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「佐倉哲ホームページ 佐倉哲エッセイ集」の紹介
わたしが、「聖書は神の言葉であり、いかなる誤謬も含まない」という主張にこだわっているのは、「はじめに」でも説明しているように、この主張が「聖書に書かれているから真理である」という主張に他ならず、それはとりもなおさず、真理の主張が、知識を根拠にしてではなく、権威を根拠になされていることを意味しているからです。
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/bible/bible95.html
聖書原理主義、聖書無誤謬主義に対して、論考をしている佐倉哲さんのホームページの紹介です。
いいですよね、サイトマスターの名前+ホームページ。90年代から00年代初頭は、このタイプの名前のつけかたも、けっこう多かったと思います。
トップページは、以下。
http://www.j-world.com/usr/sakura/index.html
キリスト教以外にも、仏教、新興宗教、和の思想、憲法、人権思想、アメリカ、日米関係、日本の民主主義、いじめ自殺などの問題についても書いています。
思えば、このサイトは、五年以上前にも見たような記憶があります。
まためぐりあえたことは、幸運です。
この時代から続いているサイトって、やっぱりなにか凄みを感じることがあります…。1996年に開かれたサイトですから、ネットのサイトの消滅の速さを考えると、これはかなり長寿サイトです。
さて、では、なにが、このサイトでいいと思ったか。
実のところ、個々のデータ自体は、そこまで、ぼく自身がキリスト教の多数派の教えに興味があるわけではないし、聖書無誤謬主義者でもないので、無誤謬主義者にからまれたときなど、必要なときに参照すればいい、というような認識であります、正直に言えば。
でも、このサイトの精神には、大切なところがある、と思いました。
一番上の引用を見てください。
これです。
何が正しいのか、が「えらい人がいったから」、「まわりがそう言っているから」で決まるのは、おかしいと思いませんか。
だれがなんと言おうと、たとえば、地球は太陽の周りをまわっているのです。
ガリレオが仮に処刑されたとしても、それは不変です。
たとえば、「人は、はだかでは空を飛べない」。
偉い人が言おうが、まわりができるといおうが、無理です。それは正しい事実認識ではない。
えらい人が言ったことでも、まちがえている可能性はあります。
まわりの人みんながまちがっていることだってある。
そういう可能性って、ありますよね。
だったら、何が正しいか、間違っているかを決めるのは、えらい人の意見や、まわりの意見じゃない。
つまり、権威じゃないです。
自分の頭で考えて、それから決めるべきだし、もしそれの間違いを指摘されたらなおすべきです。
そして、自分の頭で考えるときに、なにが事実であるのか、というのは、知識や知性によって決まる領分だと思います。
信念とか、感情とかは、なにが事実であるのかを決めるときには、役に立ちません。
信念によって、解釈が変わることはあっても、事実は変わりません。
(ナマの事実は存在しない、事実は解釈によって構成されるという考えもありますが、人が死んだときに、解釈によってよみがえることはない、というレベルの話だと思ってください。人が死んだときに、それが天国にいったか、それとも無に返ったか、というのは確かに解釈の領域だと思いますが)
特に、ぼくが秀逸だと感じた以下の記事から、長いですが、引用を。
もちろん、原文にあたってくださるのがベストだとは思いますが、いつ消えるかわからないネットの情報ですので、大事なところを引用します。
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/bible/b416.html
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1.低俗な作業のパワー
ところが、「虫の足の数を数え間違えているか」を調べるというような低俗な問題には、実は、「人類はキリストの血によってその罪を許されるか」などを考える高尚な問題にはまったく欠けている、きわめて優れたところが一つだけあります。それは、正しいか間違っているかが誰の目にもはっきりわかるというところです。
2.クリスチャンが聖書をたんなる寓話として読むことのできない事情
聖書を読むクリスチャンたちにとって、じつは、聖書を寓話としてだけでなく、どうしても事実の書として読まなければならない決定的な事情、すなわち、聖書に書かれている歴史的事件がクリスチャンの救済の根拠となっているという事情があるからです。たとえば、イエスは彼を信じる人々の<罪の許し>と<永遠の命>のために、十字架にかかって死に、三日後に復活した --- ということがもし歴史的事実でなく、単なる寓話であるとしたら、キリスト教の言う意味での救済というものはなくなってしまうのです。
(中略)
要するに、聖書寓話説をハットの中から取り出して、それで聖書批判者をうまく煙にまくことができたとしても、クリスチャンたちは、うちに帰れば、かれら自身が、結局のところ、どうしても、聖書を歴史的事実を書いている書として読まざるを得ないのです。証拠を消したと思っても、自分自身が犯行の目撃者である事実は消せないのと同じです。他人はごまかせても、自分はごまかせません。それが、聖書寓話説の限界です。
そして、クリスチャンが聖書を歴史的事実を書いてた書として読まざるを得ないところに、聖書の間違いの問題が大きな意味を持つのです。単なる寓話なら、「事実か否か」などという問題はありえませんが、歴史的事実を書いていると主張するなら、「事実か否か」という問いは意味を持つからです。こうして、聖書が事実を書いているのかどうかを吟味する低俗な作業は、クリスチャンにとって、きわめて重大な作業になるのです。
では、四福音書の復活記事の矛盾やその他の聖書の間違いはいったい何を意味するのか。その意味するところはこうです。すなわち
「聖書に書いてあるから」という理由で、それが事実であるとは、もはや主張はできない
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引用終了。
1に書いてある、「低俗」な作業には、問答無用で白黒つける力がある。
これは、そのとおりです。
科学が宗教の権威をある程度、失墜されたのは、この力によるものでしょう。
人がものごとを判断するときには、ふたつの違う領域があると思います。
ひとつは、価値判断。もうひとつは、事実判断です。
どちらも、正しいとか間違っているとかいう風に表現される判断ですが、
人によって変わるのが、価値判断。
だれが見たってどっちかに決まるのが事実判断です。
(データが足りないと、事実判断ができなくなることはありますが)
1は、この事実判断について書いてあるのですよね。
2については、これはぼくがキリスト教徒でないからかもしれませんが、ちょっと異論?があります。
このサイトの作者さんも別のところで、言っていたと思いますが、別に聖書に間違いがあるからといって、それでキリストの救いがなくなるというわけじゃないんですよね。
別に復活が寓話であっても、キリストがなんらかの形で、助けにくるということは、ありえるんじゃないでしょうか?
それは、もしかしたら、いくつかの宗派の教えとは違うのかもしれません。
でも、それはやっぱり、自分のキリスト教であることに、違いはないと思うのですよね。
そもそも、同じ宗派でも、考え方がまったく同じということは、ありえないと思うのです・・・。
人はひとりひとり、違う考えや感じ方、価値感を持つわけですから・・・。
そしてこの記事は、付録が秀逸。
とても出来がいいので、長いのですが、引用させていただきます。
これは、ファンダメンタリストだけじゃなくて、他の種類の「ごまかし」をしている人たちにも使える方法だと思います。
ただし、これは、「議論」をするときに使える方法ですから、もし相互理解をしようという場合には、あるいは受容をしようという場合には、あまり効果はないかもしれません。
それでも、この考えかたをいれておくことは、とても大事なことだと思います。
ひとつには、他人の筋のとおっていない考えかたに反論できるから。
もうひとつには、自分の筋のとおっていない考え方を見直せるからです。
あと、ファンダメンタリズム、いわゆる原理主義、ここでいうところの、聖書無誤謬主義の定義も、「そうか!」と納得のいくものです。
ちなみに福音書は伝記文学に入るわけ、同じ人の伝記でも誰が書くかでびみょーに人物像が違ったり、同じ事件の捉え方、そのことが主人公にどんな影響があり、意味があったかの描き方、解釈が変わってくるし、どの資料やどんな人の証言を用いたのか、また、編集時の著者の解釈が入るでしょ。同じ事柄でも、それを見る人によって、いろいろな違いがあるのは当たり前である。二人の意見が異なっているからといって、その二人の意見が間違っていることにはならない。たとえば、円すいを真上から見た人は「それは丸く見えた」と報告し、それを横から見た人は「それは三角に見えた」と報告するかもしれない。二人の報告は異なっていても、どちらも間違ってはいない。それぞれの違う視点から同じものが異なって見えているにすぎない。だから、相違しているからといって、間違っていることにはならない。そうおっしゃりたいわけです。
僕もファンダメンタリストの人たちの聖書観には、問題を感じるけどね。(彼らの場合、ウサギと亀の教訓は真理だから、昔は喋る動物がいたに違いない。って言ってるのに近いから)間違いの指摘が当てはまるのは、一部の偏狭なファンダメンタリストの聖書を文字通り読むという浅薄な読み方だ。自分たちは聖書を文字通りには読まないのだから、ファンダメンタリストではなく、間違っているという指摘も当てはまらない、と言いたわけです。
ファンダメンタリストの聖書解釈はどの点において他の人々の聖書解釈と異なっているか? このような質問に対して素人は、しばしば、「聖書を文字通りに解釈する」、などと答える。しかしそれは事実からほど遠い。ファンダメンタリストとそうでない人々を区別しているものは、文字どおり主義かどうかではなく、誤謬性に関するものである。たとえファンダメンタリスト自身が「文字通りに解釈する」と言っている場合でさえも、事実はそうではない。ファンダメンタリストが強調するのは、聖書は文字通りに解釈すべきであるということではなく、いかなる誤謬も含まないように聖書は解釈すべきである、ということである。聖書にはいかなる間違いも含まないという目的を達成するためには、彼らは、文字通りの解釈と文字通りでない解釈の間を無原則にいくらでも行ったり来たりする。ファンダメンタリストの聖書に関する最も主要な主張は、聖書は神によって書かれたものであって、それはいかなる誤謬も含まない、ということなのであって、聖書は文字通りに解釈すべきである、などということではない。それは彼らの文献に明らかである。
・・・よく引き合いに出される例を挙げると、今日のほとんどの保守的意見は創世記における創造物語を文字通り解釈しようとはしない。文字通りに解釈すれば、世界の創造はわずか6日6晩で行われたことになるが、かれらの文献によれば、そうではない。むしろ、「一日」を文字通りに解釈することに対する危険性や困難が述べられている。New Bible Commentary (Inter-Varsity Press, 2nd ed. 1954, p.77) において、E.F.ヶヴァン氏はそれを「普通の一日」と解釈することは「真の困難」をもたらす、と書いている。・・・・「多く」はそれぞれの一日を「24時間」としてではなく「地質学的期間」としている、という。
[中略 ここでジェームス・バーはその他のファンダメンタリスト文献からも例もいくつか挙げている。]
ここに見られるのは、創世記1の文字通り解釈よりも象徴的解釈の方である。ファンダメンタリストのなかのひとにぎりの過激派だけが、まだ文字通り解釈をしているだけである。このようになった理由は明白である。・・・・何が起きたかというと、地球の形成が極めて長期間を要したものであったという科学的見解が否定できないほど強力となったからである。文字通りに解釈すれば、ファンダメンタリストのインテリ達が今では受け入れているこの科学的見解に反することになってしまう。そうすると、聖書には間違いがあることを認めざるを得なくなってしまう。それを避けるために、保守的インテリ達は文字どおりではない解釈をせざるを得なくなる。それだけが、聖書の無誤謬性を救うことができるからである。
100年ほど前ならば、おそらく、多くのファンダメンタリストは文字通り主義を貫いていたであろう。もし、聖書の文字通り解釈と科学的見解が異なる場合は、かれらは、むしろ、科学の見解を捨てていたに違いない。・・・・
[中略 ここでジェームス・バーは、創世記における七日を一週間と解釈しないことが不自然であることを指摘し、そのあと、創造物語以外の例を挙げている。]
こういうわけで、最初の例にも見たように、あきらかに、ファンダメンタリストの聖書解釈は文字通り主義ではなく、むしろ、文字通り解釈と文字通りでない解釈の間でさまざまま解釈を施している。このさまざまな解釈を導いている彼らの聖書解釈の本当の原則は、聖書は無誤謬で、いかなる間違いもあってはならない、というものである。無誤謬性は、このように聖書解釈の様相を常に変えること、とくに、必要ならば文字通り主義を捨てること、によってのみ保たれているのである。
(James Barr, Fundamentalism, The Westminster Press, 第三章より、佐倉訳)
聖書が書いていることを、書いてあるままに解釈すると、聖書に間違いがあるという事態に陥ってしまうので、そういう場合は、書いてあるままに解釈してはならない。ただし、間違いがあるということにならなければ、書いているままに解釈してよろしい。大切なのは、聖書が何を語ろうとしているかを知ることではなく、聖書には間違いがないように解釈することである。ということだからです。