どうでもいいことども。


ぼくは、迎撃的な人間なのだ。
という風に言いたい。
受身とか、消極的とか、そういう言葉は、なぜか「よくない」というような意味をあわせもってしまっていると気がする。コノテーション、というやつだったかな。
(どうでもいいが、aggressiveという単語は、アメリカではポジティブなふくみがあるが、イギリスではネガティブなふくみがあるらしい。ぼくの感じでは、ネガティブである。習ったのはアメリカ英語なのだが、こればかりはそう感じてしまうのだ)

ともかく。
受身であるとか、消極的であるとかいう意味の言葉を、中立的な、あるいは、よい意味でつかいたいと思ったら、たとえば「迎撃的」という風に言い換えなきゃいけないんじゃないかと思う。
最近は、「積極的」という言葉が、ぼくの中で、ネガティブな意味を持つようになりつつある気もする。できるなら、価値中立的になりますように。
あるいは、積極的というこの言葉を使わないのも一手か。


さて、ぼくは、今まで、物語を何本か書いてきたのだけど(出版されているという意味じゃなくて、趣味とか投稿したとかいう意味で)、最近は、自分にある種のしばりをかけている。
1.登場人物は死なない(仮に死んだとしても、死によって退場しない)
2.性行為は書かない(性や性欲について書くとしても、性行為は書かない)
3.幸せな結末をむかえる(書かれた問題は解決される、または問題がおきない)
優しい人や、道徳的に正しくあろうとする人を書いたり、問題に対する答えや悩みに対する救いを書きたいと思っている。
これにあてはまらないものは、ペンネームを変えることにしている。
あ、ちなみに、石崎ねむる名義で、こういうものを書いたことはないので、あしからず。


「幸福は不幸のはじまり」という、この理論をどうにかするのが、ぼくの最近の目標のひとつである。
生きるときも、物語を書くときも、とにかく、この理論をひっくりかえしたいと思う。
それは、こう考えているかぎり、ぼくは幸せになれないのじゃないか? と思うようになってきたからだ。
これは、十才から十二才くらいから、ぼくの中にある意識で、滝本竜彦の「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」によって、明確な形を取った。
この本は、ぼくの心の中にある根本的な問題意識を、目に見える形であらわしてくれたと思う。
たぶん、人生を変えられたんじゃないかと思っている。
どういう風に変わったのかわからないくらいの根本的なところに、この本は一撃をいれたのだと思っている。
ただ、この本で、幸せになったというより、不幸になった気が、しないでもない。いや、それとも、自分の問題をちゃんと見ることができるようになったのだから、幸せなのだろうか。いやいや、それとも、幸せとか不幸とかを超越して、「変わった」「世界の見方が変わった」というほうが、適切かもしれない。
つけくわえておくと、この本は、いい本だし(ひいきかもしれないが、滝本竜彦の最高傑作だと思っている)、この本では、登場人物たちが、それぞれに「問題」に「ケリ」を、ちゃんとつける。
つまり、問題は、この本を読んだぼくが、「問題」を知ったのはよかったが、まだ自分なりの「ケリ」をちゃんとつけられていないということなのだ。
一生、自分の中にあった問題に気付かずすごすことができるのか、ぼくは知らない。
おそかれはやかれ、この問題、上述の「理論」に気付いたのかもしれない。
ただ、ぼくのこの人生において、その鍵をあけたのは、この本だった。
そういう意味で、ぼくの人生に、一番の影響を与えたのは、この本ということになるだろう。
そう、だから、この本は、ぼくにとって、問題に目をひらかせてくれた本であり、人生の宿題をあたえてくれたということになる。
そういうわけで、この「理論」をどうにかしたいと、ぼくは切実に思っているのだ。

上よりは大した問題でもないかもしれないが、もうひとつ。
NHKが二十世紀の終わりにやっていたドキュメンタリーで、気持ち悪いのがあって、それはいろんな世紀末の問題を映し出すドキュメンタリーだった。
大学の美人コンテストで一番を取った女の人が、今は病気の治療の副作用でぶくぶくにふとって、美人じゃなくなっているのがいやで、自分のクローンを作って、美しさをとりもどしたいと言っていたのを覚えている。
こわい、と思った。
クローンを作っても、その人は、その人のままなのに。
だけど、今なら、こうも思う。
本当に、かわいそうだ、と。
だれか、あの人に、君はそのままでも十分にきれいだと、伝えてくれないものだろうか。
クローンじゃなくて、君が大切なんだって。
そう、それで、そういうようなものをえんえんと映し出すようなドキュメンタリーで、それを見て、ぼくは、未来に対する希望がなくなっていくのを感じたし、そしてなにより、世の中でひどいことが起こっているのに、何をできない自分に、絶望した。
クローンとか、戦争とか、なんかわけのわからない壮大なプロジェクトが、ぼくの手のとどかないところですすんでいるくせに、その結果、ひどいことが起こったら、そのツケをぼくらが、何もしていない人たちが、払わなくてはならないという感覚。
自分の無力感に対する絶望。
そういうのが、あった。
もちろん、ぼくたちは神さまじゃないから、すべての悪をどうにかしようということは、できないのだ。できるのは、手の届く範囲の悪をどうにかすることと、祈ることくらいだ。
だけど、それでも、やっぱり、とても悲しい。
そういうことが、その後も続いて、今では、あまりニュースを見ることもなくなった。
無力感と絶望と悲嘆と、そういうものばかり、ニュースでやっている。
ぼくが欲しいのは、希望とか解決策だ。そういうのは、あまりニュースではやらない。
だから、ぼくは、知りたい情報は、雑誌とか本とかインターネットとかで調べるようにするようになった。
絶望をまきちらすメディアは、もはや見る気がない。
そう、こういう無力感については、ガンジーがこんなことを言っていた。
「たとえ自分のやることが世界になんの影響も与えないとしても、世界を変えるためではなく、自分を世界に変えられないために、何かを行いなさい」
こんな感じのせりふ。
要するに、結果は気にするな。
世の中のことなんて気にするな。
できないことなんて気にするな。
やるべきだと思ったことや、やりたいことをやれば、それで大丈夫だ。
そういうことを、言いたいのかな、と思う。

追記。
ガンジーが言ったものでは、下のほうがいいかな。
重要なのは行為そのものであり結果ではない。行為が実を結ぶかどうかは、生きているうちに分かるとは限らない。
正しいと信ずることを行いなさい。結果がどう出るにせよ、何もしなければ何の結果もないのだ(ガンジー)


2011/12/11

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