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仏教について
追記。魚川祐司さんの「仏教思想のゼロポイント」がかなり参考になると思う。ウ・ジョーティカの翻訳も担当する彼のこの著書によれば、仏教というのは悟り(涅槃)を目指す宗教である。悟りに至るには、一定の修行を経る必要があり、悟ったあとは、現実世界と関わるなり関わらないなり好きにすればよい。
ここでは、原始仏教について書く。日本に伝わったのは、いわゆる北伝仏教であり、ここで扱うのは、南伝仏教である。
前者は大乗仏教となり、はじめに説かれた教えから変わっていったが、後者は伝統的なものが残っているらしい。
ぼくが知りたいのは、仏教における、悟りというか、救済の方法である。
調べた範囲で書きたい。
まず、あるサイトで基礎知識をしいれ、それを羅針盤というか、いちおうの目安にして、自分なりに調べてみることにした。
結論からいえば、そのサイトで得た知識は、書物で得た知識と矛盾するところがある。
それは、内容ではなく、修行のやり方に関することである。
サイトに書かれていた知識が、どこから仕入れたものなのか、出典が明記されていないため、どこかにサイトのあるじが参照した文献や法話があるのかもしれないが、確認できなかった。
ぼくが使った書物は、パーリ三蔵の翻訳なので、パーリ三蔵そのものではないものの、パーリ語の読めない素人がたどり着ける中では、かなり信頼性に足る書物ではないかと思う。
ぼくが調べた範囲では、このサイトの修行のやり方は、パーリ三蔵の内容と矛盾するように思う。
パーリ三蔵自体が、中身に矛盾をはらむものならともかく(その可能性はすべて読んでみないとわからないだろう)、そうでないなら、このサイトのほうがなにか誤った情報にもとづいているのではないかと思う。
ぼくの調べた範囲では、語句の説明に間違いがあるとは思わない。
だから、語句の説明にはなっていると思う。
だが、基本修行科目と説明されている四念処が、悟りに至るやり方として、つまりこのサイトの名称にしたがえば総合修行科目として、パーリ三蔵で紹介されているように思うのだ。
ここでは、自分のたどった順に、上座部仏教での悟りのやり方を調べる過程を書くので、下のサイトの要約は、個々の語句の説明は間違っていないが、修行のやり方としては違うのではないか、という結論に達したという前提で読んだほうがいいかもしれない。
------------------------------------------------------------------------------------サイトの要約はここから
まず、http://way-to-buddha.blogspot.jp/という、サイトを参考にして、まとめてみる。
「」の引用は、すべて上記サイトから。
救済に至るには、次のみっつのうち、どれかの修行をおさめればよい。
1.五根と五力(前者をおさめることで、後者が身に付く、一体の修行ということか)
2.七覚支
3.八正道
そして、この三つには、共通した修行部分が、これまたみっつある。上記のサイトでは、これを基本修行科目と呼んでいた。
I.四正断(四正勤)
Ⅱ.四念処(四念住)
Ⅲ.四如意足(四神足)
まず、1.五根と五力について。
「五根と五力は、五つの修行の基礎能力と、その修行の結果得られた五つの発揮できる力のことである。」
「五根と五力は、末尾に付く「根」と「力」が違うだけで、まったく同じ修行科目を指している。」
内容は、
「
1.信根・信力(信による基礎能力と力)
ブッダに対する「信」、さらには三宝(仏法僧)への信による基礎能力と発揮できる力のことである。
2.精進根・精進力(四正断による基礎能力と力)
四正断(断断、律儀断、随護断、修断)のことで、実践する行動による基礎能力と発揮できる力のことである。
3.念根・念力(四念処による基礎能力と力)
四念処(身念処、受念処、心念処、法念処)のことで、観察する瞑想による基礎能力と発揮できる力のことである。
4.定根・定力(四如意足・禅定による基礎能力と力)
四如意足(欲如意足、精進如意足、心如意足、観如意足)のことで、集中する瞑想による基礎能力と発揮できる力のことである。
5.慧根・慧力(智慧による基礎能力と力)
智慧は、深まった禅定の力によって観察することにより得られた洞察力、基礎能力と発揮できる力のことである。
深まった禅定の力によって、縁起の法、四諦等を観察し、洞察して三毒(十結)を断滅することができる。五根と五力では、禅定とそれによる観察によって、智慧を得ることを目指している。
」
しかし、これだけでは、具体的に何をどうすればいいのかわからない。
信というのは、信じればいいのか? パーリ三蔵のどこかに該当する教典があるのか?
「五根と五力については、なぜブッダは、同じような内容の修行科目であるにもかかわらず、五根と五力に分けたのか、という問題がある。
分けた理由であるが、まず修行の基礎能力を開発する段階が五根であり、基礎能力を十分に収めて、その結果としての力を発揮できるようになった段階を五力と呼んだからではないかと思われる。」
「特に深い集中する瞑想である四如意足を修めると、不思議な力(神通力)を発揮できるようにもなる。ただし気をつけなければいけないのは、これが仏教の目的ではないことである。
七覚支や八正道でも、深い四如意足を修めれば力を発揮するであろうが、五力では智慧を得ることを目指すため、その力の発揮する度合いが顕著であったと思われる。」
次に、七覚支の説明。
「
1.念覚支(四念処による悟りへの方法)
四念処(身念処、受念処、心念処、法念処)のことで、観察する瞑想による悟りへの方法である。
2.択法覚支(選択による悟りへの方法)
四念処を実習することで、悪を捨て、善を選ぶことができるようになる。選択することができるようになると、選択することが悟りへの方法となる。
四念処から、さらに発展したものである。
3.精進覚支(四正断による悟りへの方法)
四正断(断断、律儀断、随護断、修断)のことで、実践する行動による悟りへの方法である。
4.喜覚支(喜びによる悟りへの方法)
四正断を実践することで、心の中に喜びが生まれる。喜びが生まれると、喜びが悟りへの方法となる。
四正断から、さらに発展したものである。
5.軽安覚支(軽やかさによる悟りへの方法)
喜覚支を経験すると、さらに心が落ち着いて、心身が軽やかになる。軽やかになると、軽やかさが悟りへの方法となる。
四正断から、さらに発展したものである。
6.定覚支(四如意足・禅定による悟りへの方法)
四如意足(欲如意足、精進如意足、心如意足、観如意足)のことで、集中する瞑想による悟りへの方法である。
7.捨覚支(捨てさることによる悟りへの方法)
定覚支により、対象への執着がない状態となり、すべてを捨てさることができるようになる。すべてを捨てさることができるようになると、捨てさることが悟りへの方法となる。
四如意足から、さらに発展したものである。
」
これは、一番わかりやすい気がする。
要するに、四念処、四正断、四如意足を続けることで悟りに至るということだろう。
http://76263383.at.webry.info/200903/article_5.html
によれば、ダンマパダにも以下のような記述がある。裏付けはまだとっていないが、そうであれば、「四念処、四正断、四如意足」をおさめればよいことになりそうだ。
「ダンマパダ 89
七覚支に従って
正しく心を善く育て
執着を捨て去って
無執着を楽しみ
光輝く滅尽者たちは
この世で完全な涅槃に入る」
最後に、八正道。これは超有名な悟りにいたる方法ですね。上の二つの言葉を知らなくても、聞いたことがあるのではないかと思います。
「
1.正見(正しい見解)
正しい見解を持つことは、悟りへの正しい道である。
修行の最初の段階での正しい見解から、他の八正道の項目(特に正念、正定)が進むと、さらに深い正しい見解を持てるようになる。その修行段階での正しい見解というものが存在する。
正しい見解が進んでくると、三毒を断じて越えることができる。
2.正思惟(正しい考え)
正しい考えを持つことは、悟りへの正しい道である。
3.正語(正しい言葉)
正しい語を発することは、悟りへの正しい道である。
嘘偽り、人を傷つけるようなことを話さず、真実のみを愛を持って述べる。
4.正業(正しい行為)
正しい行為をなすことは、悟りへの正しい道である。
5.正命(正しい生活)
正しい生活を行うことは、悟りへの正しい道である。
6.正精進(正しい四正断)
四正断(断断、律儀断、随護断、修断)のことで、実践する行動は悟りへの正しい道である。
7.正念(正しい四念処)
四念処(身念処、受念処、心念処、法念処)のことで、観察する瞑想は悟りへの正しい道である。
8.正定(正しい四如意足・禅定)
四如意足(欲如意足、精進如意足、心如意足、観如意足)のことで、集中する瞑想は悟りへの正しい道である。
」
ここから、共通する部分についてまとめる。すなわち、四正断(四正勤)、四念処(四念住)、四如意足(四神足)である。
はじめに、四正断(四正勤)。
「
五根五力の「精進根・精進力」、七覚支の「精進覚支」、八正道の「正精進」が、四正断(四正勤)のことを指す。
四正断(四正勤)は次のものであり、日々の日常で努力すべき実践的な行動である。
1.断断
いまだ生じていない悪を生じさせないように努力する。
新しい悪業が生じないように、意志を起し、努力し、精励し、心をはげまして立ち向かう。
新たな悪業はなさないと決意して、それを熱心に注意深く実行していく。
2.律儀断
すでに生じた悪を断滅するように努力する。
すでにある悪業を断滅するように、意志を起し、努力し、精励し、心をはげまして立ち向かう。
すでに生じている悪業を無くそうと決意して、それを熱心に注意深く実行して行く。
3.随護断
いまだ生じていない善を生じさせるように努力する。
新しい善業が生じるように、意志を起し、努力し、精励し、心をはげまして立ち向かう。
新たな善業をなそうと決意して、それを熱心に注意深く実行して行く。
4.修断
すでに生じた善を増長させるように努力する。
すでにある善業を安定させ、持続させるように、意志を起し、努力し、精励し、心をはげまして立ち向かう。
すでに生じている善業を定着させようと決意して、それを熱心に注意深く実行して行く。
ここでいう「精進」とは、通常の「精進する」(努力する)というような意味だけではなく、四正断を意識して行動するという意味になる。四正断は、具体的な実践的行動であり、やみくもに仏道に精進する(努力する、頑張る)という抽象的な意味ではない。
」
つづいて、四念処(四念住)。サイトの説明を読む限り、いわゆる、ヴィッパサナー瞑想の修行であるようだ。
「
五根五力の「念根・念力」、七覚支の「念覚支」、八正道の「正念」が、四念処(四念住)のことを指す。
四念処(四念住)は次のものであり、観察する瞑想である。
1.身念処(身念住)
わが身は不浄であると観察する。身体におけるすべて(息、行、住、座、臥、身体・行動のすべて)が不浄であることを観察する。
息(出息、入息、止息)、全身、身体を観察する。
私は長く息を吐いている、私は長く息を吸っている、私は短く息を吐いている、私は短く息を吸っている、私は全身を感知して息を吐いている、私は全身を感知して息を吸っている、私の身体について生起する性質、私の身体について衰滅する性質、私の交互に生起し衰滅する性質、これら身体について観察する。
2.受念処(受念住)
感受は苦であると観察する。一切の感受作用(外部の感受作用、内部の感受作用)は、苦しみにつながることを観察する。
快楽、苦痛、不苦不楽について、感じている実感を観察する。
私は快楽を感じている、私は苦痛を感じている、私は不苦不楽を感じている、これら感受作用について観察する。
3.心念処(心念住)
心は無常であると観察する。心は常にいろいろなこと考え、一瞬たりとも止まることなく変化し続けていることを観察する。
心の状態(感情想念、貪欲、瞋恚、愚痴)を観察する。
・貪欲(どんよく)とは、執着、欲張り、貪り、等である。
・瞋恚(しんに)とは、怒り、憎しみ、恨み、等である。
・愚痴(ぐち)とは、妄想、怠け、無自覚、等である。
私は心が執着している、私は心が欲張っている、私は心に怒りがある、私は心に妄想がある、私は心に想念がある、これら心の状態について観察する。
4.法念処(法念住)
諸法は無我であると観察する。諸々の法(この世のすべてのものごと)には、本質的な主体(我)というものは存在しないことを観察する。
意識の対象(考え、想像)を観察する。
私は真理について考えている、私は真理に基づいて考えている、私は煩悩について考えている、私は煩悩に基づいて考えている、私は真理に基づいて想像している、私は煩悩に基づいて想像している、これら意識の対象について観察する。
ここでいう「念」とは「念ずる」とか「念力」を意味するのではなく、「気づくこと」、「観察すること」を表し、観察する瞑想のことである。仏道、仏様を単に念じるというような意味ではない。
「念」とは、もともと「サチ」が原語であり、四念処観を行うということである。「サチ」は、通常は気づきと訳される言葉である。
」
最後に、四如意足(四神足)。これは、サイト(http://way-to-buddha.blogspot.jp/2011/05/blog-post_8973.html)の説明を見る限り、いわゆるサマタ瞑想の修行であるようだ。
「
五根五力の「定根・定力」、七覚支の「定覚支」、八正道の「正定」が、四如意足(四神足)のことを指す。
四如意足は、意識を集中統一する禅定の基本修行科目である。
四如意足(四神足)は次のものであり、意識を集中する禅定と関係が深い。
1.欲如意足(欲神足)
すぐれた瞑想を得ようと欲求し、意識を集中統一する。
欲(志向思念、意志力)を修習して、欲求に対して意識を集中統一し、志向し続ける。
欲求(志向)に集中統一して得られた心の静止状態は、欲三摩地という。
2.精進如意足(精進神足)
すぐれた瞑想を得ようと努力し、意識を集中統一する。
為すべきことを実行して(四正断)、精進に対して意識を集中統一し、実行し続ける。
努力に集中統一して得られた心の静止状態は、勤三摩地という。
3.心如意足(心神足)
すぐれた瞑想を得ようと心(思索)に集中し、意識を集中統一する。
心(思索)の想像に対して意識を集中統一し、想像し続ける。
心(思索)に集中統一して得られた心の静止状態は、心三摩地という。
4.観如意足(観神足)
すぐれた瞑想を得ようと、深められた洞察力をもって観察に集中し、意識を集中統一する。
思惟観察や自覚に対して意識を集中統一し、観察自覚し続ける。
観(観察力・自覚)に集中統一して得られた心の静止状態は、観三摩地という。
」
------------------------------------------------------------------------------------サイトの要約はここまで
さて、ここまで、まとめてみたのだが、さとりにいたる三つの修行法のうち、一番すぐに実践できそうなのは、七覚支のように思う。
みっつの基礎修行を発展させるもののようだから。
だけれども、これはインターネット上の情報なので、裏付けが取れていない。だから、原始仏教の教典、いわゆるパーリ三蔵という一次ソースにもあたってみるつもりだ。
上記サイトのこの記事(http://way-to-buddha.blogspot.jp/2011/05/blog-post_22.html)によれば、
「阿含経には、七科三十七道品の修行科目の名称や項目は出てくるが、詳しい内容までは述べられていない。経典に記述されているのは、七科三十七道品の簡単な内容説明だけである。
そのため後世には、七科三十七道品の修行科目の内容があいまいとなり、具体的には何を指しているのか、どのようにすればよいのかが、よく分らなくなってしまった。そのため同じ八正道を指していても、さまざまな解釈が生まれる余地が生じてしまったのである。
七科三十七道品の具体的な内容については、仏教哲学(論蔵)であるアビダルマ論書の方にもう少し詳しい記述がある。」
とあるが、たしかに、原始仏典という春秋社の本、パーリ三蔵の長部と中部の翻訳を調べてみたが、たしかに要領を得ない記述が多い。
当時は、それでたしかに理解されたのだろうが、背景知識が違う日本人が読んでも、いまいちどうすればいいのかわからないように思う。
さて、そこで、パーリ三蔵にあたってみることにした。
もっとも、パーリ三蔵、日本では、南伝大蔵経と呼ばれることもある、あの教典群は、実は、全訳は、戦前に出た「南伝大蔵経」しかなかったはずだ。
ややこしいが、パーリ三蔵をしめす南伝大蔵経と、戦前に出版されたものとしての「南伝大蔵経」がある。後者には「」をつけておくことで、このページでの区別としたい。
だが、ぼくが見ることができた教典は、「南伝大蔵経」ではなく、中村元監修の「原始仏典」である。
これは、パーリ三蔵のうち、長部経典と中部経典を訳したものだ。
パーリ三蔵は、経・律・論のみっつにわかれている。
経が、教えを説いたもので、律が僧団の運営規則で、論が注釈書だったはずだ。
その、経のうちの、「長部」(長い教え)と「中部」(中くらいの教え)を訳したものが、中村元監修の、「原始仏典」である。
さすがに、全部は読まなかったのだが、いくつか重要なことがわかった。
まず、長部第二十二経、心の専注の確立(大念処経)。ここに、上であげた四念処観が出てくる。
四種の心の専注、という名前になっているが、上で出た、四念処と同じものだ。
ここで、最後のほうに、このような文言が見いだされる。
「原始仏典」第二巻長部経典Ⅱ、p415より、
「修行僧たちよ、この四種の心の専注を、このように七年間修める人はだれでも、二つの結果のうちどちらかの結果がd期待できるのである。すなわち、現世における、最高の智慧(阿羅漢の智慧)か、あるいは生存の根本が残っているならば、この世に還ってくることのないもの(不還)が期待されるのである。」
つまり、四念処をおさめれば、悟り、苦しみのない状態に至れるよ、と言っているのだ。
ここで、アラカン(阿羅漢)とか、不還とか呼ばれているのは、悟りの段階のことである。
四つの修行目標(向)と、到達境地(果)がしめされており、四向四果とよばれる。
順に、預流、一来、不還、阿羅漢。
このそれぞれに、向と果がある。
預流向、預流果、一来向・・・(中略)・・・阿羅漢向、阿羅漢果まで。
不還は、もうこの世界に輪廻してもどってこない状態をいい、阿羅漢は、最終到達地点に到達した状態である。
つまり、悟りの最高段階と、その前の段階に、四念処で至れるという意味であろう。
さらに、最後のほうに、こんな言葉さえのっている。
「修行僧たちよ、半月はともかくとして、この四種の心の専注を、誰であっても、このように七日修める人は、二つの結果のうちどちらかの結果が期待できるのである。すなわち、現世における最高の智慧か、あるいは生存の根本が残っているならば、この世に還ってくることのないものが期待されるのである。」
一週間で阿羅漢になれるというのか。
どうも、上のサイトで基本修行科目となっているのだが、少し情報が違うのではないかと思う。
むしろ、この四念処だけで、悟りまでいけることになると読める。
ちなみに、七年から七日までの間に、この期間だけ変えて、六年、五年、(中略)、二カ月、一カ月・・・と同じ文が続く。
さらに、中部第十経、思念を発す(念処経)は、これまた四念処の説明だが、そこに、七覚支を観察する、という項目がある。
これは、七覚支が、上のサイトでいう総合修行科目であり、四念処がそこにふくまれるという考えと矛盾する。
四念処の説明の中に、七覚支の説明があるのは、四念処の中に七覚支がふくまれるとみるべきだろう。
さて、ここまで調べて、ぼくは、とにかく、四念処についてまとめることが、上座部仏教的な悟りへの近道であろうと思った。
しかし、四つの心の専注(四念処)についてまとめる前に、ちょっとアートマンについて語りたい。
なぜなら、アートマンの否定というのは、死んだらなにもなくなるという考えと同じなのでは?と思ったからだ。
結論からいえば、それは違ったのだが、とりあえず、ぼくの思考経過を見てほしい。
原始仏典第二巻484ページには、アートマンについての記述がある。
「輪廻の主体となる個我を意味し、永遠不滅の実体とみなされる」とある。
これは、長部第十五経の「生成の由来についての大なる経」、大縁方便経の注である。
この経のある個所では、アートマンの想定、誤った立場として、アートマンの否定について述べられている。(「原始仏典」第二巻86ページから)
ここの注が面白い。
「アートマン(我)の存在を認める(有我)か、否定する(無我)かは、論理以前の前提であり、論理的に論証することはできない。それゆえ「無我」という前提に基づく論理は「有我」という前提を崩し去る力はなく、逆もまた同様である。構成のパーリ上座部の註釈者はこれに気づいていたようであり、かれらがここで註釈する「我」は、瞑想の修習時に修習者に生じる、一種の想念に変貌されている。」
仏教では、この原始仏典の中でも、輪廻を前提とした話をしている。
なぜならば、過去世に関する話、正確にいえば、過去世の記憶に関する話を、釈尊はしているからだ。
原始仏典第四巻の289-290ページ、中部経典I、第十九経「二種の思い」、双考経には、過去の生れや住所を思い出す智を身につけた、とある。
同様の記述が、同書51-52ページにある。(中部第四経「森に独り住む」、怖駭経)
同書550-551ページも同様である。(第三十六経「身体の修行と心の修行」、マハーサッチャカ経)
さらに、原始仏典第二巻の長部教典Ⅱ、第十四経「偉大な過去世の物語」(大本教)の中では、自分の過去世を思い出すのではなく、他人の過去世について語るということをおこなっている。ここでは、ヴィパッシン、シキン、ヴェッサブー、カクサンダ、コーナーガマナ、カッサパ、そして釈尊があげられている。ヴィパッシンは今から九十一番前の宇宙期、シキンとヴェッサブーは、三十一番前、残りは今の宇宙期にいた「仏陀」である。
第二巻の471ページには、注としてこのことに触れている。要約すると、「悟った人は宿住通(宿命通)という、すべての自分の前世の生活を思い出す能力を得るが、ここで釈尊は、自分ではなく、過去のほかの仏陀たちについての記憶を話したので、聞いていた比丘たちは、とてもびっくりした」ということだ。
六神通で調べると、似たような記述にあえるだろう。
さて、すると、輪廻する何かが存在すると釈迦は考えていた、というか、それが社会の前提となっていたのではないかと思う。
すくなくとも、過去生に対しては、「ある」と考えていたとみてよいのではないか?
そうでなければ、上記の話の説明がつかないだろう。
ただ、その何かが、「永遠不滅の実体」ではない、ということだったのではないか。
魂があるとしても、その魂は不変ではなく、さまざまに変化するもので、昨日怒ったものが今日笑っているように、不変の属性は持ち合わせていない、と言いたかったのではないだろうか。
さて、それで、一番はじめの、アートマンの否定というのは、死んだらなにもなくなることじゃないのか、という考えについてもどる。
もし、仮に、魂というものがなく、死んだらそれで終わりというのであれば、それを信じている人は、現代日本ではそれなりの数いると思う。
では、その人たちが苦しくないかというと、そんなことはない。(ぼくが現にそうであった)
そして、おそらく、仏教もそういう立場をとっていない。
上の話からも類推できるし、さらに、六師外道という、仏教とは「違う」とされた考えの中に、まさに「死んだらなにもなくなること」と同じ考えがあるように見えるからだ。
六師外道は、以下の六人。原始仏典第四巻722ページを参照した。
マッカリ・ゴーサーラは、員が応報を否定し、すべては自然のさだめであるとする宿命論。
プーラナ・カッサパは、道徳否定論者で、輪廻または業のはたらきを認めない。
アジタ・ケーサカンバラは、唯物論者で、これも輪廻ないし業のはたらきを認めない。(この考えが、上の死んだらなにもなくなると同じだと思う)
パクダ・カッチャーヤナは、地・水・日・風・霊魂・苦・楽の七要素のみが存在するとした。
サンジャヤ・ベーラッタプッタは、懐疑論者で、ニガンナ・ナータプッタはジャイナ教の開祖。
よって、死んだらなにもなくなる、という風には釈尊は説いていないと思う。
そのようなことは悟りに役立たないので、つまり苦をなくすことに役立たないので、形而上学的なことは、何も説かないという話もあるが、過去世について話しているので、そこらへんは、形而上学的に見えるようなことも言っていたのかな、と思う。
さて、それでは、いよいよ、四念処の話をしよう。
参考にしたのは、大念処経と、念処経である。
自分なりの理解なので、間違っているところもあるかもしれない。
正直にいえば、文章自体の理解はできるのだが、それが何を具体的にさしているのか、不明瞭な点があった。
不明瞭ではないと思っているものでも、実は、ぼくが間違えている場合もある。
それを了承して、読んでみてほしい。
まず、観察をするのだ。
何を観察するのかといえば、身体、感受、心、もろもろの事象の四つである。
「そして、身体は不浄である、感受は苦である、心は無常である、すべての事象は無我である」ということを、観察し、理解することで苦しみから抜け出せるらしい。
観察しつづけ、理解しつづけると、ずっと苦しくない、平安な状態にいたったままであることができるのだろう。
身体については、自分と他人の体が今、何をしているかを観察する。
長く息を吸っているなら、長く息を吸っていると観察する。歩いているや、手の動きなども同様。
自分の体が不浄物で汚れていることを観察する。臓物、血、汗、小便など。墓場の死体の観察をするというものもあるが、これはできないだろう。
この、自分の体がやっていることを理解し、体が不浄であると意識するのは、理解できる。
感受。対象と感覚器官が接触することで、感受が生じることを知り、それを観察する。
要するに、今苦しいとか、今楽しいとか、そういう感覚だ。
これも理解できる。
心。この観察は、「心に怒りがある」とか「心にむさぼりがある」とか見る。
心の中で生起し、消滅していく現象を観察する。
これも理解できる。感受と紛らわしいが、感受は五感を通して感じるもので、心は意識にのぼったものだと思う。
「バラを見ている」と観察することが感受を観察することで、「バラがきれいだなあ」という意識を観察することが心を観察することだと思う。
そして、もろもろの事象を観察する。
これがよくわからない。観察するのは以下のものだ。
五つの蓋。
色、受、想、行、識。(五蘊・ごうん)
目、耳、鼻、舌、身体、心と、その感覚器官の対象物。(六処)
七覚支。
生まれることは苦しみであり、老いることは苦しみであり、死ぬことは苦しみであり、憂い、悲しみ、苦痛、苦悩、悶えは苦しみ。(ここで、憂い、悲しみ、苦痛、苦悩、悶えは、たとえば、悲しみが悲しくて泣かされることだったり、苦痛が身体的苦痛で、苦悩が精神的苦悩だったりして、別に特別な語句ではなく、一般的な意味であるようだ)
求めても得られないということも苦しみで、五取蘊も苦しみ。
(いわゆる四苦八苦ではなく、四苦のうち病は入っていないし、求不得苦と五蘊盛苦はあるが、怨憎会苦と愛別離苦はない。)
もろもろの事象の観察、というのがよくわからない。
念処経の解説や註釈を見ても、いまいち、具体的に何を指すのか、不明瞭なのだ。
たぶん、これかな、と思うものはあるのだが、それが正しいのかわからない。
身体、感受、心については、観察すればよいのだろうと思うのだが・・・。
念処経、中部経典の第十経の、巻頭解説より、理解の助けになりそうな部分を参考にしたり、引用したり。
これが、少しでも理解の助けになればいいのだが。
身体、感受、心、法の四つの思念を常に発せよ、というのは同じ。
思念は、satiという名詞のの訳語らしい。サティ、と読めばいいのかな。
satiは、動詞形が、smr(rの下に.がついてる)で、「記憶する、心にとどめる、想起する」などの意味があるそうだ。(この説明は注より)
1.身体に関する観察
入息・出息、行住坐臥を通して身体を観察する。身体の現状を正確に把握する。身体を不浄物とみなす。構成要素(界。地・水・火・風)から身体を把握する。死体の観察。
以上の観察にもとづいて、身体の生起・衰滅に関する法を正確に知り、記憶にとどめる。
最後のふたつは、現代ではできなかったり、感覚があわなかったりすると思う。
2.感受に関する観察
快感、苦痛、さめた感じを感受する。それらの人間の感受の法及び、その生起と衰滅の法を観察し続け、記憶にとどめる。
3.心の観察
心の汚れを観察する。貪欲、瞋り(いか)、癡(おろ)かさに汚染した心、それらを離れた正常な心。統一された心、散乱した心、広大な心、広大でない心、解脱した心、解脱していない心をよく観察してその実態を知る。(観察して、なんの価値判断もはさまない、という解釈でいいんだろうか?)
4.法の観察
欲望思考、瞋り、うつ気と眠気、心の浮わつきと後悔、疑い(これは真理を把握できない無知というべきでは?)の五つの心の障害(五蓋)を観察する。
五取蘊の生起・消滅を観察する。(ぼくが見たかぎりでは、この本では、五蘊の説明はいまいちわからなかった。五蘊は、いわゆる、色・受・想・行・識のこと)
十二処を観察する。(目と色形あるもの、耳と音、鼻とにおい、舌と味、身体と触れられるもの、意ともろもろの法(意識を向けるものごと)の6かける2=12の、感覚器官とそれがとらえる感覚のことらしい)
七覚支を観察する。(七覚支の説明も、よくわからなかった)
四諦を観察する。
以上、1~4までの、身・受・心・法の四項目にわたって、思念を発しつづける。(つまり、サティしつづける、常に意識しつづけるということでオーケーなんだろうか)
------------------------補足というか、蛇足というか。-------------------------------------------
ダンマパダ 第5章 愚か者 69
悪がいまだ熟さぬうちは
蜜の如しと愚者は思う
しかし悪が熟すとき
そこで愚者は苦を受ける
(片山一良先生 訳)
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