0037都々一坊扇歌

都々一坊扇歌は、常陸太田市の磯部の出身で、江戸に出て都々逸節や謎解きを演じた著名な寄席芸人です。

 医師・岡玄作を父に、文化元年(一八〇四) に生まれました。幼少

時に天然痘にかかり失明寸前となり、俗にいう「ショボショボ目」 の

まま成長しました。歌好きで早くから俗曲を覚え、常陸・磐城・下野な

どを流浪し、江戸へ出て音曲噺で人気のあった船遊亭扇橋の弟子となり

ました。

 芸達者で当意即妙、都々逸節を編み出してからは一世を風摩します。

 扇歌が居候をしていた叔父の家から流浪の旅に出るとき、こんなやり

取りがありました。

「叔父さん、私ゃ江戸へ出て、日本一の芸人になります」

「おまえのようなヤブ医者のせがれが、なれるもんか」

 そう言われた扇歌は、やおら三味線を取り出して唄い始めました。

 [親がヤブなら 私もやぶよ やぶに鴛 鳴くわいな]

 その流れるような歌声を聴いた叔父は、一両二分の路銀を渡して、扇歌を送り出したのでした。

 関東一円、奥州路などをさ迷いながら、扇歌はいくつもの歌を生み出します。

 [白鷺が小首かしげて 二の足ふんで やつれ姿の 水鏡]

 [たんと売れても 売れない日でも 同じ機嫌の 風車]

 [諦めましたよ どう諦めた 諦めきれぬと 諦めた]

 [磯部田圃の ばらばら松は 風 もないのに 気がもめる]

 江戸の町で大評判となった扇歌は、お客から題をもらって三味線ではやしながら「なんじゃいな」を三回繰り返すうちに、難題を歌で解いていきました。

 あるお客が 「都々一坊の大馬鹿野郎」とかけたときは、「唐の火事と解くわいな」 と答えました。その心は、「か(駈)けた方が、よっぽど馬鹿ではないかいな」と締めて客から一本取ったのでした。
 それならば、と客はさらに続け、「寒中の雪だるまならとけるまい」と頑張りました。

 すると、都々一坊は、「寒が明い(考え)たら、解けるじゃないかいな」と即座に答えてへこましました。

                        やゆ
 当代一流の人気を博した扇歌は、次第に時の幕府を椰揄するようになりました。

 [上は金 下は杭なし 吾妻橋]

 [菊は栄えて 葵は枯れる 西に くつわの 音がする]

 最初の歌は、大名たちが金に飽かせて贅沢三味で、下々の庶民は食うこともできないさまを、吾妻橋に風刺して訴えたものです。

 二番目の中で詠まれた菊は皇室で、葵は徳川幕府だといいます。西の京都には、維新の夜明けが感じられると、江戸の人々に希望の光を投げかけたのでした。

 これらがもとで幕府の怒りを買い、とうとう扇歌は江戸払いとなってしまいました。

 その後、流れ流れて姉のいる府中(石岡) に身を寄せます。そこは香丸町の大きな旅籠屋で、養子となって暮らしているうちに、風邪をこじらせて病の床に臥してしまいました。嘉永510月、扇歌はついに永遠に帰らぬ旅に出ました。享年51歳、「都々一坊賢叟清信士」と法名のついた扇歌は、国分寺の墓地に埋葬されました。


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