もどる
トップへ
インターネットに見られるイスラム過激派
正直、このタイトルは、先走りすぎているのかもしれない。
でも、これってやっぱり、「過激派」だよなあ、って思っちゃう発言が、インターネット上には、あるのである。
これは、イスラム原理主義といっていいのかよくわからないし、原理主義という言葉の意味も、けっこうあいまいに使われるので、「過激派」というのが一番しっくりくると思う。
いったい、じゃあお前さんは、何をもって「過激派」だと思うのか、という質問が当然くると思うのだけれども、それは、「自分の信仰への批判は許さない」、「批判した相手の口は、最悪の場合、殺してでもふさいでいいと思っている、そうでなくとも、黙るべきだと思っている」。
「批判を許さない」、「批判したら打撃を与える」。
ぼくたちは、このタイプの姿勢を持った存在を、すでに歴史で習ってきていますよね。
大日本帝国。
共産主義諸国、有名どころではソビエト連邦。
あとは、連合赤軍などもそうなのかな…?
もちろん、現代の日本も、本当に悲しいことですが、あらゆる発言が許されるというわけではないし、あらゆる表現が許されているわけではありません。
天皇の写真を大々的に焼き捨てて、天皇制反対をさけぶパフォーマンスとか、過激派の人たちに「天誅」という名の暗殺くらいそうじゃないですか?
国旗国家法も、ひとりひとりの価値感を押しつぶすやり方です。批判や反対を認めていない。
でも、それって、正しいことじゃないと思います。
みんな、なにかしら違う意見を持っているし、それを言いたいときだってある。
でも、言った瞬間に、社会的や肉体的に殺されるとするなら、それはひどいことだと思います。
以前、「思うこと」の中で、「分類思考およびイスラム教について」というエッセーを書いた。
そのときに調べ物をした中で、「え? これはちょっとないんじゃないかな…」という考えを持った日本人イスラム教徒の書き込みを何度か見た。むしろ、印象としては、何度も見た、という感じだ。
たぶん、インターネットに、わざわざ発言を残すような人たちは、(宗教に限ったことではなく)なんらかの情熱を持っている場合が多いので、それで過激な発言も、日常生活で目にするよりも多く見受けられるのだと思う。
どんな宗教でも、改宗者というものは、だいたい熱心なものだと思うが、いくら自分の信じているものを大事に思っているといっても、それを批判されると許さないとか、相手の発言を封じるとかは、乱暴だと思う。(もちろん、すべての日本人イスラム教徒がそうであるといっているわけじゃないですよ、念のため)
また、ニュースなどでも、激しい動きが補足されてニュースになる。ムハンマドの風刺マンガに対してデモをした人たちのニュースは取り上げられるが、別にデモに行かなかった人や、風刺されてもいいと思っている人たちのことはニュースにはならない。すると、ニュースサイトには、自分たちの宗教への批判は許さないという過激なイスラム教徒の発言だけが残っていく。
あと、イスラム教を国教としている国は、かなり言論弾圧が激しいように見える。
人が何を信じるかは人それぞれなんだから、ひとつの宗教に基づいて、その宗教に合わない考えを迫害するのは駄目だと思う。それは、ひとつの信仰を無理に押し付けていることでしょう。
それに、イスラム教徒の男性は、イスラム教徒以外の女性と結婚できるが(ただしキリスト教徒とユダヤ教徒に限る、だったかな)、イスラム教徒の女性はイスラム教徒の男性とのみ結婚できる、というのは、あまりにも不平等じゃないか? (たぶん、このルールを守っていない場合もあると思うのだが、聞いたことがまだない)
結婚するときに、相手に改宗を強要するシステムというのは、よくないと思う。
ふたりがお互いに好きなら、違う宗教であっても、結婚すればいいじゃないですか。
宗教が違っても、うまくやっていける場合ってあるよ。
あと、イスラム教を国教としている国で、一番おかしいと思うのは、なぜか国家権威が、コーランやシャリーアの「正しい解釈」を国民に押し付けて、それに基づいて国家運営しているところ。
記憶が正しければ、アッラーと個人の間には、だれも入ってはいけなかったはず。
ひとりひとりが、自分で解釈すべきところを、えらい人が勝手に解釈して、それをうのみにするっていうのは、話が違うんじゃないか?
上記のエッセーでも、「イスラム教では本当にたくさんの偉い人がいますけど、一番大切なのは自分自身です。どういうことでしょうか?例えば、何かが悪いことか良いことかを判断する時に、私はコーランと「アル−ハディス」(モハンッマド予言者の言葉)のルールをベースにして、そして私の頭を使わなければなりません。今やムスリム世界の一番大変な問題は、コーランやハディスに頼らないで、自分で考えずに偉い人の意見を鵜呑みにしまうことです!」といっている人もいますし。
また、同エッセーで、「イスラエルから来たアラブ人ムスリムの学生(自分自身で、イスラエル占領下の二等市民だとイスラエルのパレスチナ政策を批判)ムハンマド・アブー・サムラ」さんが、「クルアーンは完全ではなく、神のみが唯一なのであり、クルアーンの中にある矛盾点は厳しく指摘されなければならない。また、イスラーム教の護教的論者はイスラーム内の抑圧、差別、不平等を外部に責任転嫁するばかりでなく、内部から出てきたものである面も直視しなければならない、ムスリムとして、自分たちの宗教の中の悪を見つめ正さなければならない」と言ったのに対して、日本人イスラム教徒の中田考さんが議事録からこの発言を削除しようとしたことを引用しました。
これは変ですよね。
中田さんの解釈では、これはイスラームへの冒涜にあたるのでしょうが、その解釈を他の人に強要するのは変ですよ。
ぼくは、これが冒涜だとは思わないし、自分なりにコーラン(ここではクルアーンと書いてある)を解釈した結果なのでしょう。
ある人が(それがイスラム教徒であれ、そうでないのであれ)、自分の頭で考えたことを、他のイスラム教徒に断罪されるいわれはないと思います。
それに、本人が思うところを言ったとしても、それがイスラームへの冒涜にあたると「だれか」が判断すれば、発言すら許されないのでしょうか。
それは、気に入らない発言を口封じしようとする、乱暴なやり方だと思います。
その「だれか」って、「みんな」や「すべての人」ではないですよね、もちろん。
それは、人の意見を、自分の意見と違うからといって封じようとするやり方でしょう。
それは「宗教的な寛容」ではないし、そもそも、普通の友達づきあいでも、ちょっとかんべんねがいたいやり方じゃないでしょうか。
人の意見が自分と違うと黙らせようとするともだち…それはもう、ともだちじゃなくて、別のなにか、ですよね。
ぼくは、違う意見をだまらせようという考えには、反対です。
しかし、もちろん、インターネットやニュースを見ていると、違う意見には耳をかたむけない、都合の悪いことを言う人間の口は殺してでもふさぐのがイスラム教であるというようなイメージを持ってしまうのは、実際にそれが真実だということを意味しない。(うそだということも意味しないが)
そう見える、そう信じられる、そのように思えるということは、それが正しいということは意味しない。(宗教が正しいということを信じるものであって、正しいと証明できないように)
要するに、そう思えるというのは、ただ、それだけのことなんですよね。そう思えるという、それだけのこと。
ネットやニュースには、悪いほうの偏りが見えるように思います。
偏りというか、本当にそういう悪い情報とか、過激派な主張しか見えなかったりします。
でも、そんなに人間って一枚岩じゃないよなあって思うんですよね。
また、イスラム教徒、ってひとまとめにしてしまうのも、正直どうかと思います。
だって、自分のアイデンティティがイスラム教というよりも国民性にある人だっているだろうし、そんなこと考えていない人もいるだろうし、何の属性もない自分自身って人もいるだろうし、アイデンティティなんてないっていう人もいるでしょう。
そこで、一番いいのは、個人として相手の向き合うっていうやり方なんじゃないかなあって、今までいろんな人と話していて思います。
ぼくも、勝手に日本人とか仏教徒とか言われるよりも、自分をちゃんと見て欲しいって思うんで。
ただ、これは個人と向き合うときの心構えについてで、こうすればいいんじゃないかなあって考えです。、それとは別に、ネットやニュースでは、イスラム圏にいる、もっといろんな人を見たいなと思いますね。
関連資料(という名の覚書メモのようなもの)
インド史・スーフィズム 木村聡氏の論文・エッセイを掲載をしたサイト
(下のほうのリンクは、原理主義にも関係ありか)
http://www4.ocn.ne.jp/~kimuraso/index.html
http://www4.ocn.ne.jp/~kimuraso/ronbun3.html
サラ・アズメ・ラスムッセン
ノルウェーの作家が、イスラム教預言者ムハンマドを冒とくしたとされている風刺雑誌を擁護した。
彼女を有名にしたのは、2009年国際女性デーにおいて、オスロの若者広場で自分の身につけていたヒジャブを焼き捨てたアクションだった。次いで昨年、イスラム・カウンシルの前で、イスラム教がゲイに死刑罰を与えていることに抗議するハンガーストライキをやってのけた。
そんな彼女が、先月、大問題となったフランスの風刺週刊誌「シャルリー・エブド」Charlie Hebdoに連帯の意思を表明したい、と述べた。
いわく――「東対西の問題とか、イスラム教対キリスト教とかの軋轢ではありません。ドグマ対民主的精神の問題なのです」
http://frihet.exblog.jp/18529935/
◆http://www.aftenposten.no/kultur/Sara-Azmeh-Rasmussen-far-Fritt-Ord-prisen-6804129.html
◆http://morgenbladet.no/samfunn/2012/mitt_navn_er_azmeh
◆http://www.fritt-ord.no/en/priser/category/fritt_ords_pris/
◆http://www.thelocal.no/page/view/norwegian-blogger-posts-muhammad-cartoon
(注) このテーマの理解を助ける著作物が、日本でも出回っている。その優れた著作の1つが、『トランスジェンダー・フェミニズム』 (田中玲著、インパクト出版会)
http://frihet.exblog.jp/18529935/
---------------------------------------------------------------------
イスラム武装勢力の圧政を批判し銃撃された少女への支援本格化
パキスタンでイスラム武装勢力による女子教育の抑圧を訴えていた15歳の少女が銃撃されてから1カ月がたった。国連の特使が現地を視察するなど、国際社会の支援が本格化している。
現在もイギリスの病院で治療を続けているマララ・ユスフザイさん(15)。
目のそばには、銃弾を受けた痕が生々しく残るが、世界中から送られてきたお見舞いのカードを読めるまでに回復している。
銃を手にした警察官が立っているのは、パキスタンの首都イスラマバードにある女子学校。
国連が視察するため、テロ警戒の警備が敷かれた。
この学校に通う、小学生から大学生までの4,000人の女子は、比較的裕福な家庭の出身。
義務教育制度がなく、女子の就学率が低いパキスタンでは、恵まれた環境。
9日、国連の教育特使として、この学校を視察したイギリスのブラウン前首相は、歓迎イベントで、マララさんの容体を生徒に伝えるとともに、女子教育の促進を呼びかけた。
国連教育特使のブラウン前英首相は「マララさんは、女の子が最高の教育を受ける権利の世界中のシンボルになる」と述べた。
生徒(17)は「タリバンは本当に卑劣。マララの活動を破壊しようとしたわ。でももう彼女は元気だし、すっかり有名人ね」と話した。
マララさんの父親は9日、世界中から寄せられている支援の声に感謝するとともに、今回の襲撃を非難する声明を発表した。
マララさんの父親は「マララへの温かい支援、非常にありがとうございます」と話した。
インターネットでイスラム武装勢力による圧政を批判し、その報復として下校途中に頭部などを撃たれたマララさん。
支援の輪は世界中に広がり、国連が12月10日を「マララさんと少女の教育権のために立ち上がる日」として、ユネスコで大規模な国際会議を開くことを決めたほか、イギリスでは、マララさんにノーベル平和賞を贈るよう呼びかける署名活動も始まっている。
(11/10 18:10) of 2012
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00235167.html
---------------------------------------------------------------------
マルジャン・サトラピ(フランス語発音は、マルジャーヌ・サトラピらしい、http://www.ne.jp/asahi/site/dogme/satrapiplus.html参照)
ペルセポリスというマンガを描いた。
asia alfasi
the Stripsearch competitionで、女性で始めて最終選考に残った。
“The Non-Savvy, Non Commuter”(22ページの公共のための仕事)が、ロンドンの、ピカデリーサーカス地下鉄駅にかざられる。ピカデリー線100周年を祝う、Thin Cities festivalの一環の「芸術のためのプラットフォーム」計画の一部だったそうだ。
Jinn Narrationという作品もある。
http://forbiddenplanet.co.uk/blog/2007/with-great-hijab-comes-great-responsibility-meet-asia-alfasi/
---------------------------------------------------------------------
ムハンマド「漫画」問題 かけはし2006.2.27号
レイシズム反対表現の自由をまもれ!
解説
民主主義に何が問われているのか
デンマークの新聞「ユランズ・ボステン」が掲載したイスラム教の預言者ムハンマドを風刺した漫画は、欧州や全世界のムスリム社会の中で、大規模な抗議運動を引き起こしている。事態は各地のデンマーク大使館への抗議行動から、大規模な「暴動」にまで発展した。イスラム諸国のデンマーク大使館が閉鎖されたり、デンマークとの通商の停止などへと事態は急展開している。
アフガニスタンでは、二月初旬にカブールなとの都市で「ムハンマド風刺画」に抗議するデモ隊に警官が発砲し、少なくとも十一人が死亡した。デンマークをふくむNATO諸国は、アフガニスタン全土に国際治安支援部隊(ISAF)を展開し、米駐留軍の削減を補完する役割を担おうとしている。タリバンは、ムハンマド漫画の作者や、漫画を新聞に掲載したデンマーク、ノルウェー、ドイツの兵士を殺害した者に「賞金」を出すという声明を出したと報道されており、この問題はアフガン占領に反対する民衆的抗議行動の焦点に転化した。
パキスタンでも、ラホール、ペシャワール、イスラマバード、カラチなど全国でイスラム主義勢力が組織した数万のデモが展開され、多くの死者も出ている。それは、ムシャラフ親米政権への反政府闘争としての性格を強めている。
こうした中で、ムスリム諸国との関係の悪化を恐れる西側諸国では、ムハンマドの漫画を掲載・転載した新聞の編集者を解雇したり、報道機関への「自粛」を求める動きが相次いでいる。国連のアナン事務総長は、二月九日、風刺漫画について「メディアは火に油を注ぐべきてはない」と、新聞編集者に漫画掲載を自制するよう求めた。イタリア右派政権のベルルスコーニ首相は、ムハンマドの風刺漫画を印刷したTシャツを着てTV出演し「イスラムとの対話などはおとぎ話だ。今日からこのTシャツを着る」と述べて大きな抗議を呼び起こした極右政党出身のカルデロリ制度改革相を解任した。
この預言者ムハンマドの漫画問題へのムスリム民衆の「暴動的」闘いの発展は、明らかにイラク・パレスチナ・アフガニスタン占領、イランへの新たな「戦争」恫喝、そして西欧社会の「反テロ」を名目にしたムスリムの人びとへの差別、排外主義、人権抑圧の拡大に抗議する怒りの政治的表現である。われわれはこうした西側社会に蔓延するムスリムの人びとへの意図的偏見と排除をあおりたてる支配階級と極右勢力に対して抗議しなければならない。
しかし、同時に、この民衆動員がイスラム「原理主義」極右勢力によって組織され、自らの宗教的権威へのあらゆる批判を封殺し、民主主義と人権を否定する体制を正当化する口実とされている現実にも注意しなければならない。イスラムの「原理主義」的極右勢力は、ムハンマドを「冒涜」したとされる『悪魔の詩』の著者サルマン・ラシュディに「死刑」判決を下し、ムスリム社会内部での自由な言論を暴力的に抑圧している。
われわれはイスラム諸国への「反テロ」戦争と占領、そしてムスリム民衆への排外主義と追放・排除に反対するとともに、今回の「漫画」事件をきっかけに民主主義の根幹である「言論・報道の自由」に対する規制を強化しようとする動きにも強く反対する。
二月中旬に開催された第四インターナショナル国際委員会は、そうした観点からムハンマドの漫画掲載とそこから引き起こされた諸問題についての簡潔な基本的立場を決議した。同時に、いかなる場合でも「報道と言論の自由」を防衛すべきことを訴えているイギリスの進歩的ジャーナリスト組織である「新聞と放送の自由のためのキャンペーン」の声明を資料として掲載する。読者の皆さんの意見をぜひ寄せてほしい。
(2月18日 平井)
「風刺画」問題についての決議
第四インターナショナル国際委員会
1 支配的社会のメンバーに属する人びとが書いた、レイシズム(「人種」差別)の標的になっているマイノリティー集団の宗教を中傷する著作や漫画は、まさしく抑圧の宣言でありレイシズム的憎悪を刺激するものである。そのような著作や漫画に対しては、適切な政治的・法的手段によって闘うべきである。
2 表現の自由に何よりもまず深く関わるのは、著作家や芸術家が彼ら自身の政府や宗教による禁止――その禁止はしばしば反冒涜法という形を取る――を拒否している場合である。幾人かのムスリム出身の著作家や芸術家たちは、政府の強要や抑圧、さらには原理主義勢力による脅迫に直面している。彼らの表現の自由は、確固として防衛されるべきである。
3 反ムスリム的なデンマークの新聞は、あらゆるイスラム嫌悪の表現や帝国主義・レイシストによる侮辱がそうであるように、イスラム原理主義集団の立場を強化するために、あるいは帝国主義システムの中の少数集団に対する大衆的不満の方向をそらす装置として、西側の右派・極右派に対応するムスリム側の集団によって口実として利用されている。
4 レイシズム、反移民政策、そして帝国主義戦争に対する闘いは、民主主義的諸権利と自由のための闘いに対置されるべきではない。それらは結び付けられねばならない。われわれはレイシズムと帝国主義に反対する。しかし、全般的闘争の内部での反民主主義的潮流を大目に見るようなことはしない。われわれは表現の自由を防衛するが、レイシズムと抑圧的イデオロギーのあらゆる表れに反対するのである。(06年2月)
二〇〇六年二月
http://www.jrcl.net/frame060227f.html