名前、レッテルについて

右翼と左翼、という言葉を、ネットでもよく耳にする。
これは、いつのころからだったろう。
すくなくとも、2001年くらいには、こういう傾向は無かったように思う。

それはともかく。
右と左、保守と革新と呼ばれる人たちの特徴を、自分なりに考えてみたのだが。
結局、うまく定義できないことがわかった。
右や左に実体らしい実体はなく。
ただ、なんとなくの感覚で呼んでいるだけなのではないか。

たとえば、自分なりに、これが特徴なのではないかというのを書き出してみた。
経済については、左は計画経済?、すくなくとも自由経済ではなさそう。右は自由経済?
政府の形については、左は大きな政府(国の介入を望む)、右は小さな政府(政府の干渉を嫌う)
国のあり方については、左が国際協調とか国連とかをめざして、右は国家の単独行動主義に走っても国の利益を最優先
内政については、左が個人単位、個人を大切にするが、右は家族単位、家族を大切にする
外国との関わり方については、左が外交を大切にし、右が国防を大切にする
基本価値は、左が人権で、右が伝統

でも、これって本当にただしいのか?
自分は左翼だと思っている人間が、個人の自由よりも集団の連帯を重視する場合もあるし、
自分は右翼だと思っている人間が、自由経済や経済協定を嫌っていることもある

そもそも、たとえば、人権と伝統は、両立しないとはかぎらないと思う。
人権も大事だが、伝統的な文化を大切に思っている人もいる。
こうしてみると、だんだんわからなくなる。
対立しているように見えていた右と左が、そんなに明確なものには思えなくなってくる。

レッテルには、あまり意味がない。
たとえば、中国や韓国に対する批判に対する批判について。
これを左翼的と呼ぶ場合がある。
でも、ぼくが考えるかぎり、ある国への見方が、右とか左を決めるとは思えない。
もちろん、中国を嫌いな人の中に、右翼的な傾向を持った人が多い、といったたぐいのことはあるのかもしれない。
しかし、左翼とは革新勢力のことで、右翼とは保守勢力というのが、もともとの意味のはずだ。
国への見方とは、基本的にあまり関係のない話ではないか。
まるで、右や左といった言葉が、ものすごくあいまいに、その言葉を使う人によって、都合よく使われている。
ぼくは、そんな気がする。
レッテルをはって、中身などどうでもよく、その言葉を都合よく使っているように見える。

レッテルの例といえば。
中国や韓国を批判するときには、「中国」や「韓国」とレッテルをはったものすべてを批判する。
しかし、中国籍・韓国籍を持っていても、その批判にあてはまる人もそうでない人もいる。
ネットでも現実でも見る、世代間対立。
団塊の世代(ベビーブーマーってやつだろう)や、ゆとり教育をうけた世代が、よくネットでたたかれているように思う。
すくなくとも、2010年前後は。
しかしこれも、ひとりひとりを見てみると、その批判にあてはまる人もいれば、そうでない人もいる。

世代というものは、もともと、ある年代からある年代までに生まれた人間という意味しかない。
それに対して、ここの時期にうまれたものは、こういう傾向があると思う!
と考えて、それをしゃべっているのが、世代論の正体ではないか。

こういう、ある名前に対して、その内容を自分でなんとなく定義してしゃべるのは、ぼくたちがよくやっていることだと思う。
しかし、私的な会話ならそれほど問題がなくても、政治的・社会的な話題であれば、問題も起こると思う。
問題とは、たとえば以下のようなものだ。

1)団塊・近頃の若者・中国・韓国などの言葉が何を指すのか人によって違う
2)その中にあるとされる傾向が、大げさに宣伝される傾向がある
3)そうじゃない人たちは例外として処理されがち
4)実際に目の前に、生身の人間がいたときに、その人そのものを見れなくなる可能性

4については、たとえば、こういうことだ。
目の前に、ゆとり教育を受けた世代の人間がいたときに、「この人間はゆとり世代だ」と思う。
今まで聞いた、「ゆとり世代」の特徴を、その人た見せると、それが強く記憶に残る。
他の行動は、取捨選択されて、頭の中の「ゆとり世代」のイメージに近い存在として心にうつる。
自分にはまぎれもなく「あの特徴」を持った「ゆとり世代」に見えているので、その人そのものが見えない。

右翼や左翼のレッテルはりも、これをと似たようなものだと思う。
人と話すときは、この人は○○だから、ではなくて、その人そのものを見たいものだと思う。
だって、自分がそういうふうに、色眼鏡を通して見られたら、すごくいやだから。

2011/10/24

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