| 万葉集とは? |
| 河出書房・日本文学全集『古事記・万葉集』の万葉集の説明によります。 |
| 日本最古の歌集である。編纂の時期は、諸説があるが、大体平安朝初期、平城(へいぜい)天皇のころであろう。収録された歌は、磐之姫大后(いわのひめのおおきさき)や雄略天皇のような伝説的な時代を別にして、舒明天皇の御代から天平宝宇3年ごろまで(629〜751)およそ120年ばかりの期間に作られた歌である。万葉集は古来マンニョウシュウと訓(よ)み慣わしてきている。万葉の意味は、万代ということで、天子の齢が万代に続くようにと言う祝福の意味が籠っている。その意味をもっとも濃く示している巻は、巻八、巻十で、この2巻は整然と分類編集されている。20巻の全体から見ると、きわめて不統一な編纂で、初めから20巻として成立していた物ではなかったことが分る。 そのうち、巻一、巻二は、雑歌(ざっか)、相聞(そうもん)、挽歌(ばんか)に分類され、最も古い時代、いわゆる初期万葉の歌を含んでおり、巻十七から巻二十までは、大伴家持の手控えをそのまま収めて、歌日記の形を見せている。 時代的には4期に分かつことが出来る。第1期は飛鳥時代(629〜686)、舒明から天武までの期間で、中に大津宮、難波宮の時代を含む。日本紀の歌の最後の時代と重なり、宮廷を中心にようやく創作の気運が胎動してきた時代で、概して素朴、直截で、力ずよい作品に富む。代表歌人を1人挙げれば額田王(ぬかだのおおきみ)だが、その他斉明、天智、天武、有馬皇子など、佳什(かじゅう)に富んでいる。 第2期は藤原時代(687〜707)で、期間は短いが万葉の歌の頂点で、柿本人麻呂、高市黒人などが活躍した。長歌は人麻呂の宮廷儀礼歌や相聞歌において、絢爛たる修辞によって完成され、同時にそのいのちを汲みつくした。だか同時に、人麻呂、黒人によって、短歌が抒情詩として洗練され、表現の幅と深みを加えた。この期には外に、皇族歌人にも優秀な作家が多い。 第3期は和銅・養老時代(708〜733)、奈良時代前期で、山上憶良が死んだ天平5年まで数えた。長歌はすでに枯渇し、宮廷詩人としては山部赤人が出て、短歌に細を加えた。また大伴旅人、山上憶良等新知識人によって、個の憂悶や思想の表現が、新たに試みられ出した。 第4期は天平時代(734〜751)、大伴家持を代表とする。彼の歌には、近代の詩人を思わせるような、孤独者の寂寥感、不安感が、強くにじみ出ている。だから万葉の歌は、記紀の歌に接する古調の混沌時代から、知識人のきわめて近代的な思想、感情の表白までを、一部のうちに含んでいることになる。 外に多くの作者不詳の歌や東歌、防人歌などがあって、万葉の歌風はきわめて多種多様な変化に富んでいるのである。総歌数4516首、長歌、短歌、旋頭歌の外に、少数の仏足石歌(5・7・5・7・7・7)、連歌(れんが)、漢詩、漢文を含む。 |
| 背景は万葉碑 衾道(ふすまみち) 衾道を 引手の山に 妹を置きて 山道(やまぢ)を行けば 生けりともなし(卷2・二一二) 妻を失って、人麻呂が泣血哀慟して作った歌2首のうち、後の1首つけられた短歌で、長歌をよむと、みどり子を残して死んでいった妻は、羽易(はがい)の山に仮葬されたらしい。人麻呂は亡妻を尋ねて、その羽易の山に岩を押し分けて登っていった。 この道にある、衾田陵は継体天皇(26代)皇后、手白香(たしらが)皇女の陵といわれています。なぜに彼女の陵がここにあるのか?不思議です。 |
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