作者近況

ご感想は isacha@mbox.kyoto-inet.or.jp へ

ホームへ戻ります。

10月12日
 昨日はNさんと念願の多武峰・談山神社から峠ごえ飛鳥への道を辿りました。峠から飛鳥へ下る道は新しい自動車道路建設のため、急な山道を降りるとなり、少々難儀しましたが、楽しいゆったりした気分で明日香を散策できました。
 
詳細は後日に纏めます。聖徳太子誕生の地と言われる橘寺の黄色の曼珠沙華です。

10月5日
 9月27日橿原神宮駅からの明日香への旅をまとめ始めました。
 飛鳥については、梅原猛氏の「塔」『飛鳥とは何か」などを読み返してイメージを明確にしたいと思っていますが、なかなか難しい作業です。この作業はこれからも続ける必要が在ります。
 甘樫丘へは今回始めて登り、飛鳥寺へ下りました。飛鳥寺では堂内で、解説をゆっくり聞くことが出来、歴史を振り返ることが出来ました。特に、この寺が建造された時の伽藍の様子で、その1つの塔、2つの金堂の様式は伽藍様式としては、最も古い様式(高句麗の遺跡に見られる)との説明を拝聴した後、飛鳥大仏の写真撮影を許可されました。(他のお寺では堂内の撮影は厳禁されています。文化財を保護するため、その指示には必ず従っています。)
 飛鳥寺の西門近くには、入鹿のものといわれる首塚があり、真神(まがみ、狼のこと)の原から甘樫丘を仰ぎ見ているようです。
 この丘は、蘇我氏全盛の時、馬子の邸宅が在ったとされていますが、この地に邸宅を建てることが出来たという事は、馬子が大王であったとしても不思議ではありません。なにせ、推古天皇の宮古、豊浦(とうら)宮、小墾田(おはりだ)宮を見下ろしているのですから!!我々の歴史常識は天武天皇以降に編まれた、「古事記」「日本書紀」に依るものです。崇峻天皇の弑逆。聖徳太子の皇子、山背大兄王の一族の滅亡。蘇我入鹿の殺害と蘇我本家の滅亡。大化の改新。と血生臭い歴史の真実は闇の中です。
 飛鳥寺から歩いてすぐのところに、奈良県立万葉文化館が開いていました。ゆっくりと見学させていただきましたが、その新しい見事さには声が出ませんでした。さらに、飛鳥坐神社も建て替えられ、新しい木の香りがするようでした。雷丘の横を通り、駅への道を辿りました。
飛鳥大仏です。何回もの火災に
遭いながらその都度再生してい
ます。クリックしてください。
コスモス畑から雷丘(かみなりのおか)
畝傍山を遠望しています。

10月4日(土曜日)
 NTT.Bフレッツの設定をしています。光ファイバーの配線は9月中に既に済ましていますがプロバイダーとの契約を10月からとしたため、今日の作業となりました。
 この契約の主体は息子で、彼が音楽、映画のダウンローゲームなどをネットから希望している為です。小生はその分野は希望していませんが、ネットのスピードと、メールの写真を送りやすくなることがメリットかな?なんて思ってます。一応、設定は完了しました。
 さて、明日香での万葉の旅を作らねば!!

9月23日・春分の日
 
万葉の旅に同行して頂くようになった、Nさんの為、談山神社への列車の接続を調ベようと桜井近辺の散策を計画し、連絡した所、同行することとなりました。
 この日は、阿倍文殊院、聖林寺(しょうりんじ)へは必ず訪ねようと決めていました。聖林寺の十一面観世音菩薩には是非一度お目にかかりたいと思っていまたのです。
 天平仏のこの仏さまは本当に素晴らしい仏さまでした。
 仏さまを下から見上げると、写真でみるとは全くことなり、スマートな8頭身の女性を感じさせます。優しげな面差し、優雅なお姿を拝み、時の経つのを忘れました。
 同じ天平仏でご近所、大御堂の十一面観音さまは背丈が人の大人とほぼ同じで、やや肉ずきが良く、親近感をおぼえますが、この仏さまは台座からは約3メートルの高さで、ほっそりとした女性の優雅さがその素晴らしさを際立たせています。
 日本の三大文殊のひとつ、阿倍文殊院本尊文殊師利菩薩(鎌倉時代・重文・快慶作))は巨大な木彫極彩色の騎馬像(高さ7メートル・日本最大)で、そのでかさに圧倒されます。阿倍文殊院から聖林寺への道で、畦道の赤い曼珠沙華(彼岸花)が印象的でした。

 国宝 十一面観世音菩薩
仏身209.1cm、台座77.8cmの木心乾漆造
の代表的天平仏。本文のとうり、お姿を見上げ
ると写真とは全く違った、均整のとれた、優雅な
お姿です。お顔は優しげです。
曼珠沙華が田畑の畦道に
咲き乱れていました。
トップへ戻ります。

9月15日・敬老の日です。
 
自分はまだ対象とは思っていない敬老の日です??久しぶりに、作者近況を書き始めました。万葉の旅は、いま少し涼しくなってからと思うほどに、9月に入り、ようやく夏になったようです。こんどは、多武峰談山神社から、飛鳥への道を考えています。
 13日は今は亡い妹の長男の結婚式で、松本に行ってきました。親父の家業を継いで職人の道を歩き始めたナリハゴツイガ気性がとても良い甥で、良い嫁さんが来てくれたと喜んでいます。でも、松本もヤッパリ暑かった!!
 結婚式は”深志神社”松本では天神さんと通称されている神社の中で厳かに行われました。巫女さんの榊を持った舞を含め、なかなか良い結婚式でした。
朱色の柱が印象的な神殿での
結婚式でした。
トップへ戻ります。

8月13日・大和三山登頂成功!!
 盆休みに入っていましたが、天候は真夏とは思えない日が続いています。異常気象は世界的で、欧州では熱波の襲来で死者の出る騒ぎのようです。日本も東北地区の冷害による被害が心配されます。
 こんな時、お気楽男は晴れの日を盗んで、大和三山登山に出かけました。
 7時過ぎに家を出て、近鉄線で八木駅へ。8時過ぎに八木駅を出発。
   9:13 耳成山登頂成功
  10:41 天香具山登頂成功
  12:18 畝傍山登頂成功

 畝傍山への上り口では、膝の痛みがでて、登頂断念を思いましたが、気を取り直し挑戦し、下山後には自己満足に浸ることが出来ました。登頂時間はデジカメの記録時間によります。本当に便利な物です。
 耳成山・畝傍山はどの方向から望んでも、円錐形の綺麗な山容ですが、天香具山は、南西方向(紀寺跡方向)からは他の2山と同じ円錐形の山容が望めます。
 畝傍山手前の、本薬師寺(もとやくしじ)跡の周辺の池に”ほていあおい”の花が満開で、感動させられました。お届けします。
本薬師寺周辺の”ほていあおい”の
群れです。感動的でした。

左の花のアップは拡大可能です。

8月10日
 盆休みに入り、”山辺の道”を仕上げるべく、奮闘しています。
 2日には26日の不十分な部分、と言うよりどうしても行きたかった、箸墓へ行く事が出来ました。これは、内田康夫著「箸墓幻想」の影響によります。ちなみに、内田康夫氏の文庫本で刊行された推理小説ほぼ全て所持しており、浅見探偵の大ファンと自認しています。最近は昔で言う”社会派”的推理小説”([はちまん」、「鯨の叫く海」「秋田殺人事件」等)のジャンルも愛読しています。
 2日は、箸墓、穴師神社、景行天皇陵、崇神天皇陵、黒塚古墳、大和(おおやまと)神社を廻りました。距離は大した事はありませんが、暑さでヘトヘトとなりました。
日代宮跡と黒塚古墳 垂神天皇珠城宮跡碑と大和神社

8月1日
 待ちにまった晴れの日が訪れました。先週の土曜日(26日)です。
 ご一緒することとしていた、Nさんと”山辺の道”への散策に出かけることが出来ました。JR大住駅で落ち合い、天理駅で下車、それからは歩いて、桜井駅までの長丁場です。

 当初、距離は10キロ程度と考えていましたが、実際には15キロほどあったようです。本当に疲れました。
 まず、天理駅から、アーケード街を通り天理経本部への道の”村の鎮守のお祭”を思わせる雑踏に驚かされ、そこを抜けた、”石上神社”の静寂さに二度びっくりのスタートでした。
 ”内山永久寺跡” ”夜都伎神社” ”崇神天皇陵” ”景行天皇陵” と周り途中に”トレイル青垣”という山辺の道の案内所を兼ねた立派な休憩所で一休みする事が出来ました。さらに、”桧原神社” ”大神神社”(ここで三輪そうめんを食しました。)そしてへとへとになりながら、”海柘榴市跡”(つばいとあと)を経て、桜井へたどり着きました。
 桜井からは近鉄線で、京田辺まで帰り、お互いの健闘を称え、ビールで乾杯。うまかった!!
 山辺の道へのスタート三景です。
トップへ戻ります。

7月12日
 所要で久しぶりに京都に出ました。
 祇園祭が間直に迫っていますので、鉾や山車の準備が出来ているのではないかと期待して、四条道りを歩いた所、長刀鉾で引き調べに出くわしました。小学生の男女が主となり引き手となっていました。もちろん、稚児さんも鉾に乗り、囃子も交えての引き調べでした。
 ちなみに、17日の山鉾巡幸をメインとしていますが、宵山、宵々山の人出もすごいものです。
長刀鉾三景です。

6月28日
 21日、22日は恒例の兄弟会のため、信州への旅をしてきました。今年は娘の嫁ぎ先の御両親が同行することとなり、大町温泉での会の他に、安曇野の大王わさび園、さらに翌日は長野の善光寺へと足をのばしました。往復は高速道路を使用してのドライブ。娘と小生が交互に運転をしたのですが、帰りは日本海側を通る”北陸自動車道”を利用してみました。
 娘はスキーの為にこの道路は利用していますが、小生は始めてでした。この道路での運転は本当に疲れました。地形から来る道路状況の為か?空いている為に100キロ走行で、更に追い越しを繰り返した為か?歳のせいか?理由はいろいろと思いますが!!この疲れを取るため、今日は家で読書です。
大王わさび園の風景と善光寺です。

6月19日
 今年は季節はずれといえる台風が来ています。しかも、二つ目です。昔の天気情報では、この頃の台風は大陸の方向へ行ってしまい、日本列島にはこなかったはずです。本当に気候の変動は起こっているのかも??起こっている!!
 通勤のバスの中で今、「万葉の女性歌人たち」(杉本苑子著)を読んでいます。その中の”万葉集”に、持統天皇の作と言われる、面白い歌がありましたので、紹介したくなりました。?
 ちなみに、持統天皇は天智天皇と遠智娘(をちのいらつめ、蘇我倉山田石川麻呂の娘)の皇女(ひめみこ)で、天武天皇が壬申の乱(大海大兄が吉野行の時に行動を伴にしたと言われています。)で勝利し、飛鳥淨御原宮で即位した折、皇后にたてられました。その後、草壁皇子を天皇とするため、姉、大田皇女の忘れ形見の大津皇子を葬り、草壁皇子が即位直前に病死すると、彼と阿閉皇女(後の、元明天皇)の皇子である、軽皇子(後の、文武天皇)を帝位に就ける為、持統天皇として、帝位につき自ら政務を執ったのです。
 このように男勝りの決断力と行動力からは考えられない、面白い歌がありました。。
    天皇、志斐)しひ)の嫗(おみな)に賜ふ御歌1首
  不聴(いな)と言えど 強ふる志斐のが 強語(しひがたり) 
      このころ聞かずて 朕(われ)恋ひにけり(巻三−236)
    志斐の嫗の和(こた)へ奉る歌1首
  否と言へど 語れ語れと 詔(の)らせこそ
      志斐いは奏(まを)せ 強語と詔る(巻三−237)

    「いやだよ、うるさいと言うのに、しつっこく話しかける志斐のおしゃべり・・・。
    でも、それをこのごろ聞かないので、私は恋しくなったよ」
    「まあひどい!いやだというのに、しゃべれしゃべれとおしゃるからこそ、志斐めは申し    上げてのですよ。それを強語(しひがたり)だなんて、あんまりなお言葉ですわ」   
トップへ戻ります。

6月15日
 8日に訪れた岩船寺と浄瑠璃寺をまとめました。
 現在のトップページは既に”万葉の道”へ譲っていますので、別ページを造る事としました。このところ、パソコンの調子が、特に、メールとインターネットが悪かったので、「デフラグ」と「スキャンディスク」を試みてみました。昨夜は3時頃まで、今朝も2時間ほどの時間をかけましたが、どんな調子かはこれからです。
あじさいが満開です。庭のあじさい2種です。
6月7日
 松本出身のわたしどもからすれば馴染み深く、礼法の家元として有名な”小笠原家”について、なるほどと思われる文章を見つけました。(羽太雄平「二河白道・智臣 本多正信伝」)
 
 小笠原家は、新羅三郎義光を始祖とする甲斐源氏の庶流であり、たとえば武田家とは、「武田は兄、小笠原は弟・・・」と言う関係だから、かなりの名族である。
源頼朝の挙兵に参加した小笠原長清は、大いに名を高め、伊豆、相模、甲斐、遠江、淡路5国の管領となり、信濃・阿波両国の守護識と兼ねた。その頃武田家は、甲斐1国の守護でしかなかったから、分家の小笠原家は、宗家をはるかに越える勢力を持っていたことになる。
 小笠原長清には、族に16人と伝えられる多くの男子があり、それぞれ子孫を繁栄させた。たとえば長男の末孫は、のち深志(松本市)に本拠地を移して深志小笠原氏となり、信濃守護家として名高い。
 また阿波の守護となった2男系は、阿波国三好(徳島県三好郡)を居所としたため三好氏を称え、この物語のころの人三好長慶は、足利将軍義輝を近江に追い、今では京都によける事実上の実力者になっていた。

 武田信玄は諏訪氏、小笠原氏、を倒し、北信の村上氏を追い出したことで、越後の上杉謙信との”川中島の戦い”に突入するわけで、小笠原長隆、村上義清は上杉勢として参戦しています。このような小説を書き上げるのどれほどの調査が必要なのか、作家の方々のご苦労が偲ばれます。

5月31日
 5月も最後の日となりました。季節はずれの台風が来るとの予報で、24日に訪れた白毫寺までの道程をまとめる事としました。でも、意外に天気は良く”台風はどこかな?”なんて日でした。
 ここで、万葉集についてですが、万葉集は日本最古の歌集です。一番新しい歌が759年古い歌は不明です。平城京遷都が710年で長岡京へは784年ですから、奈良時代にまとめられたものと考えた良いでしょう。
  あをによし 奈良の都は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり(巻3・三二八)
は奈良の都の繁栄を歌い上げた代表的な名歌ですが、詠者は大宰少弐小野老朝臣(だざいのしょうにおののおゆあそみ)で、彼が大宰府に赴任中に奈良の繁栄を歓迎の宴あたりで紹介して歌ったものといわれています。蛇足とはおもいますが!! 

5月24日
 来週の土曜日はデジカメを娘に貸し出すことになっておるところから、急遽、佐紀路、佐保路の完結の為、出かけることとしました。
 今日は、聖武帝、皇后の陵をまず、正倉院、東大寺をへて、白豪寺を目指す事とし、JR奈良駅までの切符を購入しました。奈良市の東の端にある新薬師寺よりさらに東南にあるらしい白豪寺へたどり着けるか心配な出発でした。
 奈良の中心を南北につっきる”やすらぎの道”を北に歩くと佐保川に出合いました。この辺では佐保川は西に向け流れています。このあたりから上流は東北へと流れが変わっています。この道をたどると、聖武帝、光明皇后のみささぎに出会うことが出来ます。平城京から見れば、この陵は真東にあたります。この頃になると、”みささぎ”を新たに作るのではなく、自然の山を利用した埋葬方法に変わってきたと思われます。その後の天皇家の”みささぎ”とはこれと同じような形式となっています。(大化2年朝廷は薄葬令を出し、仏教の普及とともに王族であっても大型古墳は造れなくなった。)
 また、なんとこの山は、多聞城なのです。戦国の松永久秀が永禄3年(1560年)に築城したと伝えられています。ここから名のついた”多聞櫓”はその後の城郭に取り入れられたことで有名になっています。
 正倉院、東大寺をぬけ、白毫寺への道を辿ります。途中に”新薬師寺”があり、ここまでは数回きていますが、その先の白毫寺へはたどり着けずにいました。その理由が判りました。
結構遠いのです。でも、今日は十分に時間があり、境内でゆっくり時間をとる事が出来ました。良かったなー!!




正倉院(柵の隙間からのショット) かっての春日野の趣を残す風景
高円山山麓(白毫寺)から興福寺を
望んでいます。
多聞城址です。今は若草中学校の
構内です。
トップへ戻ります。

5月23日
 先日17日土曜日は、恒例の高校時代の大阪同窓会への参加の日でした。
 毎年参加を楽しみにしています。40台に有田氏から同窓会の連絡をうけ、その後は、大阪はもとより、東京に単身住まいしている時は東京と大阪、また夏には松本と出来るかぎり参加を心がけています。その度毎に、世話をしてくれる有田氏をはじめとする方々に感謝の念を強くします。今回は有田氏による”靴について”の講義があり、勉強させて貰いました。
 このなかで、靴の輸入関税のこと、日本で底を貼れば”日本製”となること、足型による”オーダー靴”の疑問点など大変興味深い話を聞く事が出来ました。
 
その後宴会の最後には、例によって声を限りに、応援歌、トンボ蔡歌、校歌を歌う事が出来ました。本当に楽しいひとときをいただけたことに感謝!!
庭のアマリリスです。赤が印象的な花ですね。

5月10日(晴れ)
 
明日は雨との予想で、先週の心残りの部分を完成させたいものと出かけることとしました。
今日は先週の”佐紀路の左回り”を秋篠寺を含む”右回り”コースにし、最後は「朱雀門」までと心に決め、やはりJR平城山駅を出発しました。
 やはり磐之姫平城坂上陵(仁徳天皇皇后)から石畳のみちを西へ進み、歌姫街道を北に進みました。こjこで、式内社添御県坐神社(そうのみあがたにますじんじゃ)に出くわし、ここの立て看板で、長屋王のこの峠を歌ったといわれている歌「佐保過ぎて 奈良のたむけに 置く幣は 妹を目離ず 相見しめとそ」に出会いました。
 さらに、垂仁天皇后日葉酢媛命狭木之寺間陵(さきのてらまりょう)(垂仁天皇は11代天皇で第10代天皇崇神天皇の第3皇子として生まれています。)・第13代成務天皇の狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりりょう)を過ぎ、神功皇后陵(巨大な前方後円墳)狭城盾列池上陵(さきのたたなみのいけへ)を過ぎ、多少道に迷いながら、秋篠寺へとたどり着きました。
 秋篠寺では苔むした境内のたたずまいを楽しみ、本堂内では椅子に腰掛け、ゆっくりと仏像を拝みました。本当にいい時間ですね!!
 この後、奈良国立文化財研究所でボランティアのかたの平城京jについての解説を十分に聞き(この話の中で、2010年大極殿の再建が進んでいるとの話を聞けました。現在建設中です。)、今日の目的地である「朱雀門」にたどり着きました。家を9時過ぎに出発し、既に3時になっていました。十分空腹でしたので、新大宮の”天下一品”(京都方面ではラーメン店として有名、息子など若い人にはここの”こってり”が人気!!)でビールつきあっさりラ−メンと餃子を楽しみました。うまかったなー!!
この日の写真集です。
石畳の山道 添御県坐神社 狭木之寺間陵
神功皇后陵 平城宮址から 朱雀門

5月3日(憲法発布記念日)
 久しぶりに晴天となりました。
 3日間の連休となりましたので、早速に、懸案の万葉集の故地を訪ねる散策第一日に出かけることとしました。でも、下準備が十分でないため、とりあえず"佐紀、佐保路”への旅とすることとし、JR平城山(ならやま)駅から例の”万葉の道、巻の三、奈良編”とカメラを抱え歩き始めました。
 駅の東方向に出ると佐保台という閑静な住宅地で、そこを抜けると樹木に囲まれた自転車道に入りました。すぐに”ホーホケキョ”と鶯のはっきりした鳴声を耳にする事が出来、散策第1歩の記念物として体に染み付けることが出来ました。
 磐之媛(仁徳天皇皇后)平城坂陵、佐紀沼、小奈辺(コナベ)古墳、宇和奈辺(ウワナベ)古墳を経て、海龍王寺、法華寺をお参りしました。
 特に、海龍王寺では住職の丁寧な説明を聞いて後、十一面観世音菩薩立像(重文、鎌倉時代、木像彩色)を拝む事が出来ました。この観音様のお姿は94センチと小さいですが、昭和28年まで秘仏であったため保存状態が良く、色気さえも感じさせるお姿で感動させられました。
 海龍王寺、法華寺藤原不比等の邸宅の地にあり、そのつながりに大変興味を惹かれました。というのは、不比等はその父鎌足以上にその後の日本の歴史に大きな影響を与えたとされるからです。不比等はその幼少時代この田辺の地に住んだとも言われています。不比等については今後ぜひ研究を進めたいと思います


歌姫街道から平城坂(ならさか)へ・・・磐之媛陵の堀側で


 磐之媛仁徳天皇の皇后(葛城地方の出)でありながら、記紀の上では大変嫉妬深い女性ととして書かれ、その嫉妬ゆえに、山城に天皇とわかれて住み、この地で亡くなられた為、この佐紀路にみささぎが在るようです。この地に磐之媛がとどまった理由を嫉妬の故でなく、この地区の安定のためと力説される識者もあります。
ともかくも、散策の後のビールと餃子は大変美味でした。ほ・・・

4月27日
 地方選挙第2段、京田辺市は市長と市議会議員の選挙です。この市の市議会議員の定数は21名、なんと立候補者は22名。この状況はどのように考えたらよいのでしょうか?
 「談合で1名が立候補辞退をし、無投票としたら無駄な労力と経費が大幅に節約になるのに。」なんて考えている人は私一人ではないでしょうね。民主主義とは大変無駄の多いシステムであることは確かです。それよりも、せっかくの選挙なんですから、もっと立候補者が出てくれない物かと思います。これも他人任せで、民主主義を理解していない者のたわごとなのです。
 選挙だけでも行こうかな!!
 トップページにマウスでポイントすると写真が入れ替わるJavaを挿入しました。これからも取り入れた行きたいと思います。お楽しみに。
4月9日:雨のち曇
 先週の土曜日4月5日は所要の為、大阪に出ました。途中、息子の車での出勤を利用し嫁さんを誘い、野崎観音をお参りする事にしました。
 野崎観音は人形浄瑠璃”お染久松”の”野崎村の段”で有名な場所で、以前から一度はと思っていた所です。桜は真っ盛りでしたが、雨がシトシトでちょっと残念でした。お寺の鐘を大きくひとつ叩きました。


野崎観音の境内です。
 その後、大阪城公園の桜を観賞する事が出来ました。
 既に、雨は小降りになっていましたが、風が出てきた為少々寒くなりましたが、桜見物の人々は結構な数となっていました。お城の周辺は整備が進み、綺麗になってきています。
 桜と共に”桃園”の桃の花が満開で、桜の花とはちょっと違った華やかな景色を満喫出来ました。


4月4日
 なんとか春向きのページを書き上げる事が出来ました。これからは、更に気候が良くなるわけで、より一層取材に出かけることができる訳です。花粉症がひどくならなければ、なんて言い訳ばかりですが。
4月2日
 桜の季節になっているのに、トンボの背景ではなんとも恥ずかしい事です。30日には、せっかく恭仁京と海住山寺に行って来たのですから、なんとか新しくしたくて、頑張っています。
 なお、家の君子蘭が咲きました。お見せします。

3月15日:雨
 気候がよくなると伴に、花粉症が激しくなっていきます。我家は全員が発症しており、嫁に行った娘なんかは2,3日前寝込んだようです。小生はの後半型らしく、現在は余り激しくはありませんが、5月の大型連休の頃に最も激しくなります。せっかくのシーズンが台無しです。
困った物です。
 そんな私ですが、天気さえよければデジカメをお供にでかけたい所ですが、残念ながらこの所土日は雨続きです。
3月8日
 先年、100円で買い求め、嫁はんが丹精してきた花が咲きました。花は、ザ・ツーパージンズでシンビジュームの一種です。花の数はすくないですが、それだけに余計に清楚さが感じられます。

3月2日
 いよいよ3月の声を聞きました。昨日は1日大荒れの天気でしたが、今日は一転気持良く晴れて3月中旬の陽気となりました。こんな日はこのページの為の取材の散策にでかけたい所ですが、出かけそびれてパソコンの前に座っています。先日、一休宗純についてチョットだけ触れていますが、内容的にはまったく不十分で本当はモットモット深い物があるはずです。
 世阿弥が作り上げた””(当時は猿樂・さるごう)の姿に影響を与え、村田珠光は一休の禅の姿に”茶の湯”(茶道)のその後の姿を見つけ出したとの想像がされています。
 応仁の乱に象徴される世の中で、純粋禅の境地を歩み、後世に大きな影響を与えたのが一休宗純であったようです。
 2003:2・15
昨年還暦を迎える事が出来ました。
 パソコン講座受講後、とりあえずアップロードしていた”南山城の歴史”がソネットの都合で昨年12月閉鎖になるとのことで、新たに”歴史散歩”を立ち上げました。
 内容は完全に自己満足のもので、デジカメを抱えながら、健康の為、おのれの興味を満たす為の散策ですが、さらに、自分の日記となり、また親しい人に近況をつたえる手段となれば最高と思っています。今は勤めを続けていますので取材とその整理にチョト時間がかかり思うようにページが伸びていません。完全に年金生活になれば、キット、モット,なんて思っていますが、キィット、ウソとなるでしょうね。そうならないよう祈るばかりです。
 今年の1月13日に再訪した一休寺の紹介文を作ろうと始めたところ、一休さんに興味がわき、一休さんの紹介文作りに時間を取られています。2003.2.15.
 先だって、作家の”半村 良”氏が亡くなられました。大変残念です。
 先週の土曜日、市の図書館で”獄門首”という氏の絶筆となる本を借りる事ができ、1日で読みきりました。主人公は最後には獄門となってこの世からおさらばするとのことですが、小説はそこまではかかれていません。道中師(旅をしながら強盗を働く者)の両親が伴に殺されてから寺に預けられ、人の人情に助けられながら、その才能のゆえに盗賊の頭となってゆく過程で小説は終わっています。
 ”半村 良”の名前は”イーデス ハンソン”から付けたのだと以前に聞いたことがあります。
大変ユーモアに富んでいますね。
 氏は伝奇小説の面白さと楽しさを教えてくれた人です。まず、”石の血脈(けちみゃく)”(吸血鬼伝説)”産霊山秘録(うづみやまひろく)”など、わくわくしながら読みきったものです。
遅ればせながら、氏の冥福をお祈りします。合掌。
トップへもどります。

ご感想は isacha@mbox.kyoto-inet.or.jp へ