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分類思考およびイスラム教について
 ぼくは無神論からの改宗者だ。少なくとも、そうみなすこともできる。
宗教は人が作ったもので、神は存在しない。そういう考えを持っていた。
 しかし、今は、無神論ではない。では何かと聞かれたら、「自分の考え」としかいいようがない。
少なくとも、ひとことで言おうとするならば。もっとくわしいことは、長い長い言葉で説明しなくてはならない。
しかし、これは、他の宗教や思想でも同じだと思う。
 仏教といっても、日本のそれは中国のそれと違うはずだし、タイのものとも違うだろう。
日本の中でも違いがある。もっといえば、ひとりひとりの中でもちがいがある。
 9.11テロのあとから、イスラムが注目されるようになったと思う。
しかし、ぼくが本やニュースやネットで調べた限り、どの情報源をたどっても、国よってけっこう違いがあるようだ。
ひとりひとりの解釈についても、やはり違いがあるんじゃないかと思う。
 キリスト教も、いろいろな考えをもった人が中にいる。
それと同じに、イスラム教も、いろいろな解釈が個人の中でされていると思うのだ。
だから、一口に、「イスラム教はテロリスト養成宗教である」とか「イスラム教は女性に優しい」とかいうのはおかしいと思う。
テロリストじゃないイスラム教徒も知っているし、女性に優しくないイスラム教徒の話も、ニュースや本やネットや、イスラム教徒自身から聞いたことがある。
 要するに、イスラム教やキリスト教や仏教自体が、いいとかわるいとかはいえないんじゃないかと思う。
その信者がどう考えるか、どう行動するかが問題なのだと思う。
中には、人をたとえたくさん殺しても、アラーを信じているから天国にいけるというイスラム教徒もいるかもしれない。
しかし、それは、キリストを信じているから、何人殺そうが天国にいけるというキリスト教徒と変わらない。
一般化していえば、自分は正しいから、正しくない相手を殺したって問題ないという人間と変わらない。
 やっていることは同じでも、自分たちのほうが正しいのだ、だから、他人を傷つけても許されるのだと思っている人は、自分の宗教や思想が正しいという証拠を見せて欲しい。
 他の宗教や思想や考えではなく、自分たちの宗教や思想や考えが正しいのかを。
 世界を説明する方法はいくつもある。
 他の説明を完全に否定して自分が正しいという理論は、いまだ発見されていない。
 いや、完全に否定できるという人は、世界が五分前にできて、自分たちの記憶もふくめてすべて、神のような存在がつくっておいたのだという考えを「ありえない」と論理的に説明してほしい。
この仮説がお好みでないなら、「この世界は、機械に接続された人間が見ている夢で、実は神さまなんてのはいない」の否定でもいいし、「実は神様は存在していて、すべては運命にしたがっている」でもいい。
とにかく、自分とは違うようなそういう仮説を、完全否定できるかというのが問題なのだ。
 「そうは思えない」、「とても信じられない」とはいえても、「その可能性がありえない」とはいえないはずである。
そうならば、自分の宗教や思想の説明が唯一絶対に正しいとはいえない。
 もちろん、論理的に証明できないとしても、その正しさを信じるのが宗教というものだろう。(思想は、そういうものではない場合もあるだろうが)
しかし、自分が正しいと信じるからといって、それをあたかもすでに照明された真理のようにあつかうのは論理的に見て正しくない。
科学や数学のように論理的に正しさがわかる、あるいはだれの目からみても一定の合意が得られるものではないのが、思想や宗教だろう。
だからこそ、自分がいくら正しいと信じているものでも、けんきょになって、相手の言葉に、「おがたいに」耳をかたむけることが重要なのだと思う。
 科学や数学のように万人に、少なくとも多くの人に、真実だと納得させることができないなら、宗教や思想については、どのような説も否定しないことが、一番みんなが納得するんじゃないだろうか。
だれもが言いたいことをいえるのだから、公平だし、少数派にもやさしいと思う。

 ただし、それでも、自分が絶対に正しいと思い、他人のまちがった発言は認めないという人にたいしては、どういう行動をとればいいのか。これは、ぼくも考えているところだ。



 イスラムについてちょこっと。

 この話を書くきっかけのすべてではないにしろ、ひとつには、イスラムについて少し調べていたということがあった。
その調べものについても、ちょっとまとめておきたい。
 イスラム教は過激な宗教か?
この問いには、「はい」という人も、「いいえ」という人もいる。
上で書いたように、これは、答える人が、イスラム教という宗教をどう解釈するかによるだろう。
 上にも書いたが、ぼくは、ある思想や宗教がそれ自体で善だとも悪だとも思っていない。
解釈のやり方によっては、どんな思想や宗教も、いくらでも人殺しの理由にできると思う。
 だから、「イスラム教は〜」とひとくくりにして言う人は、「日本人は〜」とか「仏教は〜」というのと同じようなことを言っていると思う。
日本に長く住んでいるとわかる人も多いと思うが、日本人や仏教でひとくくりにできるほど、その中身は単一的じゃない。
単一的にしたい人、単一的だと主張したい人はいるかと思うけれど、ぼくと別の日本人との違いが、ときに外国の友人との違いよりも大きく感じられるときは、案外あったりする。
 この掲示板(http://www1.rocketbbs.com/411/sarah.html)では、イスラム教に改宗した妻が、「イスラム教だから〜」といわれて、したがうようにいわれることが、その国の習慣だったり、まったくイスラム教と関係がなかったりすることもあると書いてあった。
日本人が「日本」に身近すぎて、ある行動が、日本では当然なのか、個人の中では当然なのか、家族の中では当然なのか、わからなくなっている場合と似ていると思う。
生まれながらのイスラム教徒も、その行動が、イスラム由来だと勘違いしていたり、悪意をもってだますこともあるそうだ。(例 結婚 2)
 「イスラム教はこうだから」に、盲目的にしたがうのではなく、「それはあなたのイスラム解釈であって、わたしはそうは思わない」ということが大切だろう、もし相手の言っていることに違和感を感じるなら。
この掲示板では「常識ー」といわれていた。
日本でも、「それが社会では当たり前だ」とか「社会人ならこうするのが当然だ」とか「子どもなんだからこうするべき」という声が聞かれる。
しかし、それは、そういう発言をしている人にとって当たり前なのだ。
そういう人たちの解釈を、まるですべての世界に通じる真理のようにいっているだけだ。
 違和感を感じる人に対して、「うちはこうだからだまってしたがえ」というのは、洗脳カルト教団と変わらない。
 やはり、自分なりの判断や解釈をするのが、どんな宗教、どんな文化においても大切なことではないかと思う。
以下の引用は、自分なりの判断や解釈をしているイスラム教徒のお話。


http://www012.upp.so-net.ne.jp/globers/ny/ny17.html より
 私にはとてもイスラム教について解説する能力はありません。私の友人と、イスラム教国ヨルダンの大学生、タイムール・ハンドークさんとのやりとりをお読みください。タイムールさんは日本語も英語もかなりできるので、やり取りの原文も日本語ですが、本に収録するにあたって多少の手を入れ、また一部は省略してあります。Qが友人の質問、Aがタイムールさんの回答です。なおタイムールさんは神学者ではありませんから、ここに書かれているのは必ずしもイスラム教専門家の解釈とは一致していないかもしれません。

Q.聖戦(jihad)とは何ですか?
A.jihad は簡単に言えば、何か悪いことに反対して解決するようにがんばることです。jihadは戦うことだけではなく、言葉で、common sense(常識)で、手で、心でやります。たとえば 「不公平」な人に、勇気をだして、「あなたは不公平です」と言うのも jihad のひとつです。自分の国を守って戦うこともjihadですね。 Q.この前イスラム教は戦いの時に宗教の違いに関係なく、命を大切にすると言っていましたね。
A.そうですね。イスラム教では自分の宗教を自由に選べますので、戦争の時、人々をみんな同じに取り扱うことは大切です。その人々の権利はイスラム教徒の権利と同じに大切にします。

Q.イスラム教の一番中心になっている人は誰ですか?その人がテロリストをたしなめることはできないのですか?
A.これはとても大切な質問ですね。イスラム教では本当にたくさんの偉い人がいますけど、一番大切なのは自分自身です。どういうことでしょうか?例えば、何かが悪いことか良いことかを判断する時に、私はコーランと「アル−ハディス」(モハンッマド予言者の言葉)のルールをベースにして、そして私の頭を使わなければなりません。今やムスリム世界の一番大変な問題は、コーランやハディスに頼らないで、自分で考えずに偉い人の意見を鵜呑みにしまうことです!
もちろんイスラム教や法律について偉い人に聞くのは良いことですけど、自分の頭を使わないのは困りますね。イスラムのことに一番詳しい人はエジプトの「アル アズハール」モスクの人です。かれらはこの間あった事件に大反対です。私はテロリストのすることは狂っていると思います。彼らは何かすごくひどくイスラム教を間違っていて、私には理解できない人たちです。

A.アラーの神様はイスラム教でない人とどうやってつきあいをしろと言っていますか。
Q.イスラムではみんなは自分の宗教を選択するのは自由ですけど、その時もその判断の責任を持たなければならないでしょう。いっしょうけんめいムスリムの人として生活した人は、ムスリムではない人が神様に会うときと同じにはならないでしょう。その時に神様は自分がやったことと判断したことの責任を問います。ほかの宗教と同じに地獄と天国がありますよね。 でも普通の生活では、神様は公平にみんなに生活させると信じています。悪いこともいいこともおこるでしょう。

Q.仏教徒である私をみたら、アラーの神様はどう思うのでしょうか?
A.先に伝えたとおり、普通の生活では誰でも宗教を選ぶのができますけど、やはりムスリムの人だったら神様を喜ばせて、ふつうの生活や死んだ後の生活も幸せになると信じています。

Q.仏様は、仏教を信じている人もイスラム教を信じている人もキリスト教を信じている人も何も信じていない人もみんな愛しています。アラーの神様もそうですか?
A.神様は完璧ですから、みんなを公平に取り扱います。良い人だったらやはりアッラー様はそれを大切にして、生活を楽にさせる、悪い人だったら神様を怒らせて、悪いことの責任をとらせるようになると信じています。
 これを読んで感心したのは、イスラム教の本質は「一人一人が自分の頭で何をするべきか、何をしてはいけないのかを考えることにある」という点です。そしてタイムールさんは、誰かの命令を盲目的に実行するのでは、モスリムとは呼べないと考えているようです。戦闘性とか厳しい戒律ばかりが強調されがちなイスラム教が、実は非常に哲学的かつ内省的であり、常識的な宗教であることが理解できます。私たちは突出した武力集団や過激な言動を行う指導者でイスラムのイメージを固定させるのではなく、常識的な人たちにアピールする、常識的な宗教であることを認識すべきかと思います。そうでなければ世界中でこれだけ多くの人たちが信仰することもなかったのではないでしょうか


他に、ちょっとメモ。個人的に気になったサイトなど。
--------------- Wikiからの引用

非正統的解釈への対応に関して [編集] 中田考は、同志社大学一神教学際研究センター(以下「CISMOR」)において、イスラエルから来たアラブ人ムスリムの学生(自分自身で、イスラエル占領下の二等市民だとイスラエルのパレスチナ政策を批判)ムハンマド・アブー・サムラが、クルアーンは完全ではなく、神のみが唯一なのであり、クルアーンの中にある矛盾点は厳しく指摘されなければならない。また、イスラーム教の護教的論者はイスラーム内の抑圧、差別、不平等を外部に責任転嫁するばかりでなく、内部から出てきたものである面も直視しなければならない、ムスリムとして、自分たちの宗教の中の悪を見つめ正さなければならないとの主張をしたのに対して、CISMORの幹事としてこの発言を議事録から消去しようとした。理由は、アブー・サムラがクルアーンは完全ではないという、イスラームの専門家(ウラマーゥ)のコンセンサスに反する発言をしたからであった。また、アブー・サムラに対して、『ムスリムを自称する』と、事実上のタクフィールに近い意見を述べた。そしてアブー・サムラの意見を『単なるイスラームへの冒涜』と切り捨て、この様な発言を議事録に残すことは『CISMORの学術的信用性を傷つけ、またイスラームの冒涜を容認するもの』であるとして、編集委員会で発言の削除を訴えた。しかし、中田の意見は、CISMORの他のメンバーによって拒絶され、アブー・サムラの意見の存在は守られた。中田考はこの扱いに抗議し、『本件に関して、今後いかなる自体(正しくは「事態」だが、ママ)を招来しよう(脱字「と」があるが、ママ)も、小生は現世においても最後の審判(脱字「に」があるが、ママ)おいても一切の責任を負わない。』と言い残した[5]。

[5] 国際ワークショップ「宗教における戦争と暴力:一神教世界からの応答」p402、p408(ファイル内ページ数)、CISMOR、2004年2月20日、同21日(PDFファイル)
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ぼくは、この中田さんの考えには、明確に反対だ。
これは、イスラームへの冒涜でもなんでもないと思う。
第一に、そしてもっとも重要な理由として、言いたいことが言えないというのは、間違っていると思うからだ。
そんなことをしたら、だれかによって都合のよい言葉だけが、聞かれることになるだろう。
自分たちの現在持っている考えが正しくて、批判は許さないというのは、オウム真理教などの、カルトの思想であると思う。
第二の理由として、ぼくの理解によれば、イスラム教徒は、自分がアラーを信じると述べれば、イスラム教徒なのであり、中田さんは、ムスリムを自称するなどという言葉を相手にいう権利は、ないのではないか?
蛇足かもしれないが、イスラム教は、ひとつではないと、ぼくは調べたかぎりでは思った。
キリスト教や、仏教も、地域によって特色があるように、イスラム教も違いがある。
一番現代で目立っているのは、いわゆる過激派というか、「伝統的なイスラム教」にもどれ、という一派だろう。
だけれど、そこでいう「伝統的なイスラム教」というのは、現代に生きているある種の人たちにとって「理想である」イスラム教であって、あえてきつい言葉を使えば、都合のよいところをとったイスラム教だ。それが悪いかどうかはさておいて、過去にもどるというよりも、過去の中から取捨選択して、人為的に構築した「新しいイスラム教」というのが、正確な言い方だろう。キリスト教のプロテスタントのようなものだ。プロテスタントも、聖書に帰れ、という「伝統回帰派」・「原理主義」の運動だったのだから。
しかし、どこのだれが、過去のイスラム教を完全に再現できるだろうか? あらゆる伝統を重視する人たちがそうであるように、昔行われたことのうち、自分たちにとって都合がいい部分を取っているのである。過去を完全に知るすべがないため、完全な再現などありえないはずだ。
ぼくは、この中田さんの発現に、宗教の最悪の部分が出ているように思う。
自分に都合の悪い話を、冒涜として切り捨てるのは、とても悪いことだし、誠実でもないと思う。
カトリックの異端審問がおぞましいものであったように、自分たちのイスラム解釈と相いれないものの口を封じるというのは、同じようにおぞましい。
イスラム教はひとつではなく、いろいろな解釈が生まれているし、人によっても解釈は違うだろう。旅行記を見てみれば、インドネシアにイランにサウジアラビアやトルコは、どれもイスラム教国だが、全部違う文化、違うイスラム教が見れるだろう。
上の、タイムール・ハンドークさんの言うように、自分の頭を使って考えれば、やはり解釈は個人の中でもある程度、違うようになるはずだ。
中田さんの言うことは、自分のイスラム解釈が最も正しいのであり、ほかの考えは認めないという考えに見える。
ぼくは、こういう態度には、本当に反対だ。自分の宗教が正しいと思うなら、言葉によって伝えるべきで、口を封じるのは最悪の手段のひとつだろう。


風大陸
http://www.kazetairiku.com/index.htmより
「娼婦の値段」
〜 トルコ トラブゾン 〜
http://www.kazetairiku.com/note/turkey/diary_46.htm

世界を劇的に動かすワークショップblog
http://karadaws.exblog.jp/6287673/

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