| 浄土真宗本山、仏光寺・興正寺 そして西本願寺 さらに東本願寺別邸渉成園-枳殻邸(きこくてい)-へ |
![]() 五条大橋西ずめの弁慶と牛和丸 |
| 6月13日、関西支部新人歓迎会へ参加する為、京都市内へ出ることなり、集合時間の午後2時を考え、午前中に以前より気になっていた、東西本願寺以外の二つの浄土真宗本山「仏光寺」と「興正寺」を訪ねてみることとしました。「仏光寺」は下京区高倉通仏光寺下ル新開町にあり、11時に京阪五条駅に到着、五条大橋を渡りました。五条大橋を渡ることはいままで無かったのかもしれません。橋を渡ると、弁慶と牛若丸の可愛い石像があり、始めて見るものでした。石造は新しいものなので、昔には渡ったことがあるとは思いますが? 高辻通を右に折れ、仏光寺境内へ入ります。さすが本山と思わせる立派な大師堂と阿弥陀堂が東向きに建っています。入場には前もって連絡が必要とのことのようですので、お堂の外からのお参りとなりました。 仏光寺 「仏光寺」とは、「京都発見9・比叡山と本願寺」」には以下のように記されています。 越後に流罪になった親鸞は、法然の帰洛が許された建暦元年(1211)の翌年8月に京都に一時帰り、興正寺という寺を山科に建てたと仏光寺、興正寺および高田専修寺関係の資料は伝える。興正寺は興隆正法という聖徳太子の思想から、その名をとったものとされる。・・・ この興正寺は第七代の了源上人の時に寺基を山科の地から東山の渋谷の地、現在の豊国神社あたりに移した。ところが、盗賊に盗まれた本尊の阿弥陀仏が光を放って、その光が宮中に達したので、後醍醐天皇から仏光寺の名を賜り、興正寺は仏光寺と名を改めたという。・・・ その後、蓮如の時代までは仏光寺は本願寺をしのぐ勢いでしたが、蓮如と同時代の仏光寺の門主経豪が蓮如のもとにはせ参じ寺を山科の本願寺のそばに建て、仏光寺の元の名前の興正寺を名乗りました。仏光寺は経豪に代わって弟経誉を門主としたとされています。 以下も「京都発見」からの抜粋です。 京都に東西本願寺以外に二つの浄土真宗の本山があるが、その名をいえといっても正しく答えることができる人は少ないであろう。まして、その寺がどういう寺であるかをし正確に認識している人は、より少なかろう。実は多少仏教について知っているとうぬぼれていた私も、この仏光寺と興正寺という寺について、いままではほとんど何も知らなかったといってよい。・・・・ 両寺には蓮如という偉大な宗教家の影がさしている。親鸞はもちろん偉大な思想家であり、偉大な宗教者であったが、親鸞の弟子は決して多くはなかった。親鸞の女系の曾孫覚如は親鸞の直系の人間が長となる本願寺教団の組織原理をつくったが、本願寺は人があまり集まらず、親鸞の廟を中心としたささやかな寺に過ぎなかった。この教団を一躍巨大な教団にしたのは蓮如といる布教の天才による。本願寺が大きくなったのは、他の宗派の寺院ばかりか、同じ親鸞の門弟に属する寺院を自派に引き入れたからである。その最たるものは、当時本願寺よりはるかに隆盛であった仏光寺に属する多くの寺院が本願寺教団に合流したことである。これは本願寺にとっては大いなる幸運であり、大いなる光であったが、仏光寺にとっては大いなる不幸であり、大いなる闇であった。この闇はいまもなお仏光寺ばかりか、興正寺も悩んでいるように思われる。 仏光寺、興正寺というけれど、仏光寺はかって興正寺といい、興正寺もまたかっては仏光寺といったといえば、事柄は一層ややこしくなる。・・・・・ 仏光寺の外塀を回り、西本願寺の隣にあるはずの興正寺へ向かいます。途中に「因幡堂」(福聚山平等寺という真言宗智山派のお寺)があるとのことで、寄ってお参りすることとしました。「京都発見・2 路地遊行 橘行平と因幡堂」に以下の記事を見つけたからです。 昔は、京の都の中に寺院を造ることは許されなかった。この禁が解けたのは、鎌倉時代になってからと言われているが、実は平安時代、既に都の真ん中にあり、庶民の崇拝を集めている小堂があった。それは六角堂と因幡堂である。 六角堂は聖徳太子の建立と伝えられ、親鸞もそこに籠って、本尊の如意輪観音が肉食妻帯に踏み切る夢告を受けたということでも有名な御堂である。六角堂はこのように由緒ある寺であるうえに華道の池坊と結びつき、今でもお参りが絶えない。一方の因幡堂は今はあまり知られていないが、かっての繁栄は、大変なものであった。六角堂も因幡堂も現在も寺とは呼ばずに堂と呼んでいるのは、昔日の禁忌が残っているからであろう。 |
![]() 興正寺御影堂 |
| 興正寺 堀川通りを南に歩き、広大な西本願寺を過ぎると門構えとしては引けをとらない興正寺の立派な門に出会えます。この”京都の旅”で興味深く京都のお寺を知ろうとする気持ちが起きる前は興正寺はてっきり西本願寺の一部と思い、別の立派な本山とは思ってもみませんでした。円頓山興正寺という真宗興正寺派の本山です。興正寺の由来については、仏光寺の項で触れていますので、ここでは触れません。秀吉時代、興正寺が西本願寺の脇門跡であった事、徳川時代の寺社制度により、末寺扱いされたことによる両寺の確執、明治時代になって独立教団となった経過については「京都発見・9・比叡山と本願寺 興正寺と本願寺の脇門跡」の項で詳しく解説しています。この項の最初の部分のみ以下に記してみます。 仏光寺の門主経豪が寺僧四十八坊のうち四十二坊を率いて本願寺の門下となり、興正寺という元の名の寺を建てたのは、歴史的決断であったが、この決断は必ずしもよき決断であったとはいえない。なぜなら仏光寺も本願寺も親鸞の教えを継ぐ浄土真宗の寺院であり、教義はさほど違っていないが、その教団設立の理念が大きく違っているからである。本願寺はあくまでも親鸞直径の子孫を門主とする原理をはっきり持っている教団である。しかも蓮如は5人の妻と27人の子女を持ち、その血縁によって大教団を維持しようとする本願寺の基本方針を固めた。ところが、仏光寺は親鸞の子孫ではなく、もともと親鸞の弟子、あるいは先代の弟子が門主となっていた。こういう一族の団結の固い本願寺教団に、異質の組織原理を持つ教団が加わり、うまくやっていくのは至難の業である。・・・ 興正寺と西本願寺の間の道を西に少し行くと、伏見城の遺構通称『日暮門』といわれる国宝の「唐門」があります。見事な彫刻で、日光東照宮の彫刻と規模は大きく異なりますが、同質な雰囲気を感じます。東・西本願寺については別のページを作りたいと思っています。 |
![]() 印月池を挟んで漱枕居が望めます。 |
| 午後2時、京都駅烏丸口東側に集合し、渉成園に向かいます。参加者はこの会の恒例になっているバラィテーに富んだ年回りの二十名弱です。10分程歩いて東本願寺別院「渉成園」に入ります。奉資金のお返しとして立派な庭園パンフレットを頂戴し、庭園内をゆっくりと観賞させていただきました。そのパンフレットによる解説を下記します。 渉成園(しょうせいえん) 渉成園は真宗本廟(東本願寺)の飛地境内地(別邸)です。1602(慶長7)年教如上人(東本願寺12代)が徳川家康から寺地を寄進され、東本願寺が成立しました。その後13代宣如上人が三代将軍徳川家光から東本願寺の東側の土地を寄進されました。宣如上人は1653(承応2)年に引退して自らの隠居所をそこに定め、中国の詩人、陶淵明『帰去来辞』の一節「園日渉而以成趣」(園、日に渉って以って趣を成す)から採って「渉成園」と名づけました。そして周囲に枳殻(からたち)を生垣として植えたことから枳殻邸(きこくてい)とも称されるようになったのです。・・・庭園はいわゆる「池泉回遊式庭園」であり、洛北詩仙堂を開いた石川丈山の作庭になると伝えます。・・・・ 「京都発見・9・比叡山と本願寺 東本願寺と渉成園の美学」からの抜粋です。 東本願寺が西本願寺とかなり違った美学を持っていたことは、東本願寺が誇る枳殻邸すなわち渉成園を、西本願寺の誇る飛雲閣などと比べてみればよく分かる。・・・山陽(頼山陽)は「蓋し始めこれを営むや、石川丈山翁と謀りてこれを成す者なり。名もまたその命ずるところなり」といい、この庭の製作に石川丈山が深くかかわり、渉成園という名も丈山の命名であったという。・・・石川丈山はいささか謎めいた人物である。・・・丈山は風流人であり、世捨て人のように見えるが、彼の大叔父は家康が最も信頼していたといわれる本多正信であり、その経歴から見ても単なる風流人、世捨て人とは思われない。彼は幕府の命を受けた隠密であったといわれる。このような隠者の風貌をした徳川家の無二の忠臣である丈山は、朝廷の動向を探り、事あれば江戸幕府に報告する密偵の役割をしていたかもしれない。 この丈山は渉成園ばかりか、渉成園のすべての建物や庭園の名付け親であったことは甚だ興味深い。そこには印月池(いんげつち)、双梅檐(そうばいえん)、五松塢(ごしょうう)、紫藤岸(しとうがん)、丹楓渓(たんふうけい)、漱枕居(そうちんきょ)、縮遠亭(しゅくえんてい)、侵雪橋(しんせつきょう)、回棹廊(かいとうろう)、臥龍堂(がりゅうどう)、傍花閣(ぼうかかく)、滴翠軒(てきすいけん)、偶仙楼(ぐうせんろう)などと名付けられた池や建物があったが、その名には丈山の中国趣味が如実に現れている。・・・また、この時代の東本願寺に大きな影響力を持った人に公海大僧正がいる。・・・・東本願寺は幕府の意向のもとに造られた寺であるという性格を多分に持っていた。そして、その美学は王朝風の大和調の美学ではなく、江戸幕府の採用する朱子学の線に沿った武家風中国調の美学であったといえよう。・・・ 説明はパンフレットによります。 1) 侵雪橋 印月池の西北岸から縮遠亭のある島へ渡る木造の反橋(そりばし)です。頼山陽は、『渉成園記』のなかで雪の積もった橋のありさまを玉龍にたとえて表現しています。 2) 漱枕居 印月池の南西に位置し、水上にのりだすように建てられています。・・・「漱枕居」のなは、旅路にあることを意味する「漱流枕石(そうりゅうちんせき)」の語から採られています。・・・ 3) 回棹廊 北大島と丹楓渓(たんぷうけい)を結ぶ木橋です。・・・ 4) 傍花閣 園林堂(持仏堂)の東方、山門にあたる位置に建てられています。庭園内には珍しい楼門作りで、左右側面に山廊と呼ばれる階段の入口があり、階上には四畳半の部屋を設けています。 5) ろう風亭から東山阿弥陀ヶ峰を借景とした園池の風景です。阿弥陀ヶ峰の山頂には豊臣秀吉が葬られており、その山麓には秀吉を祀る豊国社(豊国神社)が建てられました。 6) ろう風亭 殿舎の南端にある大広間。軒を深く差し出し、規模の大きな建物ながら、穏やかな姿を見せています。 |
| 渉成園を出て、タクシーで西へ、島原へ案内してもらいました。「島原」はJR丹波口近くの西新屋敷にあり、かっては祇園より格式の高い花街であったようです。「島原」の名は東本願寺の北側”三筋町”からこの地(朱雀野)に移された際の移転騒動があまりにも急であったため、その直前の「島原の乱」になぞらえて「島原」となったことからきているとのことです。 島原の大門(おおもん)の前で車を降り、輪違屋、角屋など幕末の動乱期の舞台ともなった場所を訪れ、近くのギャラリーをしている町屋で一休みし、リーガロイヤルの新人歓迎会場へ向かいました。 輪違屋は元禄元年(1688年)に創業された店で、現在の建物は1871年に改築され現在の姿になっています。京都市の文化財に指定されています。また、揚屋と置屋を兼ねた現役のお店で、日本で唯一「太夫」が居る所とのことです。 |
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