 16時過ぎ、駐車場に戻り、ジャンボタクシーに乗ります。「菊乃井本店」の予約は18時、1時間ほどの時間が空きます。運転手さんから、「嵐山」と「仁和寺」の候補が上がり、即座に、「仁和寺の御室桜」を選択しました。 仁和寺の「御室桜」を訪ねます。 16時20分、仁和寺駐車場に到着しました。 16時30分までの入場ですので急ぎ足で「御室桜園」に向かいました。 「御室桜園」に入ります。樹丈が低く、目の前に見事な御室桜が拝めます。見事です。 イ) ロ) ハ) ニ) ホ) ヘ) 仁和寺の境内を帰るお客さんの姿です。 境内には別種の八重桜も見られます。 「菊乃井本店」への道は渋滞、到着したのは予定した18時近くになっていました。 「菊乃井本店」は昨年に続き2度目の宴です。丁寧なお迎えを受け、部屋に案内されます。部屋の床の間にはもちろん「お花」が活けられています。 今年の「卯月の献立」です。 先付 〆さごし ういきょう玉葱土佐寿酢漬け 花弁生姜 八寸 鯛木の芽寿司 蕨烏賊 こごみ 蝶々長芋 飯蛸 花弁百合根・いくら 花弁独活 花見団子(鯛肝松風・海老・アボガド) 向付一 明石鯛薄造り ぽん酢 薬味 あしらい一式 向付ニ 文甲いか 腸醤油 蓋物 菜種蒸し 雲丹飴 とき山葵 菜の花 焼物 ぐじ唐墨粉焼き どんこ椎茸 口直し 苺山葵ソルベ 中猪口 木の芽酢和え 山独活 蕗 山菜 野甘草 花弁生姜 恐肴 天然鯛酒蒸し 筍 菜種 木の芽 薬味ぽん酢 御飯 筍御飯 木の芽 止椀 うすい豆すり流し 揚げ海老真丈 花弁独活 香の物 菜種漬け 大根どぼ漬け 塩昆布 水物 アーモンドアイス マンゴースープ お燗のお酒とは別に冷のお酒として「獺祭」を頂戴しました。獺祭の風味は独特です。 今年も楽しく一流懐石料理を美味しいお酒で頂戴しました。満足です!!!!! 菊乃井からタクシーで京都駅前まで帰り、カラオケへ向かう途中、毎度お騒がせの小生に失態があり、仲間に心配をかけることになりました。毎々ごめんなさい!!!!! ホテルでの3次会は参加者が居らず、流会となりました。関西に住む幹事役2人はホットしたのが真実でした?朝飯が大変美味しかったことがこの結果でしょう? |
![]() 角屋 臥龍松の庭と茶室 |
| 2016年4月12日 快晴の朝です。 9時、グランヴィアホテルを出発、まず、「西本願寺」へ向かいます。 「龍谷山 本願寺」 浄土真宗本願寺派の本山です。通称「お西さん」。 親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建されたがその後比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、現在地には天正19年(1591)、豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転した。(ウキペディア) 「御影堂門」 「阿弥陀堂門」 「太鼓楼」 「太鼓楼」解説版 「西本願寺」の広い寺域内 「本願寺いちょう」 西本願寺の北側の道を西へ歩きます。10時過ぎに、「島原大門」へ着きました。 「島原」 「京都島原 文芸碑めぐり」からの引用です。 島原は、江戸時代以来、公許の花街(歌舞音曲を伴う遊宴の町)として発展してきた。寛永18年(1641)官命によって、島原の前身である六条三筋町から現在の朱雀町の地に移された。その移転騒動が、九州で起きた島原の乱を思わせたところから、一般に「島原」と呼ばれてきたが、正式地名は「西新屋敷」という。この島原は、単に遊宴を事とするにとどまらず、和歌俳諧等の文芸も盛んで、ことに江戸中期には島原俳壇が形成されるほどの活況を呈した。 しかし、明治以降の島原は次第にさびれてゆき、現在では揚屋(あげや)(今の料亭にあたる店)の「角屋」、置屋(太夫や芸妓を派遣する店)の「輪違屋」、それに島原入口の「大門(おおもん)」、これら三箇所がわずかに往時の名残をどどめるものとなっている。 大門文芸碑 嶋原のでぐちのやなぎをみて なつかしき やなぎのまゆの 春風に なびくほかげや さとの夕ぐれ 蓮月尼 「大門」をくぐり、少し歩くと、10時05分、「輪違屋」前に出ます。 「輪違屋解説版」 「輪違屋」 「京都島原 文芸碑めぐり」からの引用です。 輪違屋は、太夫や芸妓をかかえていた由緒ある置屋で、元禄年間(1688〜1704年)の創業と伝える。現在の建物は、安政4年(1857)に再建されたが、その後増改築がなされ、明治4年(1871)にはほぼ現在の姿になった。平面構造は、一階南半分の居室部分と一階北半分及び二階を占める座敷部分からなる。座敷は十数室あり、二階の「傘の間」「紅葉の間」が主要な座敷で、その襖や壁の斬新な意匠には目を見張るものがある。・・・現在はお茶屋として営業しています。 「角屋」玄関 玄関前に「新選組刀傷の角屋」の碑 お店の中の刀傷。 10時10分、「角屋」に着くと、お店の人がすぐに解説してくれるとのことで、「松の間」への集合を勧められます。 「松の間」は眼前に「臥龍松の庭」がひらけており、座って話を聞くことになりました。以下の引用文の内容が主なものでした。 「角屋」 「京都島原 文芸碑めぐり」からの引用です。 島原は、島原開設当初から連綿と建物・家督を維持しつづけ、江戸時代の饗宴・もてなしの文化の場である揚屋建築唯一の遺構として、昭和27年(1952年)に国の重要文化財に指定された。 揚屋とは、置屋から太夫や芸妓を呼んで歌舞音曲の遊宴をおこなったところであるが、江戸後期の書物の中で「客を「饗すを業とする也」と定義されていることにより、現在の料理屋・料亭にあたる、饗宴のための施設ということから、大屋敷に面した広庭に必ずお茶席を配するとともに、庫裏と同規模の台所を備えていることを重要な特徴としている。 「角屋」パンフレットからの引用は以下に 文政元年(1818)にはこんなことがあった。頼山陽が郷里から伴った実母を、角屋南隣の「八文字屋」に案内して、宴席でもてなした。揚屋が親孝行の場に供されたのだ。 各藩の武家屋敷の大宴会も角屋をはひめとする揚屋が担ったが、幕末になると、角屋は勤皇派の久坂玄瑞や西郷隆盛、坂本龍馬などの密儀に使われた。またご多分にもれず、新選組の出入りもあったが、池田屋のような騒動は起こらなかった。ただ文久3年(1863)に、新選組初代筆頭局長の芹沢鴨が角屋の遊宴の後、壬生の屯所八木邸に帰宅後暗殺されるという事態はあった。 明治維新後は、大型宴会の需要がなくなるとともに、足場の悪さもあって、島原の町全体が衰微した。それ以降は祇園が花街の主役にとって代わっていった。 ちなみに、現在の京都の5花街は、「祇園甲部」・「宮川町」・「先斗町」・「上七軒」・「祇園東」です。 昔、祇園のお茶屋の一軒に、また、「二軒茶屋 中村楼」に、この会の仲間と行ったことがありますし、「上七軒」は夏の夜「ビアガーデン」に2回、幸運にも舞妓さんと話ができたことを思い出します。さらにその流れで、上七軒のバーで二次会をした記憶があります。 大きな宴会をこなす為には沢山のお料理を作る必要があるのでしょう。大きな台所1) 2) 「中戸口玄関前」台所の外に井戸があります。 「臥龍松の庭」イ) ロ) ハ) ニ) ホ) 「松の間」イ) ロ) 「網代の間」 「蕪村と島原俳壇展」の案内が展示されています。 「角屋もてなしの文化美術館」にて頂戴したQ&A集の抜粋です。 11時過ぎに「京都水族館」に着きます。 水族館前の桜です。 「あめりかかぶとがに 4億4300万年」 「ぽりぷてれす・えんどりけりー・えんどりけり 1億4400万年」 「イルカショー」A) B) C) D) E) F) 「美々卯」の予約時間を考え、仲間を急かせて水族館見学を終了してもらい、駅ビル伊勢丹の上層階にある会場へ向かってもらいました。駅ビルの外階段のすがた。 12時45分を過ぎて、我々仲間が最も大切にしている「直会」反省会の時間が来ました。名物の「うどんすき」前の”おつまみ”で美味しいお酒を頂戴し、最後の話題、次回の行く先についての話になります。一応、出雲大社を中心とした日本海岸方面ということで、こちらに住んでいる高校時代からの友人I氏にアドバイスを求めたらということで、意見が一致、私がその橋渡しを請け合いました。 いつの間にか、松本へ帰る仲間の列車時間が迫っていました。./16_4_11_12_syakenkyotonotabi_jinbutuhen.htm |
| 付録 |
京都駅から「角屋」への道を確認するため、4月6日下見に出ました。「西本願寺」にお詣りし、「角屋」に向かいました。その後、「京都水族館」への道も確認しました。午後2時頃となっていましたので、昼食として「餃子の王将」で、中華飯、餃子を生ビールのおつまみとして食し、気分よく、真宗本廟(東本願寺)別邸の「渉成園(しょうせいえん)」へ”さくら”鑑賞に足を延ばしました。 「渉成園の花々」イ) ロ) ハ) ニ) ホ) ヘ) ト) 以前の「渉成園」季節が違っていますが、2009年の深志関西支部新人歓迎会の折のものです。http://www.geocities.jp/isacha666/syouseien1 会長に頂戴した「京都鉄道博物館」内覧会の入館証を手に、嫁さんと19日出かけました。会場は大盛況、地味な背広、ネクタイ姿の壮年男子が大半でした。入館証の配布先はやはり営業的なものだったのでしょう。大変楽しい時間をもらいました。 梅小路公園 案内図 (鉄道博物館、水族館は共にこの公園内です) 公園横を特急列車が走り抜けます。 0系新幹線車両 230型233号機 1902年(明治35年)に制作されたタンク式蒸気機関車 「特急 雷鳥」福井、金沢方面への出張によく利用したものです。 巨大ジオラマ全景 模型機関車の運航を開始しました。 夜間の景色も 扇型車庫 お召列車仕様の「C58型1号機」 その横顔 3本の巨大動輪 蒸気を揚げて実演してくれている 「ポニー」の愛称で親しまれた小型蒸気機関車(C56 160) 屋上から東寺方面を俯瞰しました。 帰り道には12日に仲間と訪れた「京都水族館」に再入場しました。嫁さんはもちろん始めてでしたし、私は12日に見逃しがあった部分を見たかったためです。 「巨大水槽」内を多くの魚が泳いでいます。1) 2) 3) 巨大エイも。 ペンギンの水槽 ペンギン 2) 水槽内のクラゲ1) クラゲ2) みのかさご |
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