0042水運の話 |
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江戸時代、米俵を運ぶには馬や船を使いました。馬の場合、1頭に付けられるのは2俵で、これを1駄といいました。馬1頭に馬子一人、これに払う運賃を駄賃と呼びました。一方、船で運ぶ場合、船1艘に船頭一人で米俵は何十俵も積めました。 陸路だと人間と馬で2俵なのに、水運を使うと一人で100俵近くも運べます。したがって、運賃は船のほうが格段に安かったのです。このため、江戸時代の水運は物を運ぶため主流となり、海運とともに大河から小さな川に至るまでが水運の道となりました。 当時の運賃を比較してみましょう。 ・米1石を運ぶ場合の標準的運賃 海運 70里銀1匁6分 川運 10里銀1匁5分 駄賃 5里 銀3匁3分 この数字からわかるように、陸路は船の5倍から数十倍も運賃がかかります。米やマキや農産物など大量の物資は、船に積まれるようになります。 江戸という大都市に物を運ぶために、利根川をはじめとする関東の大小の河川は、当然のように水運路となりました。 霞ケ浦も同様に主要な水運の道となり、沿岸にいくつもの港が開け、湖面には何百艘という川船が往来しました。 当時の船種と輸送量を見てみましょう。 高瀬船霞ケ浦 900?1200俵 中利根川 300?550俵 鬼怒川 250?500俵 那珂川 500?600俵 平田船 300?500俵 茶船 60?100俵 川下小船 25俵 最大級のものは霞ケ浦・北浦の高瀬船で、船頭と水主6?7人がこれに乗り、霞ケ浦から利根川下流を行き来しました。風のあるときは帆をかけて走り、それ以外のときは櫓を漕ぎました。 筑波山麓の木材や桜川流域の米、土浦の醤油、石岡の清酒、そのほか流域の村々の様々な農産物が高瀬船で江戸へ送られました。霞ケ浦の湖面に白い帆をあげて進む高瀬船は、佐原を経て利根川に入ります。ここから関宿まで利根川を上り、江戸川を下って松戸?行徳と進み江戸の河岸へ向かうのです。 江戸からの帰り荷には、日用雑貨や衣料、麻、煙草、塩、砂糖、干鰯など、あらゆる生活用品が積み込まれました。 霞ケ浦の水運は、江戸と農村とを相互に結ぶ太い幹線でした。そのような中で、商品流通の重要な役割を担う河岸は、湖岸の各地で大いに繁栄したのです。
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