039俚謡は心意気 |
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都々一坊扇歌の死後も、都々逸の隆盛は続きました。幕末から明治の初期にかけて、都々逸は花柳界の座敷唄と寄席高座の俗曲に深く根を下ろしました。 [つねりゃ紫 食いつきゃ紅よ色で固めた このからだ] [浮いた同士と 言わるる筈よ涼み舟から 出来た仲] そんな色恋の歌が増え、都々逸の印象は次第に下卑て卑猥なものとなっていきました。 明治37年11月の末、日刊紙『萬朝報』に「正調の俚謡を募る」という歴史的な一文が掲載されました。文学者でありジャーナリストである黒岩涙香が、都々逸の堕落を憤り「俚謡」と名を改めて作品を募集したのです。涙香の主張する「俚謡正調」とは、「天地の美を詠じ、人情の妙を謳ひ、聞くものをして一唱三嘆せしむる」格調高い都々逸を目指していました。 [潮来出島の 真菰の中で あやめ咲くとは しおらしや] [咲いた桜に なぜ駒つなぐ 駒が勇めば 花が散る] このような俚謡を手本に、涙香はさらに手引きの歌を掲げました。 [和歌はみやびよ 俳句は味よ わけて俚謡は 心意気] [歌は皆まで 云はぬが花よ 絵でもぼかさにゃ 絵にならぬ] [言葉やさしく 姿ははでに かくな心を 丸くよめ] こうして、俚謡は、創作文芸としての道を歩み始めました。『萬朝報』ばかりでなく、『都新聞』をはじめとする新聞・雑誌などに、次々に俚謡の欄が誕生しました。明治の末から昭和初期にかけて、俄然活気を帯びてきたのです。
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