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勝利のショック THE SHOCK OF VICTORY デイヴィッド・グレーバー David Graeber 転載+解説
matuさんが、2007年12月26日(水)に、今は消えているサイト(http://media.sanpal.co.jp/no-g8/)に、投稿した、デイヴィッド・グレーバーの「勝利のショック」の日本語訳。matuさんが翻訳されたのか、他の方によるものなのか確認できず。
非常に意味のある文章だと思うので、転載する。
消えてしまったサイト(http://media.sanpal.co.jp/no-g8/)は、2007年ドイツG8サミット、いわゆるハイリゲンダムサミットの中止要求をする運動の中で出てきたサイトであるようだ。残念ながら、Webarchiveでは、正確な情報が、ぼくはつかめなかった。
勝利のショック、原文では、THE SHOCK OF VICTORY は、Rolling Thunder という雑誌に載ったのが初出のようだ。(*1のpdfファイルがソース)
http://news.infoshop.org/article.php?story=2007graeber-victory
「勝利のショック」の原文のhtmlファイルはここ。
http://dimension.ucsd.edu/CEIMSA-IN-EXILE/publications/Scholars/2007.4.pdf(*1)
「勝利のショック」の原文のpdfファイルは、ここ。
URLから推察するに、CEIMSA(Center for the Advanced Studies of American Institutions and Social Movements アメリカの機関と社会運動についての高等研究所)のサイトの中に置かれているらしい。
matu氏は、松本勲氏のハンドルネームであるように、この記事を読むと取れるのと思うのだが(参照 http://web.archive.org/web/20090831201853/http://media.sanpal.co.jp/no-g8/?q=ja/node/212)、正確にはわからない。
www.ne.jp/asahi/anarchy/saluton/adv/tatiyomi1.pdf
松本氏の文章は上のURLでも読める。
一番したに、ぼくの解説がある。
以下、転載。
勝利のショック THE SHOCK OF VICTORY------by David Graeber
直接行動運動が直面している最大の問題は、自分たちが勝利したときに何を行うべきか分からないことである。
奇妙なことを述べているように思われるかも知れない。私たちの多くは最近別段勝利したと感じていないからである。大部分のアナキストは、今日、グローバルジャスティス運動はなんだかプツッと止まってしまったようだと感じている。この運動は、続いていた間は確かに鼓舞されたが、永続的な組織として根差すことも、世界の権力の形成を変革することもできなかった。反戦運動はさらに苛立つものだった。アナキストとアナキストの戦術が概して無視されていたからだ。もちろん、戦争は終わるだろう。だが、それは戦争には常に終わりがあるというだけのことでしかない。誰も自分がそれに大きな貢献をしたなどと感じはしないのだ。
私はもう一つの解釈を示したい。ここで、手始めに三つの命題を展開してみよう。
(1)奇妙に思えるかも知れないが、支配階級は私たちを恐れて生活している。支配階級が計画していることを平均的米国人が本当にかぎつけたなら、支配階級は皆木から吊されてしまいかねない。彼らはこの可能性に未だ取りつかれているように思われる。大衆が結集する兆候、特に大規模な直接行動の兆候がある時、支配階級はパニック状態に陥り、多くの場合は何らかの戦争を始めることで注目を逸らそうとする。これは信じがたいように思われるだろうが、このやり方について他の説明は考えにくい。
(2)ある意味で、このパニックは理に適っている。大規模な直接行動−−特に、民主的方針で組織されている時の−−は非常に有効である。過去30年以上にわたり、米国では、この種の大規模行動が二回しか行われなかった。1970年代の反核運動と、大雑把に言って1999年〜2001年のいわゆる「反グローバリゼーション」運動である。それぞれの場合で、運動の主たる政治的目標は、参画していたほとんどの人が想像できた以上にはるかに早く達成された。
(3)こうした運動が直面する真の問題は、最初に余りにも早く成功したことに驚き、常に不意をつかれてしまうことにある。私たちは勝利に対応できるように準備をしていない。勝利は私たちを混乱に陥れる。お互いに戦い始める。じわじわとやってくる弾圧とナショナリズムへのアピールは、必ず何らかの新しい戦争動員を伴い、全ての政治諸党派にいる権威主義者たちの思うつぼになる。その結果、最初の勝利の十全な効果が明確になる前に、私たちは自分たちがダメ人間のような気になるのに忙し過ぎて、勝利に気付く事さえできないのだ。
二つの最も顕著な例を一つずつ取り上げてみよう。
1.反核運動
70年代後期の反核運動の特徴は、今では標準的だと考えているアナキスト戦術・アナキスト組織形態が北米で初めて出現したことだった。つまり、大衆行動・親和グループ・スポークスカウンシル・コンセンサス手続き・受刑者連帯・分権型直接民主主義原則が初めて出現したのである。これは、全く、現在と比較するといささか原始的であり、大きな違いもあった−−特に、非常に厳密なガンジー型の非暴力概念がそうだ−−が、そこには全ての要素が含まれており、戦術パッケージとして一つになったのはこれが初めてだった。二年間にわたり、この運動は、驚くべきスピードで成長し、全国規模の現象になる全ての兆候を示していた。そして、同じぐらい早く崩壊してしまった。
全てが始まったのは1974年だった。老練の平和運動家がニューイングランド地方の有機農家をたきつけてマサチューセッツ州モンタギューに計画されていた原子力発電所の建設を阻止させた。1976年、ドイツにおける一年にわたる発電所占拠の成功に刺激された他のニューイングランド地方の活動家と共に彼らはクラムシェル同盟を創った。クラムシェルの直接目標は、ニューハンプシャー州シーブルックに計画されている原発建設を止めることだった。同盟は結局一度も占拠をやり遂げることなく、劇的な数の大量逮捕者を出したが、獄中連帯と共に、その活動−−最盛期には数万人が直接民主主義の方針下に組織されていた−−は原子力というまさにその考えを、それ以前にはなかったやり方で問題にすることができたのである。類似した同盟が全国に出現した。サウスカロライナのパルメット同盟、メリーランド州のオイスターシェル、カンザス州のサンフラワー、最も有名なのはカリフォルニア州のアバローニ同盟であり、この同盟は大きな断層線をほとんど直下に持つジアブロ渓谷に原発を建設するという全くバカげた計画に反対していた。
クラムシェルの最初の三回の大衆行動は1976年と1977年に行われ、著しい成功を収めた。だが、すぐに民主的プロセスの諸問題を巡って危機に陥った。1978年5月に新設された調整委員会がこのプロセスを破り、計画されていた第四回目の占拠ではなく、シーブルックで三日間の合法的集会を行うという政府の最終提案を受け入れたのである(その言い訳は、周辺コミュニティとの関係がまずくなることに気が進まないというものだった)。コンセンサスとコミュニティ内の人間関係について苛烈な論議が始まった。そして、非暴力(フェンスを切り開くことやガスマスクのような防衛対策さえもが元々は禁止されていた)の役割、ジェンダーに関する偏見などへと論議は拡大した。1979年までに、同盟は二つの対立派閥に分かれ、次第に有効性を失っていった。そして、様々な遅れはあったものの、シーブルック原発(もしくはその半分)は活動を始めた。アバローニ同盟はもっと長く、1985年まで継続した。その理由の一部には、アナルカフェミニストが強力な中核としていたことが挙げられる。だが、結局、ジアブロ渓谷原発も認可を得、1988年12月に作動し始めた。
表面的には、これはそれほど鼓舞してくれるようなものには思えない。だが、この運動は本当に何を達成しようとしていたのだろうか?参考に、全ての目標を記してみよう。
(1)短期目標:問題となっている特定原発(シーブルック、ジアブロ渓谷など)の建設を阻止する。
(2)中期目標:あらゆる新しい原発の建設を阻止し、原発という考えそのものを非合法化し、環境保護と環境に優しいエネルギーに向けた動きを始め、新しい形態の非暴力抵抗とフェミニズムに刺激された直接民主主義を合法化する。
(3)長期目標:(少なくとも、もっと急進的分子にとっては)国家を打倒し、資本主義を破壊する。
そうだとすれば、結果は明らかだ。短期目標はほとんど一度たりとも達成されなかった。多くの戦術的勝利(遅延・電力会社の破産・法的差し止め命令)にも関わらず、大衆行動の焦点となっていた原発は全て最終的には稼働し始めた。政府はこうした戦いで絶対に負けたように見せるわけには行かなかった。長期目標も明らかに達成されなかった。だが、目標が達成されなかった理由の一つは、中期目標がほとんど即座に全て達成されたことにある。行動は原発という考えそのものを確かに非合法化した−−1979年のスリーマイル島原発がメルトダウンした時、原発産業は永久に破滅したという大衆意識を引き起こすほどだった。シーブルックとジアブロ渓谷原発の計画はキャンセルされなかったかも知れないが、他の当時頓挫していた原子炉建設計画のほとんど全てがキャンセルされ、四半世紀にわたって新しい原発は計画されなかった。実際に、環境保護・環境に優しいエネルギー・新しい民主的組織作りテクニックの合法化に向けて多くのことがなされた。これら全ては誰もが予想した以上に早く起こったのである。
振り返ってみると、本質的な諸問題のほとんどがこの運動の成功のスピードそのものから直接出現していたことが分かる。急進主義者は、原子力産業とそれを創り出した資本主義システムの性質そのものとの関連を創り出したいと思っていた。今にしてみれば分かるのだが、資本主義システムは、原子力産業が重荷になった時に、原子力産業を大喜びで放棄しようとしていた。巨大電力会社も環境に優しいエネルギーを普及させたいと思っていると主張し始め、今ならばNGOと呼ばれるような団体を招待して事実上会議のテーブルについてもらった。このとき、電力会社には原子力産業から逃げ出そうという大きな衝動があった。特に、こうした団体の多くが、手始めに会議のテーブルに場所を勝ち取るためだけに、もっと急進的なグループと同盟を組んでいたからなおさらであった。
戦術に関する激しい議論が起こったのは必然だった。だが、これを理解するためには、戦術的議論が直接民主主義運動内部で起こることは稀だと分からねばならない。他のことについての議論という形を取ることが常なのだ。資本主義の問題を例に挙げてみよう。反資本主義者は常に大喜びでこの主題に関する自分の立場を議論したがる。その一方、自由主義者は現実には「実際、私は主流の資本主義を好ましいと思っている」と述べたがらず、従って、可能なときにはいつでも議論の主題を変えようとする。そのことで、実際には資本主義に直接挑戦するかどうかだった議論が、結局、戦術と非暴力に関する短期的な議論であるかのように論じられて終わってしまうものだ。権威主義的社会主義者などは、民主主義それ自体に懐疑的であり、このことを問題にすることすら好まず、可能な限り幅広い同盟を創り出すことが必要だと論じようとする。民主主義を望ましいとしているが、あるグループが間違った戦術的方向を取ろうとしていると感じている人々は、実際の決定事項に挑戦するよりも、その意志決定プロセスに挑戦する方がはるかに効果的だと考えている。
もう一つ要因がある。これは、あまり気付かれていない要因だが、私は同じぐらい重要だと思う。誰もが知っていることだが、広範で革命的潜在性を持つ同盟に直面すると、あらゆる政府は最初にこの同盟を分断しようとする。穏健派をなだめて譲歩をさせ、その一方で、急進派を選択的に犯罪者と見なす−−これは支配技術の初歩である。だが、米国政府は、常に戦争動員できる世界帝国を手に入れており、このことで、大部分の政府が行わないもう一つの選択肢を持っている。米国政府を動かしている人々は、まさに自分たちが好きなときに、外国での暴力水準を徐々に大きくするよう決定できるのだ。これは、国内問題を焦点に設立された社会運動を沈静化させる際に非常に有効な方法だと証明されている。市民権運動の後に、大きな政治的譲歩「と」ヴェトナム戦争の急速な激化があったのは偶然ではないように思える。反核運動の後には、原子力の放棄と冷戦の増大があり、それは戦略防衛構想プログラムとアフガニスタンや中央アメリカの代理戦争を伴っていた。グローバルジャスティス運動の後には、ワシントン合意の崩壊「と」テロとの戦いがあった。その結果、初期のSDS(民主的社会を求める学生たち)は、当初強調していた参加型民主主義を棚上げにし、単なる反戦運動にならざるを得なかった。反核運動は、核凍結運動へと変形した。DAN(直接行動ネットワーク)とPGA(民衆世界規模行動)が持っていた水平構造はANSWERとUFPJのようなトップダウン型大衆組織に取って代わられた。政府の観点からすれば、軍事的解決はリスクが伴う。ヴェトナムで実行したように、公然と全てを爆破することもできる(だからこそ、少なくとも第一次湾岸戦争以来、効果的に抗議行動を防ぐ戦争を計画することが強迫観念となっている)。また、ちょっとした計算違いが、核のハルマゲドンを偶然引き起こし、この惑星を破壊するかもしれないというリスクが常に幾ばくかはある。だが、政治家は、市民の暴動に直面すると、こうしたリスクを普通に大喜びで受け入れる−−単に、直接民主主義運動は本当に政治家を怖がらせているが、反戦運動は政府お気に入りの敵対者だからだ。国家は、結局、究極の暴力なのである。国家にとって、議論を暴力に関するものに変えることは、国家のホームグラウンドに物事を戻すことなのであり、国家は暴力について大喜びで話すのである。開戦論や反戦論を展開する組織は、常に、他の目的で作られた組織よりもヒエラルキー型であることが多い。これこそ反核運動で実際に起こったことである。80年代の反戦運動はクラムシェルやアバローニよりもはるかに多くの人々を動員したが、プラカードを持った行進・認可された集会・新しい直接民主主義実験の放棄に戻ったこともその特徴だったのだ。
2.グローバルジャスティス運動
読者は、シアトルでの行動とその6ヶ月後にワシントンで行われたA16のIMF/世界銀行封鎖といった様々な行動について広く親しんでいると思う。
米国において、この運動は、メディアすらも完全に無視できないほど急速に劇的に激発した。同時に、この運動はすぐさま崩壊し始めた。直接行動ネットワーク(DAN)がほとんど全ての北米主要都市で設立された。中には改良主義で反企業で厳格な非暴力規範を煽っていたものもあった(特にシアトルとロサンジェルスのDAN)が、大部分は(ニューヨークとシカゴのDANのように)圧倒的にアナキズムで反資本主義で多様な戦術の使用に熱心だった。他の都市(モントリオール、ワシントンDC)ではさらにもっと明確なアナキストの反資本主義収斂を創り出した。反企業のDANはほとんどすぐさま解散したが、二年以上継続したものも僅かだがあった。終わりのない激しい議論が行われた。非暴力について、サミットからサミットへと忙しく飛び回ること(サミットホッピング)について、人種差別と基本的人権の問題について、ネットワークモデルの実行可能性について。そして、9.11だった。弾圧とそれに伴うパラノイアが莫大に増加し、それまで同盟を組んでいた労組やNGOのほとんどがパニックに陥った。2003年のマイアミまで、私たちは完全な敗北に追いやられたかのようだった。そして、停滞状態が運動を覆い、最近になってやっと復活し始めたのである。
9.11は、それを取り巻いている事態を読みとることがほとんどできないほど奇妙な出来事、大惨事だった。その直後から、地球規模の運動で創り出されていたほとんど全ての構造は崩壊した。だが、これほどまでに容易く運動構造が崩壊した一つの理由は、戦争が非常に差し迫った問題だと思われたからではなく、ここでもまた、当面の目標の大部分を、既に思いがけず勝ち取ってしまっていたからだったのだ。
私自身、A16の時点でニューヨークシティのDANに参加した。その当時、DAN全体は、グループとして二つの主たる目標を持っていた。一つは、新自由主義と当時ワシントン合意と呼ばれていたことに対する莫大な世界規模運動の北米部門を調整し、新自由主義思想のヘゲモニーを破壊し、新しい大規模貿易協定(WTOとFTAA)全てを止め、IMFのような組織の信用を傷つけ、最終的にそれらを破壊する手助けをすることだった。もう一つは、直接民主主義モデル(アナキズムに大きく影響されている)を普及することだった。運営委員会とイデオロギーに関する言い争いを伴う旧式の活動家組織スタイルを、分権型の親和グループ構造とコンセンサスプロセスで置き換えようとしたのである。当時、私たちはこれを「感染主義」と呼んでいた。これは、全ての人々が真に必要としているのは、直接行動や直接民主主義を実際に体験することであって、そうすれば人々はそれを自分たちで模倣していくだろうという考えである。自分たちは永続的な構造を創り出そうとしているのではない、という一般的感覚があった。DANは、単に目的のための手段だった。創設メンバーの何人かが私に説明してくれた。目的を達成すれば、それ以上DANは必要ないだろう、と。他方で、これらは非常に野心的目標だから、私たちは、目標を達成するためには少なくとも10年はかかる、と考えていた。
ふたを開けてみれば、約1年半で目標は達成された。
明らかに、私たちは社会革命を誘発することはできなかった。しかし、数十万人を決起させる点まで到達できなかった一つの理由は、ここでもまた、他の目標がすぐさま達成されたことにあった。組織の問題を取り上げてみよう。反戦同盟は、反戦同盟が常にそうであるように、トップダウン型の人民戦線グループとして今だに活動している。その一方で、何らかのマルクス主義党派に支配されていない小規模急進主義グループのほとんど全て−−ここには、モントリオールのシリア移民組織やデトロイトのコミュニティガーデンが含まれる−−が、現在、主としてアナキズム原則に基づいて活動している。彼らは知らないかも知れないが、感染主義は機能していた。交互に、思想の領域を捕らえているのだ。ワシントン合意は荒廃している。従って、今やこの国の民衆の会話がシアトル以前にどのようなものであったかさえ思い出すことは難しい。メディアと政治諸階級が何かについてこれほどまで完全に同意見であったことはない。「自由貿易」・「自由市場」・無制限に加熱した資本主義こそが人間の歴史にとって唯一可能な方向性だ、あらゆる問題に対する唯一可能な解決策だということが完全に前提とされているために、この命題に疑いを投げかける人は文字通り正気ではないとして扱われていた。グローバルジャスティス活動家が勇気を出して初めてCNNやニューズウィークに出た際には、即座に反動的変人だと切り捨てられてしまった。だが、一年か二年すると、CNNとニューズウィークは、私たちが議論に勝ったと述べていたのだった。
私がこの点をアナキスト仲間に述べると、誰かがすぐさま次のように反論するものだ。「そう、確かにレトリックは変わったさ。だが、ポリシーは同じままだ。」
これはある意味で真実である。つまり、確かに私たちは資本主義を破壊していないのだ。だが、私たち(ここで「私たち」というのは新自由主義に反対する惑星規模運動の水平主義直接行動志向の人々を指す)は、恐らく間違いなく、例えば、ロシア革命以来誰よりもたった二年間で大きな一撃を与えたのである。
この点を逐一挙げてみよう。
<自由貿易協定> 1998年以降計画されていた野心的な自由貿易条約は全て失敗した。MAI(投資に関する多面的合意)は完敗した。FTAA(米州自由貿易地域)は、ケベックシティとマイアミで行動の焦点であり、直ちに停止した。私たちのほとんどが、2003年のFTAAサミットを、主として、明らかに非暴力の市民抵抗に対してさえ警察が極度の弾圧を行った「マイアミモデル」を導入したとして思い出すだろう。それでおしまいだった。私たちは、これは極度に負けず嫌いの一群が激高して殻竿で連打していること以上だったことを忘れている−−マイアミは、FTAAが決定的に殺された会議だったのだ。今では、誰もこれほどの規模で大きく野心的な協定について話すものすらいない。米国は、韓国とペルーのような伝統的同盟国との国毎の小さな貿易協定や、大きくても中央アメリカに残っている顧客国を団結させるCAFTA(米国と中米諸国の自由貿易協定)のような協定を押し進めるだけに留まっている。これすらも成功するかどうかすらハッキリしていない。
<世界貿易機関> シアトルでの大災害(彼らにとってだが)後、WTOの事務局はペルシャ湾のドーハ島で行われる次の会議に向けて動いていた。明らかに、DANの妨害に直面することよりも、オサマ=ビン=ラディンによる爆破の危険を取ることにしたのである。6年間、彼らは「ドーハ=ラウンド」に取り組んでいた。問題は、抗議運動に勇気づけられて、南側の諸政府が、少なくとも金持ちの国々が自国の農民に数十億ドルの助成金を与えて南側の農家の競争を妨げていることを止めない限り、金持ちの国々からの輸入農産物に対して国境を開かないと主張し始めたことだった。特に米国は世界の残りの国々の要求に応じるべく何らかの犠牲を払うつもりは全くないため、全ての協定は打ち切られた。2006年7月、WTOの代表であるパスカル=ラミーは、ドーハ=ラウンドは死んだと宣言し、現時点で、今後少なくとも二年間はWTO協議について口に出す人すらいなくなった−−この時点でこの組織は存続しない可能性が強いと思われる。
<国際金融機関と世界銀行>
これは一番驚くべき話だ。IMFは急速に破綻しつつある。そして、これはIMFに対する世界規模の動員の直接的結果である。乱暴に述べてみよう。私たちがこの組織を破壊したのだ。世界銀行はこれほどまでに上手くいっていない。だが、最大の効果が実感されるまでに、私たちは注意を払ってさえいなかったのだった。
この最後のストーリーは少し詳しく話す価値がある。そこで、このインデントした部分を少しばかり離れ、メインテキストの中でこのストーリーを継続しよう。
IMFは常に闘争の大悪党だった。最も強力で、最も傲慢で、最も無情な装置である。基本的に、負債を操作することで、過去25年にわたってグローバルサウスにある貧困な国々に新自由主義政策を押し付けてきた。緊急の資金補充の代わりに、IMFは「構造調整プログラム」を要求する。これは、保健・教育・食物の買い支えの莫大な削減を強制し、終わりのない民営化案を押し付けた。このことで、外国の資本家が地元資源を格安価格で買占めできるようになったのだった。構造調整プログラムが、何らかの形で、経済的に貧困諸国を再建するよう機能したことは一度もなかった。諸国が危機の状態にあり続けることを意味しているだけであり、解決策はといえば、常に、次の構造調整ラウンドを要求されるだけだったのである。
IMFにはもう一つのそれほど知られていない役割があった。世界規模の用心棒である。いかなる国も(どれほど貧困であろうとも)欧米の銀行家への債務(どれほどばかげていようとも)の不履行を許さないようにすることもその仕事だった。銀行家が十億ドルの貸付金を腐敗した独裁者に提供し、この独裁者が自分のスイス銀行口座に直接貸付金を入金し、国から逃亡したとしても、IMFは、その国にいる独裁者の犠牲になっていた人々から十億ドル(プラス多くの利子)を確実に引き出すようにする。もし、ある国が何らかの理由で債務不履行となると、IMFは貸付ボイコットを課す。その経済効果は大雑把に言って核爆弾の効果に匹敵していた。(これは、初歩の経済理論さえをも無視した行動だ。金を貸す側は、ある程度までのリスクを受け入れることを前提としているが、国際政治の世界では、経済法則は貧乏人を束縛するためにのみ適用される。)この役割が彼らを破綻させたのだ。
何が起こったかといえば、アルゼンチンの債務不履行と、IMFからの脱出だった。90年代、アルゼンチンは南米におけるIMFの優等生だった−−関税局を除き、文字通り、すべての公的機関を民営化した。そして、2002年、経済は崩壊した。直後に何が起こったかは誰もが知っている。街路での闘争・民衆集会・一月に三度の政権転覆・道路封鎖・工場占拠。「水平主義」−−明らかにアナキズムの原則だ−−は民衆抵抗の中核だった。政治階級が徹底的に信頼されていなかったため、政治家は、暴行を受けずにレストランで食事をするためにかつらと付け髭をつけねばならなかった。中道社会民主主義者ネストル=キルチネルが2003年に政権を取った。彼は、民衆の大部分に自分の政権のみならず政府を持つという考えさえをも受け入れてもらうためには、自分が何か劇的なことを行わねばならないと分かっていた。そして彼は実行した。彼は、実際、大統領の立場で誰も行うと思っていなかったことを行ったのだ。彼は、アルゼンチンの対外債務を履行しないことにしたのだ。
実際、キルチネルは非常に賢かった。彼は、自分のIMF貸付金を不履行にはしなかった。彼はアルゼンチンの民間債務を不履行にし、すべての発行済みの負債に対して、彼はドルで25セント払うだけでよい、と発表した。シティバンクとチェイス銀行はもちろん、お馴染みの用心棒IMFに行き、罰を下すように求めた。しかし、IMFはその歴史上初めて尻込みした。まず第一に、アルゼンチンの経済は既に崩壊しており、核爆弾と同じぐらいの経済操作さえ瓦礫を弾ませる程度の効果しかない。第二に、誰もが気付いているように、アルゼンチン崩壊のお膳立てをしたのは、まさにIMFの破滅的勧告だった。第三に、そしてもっとも決定的なことだが、これが生じたのはグローバルジャスティス運動の影響力の絶頂期だった。IMFは既に地球上で最も憎まれる機関となっており、アルゼンチン中産階級の残党が物事を少しばかり余計に推進しようとしているのを大喜びで破壊しようとしていた。
だから、アルゼンチンは逃亡を許されたのだ。その後、すべてのことが変わった。ブラジルとアルゼンチンはともに、巨額の負債をIMFに返済した。チャヴェスからいくばくかの支援を受けながら、南米大陸の残りの国々も同様に返済を行った。2003年に、ラテンアメリカのIMF負債は490億ドルだった。今では、6億94百万ドルになっている。このことを俯瞰して見てみよう。これは98.6%の減少である。ラテンアメリカは、四年前は1000ドルずつ負債を負っていたが、現在では14ドルである。アジアがその後に続いた。中国とインドは今はどちらもIMFに目立った負債をしておらず、新しい融資を引き出すことを拒否している。ボイコットは、今や、韓国・タイ・インドネシア・マレーシア・フィリピンなどほとんどの主要地域経済に広がっている。ロシアも同様である。IMFはアフリカ・中東の幾つかの国々・旧ソ連圏(基本的に原油のない国々)の経済に対して尊大に振る舞うだけになっている。その結果、IMFの収益は四年間で80%下落した。皮肉の中でも皮肉なのだが、IMFは、次第に、救い出してくれる人が見つからなければ破産しそうに見えてきた。特別にそれを行いたいと思っている人がいるかどうかはハッキリしていない。金融用心棒としてボロボロだという評判と共に、IMFは、もはや資本家にとってさえも、もはや明らかに役立たないのである。最近のG8会議で、この組織の新しい使命−−多分一種の国際破産裁判所だろう−−を作り上げるために多くの提案がなされたが、結局全てが様々な理由で妨害されてしまった。IMFは、存続したとしても、既に以前のIMFの形に切り抜いたボール紙に過ぎない。
世界銀行は、当初は善良な警察官の役目を果たしており、幾分健全である。だが、ここでは、「幾分」という言葉を強調しておかねばならない−−その収益減は80%ではなく60%であり、実際のボイコットもほとんどない。一方で、世界銀行が生き延びることができているのは、インドと中国が世銀と取り引きしたいと今だに望んでいるという事実のおかげである。どちらの側もそのことを知っており、従って、世銀は取引条件を命じる立場にはいない。
明らかに、このこと全ては、全ての怪物が消滅したことを意味してはいない。ラテンアメリカでは、新自由主義が逃亡中かも知れないが、中国とインドは自国内で破滅的な「改革」を実行しており、欧州の社会保障は攻撃されており、アフリカの大部分は、ボノの一団と世界中の金持ち諸国の一部が偽善的な姿勢を多く見せているものの、今も負債で身動きができず、中国による新しい植民地化にも直面している。米国は、世界の大部分においてその経済力が後退しているが、メキシコと中央アメリカに及ぼすその統制力を必死に増加させようとしている。私たちはユートピアに生きているのではない。私たちはそのことを既に知っている。問題は、私たちが何故自分たちの勝利を気付かなかったのか、ということなのだ。
スイス出身のPGA活動家オリヴィエ=ド=マーセラス(Olivier de Marcellus)は、一つの理由を示している。原子力産業やIMFといった資本主義システムの何らかの要素が打撃を被ったときには、常に、何らかの左翼ジャーナリズムが次のように説明し始める。実際には、これは相手方の計画の一部なのだ−−さもなくば、多分、資本の内部矛盾の容赦ない計算の結果かもしれない。ただいずれにせよ、確かに、私たち自身が多少たりとも原因となっている事などないのである、と。さらに重要なことは、多分、私たちが「私たち」という言葉を述べることさえ嫌気がさしていることであろう。アルゼンチンの債務不履行は、ネストル=キルチネルが実際に巧みに処理したのではなかったのか?彼はグローバリゼーション運動とどんな関係があるのだろうか?とどのつまり、数千人の市民が奮起し・銀行を破壊し・政府をIMCが調整した民衆集会に置き換えたからといって、それが彼の手を強制的に動かしたわけではあるまい。オーケー、多分そうだったかも知れない。こうした市民はグローバルサウスにいる有色の人々だった。どのようにして「私たち」が彼らの行動の責任を負うことができるのだろうか? 彼らが、通常、私たちと同じグローバルジャスティス運動の一部だと自
分たちを見なし、同様の思想を支持し、似たような服を着て、似たような戦術を使い、多くの場合には同じ連合や組織に属していさえしたていたことはどうでもいいわけだ。ここで「私たち」と述べることは、他者の代弁をするという原罪を意味することになるのだろう。
私自身は、地球規模の運動がその成果を地球規模の言葉で考えることが妥当だと思う。こうしたことは取るに足らないことではない。だが、反核運動でそうであったように、ほとんどいつも中期的スパンに焦点を当てていた。目標の階層をここでも記してみよう。
(1)短期目標:特定のサミット(IMF・WTO・G8など)を阻止し、凍結させる。
(2)中期目標:新自由主義を中心とした「ワシントン合意」を破壊し、全ての新しい貿易協定を阻止し、WTO・IMF・世界銀行のような機関を非合法化し、究極的には凍結する。新しい直接民主主義モデルを普及させる。
(3)長期目標:(少なくとも、もっと急進的分子にとっては)国家を打倒し、資本主義を破壊する。
ここでもまた、同じパターンが見られる。シアトルの奇跡以後、短期−−戦術的−−目標が達成されたことはなかった。だが、これは主としてこうした運動に直面したために、政府が一歩も譲らなくなり、行動方針の問題にすべきではなかったのに、行動方針の問題にしてしまったからであった。実際、これは、当該サミットの成功よりもはるかに重要だと考えられていることが多い。大部分の活動家は気付いていないが、多くの事例−−例えば2001年と2002年のIMF/WB会議−−において、警察が警備の手配を非常に綿密に実施したために、結果的に会議それ自体が凍結寸前までになった。確実に、多くのイベントがキャンセルされ、式典が台無しになり、誰も本当にお互いに話す機会を持てなかったのである。だが、問題は、貿易担当当局者が会議を持てたか持てないかではなかった。問題は、抗議者たちが勝利したと見なし得なかったことだった。
ここでも、中期目標はすぐさま達成された。そのために、実際に、長期目標の達成がもっと難しくなった。NGO、労組、権威主義マルクス主義者といった同盟者は、ほとんどすぐさま逃げ出した。戦術的議論がその結果生じたが、いつものように、間接的に、現実の戦術的議論以外の人種・基本的人権・戦術といったことについて議論が行われた。ここでも、国家の戦争実行によって全てがさらに難しくなってしまった。
既に述べたように、イラク戦争が必然的終結を迎えたのはアナキストの直接的責任だとか、帝国が既にイラクで垂れ流している鼻血すらもアナキストのおかげだなどは言えない。だが、一つの事例については間接的な責任があると言えるだろう。60年代とヴェトナムの大失敗以来、米国政府は戦争に復帰することで民主的大衆動員の脅威に答えるという政策を放棄していない。だが、これはもっと注意深くならねばならない。本質的に、米国政府は抗議行動が起きないように戦争を創り出さねばならない。第一次湾岸戦争は明らかにこれを念頭に置いて創り出されたと信じるに足る充分な理由がある。イラク侵略の際に取られたアプローチ−−米国人犠牲者がヴェトナムの水準にならないように保護すべく、ハイテク装備した小規模の軍隊に固執し、民間人に対してさえも行う無差別射撃に極度に頼っていた−−は、軍事的効果に焦点を置くというよりも、自国での潜在的な平和運動を阻止することを念頭に置いて開発されたのだ。とにかく、このことは、世界最強の軍隊が何故、外部の安全地帯へのアクセス・資金・軍事支援が希薄なほとんど想像を絶するほど落ちぶれたゲリラ集団に拘束され、敗北さえしてしまったのかを説明してくれる。通商サミット同様に、政府は市民の抵抗力が自国での闘争で勝利したように見えないよう保証することに頭が一杯だったため、実際の戦争で敗北することを選んだのである。
展望(30年代のスペインへ少し戻ろう)
ならば、勝利の危険に対してどのように対処すればよいのだろうか?私は簡単な答を述べる事ができるなどとは思っていない。実際、このエッセイを書いたのは、話し合いをし、問題を俎上に載せる−−戦術的議論を刺激する−−ためである。
だが、幾つかのことはハッキリと予想される。私たちが次の大きな行動キャンペーンを計画するとき、私は、中期戦略目標を非常に早く達成し、達成した際に同盟の多くが離れていく可能性を少なくとも考慮した方がよいと思う。私たちは、戦術的議論を、他のことについての議論であるように見える場合でさえも、何のために行うのかを認識しなければならない。一つの有名な例を挙げてみよう。シアトル以後の器物損壊に関する議論である。その大部分は、本当は、資本主義に関する議論だったと私は思う。窓ガラスを割ったことを非難している人々は、主として、中産階級消費者にグローバルエクスチェンジ型の緑の消費主義へと動き、外国の労働官僚と社会民主主義者と組むようアピールしたいと思っていたから、非難したのだった。これは、資本主義との直接対決を創り出すように計画されたルートではない。私たちにこのルートを取らせようとしている人々の大部分は、少なくとも、資本主義が完全に敗北しうる可能性を疑っていた。窓ガラスを壊した人々は、自分たちが郊外の自宅所有者たちを攻撃しているかどうかなど気にしていなかった。何故なら、自分たち自身を革命的反資本主義同盟の潜在的分子だなどと思っていなかったからだ。実際には、彼らはメディアをハイジャックし、このシステムは脆弱だというメッセージを送ろうとしていたのである−−本物の革命的同盟に加入しようと考える可能性のある人々の一部、疎外された十代の若者たち、抑圧された有色の人々、組合官僚に耐えられない一般労働者、ホームレス、刑事罰の対象となった人々、急進的な不平家による同様の蜂起行為を刺激することを期待しつつ。戦闘的反資本主義運動が米国で起こるとすれば、こうした人々が始めるはずだと思われる。このシステムが腐っていることを説得される必要のない人々、自分たちがこのシステムに対して何かできることがあると説得される必要のない人々が始めるはずである。どのみち、街路での銃撃戦のない反資本主義革命の可能性がある−−現実を見た場合に、米軍と衝突した場合には負けてしまうわけだから、私たちの大部分がそうであって欲しいと望んでいる−−としても、所有権を几帳面に尊重しながら、反資本主義革命を行う事など出来はしないのだ。
後者は実際に興味深い問題を導く。中期目標ではなく、長期目標を勝ち取ることは何を意味するのだろうか?今のところ、それがどのように起こるのか誰にもハッキリしていない。私たちの誰一人として昔の19世紀・20世紀的な意味での「革命」を信頼していないからだ。結局、全般的革命という見解−−大衆蜂起やゼネストがあり、その後に全ての壁が崩壊することになろう−−は、国家の掌握という古いファンタジーを完全に前提としているのである。これは、勝利が絶対的で完全なものになり得る唯一の方法なのである−−少なくとも、一つの国全体や大きな地方について述べている限り。
例を示すために、次のことを考えてみよう。スペインのアナキストにとって、1937年に実際に「勝利」したことは現実にどのような意味を持っていたのだろうか? 驚くべき事に、私たちは、こうした疑問を自問することがそれほどない。私たちは、ロシア革命のようなことだったのだろうと単に想像している。始まりは同じようだった。古い軍隊が徐々に消え失せ、労働者のソヴィエトが自発的に創られた。だが、それは主要都市においてのことだった。ロシア革命は内戦後数年して、当該コミュニティが望むと望まないとに関わらず、赤軍が新しい国家統制を旧ロシア帝国全体に徐々に押しつけていった。スペインのアナキスト闘士がファシスト軍を敗北させ、完全に解散させ、社会主義の共和制政府をバルセロナとマドリードのオフィスから叩き出したと想像してみよう。誰の目から見てもこれは確かに勝利である。だが、次には何が起こるのだろうか?全く同じ国境の中に非共和制反国家として存在するスペインが確立しただろうか?以前はスペインだった地方にある焼けこげた村落と自治体に民衆評議会体制を押し付けただろうか?それこそ、どのようにして?そこには多くの村落・町々があり、アナキストがほとんど存在しないスペインの地域さえあったことを心に留めておかねばならない。中には、全住民が保守的なカトリックや君主制主義者から成り立っている場所もあった。また、バスク国家のように、戦闘的で充分組織された労働者階級がいたが、圧倒的に社会主義や共産主義だったところもある。革命的熱情の絶頂期にさえ、こうした場所のほとんどが自分たちの昔ながらの価値観と思想に忠実であり続けていた。勝利したFAIがこうした地域全てを壊滅−−数百万人を殺さねばならない仕事だ−−させようとすれば、もしくは、こうした地域の住民を国から追い出したり、アナキストのコミュニティに無理矢理移住させたり、再教育キャンプに送り込んだりしたなら、FAIは国際レベルの残虐行為の罪を犯すというだけでなく、アナキストであることを止めねばならないだろう。民主的組織は、これほどまで組織だった規模での残虐行為を犯し得ない。そのため、共産党やファシスト型のトップダウン組織が必要となる。数千人の人々を使って、無力な女性・子供・老人を組織立って大虐殺し、地域社会を破壊し、家族を先祖代々の家から追放することなど、少なくとも、命令に従っているだけだと言わせるようにできない限り、実際には不可能だからだ。この問題に対しては二つの解決策しか考えられない。
(1)社会主義者が管理する共和制を事実上の政府として継続させ、右翼が大多数いる地域に政府の管理を押し付けさせ、アナキストが大多数を占める都市・町・村落を住民が望むように組織させたままにしておくための何らかの取引をし、政府がその取引を守ることを期待する(これは、「幸運を祈る」選択肢だと見なされよう)
(2)万人が自身の地域民衆集会を形成し、どのような形式の自主組織を作るか決めてもらうと宣言する
後者の方がアナキズム原則に適合しているように思えるが、結果はそれほど異なるとは思えない。結局、例えばビルバオの住民が圧倒的に地元政府を望んでいるとすれば、それをどのようにして正確に止められるのだろうか?教会や地主が民衆の支持を巧みに操っている自治体は同じ昔ながらの右翼当局が恐らく管理するだろう。社会主義や共産主義の自治体は社会党や共産党の官僚が管理するだろう。右翼国家主義者や左翼国家主義者は、旧スペイン地方の一部だけを管理しているものの、対抗する連合をそれぞれが形成し、自分たちこそがスペインの正当な政府だと宣言するだろう。外国政府は、いずれかの側を認めるであろう。外国政府は、FAIが大使の交流を望んだとしても(望まないだろうが)、FAIのような非政府とやり取りしたいと思わないだろうから。言い換えれば、実際の武力戦争が終わっても、政治闘争は継続し、スペインの大部分は、個々の地域や地区がアナキズム派と非アナキズム派に分断して、現在のチアパスのようになると思われる。最終的な勝利は、長く骨の折れるプロセスとなるに違いない。国家主義者の飛び地を本当に勝ち取る唯一の方法は、その子供たちを勝ち取る事であり、これは、無国家地区に明らかに自由でもっと愉快でもっと美しく安全でリラックスし充実した生活を創り出して初めて達成できるだろう。他方、外国の資本主義権力は、軍事介入を行わないとしても、経済的ボイコットと経済転覆や国家主義地帯への資源のばらまきによって、悪名高き「良い手本の脅威」の前に立ちはだかるためにあらゆる事を行うだろう。その結果、全てのことは、スペインのアナキストの勝利が同様の蜂起を各地でどの程度刺激するかにかかってくる。
ここでスペイン革命の別な道を想像してみたが、これを行った真のポイントは、歴史には突然の中断などない、と示すことである。突然の中断という古い考えの裏側には、国家が崩壊し資本主義が敗北した瞬間に、何か足りないものがあれば、それは本当には勝利ではない、ということがある。資本主義が相変わらずのままで、一旦転覆したはずの思想を売り込み始めたら、本当に勝利したのは資本家だと示される。お前は負けたのだ。お前は吸収されたのだ。私にとってこれはバカげている。企業文化が口先だけでセクシズムを非難する義務があると感じているから、資本主義企業がフェミニズムの本や映画といった産物を市場に出し始めているから、フェミニズムは負け、何も達成しなかったなどと言い得るだろうか?もちろん、言い得ない。資本主義と家父長制を一撃で上手く破壊しない限り、これは成功の明らかな兆候の一つなのである。革命の有効な道筋には、絶え間ない吸収の瞬間、絶え間ない勝利キャンペーンの瞬間、絶え間ない小さな蜂起の瞬間、飛躍の瞬間と密かな自律の瞬間とが含まれることになろう。それが本当にどのようなものになるか推測することすら私は躊躇する。だが、この方向で始めるために、私たちが行わねばならない最初のことは、私たちが、実際に、いくらかでも勝利しているのだと認識することである。実際、最近、私たちは多くを勝ち取ってきたのだ。問題は、どのようにして精神的高揚と絶望のサイクルを破壊し、新しい社会に向けて累積的な運動を創り出すために、お互いに築き上げた勝利について幾つかの戦略的ヴィジョン(多ければ多いほど良い)を見つけ出すことにあるのだ。
転載、ここまで。
ぼくなりの解説
まず、訳語に関して少し。「親和グループ」と「コンセンサス手続き」は、書評のところであつかった、「アナーキスト人類学のための断章」で、「アフィニティグループ」と「コンセンサスプロセス」と訳されていたものと同じだろう。
この文書は、上であげた「断章」の作者、デイヴィッド・グレーバー(David Graeber)が、書いたものだ。
ぼくなりにまとめると、「『負けた』、『なにもなしえなかった』と、社会運動に参加した人は思っているかもしれないが、よく見ると、そうでもないと思うよ」ということが書いてある。
その論拠として、アメリカで起こった「70年代反核運動」と「シアトル(と半年後のニューヨーク)で開催されたサミット反対運動」が例として出されている。
日本の人は、アメリカの近現代史・社会運動史をそんなに知らないと思う。
ぼくも、そうだ。
70年代にアメリカでは、原子力発電に対する反対運動が起こった、ということは聞いたことがある。
また、シアトルで起こったサミット反対運動(だったと思う)が、そのあとの時代にも続く、直接抗議の流れを作ったという話も、聞いたことがある。
この文章では、グレーバーは、「みなさんよく知っていると思うが」、という前提で書いているのだが、日本に住んでいると、あまり知らないことも多いので、混乱するかもしれない。
要するに、アメリカでは、70年代と90年代に、国家のある流れ(70年代は原発、90年代は自由貿易)に対する反対運動が起こり、その反対方法は、直接行動を取り、そしてグレーバーによれば、それはある程度の結果をもたらしたのだ、ということなのだ。
具体的に、どのようなことがあったのかは、上にもある程度書いてあるが、もっと知りたい人は、自分で調べて欲しい。
ぼくも、いろいろ書けたらよかったのだが、みなさんにお知らせできるほど、アメリカの70年代における反核運動を知らないし、シアトルやニューヨークで起きた抗議行動について知らないのである。
ただ、シアトルやニューヨークで起きた抗議行動は、反グローバル運動の開始と呼んでもいいレベルのものだったらしく、自由貿易という名前のお金持ちによる支配に対する「否」の声であった、というのは、確かなことだろう。
ぼくが、この文章を無断転載した理由。無断になってしまったのは、訳者がよくわからないし、載っていたサイト(ブログ?)が消えてしまったからだ。転載したのは、価値があると思ったから。この文章は、意味はわからないが、なにか大事なことを言っていると思って、メモ帳にコピペしておいたのだが、「断章」や他のアナーキスト文献を読んだあとで見ると、案外、言っている意味がわかるようになっているから不思議だ。改めて検索をかけてみたら、元サイトが消えていて、原文の英語はいろいろなところに転載されていたが、日本語のものは、ぼくが見た限り、見当たらなかった。そこで、転載を決意したしだいです。アナーキスト的感性からすると、こういう文章はどんどん無断転載していいよーみたいなことがありそうに思うのだが、どうだろう。だめだったとしても、そもそもだれが訳したのかよくわからないので、だめだという人がいても身分証明ができないから迷ったのだけど、こういうものは世に出したほうがいいと思ったので、出します。
なぜ、ぼくが、この文章を価値があると思ったのか。
日本でも、直接行動が、だんだんだんだん、出てきていると思います。
人でいうと、松本哉さんや雨宮処凛さんなどが有名なのかな。外山恒一さんも、直接行動の人だと思います。
行動でいうと、原発事故後の「反原発運動」、坂口恭平さんの「独立国家」運動、外山恒一さんも、いろいろやってますね。
このように直接行動が拡大していくと、その中で、「直接行動をやっても、世の中変わらないじゃないか、つまんない、やーめた」、となる人も出てくると思います。
つまらないからやめる、おもしろいからやる、というのは、これからの直接行動において、かなり大事な軸だと思うのですが、「実際に効果はでているのに、その効果に気付かず、絶望する」、という事態は、かなり悲劇かつ喜劇であり、この文章を読んで、「あれ、よく見たら、いくつかのことって達成されてるんじゃね?」みたいなことを思える視点を確保してもらえたらと思います。
短期目標は達成できなかった、長期目標もだめだった、でも中期目標は達成されているんじゃないか?
たとえば、原発でいうなら、原発の即時停止は無理だった、再稼動されたものもある、原子力エネルギーは捨てる、ということにはなっていない…。なっていないけれども、もしかしたら、原子力政策に何か違いが出たのでは? あるいは、電力会社が方針展開したりしてない? というような視点を持っておくと、案外絶望しにくいんじゃないかな、と思うんです。
だめだ、という結論は、そんなにすぐに出さなくてもいいんじゃないかな・・・。
あと、記憶があいまいなのですが、たしか、この文章が、はじめてグレーバーに触れた文章だったとも思うので、個人的にも、けっこう大事な文章でありそう。
ああ、追伸。
外山恒一さんの「青いムーヴメント」やそのほかの文書、ネットで読める部分なのだけど、「80年代は政治運動がなかったとかいうけど、あったよ。俺は知ってるよ」みたいなことが書いてあって、興味深いです。
学生運動は衰退したけど、学生運動に参加したようなやつらは、大学にいかずに、「反管理教育運動」をやっていたんだよ!ということが書いてあったのですが、なるほど、だから大学の学生運動はあんなに死んでたのか!とひざをうちました。あと、学生自治会なるものが政治的には共感できるんだけど、なんか資金繰りとかで変じゃないかと思うことがあったのだけど、それも理解できたように思います。外山さんや他の人の話では、自治会ってものを手中におさめることで、学生から資金を徴収し、政治活動にあてるという構図があったらしい。なるほどー。
There's A Riot Goin' On
http://snailtrail.seesaa.net/
グレーバーの「負債」の冒頭の翻訳の転載です。(許可はいただいています)
http://snailtrail.seesaa.net/article/309422990.html
2012年12月23日
負債:その5000年の歴史 1-1
Occupy Wall Street の理論的指導者、人類学者、アクティビスト、アナーキストである David Graeber の "DEBT:THE FIRST 5000 YEARS"は、経済そのものの根源を問う非常に刺激的な本です。極めてラディカルな内容ながら平易な英語で書かれており、大学の教養レベルの英語力でも十分読みこなせます。紹介として、導入部を翻訳してみます。興味を持たれたら、ぜひ原書にトライしてみてください。
CHAPTER 1 On The Experience of Moral Confusion (1)
(3回か4回に分けて掲載します。)
第一章 よくある道徳的混乱 @
二年前、私は奇妙な偶然の成り行きで、気づくとウェストミンスター寺院のガーデン・パーティに出席しており、いささか居心地の悪い思いをしていました。別に他の客たちが不快だったり、友好的でなかったりしたわけではないし、パーティを主催したグレーム神父は、思いやりと魅力あふれるホスト以外の何ものでもありませんでした。にもかかわらず、私はかなり場違いな気分でした。ある時点で、グレーム神父が助け舟を出してくれました。噴水のそばに私が興味を持つような人物がいると言うのです。彼女は、若くてこぎれいな身なりの、真面目そうな女性で、神父が言うには弁護士だということでした―「と言っても、アクティビスト的なタイプですよ。反貧困活動グループに法的サポートを提供するロンドンの組織で働いておられます。きっとあなたと共通の話題がたくさんあると思います。」
私たちは談笑し、彼女は仕事について話してくれました。私は、もう何年もグローバル・ジャスティス・ムーブメント―当時メディアでは「反グローバリゼーション運動」と呼ばれていました―に関わってきたことを話しました。彼女は興味を示しました。当然、彼女もシアトルやジェノアに関する記事は読んでいたのです。催涙ガスや市街地での衝突やら何やら… でも、ああしたことすべてで、いったい何が達成できたのかしら?
「実際…」と私。「あの最初の2年間で私たちは驚くほど多くの事を達成しましたよ。」
「例えば?」
「そう、例えばIMFをほとんど完全に破壊することができました。」
どうやら彼女はIMFの本質を理解していなかったようなので、私は国際通貨基金が世界中の国々に対する債権者として振る舞っていたのだということを教えてあげました―「言ってみれば、人の足を折るようなことを高度な金融の世界でやっているわけです。」
さらに私は歴史的な背景を説明しました。1970年代の石油危機の最中、OPEC諸国が新たに手に入れた膨大な富が欧米の銀行に流入し始めた結果、銀行は投資先のあてがなくなってしまったこと。シティバンクとチェイスが世界中に人を送り、第三世界の独裁者や政治家たちに融資を持ちかけたこと(当時、これは「ゴーゴー・バンキング」呼ばれていました)。当初、非常に低金利だったそうした融資の金利が、80年代初頭のアメリカの厳しい通貨政策によって、すぐに20パーセントかそこらまで跳ね上がったこと。そして、このことが80年代、90年代の途上国債務危機につながったこと。そこにIMFが介入し、融資することと引き換えに、基本的な食料に対する関税保護の撤廃や、さらには将来を見据えた食料備蓄計画の廃止、無料で医療や教育を提供することの廃止まで強要したこと。こうしたことすべてが、地球上でもっとも貧しく力のない人々に対する極めて基本的な生活支援をすべて崩壊させることにつながったこと。私は、貧困について、公共の資源の略奪について、共同体の崩壊について、地域にはびこる暴力について、食糧不足について、絶望と破壊された人生について語りました。
「で、あなたがたの立場は?」と女性弁護士は訊きました。
「IMFについてですか?私たちはそれを廃止したかった。」
「そうじゃなくて、途上国債務についてです。」
「ああ、私たちはそれも廃絶しようと考えました。早急な要求としては、IMFが構造改革政策を強要するのを止めさせること。直接的なダメージはすべてそこから来ていましたからね。それについては驚くほど短期間で達成することができました。長期的な目標は負債を帳消しにすることでした。聖書に出てくる大赦のようなものですね。私たちに言わせてもらえば、30年もの間、最も貧しい国々から最も裕福な国々に金が流れ続けたわけですから、もういい加減終わりにすべきでした。」
「でも―」
彼女はあたかも自明のことのように反論しました。
「お金を借りたわけでしょう?負債を返済するのは当然の義務だわ!」
ここへ来て私は、彼女との会話が当初、期待していたのとはだいぶ違ったものになることを悟りました。
どこから説明したらいいのでしょう?もともと金を借りたのは人々に選ばれたわけではない独裁者で、その金はそのままスイスにある彼らの銀行口座に収まったことを説明することもできます。そして返済を迫られるのは独裁者本人や、その取り巻き連中ですらなく、文字通り腹を空かせた子どもたちの口から食べ物を奪い取ることになるのだということの道義的是非を彼女に考えてもらうこともできたでしょう。あるいは、こうした貧しい国々の多くがすでに借りた額の3倍ないし4倍を返済しているにもかかわらず、複利という信じがたい方式のせいで、いまだに元金返済までに至っていないこと。また、借金を補綴するために再融資することと、その条件としてワシントンかチューリッヒでつくられた、ありがちな自由主義市場政策に従うことを強要することは、全く別だということ。そうした国々の人々はそのような政策に同意したわけではありませんし、これからも同意することはないのです。さらに、民主的な憲法を採用するよう強要しておきながら、選挙で選ばれたリーダーが政策を決定できない状況を強要するのは、あまりに不正直なやり方だと指摘することもできます。あるいは、IMFが提示した経済政策は全く効果がないということも。
しかし、ここにはもっと根本的な問題がありました。つまり、なぜ負債は返済されなければならないと考えられているか、ということです。
実は「負債は返済しなければならない」という主張は、通常の経済の原理に照らしても、正しくないのです。貸す側はある程度のリスクを背負うことが当然です。もし、どんな馬鹿げたものでも、融資が必ず回収できるものであるとするならば―たとえば破産法が存在しない場合などを想像してみてください―そのもたらす結果は悲惨なものです。貸主がとんでもない融資をしない理由がなくなってしまいます。
「一般的な常識に従えばおっしゃるとおりです」と私は彼女に言いました。「でも実は、経済の仕組みを見ると、融資とはそのようなものではないのです。金融機関というものは、利益を上げる可能性のある投資先に資金を配分する役割をするものであると言われています。もし、何が起ころうとも銀行が元金と利息を回収できるとしたら、このシステム自体が機能しなくなるはずです。例えば、私が王立スコットランド銀行の最寄りの支店にふらりと入って“実は今度のレースに関する耳寄りな情報が入りましてね。200万ポンドばかり融資してもらえませんか?”などと言ったとします。当然、私は笑いものになるでしょう。それは彼らが、私の賭けた馬が勝たなかったら金を取り戻せないことを知っているからです。でも、何があっても彼らが貸した金を取り戻せることを保証する法律があったらどうでしょう。私が娘を奴隷に売ったり、自分の臓器を売ったりしてでも返済することを強制する法律があったとしたら。そうなれば、彼らを止めるものは何もありません。どこかの誰かがコインランドリーか何かを始めるためのまっとうな起業計画を持ち込むのを待っている必要はどこにもなくなります。IMFがグローバルなレベルでつくり上げたのはまさにそうした状況でした。そもそも、そうした状況が出来上がっていたからこそ、悪人であることが明白な連中に多くの銀行がこぞって何百億ドルという融資を持ちかけることになったのです。」
それ以上深くは話せませんでした。というのも、このあたりまで話したところで酔っ払った金融マンがやって来て、私たちが金の話をしていることを知ると、“モラル・ハザード”がうんぬんといった見当はずれの話をし始めたからです。気づくとそれは彼の性的遍歴に関するぞっとしない自慢話に取って代わっていました。私は退散しました。
しかし、それから数日間、彼女の言葉が頭の中で反響していました。
「負債を返済するのは当然」
この言葉の強烈な説得力は、それが経済的ではなく、道徳的な主張であることからきています。そもそも、“道徳”とは他者に対する債務以外のなにものでもないのではないでしょうか。必要な支払いをすることこそ、責任を果たすことである。人は他者に対する義務を果たすべきであり、あなた自身も他人にそう期待する。約束を破ったり、借金の返済を拒んだりすることは、責任放棄の最たる例だとされるでしょう。
しかし、この自明性こそ、この言葉のもっとも厄介な呪縛だと私は気づきました。このような言葉は、世界で起きている恐るべき非道を、まるで取るに足らない、当たり前のことのように思わせる力を持っています。大げさに聞こえるかもしれませんが、その結果を実際に目にした者としては、このことを強調してもし切れません。
私は二年近くの間、マダガスカルの高地に住んでいました。私が到着する直前に、マラリアの大流行がありました。マダガスカル高地では遠い昔にマラリアが撲滅されたので、二世代ほどを経てほとんど人々は免疫を失っていたため、極めて深刻な事態となりました。マラリアを媒介する蚊を撲滅するプログラムには予算が必要です。蚊が繁殖していないか定期的に調査し、繁殖していることが分かれば殺虫剤の噴霧などを行う必要があります。大した金額ではありません。しかし、IMFから融資を受けていた政府は緊縮財政を強いられており、この監視プログラムを打ち切らざるを得ませんでした。その結果、一万人が死にました。私は、子どもを失って悲嘆にくれる若い母親たちに会いました。無責任な融資の結果として生じたシティバンクの損失を抑えるために、一万人の命が失われたことを正当化することができるでしょうか。そもそも彼らにとっては痛くもかゆくもない額なのです。しかし現に、仮にも慈善的な活動に携わる心ある女性が、それは自明のことだと言い放つのを私は聞きました。だって、彼らはお金を借りたのでしょう?負債を返済するのは当然だわ、と。
(つづく)
http://snailtrail.seesaa.net/article/311388839.html
2013年01月04日
負債:その5000年の歴史 1-2
"DEBT:THE FIRST 5000 YEARS"
CHAPTER 1 On The Experience of Moral Confusion (2)
(3回か4回に分けて掲載します。)
第一章 よくある道徳的混乱 A
それから数週間、その言葉は繰り返し私の頭の中で反芻されました。なぜ「負債」なのか?この概念の持つわけのわからない力はどこからくるのか?消費者ローンは経済を支える血液のようなものです。現代のすべての国家(nation-states)は赤字財政の上に成り立っており、いまや負債は国際政治の中心課題にすらなりました。にもかかわらず誰も、それが正確に何であるか、あるはどう考えていいのかすら分かっていないように思えます。
「負債とは何か」が分からないという、まさにそのことが、この概念に融通性を与え、その力の基となっています。歴史から学ぶべきことがあるとすれば、暴力によって打ち立てられた関係をあたかも道義であるかのように正当化する際、それを「負債」をめぐるボキャブラリーを用いて再定義する以上に効果的な方法はないということです。なぜなら、そうすることですぐさま、被害者に何か非があるように見せることができるからです。マフィアのメンバーはこのことをよく理解しています。征服軍の司令官も同様です。何千年も前から、暴力を稼業とする人間にとって、被害者が彼らに対して「借りがある」という言い方は、常套句でした。「命を貸してやっている(“owe them their lives”)」などという脅し文句もあります。殺されていない、というだけで借りがある、というわけです。
こんにちでは、軍事的侵略は人道に対する罪とされていますから、侵略者が国際法廷にかけられることになれば、たいてい被害者に対して賠償金を支払うように命ぜられます。ドイツは第一次大戦後に膨大な賠償金を支払わなければなりませんでしたし、イラクは今でもクウェートに対して1990年のサダム・フセインによる侵攻の賠償金を払い続けています。しかしながら、途上国債務―マダガスカル、ボリビア、フィリピンなどの負債に関しては、全く逆方向にことが進んでいます。こうした債務国はほとんど例外なく、ある時期にヨーロッパ諸国に侵略され、征服された国々です。なのに往々にしてかつての侵略者が彼らの債権者となっています。
一つ例を挙げると、1895年、フランスはマダガスカルを侵略し、当時の女王ラナヴァルナV世の政府を解体、フランスの植民地とすることを宣言しました。当時の征服者の言うところの「平定」後に、ガリエニ総督がまず行ったのは、マダガスカルの人々に重税を課すことでした。その一部は侵略されたことによって生じた損害を補綴するためのものでした。そしてさらに、フランスの植民地は財政的に自立しているべきだとされていたので、フランス政府が望んだ鉄道、道路、橋、プランテーション等々の建設費用はすべて現地の人々が負担しなければなりませんでした。マダガスカルの納税者たちは、こうした鉄道、道路、橋、プランテーション等々が欲しいかどうか尋ねられたことはありませんでしたし、どこにどのようにして造るかについて意見を反映させてもらえたこともありません。それどころか、その後の50年間で、フランスはこれに対して強い反対を表明するマダガスカル人を大量に虐殺しました(1947年の反乱では50万人を上回る数が殺されたという報告もあります)。マダガスカルがフランスに対してこれに相応する損害を与えたことがあるわけでは全くありません。にもかかわらず、当初からマダガスカルはフランスに対して負債があると言われ、こんにちでもマダガスカルの人々はフランスに借金を返済する義務があると考えられており、かつ世界中の人々はこの状況の正当性に疑問を差し挟みません。“国際社会”が道徳的懸念を示すのは、たいていマダガスカル政府の返済が遅々として進まないことに対してです。
負債は“勝者の正義”であるばかりではありません。勝つはずではなかった者を罰するためにも使われます。この最も顕著な例はハイチ共和国の歴史に見られます。この貧しい国は、恒久的な負債返済のための労役に就かされた最初の例なのです。ハイチはプランテーションで働かされていた元奴隷たちが建国した国です。彼らは果敢にも全人類に共通の権利と自由を掲げて蜂起したばかりか、彼らを再び隷属させるべく派遣されたナポレオンの軍隊を打ち負かしてしまいました。すると、フランスは新しくできた共和国に対し、すぐさま、所有権を奪われたプランテーションや、失敗に終わった軍事遠征の費用として、1億5000万フランの返済を強く求めました。そして、それが支払われるまでハイチに対して通商禁止令を敷くことに、アメリカを含む他の国々が同意したのです。彼らが故意に返済不能な金額(およそ180億ドルに相当)を設定したことで、「ハイチ」という名はその後長い間、負債と、貧困と、人間にとっての悲惨の代名詞のように扱われるようになったのです。
時に負債は、全く逆の様相を呈しているように見えることもあります。途上国債務の返済を厳しく迫るアメリカは、実は1980年代以降、すべての途上国の債務を合わせた額でさえ微々たるものに思えるほどの負債をつくっていました。その負債の主な源は軍事費です。しかしながら、アメリカの対外債務はほとんどの場合、事実上アメリカ軍の保護下にある国々(ドイツ、日本、韓国、台湾、タイ、湾岸諸国)の機関投資家が保有する米国財務省長期債券という形を取っています。そうした国々のいたるところにある米軍基地の兵器や装備は、まさにそのような赤字支出によってまかなわれているのです。現在、中国が米国債を保有するようになって、状況は多少違ってきました(中国は特別なケースです。その理由は後に述べます)。とはいえ、それほど大きくは変わっていません。中国でさえ、大量のアメリカ国債を保有することで、ある程度までアメリカの国益によって自らも利益を得る立場になったことに気づいたはずで、その逆ではないのです。
さて、アメリカ財務省に絶え間なく集められるようになっているこうした金の流れは、いったい何なのでしょう?貸付なのか?それとも貢税なのか?かつては、国外に何百という基地を持つ軍事強国はふつう“帝国”と呼ばれ、当たり前のように現地の人々に貢税を要求していました。もちろん、アメリカ政府は自らがこのような“帝国”であることを認めはしません。しかしながら、アメリカがこうした金の流れを「貸付」であって「貢税」ではないと言い張る理由は、まさに行われていることの真の性質を否認するためなのだと立論することは難しくありません。
実は歴史を通じて、ある種の負債や、ある種の債務者は特別の扱いを受けてきた、というのは珍しくもない事実なのです。1720年代、債務不履行者を収容する監獄の実態がイギリスの大衆に明らかにされた時は、スキャンダルを巻き起こしました。こうした監獄は二つのセクションに分けられていました。貴族階級の人間にとっては、フリートやマーシャルシーといった監獄でしばらく過ごすのは、ちょっとした箔のつく余暇でしかありませんでした。彼らはお仕着せを着た召使たちに酒や食事を給仕してもらい、娼婦を呼ぶこともできたと言います。一方、“庶民”のセクションに収監されるのは貧しい者ばかり。狭い監房の中に何人も押し込められ、「汚物と病害虫にまみれていた」と、ある報告には書かれています。「情けもかけられず、飢えと刑務所熱(発疹チフス)で苦しみながら死んでいった」と。
ある意味では、現在のグローバルな経済状況の中で起きているのは、同じことのもっと大規模なバージョンだと見ることができます。前述の場合なら、アメリカがゴージャスな収監生活を送る金持ちの債務不履行者で、マダガスカルはその隣の雑居房で飢え死にしかけている貧しい収監者ということになるでしょう。そして、金持ちの債務不履行者に仕える召使たちが、貧しい者たちに向かって「お前たちの苦しみは自己責任だ」と説教を垂れているのです。
さらに、ここにはもっと根本的な問題があります。これはほとんど哲学的な問いと言ってもいいでしょう。銃をつきつけて1000ドルの「用心棒料」をよこせと要求している悪党と、同じく銃を手に1000ドルの「借金」をさせてくれと要求している悪党の違いは何なのか?ほとんどの場合、違いなどありません。しかし、ある特定の状況においては、違いが存在しうるのです。例えば、韓国や日本に対する負債の場合がそうです。ある時点で力のバランスが変化し、アメリカの軍事的優位が揺らぐことになれば―つまりゴロツキが手下を失うことになれば―この「借金」が全く別の意味を持つようになることは考えられます。それは本物の借金として扱われることになるかもしれません。しかし、いずれにせよ、関係の中心にあるのは“銃”の存在です。
私の言いたいことをもっと気の利いた形で表現したボードビルのギャグがあります。スティーブ・ライト氏のバージョンをご紹介しましょう。
こないだ連れと一緒に歩いてたら、裏通りから銃を持った野郎がいきなり出てきて「手を上げろ」って言うんだ。
俺は財布を取り出しながら「ただ金を出すのはもったいない」と思った。だから、金を引っ張り出しながら連れに「おいフレッド、悪いがお前に借りてた50ドルをやるからな」と言ったんだ。
強盗の奴はこれが気に入らなかったらしく、自分の懐から1000ドル出してフレッドに渡し、、銃を突きつけながらそれを俺に貸すように言い、その後でそれを俺からブン盗ったよ。
結局のところ、銃を持った男は自分のしたくないことは一つとしてする必要がありません。それでも、暴力を根底にした支配でさえ、効率的に行うにはそれなりのルールを打ち立てる必要があります。このルールは完全に恣意的なものです。ある意味では内容などどうでもいいとさえ言えます。ただ彼らにとって不都合なのは、「負債」という枠組みを使って行為を正当化しようとすれば、そのうち誰かが「誰が誰に何を借りているのか」ということを問題にし始めるということです。
(つづく)
http://snailtrail.seesaa.net/article/313132149.html
2013年01月13日
負債:その5000年の歴史 1-3
"DEBT:THE FIRST 5000 YEARS"
CHAPTER 1 On The Experience of Moral Confusion (3)
(3回か4回に分けて掲載します。)
第一章 よくある道徳的混乱 B
負債をめぐる議論は、少なくとも5000年の間続けられています。人類の歴史の大半 ― 少なくとも国家や帝国の歴史の大半―において、ほとんどの人間は、自分は債務者であると思い込まされてきました。歴史家たち、ことに見識あふれる歴史家さえ、不思議とこのことの人間的な帰結について考察することを避けてきた感があります。このような状況が何よりも、つねに怒りとルサンチマンを引き起こしてきたことを考えると、実に奇妙なことです。人々に「お前たちは劣った存在だ」などと言えば、当然いい顔はしないでしょうが、驚いたことに武装反乱につながることは稀です。一方、人々に、お前たちとは平等であり得たかもしれないが、お前たちはしくじった、それゆえ、お前たちは自分たちが持っているものの正当な所有者たり得ない、お前たちはそれに値しないのだ、と言うほうが、怒りを引き起こす可能性は高いのです。これこそまさに、歴史が私たちに示していることではないでしょうか。何千年もの間、富める者と貧しき者の争いは、たいてい債権者と債務者の闘いという形をとってきました。さまざまなことの是非を問う議論がありました ― 利息を課すこと、債務による労役、恩赦、取り立て、補償、羊の差し押さえ、ブドウ園の押収、債務者の子どもを奴隷に売ること。その上、これまでの5000年間、特筆すべき頻度で、まさに同じ理由から民衆の反乱が起こってきました。その際にはまず負債の記録が破棄されました ― 書字板、パピルス、帳簿など、その時代と地域の記録媒体を儀式的に破壊したのです。(反逆者たちはそれが終わると、次はたいてい土地の登記や課税額の査定を標的にしました。)偉大な古代ギリシャの研究家モーゼス・フィンリーいわく、古典的な革命運動の目標はただ一つ。すなわち「負債を帳消しにし、土地を再分配すること。」
私たちがこうした事実を見過ごしがちだというのはとても奇妙なことです。というのも、現代の道徳や宗教にかかわる言葉にはこうした闘いから直接生まれたボキャブラリーが非常に多く含まれているからです。"reckoning(決算/審判)" "redemption(弁済/贖罪)" などは最も明白な例で、非常に古い金融用語からそのままきています。広い意味で言えば "guilt" "freedom" "forgiveness" さらには "sin" などについても、同じことが言えます。「本当は誰が誰に対してどんな借りがあるのか」を巡る議論が、〈善〉と〈悪〉に関する私たちの基本的なボキャブラリーを形成するのに主要な役割を果たしたのです。
道徳に関する言葉の多くが負債を巡る議論から生まれたということが、負債という概念の奇妙なとらえどころのなさの要因となっています。王を批判するのに王の言語を使わなければならない、という状況です。そもそも、この前提に何の意味があるのかは分かりませんが。
負債の歴史を見てみると、まず明らかなのは、根本的な道徳的混乱が存在するということです。
その最も顕著な表れは、世界中ほとんどどこでも、人類の大半はいかなる時代においても以下の信念を抱いてきたということです。すなわち; (1)借りた金を返すのは、単純に道徳的な問題である。 (2)金貸しを常とする者は邪悪な存在である。
後者の点については、評価に幅があるのは事実です。最も極端なのはフランスの人類学者ジャン=クロード・ゲイリーが遭遇したヒマラヤ東部の例でしょう。この地域では1970年代に至るまで下位カーストの人々 ― 彼らは何百年も前に現在の領主であるカーストに征服された住民の末裔であるとされ、「敗北した者たち」と呼ばれていました ― が終わりなき負債に依存する生活を送っていました。土地もなく、一銭も持っていない彼らは、ただ食べていくためだけにも地主から借金をしなければなりませんでした。地主たちは利息を取るために貸すわけではありません。そもそも微々たる額なのですから。その代わりに、貧しい債務者たちは労働の形で返済することを期待されていました。このことは、彼らが債権者の家の厠屋を掃除したり、屋根を葺き替えたりする間、少なくとも屋根のある寝床と食事にはありつけるということを意味していました。「敗北した者たち」にとって ― 実のところ、世界中のほとんどの人々にとってそうなのですが ― 人生において最も金のかかる行事は婚礼と葬儀でした。これにはまとまった額の金が必要で、それは必ず借金によってまかなわれていました。ゲイリーによれば、カーストの高い金貸しがこのような貸し付けをする際、担保として借り手の娘を要求することがふつうに行われていました。そして、貧しい父親が娘の結婚式のために金を借りる場合、往々にして花嫁自身を担保に入れることになりました。花嫁は結婚式の後、金貸しの家に行き、そこで妾として数ヶ月過ごし、飽きられると近くの材木伐採地に送られ、そこで父親の負債を返済するために一年か二年、売春婦として働かされたのです。返済が終わって初めて、彼女は夫の元に戻り、新婚生活を始めることができました。
これはショッキングで、あまりに非道なことに思えます。しかし、ゲイリーの報告によれば、当の人々には不正が行われているという認識はあまりなかったようです。みんな、これが社会というものの仕組みなのだと思っていたのです。また、地元の道徳的権威であるはずのブラーミン(バラモン階級の人々)にも懸念の声を上げる者はいませんでした。もっとも、これにはなんの不思議もありません。地域の最も有力な金貸しは、こうしたブラーミンたち自身だったのですから。
とはいえ、閉じられた家々の扉の陰で、人々がどう言っていたのかを知ることは難しいでしょう。例えば、マオイスト反乱分子がこの地域を占拠し(実際にインドの辺境ではそうしたグループがいくつか活動しています)、地元の高利貸しを片っ端から捕まえて裁判にかけたとしたら、きっといろいろと違った意見が聞けただろうと思われます。
しかし、ゲイリーの調査は私が考える最も極端な可能性の一つを具体的に示しています。すなわち、高利貸し自身が究極の道徳的権威と見なされている例です。例えば、これを中世フランスの例と比較してみましょう。そこでは金貸しの道徳的立場が厳しい追及にさらされていました。カトリック教会は一貫して利子を取って金を貸すことを禁じていましたが、規則は往々にして忘れ去られ、廃れてしまったので、教会上層部はしばしば伝道キャンペーンを組織しました。托鉢修道士が町から町へと旅しながら、高利貸したちに対し、悔い改め、それまでに奪い取った利子をすべて被害者たちに補償しなければ、必ずや地獄に落ちるであろうと説きました。
こうした説教のうちいくつかは現在まで残っていますが、悔い改めない金貸しに対して神の審判が下るという筋立てのホラーそのものです。金持ちが狂気や恐ろしい疫病に倒れ、死の床でも悪夢にうなされ、行きつく先の地獄で彼らの肉を引き裂き、貪り食う蛇や悪魔に苛まれます。教会によるこうした運動がピークを迎える12世紀になると、もっと直接的な罰が使われるようになります。教皇は各地の教会に対して、教区の金貸し全員を破門するよう指示したのです。金貸しは秘跡を授かることができなくなり、どんな事情があろうと、死んだ後も遺体は神聖な土地に埋葬されてはならないとされました。1210年頃、フランス人の枢機卿ジャック・ドゥヴィトリーが書き残した逸話に、非常に影響力のあった高利貸しの死後、その友人たちが教区司祭に、規則を曲げて遺体を教会の墓地に埋葬するよう圧力をかけた話があります。
死んだ金貸しの友人たちがあまりに強硬に言い張るので、司祭は彼らの圧力に負け、こう言った。「では遺体をロバの背に乗せ、神の意志にお任せしましょう。神が遺体をどうされるか見るのです。ロバが運んで行った先に、私は遺体を埋葬しましょう。教会の敷地であろうと、墓地であろうと。」遺体を背の上に乗せられると、ロバは右へ左へとさまようことなくまっすぐ町を出て、盗人を処刑する絞首台へとそれを運んで行った。そこで思いっ切り背中を跳ね上げ、亡骸を絞首台の下に溜まった汚物の中に振り落した。
世界中の文学作品を見回しても、金貸しに対して同情的なものは一つとして見当たらないと言ってもいいくらいです ― 少なくとも、それを生業としている者、つまり、金利を取って金貸しをしている者に関しては。これほど一貫して悪いイメージを付与されている職業を、私は他に知りません(処刑人くらいでしょうか?)。ここで特筆すべきは、処刑人と違って、高利貸しは往々にしてその所属する共同体において最も裕福で影響力のある層に属しているということです。にもかかわらず、「高利貸し」という語そのものが、容赦ない取り立て、血の報酬、身を切る返済、魂を売り渡すなどといったイメージを喚起します。そして、そうしたイメージの背後にあるのは、悪魔そのものです。ときには悪魔自身が、帳簿や元帳をため込んだある種の高利貸しの姿で表象されることもあります。あるいは、高利貸しの背後にとりついた影のような存在として、その悪党の魂を取り立てるのを待っていることもあります。高利貸しはその生業の必然として地獄と契約を結んでいることが明白なのですから。
歴史的に見て、金貸しが非難を逃れる効果的な方法は2つしかありません。第三者に責任を転嫁するか、借りた人間のほうがもっと酷いのだと言い張るかのいずれかです。中世ヨーロッパの領主たちは最初のアプローチを採りました。ユダヤ人に代理をさせたのです。そうした領主の多くは、お抱えのユダヤ人を保護していました。とはいえ、これにはまず領土内においてユダヤ人が金貸し以外の方法で生計を立てられないようにし(こうすることでユダヤ人は人々から忌み嫌われるようになります)、定期的に彼らを迫害し、忌まわしい存在だと主張したうえで、彼らの金を奪うという手順が採られました。2番目のアプローチのほうがありきたりと言えばありきたりです。こちらは結果的に、金の貸し借りにおいては貸し手も借り手も同様に罪深いのだという考え方に行きつきます。そもそもが卑しい行為であり、往々にしてどちらも地獄に落ちる運命なのだ、と。
宗教的伝統が違えば、見方も違ってきます。中世ヒンドゥー教の法典では、利子を取って金を貸すことが許されていました(主な条件は元金を上回る利子を取ってはならないということでした)。それどころか、債務者が支払いを怠れば、債権者の家の奴隷として転生することが強調されていました。さらに時代が下ると、債権者の所有する馬か牛になるとされました。これとよく似た債権者に対する寛容さと、借りる側の人間がカルマによる罰を受けるという警告話は、仏教にも多数あります。とはいえ、金貸しがやり過ぎるようになると、ヨーロッパと同じ趣向の逸話が登場するようになります。中世日本の説話集にそうした逸話の一つが収められています。著者によれば実話であるというこの話の主人公は、広虫女(ひろむしめ)。770年頃の裕福な郡司の妻で、強欲な財産家だったと言います。
水を混ぜて薄めた酒を売って多大な利益を得るなどしていた。あるいは、小さな枡で測って貸し付け、取り立てるときは大きな枡を使うこともあった。貸したときには少ない量だった米が、返してもらうときには増えているわけである。このようにして強引に手にした利益は膨大なものだった。元の貸付の十倍、百倍になることもあった。取り立ては厳しく、情け容赦がなかった。そのため、人々は彼女のことを恐れた。多くの人々が彼女から逃れるために家を捨て、放浪の身となることを余儀なくされた。
彼女が死ぬと、僧侶たちが7日間、棺桶の前で経をあげ続けました。そして7日目、奇怪なことに彼女は生き返りました。
見に来た者たちは何とも言えぬ異臭に鼻をつかれた。彼女の腰から上は牛の姿になり、その額からは大きな角が突き出していた。両の手の爪は割れ、牛のひづめのようになっていた。しかし、腰から下は人間だった。米を与えても食べず、草を好んだ。何度も吐き出しては反芻し、自分の糞便の中に裸で寝そべった。
噂は広まりました。罪悪感と恥に駆られた家族は必死に赦しを得ようとします。金を貸した者たちの負債を帳消しにし、財産の大半を寺に寄進したりしました。そしてようやく、慈悲がもたらされ、怪物は死んだのです。
自身も僧侶であった著者は、これは転生が未完成だったために起きた怪異だと考えました。広虫女は「理にかない、正しいこと」の範疇を超えたことをした業によって、罰を受けたのだというわけです。ただ、彼にとって問題だったのは、仏教の経典に引き合いに出せるような前例がなかったことです。というのも、ふつう牛に生まれ変わるとされていたのでは、債権者ではなく債務者でした。そのため、物語の教訓を述べる段になると、彼の説明は明らかな混乱をきたします。
ある経にはこうある。「借りたものを返さない者は、その償いとして、馬か牛に生まれ変わることになる」 「借り手は奴隷のようなもの。貸し手はその主人のようなもの」 あるいは、「借り手は雉であり、貸し手は鷹である」。もし、貸し借りにかかわるような立場に置かれたら、借り手の返済に度を過ぎた強制をすべきではない。そのようなことをすれば、馬か牛に生まれ変わり、貸しのあった相手に使われることになり、何倍もの返済をしなければならなくなるからだ。
一体、どっちなのでしょう?お互いに相手の納屋で動物に生まれ変わっても仕方ないでしょうに。
あらゆる偉大な宗教的伝統が、この難問の前で、多かれ少なかれ立ち往生してしまっているように思えます。一方で、人間関係において負債が取りざたされる際は、必ず道徳的に妥協することになります。おそらく、貸し借りの関係に入った時点で、貸し手と借り手双方に何らかの罪が生じると考えられているのです。少なくとも、返済が遅れれば確実に罪を負うことになるという危険を冒しているわけです。また他方で、誰かが「誰にも借りなどないように振る舞っている」と言うとき、私たちはその人物を“淑徳の鑑”だと評価しているわけではありません。俗世における"道徳"とは他者に対する義務を果たすことなのですから。そして、私たちにはその"義務"をある種の"負債"としてイメージするという、頑固な傾向があります。僧侶なら、俗世を完全に捨てることでこのジレンマを避けることができるのでしょうが、どうやら残された私たちは辻褄の合わない世界で生きることを余儀なくされているようです。
(つづく)
http://snailtrail.seesaa.net/article/318493490.html
2013年02月03日
負債:その5000年の歴史 1-4
"DEBT:THE FIRST 5000 YEARS"
CHAPTER 1 On The Experience of Moral Confusion (4)
第一章 よくある道徳的混乱 C
広虫女の物語は、責め立てられる立場の者が、それを相手に突っ返してやりたいという衝動を見事に表しています。死んだ金貸しとロバの話と同様、そこでは排泄物、動物、そして恥辱という要素が強調されています。明らかに、債務者が常に感じさせられている恥と不名誉を、債権者に経験させてやろうという、詩的な正義(poetic justice)が意図されているのです。それは、やはり同じ質問、「本当は誰が誰に対して、どんな借りがあるのか」と問うための、より生々しく鮮やかな方法だと言えるでしょう。
と同時に、それは「本当は誰が誰に対して、どんな借りがあるのか」という問いを発した瞬間に、人が債権者の言語で語り始めるということを如実に示しています。私たちが借りた金を返済しなければ「馬か牛に生まれ変わることで負債を償うことになる」のと同じように、無理を言う債権者もまた「償う」ことになるのだ、と。そこでは、カルマによる因果さえもが、商取引(business deal)に還元されてしまいます。
これこそが、本書の核心となる問いです。道徳や正義の意識が商取引のことばに還元されてしまうという事態は、いったい何を意味しているのか?「義務」を「負債」に還元するということはどういうことか?一方が他方に転じたとき、いったい何が変わるのか?そして、市場によってあまりに多くを形成されている言語で、私たちはそれをどう語るのか?あるレベルでは、義務と負債の違いは、単純で歴然としています。負債とは、特定の額の金を支払う義務のことです。そのため負債は、他の形態の義務と異なり、正確に数量化することができます。このことによって負債は、シンプルで、冷たく、非個人的なものとして扱うことができるようになり ― 結果として、移行可能になります。誰かに何かしてもらった借りがある、あるいは命の恩人だ、などという場合、それはその特定の“誰か”に対する借りです。ところが、元金4万ドル金利12パーセントのローンがある、などという場合、実のところ貸し手が誰であるかに意味はありません 。さらに貸し手も借り手も、相手が何を求め、何を必要とし、どこまでの能力があるのか、などいうことを考える必要がなくなります。恩や、敬意や、感謝を負っているのなら、当然考えるであろうことです。人間的な結末について考慮する必要もなくなります。元金や、収支や、違約金や、利率の計算さえしていればいいのです。家を手放し、土地を追われて流れ者となろうが、娘が鉱山で体を売って働くことになろうが、不幸なことかもしれませんが、債権者にとってはどうでもいいことです。金は金、取引は取引というわけです。
この視点から見たとき重要になってくるのは ― 本書においてかなりのページを割いて探究することとなるでしょうが ― 道徳を非個人的な数値に変えてしまう金の力です。これによって、本来ならあまりに非道でぞっとするような行為さえ正当化されてしまいます。これまで私が強調してきた暴力という要素さえ二次的なものに見えてくるかもしれません。「負債」と単なる道徳的義務の違いとは、債務者の所有物を差し押さえたり、足を折るぞと脅したりすることで強制的に義務を遂行させる武装した男たちがいるかどうかではありません。端的に言って、債権者が負債を数量的に明示できる手段を持っているかどうかなのです。
とは言え、仔細に見ていけば、これら二つの要素 ― 暴力と数量化 ― は緊密に連携していることが明らかです。実のところ、一方だけで成り立っている例を見つけるのは不可能に近いでしょう。フランスの金貸しの話に登場する有力者の友人たちは、教会の権威にさえ楯突くことができました。そうした力を行使しなければ、事実上違法に貸した金を、回収することなど不可能ではないでしょうか?広虫女は債務者に徹底的に厳しく当たりました ― 「情け容赦がなかった」 ― しかし、彼女の場合、夫が郡司だから、強気で通すことができたのです。バックに武器を持った男たちがいない者に、そのような厳密な態度を固持する贅沢は許されません。
暴力、あるいは暴力を用いるという脅しによって、人間関係を算術に変えてしまうやり口は、本書の話の流れの中で何度も何度も繰り返し登場することになるでしょう。突き詰めていくと、負債という主題につきまとうあらゆる道徳的混乱は、すべてそこから発しています。そこからくるジレンマは、文明そのものと同じくらい古いものです。古代メソポタミアの最も古い記録の中にそのプロセスを見ることができますし、そのもっとも古い哲学的な表現がヴェーダの中に見られます。有史以来、無限の変奏を生み出しながら繰り返し現れ、現代の社会制度の根幹に今も流れています。国家と市場、自由/道徳/社会性などについての私たちのもっとっも根本的な思考が、戦争と征服と奴隷制によって形作られてきました。そして私たちはそのことを認識することすらできません。他のやり方で物事を想像することすらできなくなっているからです。
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負債の歴史を再検証してみる必要性が、今、ことさらに高まっていると考えるのには、ある明白な事情があります。2008年9月に始まった金融危機は、世界経済のすべてをあわや止めてしまうところまでいきました。実際、あの時、世界経済は様々な局面で止まってしまったのです;船は海を航行するのを止め、何千、何万隻もが乾ドックに入れられました。建設用クレーンは解体され、ビルの建設がストップしました。多くの銀行は貸付を行わなくなりました。このことの余波を受けて、社会全体に怒りと当惑が広がったばかりでなく、負債とは何か、金とは何か、そして国の命運をも握るようになった金融機関のあり方を問う、社会的な議論が実際に始まる機運が高まりました。
しかし、それはほんの一瞬のことでした、議論は結局、実現しなかったのです。
人々がそのような議論を受け入れる気になった理由は、それまでの10年余り聞かされてきた話が、とんでもない大嘘だったということが目の前で明らかになったからです。他にマシな言い方などありません。それまで何年もの間、人々は高度にソフィスティケートされた金融技術革新について聞かされてきました;商品先物取引、クレジットデリバティブ、不動産抵当証券担保債券(CMO)デリバティブ、ハイブリッド証券、債務スワップ、等々。こうした新しいデリバティブ市場はあまりに複雑すぎるため、ある投資信託会社では取引プログラムを担当させるために宇宙物理学者を雇ったという、まことしやかな噂があるほどです。金融の専門家ですら歯が立たないほど複雑になってしまったというわけです。
ここには明らかなメッセージがあります:そういったことは専門家に任せておきなさい。自分で理解しようとしても絶対に無理。金融資本家がどんなにいけ好かない連中であろうと(この点についての異論はほとんど聞かれませんでしたが)、有能なのは間違いない。実際、彼らは超人的なまでに優秀であり、ゆえに金融市場を民主的に監督することなど、どだい無理なことなのだ、と。(知識人にも尻馬に乗った者が大勢いました。2006年と2007年に学会に出席したときのことをよく覚えています。流行に敏感な社会理論家たちが、最新の情報テクノロジーとリンクしたこうした新しい形態の証券取引は、時間や可能性、さらには現実そのもののあり方をも変容させるシフトの到来を告げるものだ、などと主張する論文を発表していました。「アホか!」と思ったのを覚えています。まさにそうでしたが。)
すべてが崩壊した後に振り返ってみれば、そうしたものの多くは恐ろしく手の込んだ詐欺以外の何ものでもなかったことが明らかです。その事業の内実は、以下のようなものです;最終的に必ず不履行となるよう設計された不動産ローンを貧しい家庭に組ませる;デフォルトするまでどれくらいかかるかを賭けの対象にする;賭けと抵当をパッケージにして機関投資家に売る(債務者が老後の資金を預けている銀行かもしれません);何があっても儲かると太鼓判を押し;証券を通貨のように流通させるよう投資家を促し;賭け金を支払う責任を巨大な保険コングロマリットに転嫁し;そこが最終的な負債を抱えきれずに沈むようであれば(当然そうなります);人々の血税をもって救済する。
別の言い方をすれば、これは1970年代後半に銀行がボリビアとガボンの独裁者に金を貸した際の方法を恐ろしく複雑にしたやり口です。すなわち、全くもって無責任な貸付を行い、その事実が判明すると、政治家や官僚たちが大慌てで、何があっても払い戻しが行われるよう保証するというわけです。たとえそのためにどれほど多くの人々の命と生活が蹂躙され、破壊されることになろうと。
違いは、今回、銀行はそれを信じがたい規模で行ったということです。彼らがつくり出した負債額は世界のすべての国のGDP(国内総生産)を合わせたものより大きかった ― そして、そのことで世界はきりもみ降下を始め、もう少しでシステムそのものを破壊するところでした。
軍や警察は、暴動や混乱が起こることを予測して準備しましたが、そうした事態にはなりませんでした。システムのあり方が大きく変わることもありませんでした。当時、資本主義そのもであるような企業(リーマンブラザース、シティバンク、ゼネラルモーターズ)が崩れかかり、彼らが主張する並外れた英知がすべて嘘だったことが判明したことで、少なくとも負債と金融機関についての広範な議論を一からし直すことになるだろうと、世界中の人々が期待しました。そして、それが議論だけでは終わらないことを。
アメリカ国民の多くはラディカルな解決策を受け入れる用意があるように見えました。世論調査によれば、国民の圧倒的多数は、経済にどんな影響を及ぼす結果になろうと金融機関を救済すべきではないと考えていました。そして、悪質なローンをつかまされた一般の人々をこそ助けるべきだと。これはアメリカ合衆国では珍しいことです。植民地時代からこのかた、アメリカ国民は債務者に同情心を持たない国民でした。アメリカはほとんどが国を逃れた債務者たちが入植してできた国であることを考えると、これはある意味で奇妙なことですが、「道徳とは負債をきちんと支払うことである」という考えがどこよりも深く浸透している国なのです。植民地時代、債務を焦げ付かせた者は、耳を釘で杭に打ち付けられました。アメリカ合衆国で破産法がつくられたのは、世界的に見ても非常に遅かった;1787年アメリカ合衆国憲法で、新政府に破産法をつくるよう課しているにもかかわらず、1898年にいたるまで、破産法をつくるための動きはすべて「道徳的見地から」退けられていたのです。
まさに画期的な変化でした。そうであったからこそ、おそらく、メディアや議会において問題提起する立場の人間たちは、「今はマズい」と判断したのでしょう。合衆国政府は、3兆ドルのバンドエイドで傷口を覆って、あとは何も変えませんでした。銀行は救済されました。小口の債務者は、ごくわずかな例外を除いて、補償されませんでした。それどころか、30年代以来の大不況のさなかに、すでに彼らに対するバックラッシュが始まっていました。政府によって救済された金融機関が政府に働きかけ、財政の立ち行かなくなった一般市民に対して全力で法を執行するようにさせたのです。ミネアポリス-セントポールの『スタートリビューン』紙の記事には、「金を借りることは犯罪ではない。なのに、返済が滞ったことを理由に人を投獄することがふつうに行われている」とありました。ミネソタでは、「債務者に対する逮捕令状の使用はこの4年間で60パーセント増加し、2009年には845件を記録した。イリノイ州とインディアナ州南西部では、裁判所命令の負債返済日に遅れたという理由で債務者を刑務所に送る裁判官もいる。極端なケースでは、ある程度の支払額を用意できるまで拘留され続ける場合もある。1月(2010年)には、イリノイ州ケニーの男性が、材木置き場の地代300ドルを用意できるまで「無期懲役」を言い渡された。」
別の言い方をすれば、かつての債務者の監獄のようなものが再び出現しようとしているのです。その一方で、根本的な議論は止まったまま、金融機関の救済に対する大衆の怒りは上げ足の取り合いで支離滅裂となり、私たちは次の金融カタストロフに向けて不可避的に転がり落ちていくようです ― 私たちに考える余地があるのは、あとどれくらいでそれが起きるのかということだけでしょう。
今となってはIMF―今やグローバル資本主義の良心として自らを再定義しようとしていますが―さえもが、このままのコースで進んでいけば、次の危機が起きたときには救済は来ないだろうと、警告を発しています。人々はもはやそのようなことを許しはしないだろう。そして、その結果、本当にすべてが崩壊してしまうだろう、と。ある記事の見出しにありました;「IMF 2度目の救済は"民主主義を脅かす”と警告」(もちろん、彼らの言う「民主主義」とは「資本主義」のことなのですが。)グローバルな経済システムを動かしていることを自認し、ほんの数年前はそのシステムが永久に存続するかのように振る舞っていた人々でさえ、今やいたるところに黙示録のラッパの音を聞いているというのは、考えさせられる事態です。
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今回に関しては、IMFの言い分には理があります。私たちが時代の転換点に来ていると信じずるに足るありとあらゆる理由があります。
私たちには周囲の世界で起きていることを、全く新しい事態だと考えたがる傾向があります。マネーの世界ではことさらにそうです。バーチャルマネーの出現、現金がカードになり、ドルが電子的な信号データになることが、かつてない革新的な金融の世界への扉を開いたのだという話を、何度聞かされたことでしょうか。こうした、かつてない領域に突入したのだという思い込みが、ゴールドマンサックスやAIGといった手合いに、自分たちの最新金融インスツルメントは常人の理解を超えたすごいものなのだと人々に容易に信じさせることができた背景にあります。しかし、もっと広い歴史的な視点から見ると、バーチャルマネーは決して新しい物ではないことがすぐに明らかになります。実のところ、それは貨幣の原初的な形態であり、文明の起源そのものと同じくらい古いものです。確かに、貨幣についての2つの支配的な見方があり、時代によってその2つの間を行き来しているのが分かります。地金主義 ― 金や銀こそが貨幣そのものであると見る立場 ― と、貨幣を抽象的なもの、商取引のためのバーチャルな単位と見なす立場です。しかし、歴史的に言って、クレジット貨幣が先に来ます。私たちがこんにち目撃しているのは、例えば中世ヨーロッパ、あるいは古代メソポタミアにおいては当たり前と考えられていた見方への回帰なのです。
歴史は、これからどんなことが起こるかに関するヒントも与えてくれます。例えば;過去のバーチャルなクレジット貨幣の時代においては、必ずと言っていいほど、すべてが滅茶苦茶にならないようにするための制度がつくられてきました ― まさしく現在そうなっているように、貸し手が官僚や政治家と手を組んで人々からすべてを搾り取ったりしないようにするためです。それには、債務者を保護する制度の創出が伴います。私たちのクレジット通貨の新時代の幕開けは、全く逆向きにことが進んでいるようです。それは、債務者ではなく債権者を保護するIMFのようなグローバルな機構をつくることから始まったのですから。同時に、ここで問題にしているような歴史的スケールにおいては、10年とか20年は意味を持ちません。これから何が起こるのか、私たちにはほとんど手掛かりがありません。
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本書は負債の歴史についての本です。同時に、本書ではその歴史を、人間と社会のありようと、そのあり得べき姿を照射するのにも使います。私たちは互いに何を負っているのか、そもそもこの問いを発することは何を意味しているのか。
というわけで、本書ではまず、いくつかの神話に風穴を開けることから始めます。第2章で取り上げる「物々交換という神話」にとどまらず、神や国家に対する“原初の”負債という強力な神話にも言及します ― それらはさまざまな意味で、経済、そして社会とは何かに関する私たちの“常識”を形成する土台にかかわる神話です。
その“常識”に基づく見方では、〈国家〉と〈市場〉が正反対の原理として相対しながら、すべての上に君臨していることでしょう。しかしながら、歴史的な事実が明らかにするのは、その2つが同じ起源から生まれ、常に分かちがたく関連し合っているということです。そして、こうした“神話”に共通するのは、あらゆる人間的関係を〈交換〉に還元してしまうという傾向だということが分かってきます。あたかも、私たちの社会とのつながり、あるいは宇宙とのつながりでさえ、ビジネスと同じタームで説明できるとでもいうように。
では、〈交換〉以外に何があり得るのか?という問いが持ち上がります。第5章では、人類学の成果を引きつつ、経済生活の道徳的基礎についての考えを論じることで、その答えへの導入を提示します。
次に、貨幣の起源へと戻り、〈交換〉という原理そのものが大部分、暴力の結果として生じたこと ― 貨幣の真の起源は犯罪と賠償、戦争と奴隷制、名誉、負債、買戻しにあることを示します。
そこからさらに、第8章では、時代によってバーチャル貨幣と実質貨幣の間を大きく行き来してきた、過去5000年におよぶ負債と貸金の歴史を論ずる道が開けます。
本書で語られる発見の多くは、全く予想外かもしれません。近代の権利と自由に関する考えの起源が、古代の奴隷の法律にあること。投資資本の起源が中世中国の仏教にあること。よく知られたアダム・スミスの議論の多くが、中世ペルシャの自由市場理論家の仕事から生まれたと考えられること(偶然にもこの話は現在のイスラム世界の政治的主張を理解する上で興味深い視点を提供してくれます)。
こうして、資本主義と帝国に支配されたこの5000年の歴史に対する全く新しいアプローチを試みるための舞台が整います。そして私たちは、こんにちの状況において何が賭けのテーブルに上がっているのかについて、少なくとも問いを発することができるようになるはずなのです。
もうずいぶん長いこと、知識人の間では、「大きな問い(Great Questions)」を発することはしないというコンセンサスがあったように思います。しかし、もはやそれを避けて通ることはできなくなりつつあるのではないでしょうか。
http://snailtrail.seesaa.net/article/371242864.html
2013年08月06日
負債:その5000年の歴史 2-1
"DEBT:THE FIRST 5000 YEARS"
CHAPTER 2 The Myth of Barter (1)
第二章 物々交換という神話@
複雑で微妙な問題には必ずや単純明快な答えがあるものだが、それは往々にして間違っている。H.L.メンケン
単なる義務―すなわち特定の仕方で振る舞わなければならないとか、場合によっては誰かに借りがあるとする意識―と、負債の違いとは、端的に言って何なのでしょう?答えは簡単:金です。負債と義務の違いは、負債は正確に数量化できると言う点にあります。これには貨幣が必要です。
貨幣が負債を可能にするばかりではありません。貨幣と負債は、全く同時に登場したのです。文字による最古の記録の一つに、メソポタミアの書字盤があります。そこには寺院を貸主とする貸し付けや配当、土地の借地料などが、穀物と銀の数量として正確に記載されていました。そして、最初期の道徳哲学/倫理学の仕事とは、道徳を負債として(つまり金に換算して)とらえるための考察でした。
負債の歴史とは貨幣の歴史そのものなのです。人間の社会における負債の役割を理解するための最もシンプルな方法は、貨幣がこれまでどのような形態を取り、どのように使用されて来たか、そしてその意味についてどのような議論がなされてきたかをたどることです。ここでは必然的に、私たちが慣れ親しんできたものとはかなり違った貨幣の歴史が語られることになります。経済学者が考える貨幣の起源においては、負債は後から登場するものでしかありません。初めに物々交換ありき。そして貨幣がつくられ、後に信用貨幣(クレジット)が発達する、と。ことはフランスだろうと、インドだろうと、中国だろうと一緒です。そうした地域での貨幣の歴史に関する書物を紐解いても、出てくるのはたいてい鋳造制度に関する話ばかりで、クレジット制度に関する議論はほとんどありません。もう一世紀近く前から、私たち人類学者はこの構図に大きな誤りがあることを指摘してきました。世界中のコミュニティーや市場で私たちが実際に観察することのできる経済活動の有り様は、経済史が提供するスタンダードな説とはかけ離れています。どこの共同体でも、それぞれの人が他の人に対して実に様々な形の負債を負っており、ほとんどの取引は通貨を使用せずに行われているのです。
この食い違いはどこからくるのでしょう?
物理的証拠の残りやすさという自然の摂理もあります。硬貨は考古学的エビデンスとして残りますが、貸し借りの約束はそうはいきませんから。しかし、ここにはもっと深い問題もあります。経済学者にとって貸し借りと負債の存在は、昔からある種スキャンダラスなものとして扱われてきたのです。なぜなら、金を貸したり借りたりする場合、それが純粋に経済的な動機から行われていると考えることは不可能に近いからです(例えば赤の他人に金を貸すことと、従兄弟に金を貸すことを全く同じに考えることはできないでしょう)。だからこそ、貸し借りと負債を完全に消し去った世界から始めることが必要だったのです。人類学の手法を用いて貨幣の真の歴史を再構築する前に、私たちは従来の説のどこが間違っているのかを理解する必要があります。
経済学者はたいてい、貨幣には三つの機能があると言います。交換の手段、価値の尺度、そして価値の貯蔵です。どんな経済学の教科書でも、貨幣の第一義的な機能は交換手段であるとしています。以下は典型的な例として"Economics"by Case, Fair, Gartener, and Heather(1996)からの抜粋です。
貨幣は市場経済が機能するために必須である。貨幣がなければどんな生活が待っているか想像してみるといい。貨幣経済でなければ物々交換するしかない。商品やサービスを他の商品やサービスと、貨幣と云う媒介を介さず、直接交換するのだ。
物々交換のシステムがどのように機能するか見てみよう。例えば、朝食にクロワッサンと卵とオレンジジュースが欲しかったとする。だが、食料品店に行ってこれらの品物を金を使って買うことはできない。あなたはそれらの物を所有していて、かつ交換することを欲している誰かを探し出さなければならない。さらに、あなたはそのパンを焼いている人、オレンジジュースを提供できる人、そして卵を持っている人が欲しがっている何かを持っていなければならない。たとえあなたが鉛筆を持っていたとしても、向こうがそれを欲していなければ交換は成立しない。
つまり、物々交換のシステムでは、交換が成立するために二重の偶然が必要となる。つまり私は、私が欲するものを所有している誰かを探し出さなければならないばかりか、その誰かが私が所有しているものを欲していなければならない。比較的、未発達な経済においては交換される商品の範囲が狭く、そのような条件を満たす相手を見つけるのは難しくないため、しばしば物々交換に基づく経済が機能している。
最後の主張は甚だ怪しいものですが、あまりに曖昧な言い方のため、まともに反論することさえできません。
数多くの商品が存在する複雑な社会においては、物々交換のシステムは耐え難いほど手間がかかる。日頃、食料品店に行って買って来るものすべてについて、それらを所有し、しかもあなたが持っているものと交換したいと思っている人を探さなければならないとしたらどうなるか、想像してみるといい。
双方の合意に基づいた交換の媒介(支払いの手段)があれば、二重の偶然によって双方の欲望が合致しなければならないという問題は、きれいに片が付く。
ここで強調しておく必要があるのは、この主張が実際に起きたことを述べているのではなく、想像力の産物として提示されていることです。
「交換の媒介の存在が社会にとってどのような利益をもたらすかを知りたければ」「物々交換による経済を想像してみるといい」
(Begg, Fischer, Dornbuch "Economics"2005)
「現代社会において、あなたの労働の成果を誰か他の人の労働の成果と直接交換しなければならないとしたら」「どのような困難に見舞われるか想像してみるといい」
(Maunder, Myers, Wall, Miller "Economics Explained"1991)
「あなたは雄鶏を所有しているが、薔薇が欲しいと思っている」「そんな状況を想像してみよう」
(Parkin, King "Economics"1995)
このような例は枚挙にいとまがありません。こんにち、おおかたすべての経済学の教科書が同じようなやり方でこの問題を扱っています。歴史的に見て、かつて貨幣が存在しない時代があったことは明らかである、と彼らは言います。それはどのような社会だったろう?こんにちと同じような経済から貨幣を取り去ってみたらどうなるだろう。恐ろしく不便に違いない!だから人々は効率よく交換するために貨幣を発明したのだ、と。
経済学者の語る貨幣の物語は、いつも“物々交換”というお伽の国から始まります。では、この空想の国はいつ、どこに設定されているのでしょうか。原始時代の穴居人でしょうか?太平洋の孤島の住民でしょうか?それともアメリカ開拓民?経済学者Joseph Stiglitz と John Driffill の本は、私たちをニューイングランドか中西部にあるような空想の田舎町へと誘ってくれます。
小さな町の中で、昔ながらの農夫が、鍛冶屋や、服屋や、食料品店や、医者などと物々交換しようとするところを想像してみよう。簡単な物々交換でも成立するためには二重の偶然によって需要の一致を見なければならない。ヘンリーはジャガイモを持っていて靴を欲しがっている。一方、ジョシュアは要らない靴を持っていて、ジャガイモを欲しがっている。こんな状況なら物々交換で双方が満足することができる。しかし、ヘンリーが持っているのが薪で、ジョシュアはそれを必要としていないとなったら、他のたくさんの人々を巻き込んで、多元的な交換を試みるしかないだろう。貨幣はこうした多元的交換を簡便に行うための手段となる。ヘンリーは誰かに薪を売って金を得て、その金でジョシュアの靴を買えばいいのである。
またしてもここで登場するのは、現代社会と同じように機能しながら、貨幣だけが存在しないという空想の国です。これは全く無意味な空想です。貨幣経済の存在しない場所で食料品店が開けるわけはありません。どうやって仕入れをするのでしょうか?まあ、それは置いておきましょう。経済学の教科書を書く人たちが、どうしてもこの“物語”を繰り返し語りたがるのには単純なワケがあります。これは経済学者にとって後にも先にも最も大切な物語なのです。1776年、ほかならぬこの物語を語ることによって、グラスゴー大学の道徳哲学の教授だったアダム・スミスが経済学という学問を生んだのですから。
(つづく)
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2013年08月18日
負債:その5000年の歴史 2-2
DEBT:THE FIRST 5000 YEARS"
CHAPTER 2 The Myth of Barter (2)
第二章 物々交換という神話A
とはいえ、彼(※アダム・スミス)は何もないところからこの物語を創作したわけではありません。紀元前330年にアリストテレスがすでに、政治学に関する著述の中でおおかた似たような方向性の考察を行っています。原初においては、それぞれの家族が必要な物すべてを自分たちで生産していたであろう、と。そして、徐々に一部の人々が専門化したと推測される。トウモロコシを栽培する者、ワインをつくる者などが現れ、それぞれの生産物を交換したであろう。そして、そうしたプロセスの中から貨幣が生まれたのだ、とアリストテレスは推論します。しかし、それがどうやって発生したのかについては、この物語を事あるごとに繰り返し語った中世の学者たち同様、アリストテレスも歯切れが悪いのです。
コロンブスを筆頭に、スペインとポルトガルの冒険家たちが金と銀の新たな源泉を求めて世界中を漁り回っていた頃には、こうした曖昧な物語は聞かれなくなりました。理由は明快、誰も「物々交換の地」を発見しなかったからです。16世紀から17世紀にかけて西インド諸島やアフリカを旅した航海者たちは、あらゆる社会に独自の形態の貨幣があることを当然と心得ていました。なぜならどこに行っても政府が存在し、政府は必ず貨幣を発行していたからです。
これに対しアダム・スミスは、同時代の常識となっていた知識を断固として覆そうと決意していたようです。彼は何よりも、貨幣は政府によってつくられるものだという認識自体を否定しました。この点でスミスはジョン・ロックのような自由主義的な政治哲学の後継者でした。ロックによれば政府とは私的財産を守るために設立されるもので、そのはたらきに限定される時に最も有効に機能すると論じました。スミスはこの議論を拡大し、私的財産、貨幣、市場などは、政治機構に先立って存在しているものであり、人間社会の根幹を成すものだと強弁したのです。そして、政府が経済活動に対して果たすべき役割があるとすれば、それは通貨の安定性を保証することのみであり、そこに限定されるべきだとしました。このような議論によって彼は、経済学は人間探求のための独立した学問分野であり、自立した原理と法則に従う―つまり、倫理や政治とは関係無く成立する―と主張したわけです。
スミスの説は詳しく検討する価値があります。何しろそれは、私に言わせてもらえば経済学という学問の創世神話なのですから。
経済活動の根源にあるものは正確に言って何なのか、とまず彼は問いかけます。それは「人間のある本能的な傾向… ある物を別の物と交換、交易、取引するという傾向である。」動物はこのようなことをしません。スミスは観察を披露します。「犬が別の犬と意図的にかつ公正に骨を交換するのを見た者は誰もいない。」しかし、人間は放っておけば必ず所有物を比較し、交換を始める。それが人間というものだ、と。論理や会話さえ、ある種の交換だと言えるかもしれない。そして、あらゆる営為においてそうであるように、人間は交換という行為からも、自分にとって最も有利な立場と、最大限の利益を獲得しようとする、というわけです。
この衝動が巡り巡って、人類の文明と偉大なる達成の数々を生んだ、分業というものをつくり出すことになります。ここでまた、経済学者お得意の「どこか遠くにあるお伽の国」が登場します。北米インディアンと中央アジアの遊牧民を合わせたような趣です。
狩猟採集民の部族において、他の者たちより迅速かつ巧みに弓矢を作る者がいるかもしれない。彼はしばしば、作った弓矢を牛や鹿肉と交換する。そして彼は、このような方法を用いたほうが、自分自身で捕りに行くよりたくさんの牛や鹿を獲得できることに気づく。よって、彼自身の利益の観点からも、弓矢づくりがこの者の主な生業となっていく。彼はある種の武器製作者となるのである。別の者は、この部族の住居である小屋や移動式住居の骨組みや被壁などを造ることに長けている。彼は普段からこの能力を隣人たちのために提供し、見返りにやはり牛や鹿肉を得ている。ついに彼もまた自らの利益の観点からこの仕事に専念することを選び、ある種の大工となる。同じようにして、ある者は鍛冶師や真鍮細工師となり、ある者は未開人の衣服の主な材料となる皮をなめす職人となり…
しかしながら、このように専門の弓矢職人、テント小屋職人などが現れて分業が進むと、問題が起こることに人々は気づきます。ここでもまた例にもれず、話は空想上の未開人から、小さな町の商店に飛びます。
しかし分業化が始まった当初は、交換の力は事あるごとに滞り、ばつの悪い思いをすることになったはずである。ある人が自分が使う以上の何かを持っていて、別の人はその何かが足りていないとする。前者はこの余剰な何かを喜んで手放す用意があり、後者はその一部を購入したいと考える。しかし、もし後者が前者が必要とする物を何も持っていなければ、両者の間に交換は成立しない。肉屋が自分自身で食べきれないほどの肉を店に持っていて、パン屋と酒屋はそれぞれ、これを購入したいと思っている。しかし、彼らには見返りに差し出す物がない。
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このような不便を避けるため、分業が成立した後の社会に生きる思慮深い人ならばつねに、以下のような方法でやり取りを円滑に行おうとしたはずである。すなわち、自分自身の生業による生産物以外に、他の人がそれぞれ自分の生産物と交換することを拒絶しないであろうと考えらえる品を、つねに保有していようと努めるのである。
つまり、みんな他人が欲しがりそうな物をため込み始めるというわけです。これには矛盾した効果があります。ある時点を過ぎるとその品の価値は下がるはずなのに(誰もが持っていることになりますから)、逆に価値が上がることになります(それが事実上の貨幣になるからです)。
アビシニアでは塩が商いと交換のための共通の品であったという。インドの沿岸部のある地方では特定の種類の貝が、ニューファンドランドでは乾燥した鱈が、西インド諸島の我が国の植民地のいくつかでは砂糖が、その他のいくつかの国ではなめし皮が、こうした役割に用いられていた。さらに、私が伝え聞いたところによると、こんにちでもスコットランドのある村では、職人がカネの代わりに釘を持って、パン屋や酒屋に行くことが珍しくないという。
そして、ご存じのように、最終的にこの品は貴金属に絞られていきます。金属は、少なくとも長距離の交易においては、通貨として理想的な特長を備えているからです。丈夫で、持ち運び易く、全く等しい価値を持つ小片に分割することができます。
さまざまな国がさまざまな金属をこの用途に用いてきた。古代スパルタ人は鉄を通商のための共通の道具として用いた。古代ローマ人は銅を用いた。裕福な商業国家は例外なく金と銀を用いた。
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こうした貴金属はもともと延べ棒の状態で用いられていた。刻印や鋳造はなされていなかった。
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このような未加工の状態で貴金属を使用することには、2つの大きな問題があった。計量の問題と、試金の問題である。貴金属はわずかな量の差で価値が大きく違ってしまう。正確に計量するためには少なくとも精密な重りと秤が必要になる。とくに金の計量は難しい作業である。
話がどこへ向かっているかは簡単に分かります。粗雑な金属の塊でも物々交換よりはマシだ。しかし、例えば金属片に重さと品質を示す刻印を施し、統一的に保証することで、普遍的な単位を確立すればさらに便利ではないか?もちろん、そうでしょう。かくして貨幣鋳造が生まれた、というわけです。鋳造貨幣を発行するということは、政府が関与するということです。鋳造所はどこでも政府が運営しているわけですが、この物語のスタンダードなバージョンでは、政府の役目は1つだけということになっています。すなわち、貨幣の供給を保証することです。しかし、この役目は大抵、悪用されます。歴史を通じて、私腹を肥やすために貨幣の質を落としてインフレを起こしたり、政治的な騒乱を起こしたりした王は枚挙にいとまがありません。経済学的には簡単な常識に過ぎないことなのに。
この物語は経済学という学問の基礎を築くのに不可欠な役割を果たしただけでなく、“経済”という道徳とも政治とも独立した、自律的規則に基づいて運動する何かが存在するのだという理念そのものを打ち立てたのです。そして、その“経済”こそが経済学者の研究対象なのである、と。
“経済”こそ、われわれ人類が生来の本能に従って取引と交換を行う場である。われわれは今も取引と交換に興じている。これからもそうだろう。そして貨幣とはそれを最も効果的に行うための手段なのだ、というわけです。
のちにカール・メンガーやスタンレー・ジェヴォンズらがこの物語に改良を加えました。それぞれ異なった欲求を持つランダムな構成の人間集団において、いずれ1つの商品が貨幣として用いられるようになるばかりか、統一された価格システムがつくられることを、さまざまな数式を導入し、理論的に示したのです。彼らはさらに、たくさんの見栄えのいい述語を使った言い換えをしました(例えば「不便」→「取引コスト」)。ここで重要なのは、結局、この物語が多くの人々に常識として受け入れられたということです。学校の教科書や博物館では子どもたちにもそれを教えています。誰でも知っている話です。「むかしむかし、人は物々交換をしていました。とても大変でした。だから人々は貨幣を発明しました。そしてあとになって銀行業と金融が発達しました。」そこで描かれるのは時代が下るにつれて洗練度と抽象化が進むという、単純明快な進歩の図式です。人類は石器時代のマストドンの牙の交換から、株式市場、ヘッジファンド、デリバティブ証券化へと着実かつ合理的に歩んできたというわけです。
本当にどこに行ってもこの物語に行き当たります。お金のあるところ、この物語があるのです。あるとき、私はマダガスカルのアリヴォニマモの町で、カラノロにインタビューをする機会を得ました。カラノロとは、地元の霊媒師が秘密の箱の中に入れて家に隠しているという、小さな霊的存在だそうです。それはもともと、地元の高利貸しだったノーディーンというひどい女性の兄弟のものだったということで、正直、私はそんな一家と関わりを持ちたくなかったのですが、友人たちに説得させられました。何しろ、太古から存在し続けている霊と話ができるなんてめったにないことですから。カラノロはついたての向こうから、霊媒師の口を借りて、この世のものとは思えない不気味な震える声で話をしました。しかし、よくよく聞いていると金のことしか興味が無いようです。私は芝居がかったやり取りに少々うんざりしてきて、こう訊きました。「大昔、あなたがまだ生きていた頃は、お金の代わりに何を使っていたんですが?」
不気味な声はすぐに答えました。「いや、金などというものはまだ無かった。いろいろな品を直接交換したのじゃ。あれをこれ、これをあれと…」
(つづく)
http://snailtrail.seesaa.net/article/373059136.html
2013年08月26日
負債:その5000年の歴史 2-3
DEBT:THE FIRST 5000 YEARS"
CHAPTER 2 The Myth of Barter (3)
第二章 物々交換という神話B
というわけで、この物語はあまねく知られています。まさに現行の経済システムの創世神話です。それはすでに私たちの常識の中に深く刷り込まれていて、マダガスカルのような地ですら、人々はお金の起源について他の可能性を想像できないほどです。
問題は、これが実際に起きたことだいう証拠が全く無いこと。そして、そうではなかったと示唆する証拠が膨大に存在することです。
何世紀もの間、探検家たちはこの伝説の物々交換の地を見つけようとしてきましたが、誰も成功しませんでした。アダム・スミスは物語の舞台を北アメリカ先住民に設定しているようです(アフリカや太平洋の島々を好む経済学者もいます)。たしかに、少なくともスミスの時代のスコットランドの図書館には、ネイティブ・アメリカンの経済システムに関する信頼のおける情報は無かったでしょう。しかし、19世紀半ばにはルイス・ヘンリー・モーガンのイロコイ族の6部族連邦に関する報告が出版されているわけです。そこにはイロコイ族の主要な経済機構はロングハウスであったことが明らかにされています。物資のほとんどはそこに貯蔵され、女性たちの寄合によって分配されました。矢じりを肉の塊と物々交換する、などということはしなかったのです。
しかし、経済学者たちはこの情報を完全に無視しました。例えば、1871年に貨幣の起源に関する古典的な著作を出版したスタンリー・ジェヴォンズは、鹿肉やらエルクやらビーバーの皮やらを交換するという、スミスの使った例をそのまま採用しています。実際の北米インディアンの生活についての報告を読めば、こうした話が完全にスミスの想像の産物であることが明らかなのに、そうした情報を活用しようとはしませんでした。また、宣教師や冒険家や植民地の行政官らが世界中に進出していった時代、スミスの本を読んでいた者たちは、どこかに物々交換の地があると期待して出かけて行ったのですが、結局、誰もそれを見つけることはありませんでした。彼らは、世界にはありとあらゆる形態の経済システムがあることを知りました。にもかかわらず、こんにちに至るまで、隣人同士の日常の経済的なやり取りの中で「あんたのウシと俺のニワトリ20羽を交換しよう」などと言っているような社会は世界のどこにも発見されていないのです。
物々交換についての人類学からの決定的な考察は、ケンブリッジ大のキャロライン・ハンフリーによってなされました。その結論はこれ以上ないほど“決定的”です。
「物々交換の経済は存在しない。これはあまりにはっきりしている。今まで記録されたこともなかったし、そこから貨幣が出現したということもあり得ない。民族学的記録のすべてが、そのようなものは存在しなかったと示唆している。」
ここではっきりさせておきたいのは、物々交換という行為自体が存在しないというわけではないし、スミスが「野蛮人」と呼ぶような人々によって行われていないというわけでもないということです。ただ、それはスミスの例のように、同じ共同体に属する村人同士の間では行われない、ということです。通常、物々交換はよそ者、もしくは敵との間で行われます。
ブラジルのナンビクワラ族(Nambikwara)の例を見てみましょう。彼らはまさにスミスが例に挙げるような人々です。単純な社会構成で分業化はさほど見られず、多くても100人程度の部族集団に分かれて生活しています。時折、別の部族が煮炊きのためにおこした火を見つけたりすると、使者を送って交換のための会を開く交渉をします。申し出が受け入れられると、女性と子どもを森の中に隠してから、相手の部族の男性たちを招待します。それぞれの部族集団には酋長がいます。全員が揃うと、酋長はそれぞれ相手の部族を褒め称え、自分の部族を謙遜するスピーチを行います。そして全員、武器を置いて一緒に歌い踊ります。このダンスは戦の身振りを模したものです。それが終わると、個人同士の物々交換が始まります。
何か欲しい物があれば、その持ち主に対して、それがどれだけ素晴らしいか誉めちぎる。相手は、その持ち物を手放したくないか見返りをもっと欲しい場合には、それが貴重だと言う代わりに、くだらない物だと主張する。たとえばそれが斧だとしたら、「この斧はダメだ。古くて鈍っている」などと言うのだ。
合意に至るまで、こうしたやり取りが、怒ったような声で行われる。話がつくと、それぞれが相手の手から品を奪い取る。たとえば首飾りを交換した場合、それを自分で外して手渡すのではなく、相手が力づくで奪い取らなければならない。一方の集団が忍耐を欠き、完全に話がつくのを待たずに相手から品を奪い取ったりすると、口論が起き、しばしば暴力に発展する。
最後には女性たちが森から出てきて、盛大な宴が行われます。しかし、ここにも諍いの種があります。音楽と高揚した気分の中で、性的誘惑がさかんに行われるからです。嫉妬から口論が起こり、時には誰かが殺されることもあります。
これが物々交換の実態です。祝祭的な要素に包まれてはいますが、それは潜在的に敵同士であり、戦争をしてもおかしくない集団の間で行われるものなのです。そして、人類学者の記録のとおりであれば、後になって一方の集団が不当な取引だったと感じた場合には、簡単に本当の戦争が起こります。
次に、地球を半周ほど回ったオーストラリアの西アーネムランドにスポットライトを移動してみましょう。そこに住むグヌィング族(Gunwinggu)の人々はザマラグ(Dzamalag)と呼ばれる交換の宴で近隣の村の人々をもてなすことで知られています。この儀式では、実際に暴力沙汰が起きる危険性はかなり薄れています。その要因の一つとして、この地域の人々には半族制度による秩序が存在することが挙げられます。どの村の出身者であれ、同じ半族に属する者同士では、婚姻はもちろん、性交もしてはならないという決まりがあります。逆に、属する半族が違っていれば、相手と見なして構わないということです。つまり、ある男性にとって、自分の村であろうが遠く離れた村であろうが、女性の半分とは性行為を禁じられていますが、あとの半分とは遠慮なく事に及べるのです。さらに、この地域には村ごとに特化した交換の品があります。それぞれの村に、他の村と交換するための特別の品があるわけです。
以下は1940年代にロナルド・バーント(Ronald Berndt)という人類学者が記録したザマラグの様子です。
ここでも儀式は見知らぬ者同士の間で始まります。最初にいくらかの話し合いがもたれたのち、一方が他方の村に招かれます。ゲストの村は鋸状の刃がついた素晴らしい槍を作ることで知られています。ホストの村はヨーロッパ製の上質な布地を手に入れるルートを持っています。宴はゲストのグループがホストの村の“輪の場”と呼ばれるダンスの場所に入ってくるところから始まります。ゲストの中の3人が音楽を奏で、ホストを楽しませます。2人が歌を歌い、3人目がディジェリドゥで伴奏します。そのうち、ホスト側の女性たちがやって来て、音楽を奏でる男たちに襲いかかります。
男も女も立ち上がって踊り出す。グヌィングの女性2人は音楽を奏でる男たちと反対の半族に属しており、彼女たちが男たちに「ザマラグを与える」ところから儀式が始まる。彼女たちは男たちに布を差し出し、男たちに触れたり叩いたりする。ついには男たちを地面に引き倒し、「ザマラグの夫」と呼びながら、エロティックな戯言に興ずる。
これをきっかけにザマラグの交換が始まる。じっと座ったままのゲストの男たちに対し、反対の半族の女たちがやって来て布を差し出し、叩き、性交に誘う。男たちはされるがままだ。歌と踊りは続き、歓声がわき起こる中、女たちは男たちの股間に手を伸ばし、腰巻を解いてペニスに触ろうとする。さらに“輪の場”から引きずり出して性交にいたろうとする。男たちはまるで渋々そうするかのように、ザマラグの相方と共に火に照らされた踊りの場を後にし、離れたブッシュの中で性交する。男は女にタバコかビーズを渡す。女たちは戻って来ると、自分の本当の夫にこのタバコを渡す。夫たちは妻がザマラグに参加することを奨励したのだ。順番がくると、この夫たちもザマラグの相手を得て性交し、このタバコを相方の女性に渡すのである。
入れ代わり立ち代わり歌い手と伴奏者が現れ、同じように女たちに襲われ、ブッシュの中に引っ張り込まれます。男たちは自分の妻に「恥ずかしがるな」と言ってハッパをかけます。グヌィングのもてなしをしたという評判を保つために必要なことだからです。最終的にはその夫たちもゲストの妻たちと性交します。同じように贈り物を差し出され、叩かれ、ブッシュの中へと誘われるのです。ビーズとタバコが循環します。参加者の全員が少なくとも1度はペアになって性交し、ゲストが手に入れた布に満足すると、女たちは踊りを止めて2列になって立ち、ゲストは彼女たちに代価を払います。
ゲストの中の一方の半族の男たちが、反対の半族の女たちに踊りながら近づき、「ザマラグを与える」。シャベルのようになった刃先の槍を持ち、まるで女たちを突くような振りをするが、刃の平らな部分で叩くだけだ。「お前たちを槍で突いたりしない。すでにペニスで突いたから。」そう言って槍を女たちに差し出す。次にゲストのもう一方の半族の男たちが、同じような所作の後に、反対の半族の女たちに、鋸状の刃のついた槍を差し出す。これで儀式は終わりだ。続いて大量の食べ物が振る舞われる。
この非常にドラマチックな記録は、多くの事柄を明らかにしてくれます。グヌィング族はナンビクワラ族の交換儀式と全く同じ諸要素(音楽、踊り、潜在的な敵対関係、性的誘惑)を、ある種の祝祭的なゲームに仕立て上げました。そこでは危険性は大幅に薄められ、バーントが強調しているように、参加者全員が大いに楽しんでいるのです。むろん、背景として、西アーネムランドでは部族間の関係が概ね友好的であることも幸いしているでしょう。
しかしながら共通しているのは、それらが見知らぬ者同士の間で行われ、おそらくは2度と会うことのない相手だということです。当然のことながら、継続的な人間関係を持つことになる相手ではありません。だからこそ、1対1の交換を行うことが適切なのです。それぞれの側が品を差し出し、それで終わりです。そのためにまず、音楽や踊りなどの快楽を共有することによって、友好的なムードで場を包みます。交換には常にこうした友好的ムードが不可欠です。そして、実際の交換が行われる段になると、じゃれ合うように攻撃する振りを見せることによって、潜在的な敵意が表現されます。見知らぬ者同士の物品の交換においては、常に潜在的な敵意が存在しています。なぜなら、どちらの側も相手を騙すことができ、そうしない理由はどこにもないからです。そしてナンビクワラ族の場合は友好的ムードは壊れやすく、遊戯的な攻撃性の表現が本物の戦いに変わることも珍しくありません。これに対して、性に対しておおらかなグヌィング族は、快楽の共有と攻撃性を、見事に一つの儀式的要素にまとめています。
ここで経済学の教科書の言葉を思い出してみましょう。「貨幣のない世界を想像してみよう」「物々交換の社会を想像してみよう」云々。上に挙げたような人類学的記録がこれ以上もないほど明らかにしていることの一つは、経済学者の想像力というものがどれほど乏しいかということではないでしょうか。
なぜそうなってしまうのでしょう?そもそも「経済学」という学問は、靴とジャガイモであれ、布と槍であれ、あらゆる場合において「交換」とは各個人が最も有利な条件を求めて行うものだという前提に立ち、それを対象とすることによって成立しています。そこでは物品の交換は、戦い、情熱、冒険、謎、性、死などとは無関係なものとして抽出されます。経済学においては、人間の行動の様々な領域の間は厳然と区別され得ると考えていますが、グヌィングやナンビクワラの人たちにそんな区別はありません。
こうした区別はそもそも特定の制度の存在を必要とします。すなわち、警察、監獄、弁護士などです。それらがなければ、互いに相手を好いておらず、継続的な関係性を保とうとする意志が全くなく、相手から最大の利益を得ることだけを考えている者同士が、あからさまに相手の所有物を奪う行為にいたらない理由はありません。そして、さらにこの区分は、私たちの生活が、市場(買い物をする場)と消費の領域(音楽、宴、性的誘惑などが行われる場)にきれいに分割されるという考えにつながります。ここでも、経済学の教科書に登場するような世界観―アダム・スミスがその普及に絶大な役割を果たしました―は今や私たちの常識の一部となってしまっており、別のあり方を想像することすら難しくなっています。
こうした例から、なぜ物々交換をベースにした社会が成り立たないのかが徐々に明らかになります。もし、そんな社会があったとしたら、そこでは誰もがお互いの喉元に刃を突きつけているようなもので、今にも襲いかかる構えを見せながら、永久に宙吊りになったような状況で生きなければならないでしょう。知っている者同士で物々交換をする例もありますが、その場合も両者の間に相互的な責任や信頼関係は存在せず、継続的な関係を築く意志がない、つまりは他人であっても構わないような相手なのです。例えば、パキスタン北部のパフトゥーン人は盛大なもてなしで知られていますが、彼らが物々交換をする相手は、もてなしの間柄(あるいは血族関係など)に含まれていない人々です。
男たちは物々交換による取引を好む。それはアダルバダル(adalbadal=give and take)と呼ばれる。男たちは常に自分の持ち物をもっと良い物と交換できないかと目を光らせている。たいていは、同じ物を交換する。例えばラジオを別のラジオと、サングラスを別のサングラスと、腕時計を別の腕時計と、といった具合に。しかし、全く別の物が交換される場合もある。例えば自転車をロバ2頭と、など。アダルバダルは必ず親戚関係ではない者同士で行われる。男たちは相手より有利な条件で取引をすることに大きな喜びを感じる。取引で得をすると彼らはそれを大いに自慢したがる。損をした者は取引を御破算にしようとするか、掴まされた品を誰か何も知らない者と交換しようとする。アダルバダルをするのに最高の相手とは、遠くに住んでいる者で、そうした者は苦情を言いに来る可能性が低いからである。
こうした不届きな動機による交換は、何も中央アジアに限ったことではありません。スミスの時代から100〜200年前までは、英語の truck and barter (取引・交換)は、「騙す。巻き上げる。盗む。」の意味でした。これはフランス語、スペイン語、ドイツ語、オランダ語、ポルトガル語においても同様です。自分が最大の利益を得るように画策しながら何かを別の何かと直接交換するという行為は、通常、大切に思っていない相手、2度と会うことがないであろう相手との間にすることです。そのような場合、相手を都合のいいように利用するのを思いとどまらせる理由はありません。一方、相手が例えば近所の人であったり、友人であったりした場合、公正にかつ誠実に付き合おうとする気があれば、必ずや相手の個人的な必要や、希望や、状況を考えに入れた上でやり取りするでしょう。たとえ物品を交換した場合でも、あなたはおそらくそれを贈り物だということにするはずです。
(つづく)