サリンジャー作品集1「若者たち」
J.D. Salinger's Selected Works Vol.1
鈴木武樹(すずきたけじゅ)完訳 武田勝彦解説
東京白川書院
もうね、すごいことなんですよ、 サリンジャーが今まで出した短編が、相当な量読めるっていうのは。(少なくとも2011年現在では)ありえないんですよ、本国のアメリカでは。
だって、あっちでは、雑誌に掲載した以外は、本にして売ってないんだから!
そういうわけで、日本が出したサリンジャー作品集、神の一撃、東京白川書院の全六巻の作品集、それの第一巻のご紹介。
この巻は、ぼくの知る限り、この本でしか読めない短編、そして英語では読むことが普通の日本人にはちょっと敷居が高い短編しか入ってないです。上にも書いたけど、作品が載っている雑誌を手にいれたりコピーしないと、手にいれることができない(はず)。
この作品集のすごいところは、というかむしろサリンジャーのすごいところは、ある種の「鎮静効果」があるところなんですね。
本に鎮静効果があるの。すごいでしょ?
高校のとき、いろいろあって、ぼくの精神は敏感になっていたわけなんだけれども、そんなとき、この本を読んでいると、とてもとても安らぎました。
なんかね、すごく優しいの。すごく優しい。
痛くない。全然痛くない。痛くないように書いている。
訳し方がそうなのかもしれないけど、これはたぶん、サリンジャーも痛くないように書いているんだと思う。
やっぱり、ノルマンディー上陸作戦に参加して生き延びて、それでも筆跡が別人のものみたいに変わってしまった人の書くものは、傷ついた心を刺激するようなものは書けなかったんじゃないかと思う。
でも、この短編は、戦前のものもあるので、もともとそういう傾向はあったのかな。
「ライ麦畑でつかまえて」もすごく傑作なんだけど、あれは一種の「熱」がある、「熱い」話なんだと、ぼくは思っています。
それにくらべると、この巻には、熱みたいなものはあまり感じなかったな。
1940-1947までの作品があるのだけど、どちらかといえば落ち着いた感じ。
「暗くて優しい」というか。「月みたいに優しい」というか。
疲れた心に効きます。
いや、サリンジャーは正直にいって、傷ついた心や敏感な心や、疲れた心や、なにかこう、元気一杯!っていうのから外れてしまったときに、元気付けるというよりも、「よりそって」くれる感じの作品が多い気がします。
この巻で、なかなかすごい台詞があるんだけど、ちょっと長いけど、引用させてください。
なんだか、この台詞は、読むとちょっと泣きそうになるんだ。
「最後の賜暇(しか)の最後の日」 "Last Day of the Last Furlough", The Saturday Evening Post, 1944 から。
「パパ、べつに、えらそうに言う気はないけど、ときどき、パパの、この前の戦争の話、聞いてるとさ――パパたち、みんなそうだけど――まるで、あの戦争って、なにか、あらっぽい、下劣なスポーツみたいなもので、パパの時代の社会って、それを使って、男の子たちの中からおとなの男を抜きとったんだって、いうみたいだね。べつにつべこべ言う気はないけど、パパたち、この前の戦争、いってきた人たちって、みんな、戦争は地獄だって点じゃ、意見が一致するんだけど、それでてさ――よく知らないけど――パパたちはみんな、自分たちは戦争に参加したんだからそれだけいばれるんだって、考えてるみたいだよ。ぼく、思うんだけど、ドイツ人の男でこの前ののに出た連中だって、たぶん、おんなじようにしゃべってたか、おんなじように考えてたかしたんで、ヒトラーがこんどのの、起こすとさ、ドイツの若い連中は、喜んで、自分たちだっておやじに負けないぞとか、おやじよりもっとすばらしいんだぞとかいうこと、証明する気になったんじゃないかな」ベーブはひと息ついて、もじもじした。「ぼくは今度の戦争、正しいと思ってるよ。そうでなかったら、ぼく、いまごろは良心的拒否者の収容所にはいってさ、戦争、続いてるあいだ、斧、ふるってるだろうな。ぼく、ナチどもや、ファシストどもや、ジャップども殺すの、正しいと思ってるよ、なにしろ、ほかに方法、知らないんだから。だけど、ぼく、いままでほかのこと、こんなに強く信じたことないくらい、強く信じてるんだけど、とにかく、こんどの戦争にもういってきた人間も、これからいく人間も、この戦争、終わったらさいご、口、ぴったり閉じるのが、どんなふうにしろ、もう二度とそのこと、口にしないっていうのが、道徳的義務だと思うね。いまは、死者は犬死にさせてやるときなんだよ。ところが、じっさいは、いつだってそうはならないんだ、ぜったい」ベーブは食卓の下で左手を握りしめた。「だけど、もしぼくら、帰ってきてさ、そうして、ジャップどもや、フランス兵や、ほかの兵隊もみんなさ、ぼくたちみんな、勇ましかったことや、ゴキブリのことや、たこつぼのことや、血のこと、しゃべったり、書いたり、絵にしたり、映画、つくったりしたら、そうしたらさ、未来の人間、きっと、しょっちゅう、未来のヒトラーにやられることになるよ。男の子ってものは、昔から、戦争、軽蔑したり、歴史の本の、兵隊の絵、見て、ばかにして笑うなんてこと、こんりんざい、なかったんだから。もしドイツの男の子ン暴力、軽蔑すること、教えられてたとしたら、ヒトラーは編み物でも始めなきゃ、自分のエゴ、暖めておくこと、できなかったんじゃないかな」
この台詞は、ぼくの心の、かなり深いところを、一撃しました。
「自分たちは戦争に参加したんだからそれだけいばれるんだ」。こういうタイプの考えは、きっと、戦争だけじゃない、別のひどいことにも使われますよね。たとえば、ひどい労働環境を耐えてきた、とか。
「しゃべったり、書いたり、絵にしたり、映画、つくったりしたら、そうしたらさ、未来の人間、きっと、しょっちゅう、未来のヒトラーにやられることになるよ」。
この先の、「男の子ってものは〜」っていうのは、すべての男の子がそうじゃないとは思います。
ただ、この「しゃべったり〜」のところは、そう、確かにそうかもしれないと思うのですよ。
自分のことについて話すと、ぼくは、肉体の性別は男性で、精神も男性、という意識でいます(まわりからは、「男!」っていうよりも、ちょっとアセックスよりに見られることが多い気はするけど……)。それで、本物の戦争は軽蔑したけれども、本の題名で、「戦争」とか書いてあると、ちょっとわくわくしたのを思い出します。「チョコレート戦争」とかね。
それに、暴力も、そこまで軽蔑したこともない……小学校を卒業していらい、喧嘩はしていないのだけど、暴力を軽蔑しているわけでもない……「やばくなったら」ガツンとやってやる、とか、やられたらやりかえせ、みたいな覚悟というか思想は、なきにしもあらずというか。
だけど、それって、そういう考えって、「未来のヒトラーにやられる」ことになりはしないかな、と思う。
映画とか本とかで、戦争のことを読んで、そして悪いやつはガツンとやっちまえって思って、それで、「未来のヒトラーにやられる」ことになりはしないかな、と思う。
戦争とか、そういういやなことについて、最近思うことがあります。
悪は理性で解析不能で、善も理性で解析不能なのじゃあないかなって。
くわしい理屈はわからないっていうか。
だって、自分がだれかを大切にしたい気持ちって、よくわからないですよね。
うれしいことされたから、そういう気持ちになるんだけど、うれしいことされるとそうなる理由はわからないというか。
そもそも、だれかを大切にしたい気持ちにさせるようなことを、うれしいことっていうような気もするし。
善も悪も、そこにあるだけで、それを分析することは、不可能なんじゃないかと思うんです。
本当に吐き気がするほどひどいことをした人って、「それができてしまう」縁のもとにいたわけで、それって人の知恵で分析しきることはできないんじゃないか。
悪は悪でしかないんじゃないか。と思います。
もちろん、自分の気持ちの中から、それに近いものを探し出して、共感というか、理解ができないとは思いません。
でも、そういうことじゃなくて、自分の心にわきでてくる気持ち、その源泉というのは、理性で把握できるものではない、というか、そもそもその感情自体が「はじまり」なんじゃないかと思います。
つまり、「好きだ」と思ったら、それに理由をつけることはできなくて、そういう風に思ったのは、そういう風に思ったから。
それがはじまりで、それより先に原因を見つけることはできないんじゃないか、なんて、思いました。
それより先になにかあるとしても、それは感情とか、善とか悪とか、そういうものとは、また別の領域になるんじゃないかな。
ともかく。
上の引用は、「ひどいことを書いたからといって、それが反省の材料になるとはかぎらんぜ」とか「書いてもどうしようもないのではないか」というぼくの気持ちを、少し裏書きしてくれる気がしています。
だから、ぼくは、何か物語を書くときは、悪ではなく善を書きたいなと思う。
たぶん、物語のことだけじゃなくて、「しゃべったり、書いたり、絵にしたり、映画、つくったり」することすべてにおいて、いいことを書くことっていうのは、大切なことなんじゃないかなと思う。
ちなみに、他の巻は、
2巻が倒錯の森(これも第一巻と同じく、この本でしか読めないと思う)
3巻が九つの物語(ナイン・ストーリーズですね)
4巻がフラニーとズーイ
5巻が大工らよ、屋根の梁を高く上げよ
6巻が一九二四年、ハプワースの16日目
5と6は、ぼくはこの作品集以外で読んだことはないですが、他にも出しているところはあるかも。
はっきりいって、この作品集を全部よめば、あとは「ライ麦畑でつかまえて」さえ読めば、日本語で読めるサリンジャーの作品は、たぶん全部読んだことになる……そのレベルで網羅してある作品集です。
昭和五十六年に第一刷だそうだけど、本当にありがたいことです。
本屋さんに注文するのもよしだけど、もし手に入らなかった場合でも、たぶん図書館にはあるはず。
2011/12/09
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