0046霞ケ浦四十八津 |
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コイヘルペスウイルスが広がりコイ養殖業が閉鎖に追い込まれた霞ケ浦ですが、数百年前から霞ケ浦で漁業を営み、魚類、特にコイを保護してきた組織がありました。 「霞ケ浦四十八津」 がそれで、江戸時代以前から続く漁民による自治的な連合組織でした。 江戸時代の初め、下玉里村の土豪が前面の高浜入を水戸藩が占用する 「御留川(おとめがわ)」にすることを申し入れました。湖の漁業権を主張する四十八津は反対しましたが、幕府の裁決によって御留川は決定しました。 水戸藩は、高浜入の両岸に領地があったため専用の漁場をもつことができました。 水戸藩は初代の頼房の時代でしたが、初めて霞ケ浦という豊かな漁場を手に入れ、早速50人の引子が引く大綱を用いて、一度に大量の魚を獲りました。 寛永2年から網を引いたところ大漁が続き、11年間で2000両の収益が上がりました。 霞ケ浦四十八津は、御留川を除いた湖面で漁をするようになりました。その際、八力条を設け、地域の自治に努めました。あぐり網など大漁に捕獲できる魚具の使用禁止、それを破った者に対する制裁のほか、コイ漁の時期を定め、毎年10月20日に四十八津すべての代表が寄り合い会議を開きました。もし会合に出席しなければ、その村には末代まで漁をさせないという厳しい掟もありました。 八力条は乱獲の禁止を強く訴えるもので、これによって魚の保護が図られ、多くの漁民が長く生業を営むことができる定めでした。四十八津は幕末維新期まで続きました。 今、玉里の総合文化センターの高台に立つと、当時の御留川だった霞ケ浦の湖面が優美な輝きをみせて水をたたえています。
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