海龍王寺(隅寺、隅院
 この寺は天平3年(737年)光明皇后の御願により建立された寺院です。養老元年(717年)第8次遣唐使一行に加えられて渡唐した僧玄ムは在唐18年、智周大師について法相の教学を極めた。天平6年10月帰国の途中船団は暴風雨に襲われ、玄ムの乗った船だけがかろうじて種子島に漂着し、翌天平7年3月帰京することができました。このとき玄ムの持ち帰った5千余卷の経綸が後に我が国の仏教学に大きく貢献する事になりました。東支那海の狂乱怒涛に漂いながら海龍王教を唱え、九死に一生を得て貴重な経綸をもたらした玄ムは、その功により僧正に任ぜられ、平城京皇后宮の東北隅に位置する事で隅寺(角寺)とも言われていた当寺に住して、寺号を海龍王寺としました。
 しかし、続日本紀に天平10年(738年)3月、隅寺に食封百戸を施入したとあるのが正史に於ける当寺の初見です。正倉院文書の写経目録によれば天平8年夏頃にはすでに当寺の存在が知られています。また、西金堂(重文)解体修理時の発掘調査の結果、基壇より飛鳥末期とも見られる古式瓦が出土している所からここには古くから一寺があり、平城京が営まれ藤原不比等の邸がこの地に造られると、その東北隅に取り込まれこの一郭を隅院と呼び改めて寺院を営造してものと考えられています。(以上、海龍王寺の小誌によります。)
 住職の解説のあと、十一面観世音菩薩像を拝む事が出来ました。
 天平時代に光明皇后が自ら刻まれた観音像をもとに鎌倉時代に運慶派の仏師によりる造られたとされるこの寺の本尊です。秘仏であった為、全身の金泥や精緻を極めた装飾具を製作当時のままで残しています。鎌倉時代の作とは到底思えないこのような綺麗な仏様は初めての経験でした。(像高94センチ)



この寺門勅額聖武天皇から送られたとされています。奈良時代の重要文化財です。この他にいつもは奈良博物館に出陳されている隅寺心経(伝弘法大師筆、奈良時代、奈良市文化財)はその文字が非常に整っており、お写経の元字となるのではないかの思われました。
 この他に、五重小塔(国宝、奈良時代)・毘沙門天画像(重文、平安時代)文殊菩薩(重文、鎌倉時代)など、貴重な文化財にお目にかかることが出来ました。
 一度ぜひたずねられることをお勧めします。観音様がよそに貸し出されていなければ良いのですが!!

法華寺(正式には法華滅罪寺)
 この寺は、聖武天皇御願の日本総国分寺である東大寺に対して、光明皇后御願に成る日本総国分尼寺として創められた法華滅罪之寺です。寺地は平城宮の東北に位置し、藤原不比等の邸だったのを、皇后が先帝ならびに孝妣の為に改めて伽藍としたもので、その後千二百五十年女人道場「法華寺御所」として、続いてきています。従って草創以来朝野の尊崇を集め、天平勝宝元年には詔して墾田1千町歩を施入せられ、大同年中には、駿河、美濃、上野、武蔵、越後、伯耆、出雲その他に寺封5百50戸を持つなど、天平の大伽藍にふさわしい堂宇もまた金堂、講堂、東西両塔、阿弥陀浄土院と荘厳の限りを尽くしていたとのことです。
 その後、平安京への遷都、打ち続く戦乱により、かっての大伽藍は夢の彼方に消えていましたが、淀君の後援で本堂、鐘楼、南大門などが再建されました。(以上、法華寺小誌によります。)
 このお寺の本尊”十一面観音”はその由来と”光背”に大きな特徴があります。
 今回のような本尊御閉扉中はその分身を拝ませていただきますが、この分身でさえ昭和40年インド政府に最上の香木、白檀の提供を依頼し、一木作りで完成さえれたものとのことです。
 本体は、光明皇后の姿を当時のインド第一等の彫刻家が、我が国に於いて三体を刻んだ内の一体との伝承があります。光背は蓮葉の彫刻です。


法華寺南門です。


国宝の”木造十一面観音立像”です。この光背には驚きました。

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