中つ道
唐古・鍵遺跡を中心として歩きました。



「万葉の道」・中つ道から
 中つ道は、上つ道、下つ道と並んで奈良盆地を横断する古代幹線道路である。北は平城京東京極、南は藤原京東京極を結び、更に南進して飛鳥古京を抜け、芋峠越え吉野道に接続すると推定されている。
 この道はまさに、大和の荒涼たる平野のただなかを走る。上つ道や下つ道が、のちに街道集落を形成して、道の賑わいをみせたのに比べ、中つ道は近世に橘街道として利用されたにもかかわらず、比較的邑落の発達は乏しく、田野のただ中を歩く事が多い。それだけに古道を歩く実感が強いといえるかもしれない。
 青垣山四方に囲まれる平野の道を、藤原京との別離に後髪をひかれる思いで歩いた元明天皇。恋人坂上大嬢(さかのうえのおおおとめ)に逢うために、平城京から竹田に住む大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の許へ歩いてきた22歳の若き大伴家持など、出逢いと別れの哀歓を混ぜ合いながら、万葉びとはゆきかいしたのであろう。・・・


 春の連休中に1日は旅に出たいと思っていました。以前から気になっていた古代楼閣を復元している”唐古・鍵遺跡”と”中つ道”の一部を歩く事としました。
 近鉄田原本駅を下車、まず駅近くの浄土真宗本願寺派”淨照寺”を訪ね、寺川堤の道を”鏡作神社”へ向かいます。
 正式名は鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)で、延喜式内大社です。祭神は天照国照日子火明命・石凝姥命(いしこりどめのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)で古来から鏡鋳造の神として信仰されています。このうち石凝姥命は天照大神の御魂の神璽の鏡として内侍所に祀る鏡を鋳造したとされる神で、社伝ではその試鋳の鏡がこの神社のご神体と伝えられています。
(神一行氏の「消された大王饒日ニギガヤヒ」では、この神社について以下のように記されています。  ・・・では、”鏡作”というものになにか意味があるのだろうか。元来、このあたりは城下郡鏡作郷といったが、これは明らかに職能集団の名前である。そこでもう一度、鏡作坐天照御魂神社の祭神を見直すと、こうある。祭神(中)天照国照彦火明命・(右)石凝姥・(左)天児屋根命  
 もともとはニギハヤヒのみを祀ってあったのだがのちに左右の2座がふえたようだ。(氏は天照国照彦火明命をニギハヤヒと考えている。)左座の天児屋根命とは、『日本書紀』によれば「中臣連の遠祖」とあり、この中臣氏から藤原氏が誕生する。それこそ「記紀」編纂のおりに藤原氏が由緒を正しくするために改竄したもので、その証拠に「磯城郡誌」には「左座は天糠戸神(あまのぬかとかみ)」とある。また、同地域内に「鏡作伊多神社」「鏡作麻気神社」というのがあり、ここの祭神も石凝姥命と天糠戸神となっている。天児屋根命など祀っていない、・・・


上記の本の中で、筆者は「唐古・鍵遺跡」その他の遺跡について触れています。
 
では、大和地方の古代史はどこまでわかっているのか。本論に入る前に、古代史の物理学的証拠といわれる考古学からみた情報をのべておこう。三輪山の周辺には、とくに注目を浴びている二つの古代遺跡が存在する。「纏向遺跡」と「唐古・鍵遺跡」だ。
 まず、時代的に古いといわれる唐古・鍵遺跡のほうから述べよう。・・・・・その広さは邪馬台国時代の”クニ”として評判になった吉野ヶ里遺跡とほぼ同じ面積で、平成4年11月の発掘では、この地に環濠集落があったことが明らかになった。しかも、それは4重の濠が設けてあった。この遺跡は弥生時代中期のものたされ、時代的には吉野ケ里遺跡よりもふるいもので、いわば北九州にしか存在しなかった”クニ”が弥生中期に大和にもあったことが裏付けられた。
 さらに、この遺跡で注目を浴びたのは、吉野ケ里遺跡のように敵をみはる「楼閣」の発見こそなかったが、その存在を推測させる土器が出土したことだった。1世紀前半の土器にすでに楼閣の絵が描かれてあったのである。・・・・・さらにまた、この唐古・鍵遺跡には、巨大な青銅器工房があったのではないかと推測されている。というのも、平成3年11月から翌年1月に懸けて、ここから大量の銅鐸・銅剣・銅鏃(どうぞく)(青銅の矢じり)の鋳型片が出てきあからである。・・・・・そして、この集落遺跡は3世紀末まで存続し、その東方に出現した「纏向遺跡」にとってかわれたらしいのである。・・・
 @ 古代の大和地方には、邪馬台国時代(3世紀中葉)より以前の弥生中期(世紀前1世紀〜世紀1世紀)ぼのに、すでに青銅器を生産する小国が誕生していた.これが「唐古・鍵遺跡」の居住者で、3世紀末まで存続したと思われる。
 A ところが、3世紀中葉に纏向へ移ってきた部族に滅ぼされたのか、大和中心は「纏向遺跡」に移った。
 B 纏向への移住者は、その地に日本最古の石塚古墳(250年ごろのもの)を築き、4世紀の初頭になると、我が国最初の大型前方後円墳である箸墓古墳(全長278メートル)をつくって全盛期を迎え、4世紀を通じて栄えた。・・・
 考古学と古墳時代を繋げる面白い指摘と思われます。
唐古・鍵遺跡
 寺川を渡り、国道24号線を渡ると古代楼閣が目に入りました。唐古池の南西の角に立っています。池を一周しながら、写真に収めました。遺跡の詳細はミュージアムでのお楽しみです。新しく出来て、道の中央に道しるべを埋め込んでいる道を西に取り、大和川(初瀬川)の土手に登ります。そこには展望台も出来ていました。土手道を南に下ります。
 法貴寺として地名の残る位置に、式内社池坐朝霧黄幡比売神社(いけにますあさぎりきはたひめじんじゃ)があります。祭神は天万栲幡千千比売命(あめよろずはたちちひめみこと)(天之忍穂耳命と婚姻し天火明命、瓊瓊杵命の2柱を生む。)とされています。
 池神の 力士舞かも 白鷺の 桙(ほこ)啄(く)ひ持ちて 飛び渡るらむ 
(巻16・3831)
 白鷺が木の枝をくわえて池の上を飛んでいる様を見て、池神の寺で催される力士舞で、金剛力士がほこを持って舞う様を思いうかべたのであろうとしています。
 さらに東側堤防を南行すると東井上(ひがしいね)に入ります。
 春霞 井(ゐ)の上ゆ直に 道はあれど 君に逢うはむと たもとほり来も 
(巻7・1256) 
 「井」の傍を通ってまっすぐ来る道はあるけれど、人目を避けてあなたのもとへ回り道してきました。(万葉の道より)
 道を西に取り、唐古・鍵考古学ミュージアムへ向かいます。図書館も兼ねた新しく立派な建物です。会場では、ボランティアの解説員のかたに解説を頼みました。 


唐古・鍵考古学ミュージアム 
 立派で、素晴らしい施設です。先日、伊勢・答志島への旅行の際に訪れた斎王博物館もそうでしたが、最近のこういった施設の立派さに驚きを隠せません。
 パンフレットからです。
 
弥生集落の誕生  −−拠点集落の出現と唐・鍵遺跡郡ーー
 弥生時代には、稲作の導入に伴って定住的な農耕集落が出現します。こうした集落のなかには、弥生時代前期から後期まで継続的に営まれたものが見られ、考古学ではこらを拠点集落と呼んでいます。奈良盆地では、唐古・鍵遺跡をはじめ、平等坊(びょうどうぼう)・岩室・多(おお)・芝・坪井・大福遺跡や鴨都波(かもつば)遺跡といった拠点集落が知られています。
 遺跡発掘の跡の現地は埋め戻され、過去の遺跡の保存が計られます。その替わりにこの様な施設に発掘物が展示されます。建物の柱あとの原寸模型を足元に復元したものや、古代楼閣が描かれた壺、光沢豊な透明度あるあるヒスイの勾玉など興味深いものを説明していただきました。
 考古学的な資料分析と神話・その後の文字による資料(古事記・日本書紀・各地の風土記・神社由来書など)がどのように結びつくのかが、興味深いものです

 ミュージアムで昼食をとったと、天候が心配な状況になったので、帰路につきました。
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