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整理をしていたら、昔書いたものが出てきた。
埋もれさせるのも、もったいないので、ここにアップすることにする。
1〜4まである。これは4。青文字は現在のコメント。
苦労したあとの達成感というものを、ぼくは感じたことがない。
こんな嫌な思いをするくらいだったら、やらないほうがましだったと思う。
たとえば、高校一年のときに、合唱コンクールの指揮者をやった。つらい練習であった。苦痛だった。
別にだれが悪いってわけじゃない。みんながんばっていた(と思う)。指揮を教えてくれた人もがんばっていた。歌うみんなもがんばっていた。本番で学生服を燕尾服っぽく変えてくれた友だちもいたし、先生は蝶ネクタイと手袋を貸してくれた。素敵な人たちだった。しかし、それでも、ぼくの中で、あの思い出がいい思い出にならない。つらかったから、いい思い出にならない。「つらかったけど、コンクールで一番を取ったじゃない。目立ったおかげで、友だちも他のクラスとかにたくさん出来たじゃない。よかったよかっためでたしめでたし」、そういうのにはならない。なれない。
それでもつらかったんだ。嫌だったんだ。立候補したわけじゃなくて多数決で決まった上に、ぼくの指揮が下手なのを指摘してやれやれなんていうのはやめてくれ、知ったような顔をしてアドバイスするくらいだったら君がやればいいだろう。そう思ったし、あと一日、練習が伸びたら、ぼくは駄目だったと思う。本気で本番すっぽかすことを考えていた。あと一日、遅かったら、もしかしたら、ぼくは本番にでて指揮をしていない。
ぼくは昔、そろばん塾に通っていた。何度もやめたいと思ったが、やめさせてくれなかった。結局親がもういいというまで通ったけれど、別に達成感はなかった。英語の塾は面白かった。やめたいと思ったこともあったような気がするが、楽しかったし、達成感についてはよくわからないけど、あれは行ってよかったと思う。思うに、自分からやりたいと思わないかぎり、いくら苦労しようが、達成感なんてものはついてこないんじゃないか。自分からやりたいと思ったことを、最後までやりたい気持ちをもったまま、やりとげたときだけ、達成感を感じることができるんじゃないかと思う。
今までの人生、何かを途中であきらめたことはけっこうあるけれど、そのこと自体を後悔したことはない。あきらめていなければ、逃げ癖がついていないのじゃないか、とか、根性がもっとついたかも、とは思うけれど、大体の場合、逃げ出したいと思うようなことは、自分にとって、逃げ出したってかまわない(逃げ出しても別に後悔しない)ようなことなのだから、そういうものごとに対して逃げ癖がついたとしても、それは大したことじゃない気がする。
達成感を感じたときは、苦労を苦労と思うことが、ぼくの場合はないんじゃないかと思う。
この考えは今(2012年秋)でも変わっていない。
「自殺してはいけない」という言葉は、かなり無責任じゃないのだろうか。
自殺はしてはいけない、しかし、当方はあなたを助けるつもりはない。
そう、言っているように聞こえる。
自殺はだめです(それは社会のルールです、それを破ってはいけません)
だから何なのだ?
そんな言葉は、自殺したい人の悩みを聞くこともなければ、よりそうこともない。
ただ、自殺しようとする人たちに対して、投げつけられるだけの言葉だ、と思う。
そんなこと言われたって、自殺しようとする人がふみとどまるだろうか。説得力皆無に近いんじゃないか?
同じように無責任に聞こえる言葉として、「自己責任」という言葉があげられると思う。
ぼくの記憶が正しければ、これはぼくが中学生のころから、よく聞かれるようになったはずだ。だいたい二十一世紀がはじまるころ。
この言葉は、ぼくの耳には、「お前のことなんてどうだっていいよ」に聞こえる。
困っている人に、「今、君が困っているのは自己責任だから、当方は助けるつもりはない」なんていうのは、まったく言う必要のない言葉だ。困っている人に必要なのは、そんな言葉ではない。こんな言葉を投げつけられたって、何ひとつ事態はよくならない。
困っている人に必要なのは、具体的な問題の解決策とか、傷ついた心をなぐさめる優しい言葉とか、そういったものだと思う。本当に、問題をなんとかしたいなら、自己責任だとか自殺してはいけない、なんて言葉は使う必要がない。それは、事態を悪化させるか、あるいは事態をまったく変えないか、のどちらかではあっても、よい方向には向かわない言葉だと思う。だからせめて、つらい人たちの気持ちをもっとつらくさせる、なんてことをしないためにも、言ってもどうしようもない言葉は、できるなら胸の奥深くに沈めておいたほうが、世のためであるように思う。そして、もし、できるなら、つらい人たちがつらくなくなるような、優しい言葉をかけることができれば、最高だ。
これと同じような考えは、次の次の話にもある。
こんな話を聞いたことがあるだろうか。
ある国に、2人のくつ屋さんが送りこまれた。ひとりめは、「この国では、くつをはいている人がいないので、くつを売ることができません」といった。ふたりめは、「この国では、くつをはいている人がいないので、たくさんくつを売ることができます」といった。ひとりめは、この国には、そんな文化がないので、くつを売ることはできないといい、ふたりめは、くつをはいている人がいないので、くつをはかせるようにすれば、たくさん売れるだろうと考えた。
ぼくの記憶が正しければ、この話を言った先生は、だいたい、くつを売ることができるといった人のほうの考えを支持していたように思う。だが、ぼくの考えは違う。ふたりめの商人は、別に、くつなどなくてもふつうに暮らしていた人たちに、むりやりくつを売ることで、利益を出したゲスやろうだと思うのだ。「必要のないものを買わせるのは悪だ」というのが、ぼくの考えである。
もし、くつがないために、足をけがしていて、なにか足を守るものが欲しいなあと思っていたら別だが、そういうことを考えてもいない連中に、これはかっこいいですよ、なかなかオシャレですよ、ひとつこういうものいかがですか、なんてことを言って売りつけるのであれば、ぼくは本当に、そういうことをしている商人は、よくないと思う。この世の邪悪のひとつといってさしつかえないと思う。
これは詩の形でも表現した。くわしくは(その2とかついていない)詩のページへ。「思うこと」の中にあります。
学校に行かなくてはならない
会社に行かなくてはならない
宿題をやらなくてはならない
結婚しないといけない
子どもを作らないといけない
子どもを育てなければならない
立派な大人にならなくてはならない
生きなくてはならない
死んではならない
全部、正論だ。だけど、それができない人たちにとって、ほとんど何ひとつ役に立たない言葉だ。
むしろ、「正しい」ほうに立っている人たちが、「正しくない」人たちに投げつけるのにぴったりの言葉だ。
正論は、苦しんでいる人たちにとって、ほとんど何も役に立たない。だって、たぶん、苦しんでいる人たちは、多かれ少なかれ、「正しくない」側に立っている。それなら、こんな正論、もう全部どうでもいいじゃないか。正論が強くて幸せに生きている、苦しんでいない人たちのためにしかないのなら、そんな正論は捨て去ったほうがいいと思う。すべての言葉は、弱い人、つらい人、苦しんでいる人を助けるために使われたほうが、きっと世界はよくなる。真の正論とは、常に、弱いもの、つらいもの、苦しんでいるもののためにある。そうじゃなきゃ嘘だ。正しさは、弱い人やつらい人や苦しんでいる人を助けるものでなくてはおかしい。弱い人を断罪するのは、正義ではなく、強いものの暴力だ。本当に正しい道があるとすれば、それは納得に続く道だと思う(幸せには必ずしも続いていないかもしれない)。学校に行きたくない人は、学校に行かなくてはいかないという言葉を、正論だとは思うかもしれないが、納得はできないと思う。心のなかに、わだかまりが残るんじゃないのか。どこか納得できない部分が残るんじゃないのか。「それは、世の中にとって正しいことかもしれないけど、しかし…」。しかし、の後が出てこないかもしれないが、この「しかし」が出てきてしまうということが、すでに正しくないということなのじゃないかと思う。
すべての人を納得させることが出来ないのなら、すべての人にとっての「正しい」もまた、存在しないのかもしれない。ただ、ぼくがはっきりと思っていることは、弱い人、つらい人、苦しんでいる人にとっては、正論は大して役に立たないということ、それと、役に立つものはもっと別の、正しいとか正しくないとかいう話とは別のことなんじゃないか、ということだ。
常に、「正しい」を求める世界は、ひずみを生むのではないかと、ぼくは心配する。人間は、常に、まわりから求められる「正しさ」の中にいることはできない。多かれ少なかれ、そこからはみだしたり足りなかったりする。そして、それは、はみだしたり足りなかったりする人にはしんどいことなのだ、たぶん。まとまらないものを、まとめて人間の世界はできているのだと思うけれど、もう少し、心が安らぐ世界はできないものかな。(でも、もし、なにも思わずに、自分のまわりの社会から外れることができる人がいたら…どうなんだろう)
こういうことを、ここ数年くらい、頭のかたすみで考えているような気がする。
才能がない。というのは、どういうことなんだろう。
才能があるというのは、なにかの分野で、あまり努力せずに、ご飯を食べられて、生きていくことができるということだろうか。あるいは、努力すれば、成功できる、少なくとも、ある程度のところまではいけるということだろうか。才能がないというのは、何をどうしたって、成功できない、その能力を使って生きていくことができないということだろうか。
才能というのは、生まれたときから、そなわっているものなんだろうか。それとも、環境によって発現するのだろうか。それとも、その両方だろうか。どちらにしろ、生まれにしろ、育ちにしろ、自分の意思というものは、あまり入っていないように思う。意思によって発現する才能というのは、存在するんだろうか。あるいは、発現する意思がないと、才能は開花しないのか。
才能がない人間は、いったいどうすればいいんだろうか。やりたいことをやる能力がなく、やりたいことに手をのばしつづける気力もなくなってしまったら、やりたくないことをし続けるしかないのだろうか。そうかもしれない。才能がないというのは、絶望以外の何ものでもないときが、あるようにも思う。しかし、「できる」が祝福であるのと同様に、「できない」も祝福だ。その痛みが、そののろいが、そのさけびが、祝福になりえるはずだ。苦しいあまりに自殺をしたい人間にもっとも近いのは、苦しいあまりに自殺をしたかった人間だ。同じ痛みが、お互いをあたためることはありえる。「できない」人が見た景色は、「できる」人には見えない。そういう意味で、それは祝福なのだ。それは何かを成しとげる力にはならないかもしれない。だけれども、何かをいやす力にはなる。幸せをもたらすのは、「できる」だけではなく、「できない」もありえる。「できない」にしかできないこともある。
絶望の中に希望を見る
絶望の中でしか見えない種類の希望がある