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六年間の反省 〜ぼくはこうして失敗した!〜
大学の四年間と、それからの約二年間についての、ぼくなりの理解
どこで、だれが言ったのだったか、自分の経験のみでものごとを判断すると、痛い目を見るというような言葉を、聞いたことがある。
なるほど、いかにもありそうなことだ。
しかし、また、自分の経験から学ばないのも、相当に(あるいはそれなりに)頭がわるいといえるのではないか。
これから書くのは、ぼくが(大学の四年間と卒業後の求職していた約二年間の)経験から学んだことと、昔のぼくに会えたら言ってやりたいことだ。
誤解のないように言っておくと、これは、今から書くようなことを結論として出すのにかかった時間が六年ということであって、この六年目で、求職活動にけりがついたわけではない。
これは、ぼく自身の経験にもとづいているので、過去のぼくには、それなりに役に立つだろう。
そして、こうして頭の整理をして、自分の考えを書いておくのは、自分の役にも立つだろう。
これが、自分の経験から学ぶことになると、ぼくは信じる。
しかし、もしかしたら、ぼく以外のだれかにも、役に立つかもしれない。
だから、この文章を公開する。
とりとめのない話になるかもしれないが、よかったら読んでほしい。
(注意。この文章は、紙に書いたものを、推敲して、くどい言い方や予想される反論に対する再反論などを簡素化したものなので、単純すぎると感じる人もいるかもしれない。また、個人的な体験にもとづくので、「俺の知ってる大学生活と違う・・・」という人もいるだろう)
まず、大学の学部について。
ぼくは文系なので、理系については、そこまでわからない。
だが、文系は、理系ほどは成績について重要視されないと思う。
文系の学部は、ぼくがわけるなら、こうだ。
1.法学部(官僚を作るのが目的だったためか、公務員試験に強い)
2.経済学部(ビジネスパーソン向け。授業が楽な場合が多い)
3.教育学部(先生になりたいなら、ここに)
4.外国語学部
5.文学部(1〜4のどれにも入らないのはここ)
この五つの中で、勉強が一番役に立つのは、4番だ。
もし、日本で人付き合いが苦手だが、勉強は好き・得意・苦痛じゃない文系の人がいたら、迷わず外国語が勉強できる学部をおすすめする。
外国語学部か、文学部の○○文学などの場所だ。
ただ、人が多すぎるので、英語はおすすめしない。日本語教師になりたいのでないなら、日本語もおすすめしない。
マイナー言語のほうが、仕事はありそうだが、こだわらなくてもいいだろう。ポイントは、検定一級・準一級レベルの語学力を得ること。
ここまでいったら、絶対どこかに仕事があるはず。
人付き合いが苦手でも、外国の人相手なので、日本の風習に基づいて交流しなくてもいいので、大丈夫な場合も多い。
ただし、もし、なにか夢があるなら、たとえば弁護士になりたいなら、法学部に行くべきだろう。
また、勉強が得意でも好きでもなく、人付き合いも苦手で、夢もないなら、外国語学部で精いっぱいがんばることをおすすめする。
英語が苦手でも、印欧語以外なら、十分うまくなることができるだろう。
ただし、直感的に、外国語というものがあわないと思うなら、別の道を探るべきだろう。
その別の道は、自分なりの基準で、自分の頭で考えるべきだ。
ぼくは、文系の大学生の中では、がんばって勉強してきたほうだと思う。
それは、わりと自信を持っていえるが、それでも、職が得られないまま卒業したので、高校までと違って、次の段階に進むために、そこまで勉強が役立たない場合もあるということがいいたかった。
ここまでのまとめ。
・大学では勉強しても就職にはつながらない(ことも多い)
・一番、勉強が役に立つのは外国語学部などの語学系(ただし、語学力をちゃんとつけることが前提)
・だが、最後は自分の判断で決めなくてはならない
ぼくの専門課程は、語学系ではないが、「就職に強い」が売りだった。しかし、そこは、ぼくとは合わないところだった。
なにか、いやな雰囲気も感じたのだが、直感は無視して、理性で考えて、そこに行って、ひどい目にあった。就職できないだけじゃなくて、精神を軽く病んだ感じになった。というより、精神状態が悪くなりすぎたために、就職がうまくいかなかった、というべきだろう。
就職に強いというのは、そこに所属する人間の多くが就職できるということを意味するわけだが、そうじゃない人間も、少数ながらいるだろう。つまり、この失敗でぼくが得た教訓は以下になる。
他人(まわりの人間)と自分は違うのだから、どれだけ多くの人がうまくいっていようが、自分も同じようにうまくいくとは限らないことをきちんと覚えておくべきだ。
また、その専門にいったのは、その専門の教授の助言もあったわけだが、その助言にしたがって失敗した。だから、
他人の意見に耳をかたむけるべきじゃない。
自分の頭で考えるべきだ。人の意見に心が揺れるなら、最初から聞かないほうがいい。
失敗しても、他人は責任をとってくれないのだから、
自分のやることについて、他人が口出ししてきても、聞く必要はない。
昔は、もっと自分で考えていたように思う。
しかし、ぼくは、大学に吐いてから、怖くなったのだ。
自分独自の考えで動くと、ごはんが食べられないんじゃないか、と。
世間様に合わせないと、これから暮らしていけないんじゃないか、と怖くなったのだ。
まったくの間違いだった。
世間様(要するに、自分の考える多数派)にあわせようと自分なりにやってみたが、ぼくは仕事にありつけなかったし、そもそも、無理にあわせていたので精神的にも苦しかった。
結局、失敗するなら、はじめから、自分の想定する多数派にあわせる必要はなかったのだ。
第一に、自分の心に負担がかかりすぎて、健康によくないことがわかった。
第二に、そうまでしても、何も得られず、むしろ失うばかりだった。(この教訓は得られたが)
第一の理由だけでも十分だが、第二の理由もあって、人眼を気にして、自分の考える常識を気にして、社会におもねるような生き方は本当に不幸だと実感した。「生きている実感」もなく、常に「いやな感じ」があった。
どうせうまくいかないのなら、自分らしく生きてうまくいかない方がずっといい。
それに、たとえうまくいくとしても、上であげた第一の経験から、心が死んで「うまくいく」より、心が生きて「うまくいかない」方がずっといいとわかった。というか、心が死んでいる以上、「うまくいっている」わけがないのだ。
だって、心が死んでいるのは、すごくつらいのだから。
ぼくは、勇気が足りなかった。
死ぬのがこわくて(ごはんが食べられないかもというのはそういうことだ)、安全に思える方に、そして実は全然安全じゃない方に、逃げた自分が恥ずかしい。
大学に入学した年に、先輩から言われた助言。
「気に入らないものがあるときは、まず、長いものに巻かれてみる。次に分析する。そして、改革できるようになったら、気に入らないものを変える」
これは、正論だが、イソップ童話の「猫に鈴をつければいい」と同じ助言である。
猫に鈴をつけられるものにとっては、有効な助言だが、そうでないなら、何の意味もない。
ぼくは、この助言に、だいたい六年間したがった。
しかし、結果は以下のようなものだった。
「長いものにまかれているうちに、苦しくなってきて、分析や改革どころじゃない」。
「そもそも、改革できるような立場に立てない」。
ここでの一番の教訓は以下だろう。
理論的に正しい助言でも、自分にとって実行不可能なものがある。
ここまでのまとめ。
・まわりがうまくいっている(方法があるように見える)からといって、自分も(その方法で)うまくいくとはかぎらない。
・他人はぼくの人生の責任をとれないので、あぼくのやることに対する意見は無視してよい。もちろん聞きたければ聞いてもよい。
・心が死んでいるのはすごくつらいので、結果がどう出るかよりも、自分の心、良心にしたがって動いた方が幸せ。そもそも心がつらい状態では結果が出ないことの方が多い。成功や安全を目標にしても幸せじゃない。
・理論的に正しくても、現実世界の自分には実行できず、無意味な助言がある。
バイト。
違法労働をさせる塾講師があった。タイムカードを押させてから数時間の労働がある。
そのときは、精神状態がやばかったので、数週間でやめざるを得なかった。
あとから考えてみると、労働基準法違反である。
そういうアルバイトがあるので、労働基準監督署に行くべきだ。
学生の無知につけこんで、不法収益をあげている会社がある。実体労働時間をメモして、労基署に行くか、さっさとやめよう。
就職の面接。
なにか不愉快なことを言われたら、言い返してよい。
なにか失礼なことを言われたら、その時点で選考は通れなかった。特に反論せずにこにこ笑っていても、である。
よって、失礼・不愉快なこと、お説教が入ったら、言い返してよい。ぼくの経験では、どうせ落ちるのだから、言いたいことを言ってすっきりするべきだ。
あと、経験上、そういうことを言うのは、地方の官公庁のお偉方が多いように思う。
雰囲気のよいところは、そもそも、そんな発言は出ない。
大学の先生。
大変ショックだったのだが、人間として尊敬できない人間が多く、「先生」の名に値しないものが多くいた。
外国人の先生はそうでもなかったのが印象的だった。
そうじゃない先生もいたが、少数派だった。
ここまでのまとめ。
・違法な職場もあるのでアルバイトするときは気を付けて。労働法を簡単に学んで、労基署や、フリーター労組などに連絡すべき。
・不快な面接官には反論してよい。(たいてい、あなたはその時点で不採用だし、そうでなくても、そういう人とはできれば働きたくないだろう)
・大学の「先生」はクソであり、信用がおけない場合がある。優しい言葉やもっともな言葉にだまされてはいけない。
ここまで、読んできて、なんとなくわかったかもしれないが、これらの失敗は、実は、すべて、自分の頭で、自分のものさしで考えて出した結論ではなく、自分の頭が勝手に考えた「世間の基準」とか、親や教師やだれかの「助言」や「お説教」にしたがった結果だ。
この自分で考えないというのが、ぼくの大学生活とそのあとの年月の、一番の失敗だった。
自分で考えていない。それはどういうことか。それは以下のことである。
・世間にしたがうこと
・空気を読むこと
・まわりにあわせること
・多くの人がうまくいったから、自分もうまくいくと思うこと
・親や先生、先輩、友人などの他人の話にしたがうこと
この話は、万人に適用できるものではないかもしれない。だが、ぼくの人生でぼくが得た教訓は、こうなのだ。
そして、ぼくとあなたは違うのだから、ぼくの教訓がそのまま役に立つとは限らない。
ぼくの助言にしたがって不幸になっても、ぼくは責任をとれないので、ここで言ったことを聞き流してくれてもかまわない。
そもそも、自分のものさしで考える、自分の頭で考えるというのが、どういうことなのか、わからないという人もいるかもしれない。
その定義は、たぶん、人によって若干違うと思うので、自分で考えてみてほしい。
ぼくも、はっきりと言葉にできる自信はないが、あえてはっきりと以下のように言おう。
自分の心を落ち着かせて、自分の心が直感的にこれをしたいと思えるようなことをするのが、一番、「自分の心にしたがっている」状態だと思う。
ぼくのサイトの、以下の記事の「楽天は主義セラピー約が、ぼくの言いたいことを理解する助けになるかも。
日記カテゴリの、「日記その1」の2013年1月20日の日記です。
./diaries/diary2013.html#20130120