龍王山(引手の山)から長岳寺
そして再度”山辺の道”へ
長岳寺の紅葉です。


 衾道(ふすまみち)を 引手(ひきで)の山に 妹を置きて 山道(やまじ)を行けば 生けりともなし (巻2・二一二)
 
「引手の山」に妻を置いて、山路を帰ってくると、悲しみのあまり生きた気がしないーー。人麻呂の歌に在る「引手の山」は周辺の山並の最高峰、龍王山とされています。
 今回はこの龍王山への登山と長岳寺の紅葉をめざし、Nさんとの旅に出ました。

龍王山へ
 近鉄天理駅からタクシーで天理ダムに向います。15分程谷あいの道と登ると、急にダムサイトが壁のように目に入りました。「こんな所にこんなに大きなダムがあるとは」が正直な感じです。ダム脇の公園の木々も紅葉が始まっていましたが、昨日までの雨で色付いた落ち葉も目立ちます。登りの道をゆっくりと山頂へ向います。約1時間の登り道で、北城跡へ到着しました。11時でした。北城跡から山辺の道方面を見下ろすと黒塚古墳が望まれます。さらに、1時間かけて、南山城頂上へ。ここでオムスビの昼食としました。ここには既に先客が3組あり、それぞれ携帯コンロなどを使って暖かいものを食していました。乙なものです!!周りの景色は雨の後の水蒸気の上昇のためか、いま一つでしたが、うっすらと耳成山、畝傍山などが望まれ、目を転じて東の方角を眺めると山また山が重なり合っています。充実感を覚える山頂からの眺望でした。


長岳寺へ
 厳しい下り、しかも昨日までの雨の為大変に荒れた山道を1時間程歩き、膝に痛みが入り始めた頃、ようやく長岳寺へたどり着きました。ホント、たどり着いたのです。でも、この後、ここから天理駅まで歩くとはこの時は思ってもみませんでした。
 
長岳寺は天長元年(824年)、淳和天皇(53代)の勅願によって弘法大師が釜口山に創建したのにはじまるといわれています。山号は釜口山、俗に釜口大師と呼ばれました。
 境内には山辺の道とこのお寺の紅葉をもとめる人々が数多くあり、大変な盛況でした。お遍路姿の人がみられるのはこのお寺の性格を表わしているといえます。境内を歩き、ご本尊を拝んだあと、庫裏でゆっくりと”にゅうめん”を食しました。お寺の佇まいは写真で紹介します。


山辺の道を北へ
 お寺を出て、さて帰り道はと2人で相談の結果、天理まで歩いて戻ることとしました。まず、冒頭で紹介した”衾道・・”の歌を記した犬養孝氏の歌碑に再会しました。”作者近況”でも触れているように、前回は緑に囲まれた溌剌とした風景、今回は歌の雰囲気がピッタリの秋の佇まい。今回の訪れで、この歌のこころに触れられた思いがします。
 前回とは逆の方向への道筋となりました。前回通り過ぎたしまった、衾田陵へはぜひに訪れようと道しるべを丹念にチェックして歩き、ようやくこれを発見しました。たしかに反対の方向では見逃しやすい道しるべでした。下の写真です。
 
衾田陵は全長140メートルの前方後円墳で、西殿塚古墳とも呼ばれています。第26代継体天皇の皇后である、手白香(たしらか)皇女の陵として宮内庁で管理しています。
 継体天皇(男大迩王)は応神天皇の5代の孫であるといわれています。近江、越前で勢力を持っていたと考えられ、武烈天皇の崩御の後、大伴金村、物部麁鹿火(あらかひ)などに擁立され、樟葉宮で即位後、20年間、筒木宮、弟国(おとくに)宮など山城地域を転々とし、ようやく大和国磐余玉穂宮に入ることができたとされています。書紀に9人の后が記されています。そのなかで、手白香皇女は24代仁賢天皇の娘で、武烈天皇の姉にあたり、その後の天皇家の繋がりの中で大変重要な位置を占めています。2人の皇子である29代欽明天皇、その皇子30代敏達天皇、31代用明天皇、32代崇峻天皇、皇女33代推古天皇、用明天皇の皇子聖徳太子がいることを考える時、その後の歴史のなかで手白香皇女が大変重要な位置を占めていたことが判ります。
 道を間違え、同じ場所に出るといったハプニングにめげながら神さぶる石上神宮の森にたどり着きました。 (昨年夏の山辺の道)
  石上 布留の神杉 神さぶる 恋をも我は 更にするかも (いそのかみ ふるのかむすぎ かむさぶる こいをもわれは さらにするかも)
(巻11・二四一七)
石上神宮に今日歩いたコースの略図がありました。参考までに!!
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