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整理をしていたら、昔書いたものが出てきた。
埋もれさせるのも、もったいないので、ここにアップすることにする。
1〜4まである。これは2。青文字は現在のコメント。
評論(学校+不登校、権力、ネット、学問の役割、図書館、夢と現実、死後の世界)
かっこの中に書いてあることについて、書こうと思っていたようだ。
自分の生活、誰かの言葉、自分の言葉
学問の良いところは、自分の枠を広げて、違う世界を見せてくれるところにあると思う。しかし、ときたま、自分の生活感覚とあまりにも違う理論を見せられて、その理論が空虚に感じることがある。あまりにも、自分の感覚や生活とずれていて、しかもそのずれが、自分が経験していないとかそういうレベルじゃなく、たんなる空想理論にしか聞こえない。そういう経験を、ぼくは感じたことがある。
同じようなことは、誰かの言葉を繰り返す、という行為の中にも見られるかもしれない。誰かの受け売り、誰かの決定を、オウム返しに繰り返す。繰り返さないまでも、それにしばられてしまう。そのために、だんだん、自分の言葉が消えていく。うまく言葉が出てこなくなる。どういう言葉を出せばいいのかさえ、わからなくなってくる。
芸術
芸術は、何を私たちにもたらしてくれるのか。それは、おそらく、人生をどうやっていきていこうかというときの、ヒント…のようなものではないだろうか。もちろん、それだけではなく、面白いという大事な側面もあるだろうけれども。
パソコン技術の発展と、書くこと。
インターネットの回線をひきぬくことで、有意義な時間が増えることに、ぼくは、けっこう賛成する。しかし、インターネットがあることで、ないときとくらべて、ずっと便利になった部分もあることを、認めざるをえない。
無駄な情報。時間をつぶすのにはもってこいだが、信用できないし大して自分の役にも立たない情報。
あまりにもたくさんの「書かれたもの」がこの世界には蔓延している。正直なところ、大して質も良くないものが、多いように思う。キーボードがなくなり、書くことが、今ほど手軽でなくなれば、もっと質のよい言葉が出てくると思うのは、考えすぎかな。昔に書かれたものに、良いものが多いように感じるのは、時の洗礼を受けてきたからにすぎないのか。
損得計算
小さい頃から、ある意味で、ぼくはまじめだった。生真面目だった、といってもいい。なあなあで済ます、ということが、ぼくは苦手だったのだ。今でも、苦手だ。不可能、といってもいいくらいかもしれない。さて、では、ぼくはどのように生真面目であったのか。
受けた借りは必ず返す。
これがぼくのモットーだった。今でも、ある程度、このモットーは生きている。「目には目を、歯には歯を」と言い換えても、そこまで間違いではあるまい。優しくしてもらった相手には、優しくするし、嫌な目にあわされたら、嫌な目にあわせないと、気がすまなかった。対価は支払わなければならないし、借金は返済されなくてはならない。
人間の認識の限界
人間には、限界が存在する。はっきりとは見えないのだけど、それでも、限界というのは、存在する。限界という言葉が、否定的すぎると感じるなら、もっと一般化して、こう言ってもいいだろう。人間には、ある特徴が存在する、と。
つまり、認識方法の特徴だ。すべての人は、ものを認識するときに、その人に特徴的な認識方法を使う。要するに、すべての人は、ものの見方が違うという意味だ。
孤独
クラスの中で、数人の人たちが、楽しそうに笑っている。ぼくは、その輪の中に入れずに、さみしい気持ちで、ぽつんと立っている。心の中に、うらやましいという気持ちがわきあがってくる。そして、つまらないという気持ちも、わきあがってくる。そして、突如、自分が今、一人であることを自覚する。これが、孤独だ。
夏休み。クラスの、あの、和気あいあいとした雰囲気を、もう二週間くらい味わっていない。生きていることすら、おっくうになってくる。全てがつまらなく思えてくる。
この文章は大学のときに書かれたが、想定している夏休みは、高校や中学のものだと思う。
責任
責任という概念は、実のところ、かなりあいまいなのではないか、と私は思っている。
技術者には責任がないのか、そんなことはない
なぜ「私」という一人称なのか。おそらく評論だから硬い言葉を使いたくなったのだろうか。
家族との同居
「三十才にもなって親と同居して…」といわれても、私には、何が駄目なのかいまいちわからない。親と同居。いいではないか。家族の絆、というものが存在していることの証ではないのだろうか。親と同居していることが、自立していない証だという話を、聞いたことがある。大人たるもの、親に頼らず生きていくべきである、と。
しかし、そもそも、親と同居していることが自立していない証だというのは、間違っていると思う。親と同居して、その親を養っているとしたら? 自立していないどころか、立派に扶養しているではないか。そもそも、人間は一人では生きていけない。ある程度の集団を作って、生きている。なぜ一人で生きようとするのだ? 協力したほうが、お互いに楽しく暮らせるのではないか? それなら、そっちのほうを選んだっていいのではないか。自分で家族を作って、親と離れて暮らすというのが、「一つの選択肢」だというのは理解できるが、それが「望ましい選択肢」だというのには、納得がいかない。もっともお互いが幸せになれる共同体のあり方を、選択するべきだと思う。そしてその上で、親と離れたほうがよいと思ったら、そうするがよかろう。親と一緒のほうが良いと思ったら、そうするが良かろう。
さて、自分は働かずに、親に食べさせてもらっている場合はどうか。これは、あまりほめられたことではあるまい(もちろん、そこに何か深い意味があれば別であるが)。しかし、親と協力して、お互いがお互いを助け合っているのであれば、よかろうと思う。経済不況の中、自分一人で暮らすよりも、親と同居し、仕事を分担したほうが効率がよいのであれば、そうしたほうが断然良いはずだ。一人暮らしというのは、私の経験からすると、同居よりも効率が悪いと思う。おのおのの仕事を分担したほうが、ずっと安く、エネルギー効率もよいと思うのは、私だけだろうか。人手がいるということは、一人で何でもこなすよりも、ずっとやりやすいのである。もちろん、お互いがちゃんと意思疎通できて、ルールを守れるという前提があってこそであるけれども。
私がここでもっとも主張したいのは、どこかで言われている「なになにをすべきである」とか「なになにをしなくてはならない」という言葉に、盲目的に従うのではなく、ちゃんと自分で考えて、自分で何をすべきか決める「べきである」ということだ。もちろん、この考え自体も、ちゃんと自分で考えて、行うべきかどうか決めなく「てはならない」。
(2009年1月19日)
今のぼくは、親に食べさせてもらっていることすら、悪いことではないという考えだ。社会条件によってはそれもありだし、生き方について、あれはだめこれはだめというのは、どうかと思っている。
運命
もし仮に、あした目が覚めると、今から三年前に戻っていたとしたら、つまり三年前の布団の上で目覚めたとしたら、そこからの三年間で、あなたは何を見るだろう。やはり、三年前に経験したことが、まったく同じように起こるのを見るのだろうか。それとも、そうではなく、時間をさかのぼる前に経験した人生とはまた違った人生を見るのだろうか。
もし、あした目が覚めたら、三年前(一週間前でも十年前でもいいけど)に戻っていたとして、今までの経験とまったく同じことが起こっていたとしたら、運命ってやつを、ぼくは信じてしまうかもしれない。同じセリフ、同じ出来事、同じ天気、同じ事件、同じニュース、おなじ、おなじ、おなじ。おお、それは、なんともいえず、気持ちが悪い。
上の仮説を検証することは、たぶんできないけれど(だってタイムトラベルできないんだもん)、「時間をさかのぼった場合、以前体験したのと同じ体験を、また体験することになる」と仮定すれば、ぼくたちは、運命みたいなものの中にいるのかもしれないって思う。つまり、本人たちは自覚していないけれど、神さまみたいなものがいて、すべての情報を収集でき、さらにそれを分析することができれば、過去・現在・未来に至るまで、そのすべてを予想することができるのではないだろうか。おそらく、その場合、ここで使っている意味での運命から逃れているのは、その神さまみたいなやつだけだろう。何が起こるか知っていることが、ここで使っている意味での運命にしばられないための方法に思える。次に何が起こるか知っていれば、(それが自分の手に終えないシロモノでないかぎり)それに干渉したり自分のふるまいをよりよく変えたりすることができるというのは、ぼくたちの経験にも合っているように思う。風船がどんどんふくらんでいったら、それがそのままふくらみつづけるのを止めるか、耳をふさぐだろう。
さて、しかし、そう、うまくはいかないとしたらどうだろう。つまり、三年前の布団の上で目が覚めて、事態を変えようとしても、うまくいかないとしたらどうだろう。「好きな女の子に、あいかわらずふられる」なんていうのは、時間をさかのぼる・さかのぼらないという問題とは別の問題だろうが、ある殺人事件の阻止ということなら、どうか。ある殺人事件を阻止することは、出来るのだろうか。警察をなんらかの方法で事件現場に呼ぶことで、殺される人を助けることはできるのか。それとも、そんなことをしようとすると、なんらかの圧力がどこかからかかり、その事態を変えることはできなくなってしまうのか。あるいは、殺人者を止めることはできても、なんらかの別の原因で、その人が死んでしまうとか。これは、「天命」のようなものを認める考えといえるかもしれない。
もっとも、これまでの話は、全て頭の中で考えた理論であって、そこまで重要視するべきものでもないかもしれない。どれもすべて、可能性の域を出ていないし、検証することはおそらく不可能だろう。上の議論に意味があるとすれば、それは、どれくらい自分の努力といったものが、世界に干渉することができるのかについて、いくつかの可能性を示している、ということにあるのだと思う。
さて、実際のところ、ぼくは、全てがすでに決定されているという考え方が、昔からどうしても好きになれなかった。たとえそれが嫌でも、従わなくてはならないものというのは、あってはならないと思った。ぼくは血液型性格診断を信じていないし、心理学の授業を聞いたかぎりでは、科学的根拠もない、たんなるデマであるようだ。たぶん、こちらがしっかりと学術的資料を使えば、(それを信じている人を説得できるかどうかは別として)血液型性格診断を論破することは可能だろうと、ぼくは思う。
さて、しかし、こんなにもぼくが血液型性格診断を嫌っている理由は、血ごときに、自分を規定されたくないという、きわめて感情的なものなのだ。血なら、たとえ嫌でも変えようがない。だから、自分の性格が嫌でも変えようがないといわんばかりの(少なくともぼくにはそう聞こえている)血液型性格診断(及びそれに類するものすべて)は、どうしても受け入れがたいのだ。それに、人を分類して整理するのは、有効なときもあるけれど、しばしば害をもたらすと思うのだ。人を分類して整理するほうとしては、あまり何も感じないかもしれない。しかし、分類されたほうとしては、そんなもので自分を規定しないでほしいと思うのではないか。少なくとも、そんなことをされたら、ぼくはそんなもので自分を規定しないでほしいと思う。まず自分があって、それから属性を見てほしいと思う。まず属性があって、そこから本人を見ないでほしいと思う。もちろん、属性で人をわけることで、見えてくる事実もあるだろう。たとえば(あくまでたとえであって、本当かどうかはしらない)年収が低い人の子どもは、やはり年収が低い職業に就くことが多い、とか。しかし、それでも、概念とか理論とかを相手にしているのではなく、生身の人間と話しているときは、そういう風な考えをすると、相手を傷つけることがあるのではないか。
血以外にも、自分ではどうしようもないのに、それによって規定されるさまざまな要因というのは、存在する。兄弟の中でどの位置にいるか、人種、親の地位、出身地、性別、身長、体重などなど。また、自分で決めたものでも、専門の学問、宗教などがあるし、地位、年収、学歴なども、それによって人から色々言われることもあるだろう。もちろん、それがある程度、その人に影響していることもあるだろうし、逆にその人が生まれつきそういう人だから(つまり遺伝によってそうなっているから)、そのような属性を持つに至ったのだということもできるだろう。しかし、この議論を進めていくと、ある結論に達するような気がする。つまり、自分を、色々な要因で説明していくと、自分自身という概念が、どうにもよくわからないものになっていく気がするのだ。まるで、自分自身という概念が要らないかのように。遺伝でも、社会的・環境的要因でも、説明のつかない、あなたそのものというのは、果たして存在するのだろうか。ぼくとしては、存在してほしいのだけど。それにしても、遺伝だろうが社会的・環境的要因だろうが、自分の意思とは無関係に、おなかに宿ったそのときから、ある程度決定されていると思うと、嫌になってくる。努力できるかどうかすらも、もしかしたら決まっているのではないかと嫌になってくる。
だから、ぼくはここで、一つの戦略を採用したい。昔、無神論者だったころ(今は有神論っていうよりも、よくわかんないって思っているのだけど)、パスカルの議論には納得した覚えがある。彼は、確かこんなことを言った。「神さまがいるのかどうか、わからない。しかし、神さまを信じなくて、神さまが本当にいたらまずいよね。でも、神さまを信じて悪いことってないでしょ。たとえ本当にいてもいなくても、そんなに自分に悪いことってないんじゃない? だったら、信じたほうがお得じゃない?」。これには、けっこう、納得した。だから、すべてが決まっていて、自分の努力は、本当のところ、努力でもなんでもないのかもしれないが、実は努力というものはしっかり存在し、ある程度のことはすでに決まっているとしても、すべてが決まっているわけではないのだと信じて、やっていきたいと思っている。たぶん、そのほうが、パスカル的な意味で、お得だから。
蛇足ながら、運命について、最後に一言。運命というのは、ぼくの場合、「どうやっても変えられないもの」を指すとき、最悪の意味となる。「すでにある程度、あらかじめ決まった流れ」とか「人と人とのすばらしい出会い」などについて使うこともあるけれど、自分にとって最悪の意味では、運命とは、「どうやっても変えられないもの」なのだ。主に、人の人生に対して使うことが多いと思うのだが、しかし、全てが人の意思で決まるというのも(それが可能だとして)怖い話かもしれない。
物語
英文学の先生が、以下のようなことを言ったことがある。「物語が、自分の経験したこと以外を、伝えることが出来ないとしたら、それはあんまりじゃないのか」。
喫茶店を見たことのない国の人が、喫茶店に主人公たちが入る描写を読んで、それを理解できるのか。ぼくたちよりも、その人たちは、はっきりと想像できないかもしれないと思う。しかし、似たようなことを、すでにぼくたちは経験しているのではないだろうか。たとえば、昔の海外文学。その当時のイギリスの生活スタイルについて、あまり知らなくても、物語を楽しむことはできる。少なくとも、ぼくはそうだ。イチイというのが、どういう植物なのか、はっきりと想像することができなくても、物語を読むのに、そこまで困ることはないように思う。なぜなら、たぶん、物語とは、新しい情報を提供するために書かれるのではなく、すでにみんながなんとなく、あるいは、はっきりと知っているものを、思い出させる、あるいは、忘れないようにするために書かれるものだと思うから。
もし、その物語が、自分の経験から、あまりにも遠く離れた経験を扱っていたら、もしかしたら、面白くないと思うこともあるのかもしれない。しかし、ぼくたちは想像をすることができるから、相手の気持ちに思いをはせることができるはずだ。それに、基本的な感情は、きっと大多数の人間は経験している。迫害される人間の気持ちを、そのままでは理解できなくても、だれかに理解されなかったときのつらさや、嫌なことを言われたときの痛みから、ある程度の推測はできるのではないだろうか。それに、つきつめてしまえば、まったく同じ経験をしている人間なんて、だれひとりとしていないのだ。だから、自分の経験から推測するしかない。その推測の度合いが、大きいか小さいかの問題なのだ。
ある物語が面白くないとしたら、そこで扱われている出来事に、共感できないか、あるいは、その物語が表現しているものが意味不明で、どんな感想も抱けないといったところではないだろうか。しかし、時は流れる。人の経験も積み重なっていく。心の状態も変わっていく。聞きたいセリフもそのときどきによって違うし、興味のある話題も、そのときどきによって違う。だから、面白くなかった物語が面白くなったり、逆に、面白かった物語が、そんなでもなくなったりするのだと思う。
ぼくが考える物語の特性、つまり、すでにみんなが知っているものを書いてあるということは、何を意味するんだろう。その意味は、ぼくの考えるところによれば、人と人とをつなぐということだ。作者と読者。読者と読者。読者とだれか。物語というのは、あなたがひとりぼっちじゃないということを、思い出させてくれる役割があると思う。同じような考えや感じを持った人がいて、その人たちが、あなたにむけて、その物語をつむいだのだ。そして、ある程度、読者がいるから、その本は、あなたのところに届いた。同じような考えや感じを持っているのは、あなたと作者だけじゃない。他にもいる。あなたはひとりじゃない。つらいときに、優しい言葉を聞きたくて、頁(ページ)をめくったら、まさに聞きたかった言葉に出会えたとき。人間が信じられなくなって、頁をめくったら、同じような人間不信にあえいでいる登場人物に出会えたとき。楽しい冒険がしたいとき、頁をめくったら、頁をめくる手が止まらなくなったとき。物語は、あなたが必要としているもの、欲しいものを、そういう形で与えてくれる。そのとき、あなたはひとりじゃない。きっと、物語とは、ある意味で、どこかのだれかが、自分と同じような部分を持つ、親愛なるだれかにむけて贈った、贈り物なのだ。
道徳と利害
貧富の差が大きい社会があるとする。ぼくは、このような社会を、道徳的・美的に見て、良くないものだと思う。つまり、ぼくはこのような社会に住みたくないし、このような社会は実現されているべきではないと考えている。
しかし、ここで、そういう考えの対極にいる人物があらわれたら、どうだろうか。つまり、このような社会に住みたいし、このような社会が実現されているべきだという人間がいたら? 普通、収入が中から下の人は、このようなことは考えまい。なぜなら、そのような考えは、自分に都合の悪いことが多いだろうからだ。(富めるものはますます富み、貧しきものはますます貧しくなるというシステムが、だいたいの社会で働いていることを考えてみよう)だから、このような考えに賛同するのは、収入が上の人か、あるいは、のしあがれる可能性を感じている中ぐらいの人だろう。(もっとも、現実は、そう単純ではない。人間というものは、自分に不利な状況であっても、それを選択するということが、しばしばあるのだから。現に、自分に都合の悪い政策を、その政策が自分の人生に与える影響をうまく考えられないために、それを支持するという事態は起きるのである)
さて、それはさておき、貧富の差が大きい社会について、道徳的・美的見地からそれを否定せず、他の見地(たとえば利害)からそれを肯定する人間に対し、なんといえばよいのだろうか。基本的に、他人の道徳や美的感覚というものを、純粋な論理のみで否定することは、難しいだろうと思う(個人的には、ほぼ不可能だと思う)。たとえ、論理の面で完全に否定できたとしても、道徳や美的見地に関わる問題は、論理の範囲にあるのではなく、感情あるいは経験、その人自身の個性などの範囲にあるので、別の次元の話を持ち出してきても、らちがあかないことが多いだろう。
もし仮に、貧富の差が大きい社会を肯定する人間が、自分にとってその社会は都合が悪いのに、それを肯定している場合、それはあなたに不都合な問題をもたらす、ということで、説得できる可能性がある。そうではなく、貧富の差が大きい社会を肯定する人間が、自分にとってその社会は都合がいいために、それを肯定している場合、利害の側面から話を持っていってもどうにもならない。だから、道徳的・美的側面から話を進めていかざるをえないと思うのだが、すでに述べたように、この方法は、らちがあかないことが多いように思う。この場合、とるべき戦略は二つだ。ひとつは、人間の一般性・共通性というものを信じて、不平等や不条理に対する怒りや、困っている人に対する同情といったものに訴えかけ、あくまでも道徳的・美的側面から話を進めていく方法。もうひとつは、社会のあり方を微妙に変えて、現在そのように貧富の差が大きい社会が彼らにとって都合がいいという現実を変えるという方法だ。貧富の差が大きくても、別に彼らにとって何の都合も悪いことがないという現実が、今出現しているのだったら、その現実を変えて、彼らにとっても都合が悪いように変えれば、彼らも動かざるをえないだろう。おそらく、この二つを同時に採用することが、最善の戦略であるように思う。なぜなら、道徳的・美的見地というものは、非常に大切な部分であると思うけれど、同時に他者に対する影響力が相対的に低いように思うからだ。一方、利害の側面は、下卑た印象を与えるものの、利害に影響される人間は、非常に大きいと思うからである。
(2008/12/21)
勝負ごと、負け惜しみ、たった一つのレース
「男が最初にあこがれるのは、世界一強い男になること。その戦いからリタイアした人間は、どっちが出世したとか、どっちが稼いでいるとか、どっちがいい女を連れているかと比べる。それは全部、負け惜しみですから」2009年1月18日、日曜日の朝日新聞の読書面、夢枕獏さんの記事より。私は、この最後の文を見たとき、どことなく反発したい気がした。もちろん、これは新聞記事なので、本人が実際にどのようなことを言ったのかは知らない。だから、ここでは、あくまでも、上の引用を題材に論を進めていきたい。ちなみにここでいう、世界一強い男になるというのは、文脈からすると、格闘的な意味で最強の男になるということらしい。
まず、男が最初にあこがれるのが、世界一強い男になることがどうかはわからない。私個人は、男性だが、実際のところ、何に最初にあこがれたのか覚えていない。ここでは過度の一般化が行われているように思う。
だが、もっとも反発を感じる部分は、これが、一種の価値観の押し付けでないかということだ。まるで、世界一強い男になるレースに最初は全男性が参加しているのだが、そこから脱落した人間が、別のレースを走り出すかのような描写ではないか。少なくとも、私は、そのように受けとった。そして、その最初の最強決定レースから脱落した人間は、その最強決定レースを走っている人間よりも、価値がないような書き方ではないだろうか。もちろん、私の感受性が反応しすぎて、うがちすぎた見方をしているのかもしれないが。
確かに、ここで書いてあることは、夢枕氏からすれば、私の負け惜しみなのかもしれない。しかし、まるで自分が馬鹿にされているようで不愉快だ。彼は彼なりの見方で世界を見ているのだろうが、その見方が、男たるもの最強を決めるレースに参加しなければならないというようで、賛成できない。人生は、レースではない。みんなそれぞれに、別個に動いている。それを一つの型にはめて、単純化して見るのはいかがなものだろうか。世界はもっと複雑だ。ある人が何かをやっている。共通してあるのはそれだけだ。それに順位をつけるのは人である。もし、それが不愉快ならば、その順位を投げ捨てることだって、出来るかもしれない。私たちの世界は、ある一つの動かしがたい見方が存在するだけではなく、その上に、自分なりの飾りつけをできる(ように思われる)ところが、魅力の一つなのではないだろうか。
(2009/01/18)
大学教育、教養、専門
文学部というのは、奇妙なところだ。いろんな専門領域がそこに押し込められている。私は、その中で専門をとりながら、それだけでは卒業単位に足りないから、他のものも取っていく、ということをしていた。
しかし、それでは、大学を卒業したときに、「私はこれが出来ます」といえるかというと、そうでもないと思うのだ。他の学部だと、どうなのだろう。もちろん、学生の出来にもよると思うのだが、カリキュラムの問題として、ここまで積み重ねが存在しない学部というのは、文学部が筆頭なんじゃないだろうか。もちろん、だからこそ、自由横断が出来るというメリットがあるのだが、積み重ねがカリキュラムの上であまり(まったくではないし、学部内のコースによっては存在するだろうが)存在しない以上、学生の責任がこれ以上なく求められる学部であるように思う。
勉強らしい勉強をしている気がしない授業もあった。とりあえず授業内容は理解できるんだけど、頭に入った感じがしないのだ。こういうことがあるのね、ふーん。テレビの教養番組でも見ているような感じだった。レポート書いて単位もらって、でも自分にいったい何が身についたんだろう。こんな授業、受けるだけ時間の無駄じゃないか?
一方で、勉強らしい勉強をしている授業もあった。ちゃんと知識が身についている感じがしたし、その知識は、それなりに役に立つという実感もあった。おどろいたのは、大学の語学の授業だ。第二外国語はそれなりにまともな授業なのだが、英語の授業のレベルが低いように思う。もっと高度な授業をしてくれてもいいはずだ。さらに、専門に入ってからの英語の授業が、英文学や英語学に偏っているのもどうなのか。自分の専門分野の論文を英語で読む授業もあるが、そのレベルも低そうだ。私としては、英語とドイツ語の授業比率を、全授業の中で出来るだけ高め、とりあえずその言語に触れている時間を多くする戦法を取ろうと思っている。無計画にたくさん授業を取る方法も、絞って面白そうな授業だけ取る戦法も、どちらもそこまでうまくいかなかった。とりあえずたくさん取っても、何かが身についている感じがしない。絞っても、身についている感じはしないし、なお悪いことに、面白そうだと思ったものが実はそんなに面白くなかったりした。
だから、蓄積型の語学や、同じく蓄積型の学問を多めに入れて、それ以外の教養的な専門科目は、必要最低限にし、出来るだけ多くの単位を取ることをやっていきたい。
(2009/01/26)