いろいろと思うことをまとめてみた 2012年冬頃に思ったこと

Internet ist tot!
(インターネットは死んだ! 〜ニーチェ「神は死んだ」より〜)

古き良きインターネットをだめにしたものは何か。

はてなブックマークで、一時期、このようなエントリが話題になったことがあるが、
「古き良きインターネットをだめにしたものは、お金である」
という、あるエントリ(http://anond.hatelabo.jp/20111123155348)のいうことは、一定の説得力があるように思う。

自由な精神は、お金とは関わりのないところで成立すると思うが、
お金がかかわると、つまり、ビジネスがかかわると、(なくなるとはいわないが)自由な精神は後ろにしりぞき、
かわりにお金儲けのためのいろいろな手管が顔を出す。

インターネットをする時間を、別のことにつかったほうが、2012年現在は、有意義にすごせるのではないか。
十年前ならともかく、今のネットには、かなりお金のにおいがぷんぷんするコンテンツがあふれているように思う。

昔を美化することはしたくない。
昔はよかった、とも言いたくない。
だけど、ぼくは今のインターネットに自分の居場所がないと感じているのだ。
今のインターネットのほうが、昔よりも楽しめる、昔よりも居場所があると感じている人もいるだろう。
でも、ぼくは違う。
ネチケットや、掲示板での丁寧なやりとりや、こじんまりとした共有空間といったものは、今のインターネットにはない。

2000年代初頭には、まだ、検索エンジンはYahoo!が全盛であり、
検索すれば、個人サイトがヒットした。
それから、まずブログが台頭し、次第に2ちゃんねるのまとめサイトが検索上位にくるようになった。
いつのまにか検索エンジンはGoogle一党支配になり、Facebook, mixi, twitterなどのSNSが力を持ち始めた。

現実世界とは違う、異界としてのインターネット、ほんの少しの人しか知らない特別な場所としてのインターネット、
ハンドルネームを使い、現実世界の自分のことをだれも知らない人のいるインターネットは、
もはやなくなってしまったのだなあと思う。
ネット人口が多くなって、いろいろなことがネット経由で出来るようになって、
ダイヤルアップからブロードバンド回線になって、データ送信量が増えて、
そしていろんな人がビジネスチャンスを求めてやってきて、
インターネットにあったぼくの好きな場所は、どんどん小さくなった。

でも、それでも、そういう場所は、まだ残っているし、これからも残り続けていくだろう、
インターネットに流れる情報の中に占める割合は低くなっていくとしても。

しかし、では、自分に、昔のインターネットを再興する情熱があるかというと、それもちょっと違うのだ。
だいたい2003年あたりからすでに、たくさんインターネットをしたあとで、
無駄な時間を使ってしまったと後悔することもあったし、それをなんとかしようと思っていた。

あのころのインターネットにあったすばらしいものは、
今はインターネットの中ではない、どこかべつのところに移っていったのではないか、
とぼくは思う。

もちろん、今のインターネットにも、見るべきものはあるし、有用なところもある。
ぼくの一番好きだった、小さな共同体としてのインターネットが、めっきりすくなくなったとしても、 インターネットのすべてを否定することはできない。
だからやっぱり、つりあいが大事なのだろう。つりあいをとることが。

そしてこれからは、インターネットじゃないところに、重みを置くことのほうが、
なにか面白いものが見つかるのではないかと思っている。


追伸
ぼくは、今まで、いろいろな問題の解決を、インターネットで探すことをやってきた。
「死の恐怖 対策」とか、「海外就職 方法」とか、「違う働き方」とか。
いや、もう本当にたくさん。しかし、その情報が直接役立ったということはなかった。
のだけど、間接的に役立ったこともあるのだよね。
ただ、やはり「これで解決〜!」というような解決策は、なかなか転がってはいない。
それは、まだ見つかっていないというのもあるだろうし、そのような解決策を載せているサイトが少ないのもあるだろう。
また、そのページの作者ができた方法が、自分にはできないものであることもある。
このサイトでは、なるべくなら、そういう、いろいろな問題についての、具体的な解決策を提供できたらと思っている。

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人間について

意識しているいないに関わらず、がんばっていない人はいないと思う。
その人なりの価値感にしたがっていろいろやっているはずだと思うのだ、おそらくは。
仕事をがんばっている人から、なまけているように見える人は、あまり働かないことに価値をおいて、その追求をがんばっているのかもしれない。あるいは仕事じゃないところをがんばっているのかもしれない。
また、普通に元気がなくて憂鬱な気分と戦っているのかも。だから、何かをしないことについて非難するのはどうかと思う。
まったく何もができなくて、何もかもをやる気にもなれない人、そういう人を非難する人がいるが、もっとも気にしなくてはならないのは、そこまで生命力が落ちているというその点だ。
そこまで、面白いと思えるもの、やる気になれるものが存在しないという環境こそまずいと思う。
何かを積極的にやる元気、生命力があることは、その方向性がいいかわるいかはともかく、とりあえず、人間にとってはそこまで悪い状態ではないと思う。つまり、健康ということだ。
しかし、面白いと思えるものや、やる気になれるものがまったくないとするならば、それは不健康な状態であるし、そのような状態においこんだ、周りの状況のほうが、本人よりも責められるべきだと思う。
だって、「なにのもやる気がでない無気力な状態」って自分で好んで作り出すやつはいないですよね、たぶん?
それは、まわりのなんらかの影響で、そういう状態に追い込まれたと考えるほうが自然だと思う。

閑話休題。
これは真剣に思うのだけど、人間を言葉であらわすことなんてできるのだろうか?
昔、エリクソンやフロイトなどの心についての理論を読んだとき、そんな理論にぼく(たち)をあてはめるなと言いたくなった。
心理検査も同様に嫌いだ。
血液型性格診断は、心理学的基礎すらない時点でさらに嫌いだ。
遊びならいい。単なるゲームとしての心理ゲーム、血液型性格診断ゲーム、星座占いゲーム、そういうのなら、ぼくだって楽しめる。
案外あたっているかもねー、なんて、バーナム効果(だれにでも多かれ少なかれあてはまることが、まさに自分のことをいっていると錯覚する効果。血液型性格診断の血液型と内容の組み合わせを変えても、「あたっている」と感じる人が多い実験などがこの例)を実感しながら楽しめばいい。
でも、それが、大手をふって歩くようになると、うさんくささが否めない。
あくまで、人を理解するいくつもある「解釈」のひとつであると考えるべきだろう。
だいたい二百年くらい前から、いろいろな「科学」が出てきたが、社会科学と人文科学については、真理を見つけるというよりも、解釈や説明を見つけるというほうが正しいだろう。
それは、本来、あたりまえのことだったと思うのだが、最近は、文学と哲学以外は、それを忘れてきている気がする。
解釈や説明が、たったひとつの真理でないからといって、価値が減じるわけでもないのだから、たったひとつの真理を社会科学や人文科学で求める必要はない。もし、そういうものがあればそれでいいが、別に解釈や説明でけっこうではないか。
世界にはいろいろな見方がある。
これこそが、自然科学にはない見方であり、世界を幅広く見る能力であると思う。
少し話がそれたが、理論や言葉で人間を規定しようとする、そういう試みには、断固としてノー!といいたい。
心を理解しようとする、それは確かに大事なことだけども、解釈や説明を真理としてしまってはいかんと思う。
まあ、もちろん、自然科学の知見がすべて真理であるわけもなく、すべては暫定的に真理とされているだけだと思うのだが。(この話については、懐疑主義、科学哲学関連の書籍を参照するとよい。)

話はまた変わるが、ぼくには夢がなかった。
ちいさいころから無かった。
大きくなったら何になりたいのといわれても、なんにもなりたいものがなかった。
「西の魔女が死んだ」だったか覚えていないのだが、こんな話があった。
欲しいものは、まだ見つかっていないのじゃあなくて、まだこの世界にないのかもしれない、のようなことが書いてあったように思う。
すこし、楽になった。
夢がある、目標があるのを前提とするこの社会は、どうも居心地が悪い。
どこぞのインディアンの理想の人生に、昔見た鳥を追いかけて追いかけて、死ぬときに空にチラッと見えるような気がするというのがいいという話があったような気がするが、そういう人生になるかもしれない、と思う。


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人生について

今はつらくても、ここを乗り越えたらいい結果が待っていて、今までの苦労がチャラになる。
そういう言葉がある。
これは、うそだ。
すくなくとも、ぼくの人生では、これはうそだということがわかっている。
そのような経験は一度もない。
どんなに周りから評価されようと、そんな周りからの評価など、そもそもぼくには価値がないので、
つらいことは単につらいことである。
たのしくやって、周りから評価されないほうが、ぼくは、ずっと幸せだ。
つらいことのあとに、幸せなことがおこったら、
それが本当に幸せなことなら、
いままでのつらいことはチャラになるのだろうか。
たぶん、なる気がする。
ほんとうに幸せなときは、つらいことなど思い出しはしない。
だからたぶん、ぼくは、周りからの評価ではなく、
自分の心の声を聞いて生きていくことが、よい人生を生きていくことになるのだろうと思う。

そういえば、ギリシア哲学のソクラテスが求めたのは、
人間が幸せに生きるにはどうすればいいか、つまり善く生きることを追い求めたそうな。
それならば、ぼくの求めることと一緒だ。
ちなみに、善く生きるは、古代ギリシア語でエウ・ゼン(Ευ Ζην)。
手元のメモには、大文字と小文字の混合で書かれているが、確か古代ギリシア語には大文字しかなかったような・・・。
ギリシア語アルファペットのつづりは、「イプシロン、ウプシロン、ゼータ、エータ、ニュー」です。


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救済について(あるいは人生の根本問題)

どんな人にも救済の道があるべきだと思う。
やはり、最後はすべての生き物が天国の門をくぐりたい。
永遠の地獄とやらは、悲しすぎるからだ。
死んだあと、どうなるのか? そこに救いはあるのか?
悲しいことが起こる、この人生を生きる意味はあるのか?
こんなにつらいことをいろいろのりこえたあとで、自分を待つものは何か?
それとも永遠の輪廻転生が待ち受けるものであり、自分が悟りを開くことこそが救済なのか?
ぼくは、このことをたぶん、十歳くらいからずっと考えている。
心の中でいろいろ転がしている。本も読んだ。
まだ、自分なりに答えは出ていないのだけど、心のどこかですでに答えを得ている気もする。
ぼくは小説を書くこともあるのだけど、基本的には、こういうことについて書いている。

そういえば、ある本で神父さんが、「天国? 信じてますよ。だってそうじゃないと不幸な人生を送った人が浮かばれないでしょう」とか、だれかの本でこれまた神父さんが、「死ぬのが怖くないように神様を信じてきたんです」って言ってたように思って、調べてみた。
「天国なんてほんとうにありますか」
「天国や地獄がなければ、この世の不公平は永遠に不公平のままでしょうが。それでは困ります」
 わが心はあなたの心であれかし(「ちくま文学の森 愛と憎しみ」より)
どうも、記憶は、完璧に覚えているというわけにはいかないようだ。
そこまで変な改変ではないし、言いたいことは同じだと思うが、ニュアンスが少し違う気がする。
もしかしたら、神父(キリスト教カソリックの司祭)ではなくて牧師(キリスト教プロテスタントの司祭)かも。


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日本社会について

原発事故が起こる前から、ぼくは、原発には反対だった。
工場で高度な技術を使って大量生産された工業製品を買わずに、同じようなものを自分の手で作れないものだろうか? 身の回りにあるもので、ぼくが作ったものがないというのは、なんかまずいんじゃないかと思う今日この頃。生命線を他人にあずけている不安というかね。

最近、人の不満や愚痴や弱音を聞くたびに、なんだ色々抱え込んでいるのは僕だけじゃなかったんだと楽になる。みんなありがとう。弱さをさらけだせる世界って人がストレスでは死ににくい世界だと思うな。あるいは間違っているかな。

日本は平和というより治安がいいというべきなのではないか。毎年三万人以上が(自殺で)死ぬというのは、他人に殺されずに自分に殺されるという点が違うだけで、戦争状態とあまり変わらない気がするのだが・・・。少なくとも、安全な国だとはいえないのではないか。


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