0043高浜の河岸(かし)

河岸とは、川の港の呼び名です。

これは単に荷を扱う船着場をいうのではなく、河岸問屋などを含めたその地域全体を表しています。幕末の霞ケ浦で高浜や土浦、柏崎、小川、今宿(麻生)、鉾田、江川、都賀、居合、大船津などが河岸の代表格でした。

 これらの河岸は、幕府がその距離と運賃を調査する「河岸吟味」 の対象となりました。

 文政期の江戸には200カ所近い河岸があったことが知られていますが、利根川水系にも300余の河岸がありました。霞ケ浦の河岸はその中でも数が多く、物流とともに人や文化の往来が盛んでした。河岸は沿岸の町や村にとって、都市からの文物が上陸してくる窓口であり、人々の」交流が生まれる重要な生活の場でした。

 水運のまち高浜はどうだったでしょう。

 高浜のほぼ中央部、愛郷橋にほど近いところに、ワラ葺き屋根の高浜神社があります。その拝殿の中には、奉納された数枚の絵馬が飾られています。

 その中で、一風変わった大絵馬が目につきます。慶応4年(一八六八)3月吉日といいますから、今から140年前のこと。旧暦の3月は、今でいう4月ごろの季節です。

 その当時の高浜港の春を描いたもので、筑波山を背景に、霞ケ浦を往来する廻船と高浜の姿が情緒豊かに表現されています。満開の桜と、あちこちに点在する大きな土蔵。高浜河岸で荷の積み降しをする人々の姿。まさに繁盛を極めた高浜河岸の情景が、生き生きと映しだされています。

 この大絵馬が掛かる高浜神社は、千年以上も苗、常陸国に赴任した国司が一の宮・鹿島神宮に向かって礼拝した由緒ある場所です。

 高浜は、常陸国風土記に 「春の桜の時、秋の紅葉の折り、遊士は馬車を用意し、または舟の支度をさせて遊覧する。若い男女は砂浜に集い商人も農夫も舟に乗って往来する」とあるように、古代から風光明媚の土地として親しまれていました。

 樹齢数百年という巨木に囲まれた高浜神社の境内は、今もその歴史の面影を残しています。その周囲には、親鸞聖人が鹿島詣の際に立ち寄ったという爪書き阿弥陀堂や金刀比羅神社、観音堂などがあります。

 湖岸に面した集落には、今なお多くの蔵が立ち並び、水運華やかなりし頃の面影を残しています。


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