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整理をしていたら、昔書いたものが出てきた。
埋もれさせるのも、もったいないので、ここにアップすることにする。
1〜4まである。これは3。青文字は現在のコメント。
国語の教科書で僕が一番好きだったのは
国語の資料集を見ながら、作家の大学中退率の高さと自殺率の高さに、「これは選ばれたものの通る道なのだろうか」と思いつつ、その人生に思いをはせるのがすきだった僕ですが、国語の教科書で一番好きだったのは、詩のページ。詩の授業はそこまで好きではなかったけど、教科書にいろんな作家のいろんな詩がのっているのは好きだった。
I was born からはじまる、「英語では生まれるじゃなくて、生まされるっていうんだね」、と私は父に言った。そのときの父の表情はおぼえていないけれど、みたいな詩を覚えている。
電車に乗っている優しい女の子が、自分も疲れているんだけど年寄りの人に席をゆずってあげて、みんなゆずらないから、その人だけがゆずることになって、その優しい女の子はどこまで行ったのだろうみたいな詩を覚えている。
中国の詩も好きだったな。和歌はそこまでよくわからなかったんだけど、ゆめとしりせばさめざらましを、は良かった。僕も同じ立場だったらきっと夢から覚めないだろう。万葉集の、防人の歌も好きだった記憶がある。この時代の考えで僕が気に入っているのは、「夢である人が出てきたら、その人が自分に会いたいということ」という考え。今は逆だけど、これはロマンティックだねえ。
今日、あるうちわを見せてもらったのだけど、そこに書かれていたのがマザーグース出典かどうか調べた。やっぱりそうだった。よかった。下の訳は僕。
http://www.mamalisa.com/?t=hes&p=1421
What Are Little Girls Made of?
What are little boys made of?
What are little boys made of?
Frogs and snails,
And puppy-dogs' tails;
That's what little boys are made of.
What are little girls made of?
What are little girls made of?
Sugar and spice,
And all that's nice;
That's what little girls are made of.
女の子は何で出来ている?
男の子は何で出来ている?
男の子は何で出来ている?
かえるにへび、それから仔犬のしっぽ。
そういうものから男の子は出来ている。
女の子は何で出来ている?
女の子は何で出来ている?
砂糖に香辛料(スパイス)、それからすべての素敵なもの。
そういうものから女の子は出来ている。
NurseryRhymesって英語ではいうみたいですね。一つ前の日記の、樹上のゆりかごに一節が出てきたからたまたま覚えていただけなのですが。この樹上のゆりかごというタイトル自体、ナースリーライムス出典。
ひとつ前の日記がどれをさすのか不明。
Hush-a-bye, baby, on the tree top,
When the wind blows the cradle will rock;
When the bough bends it never can fall,
Safe is the baby, bough, cradle and all.
これは、怖くないヴァージョン。もっと伝統的なのは、
Hush-a-by baby on the tree top,
When the wind blows the cradle will rock;
When the bough breaks the cradle will fall,
And down will come cradle and baby and all.
作中、この詩は伝統的には怖くなかったはずだという理論が出てきて、それは「たとえ全てが落ちても、受け止めてくる人がいるからだ」、「これを怖い詩だと思う人は、『受け止めてくれる人がいない世界』に生きているのだ」、「たかいたかいしても、子どもは怖いと思わない」みたいなセリフがあって、「おぉ〜」と思った。裏づけはないかもしれないけど、こういう発想はすごいと思う。ロンドン橋が落ちても怖くないわけだ。
ちなみにその本には、オスカーワイルドのサロメの話が載っていて、その解釈もなかなか面白かった。ヨナターンは結局サロメを見てくれなかった、だからサロメはヨナターンを殺したのよ、という話。サキュバスクエスト外伝、老司書の短い夢(18禁RPGだけど、18禁ならではの面白さがある。話の内容上、18禁要素が不可欠なのに、エロいというより面白い)のサロメは七つのヴェールの舞を踊るけど、出典はここだったんだね!
http://www.c-novels.com/pdf/500946.pdfで樹上のゆりかごの冒頭を立ち読みが出来ます。上の詩の訳もあります。ちなみにサキュバスクエスト外伝もウェブでダウンロード可能。
ちなみに、樹上のゆりかごの前作は、これは王国のかぎですが、そこにもマザーグースの詩が載っています。訳は谷川俊太郎。
This is the key of the kingdom.
In that kingdom there is a city.
In that city there is a town.
In that town there is a street.
In that street there is a lane.
In that lane there is a yard.
In that yard there is a house.
In that house there is a room.
In that room there is a bed.
On that bed there is a basket.
In that basket there are some flowers.
Flowers in a basket,
Basket on the bed,
Bed in the room,
Room in the house,
House in the yard,
Yard in the lane,
Lane in the street,
Street in the town,
Town in the city,
City in the kingdom.
Of that kingdom this is the key.
これはおうこくのかぎ
そのおうこくに としがあり
そのとしに まちがあり
そのまちに とおりがあり
そおとおりに こみちがくねり
そのこみちに にわがあり
そのにわに いえがあり
そのいえに へやがあり
そのへやに ベッドがあり
そのベッドに かごがあり
かごのなかには あふれるはな
はなはかごに
かごはベッドに
ベッドはへやに
へやはいえに
いえはにわに
にわはこみちに
こみちはとおりに
とおりはまちに
まちはとしに
としはおうこくに
これはそのおうこくのかぎ
谷川俊太郎 訳
some flowersだから、あふれるはなではなく、いくつかのはなだとおもうのだけど「はなはかごに〜」から続いていくリズムが、原作みたいでよい。
ちなみに、最近、ぐっとした詩はこれ。
To see a World in a Grain of Sand
And a Heaven in a Wild Flower,
Hold Infinity in the palm of your hand
And Eternity in an hour.
――― William Blake "Auguries of Innocence"
一粒の砂にも世界を
一輪の野の花にも天国を見、
君の掌のうちに無限を
一時(ひととき)のうちに永遠を握る
訳:松島正一
人の心なんてわからないよ説について
人の心なんてわかりっこない、そんな話を聞いたことがあるのだが、これは理屈で考えてみるに、本当ではないと思う。「楽しい」と思ったときに、「楽しい」と相手が思っている可能性はあるのではないかと思うのだ。だが、もちろん、そうでないかもしれない。だから、正確にいえば、「人の心がわかるかどうかがわからない」が正しいのではないだろうか。
厳密に見れば、相手の感情が自分の想定する感情とまったく一致するということはありえないという考え方もある。楽しいにもいろいろな度合いがあるだろうし、100の楽しさをAが持っていて、90の楽しさをBが持っていた場合、それは量的に違う感情を持っているということになるかもしれない。あるいは、色で考えてみると、薄紅色の楽しさをAが持っていて、真紅の楽しさをBが持っている場合、それは質的に違う感情を持っているということになるかもしれない。これを推し進めていけば、細かく見るならば、どんな感情も量的、質的ともに同じになるということは、まずありえないという考えにいきつくことは十分に考えられる。100.1の楽しさを持つAと、100.2の楽しさを持つB、もっと細かく割れば、小数点以下どれだけだって下っていける。色も厳密に分析していけば、まったく同じものはないという考えだってできるかもしれない。赤は赤でも、同じ色のバラはないとみなすことも可能ではないだろうか。観測者の精度があがったら、同じ赤は存在しないといえるのかもしれない。
だが、ここで少し考えてみてほしい。結局のところ、これは観測者に依存した定義ではないのだろうか。「100.1も、100.2も、どちらも、だいたい100でかまわない」という味方を取ることもできるのではないか。薄紅色も、真紅も、赤とみなすという考え方もありではないのか。ならば、Aさんの楽しさとBさんの楽しさが一致するという見方をとることも十分に可能ではないかと思うのだ。
もし仮に他人に心があると仮定するなら、そしてなおかつ、自分の心と同じような動きをするのだと仮定するなら(おそらく理論的にこれの真偽を確かめるすべはないのだが)、上のような見方をとれば、十分に、他人の心が自分の(想定する)心と一致するということは考えられる。
かなり実践に即した理論展開になってしまうのだが、人は、基本的に、相手の心を誤解はあるにせよ、だいたいのところ理解しうるという想定で動いているし、それでなんとかやっていけている。相手の心を誤解することはしばしばある。価値観や感受性が違うので、自分が相手の立場に立ったときにする(心あるいは現実世界での)反応と、相手が実際にする反応にずれがあることは、しばしばある。しかし、それでも、基本的に相手の気持ちが説明されればある程度了解可能であり、それによって人は動いている。そして今のところ、そこまで致命的な齟齬があらわれていないということは、ある見方をとるならば、人の心は(部分的には)わかる(かも)という、弱い証拠になりえるのではないかと思う。
これらの理由から、ある時点において、相手の心がわかったと思ってもそれが誤解であることもあり、また正しいといえることもあるので、他人の心がわかったかどうかわからないというのが妥当であると考える。
偽悪について
社会貢献や慈善事業などの他人を助けるというのを、偽善的だという人がいるが、実はその感覚がよくわからない。自分のごはんを食べるのが最優先であり、他人に気を回すなんて、偽善だよといいたいのであろうか。「いい子ちゃんぶってるんじゃあない」的言説。しかし、そういう考え方というのは、偽悪的だと思う。(実のところ、偽善、偽悪というのも、概念としてはそう整理されていないと思うのだが、この件については後述する)
偽悪的だと言うわけは、この行動がいわゆる「ワルぶってる」行動パターンに感じられるからなのだ。世の中なんて、人間なんて、しょせんこんなもんさ、ということで「かっこいい」とか「進んでいる」と考える人の行動のように見える。近代科学は感情ではなく理論やモデルによって、物事を説明してきたから、できるだけ「クール」や「ドライ」であることが科学的(この言葉はもはやそれ自体で肯定的な意味を持つようになった)であり、感情的(この言葉は場合によっては否定的な意味を持つようになった)でないほうが、より世の中に認められた、進んだ価値観や人間として認められる場合がある。「優しさ」よりも「生存本能」のほうが、より正しい認識である(意見が多いかもしれない)という世界。ドライで厳しいハードボイルドな世界観や人間観がより正しいのであって、それをわかっていないのは「うぶ」だという思想潮流。人間というのは、自分の利益を最優先に考えるものであり、他人に対してそこまで思いやりはなく、基本的に弱肉強食、適者生存の世界で生きていくであるというような道徳観、世界観。まあ、もちろん、ここまでの思想的背景をもって、慈善事業を批判しているわけではないのかもしれない。しかし、他人のために何かするというのを批判するという流れというのは、どうしても「浅い」と感じられてしまうのである。
何が浅いのかといえば、「頭でっかち」になっているのではないかと思うのだ。「理屈で考えすぎている」といおうか。結局のところ、適者生存であり弱肉強食なのだ、他人を助ける暇があったら自分のことをやるのだというのは、今をのほほんと生きていて特に危害を加えられない人間が、とりあえず動くのはめんどうくさいから、考え出した理論のように思えてならない。もっとつっこんだ言い方をするならば、「世の中のある種の不正義」に立ち向かうのが怖いから、そのような理屈をこねまわすのではないかという気がする。傍観者の理論。弱者として攻撃されることがないと仮定し、おそらく強者として積極的に名乗りをあげて攻撃にまわることもないであろう人たちの理論。
結局、自分で動かない人が、このような理論の使い手なのではないかと思うのだ。だけど、もし自分が弱い立場であったら、どうだろう。このように「ドライ」で「クール」になれるだろうか。明日のご飯にも困る、生活が苦しい、これは助けてくれといいたくなるのではないか。だれだって困った状態になることはある。そんなとき、やっぱりお互いに助け合うようになっていたほうが、みんな幸せになれるのではないか。仏教の説話だが、地獄と天国はどちらも、大なべのまわりに、長いはしをもった人たちが、中のいもを食べようとしているところらしい。だが、地獄のほうは、長いはしで自分の口にいもを運ぼうとするために、その長さが邪魔をして、口にいもがはいらず、飢えに苦しんでいる。一方、天国では、なべの向かい側の人に、長いはしでいもを食べさせあっているために、みんなおなかいっぱいだという。他人を助けるという考えを否定するのは、地獄をまねく方法のひとつではないか、なんてことを思ってしまうのである。
ぼくが、保育園くらいだったとき、ある公園で、親といっしょだったときに、「根性をつける」という名目で、ぼくより一才年上の男の子が、弟を攻撃したことがある。ぼくは、黙ってみていた。生き物地球紀行で、弱肉強食について勉強していたから。弟を倒したそいつは、次にぼくに向かってきた。ぼくは負けた。弟は助けてくれないだろうと思った。やられたらやりかえせが、ぼくのモットーだったから。でも、弟は助けてくれた。すごくびっくりした。自分の世界観がひっくりかえった。のちに、振り返って思う。あのとき、動かなかったのは、弱肉強食の理論にしたがって、クールにかまえていたのではなくて、自分より強い相手にむかっていくのが怖かったからじゃないのか。動くのがめんどうで、やっかいで、そんなことにかかわるくらいなら、自分の弟を見捨てるほうがよいと考えたのではないか。そう、思う。しかし、それでも弟はやれらているぼくを助けに来た。それ以来、ぼくは弟のことを尊敬している。これは本当に尊敬に値する行いだった。このことを思い出すたびに、ぼくは自分の中に「ゲス野郎」がいることを思い出す。たぶん、こいつの言うことを聞いて、命が助かることもあるのだろう。しかし、こいつの言うことを聞いたばっかりに、もっと悪いことが起こる可能性だってあるのだ。ぼくより弱いやつを粉砕したあとで、ぼくを粉砕しに来るといったように。今では、ある程度落ち着いたが、中学校くらいのときまでは、このことを思い出すたびに、そんなことをした男の子を、カキ氷の屋台を売っていた男の息子だったが、そいつを殺したくなっていた。けんかで負けた後、その公園をはなれる間中、ぼくは、その男の子にむけて、父と仲良くなり、立ち去る車に向けて手を振っていたそいつにぼくは、心の中で呪いをかけていた。「死ね死ね死ね死ね死ね・・・」、これは小学校の半ばくらいまで続いた、きらいなやつに対する、ぼくのお得意の報復措置だった。きらいなやつには呪いをかけて、ストレスを残さない。いつもはそれですっきりするのだけど、こいつは、なぜかしぶとく、復習したいやつリストの中に残っている。まだ完全には許せないのだ。それを思うたびに、自分の未熟さと、相手への怒りを感じる。いつか、許せる日が来るのだろうか、と思う。でも、もしかしたら、許せなくていいのかもしれない。死ぬまで許さない、というのも、ひとつのあり方だろう。もし、許せたら、それはきっと、すごく開放されて気持ちいいのだろうけど。気の済むまでうらんだら、何か見えてくるかもしれないし、うらみに飲み込まれて、何かを壊してしまうかもしれない。心の中の許せないものごとをどうするかは、ぼくにとって、大切な課題のひとつだ。
ファンタジーが現実に与える影響について
ミヒャエル・エンデ 貨幣
グノーシス主義、この世が邪悪であるという観念
責任という言葉の意味が、よくわからない。
高校のときに、一人の人間が数百億ドルも収入があるなんていうのは、おかしいんじゃないだろうか。みんなはどう思う?という質問をした社会の先生がいた。たしか、そんな質問をしたのだったと思う。おかしいと思う人は、どちらかといえば、少数派だったように思う。あるひとにぎりの人に、たくさんの富がいき、残りの大多数が、残りの富を配分され、貧しいくらしをする。それはやっぱり変じゃないかと思う。なにごとにも、「ほどほど」いうものが存在するのではないのか。高校のその社会の授業で、そんなに、みんなは、高収入層に入れると思っているのか。ワーキングプアになるわけなんてない、なんて思っているのか。みたいな質問があったと思う。気のせいかもしれない。気のせいかもしれないが、たしか、みんなあまり、そういう想定はしていなかったように思うのだ。
ぼくは、そういう風には思えなかった。ぼくは、そんなに簡単に高収入層になれるものかと思っていたし、貧富の差がありすぎるのは、不平等だと思っていた。非正規雇用の問題を、自己責任と切り捨てるのは反対だ。
しかし、この自己責任、いったいどういう意味なのか、いまひとつわからない。ただ単に、「お前のことなんてどうだっていいよ」という言葉を、ちょっと難しくしただけのように思えるのだ。少なくとも、ぼくは、自己責任と言う言葉を聞くたびに、お前のことなんてどうだっていいよ、私たちには関係ないよ、といわれている気がする。そしてそれは、そういう無関心は、やっぱりいかがなものかな、と思わざるを得ない。自分のやったことに責任を取るのは、ある意味で当たり前のことだ。そんなのは大前提であって、そこから、困っているなら助けようよ、という話になってくるんじゃないだろうか。世間には、大前提しか必要ありませんという意味なら、それは社会として望ましい状態ではあるまい。
<<ここから下は別のファイルになっていたもの。以下のもののほうが更新日時は若干おそかったが、だいたい同時期に書いたものだと思われる>>
随筆
実際、大学生活がこんなにつまらないものだったなんて、思わなかった。
私の周りの大人たちは、みんな、大学が楽しいといった。好きな勉強ができるし、なんだって好きなことができるよ。大うそつきもいいところだった。
特に何もやりたいことがなかったぼくは、しかしそれでも進学し、手探りで、ふらふら歩いてきたのだけれど、それでも、やっぱりしっくり来る場所は見つかっていない。おそらく大学時代がしっくり来る場所じゃない。つまらない。
しかし、こんな風につまらないと思うたびに、私が思うことが一つ。それは、つまらないのは大学というよりも、自分自身なのではないかということだ。もし、自分の中に、面白いものがあれば、それを使って楽しむことができるのではないのか。つまらないのは、私の中身が空っぽだからではないのか。しかし、心に何もないとも、思えない。
そしてこの思考は袋小路に入り、そんな原因を考えるよりも、とりあえず何か面白そうなことを探そうという結論になる。それを三年くらい続けていて、まだ実になっていない。しかし、結局、自分がつまらないから周りがつまらなく見えるのであれ、実際に周りがつまらないのであれ、どこかに面白さを見つけなくてはどうしようもないのは、確かであった。
そんな自分は、珍しい存在なのだろうか、と考えてしまう。私の周りの人間は、それなりに大学生活を謳歌しているように見えるが、実のところ、その心の奥底では、「こんなはずではない」と思っているのではないか。私は、なぜかそう感じてしまうのだ。あえて質問したことはないのだけれど。楽しかったのは、大人たちばかりなのではないのか。世界はいまや変わってしまって、大学は楽しいところではなくなってしまったのじゃあないか。
このようなことを考えるにつけ、サリンジャーを思い出す。『ライ麦畑でつかまえて』は、高校のときの先生のおすすめだった。十五で読んで何がいいのかわからなかった。十八でなぜか読むと心が落ち着くのを感じた。二十一で、ホールデンの気持ちが、たぶんわかる。
底なしの穴を落ちる感じ、レポートが書けない気分、落第でもいいですよ感覚、すぐ手を出す男とデートしている仲良かった女の子に対する心配、先生はいい人かもしれないがわかってないという確信、シェークスピアの性愛を修道女の人がどう感じるのかに対する興味などなど、全部わかる。わかると思う。そして世界中でまだ発行部数が伸びているということは、この感覚は、全世界的なものなのじゃないか。
なんだかものすごい閉塞感を感じる。どこにも逃げ場はなさそうに見える。戦っても勝ち目がないように見える。だが、しかし。このままの状態が続くなんてことはありえないことだ。人間の作ったものなんて、本質的にはかないのだから、どんなに強固に見える社会構造も、いつかはもろく崩れ去る。より進化した社会が来るとは思えない。が、なるべくなら、その変化した場所が、より楽しくて幸せで面白い場所であれば、と思う。
ファンタジーと言葉
いやな思い出、というのは、だれにだってあるものかもしれない。だけど、それをうまく消化できないでいる人も多いかと思う。私も、そういう一人であり、十年くらい前の出来事をいまだに思い出してはゆううつになるということがある。そのような、心の中にあるわだかまりをどうすればいいのだろう、というのが、私が長年抱えている問題のひとつである。
昔、保育園に入る前に、死んだらどうなるんだろうと考えたことがあった。今の世界は夢みたいなもので、死んだら目がさめて、本当の世界がはじまる。その本当の世界では、やはりこの夢の世界でであった人たちがちゃんといる。ただ、その本当の世界は永遠に続いていき、私たちが寝ると、また別の一生の夢を見る、のではないか、ということを考えた。その後、父親が、意識は脳によって作り出されているのだから、死とは無になることであるといった。そのことについて、小学校四年生のときに深く考えてみたら、ものすごく怖くなった。この恐怖は、大学に入ってからもつきまとってきた。この克服も、死ぬまでに解決しておきたい課題のひとつである。
ファンタジーや物語の中で、敵を殺す主人公に感情移入することは、たぶんよくあることだが、たぶんそれは現実に行ったら、そんな風にドキドキはしない。レイプ・ファンタジーという概念があるらしいが、ファンタジーとしてのレイプは、まず間違いなく現実のレイプには及ばない。恋人同士の遊びとして、レイプごっこがあるとしても、それは、まず間違いなく本当のレイプにくらべると、ずいぶんとキレイだ。たぶん、本質的に、ファンタジーとはキレイなものなのだと思う。非道な犯罪でさえ美しく見せることができるのが、ファンタジー、物語の力なのだと思う。ただ、それはファンタジーの中だけで美しく輝くのであって、現実では、それはまったく汚い行為になるはずだ。
私が創作をしていく中で、不思議だと思ったことがある。幸せを物語ろうとしても、なぜかうまくいかない。幸せは、書きにくい(絵のほうが、幸せな情景は描きやすいのではないかと思う)。不幸のほうが、書きやすい。ほのぼのとした情景を書こうとしてもうまくいかない。とりあえず人が死んじゃう話のほうが、ずっと書きやすい。不幸なことが起こって、問題が解決するタイプの話のほうが、最初から幸せなお話よりも書きやすい。できるだけ、本当のことでないようなほうが、書きやすい。現実にあるものを言葉にしていくよりも、完全に頭の中だけでしか成り立たないようなものを書くほうが楽しい。
レイプものの小説で興奮する人が、現実にレイプしたとして、興奮できるとは思えないし、それはたぶん、敵を殺すようなファンタジー(漫画であれ、小説であれ、すごくたくさんあるけれど)にわくわくするような人が、現実に「敵」を殺した場合、それは全然まったく興奮するような出来事ではないだろう。要するに、現実の体験と、物語やファンタジーは、おそらく似ているのだけど違ったおきてで動いているのだ。
昔の嫌な思い出も、言葉にしてしまえば、その嫌な思い出は、きっと物語のおきてにしばられることになる。死についての論考も、言葉にしてしまえば、ファンタジーのルールの中に組み込まれる。思い出は過去に、死は未来にあるけれど、どちらも今ではないどこかにあることは一緒だし、物語の持つ力のひとつは、ここではないどこか、今ではないいつかに触れることができることだと思う。死も、嫌な思い出も、ある意味ではリアルじゃない。だけど別のリアルさで私たちを苦しめる。死や思い出は、机みたいに、手に触れられるものではない。目の前にせまっているライオンとか、傷口にばんそうこうをはるとかいう、具体的な危機じゃない。でも、別の形の危機だし、手に触れることができない、なにか別の形でそれは存在している。そういう手に触れることができないふさ形の恐ろしいものには、物語で対抗することができるかもしれない。
言葉にすることで、気持ちが楽になるということはあるらしいし、私もその方法は有効だと信じているのだが、実は根本のところで、私は言葉を信じていないところがある。言葉をいくら重ねても、真実にはたどりつけない気がするのだ。本当のところにたどりつくためには、言葉を超えなくてはならないのではないか。たとえば詩のように(詩は、言葉を使って言葉で表すことができる領域を超える方法のひとつだと思う)。私は、言葉や数字や音やにおいやはだざわりなどをぜんぶひっくるめて、その上で飛び越えなくては見えないところに、ほんとうのものはあるのではないか、と考えている。
言葉というのは、ある状況では、あまり力をもたないのではないか。たとえば、議論のときだ。議論をしても、相手を納得させることはなかなかできないことがある。たぶんそれは、自分の意見を、理性的に組み立てたわけではなく、体験や直感や自分の性格から組み立てていることが多いからではないだろうか。完全に理論で、頭の中で組み立てた考えなら、議論によって考えを変えることもあろうが、体験や直感や性格の問題であるなら、それは言葉による議論ではなく、別の方法によって、影響を受けるのではないかと思う。言ってもわからないなら、やってみせろと、だれかが言っていたような気がするが、要するに、相手の考えを言葉によって変えるというのは、ある状況では難しいのではなかろうか。
しかし、別の状況では、言葉というのは、もちろん力を持っている。欲しい言葉と、ぴったりなときに出会えたら、それは陶酔にも似た感動を引き起こす。それは自分に力を与える。曲についている詩が、なぐさめになることもある。本の中で欲しかった考えに出会うかもしれないし、かけてほしい言葉に出会うかもしれない。それは「ぐっ」とくる体験だ。もし運がよければ、だれかから、自分のそのときの心にふさわしい言葉をかけてもらえるかもしれない。これは本当にすばらしい。
結局は、適材適所ということなのかもしれない。言葉を使うのにふさわしいとき、数字を使うのにふさわしいとき、においを使うのにふさわしいとき…。ファンタジーが必要なとき、もっと別のなにかが必要なとき…。
ただ、ファンタジーによって、傷ついた心が救われるということはおそらくある。そしてファンタジーは何も言葉によってのみ作られる世界ではない。そしてたぶん、ファンタジーというのは「ない」ということではなく、違う形で「ある」ということなのだ。「ゆめ」にも「うつつ」にも、「うそ」はある。しかし、「まこと」もまた、確かにある。そしておそらく「まこと」こそが決定的に大切なのである。