バーベンベルク家の人々と音楽@(13世紀までのウィーンの歴史)
藤原 怜子
はじめに
ウィーンは13世紀後半(1273年ルードルフ1世即位)から第一次世界大戦が終了する1918年までの約700年間、もっぱらハプスブルク王家によって支配され、彼らにまつわる華麗なエピソードの数々によってその歴史は彩られてきた。近年、特にエリーザベト皇妃に関する著作なども含め、その間の政冶や文化についての活発な研究が繰り広げられ、ほぼ語り尽くされた感がある。また種々の舞台芸術や映像作品の題材としてもフィクションを交えつつ多彩な取り上げられ方をしている。しかし、それ以前のオーストリア史,ウィーン文化史については殆ど注目されることはなく、今なお深い闇に閉ざされたままである。
そこでまず、13世紀にハプスブルク家が登場し、その権勢を確立するまで、この国,この地方の統治に当たっていたのは誰か、国として形成される過程で一体どのような民族が関わっていたのか、その複雑に混交する系譜を眺めてみることにしよう。つまり,明確には掴みきれない多文化の融合地としてのウィーンの魅力、またそれ故に実態の捉えにくいウィーン文化のルーツ、その血筋について考察するためである。
次いで、後に音楽の都といわれるようになったウィーンの音楽社会は、どのような人々によって築かれたのか、ドイツ音楽とは本質的に異なる、複雑で微妙に民俗色の濃いウィーン独特の響きはどのようにして創られたのか。また、中世のオーストリア人が宮廷で、あるいは市井で耳にした音や音楽はどのような音風景として捉えられるのか、文化の総体としてのサウンドスケープを歴史の中に捉える試みは果たして可能か・・・等々、今まで触れられる事のなかった側面から、この時代の音楽文化史を紐解いてみたい。
1.ハプスブルク家以前のオーストリア
このオーストリアの地には既に紀元前からケルト人とローマ人が住んでおり、その後4世紀から6世紀の民族の大移動によって、ゲルマン族やスラヴ族が移住してきた、というような一般常識は決して間違ってはいない。が,ことはそのように単純ではない。とくに東部オーストリアは、先史時代以来、ヨーロッパにおける南北の交通の要所として、さらにヨーロッパとアジアを結ぶ東西の交通における要地として数々の政冶的出来事の舞台となっており、また古くから、塩、銅、鉄、金などの地下資源が多くの種族を誘引したところであったために、絶えず外圧に晒され、外からの勢力に影響され続けたのである。このような点からウィーンが辿った細かな歴史的事実を拾ってみれば、ここに登場した民族の往来の軌跡がみえてくるだろう。
ヴィンドミーナのケルト人
紀元前2000年といえばヨーロッパは新石器時代に当たるが、ウィーンの元となる集落はこの頃に発生したとされる。東西南北の交通の要所として栄えたこの集落は、続く青銅器時代にはかなり大きなものになった。次の鉄器時代のハルシュタット文化期(前1000〜500年)には南方系のイリリア人が住んでいたが、音楽的にはこの時代にシュリンクス(パンパイプ)やリラといった、古代ギリシャで有名な楽器が用いられていたことも分かっている。また19世紀の中頃にこの地で塩山監督官をしていたヨハン・ラムサウアーが発掘した莫大な数の墓とその副葬品は1万9千点余りに及び、「未知の古代文化の遺産」として注目されたが,後の研究によってハルシュタット文化の存在を明らかにする貴重な資料となった。因みにハルシュタットはウィーンとザルツブルクの丁度中間辺りに位置するので極く狭い意味での東方領域の文化論となると、少し地理的なずれがある。
続くラ・テーヌ期にも相変わらずケルト人が多数この地に住み着いたが、岩塩を採掘する事によって富み栄えたおかげで,ここに一大ケルト文化が花開いたのである。ケルト人はこの地を、「白い河」を意味するヴィンドミーナ、もしくは「白い岩」を意味するヴィンドボーナと呼ぶようになったが、これが後のウィーンの語源となったことは想像に難くない。
このように塩は人間が生きてゆくために絶対に必要なものだが、特に肉や野菜を長期に保存するために、多量に必要であった。そのため塩は常に需要の多い交易品であり,「白い黄金」とも呼ばれた。中世の君主たちは金山,銀山,銅山などと同様に,岩塩を産する塩山を獲得しようと躍起になり,しばしば武力に訴えて争奪戦を演じた。塩山は君主にとって確実で豊富な収入源になったのである。
ローマの支配
紀元前15年から14年に、ローマの将軍ティベリウスとドルススがアルプスを越えてドナウ川南の土地を征服し、ここにレティア、ノリクム、パンノニアというの三つの州がつくられた。ウィーンはこのパンノニアの中心都市として栄え、ローマ人たちはこの交通の要地に他民族の侵攻から守るための軍隊を駐屯させたのである。
ローマ人は,ゲルマン族の侵入を防ぐため,ライン川とドナウ川の間に,西は今のボンのちょっと南からマイン川を越えて遥か東南方のドナウ河畔,今のレ―ゲンスブルクにいたるローマ版「万里の長城」を築いている。監視搭1000以上,兵士が駐屯する城砦も100を超えるという大掛かりなものだが、大部分は土豪・土塁に木柵で,中国の長城ほど立派なものではなかったので、ゲルマン人が入り込むのを停めることはできなかった。尤もゲルマン人はローマ人と戦ってばかりいたのではなく,兵士になったり,農民になったり,また琥珀や毛皮を持ってきてローマ人と交易もした。いわば「平和共存」した部分も見逃せない。なお,マイン河畔のフランクフルトの北西,タウヌス山中ザールブルクというところに、この長城リーメスと監視塔,城砦などを復元したものがあって、ちょっとした観光名所になっている。
このリーメスの城砦の他にも,ローマ人はライン川やドナウ川に沿って多数の城砦や城砦的都市を建設した。ライン川(ローマ名レーヌス)でいえばケルン、ボン、コブレンツ、マインツ、シュトラースブルクなど,ドナウ川ではレーゲンスブルクやパッサウ,そしてここで述べてきたウィーンも,ローマ起原の都市の一つであり、各所に古い遺跡の断片や地名の名残がみえる。その頃の史料は市の歴史博物館で見る事ができる。
さて、このようにして東部オーストリアにおけるローマ人の支配が紀元後5世紀半ばまで続いたものの、やがてローマ帝国支配の弱体化が始まると、東方から様々な民族が帝国領を侵すようになる。そして、フン族の到来とともに民族移動の波は一気にローマ帝国領一帯を飲み込んでいったのである。
ゲルマン族の移住
このような状況下でゲルマン族の移住はさらに増大をし続け、中でも、東方からきたバユヴァーレ族(Bajuwarenすなわちバイエルン族)がこの地に多く住み着くようになった。またこれより遅れて東方の地域には、北方からゲルマンの一族であるランゴバルド族(Langobarden)も移住してくる。しかしこのランゴバルド族は6世紀後半にはアルプスを越えてイタリアに南下し(ロンバルディアの地名の起こり)、それに代わってアジア人であるアヴァール人(Avaren東方のタタール系)が勢力を獲得した。さらにその支配下にあったスラヴ系のスロヴェン族がアルプス山麓地方を占拠する。
ところが5世紀から8世紀にかけて徐々に、バユヴァーレ族が勢力を巻き返していき、ウィーンは再びその支配下に収まる。つまり、ウィーン地方の住民はゲルマン系ことにバユヴァーレ人の血を基にしながらも、東方や北方の民族の異なる血が強く混入している事情を知ることができる。さらには、5世紀半ばに今日の北フランス地方に、ゲルマン民族に属するフランク族が国を建て、8世紀半ばには王国として勢力を増し、バユヴァーレ族をその支配下に置いた。そのために、すでにバユヴァ―レ族の支配下にあったウィーンでも当然フランク族の勢力は増大し、ついにこの東部オーストリア地域に対しフランク王国のカール大帝(742−814)がマルク(辺境区)の設定を命じることとなる。なお、ちょうどこの頃に、ヴィンドミーナまたはヴィンドボーナと呼ばれていた地名は、簡略化されてヴェニア(Wenia)となり今日のWien(Vienna)の原型として定着した。
さてウィーンはローマ帝国の衰亡と民族大移動の戦乱の中で、城砦も、その周りの町も、繰り返して略奪破壊され、一旦は人の住まぬ廃墟と化した。しかし、戦乱が一応鎮まると少数ながらまた人々が戻ってきて、ローマ人がいなくなって無人になった城塞の跡に、それも城塞のドナウ川寄りの隅っこに寄り集まって住み始めた。住民の主力はドナウ川による交易を営む商人であったが、上記のごとくフランク王朝が入り込み、町として少しずつ成長をし続け安定し始めると、740年頃、この地にウィーン最古の教会といわれる聖ループレヒト教会が建てられ、ローマ人によって植え付けられたキリスト教の伝統は、フランク王国の力によって一層強固なものとなり、ようやく根付いたといえる。
やがて町は次第に発展して南西方向に延び、8世紀末頃にはウィーンで2番目に古い聖ペータ―教会が造られ、9世紀頃にはローマ時代の城壁の残骸を半ば利用して町を囲む城壁が築かれた。そうして遠近から集まってくる商人のための市を開く場所として大きな広場が設けられたが、これが現存するホーアー・マルクト広場の起原となった。
2、バーベンベルク家オーストリアの誕生
神聖ローマ帝国とオストマルク
ゲルマン族に属する東フランク王国のオットー1世が962年に教皇から帝冠を受けて神聖ローマ帝国皇帝となり、やがてザクセン、フランケン、ロートリンゲン、シュヴァーベン、バイエルンなど今日のドイツの大部分とフランスの一部に属する諸地方を包括する大国へと押し上げていった。
9世紀から10世紀にかけて、オーストリアなどの南ドイツはアジア系遊牧民のマジャール人(Magyarenアジアに起原をもつ)との戦いで荒廃し、955年のレヒフェルトの戦いで最終的にマジャール人がカルパチア方面(ハンガリー)へ駆逐されると、神聖ローマ皇帝は南ドイツの復興に着手する。まず、バイエルン公国から“東方マルク(オーストリア)”を分離して辺境伯(Markgraf)を設け、これをシュヴァーベン公の一族であるバーベンベルク家(Babenberger)に与えることにした。
つまり、この頃のオーストリアは、神聖ローマ帝国に属するバイエルン公国の一部に過ぎなかったが、神聖ローマ帝国の東の防壁として重要視されるようになると、皇帝オットー2世(ザクセン朝)はドナウ川流域のマルク(辺境支配域)を統率するため、976年、この地方を統括していたバーベンベルク家のレオポルト1世(リウトポルト。在位:976〜994)を辺境伯に任じたのである。同じ年に、ケルンテンもバイエルンから分離されてこちらは大公領となり、アルヌルフィング家に与えられている。バーベンベルク家のマルクは、現オーストリアの上エスターライヒを主としたもので、中心地はメルクであった。ウィーンを含む下エスターライヒは、このころはまだハンガリーとの係争関係にあったために、再征服戦争によって下エスターライヒがバーベンベルク家領になるのは11世紀のことである。なお、初期バーベンベルク家の中心地メルクは美しい大修道院のあるところとして有名だが、バーベンベルク家初期5代の君主の墓はこの地にある。尚、今の壮麗なバロック様式の修道院は後に建て直されたものであるが、博物館、図書館には当時の貴重な史料が多数収められている。
3.発展期のバーベンベルク家
その後順調に領土を拡大し、国家の体裁を整えていったバーベンベルク家は、対ハンガリーの最前線という地域事情もあって徐々に神聖ローマ帝国内の有力諸侯と目されるようになっていく。そうした中で起こった聖職叙任権闘争において、第4代辺境伯エルンスト(在位:1055〜75)は皇帝ハインリヒ4世(ザリエル=フランケン朝)を支持していたが、その子レオポルト2世(在位:1075〜95)は一時的に教皇支持に回ったため、怒った皇帝はボヘミア大公ヴラチスラフ2世(プシェミスル家)にオーストリアを与えると宣言してしまう。このためボヘミアとオーストリアとの間に当然のように戦闘が起こった。この一連の戦いでバーベンベルク家は一部の領土を失うことになったが、マルク自体の保持には辛うじて成功した。
レオポルト2世の子レオポルト3世(在位:1095―1136)は、オーストリアにおけるキリスト教の布教に尽力した人物で、1135年シトー派修道院設立など教会を優遇した。また、皇帝ハインリヒ5世(ザリエル=フランケン朝)の妹と結婚して家の権威を高め、これが縁で、ザリエル=フランケン朝が断絶した時に新ドイツ王・皇帝の候補にも挙げられている。彼の死後その墓所は崇拝の対象となり、1485年に聖人に列せられた。1101年頃にはウィーンを獲得して近郊の丘に館を築いているが、その丘はレオポルツベルクと呼ばれ、彼の名を今に留めている。
1183年に皇帝に即位したコンラート3世(ホーエンシュタウフェン朝)は、対立するヴェルフェン家のハインリヒ10世尊大公からバイエルンを没収し、辺境伯レオポルト4世(在位:1136―41)に授封するとした。これを機にバーベンベルク家はオーストリアとバイエルンを合わせた大国家の建設をもくろんだのだが、コンラート3世を継いだフリードリヒ1世バルバロッサ赤髭王(ホーエンシュタウフェン朝)がヴェルフェン家と和解して再びバイエルンを与えたために、ヴェルフェン家との激しい戦争に発展することになった。1156年、レーゲンスブルクにおいて調停が行われ、バーベンベルク家はバイエルンを放棄する代わりに大公位を獲得する。また、ハインリヒ2世ヤゾミールゴット(在位:1141−77)は皇帝から『小特許状』を与えられるが、この中ではオーストリア大公の地位がハインリヒ2世の子孫にのみ与えられることや、領内における裁判には大公の承認が必要となる等々が定められおり、バーベンベルク家の地位は飛躍的に発展する。また、バイエルンを放棄したことによって独立公領(Herzogtum)となったオーストリア(オスタリヒOstarrichi東方の王国)の重心は結局東方へと移り、新たな中心地としていよいよウィーンが浮上することになる。
ハインリヒ2世を継いだレオポルト5世(在位:1177−94)は、シュタイヤマルクのオタカール家が断絶したのを機に、これを併合する。また、第3回十字軍に参加し、アッコンの街を占領するという赫々たる戦果をあげた。このとき、レオポルトの上着がベルト部分を残して真っ赤に染まったという故事から「赤・白・赤」のオーストリア国旗ができたという。また、この十字軍においてレオポルトは英王リチャード1世(獅子心王)と不和になり、のちに帰国途中のリチャードをウィーンで捕らえてデュルンシュタインの城に幽閉し、身代金をせしめるという事件を起こしている。
4.最盛期のバーベンベルク家
「栄光公」と呼ばれたレオポルト6世(在位:1198−1230)の時代、バーベンベルク家オーストリアは最盛期を迎える。その治世32年間、オーストリアでは目立った戦争が起こらず、経済・文化の面が飛躍的に発展する。ウィーンはドナウ川を使ったハンガリー貿易の拠点となり、フランドルから呼び寄せられた職人による繊維工業が新たな産業として誕生した。ウィーンはまた東方における文芸の中心ともなり、後述するようにヴァルターやタンホイザー、ウルリヒなど当時の著名な文化人が続々とウィーンを訪れている。これらミンネゼンガー達が、当時のウィーン音楽文化史に貴重な足跡を残した人物たちである。
国が発展する一方で、その内部ではミニステリアーレン貴族や教会都市が力をつけ、大公からの自立をはかっていた。もともとオーストリアには、バーベンベルク家が入った当時から旧来のフランク系貴族がおり、君主権の絶対化を妨げる要因となっていた。また教会はイムニテート(世俗君主への負担などを逃れる特権)を獲得して君主権の及ばない地域を形成していた。
バーベンベルク家の版図はもともとは今日のオーストリア西部の一地方にすぎなかったが、巧みな政策によってこれを拡大し、居城を次第に東に移し、1156年ハインリヒ2世が辺境伯から公爵に昇格した時、ウィーンに移ったのである。こうしてウィーンは13世紀に入ってようやく第一次黄金時代を迎える。それはまさにのちの第二次黄金時代(バロック後期)にも比すべき繁栄を見たのである。金銀、塩の生産が上昇し、修道院も増え、文化も向上した。歴代のバーベンベルク公はドイツ皇帝と協力する政策をとり、ドイツ諸国もまたバーベンベルク家を東方の守護者として重んじたため、1230年には、皇帝と教皇の間に起こった争いを調停し、和解させる役を演じたほどである。
5.バーベンベルク家の衰退
1230年に即位したフリードリヒ2世(闘争公、好戦公。在位:1230−46)は、即位直後に起こった諸侯・貴族の反乱は抑えたものの、ドイツ東部への勢力拡大を図る神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(ホーエンシュタウフェン朝)と対立。結局1235年には帝国追放を宣言され、一時オーストリアはホーエンシュタウフェン家の勢力下に入る。その後、皇帝が協調路線に転じてオーストリアを取り戻したものの、1246年6月、ハンガリーすなわちマジャール人との戦闘で大公は戦死する。男性の相続者がいなかったため,オーストリアの政権は極度の混乱状態に陥った。偽の遺書が作られたり,隣接諸国の君主が統治権を得ようとして争ったりしたので,一旦オーストリアはドイツ皇帝の治下に置かれることとなったのである。闘争公の死は,オーストリアが公国から王国へと昇格される直前であっただけに,この国の支配権は争いのもととなった。
この空位時代はハプスブルク家のオーストリア支配が始まる1282年まで36年間も続くのである。この間,君主権を得ようと激しく争ったのはハンガリー(マジャール)とボヘミア(ベーメン)であった。
かねてよりオーストリアを狙っていたボヘミア王オットカル2世(プシュミスル家)は、1251年にオーストリア貴族から大公に選ばれると、フリードリヒ2世の姉ゲイトルートと形ばかりの結婚を成立させて、バーベンベルク家の相続権を得る。そして、これに介入してきたハンガリー王ベーラ4世と協定を結んでバーベンベルク家領を分割。上下エスターライヒはオットカル、シュタイヤマルクはベーラのものとなった。この後、オットカルはハンガリーからシュタイヤマルクを再び奪取し、さらにケルンテンやクラインをも得てボヘミアからアドリア海にいたる大国を形成していくのだが、オットカルの勢いに恐れを抱いたドイツ諸侯は、ドイツ王にハプスブルク家のルードルフ伯を選出したのである。、まもなくルードルフはオットカルのオーストリア領有を不当とみなして帝国追放を宣言し、交戦状態に入った。1276年,ウィーン近郊のマイヒフェルトの戦いにおいてオットカル軍は大敗し、オーストリアの諸地方もルードルフに荷担したので、オットカルは早々と休戦を提言した。その講和を続けさせるためもあってか,二組の同時結婚式が行われた。ルードルフの息子で父と同名のルードルフはオットカルの娘アグネスと結婚し、オットカルの息子ヴェンツェルはルードルフの娘グータと結婚したのである。これによってオットカルはかろうじてベーメンとメーレンの王にとどまることができた。
一方、ハプスブルク家はスイスのアールガウ地方(スイス北西部)から出た貴族の家柄であり(ラインの小支流アーレ河畔に今でもハプスブルク家の城「ハビヒツブルク」城が残っている)、ホーエンシュタウフェン家の皇帝に忠誠を尽くし,アールガウを拠点にスイスに勢力を広げた他,ドイツ方面ではライン上流のプライスガウ(「黒い森」南部とライン上流の間)からライン左岸のアルザスに領地を獲得していたが,ルードルフが皇帝に選ばれたのは,実力によるというよりは前述のような諸侯の意向によるところが大きかったため、諸侯の中には皇帝としてのルードルフの命令に従わない者もいたのである。しかし、1273年にルードルフ1世がドイツ国王の位についてから、約700年にわたってハプスブルク家はヨーロッパに大きな影響力を与え続ける比類のない王朝となったのである。
さて、このようにしてバーベンベルク家は、ハプスブルク家にオーストリアを完全に譲り渡したのであるが、バーベンベルク家が行った施政上のいろいろな特徴は、後のハプスブルク家に多くの点でそのまま踏襲されることとなる。
6、バーベンベルク家の施政と文化政策
バーベンベルク家が行った施政の特性は、次のようなものであり、その多くはハプスブルク家に受け継がれ、のちのちウィーンという都市の文化を稀有なものとすることに繋がっていく。
第一はこの国がゲルマン民族を主とする独立国となって、その一帯の文化圏を代表する輝かしい一地方となったことである。ヨーロッパの東南の端にあり、マジャール、アヴァール、スラヴ、ラテン系など諸民族が混在したが、これによりバイエルン人を主体とする独特のゲルマン文化が形成されたのである。歌舞音曲の好きなこと、王室に忠順なこと、商売嫌いなこと、信仰にやかましいことを、バイエルン人の性格とすると、南ドイツや周辺地域の多様な民謡や民俗舞踊がここに集結し、豊かで複雑な音楽が栄える素地となったことは、容易にうなずける。つまりこれが、バイエルンとは違うウィーン独特の、優雅で微妙な味わいの音楽文化をつくる一つの要因となるのである。
第二に国家としてのオーストリアの急速な進展とそれに対する巧みな対応ぶりがバーベンベルク家には顕著であるが、これはハプスブルク家によって継承される。1156年ハインリヒ2世の時に居を思い切ってウィーンに移すが、中心地がドナウ河畔に位置するようになったことで、国防上はもちろん、商業、文化の発展上、大きな利点を獲得することになる。
第三にバーベンベルク家では政略的な結婚が重要な意味をもつことが多いが、それはハプスブルク家の魅惑的だが悲劇的なエピソードのタネとなった政略結婚と同種のものである。バーベンベルク家では歴代の君主がその国の女性と結婚することはほとんどなく、ハンガリー、ボヘミア(ベーメン)、バイエルンなどの外国の王女と縁組をした。これが周辺諸侯との平和を維持する一助となったのである。なかでもバーベンベルク4代目のレオポルト3世は、ドイツ皇帝ハインリヒ4世の王女アグネスと結婚する事により、莫大な富と和平を獲得した。後には不幸な近親結婚をも生むことになり、容貌にはっきりと血統が出ている。
第四に、カトリックの布教諸教団への援助である。すでに10世紀末、オーストリアの端にあるパッサウの司教ピルグリム(991没)はバーベンベルク家の援助を得てオーストリアの拓殖に尽力した。ドイツ農民の移住は盛んであったが、その農業が成果をあげるのは、修道会のような大組織がその力を発揮したからである。シトー派教団はすでに1163年ドナウ河畔のハイリゲンクロイツに本拠を置いた。またベネディクトゥス教団は音楽の演奏を義務とし、ザルツブルクやクレムスミュンスターではグレゴリオ聖歌の伝統が成立した。12世紀半ばには、ウィーンにも次々と教会が建てられ、ことにシュテファン教会では聖楽の教育が盛んであった。初代の建物はロマネスク式で、1137年に着工された。まだ市域の拡張が行われる以前で、古い城壁のなかは民家が密集していて大きな教会のための敷地を取ることは無理だったため、古い城壁の直ぐ外側に造られた。1147年に内陣が出来たところで献堂式が行われ、新約聖書の使徒言行録に出てくるステパノ(ドイツ語ではシュテファン)に捧げられたが、完成したのは1160年頃である。
第五には、バーベンベルク家の宮廷は音楽を好み振興したが、ハプスブルク家はさらにこれを発展させた点である。バーベンベルク家の努力のおかげで、ウィーンはヨーロッパ有数の文化の中心地になった。オーストリアが建国された10世紀の終わり頃、フランク王国治下のフランスはヨーロッパでも高い文化を享受し、音楽もまた愛好された。建国に当たって多くの点でフランスに倣ったバーベンベルク家が音楽を尊重したのも当然であった。
7、バーベンベルク家と音楽
この王朝の後半の時期に栄えた音楽文化はミンネゼンガーの歌(Minnesang)である。ミンネゼンガーとは愛の歌人という意味であるが、もともと12世紀から13世紀にかけて南フランスのプロヴァンス地方を中心に活躍したトゥルバドゥールの影響を受けてドイツに起こった貴族出身の詩人、音楽家たちである。十字軍によって盛んとなった処女マリア信仰と関係が深く、理想の女性の面影をマリアに付託して歌った。また田園の牧歌、素朴な恋愛の歌なども少なくない。楽器は用いられてもまったく伴奏の域を出ず、多声構造はごく末期にしか現れない。
オーストリアではかなり古く、12世紀頃からミンネザンクが行われ、宮廷から迎え入れられた。バーベンベルク家治下のウィーン、ザルツブルクの大司教エーベルハルト2世の宮廷、そしてケルンテンのザンクトファイト、ベルンハルト・フォン・シュポーンハイム公の宮廷で確立されていった。これらの宮廷はミンネザンクの中心地となり、多くのミンネゼンガーが代々の君主にかかえられた。
初期のミンネゼンガーの作品には、フランスの歌曲にドイツ語の歌詞をあてはめたコントラファクトゥム(替え歌)がすくなくない。しかし歌詞の内容は宗教的なものが多く、フランスに比して遥かに禁欲的であるが、反面、類型的ないし紋切型の表現が著しく、フランスのもののように必ずしも個性的とはいえない。今日、イエナ大学図書館写本、ミュンヘン・バイエルン国立図書館Cgm,ハイデルベルク蔵のマネッセ写本などに含まれる歌曲の多くは、教会旋法の傾向が目立ち、特にドリア旋法とフリジア旋法のものが多い。
≪パレスチナのうた≫で有名な、ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ(1170頃―1230)は、フリードリヒ1世(在位1194―98)の宮廷で活躍した最も有名な人物であるが、この作品ももとはフランスの<五月になって>の替え歌といわれる。彼は、現在の北イタリアの小さな町ボルツァーノ辺りの出身であるといわれる。そのために、先輩のミンネゼンガーよりはフランスの影響が少なく、題材も恋愛ばかりでなく、多くの巡礼歌や、深い信仰心に裏打ちされながらも、法王庁の施政を痛烈に批判した歌が多い。これはある程度、バーベンベルク公家の政治的態度を反映したものといえる。従って、力強く、ユーモアに溢れたミンネを理想とし、最も美しいドイツ語を使う卓越した宮廷恋愛歌人として高く評価されながら、一方で中世盛期における厳しい言葉で語る政治的格言詩人とも位置付けられるのである。ヴァルターの故郷については今日その周辺に彼の名前を冠した学校や施設が多いことから推測すると、名前との関連からフォーゲルヴァイトホーフという村であると考えられるが、南チロルのライエン近くのアイザック渓谷に今もその美しい景観をとどめている。いずれにしても彼にとって東オーストリアは少なくとも第二の故郷であり、自ら語るところによれば、そこで彼は歌と詩作を学び、修業時代を送った。彼がウィーン宮廷に現れたのは1198年以前で、その後1203年から1208年にかけて再び宮廷で活躍したといわれる。政冶語りとしてのヴァルターは教皇職が「イタリア人」に偏っていることに反対し、聖職者を鋭く批判した。その一方で、彼は異端的な風潮を激しく批判し、真の宗教心を心底表現することに心血を注いだ。彼が大喝采を博したいくつかの作品は――もっとも、彼と同時代のトマジン・フォン・ツィルクレーレは大勢を惑わすものと批判したが――、当時の争いの真相と偉大な時代思潮の本質をつぶさに描こうとしたものである。
ヴァルターに次いで宮廷で重きをなした歌人はナイトハルト・フォン・ロイエンタール(1240没)である。南ドイツ・バイエルンの出であっただけに、田園の美しさ、野性的滑稽などを宮廷詩にもたらし、「宮廷の農民詩人」といわれた。彼は王宮の窓を広くあけ、俗世の現実を歌にしたといわれる。また「最初のワルツ作曲家」といわれるように、舞踏曲を多く作曲したが、そのうちの10曲あまりは今日も残っている。
ロイエンタールが仕えていた君主はバーベンベルク家最後の当主フリードリヒ2世(在位1230―46)であったが、この人の治下、公国は益々繁栄し、隣接の国々を次々にその版図に加えていった。しかしそれだけに敵も多く、フリードリヒ2世はそれらの国々と交戦せざるを得ず、そのため闘争公と呼ばれたのであった。ロイエンタールはかなり写実的に当時の社会を描写した作品が多く、とりわけ田舎の生活、農民の求愛、娯楽といったものを好んで語った。ひどく嘲笑されたと感じた農民達と時折摩擦を起こしたロイエンタールだが、14世紀の同名の喜劇人としばしば混同され、後の世代にとって実に庶民的な人物像となって、語り継がれた。
このようなミンネザンクは、当時の貴族社会の理念と貴族としての品位に支えられており、吟遊詩人、ゴリアール達が一部を極端にパロディー化したり、替え歌にして強烈なアピールを狙ったのに対し、彼らの歌はあくまでも教養と知性に裏打ちされた当時最も優れた文学的かつ音楽的芸術作品であった。他にこの分野で活躍したオーストリア出身の歌人は、ドイツ語で書かれた最初の宮廷恋愛歌人として知られるキューレンベルガーがいる。彼は、騎士の家柄に生まれ、家名はリンツの近くにあった生家の城に因んでいた。キューレンベルガーの同卿の後輩であった、ディートマー・フォン・アイストはミュールフィアテルの出身で、庶民的なものと宮廷歌の両方を器用にこなした。バーベンベルク宮廷と緊密な関係をもっていたラインマール・フォン・ハーゲナウは、エルザスのハーゲナウの出身であるが、作品はもっぱら「高い」ミンネ(高い身分の婦人に対する恋愛)に捧げられ、適わぬ高根の花への敬慕を詠った。
さて、さらに音楽史上重要で興味深いのは、バーベンベルク家ゆかりの音楽文化史の中に、ワーグナーの≪ニーベルングの指輪≫で知られる「ニーベルンゲンの歌」の原作に関わる吟遊詩人の存在である。この雄大な叙事詩の後編の舞台となるのがまさにドナウの河谷であり、オーストリア、ウィーンと深い関係を持つ地名や史実と関連をもつ記述が次々に登場する。
例えば、作品の後半にフン族の王エッツェルの使者リューディガーがウォルムスの城に現れ、クリームヒルトを王妃として迎えたいと告げる場面がある。彼女はフン族の力によって亡夫ジークフリートの仇を討ちたいという願いを秘め、使者とともにエッツェル王のもとへ旅立つ。一行はパッサウからドナウ川を下り、リューディガーの居城があるベッヒラーンをはじめ、メデリーケ(メルク)に立ち寄り、ワッハウ渓谷を下って、トゥルンでエッツェル王に会う。云々。さらにその13年後の出来事として、ブルグンドの一族はエッツェル王の本城に招かれるが、その途中ドナウ河谷を舞台とする様々の事件を引き起こす。
このような叙事詩の内容の原形はずっと古い時代に遡るとしても、現在のような形に纏め上げられたのはおそらく13世紀の初め頃で、上記のような物語の舞台となっている多くの地名や土地感から、作者はバーベンベルク家に仕えていた吟遊詩人ではないかと推定されている。そして今から5年ほど前(1997年)にクリスティーネ・グラスナー博士によって発見された写本は、1300年頃の「ニーベルンゲンの叙事詩」の写本の断片とされ、現在メルクの修道院図書館に貴重本として展示されている。これは、永い間中世後期の別の写本に綴じ込まれた状態で、気付かれずにいたものであった。
おそらくこの叙事詩の朗唱は音楽的にはミンネザングより詩句に忠実な抑揚をもって行われたが、定型リズムからは解放された自由リズムをもち、楽句構成としてはバール形式のような一定の反復形式に従いながら、ゆったりと詠われたようである。最近ウィーンのホーフブルク前で開催されたORFのコンサートで実際に耳にする事ができたので、一層身近なものと感じられるようになった。この同じ歌手によってCDも出されており、研究の対象として、一つの資料となりうるものである。
参考文献
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1997 EDITION WIEN PICHLER
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1998 EDITION WIEN PICHLER
BJost Perfahl;“Wien Chronik”1961 Das Bergland-Buch、 Salzburg/Stuttgart
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F紅山 雪夫;「オーストリア・中欧の古都と街道」2000 トラベルジャーナル
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H渡辺 護;「ハプスブルク家と音楽」1997 音楽之友社
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