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「コミュニケーション能力がない」と悩む前に 貴戸理恵


 コミュニケーション能力がない、という言葉に違和感を感じたことはありませんか?
 ぼくはあります。
 コミュニケーション能力がない、という台詞に直接的・間接的に傷つけられたことは?
 コミュニケーション能力って、暴力的な言葉だなと思ったことは?

 この本は、そういう人のための本です。
 ちなみに超うすいです。どれくらいうすいかというと、5ミリくらいしかあつさがないんじゃないかってうすさです。
 さっくり読めます。岩波ブックレットさすが!

 この本には、最高にクールなポイントがいくつかありますが、そのひとつが、
「コミュニケーション能力とか、人間力とか、女子力とか、社会人力とかいったものは、『能力』といったものとは違う」というのをあらわしたところだと思います。
 能力という名前はついているけれども、能力じゃない。どういうことか。
 ひとつは、能力は一定の基準や方法で測るものだということです。
 その尺度が正しいのか、そもそも測れるのか、という批判も出ていますが、英語能力や簿記能力や体力測定を考えてみてください。
 似たような試験で、ある程度点数化され、過去の自分や他人と比較でき、何を勉強すればいいかが決まっています。おっと、体力測定に関しては、何をすれば体力があがるかは、若干不明確かもしれません。
 しかし、ともかく、「コミュニケーション能力」系の「能力」、ここでは、「エセ能力」と仮になづけますけど、エセ能力には、そういった共通指標はありません。
 似たような試験ではかるとか、点数化するとか、そういうのがちょっと不可能じゃない? と思うし、そもそも、「答え」が決まっていたり、「体力」のようにだれが見てもわかるものでもない。
 ちなみに、筆者は、測れないことは「存在しない」ということではないといっていますが、ちょっと話がそれるのでそこらへんのは省略。
 そして、もうひとつは、そのエセ能力は、「関係」によって決まるということです。
 ぼくは、この指摘がすごく大事だと思う。
 上に出てきた、通常の能力は、個人に属すものです。他人との関係によって生まれるわけじゃない。でも、エセ能力は違います。
 逆に、エセ能力は、他人との関係性によってしか、「ある」とか「ない」とかいえないタイプです。
 コミュニケーション能力なんて、その最たる例ですよね。
 ひとりでコミュニケーションはできない。
 あるところでは、うまく話せない人が、別のところでは、すらすらと言葉が出てくるってことは、十分に考えられることです。スポーツ大好きな人で勉強が嫌いな人が、文学について語り合っているところにいっても、うまくしゃべれないでしょう。
 そのように、まわりとの関係で決まるものが、まるで個人の能力であるかのようにあつかわれている、それは本当に、変なことですよね。
 (ここらへんは、仏教の縁起とか諸法無我とかとも関わるのかもしれない)

 さて、この本で、もうひとつクールだなと思ったポイントは、ある種「生きづらさ」をかかえている人(生きるのしんどいなあって思っている人)は、上で言った、「関係」というところで、なにかものごとがうまくいっていないんじゃないか。しかし、その「関係」についてうまく認識されていないんじゃないか、という点です。
 たとえば、筆者は、「たしかに社会が悪い部分もあるが、社会をすぐに変えることはできないのだから、まずは自分が努力して適応するしかない」というような台詞は、自分たちが孤立した(いい言葉を使えば独立した)存在で、おたがいに影響をあたえることはなく、よって社会も変わらないといった絶望にもとづくんじゃないか、ともいっています。そして、その孤立しているという絶望が出てきたり、そういう台詞が出てしまうのは、「関係」という認識がなりたっていないからではないでしょうか。

 ちょっとややこしいので、簡潔にまとめると、ある種の「問題」は、社会と個人や、個人と個人の間の、「関係」から生まれてくる、ということです。
 たとえば、恋人同士がうまくいかないのは、どっちが悪いというわけじゃなくて、その二人の仲、関係がうまくいっていないんですよね。くわしい例を出すと、彼氏がこうあってほしいという彼女と、彼女がこうありたい・現にこうある彼女とが違うなら、それはどちらが悪いというよりも、その関係がうまくいっていないのです。
 会社にある人がやとわれないのは、不況のせいもあるかもしれないし、その会社で必要とするたとえば英語能力がないためかもしれない、しかし、そもそも、会社の求める人物像と、ある人の人物像が違うだけだったりするのかも。
 拍手したときに、右手が音を出しているわけでもなく、左手でもなく、両手があって、はじめて出ているわけですよね。

 あー、むずかしいな、これを説明するのは。
 筆者は、こういう、関係的な生きづらさを、自己責任にも社会的要因にも還元されない、個人と他者や集団との「あいだ」に生じる失調、と表現しています。
 筆者が出した例でいうと、「働きたくても仕事がない」や「どんなに一生懸命働いても生活がまわらない」といった労働市場の問題とはひとまず切り離された、「働くことに踏み出せない」、「働き始めてもつらくなって辞めてしまう」という事態だそうです。
 これはしばしば、甘えている・自己責任といわれるけれども、本人にとっては、「ぎりぎりまでがんばってもどうにもならない」といった圧倒的な経験であることが少なくないと筆者はいいます。

 たぶん、ぼくが思うに、こういうことを自己責任という人は、「意思(の力)といったものは強くできる」とか「思ったことは実現させることができる」とか「実現させることができないのは意思の力が足りないから」みたいな考えがあるんじゃないかな、と思う。
 でも、まず、やろうと思ったことを実現させることができないのは、意思の力が足りないからなんだろうか? 正直、これは「わからない」というのが、みんなの認識なんじゃない? 意思の力で実現できると信じたい人はいると思うし、ぼくもそういう傾向はあるけど。
 意思を強くしろといっても、そんなに簡単にできるもんじゃないというのは、たぶん生きている人全員、わかっていることなんじゃないかな…。意思を強く出来るかも、疑問がある。そうすると、意思の力が足りない、っていうのも、疑問がつく。
 あと、そもそも、思ったことは実現できるとしても、本気で思えない場合もあるんじゃない? そもそも、仕事をそんなにしたいとは思えない、とか。

 このあと、不登校を例にして話が展開していき、筆者の個人的体験もまじえつつ、「関係」について話が展開する。
 「関係」を作り変えることで、自分がうまくやれる環境を作り出すことができるみたいな話や、フリーターバッシングなどは、フリーターの存在が、自分はそもそもこんなに働く必要があるのかという根源的な問いをつきつけるからで、他の弱者に関する社会問題(たとえば沖縄問題や在日差別)などのように問題自体を無視することができないのだという話などあった・・・が、ちょっと、この本は、うすいのに中身が濃くてうまくかけない。
 どのレベルで濃いかというと、こうやって紹介を書いているうちに、自分でもどう書いていいのかわからなくなってきてしまうレベル。

 ああ、あと、「働いていない自分はだめだ」、「学校に行っていない自分はだめだ」、という気持ちから、「こんな自分を社会は認めてくれないだろう、だから社会から撤退する」という風に思うのは、社会性がないのではなく、社会性が過剰なのだという指摘は、そのとおりだなと思います。
 だって、「学校に行っていなかったり、働いていなかったりしている自分はだめ」という視点は、自分独自のものというより、社会の視点だと思うからです。
 かえって社会の視点、ありがちな言葉でいうと、他人の目や「常識」とやらを身につけることで、かえって社会に参加しにくくなるというパラドックス。

 とにかく、これは、「関係」といったことを主眼においている本で、ぼくもどう紹介していいのか、よくわからないんだけど、このレビューを読んで関心を持った人がいたら、図書館でも書店でもいいから、お求めになるがいいよ!
 ぼくも、頭がもっと整理できたら、追記というわけじゃないけど、この関係についてもっと掘り下げて何か書きたい。