| 崇神天皇山辺道匂岡上陵 (やまのべのみちまがりのおかのえのみささぎ) 景行天皇山辺道上陵 (やまのべのみちのえのみささぎ) |
| 山辺の道(南)の天理から桜井までの間は古墳の行列といった感じで続いています。大和王朝の支配した地域との明瞭なしるしなのでしょうか? 北から、塚穴古墳・西乗鞍古墳・東乗鞍古墳・継体天皇皇后手白香皇女衾田陵・黒塚古墳・崇神天皇陵・景行天皇陵・珠城山古墳・大市墓(通称、箸墓)その他ですが、この中で巨大な前方後円墳は崇神天皇陵(全長240m)・景行天皇陵(全長300m)・箸墓(272m)といえます。ヒミコの墓といわれる箸墓については別にページを設けました。 |
| 崇神天皇(10代) 崇神は10代目の天皇、記紀に豊富な伝承がみられます。開化天皇の第2皇子とされ、母は皇后の伊香色謎(いかがしこめ)命。孝元天皇の皇子大彦(おおびこ)の娘御間城姫(みまきひめ)を皇后とし、磯城瑞離宮(しきのみずがきのみや)を都としました。 崇神5年に疫病が流行したため、三輪山の神を祀った。「日本書紀」によると大田田根子に三輪の大物主を祭らせ長尾市に倭の大国魂神を祭らせたと記されていました。 崇神10年には四道将軍を各地に派遣したとされています。大和朝廷の版図が北陸、東海、吉備、丹波方面へ広がりつつある事を示しています。また神武天皇と同じ「ハツクニシラススメラミコト」(日本書紀・御肇国天皇、古事記・所知初国天皇)と称されているのは、その働きの重要性を示していると思われます。 |
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| 景行天皇(12代) 垂仁天皇の第3皇子で母は皇后の日葉洲媛(ひばすひめ・佐紀古墳群に彼女の陵がありました。)。即位して纒向日代宮を都としました。皇后播磨稲日大朗姫(はりまのいなびひのおおいらつめ)との間に、日本武尊を、後の皇后、八坂入媛との間に、成務天皇をもうけていますが、その他にも全部で80人の皇子女が在ったとされています。 日本武尊の活躍で知られるように、その版図は東は現在の関東地方、西は九州まで広まったようです。 |
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| 景行天皇日代宮碑あたりから大和盆地を背景にした景行天皇陵を望んでいます。 |
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