万蔵山の秘密
女性が寝ている姿だとされ、寝姿山と呼ばれる山。ここは昔、万蔵山と呼ばれた。ここには忘れ去られているが、大きな秘密が隠されている。
すでに絶版になっているが、築地書館から「鉱物採集の旅−東海地方をたずねて−」という本がでていた。その中の14頁に寝姿山のラムスデル鉱という章がある。
ラムスデル鉱:流紋岩が固まった後、その割れ目に沿って上がってきたマンガンを含む熱水溶液から沈殿してできたもの。この鉱物がこれほどまとまってとれるところは日本では他に例を見ない。
これも、万蔵山の秘密といえば秘密になるのだが、ここで言っている秘密はこれではない。
この章のなかに次のような文章がある。 “この流紋岩はカリウムを多く含んでいることで有名で、昔はカリウム原料として採掘されていたこともあるほどです。” 昔とはいつなのか?採掘ということは鉱山だったのだろうか?
以下、万蔵山のカリ鉱山を追いながら浮かんできた大きな謎のレポートである。現在進行形のレポートなので、随時、構成や記述を変えながら進んでいくのでご了承願いたい。
ものの始まりは拙HP ttp://www3.ocn.ne.jp/~izubun/gazou/sonota/takane.htmである。高根山に採石場があり、そこから石をトロッコで下田港に運び出していたという。そして、寝姿山をトンネルで突きぬけ下田港に通じていたという。トンネルですよ!もう、この話で軌道跡とトンネルと探し出すことが頭の中から離れなくなったが、拙HPで記した以上の新たな情報は得られなかった。
話は変わって、60数年前。第2次世界大戦に枢軸国として参戦した日本。連合国含めて諸外国からの輸入はなくなった。肥料に使われるカリウムも輸入が途絶え、戦時体制ですべて大増産が必要な時期に大きな問題となった。そこで、目をつけられたのが国内でカリウム肥料の原料を調達すること。その一つの方法がカリ鉱山の開発であり、もっとも有望視されたのが、下田の万蔵山であった。
大阪毎日新聞1941.9.6 (昭和16)や日本工業新聞1942.4.9 (昭和17)、読売新聞1942.4.21 (昭和17)、 日本工業新聞1942.6.13-1942.6.15 (昭和17)を読むとそのあたりの事情が良くわかる。
ttp://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/sjlist/kaga/kaga290.htmlを参照のこと
国際情勢の緊迫化に伴い従来独米に依存していた工業、肥料用加里は輸入杜絶となり、加里自給対策の確立は戦時食糧増産上急務となった。国内資源として現在最も有望視されているのは伊豆の万象山の加里長石(埋蔵量約九千万トンでこれが開発には盤城セメント、南興産業の二社が当たっている)と福岡県出川郡油須原の加里長石(埋蔵量約六千万トン)であり、これらの資源開発は従来のような私的資本による不統一な経営では到底所期の目的を達し得ないからここに一大国策加里開発会社を設立し国家的立場から事業の経営を行うべきである。
日本肥料では業界の中央統制機関としての立場から真剣に国内加里資源の開発対策を検討中のところ、昭和17年4月20日の理事会においてわが国における重要加里資源たる伊豆万蔵山の石英粗面岩の採掘に乗出すべく方針を決定した。これを具体化するため日本肥料は万蔵山の鉱区所有者たる南興産業の株式を大半肩替りすることとし、他方福島県に株式会社加里研究所を設立し、隣接の呉羽人絹より塩酸の供給を仰いで塩化加里の製造を行うこととなった。生産目標は初年度加里原石二万五千トン、加里二千五百トンの予定である。
伊豆下田町万蔵山の加里石英粗面岩は昭和15年に日本学術振興会の委嘱により地質調査所に於て調査された。この岩石は噴出溶岩で高さ約200mの全山を蔽い露出している品位は加里含有量平均9〜10%、鉱量は約一億トンと称せられる、質量並びに開発の難易などから見て加里資源として第一位を占めるものである。この鉱区は稲沢村村有となっている部分が多いので、鉱区開発者は此の村と岩石採掘契約を結んで開発するのだが、現在この鉱区の採掘権を持っているのは磐城セメントと南興産業の二社である、磐城セメントはこの長石を原料として加里肥料を製造する為、日産150トンの工場を目下鉱区の真下に建設中である。南興産業は岩石販売を目的として着手したものだが、利用方面が進展せざるため仕事とならず今般日本肥料が同社株式を肩替りして経営に乗り出すこととなった。
盤城セメントが建設中の工場で採用されたカリ鉱石からカリ肥料の製造方法は鉱石100に対し石灰岩50、塩化30の割合に混和しこれを摂氏800〜900℃で焙焼する、この方法によればカリ全量9%の原石を使って水溶性加里4〜5%の加里肥料が得られる。目下下田に建設中の工場は年産45,000トンで昭和17年秋から少しずつ製品を見る事が出来るであろう。
これらの新聞記事から、1 万蔵山はカリ鉱山であった事、2 それは太平洋戦争時代であったこと、3 2社が開発していたこと、4 磐城セメントは下田に工場を持っておりそこで肥料を製造していたこと、5 もう1社の日本肥料は鉱石を県外へ運び出していたらしいことがわかる。
掲示板仲間のK氏の行動力、知識とも卓越していて、私信でたくさんの情報を戴いた。磐城セメントの下田工場は現市営丸山住宅がその場所であり、市営住宅が位置する斜面にそのまま工場があったらしい。確かにここなら"鉱区の真下"に位置する場所である。しかし、空襲によって工場は破壊されたしまったそうである。これによって、敗色濃厚となるまでカリ鉱山の稼行が続けられていたことがわかる。これもK氏からの情報、ありがとう。「大空襲 郷土燃ゆ 静岡県戦災の記録」に磐城セメントの空襲の記録が載っているそうである。昭和20年8月1日(水)・・・・下田郊外の磐城セメント会社工場、焼夷弾により全焼す。・・・・
そして、終戦。ここで、カリ鉱山の歴史は途切れたわけではなかった!!万蔵山カリ鉱山は戦後も稼行されていたようだ。日本鉱産誌(1952)には、昭和20年から開発され、24年まで稼行されたと書かれているそうだ。鉱石は徳山曹達、日本アルミその他の工場で処理され、焼成カリ肥料を製造していた。昭和20〜24年の出鉱量は3万トン余。これは戦後の混乱期でも食糧増産のために肥料としての需要が強かったことを意味している。新たに徳山曹達、日本アルミという会社名がでてきた。
下田湾の間戸が浜にカリ鉱石を積み出したらしいトロッコ桟橋があったという写真をK氏から教えてもらった。その写真では間戸が浜の道路は片側一車線の狭いままになっている。現黒船ホテルと現シーサイドホテルの間の岩場の上に立派な橋脚が2基残っている。これが鉱石積み出しの積み出しトロッコの橋脚だそうだ。その先には西條八十碑がある。その写真には現シーサイドホテル前の岩場にも簡単なトロッコと思われる桟橋が写っている。これはなんだろうか?恐らく海水採取用の配管ではないだろうか。
近所の高齢な方に伺ったところ、確かにトロッコ桟橋は記憶にあるそうだが、何のためのトロッコかその方はわからなかったそうである。
ところで、いくとこガイドでその場所を確認していたら、現黒船ホテルの裏側に怪しい構造物らしきものが二つ写っていることに気付いた。まず、東側の背後に三段に渡って黒っぽい構造物がある。それらは山から突き出しているようにも見える。→→これは黒船ホテルの特別室のようだ。−−次は西側の背後の沢を突き詰めたあたりに白いものが見える。砂防ダムだろうか?これらの確認は黒船ホテルの裏にあたっているので難しい。
この景色のどこにトンネルがあるのだろうか?
間戸が浜側のトンネルの位置が確定してきた。この場所については、富士屋ホテルの裏とか黒船ホテルの裏とか民宿伊豆岬の裏の崖で現在コンクリート擁壁とかの意見があったが、今も現存していることが確認されたという話が流れてきた。先の写真の橋脚の立っていた場所の丘側であるという。ただ、私はまだ見ていない。トンネルを見るのが楽しみである。⇒【驚愕】トンネルは二つあった!!最後を見よ。
この景色のどこかにトンネルがあると言う。
赤間側のトンネルの位置も確定してきた。私は見た。コンクリートで巻かれたトンネル口と、水が溜まったトンネルの中。不思議なことにトンネル内の勾配は水平だ。間戸が浜側へ傾斜しているのではないのか?人の話だと、途中から急勾配になっているらしい。今は水が溜まっているということは、閉塞しているということだ。その昔、まだ通じている時には下田の人は柿崎間戸が浜へ海水浴に行く時に、このトンネルを通ったそうである(なんと、うらやましい〜)。(070120記)⇒【驚愕】トンネルは二つあった!!最後を見よ。
新しい謎が見つかる。山に突き刺さった古レール
カリ鉱石の搬出に使ったと思われるレールがあると言う。そこは、今まで足を踏み入れた場所ではない。3人で早速いってみた。これまでの探索範囲の最も南寄り(下田港寄り)にあたる。急な斜面に石が積み上げてある。そこにレールが刺さっている。石は坑口を塞いだ感がある。ここは何だったのだろう。万蔵山カリ鉱山の全貌を知っている方はいませんか?
廃寺もある万蔵山。
万蔵山には廃寺もある。その名も万蔵院。この寺は黒船到来時に存在した。いつ、廃寺になったのだろう。
万蔵山のカリ鉱山に関する記述が、下田北高百年誌「百年のあゆみ 豆陽中下田北高」に載ってます。・・・第四章 戦時体制と豆中に昭和19年夏前には「酷暑に汗を流した磐城セメントでのトロッコ押し」に生徒が従事したこと書かれている。また、19年夏以降は通年の学徒動員になり、5年生が磐城セメントカリ工場に動員された。工場は赤間から現在の下田城、丸山市営住宅にかけてあり、万蔵山のカリ長石からカリ肥料を作る目的で採算を度外視して製造が行われていたとなっている。工程は二つあり、一つはカリ鉱石を粉砕して袋詰にして出荷、もう一つは塩のにがりと混ぜレンガ状にして精錬所に出荷である。工場は山の上から下に並んでおり、原料は上から下に流れて加工され、最も下で袋詰して出荷するようになっていた。・・・このような記述のあと、生徒二人の回顧談が載っている。やはりトロッコがあったのだ。豆陽中の体験者を探せないだろうか?
未確認情報を記録しておきます(060716)。富士屋ホテルの前にも鉱石積み出し用のピーヤ(橋脚)があったという話があります。そこには、トンネルからの積み出し軌道の分岐が来ていたとか、山側にインクラインがあったという話もあります。インクラインについて言えば、柿崎の農協スタンドの国道をはさんだ反対側の今別荘地になっているところには磐城セメントのインクラインがあったそうです。これまで万蔵山のカリ鉱山とは山の北斜面だけを考えてましたが、南斜面にも存在してもおかしくはないのかもしれません。⇒【驚愕】トンネルは二つあった!!最後を見よ ヤマセミさんのHPの画像掲示板ttp://bbs5.aimix-z.com/gbbs.cgi?room=yamasemiのNo.72に万蔵山の南斜面が写ってますが、山の中腹に何か建物が写ってますし、木を切ったあとのような感じもします。この写真は昭和12〜15年というので、カリ鉱山以前の写真になるわけですが、山の斜面は開発されていたと考えられます。
大変気になっていることがあります(060724)。それはこの航空写真ttp://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/76/ccb-76-23/c14/ccb-76-23_c14_22.jpgです。
市営丸山住宅から東に向かって筋が走っている。旧道を乗り越え、山の中を突っ切り、ビューホテルに続く道にたどり着く。この写真は昭和51年に撮影されているが、この道らしきものは2000年代に撮影されたとされる”いくとこガイド”では判別できない。磐城セメントカリ工場にまっすぐにつながるこの筋は、カリ鉱山の痕跡か?⇒⇒(070321)この筋の旧道の起点にはSHKの看板があります。“この地下にケーブルが埋まっているので掘る人は気をつけるように”そして、電柱があって、万蔵山に向かっている。この筋はSHKの電線ではないだろうか?
060916、涼しくなった初秋の1日、万蔵山探索の予備練習として、武ヶ浜から柿崎、上ノ山を散策しました。
まずは、武ヶ浜の波除。波除を作った今村公の顕公碑が武ヶ浜の国道Y字三叉路から元波除の跡の道路脇にあります。この道路にある立派な松は江戸時代から存在してたものなのか。説明は看板を参照。長さ六町半というと何mになるのかな?
武ヶ浜の波除基点、武ヶ浜の国道Y字三叉路の万蔵山寄りの崖のところに、お地蔵さんの一群があります。屋根付のお堂?小屋?の中に入っており、きちんと手入れされています。
ここから、下田方面の国道沿いには3種類の石造物があります。西に向かって、左側にあるのが供養碑。裏の碑文を見ると昭和31年にここでなくなった進士さんという方を弔うと、彫ってあります。どんな事故があったのでしょうか?そして、さらに下田方面に石祠があります。
武山荘があったあたりは、駐車場と廃車置場になってます。そこの脇に墓地があります。墓石には古いものが多く、由緒あるものではないでしょうか?なお、万蔵院はこの武山荘跡の後ろの崖の上にありますが、そことの関係は?
さて、柿崎方面に海岸道路を歩いていきましょう。廃業したホテル、小さな店、営業しているホテル・民宿を過ぎると、駐車場の奥に石造物が2個。一つは甲塔と書かれた丸っこいもの、屋根のなかに鎮座しています。下のほうには講中という字も彫ってあります。もう一つはその右側にあるもので、細長い。でも、書いてある字が読めません。梵字というのでしょうか。

さらに柿崎方面に歩いていくとファミレスがあります。その駐車場の奥に古ぼけた鳥居が見えることに気がつくでしょう。小さな神社があるようです。駐車場からはいけませんが、下田よりに戻って柿崎区防災倉庫の脇の小さな道から行くことができます。

ホテルを二つ過ぎ柿崎のY字交差点が近づいてくると、海岸道路から民家の裏を通っていく狭い道があります。これは古道だそうです。いつの道かわかりませんが、この道をたどっていきましょう。民家と山の間を進むこの道はやがて鬱蒼とした林の中の道となります。その前に左に石造物を発見。立派な屋根がついてます。青面金剛と彫ってあるのが見えますが、その他はよく読めません。

しばらくいくとまた、石造物が見えてきます。今度はお地蔵さんと石碑です。お地蔵さんは頭がありません。周りを見渡すと取れた頭が落ちていましたので載せましたが、どうも違うようです。石碑には文政という文字が読めます。江戸時代から使われていた古道です。

その先は、倒木があり、通れないように見えますが、僅かです。無理やり突っ込むと沢を渡り、左カーブのいい雰囲気の道。

開けたところには草を刈ったあとと彼岸花が咲いてました。やがて、道は別荘地にでます。国道からここまで、一直線の坂道となっており、これがインクラインの跡ではないかといわれるものですが、現在インクラインの痕跡はありません。

古道はこの別荘地の一番上から上ノ山に行っていたようです。上ノ山まで行くことができます。上ノ山に入るところには立派な石垣の上に石造物がありますちょっと石垣と不釣合いですが、もともとはもっと大きな建物があったのでしょうか?最後の写真は柿崎三島神社の隣の崖の紋様ですが、どのようにできたのか不思議です。→広報しもだ570号に下田市の指定文化財−静岡県指定天然記念物”偽層”としてこの現象が載っていました。ナイスタイミング!

カリ鉱山だけではなかった万蔵山
万蔵山の北と西の斜面にはカリ鉱山とは別の鉱山がありました。国会図書館で見つけた万蔵山加里鉱石調査報告は昭和16年に調査したものですが、万蔵山の周りの標高100mに4つの坑口が描かれていました。標高100mのところに西斜面に二つ、北斜面に二つ坑口があり、金鉱石の試掘が行われていると記載されていました。このうち北斜面の鉱山は結局マンガン鉱山として稼行されたようです。河津鉱山絵葉書の中に白浜マンガン採掘場というのがあり、これが万蔵山北斜面にあたります。古道掲示板http://6501.teacup.com/garage86/の平成18年12月10日の投稿にこの河津鉱山絵葉書が載ってます。
この場所は12月10日以降、KazuさんとSさんによって特定されました。http://kodou.lolipop.jp/shirahama-mine.htmがそのレポートです。私も平成19年1月8日にここを訪れました。
万蔵山の謎、もう一つ(070120)
下田城下の赤間に万蔵山に向かってトンネルが残っているそうですが、民家の敷地内のため、見ることができません。そのトンネルには水が溜まっており、民家の方はその水を利用しているそうです。県総合庁舎の裏にも水がとうとうと出ている場所があるそうです。これも、トンネルから出ている可能性があります。⇒【驚愕】トンネルは二つあった!!最後を見よ。
1月28日、今日は不思議な縁を感じました。
用事の間の時間調整、1時間半ぐらいどこで時間をつぶそうかなということで、いくつかの候補から万蔵山をチョイス。
モーテルのところから、トロ道に続く形で石積みがあるというので、それを確かめることにする。山肌に取り付くと、上に石積みが見え、水平筋があるようだ。崩れているところから、登ると、確かに水平な面と不思議な石積み水路を発見。
石積み水路を遡ると程なく途切れ、そこには山に向かって石積みの段々が。やはりカリ鉱山の遺構だろう。それにしても、水路は何の役目を果たしていたのか思いをめぐらしていたところで、携帯が鳴る。やまのかみから呼び出しかと思ったら、Sさんから。
「掲示板見ました?」
「いや、見てないっす」
「Kさんが万蔵山にインクラインを見つけたそうです」(はじめ何のことやらわからず、懸案の宇久須かと勘違い)
「え、万蔵山?」
「今から、探索に行く予定です」
「万蔵山のどこです?」
「モーテルのとこから」
「え、アパートになったモーテルのところ?」
「そうです、あの墓石が転がっているところ。9時に総合庁舎に集合で・・・」
「今、そこのところにいるんです」
「えっ」
「今、そこの山の中で不思議なものを見つけたところです」
「インクラインは5mぐらいの幅で山頂に向かっているそうです。今から行きません?」
「じゃ、これじゃないな。今日は用事があって参加できないけど、今からここに来ませんか?旧道に下りて待ってます」(無理矢理、来てもらう)
電話で誘われた場所に誘われた本人がいるなんて、心が通じているみたいで、このすごい偶然に驚く。
Sさんが来るまでに、あたりを探るとすぐ、インクライン跡が見つかる。インクラインがあるなんてどこにも情報がなかったので、見過ごしてきた!
Kさんのデータは次のとおり。標高差65m 斜面120m 斜度30°Sさんと合流して、隊長が来るまでの僅かな時間、インクラインを登る。石積みのしっかりした路盤に驚く。
隊長と合流し、見送ろうとすると、Kさんまで出現。旧道から下を除くとホッパー様のコンクリ施設があるではないか。これも気がつかなかったよ!探索任務はSさんと隊長に任せました。
この空中写真ttp://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/76/ccb-76-23/c14/ccb-76-23_c14_21.jpgを目を凝らして見れば、インクラインのある場所に筋が見えているじゃないか!
1年越しにインクラインとその他を探索。ここttp://isozaki.blog.ocn.ne.jp/isozakiblog/2008/01/incline_9ac1.htmlをご覧下さい。
それにしても、これは戦後も操業したカリ鉱山の遺構ではないだろうか。前述したが、戦後は昭和24年まで操業したことになっている。ネット上を探すと、下田加里鉱業株式会社が昭和22年に存在したことがわかる。htp://www.gsj.jp/Pub/Bull/vol_44/pub_44-01J.html この会社か?
下田加里鉱業でGoogle検索すると、昭和23年の参議院の文書が引っかかる。ttp://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/syuisyo/002/touh/t002119.htm このとき、下田加里鉱業は復興金融金庫から融資を受けていたと考えられる。社長は鈴木貞雄氏であることがわかる。
この方は、Kさんが古道掲示板にかつて書いていたように昭和20〜30年代に下田町長を務めた鈴木貞雄氏と同一人物なのだろうか?⇒⇒(070321)町長であった鈴木貞雄氏のことがちょっとわかりました。旅館平野屋をやっていたそうです。下田加里鉱業と関係していたという情報は今のところ得られていません。⇒⇒(070411)Kさんから決定的な情報を得ましたので、記載しておきます。下田史談会という団体が明治百年史料として下田町長であった鈴木貞雄氏に「町政16年」と題して聞き取りを行っています。それを読むと、この方は文武両道であったすごい人であったことが伺われます。肝心なところはこうです。「私は農大で勉強した農芸化学知識によって、日本が諸外国から経済封鎖を受け、加里肥料の輸入が途絶えたので国内生産を考えた。万蔵山の岩質調査をしたところ、石英粗面岩で加里は10%含有している。この加里は硫酸と強く結びついているのでそのままでは利用できないが、背に腹は変えられない。昭和14年には同質で柔質の加里石英粗面岩を吉佐美の三倉山に発見した。加里を含有する白土も発見した。政府当局の助成を得て加里鉱会社を創立した。私が社長となって清水の日軽金や山口の徳山曹達とか、茨城の呉羽等に万蔵山、三倉山の石を送って加里石英粗面岩粉末の名で肥料が製造された。このころ、磐城セメントが下田に進出し今の丸山町営住宅のところに加里製品工場を作った。万蔵山のロープウェイのあるところから柿崎方面にトンネルを通し、今柿崎の海上にピーアが残っているが、ここから年間20万トンの船積みする計画で創業した。製品は諸外国と比較する加里含有率が貧弱で、生産費がかさみ、平和時においては事業として成り立たないので終戦とともに終局となった。万蔵山の加里研究についてはその後、東京工業試験所鈴木隆成博士の研究で28%程度の加里肥料の製造は可能となった。万蔵山、三倉山の加里石英粗面岩は埋蔵量全国一の折り紙がつけられている。」
万蔵山カリ鉱山のあったところの小字は右内山(うないやま)と、その北東側は本小澤(もとおざわ)と呼ばれている。いずれも中村である。「中村今むかし」は中村の歴史を綴った本だが、ここにはカリ鉱山の“カ”の字もない。この本からはカリ鉱山があったことはうかがい知ることはできない。歴史から抹殺されたのだろうか?それとも戦時中だったので、一般の人には全く関係ない世界だったのだろうか?ただ、この本には万蔵山(寝姿山)の遠景写真が数枚載っている。それによって私が最初に歩いた水平筋をはっきり認めることができる。−これもKさんの情報>
070225蓮台寺のアトリエ馬車道を訳あって訪れる。そうしたら、なんと中身が変わっていて“蕎麦屋”になっていた。もちろん古い写真は見れたけれど、“創年”の方々の集いの場所になっていた。食事をしたばかりだったので、蕎麦は食べずに見学だけしたけれど、下田温泉50年史をめくっているうちにとんでもないアイデアを思いついた。以下、それを記します。この50年史のなかに下田市内の温泉の配管図が載っている。それを辿っていくと、なんと万蔵山の下を通って配管されているんです。もし、本当に温泉配管が万蔵山の下を通っているなら、何を意味するのだろう?ひょっとして貫通しているトンネルが複数あって、そのうちの一つを利用しているのではないだろうか。⇒070617S・K両穴菌からこのアイデアは否定された。50年史を丹念に読むと、万蔵山の下を通しているのではなくて、ポンプアップして万蔵山の鞍部を越していると書かれているそうだ。【驚愕】トンネルは二つあった!! 070617穴菌仲間から決定的な話が届きました。それにしても、今日はkawaさんも穴菌保菌者であったことがわかった面白い日でした。これまでの断片的な情報が見事につながります。赤間の下田城下のトンネルは現在水が溜まっていた。民家の敷地内に存在し、そこの方が水を利用している。この水は過去、黒船ホテル(信じがたい)やタカラゲン工場が使用していた。そして、ここにはトロッコが敷かれていて、トンネル内のトロッコで遊んだ子供もいた。その方の話では、このトンネルは間戸が浜に抜けていた。きっと、海水浴に行くとき通り抜けたと言うトンネルはこちらではないか。間戸が浜の出口は山崎コンビニの前ぐらいと言うが、今日の探索では埋められているようで、発見できなかった。富士屋ホテルの前にあったと言うピーヤはこのトンネル関係だろう。富士屋ホテル裏の建設途中廃墟ではレールがジョイントとともに発見されたので、ひょっとしたら、トンネルの出口はそこでインクラインでピーヤまで運んだのかもしれない。