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◎揺れる男女共同参画?
誤解されたまま波及のジェンダーフリー
一月五日付本紙(琉球新報)朝刊で、教育基本法改正問題が報じられ、その中で標題のことも報じられた。これは、全国紙など他紙には見られない報道で、実情を良く報じている面白いものだと思った。
「愛国心」や「公共」の精神を取り入れようとする教育基本法に、男女共同参画の視点も取り入れようと女性委員たちが修正したためだ。「愛国心」や「公共」の精神に賛成する者は男女共同参画の視点導入に反対し、男女共同参画に賛成する者は、愛国心や公共の精神の導入に反対し、といったことで、結局、教育基本法そのものに賛成する人がいなかった、ということになってしまった。男女共同参画法案は、過去に国会で全会一致を持って成立した法案であるのに、なぜ、このようになるのだろうか。
それは男女共同参画法の中身が次第に国民の前に明らかになってきたためと考えられる。この法案制定に活躍したのはフェミニストで知られる大澤真理東大教授らであるが、「ジェンダーフリー」なる和製英語を作り導入してしまったことに起因する。多くの国民は「ジェンダーフリー」を「男女平等」と考えて賛成してきたのであるが、ここに至って、大澤真理、上野千鶴子東大教授らの著書からも明らかなように、男女平等ではなく、男女の性差を根源から否定するラディカルなものであることがわかってきたのだ。
法案制定後に各地に女性センターが設置され、ジェンダーフリーは誤解されたまま全国に波及した。例えば、千葉県松戸市ではジェンダーフリーに基づく保育所運営を開始したが、その結果は全く芳しくなく、父母らの苦情が殺到し、昨年には中止となるに至っている。学者として余りにも信じられないことが起こっているのがジェンダーフリーだ。
例えば、ある新薬の可能性が分かると、それは幾度となくの臨床試験を経て、一般に適用される。科学的に効能を確認するためだ。これは当たり前のことといって良い。しかしジェンダーフリーは、このような手順が省かれた形で一般化されてしまった。国民の誤解に悪乗りした形で進められてしまったのだ。
またジェンダーフリーでは小中学生への性交奨励と取れるような性教育を重視する。道徳心の育成なくしてである。国会では「そんなに良いものなら(ジェンダーフリーに基づく)男女共同特区を造ってやってみればいい」といった答弁まで出るようになった。
昨年末の内閣府委員会ではジェンダーフリーは公式用語でないことが確認され、行き過ぎを是正する通達を各地方自治体に出した。日本は(特に沖縄は)女性ジェンダーが良く発達している。これを否定しては、文化や人権の否定にまでつながることを認識すべきだ。
◎これからの男女共同参画社会(平成14年7月9日現在)
我が国では男女共同参画が、多少の差はありながらも、ほぼ全国的に推進されている。沖縄県もその例外ではなく、DEIGOプランが策定されている。
従来の男女共同参画は、ジェンダーフリー(性差否定)の考え方のみによって推進されていることが特徴だ。しかしこれらは、高崎経済大の八木秀次教授、東京女子大の林道義教授らによって、また筆者によってその問題点が指摘され続けてきたものである。
今回、山口県宇部市では六月の定例市議会において、ジェンダーフリー(性差否定)に立脚した男女共同参画だけではなく、「男らしく」「女らしく」といった性差肯定の男女共同参画も含めた条例を可決している。これにより、特に女性は、より幅のある生き方を選択することができるようになった。これまでの考え方では、例えば専業主婦といったものが否定され、当の女性達によって、小馬鹿にされ続けてきたのである。
性差の否定は、ビジネスなどの面においては、ある意味、誰もが納得することであろう。しかし、これがセクシュアリティ(性行動)にまで及ぶような性差の否定になってしまうと、人間社会に重大な問題を引き起こす。その一例を最近の私の研究から示す。 男(女)であることの受容を健全に果たす(性別自己受容)ことはきわめて重要なのだ。
例えば思春期の男女の特性として次のことがある。男は女の肉体に対して特異的に興味を示すが、女はそれほどではなく、むしろ男の心や性格といったことに興味を示す。実は、これらの特徴が健全に発現するような家庭環境がきわめて大切なのだ。
セックス(性交)は、男がその気にならない限り成立しない、ということがある。したがって、男が女の肉体に特異的に興味を示すという現象は、人類の存続にとって必要不可欠な特性である。かといって、この現象が犯罪にも関連したりする。この意味において、私は、男を「正しいスケベ」に育て上げることが必要であることを、その方法論とともに従来から主張している。
性差の否定により、女もまた男と同様にセックスに対して積極的になったとしてみよう。このことは、かって、あるフェミニストが本紙(琉球新報)上において主張していたことでもある。
実は、男というものは、女の肉体に特異的な興味を示すが、自分の母親の裸を見ることには、大変な心理的抵抗を覚える。子にとって母親は「女」ではないのだ。これは子育てのプロセスにおいて、アジャセ・コンプレックスというものが形成されるためであると考えられ、近親相姦(母子相姦)を防ぐための大切な一要因だ。
結婚生活を続けていくと、男女の情緒が深く結合するに連れて、そのカップルは互いの異性の親のイメージを投影し合うものである。つまり、男にとって妻というのは、「母」の側面も持つ存在なのだ。これは「女」にとっても同じであろう。
以上のようなことがあるため、結婚生活においては、妻の方から性交を求めていくようになると、アジャセコンプレックスが発現し、夫の性欲は極端に減退する。それが続いていくと、対妻性交不能症と呼んでよい状況になったりする。妻とは不能であるが、他の女とは可能なのである。この様な状況になると、いったい社会はどうなるか? 浮気や不倫などの婚外恋愛が増加することは必然であろう。これは離婚などにも関連し、家庭崩壊を招く要因でもあることは明らかだ。婚外子が増加し、あるいは親を知らない子供達が増加する。
子供は、親(主として母親)に甘えながら精神的成長を果たすものである。ところが、そのような状況では、子供は甘えたくても甘えることができない状態で成長しなければならない。甘えたくても甘えられない状態に置かれた人間には、その程度によって、拗ね、僻み、恨み、ふてくされ、やけくその心意が発生する。子供社会の治安の悪化は必然となってしまう。そのような子が成長し大人になったら、同様に社会の治安悪化も必然だ。また、そんな心意に支配された医師が行う手術、パイロットが操縦する航空機、原子力施設、…、考えただけでも空恐ろしいことになるではないか。
この様にして、性差の否定には、必然的に社会治安の悪化を伴う。ジェンダーフリーに立脚した男女共同参画の例は、例えばスウェーデンの例をみると良い。婚外子で親不知の子が国民の半数となるような社会が健全であると言えようか? 現在においても社会治安がダントツである日本は、それは母性社会の恩恵であることに注意を払おう。
実は、宇部市の条例のようなことがないと、きわめて重要な問題が発生する。ここで私の体験談を述べておこう。
私は、最近、I市の保育所長の集まりで、彼女たちが個人的かつ自発的に催した心理学の学習会の講師を務めたことがある。これが女性政策室からクレームを付けられ、解散になった経緯がある。これは個人の自由を奪い、言論や思想の自由を奪う憲法に違反する重大な犯罪行為だ。ジェンダーフリーに基づく条例ではこの様な活動は否定されてしまうのだ。それでは、とても良い社会の実現は望めない。
行き過ぎたジェンダーフリー思想は危険思想である。このことは従来から指摘され続けてきたものである。山口県宇部市のような条例制定はきわめて重要なのではなかろうか? その意味では画期的かつ快挙である。当たり前のことが快挙になるのは何とも寂しいが、主体的な地方自治活動が望まれる現代において、わが沖縄県もそうでありたいものだ。
◎「父性」と「母性」について
◎「父性」の機能について
上記について日本心理学における試案を示します。宜しければ皆様の御意見をお寄せ頂ければと思います。
御意見は掲示板へお願い致します。掲示板へ頂いた御意見は、私の独断と偏見(?)に基づいて選択して、
このHP内に再掲示いたします。宜しくお願い致します。
母性(原理)と父性(原理) 日本文化の心理学による試案
(平成13年12月15日現在、初稿掲載)
1 はじめに
昨今の痛ましくも悲惨な事件の報道が連日行われる中で、「家庭のあり方」が深刻な問題になってきている。それを反映してか、林道義東京女子大学教授の「父性の復権、中公新書」がベストセラーとなった。これを契機として、論客達が林氏の論に批判を加え、林氏もまたホーム・ページを開設し、これらの批判に応えている{註1、註2}。これらを読み進んで行くに連れて、ここには、現代社会の問題が集約されている感を覚えるようになってきた。
著者は文化精神医学者・荻野恒一の晩年最後の弟子(共同研究者)として、文化と家族の関わりの中での人間について、およそ四半世紀にわたって研究・観察を続けてきた{註3}。この中にあって、西洋諸心理学を日本文化の中で見直し、拡張・統合の試みを行い、日本文化の考え方を心理療法化することを試みてきている{註4,註5}。この観点からすれば、一連の論客達が主張する母性(原理)および父性(原理)は、隔靴掻痒の感を拭えないところがあるので、この機会に、ここで私見を展開してみたい。
そのきっかけとなったのは、林氏が主張するところの、子供を理解し受け入れることを母性原理、子供を鍛え、ルールを教え、悪いことは悪いということを父性原理、それらを体現しているのが、それぞれ、母であり父である、ということであった。直感的には、それはそれでよいのだが、林氏の本や主張を読み進んでいくと、「では、母子家庭の子はどうなるのか?」あるいは「父子家庭の子はどうなるのか?」さらには「両親が出稼ぎに出かけて、祖母一人に育てられる子はどうなるのか?」といった疑問にどうしてもぶつかってしまった。というのは、離婚率が全国一、失業率が全国一の沖縄県で臨床を行う著者にすれば、父の役割と父性が強調される度に、「う〜む」と唸ってしまわざるを得ないのだ。なぜなら、著者は、離婚ないしは単身赴任、季節労働といったことで、母子だけの家庭の諸問題をも扱う機会が多く、問題解決に際しては、父親が物理的に存在しなくても、十分に成果を上げているという実績があるからだ。したがって、これは林氏の主張に限らないのだが、他の論客達による現代の一連の母性・父性と子育ての問題は、どこかで何かがおかしい、と感じざるを得ないのだ。
2 母性と父性の原点
「母性」及び「父性」を辞書で調べると次のようになる(新辞林、大辞林)。母性とは、
女性がもっているとされている、母親としての本能や性質であり、子を生み育てる機能である。また、父性とは、父親としての本能や性質であるとされる。これらの辞書からは具体的なことは知ることはできないけれども、いずれにせよ、母性も父性も家族機能としての子育てに関わる問題であることは衆目の一致を見ることであると考えられる。したがって「子育ての本質」を基盤として、これらを論じることが基本であると考えられる。
子育ての本質とは、著者が提唱している日本心理学{註6}においては「子の心に生じる不快感を除去し快感に変える一連の作業」と定義されるものである。子供の養育は、少なくとも乳幼児期の間は、機能する乳房の所有者である母親の独占的業務であるのが一般的である。しかし、もちろん絶対的なものではない。妻に先立たれた夫が子供を哺乳壜で養育する場合だってあるし、仕事に忙しい母親の代わりに哺乳壜で養育する祖母だっている。
いずれにせよ、子育ての本質が母親(養親でも良い、一般化可能であるが、ここでは「母親」とする)によって実践されると、生後半年が経過する頃には、不快感・母親・快感、の三要素間に条件反射が成立するようになる。これを「条件母性反射」と呼んでいる。それが成立した証として、子には「人見知り」が発現する。これはルネ・スピッツが八ヶ月不安と呼んだものだ{註7}。子に人見知りが発現したということは、子が心理的な「親」を認識したということである。これ以降は、子は、もっぱら、母親に甘えていくこととなる。母に甘えると快感を覚えるのである。この様に、子の要求に応えて快感を与えるのが、いわゆる「母性」であろう。この意味では、「母性」とは「甘えさせること」すなわち「子の求めに応じること」であると言えよう。
厳密に言うなら、本シリーズでは、「自分でできることではあるのに、あえて他人の手を煩わそうとすること」を「甘え」と考えてきたわけである。その意味では、生まれたての赤ちゃんがお腹をすかして泣くこと、寝たきりになった人が「尿瓶を持ってきてくれ!」と頼むことなどは「甘え」とは言えない。しかし、この場合は「子の求めに応じること」を「甘えさえること」と考えるのは一般感覚と異ならないと考えられるので、分かりやすくすることをねらってこのように表現しておく。
さて、母親の世話になりながら子は成長して行くが、やがては、父親や同胞、そして場合によっては祖父母も存在することに気付くようになる。母親以外に対しては、条件母性反射が成立していないのが普通であるので、結局は、何かある度に母親の元で甘える。そうこうしているうちに言葉が話せるようになると、周りのものとは、言葉を介して「甘える」様になっていく。無条件に情緒的に受け入れられていたのが、言語的なコミュニケーションでも受け入れられるように関係が作られていくようになる。
穿った見方かも知れないが、私は以上の点に「母性」と「父性」の原点があるように思う。母性とは情緒的関係、父性とは言語的関係で代表されるものではなかろうか。言い換えれば、母性はエロスであり、父性はロゴスである。
3 東西の父性
元京都大学教授の河合隼雄氏は、「父性」を「切断の原理」などと称している{註8}。これに対し、林氏は、それは西洋的な父性であると反論している。林氏によれば、父性とは、価値の中心、まとめ上げる力、秩序感覚を与える、文化の継承、社会規範の担い手、と具体的にあげている。そんな事情であるので、まずは、洋の東西の父性の原点を探ってみる必要があると思われる。これに対して、母性については、洋の東西を問わずに、同じものと認識されているようである。
いわゆる西洋的な生活様式では、子は、昼間は母に甘えることができても、夜になると別室に寝かされるのが普通であるため、甘えたくても甘えられなくなってしまう。しかし、これは大人でもそうであろうが、夜にこそ、子は母に甘えたい心理は出るものだ。そのような子の願いもむなしく、つまり、母子関係を父が切断してしまうのだ。ここで、子が母に甘えるのを疎外する因子としての父親がいるので、子は父親に嫉妬することになる。その様子がエディプス・コンプレックスとして表されるものである。このような関係において究極的には、父を殺して母を得る、という心意が発生する。このため、いわゆる西洋的な父には「甘えにくい」のである。また体力差、能力差からいって、恐怖、畏怖の対象と子には映るのが一般的であろう。
一方、いわゆる日本的な生活様式では、親子が川の字になって寝る、ということがある。この場合、父に対する嫉妬は、西洋人ほどには起こらない。日本的な生活様式において、子が母に甘えることができなくなるときは、母が女に変身するときである。これはアジャセ・コンプレックスを形成する要因である。したがって、日本的な生活様式では、子は父に対しては西洋人的な意味での「甘えにくい」というのとは異なっているわけだ。嫉妬の感情は、西洋ほどには、特に強くは発生しないからだ。
以上のように、子に与える影響としての父の役割や「父性」には、洋の東西において、その心理的内容に違いがあると思われる。父性・母性に関する一連の論客達は、この点を誰も論じていないように思われる。以下、この点について少し詳しく考えてみる。条件母性反射が成立した相手に対しては、子は、安心感が得られるため、必要に応じて無条件に甘えていく。この「甘え」によって、子は成長していくと考えられる。子は母に甘えながら、それが充足されれば、母が好きなものにも甘えていくようになる。この辺りは移行対象論が扱うことであろう。しかし、その様な現象が発生するには、精神的な成長過程を検討する必要がある。
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註1 道義リンクス:http://www.ne.jp/asahi/hyo/tadaon/michilyn/
註2 林道義HP:http://www09.u-page.so-net.ne.jp/ka2/rindou/
註3 又吉正治・荻野恒一:沖縄のシャーマニズム(祖先崇拝)に見る家族療法の機能、医療人類学小特集、理想、627号。
註4 又吉正治:祖先崇拝と心理療法、第2回東洋思想と心理療法研究会、駒澤大学、東京、2000年3月。
註5 又吉正治:水子の祟りの精神分析−日本文化の心理療法化、第3回東洋思想と心理療法研究会、駒澤大学、東京、2001年3月。
註6 日本心理学とは日本文化に基づいて西洋諸心理学を拡張、統合、体系化した心理学のことをいう。
参照
日本心理学ML: http://www.egroups.co.jp/group/Japanese-Psychology/
著者HP:../../www.geocities.co.jp/SweetHome-Green/6462/
註7 ルネ・スピッツ(古賀訳):
註8 河合隼雄:
4 精神的成長
人間の精神的成長をダイナミックに扱う理論は、アブラハム・マズローが提唱する基本的欲求の階層論である。まずは、この理論を、条件母性反射が成立している母子間に適用することから始めてみよう。
子は、始めのうちは、生理的欲求(食、睡眠、排泄、…)が生じると、母に甘える。これが充足されると、子供は、やがては「自然」に、自分でするようになる。と同時に、「自然」に次位の欲求である安全欲求に基づく「甘え」が発現するようになる。安全欲求の充足をみると、さらに次位の基本的欲求である所属・愛情欲求が「自然」に現れるようになる。この頃が、条件母性反射の成立していない他者との関係を、子供が求めて発展していくものと考えられる。移行対象論的には、エロスの「甘え」の移行とロゴスの「甘え」の移行のレベルが考えられるが、ここでは立ち入らないでおこう。
公園などで子供の行動を観察していると、始めて公園に来たときは、子は母親の元を離れないが、しばらくすると、ちょっと離れて後ろを振り返り、安心したかのようにまた離れて…、といったことを繰り返す。子が安心感を得る度に、次第に母から離れることができるようになることがよく分かる。また、条件母性反射が成立した相手(母親)との間で所属・愛情欲求がある程度充足されると、母親の好きなものも自分の仲間として取り込むような行動を見せる。この行動は成人にもみられる。例えば、ある学生が大学で信頼する先生の指導を受けるようになり、その先生との信頼関係ができあがると、その先生の仲間に対しても同じような気持ちを向け、その人達とも所属・愛情関係を持つようになってくるものである。
この段階でのコミュニケーションは、生理的欲求や安全欲求の段階とは異なって、言語によるコミュニケーションが主体である。これを家庭内の人間関係に置き換えれば、子供が母親以外の人、例えば父親との関係を求める時期であるが、西洋と日本では、大きな心意の差が存在する。西洋的な父には、嫉妬の感情が働いているので甘えにくく、日本的な父には、それが無いので、西洋的な父よりは甘えやすいのである。この辺りの子の心情を捉えるなら、河合氏が「切断の原理」としたものは西洋的な父のことであろうし、林氏が「価値の中心」「まとめ上げる力」「秩序感覚を与える」「文化の継承」「社会規範の担い手」としたのは、日本的な父である印象を受ける。
河合氏のいう西洋的な「父」に対しては甘えにくい。したがって、「信頼」や「忠誠」の気持ちもわかない。このような状況における、とりあえずの「父」の機能は母子関係の「切断」でよいと思われる。ところが、林氏のいう「父」に対しては、「信頼」と「忠誠」の念がわいていない限り、それは、子供からすれば権威主義に凝り固まった頑固オヤジのそしりを免れないであろう。この意味では、西洋的な父と大同小異であろう。林氏のいう「父」が現実的であるためには、父が子の信頼と忠誠を向けられる存在である必要がある。その意味においては、林氏は、父親が子供と遊んであげることが大切であると主張している。しかし、この辺も「甘え」の心理をうまくつかまねば、子供からすれば、「お父さんと遊んであげている」ということになってしまう。いわゆる「過保護」である。
ところで、著者が住む沖縄県には、極東最大といわれる米軍基地が存在する。そのため、いわゆる国際的である。アメリカ人の家庭、日本人の家庭、国際結婚の家庭も身近にみることができ、肌でもってその違いを感じることができる。それから言えることは、アメリカ人の子も日本的生活様式で成長すると日本的になり、日本人の子も西洋的生活様式で成長するとアメリカ的になる、ということだ。したがって、西洋的、日本的と分けることなく、理論としては、統一的に「父」の問題を扱うことが望ましい。著者が提唱する日本心理学は、西洋諸心理学を日本文化に基づいて拡張、統合、体系化をもくろむものであるから、当然のこととして、「父」「父性」の問題も統一的に扱うことが必要である。
さて、この問題を扱う例題として、父性の欠如が現代の社会問題を引き起こしているとの認識は、とりあえずは、衆目の一致するところと考えられる。すると、父性欠如の人間には、自分勝手でぐうたらなわがままな性向が現れるようである。そこで、「わがまま」な人間を育てないように、父性の復権を具体的に主張する林氏の論を検討してみることとしよう。
5 「わがまま犬」の心理{註1}
ベストセラーとなった林氏の著書「父性の復権(中公新書)」において、父性欠如の例として、「わがまま犬」を例に挙げている。これは、犬の意思を尊重して、犬の要求を何でも聞いてやっていると、犬は自分が主人だと思って自由意志を持ち、勝手に要求をして、やたらと吠えるようになる、というものだ。飼い主が「父」として原則・理念と生活規則を教え、一定の我慢をすることを教えないと、子供でも犬でも同じようにわがままに育ってしまうのである、と林氏は主張する。
著者は、実は、この記述には大いに不満である。まあ、ここでの「犬」は比喩であるから、「犬」というところを「子供」に置き換えて読んでみよう。子供の言いなりになっている親のことである。この手の問題には比較的多く遭遇してきたので、その経験から言えることは、これは「父性」の問題ではなくて、「甘やかし」の問題である、ということだ。基本的欲求なるものは、それがなければ病気になる、それがあれば病気を防ぐ、それを取り戻せば病気から回復する、という生命維持と深く関わったものであるので、これは充足させてしかるべきであって、理念と生活規則を教え、一定の我慢をすることを教えるということでは、自分は迷惑を被ることは避けられるけれども、相手を、極端に言えば、死に追いやってしまうことなのである。したがって、「わがまま犬」が要求しているのは、基本的欲求に基づいているものなのか、をよく認識しなければならない。
林氏は「甘やかし」に対処する術として、「父性」でもって統治しようとしたものと考えられる。しかし、「甘え」に対処する方法には、要求を断念させるか(相手を従わせるほどに権威ある父性による)、あるいは飲むか(母性による)という二つの方法が基本的には存在するので、要注意である。林氏は、この一方の考え方のみに立脚しているので、読者の大いなる賛成と顰蹙なる反対をかっているものと考えられる。ここは円満に解決されねばならない。それでは心理「学」の成果としては不十分であるからだ。
「わがまま」とは、自分勝手に気ままに振る舞うことである。相手の事情などは考えずに、自分の欲求充足のみを目的とする行動である。人間の「欲求」の充足に関しては、マズローの欲求階層論を用いて理論的に考えることができる。マズローの理論に代理欲求、退行、及び越行の概念を追加して拡張すると(Maslow-Matayoshiの理論)、わがままな行動を呈する子の心理構造を理解し対処することができるようになる。わがままな行動を、無理をしてでも受容することを、通常では「甘やかし」と呼んでいる。
「甘やかし」とは、次のように考えられる心理機制である。人間の精神的成長をマズローの図式で考える{註2}。子は条件母性反射が成立した相手(一般的には母親)から生理的欲求、安全欲求、…、を順次充足させてもらいながら成長する。ところが、このとき、例えば、夫婦不和、共稼ぎ、といったことで安全欲求を充足させることができないとする。これは現実によく見られることだ。
例えば、親の都合で、安全欲求がどうしても充足されない子は、他者の行動を模倣して、親との関係を持とうとすることが観察される。その結果、安全欲求が充足されないことを補償する行動として、模倣によって、生理的欲求に基づく行動が現れたり(退行)、あるいは、所属・愛情欲求や承認欲求、自己実現欲求に基づく甘えの行動が現れたりする(越行と定義する)。これらは基本的欲求の充足が妨げられたために生じる代理欲求である。子供によく現れるのが所属・愛情欲求に基づく行動で、「あれ買って、これ買って!」というおねだりである。
代理欲求を充足させても、それが発生する原因となっている基本的欲求(この例では安全欲求)が充足されるまでは、それは精神的成長につながらず、いつまでもその欲求が出続けるという特徴がある。肉体年齢の増加とともに、次第にその欲求は肥大化し、暴力でもって親からむしり取る、といったことにまで発展したりする。いわゆる家庭内暴力である。これは、一般的な感覚でいう「甘やかし」である。すなわち、「甘やかし」とは「代理欲求のみを充足させること」である。
この考え方で、勤労意欲が無く、金銭浪費の激しい青年達の心理療法が可能である{註3}。これは治療者が直接クライエントと関わるのではなく、その母親を介して可能となる方法である。本来充足されるべきであった基本的欲求(この場合は安全欲求)を充足させながら、代理欲求を充足させていくと、その結果、次位の承認欲求が自然に発生するのである。この様な事例において、条件母性反射が成立していない人(父性)が子と接しても、それは旨く行かない。禁止をしても、それは一時的なものであって、父に隠れて母からせびりとったり、友人やサラ金から借りたり、といったことが起こり、対処はなかなか困難だ。まずは母性による問題解決が効果的であると思われる。
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註1 林道義:父性の復権、中公新書。
註2 上田吉一:人間の完成−マスロー心理学研究、誠信書房、東京。
註3 又吉正治:勤労意欲がなく、金銭浪費癖の激しい青年の心理治療、九州臨床心理学会沖縄大会、1999年。
6.林のいう父性のひとつ「文化の継承者」について
父性の復権において、林は父性の機能として「文化の継承」をあげている。アニミズムという日本文化の研究を行ってきた筆者の立場からすれば、これは決して父性のみの役割ではない。例えば仮に、「男」だけが参加するお祭りを考えてみても、それは日常の世界で鬱積した感情を社会的・合法的に発散させてしまおう、といった性格を持つことがある。その場合には、腕白な小僧が母に拗ねて甘えるように、男達のエネルギーを発散させる母性への回帰のようにも感じられる。果たして、父性が文化の継承者、と言えるのであろうか?
文化には、表の文化と裏の文化がある。いわゆるハレとケだ。父性は「ハレ」に関する文化の伝承者というのならば頷ける。「ケ」の部分は母性文化なのだ。日本文化としてのアニミズム、祖先崇拝はその代表的なものである。表の文化「ハレ」は、例えば、端午の節句や雛祭り、といった、誰がやってもおかしくなく、参加することによって家族や地域の一体感を助長する、という機能を持っている。地域行事は、若者が集い、長老の意見を参考にしながら、年に一度のお祭りをみんなで盛り上げる、といった雰囲気を持っている。これに対して裏の文化「ケ」は、家族に不幸や災難、病気が起こったときに執り行われるものである。それを堂々と行うことは、とても恥ずかしくてできないのが普通である。理解し合える者同士が助け合う、という形で行われる。開催される日も定かでなく、オン・デマンド方式だ。これらは、「非日常」と「日常」の世界の違いでもあろう。
表の文化がちゃんと形成・実行されるためには、裏の文化がそれをきちんと支えていなければならない。例えば、何らかの行事や会合をもつにしても、その活動を支える「縁の下の力持ち」が必要である。父性を父や男達、母性を母や女達の行動と仮に表すならば、ある種の祭事を行うとき、男達の行動を支えている女達の協力なくしては、何もできないことは日常的に理解されよう。正月を人に迎えることにしたって、一家の主がでんと座って客人を迎えることができる裏には、主婦の働きがあってこそなのである。言うなれば、父性的活動は、母性に支えられていなければ何もできない、ということである。
父性(父)が表の文化を継承して行くにしても、それは、例えば家庭内が混乱していては始まらない。親子関係がままならず、子が親に反感を覚えてしまえば、親が従事する「文化」にさえ反感を覚える。ちょうど、坊主憎けりゃ袈裟まで憎し、と同じことだ。そうなると文化の継承はおぼつかない。文化の継承には、それなりの基盤が必要である。親子関係が悪くて日本を飛び出していく人も結構見かけたものだ。このような心意を持って飛び出した人達は、現地の文化に同化しようとする傾向が見られる。そうでない人達、例えば生活上の問題での移民、といった人達は、自分たちの文化を保持しようとする傾向が見られる。
以上のことは、林氏の主張にケチを付けることが目的ではない。真意は反論の多様さの原因を探ろうとするものである。何故にこのように多くの反論を呼ぶのであろうか? その原因は、例えば、上記に示したように、「表」と「裏」は、文字通り「表裏一体」となって機能するものなのであるのに、あたかも、「表」だけが存在するかの印象を与えるためではないだろうかと推察される。コインにも「表」と「裏」があるが、「表」だけでコインとして存在するわけではないのである。このようなところに違和感を生じせしめているものと考えられる。ある種の主張があるとき、それは理論的必然性を持っていない限り、その主張を「表」とすれば、必ず「裏」の見方が存在するのである。このようなことに注意しながら、母性と父性をエロスとロゴスの観点から考えてみよう。
7.エロスの「甘え」とロゴスの「甘え」
ここでまた発達論の立場に戻って考えてみよう。条件母性反射が成立した相手(母)に対して、子は何かと甘えていく。生理的欲求に基づく「甘え」の行動は、無条件に母は甘えさせてあげるものである。そこには理屈を伴う「言葉」はいらず、表情なりなんなりでも良い。十分に機能する。それが充足されると、自然に安全欲求に基づく「甘え」の行動が発現する。これが充足されるようになると、一人で留守番ができるようになったり、一人で遠くまで行けるようになったりし、次位の所属・愛情欲求に基づく「甘え」の「行動」が自然に発現するようになる。この欲求が現れるのは、個人差はあるが、3〜5歳頃である。この頃には、子の言語機能も発達しているので、所属・愛情欲求は、スキンシップなどエロス(母性)的なものと同時に、言語コミュニケーションすなわちロゴス(父性)的な「甘え」の形をとって現れるようになる。
言語によるコミュニケーションの特徴は、条件母性反射が成立していない他者(情緒的なつながりの無い他者)との関係を築くのに重要な役割を果たす。お互いの意志や気持ちを「言語」を媒介にして相互に了解しあえると、相互に一体感が生まれたりする。その一体感を確実にするため、あるいは確認するため、ハグしあったり、握手し合ったり、スキンシップへ移行することがよく観察される。男女であれば肉体関係へ発展したりもする。ロゴス的に互いに甘えることができると、それは互いにエロス的な甘えに移行する傾向がある、と考えて良いであろう。
人間の精神的発達は、始めは家庭内でエロスの甘えを享受して精神的に成長し、しばらくしてからロゴスの甘えを求めるようになる。「甘え」が母から他者へ移行するのである。いや、厳密には「移行」ではなく「拡散」あるいは「拡張」であろう。母への甘えが不十分であれば、例えば退行して、子供は不登校に陥ったりもするのである。
ある他者との間でロゴスの甘えが充足されるようになると、その他者との間でエロスの甘えを求めたくなるものだ。これはメールで知り合って意気投合して友人となると、なにやらお互いに会って見たくなったりすることと同じであろう。ネット上の不倫は、このようにして起こるものとも考えられる(もちろん、他にも理由はあるが、それについては、ここでは触れない)。このようにして、子は社会化していくものと考えられる。社会において、他者とロゴスの甘えを享受しあえないとなると、これもまた例えば、子供の不登校の原因になったりするものだ。
以上のことから言えることは、次のようである。人間は、エロスの甘えを享受することで精神的発達を遂げ、ロゴス機能の発現と共に、他者との関係を構築していく能力を獲得するようになる。始めはロゴスで関係を他者と作るが、それは次第にエロスの甘えに移行し、エロス的人間関係を社会に求めるようになる、ということだ。
8.父性(父)の役割は母子関係の「切断」か?
さて、河合氏は、父性(父)の役割を母子関係の「切断」と表現する。そのことは、例えば、河合氏の著書『子どもと学校』(岩波新書1992)で、二つの原理は次のように図表化されている。
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父性原理 |
母性原理 |
| 機能 |
切る |
包む |
| 目標 |
個人の確立
個人の成長 |
場への所属(おまかせ)
場の平衡状態の維持 |
| 人間観 |
個人差(能力差)の肯定 |
絶対的平等感 |
| 序列 |
機能的序列 |
一様序列性 |
| 人間関係 |
契約関係 |
一体感(共生感) |
| コミュニケーション |
言語的 |
非言語的 |
| 変化 |
進歩による変化 |
再生による変化 |
| 責任 |
個人の責任 |
場の責任 |
| 長 |
指導者 |
調整役 |
| 時間 |
直線的 |
円環的 |
果たしてそれは正しいであろうか? 家庭における父の役割は、これまでに述べてきたことからすれば、母子関係の「切断」ではない。母子関係で培ってきたものを社会へ「接続」することである。このように本来ならば、「切断」ではなく、子のロゴス機能の発達に応じて、スムースに移行すべきものではないだろうか? つまり、幼少のうちは母親のエロスに甘えながら、言語機能が発達するようになると、ロゴスにおいても母に甘えるようになり、その機能が、条件母性反射の成立していない他者に対して交流を持つ基礎を与えるのではなかろうか? 父親を代表とする他者に対しては、まずはロゴスで甘えながら、それが受容されるようになると、逆にエロスの甘え(ハグや握手)に移行するのではないだろうか?
大人達の行動は、明らかに、まずはロゴスの甘えをお互いに出し合い、それがお互いに受容されることが確信できれば、エロスの甘えに移行する。また、子供達の行動を観察すると、エロスの甘えが充足されていない子は、それを補償するかのようにロゴス(言語)が発達している。このように、エロスにしろロゴスにしろ、それらに通底するものとして「甘え」が存在する、ということができよう。
9.ロゴスによる「甘え」と善・悪の判断
未知なもの同士が交流するときには、自己紹介に始まり、色々関心ある分野での話に至り、共通点を見いだし、共感し合ったり、といった具合に進んでいく。ある言葉を発すると、聞き手は、それを自分の過去の体験に参照する。良い感情が生じるようであれば、相手に共感し受容する。逆に悪い感情が生じるようであれば、相手を拒否することとなる。特に感情を生じさせるようなものでなければ、その関係は疎にも密にもならない。このようなことがあるため、似たような経験を互いが有しておれば、ロゴスの甘えからエロスの甘えに互いに移行が可能である。このような関係を無二の親友などと言ったりする。
父親と子の関係は、基本的には、このような形で形成されるものと考えられる。ところがロゴスの関係においては、ある事象を「言葉」を使って伝達しあわねばならない。ある言葉を受け取ると、それを過去の経験に参照し、好い感情がでてくれば受容することができ、悪い感情がでてくれば、程度問題ではあるが、受容できない。ある「行動」にしたってそうだ。
例えば、幼児期から母親に余り甘えることができずに成長した男は、父親となってから、自分の息子が母親にべたべたと甘える姿を見ること、あるいは母親が息子をかわいがる姿を見ることに苦痛を感じる場合がある。嫉妬の感情が発生するのである。自分の出生と同時に母親に死なれ、物心つく頃には父親にも見捨てられたジャン・ジャック・ルソーは、自分の子が産まれる度に孤児院の前に捨てに行ったほどである。エロスの愛に不足のある男は(男だけに限らないが)、いかにロゴスを発達させようとも、それは機能し得ないと行っていよい。このような特性が人間にはあるため、秩序や規範を維持しようにも、それが父性(父)の役割といったところで、なかなか難しいのである。
秩序や規範が問題になると、そこには、それらを守るか守らない(守れない)かによって、「善」「悪」の概念がでてくる。父性(父親)の役割について、河合氏と林氏に見られ、また一般に見られる共通のことは、それは「善・悪の判断」であると考えられる。しかし、善・悪とは何なのか、といったこともよく考えてみなければならない。まずは辞書を見てみよう。
ぜん 【善】
(1)よいこと。道理にかなったこと。また、そのようなおこない。⇔悪
(2)〔哲・倫〕
一定の使用・行為・道徳・秩序などにおいて、人や物の性質(価値)がよいこと、望ましくすぐれていること。また、それらをよくあらしめる根拠。真・美とならぶ基本的価値の一。倫理学の対象とされ、人間のあらゆる営みが目指すところ、あるいは営みを律する義務の源泉とされる。
あく 【悪】
(1)わるいこと。否定すべき物事。道徳・法律などに背く行動や考え。⇔善
「近代社会が内包する―」「―の道に走る」「―の限りを尽くす」
(2)演劇で、敵役。悪役。
(3)〔近世語〕悪口。悪態。「よく―をいひなんす。ちつとだまんなんし/洒落本・妓娼精子」
(接頭)名詞に付いて、畏敬の念を抱かせるほど荒々しく強い意を表す。「―七兵衛」「―源太」
とある。さらに、
○悪に強きは善(ぜん)にも強し(大きな悪事をできる者は、改心すれば大きな善事もできるものだ)。
○善に強い者は悪にも強い(善に専心する者がいったん悪の道に陥った場合は、悪にも専心する)。
○善の裏は悪(よいことがあれば、それに伴って必ず悪いこともあるということ)。
ということまで記されている(大辞林第二版)。以上のことから言えることは、善と悪は表裏一体のようである、ということだ。このあたりの「心理」を考えてみると次のようになる。
ある人にとって、欲求不満の状態を解消してくれる(甘えさせてくれる)人の行為は、その人にとっては「善」であると考えて良い。逆に、その人の欲求充足を阻害する人(甘えを拒否する)人は、その人にとっては「悪」であると考えて良いであろう。多くの人々の欲求を充足させるような行為をなすとき、それは社会的な「善」であり、逆に、多くの人々の欲求充足を阻害する行為をなすとき、それは社会的な「悪」である。
以上のように「善・悪」というものを考えるとき、これは父性(父親)が教える役割を持つものであると言えようか? そうではあるまい。子は(人間は)、母親に甘える段階(エロスの甘えの段階)から、自分にとっての善悪判断は学習しているものである。例えばクラインが言い表すように、この生理的欲求を的確に充足させてくれる母親・乳房は「良い」ものであり、それができなければ「悪い」母親・乳房なのである。これは種々の欲求充足の場面において体験されていくことである。ここで「良い」ものに関しては安心感や満足感が伴い、逆に、「悪い」ものに関しては嫌悪感や拒否感が伴うことは容易に想像できる。
やがて、ロゴス機能が発現するようになると、「良い」あるいは「善」という言葉には安心感や満足感が伴うようになり、逆に、「悪い」あるいは「悪」という言葉には嫌悪感や拒否感といった感情が伴うようになる。だから、「良いことをしたね?」と言われればいい気持ちになり、「悪いことをしたな!」と言われればイヤな気持ちになるものなのである。
物事の善・悪の判断を子供に教えるとき、子供がこれまでにエロスの甘えの中で体験してきたような感情と一致しなければ、それは全く無意味であると言って良いであろう。この意味では、社会における善・悪の判断能力を養成するのは、基本的には母性であると言うことができる。父性は、それを言語で表現したにすぎないのではないだろうか? このエロスとロゴスの一致が見られなければ、理性と感情は分裂してしまうであろう。
ここで「わがまま犬」の例に戻ってみよう。これは、自分の欲求を抑えることができず、いつも気ままに振る舞うことだ。自分の欲求を抑える、すなわち「我慢する」ことを教えるのは、基本的には父性の役割であるとは考えられない。基本的欲求の充足の必要があるとき、それが「我慢」できるためには、すでにある程度の欲求は充足されている状態でないと我慢はできるものではない。父性的に「我慢せよ!」と行って通用するのは、その我慢の程度がそれほど酷くないときである。若しくは、我慢しない場合に被る精神的・肉体的被害との兼ね合いによる。ここに「父性」には権威や権力あるいは暴力といった、「力」を伴わねばならない場合が発生する。あるいは我慢することによって得られる報酬があるときである。この意味においても、「父性」には何らかの報酬を与える能力が伴わねば意味はない、ということになる。
例を挙げてみよう。著者が住む沖縄は、いわゆる夜型社会である。夏になると、子供達も夜遅くまで出歩くことがある。そんなとき、子供の非行化防止のため、夜間徘徊を取り締まるPTA活動がよく行われる。夜間徘徊をする子供見つけたら「お家に帰りなさい」と注意・指導するのである。これは父性機能である。ところが、お家でエロスの甘えが充足されるような環境にある子は、いわゆる聞き分けがとても良い。しかし、両親の不和、仕事でいない、・・・、といった状況で、エロスの甘えが充足されない環境にある子供達は、注意・指導があっても、また別の場所に行ってしまうだけである。あるいは巡回指導員と鬼ごっこをして遊ぶ始末である。
また、昨今では、子供がふざけていたりしても、注意する大人を見かけなくなった。注意して効果があるかどうか、ということが大切である。注意して効果があるのは、エロスの甘えがある程度は充足されている子供達である。極端に不足している子供達からは、場合によっては、「何をこの野郎!」と思わぬ反撃を食らってしまう。あるいは、エロスの甘えに不足のある子供達に対しては、ロゴスでの甘えを充足させながら、エロスでの甘えの関係に移行できるような話法が大切である。また、成立した関係を維持できるような時間的ゆとりも必要になってくる。
以上のようなことからすれば、父性が有効に機能できるような社会になるように、母性機能を保護・充実させていくことが国策として必要であることになる。さもなくば、社会の治安の悪化を招くことおびただしいであろう。余談であるが、次世代の子供達のエロスの甘えが不足すればするほど、社会は治安悪化するかも知れない(退行)が、ノーベル賞を受賞するような人も増えてくるかも知れない(越行)。その好い例はアメリカである。
10.父と母の役割
これまでに述べてきたような考え方に基づき、父と母の役割を見てみよう。例として斎藤学氏の主張を取り上げる。斎藤氏は「区切る父と包む母」と題して、次のように述べている{註1}。
−以下引用始め−
「叱れない父」の困るところは、これでは父親に付託されてきた仕事がこなせないことである。家族とは何よりもまず子育ての場所だから、父の仕事の欠損は子どもの成長に悪影響を与える。それが顕著になったというところで「家父長的父」の出番が来たような議論が湧き出しているのである。
では、父親の仕事とは何か。その本質は「区切ること」である。これと対になる母性の本質は「包むこと」と言えるであろう。父はまず「このものたちに私は責任を負う」という家族宣言をすることによって、自分の家族を他の家族から区分する。つまり「内と外とを分かつ」。このことを指して「社会的父性」の宣言という。
第二に父は、正と邪を区切る。掟をしき、ルール(規範)を守ることを家族メンバーに指示するのは父の仕事である。「父性原理」という言葉は、この機能を指していう。父は世の掟の体現者としてこの仕事を行うから、家族という閉鎖空間に世の中の風を送り込むという役割を果たすことにもなる。
父の仕事の三番目は、母子の癒着を断つこと、親たちと子どもたちの間を明確に区切ることである。父を名乗る男は、妻と呼ばれる女を、何よりも、誰よりも大切にするという形で、この仕事を果たし、子どもは父のこの仕事によって、母親という子宮に回帰する誘惑を断念することが出来る。この仕事のもう一つの側面は、母という絶対者の価値を相対化するという意味を持つ。子どもに耽溺する母が、その価値観を子どもに押し付けようとするとき、別の価値観を提示することによって子どもを母の侵入から守るのは父の仕事である。
−以上引用終わり−
斎藤氏の以上の主張も本質的に他と変わるところはないと思われるので、これに基づいて検討してみよう。社会的父性という点は、自分の家族責任を持つ、ということであるから、それはそれで良いであろう。斎藤氏がいう「父の仕事」の具体例である、第二点から問題となる。「正と邪を区切る」ということは、これまでに述べた「善・悪の判断」と同じである。
さて、掟やルールを守ることを教えるのは父の仕事であろうか? 掟やルールというものは、母にエロスの甘えを求めているときから出現するもので、「お兄ちゃんだから、ちょっと待ってね?」とか「お母さんは今は疲れているから、ちょっと待ってね?」とか、あるいは、必要以上に駄々をこねて叱られたり叩かれたり、色々なことが行われるのである。このエロスの甘えを母が充足させるとき、母も完璧な母性(受容力)を有する人間ではないので、充足不能な事態が発生する。そのようなときに、母親はルールや掟を教えるはずである。ルールを子が守らねば、怖い母親に変身して、子を従わせようとするであろう。
このようにして培っていったエロスの甘えを充足させるためのルールや掟は、やがては言語機能の発達と共に、また、所属・愛情欲求に基づく「甘え」の行動の発現と共に、母から他者へ移行するわけである。そのときにロゴスによる「甘え」の充足が重要な働きをするようになる。前稿で述べたように、ここで理性(ロゴス機能によって習得したもの)と感情(エロス機能によって習得したもの)が一致しなければ、子は混乱してしまうこととなる。
第三の「母親との癒着を断つ」ということも、再度、問題である。これが真理であるのならば、母子家庭や施設で育った子は、極端に言えば、夢を持てないこととなってしまう。なぜ、このようになってしまっているのか? ここに、西洋心理学の大きな弊害があるように思えてならない。
西洋諸国で生まれた心理学は、当然のことながら、西洋の生活様式を反映している。夜になると子は母を父に取られる、あるいは、母は子を捨てて父をとる。エディプス・コンプレックスが発生する。ここで、子は母に甘えられない心意を持ちながら成長する。これは成人後も当然あるわけで、男の子は結婚して、これを妻に投影することとなる。妻が母として子を可愛がるとき、これに嫉妬を感じてもおかしくない状況になる。このことは、次のような事例から知れる。
沖縄県は、特に女性は、長寿世界一で有名であり、諸外国から研究者が訪れる。西洋諸国からの研究者(複数)が沖縄に住み、沖縄女性を好きになり、結婚したい、ということになった。私は、子育ての文化の違いを説明した。特に、夜、家族が寝るときの習慣を。すると、「う〜ん」とうなって考え込んでしまった。夜寝るときに夫婦の間に赤ちゃんがいるのは信じられない、というのである。その結果、これが原因で、結婚はご破算になってしまったことがある。
同様に、沖縄県には極東最大の米軍基地がある。したがって、沖縄女性と結婚に至るアメリカ人も結構いる。メリーランド大学アジア校(嘉手納基地内)で講義をするとき、このような生活習慣の違いを述べることがあるが、これを知ったアメリカ人学生はかなり躊躇する。このようなことを知らずに結婚した人は、沖縄人女性がアメリカ人男性に生活習慣を合わせることで、問題は発生していないようだ。しかし、このような文化の違いを知らずに結婚した沖縄女性は、子供ができたときから、やはり悩むというか、考え込んでしまうようである。また、子の躾が厳しく、そのために、非常に苦痛を覚える人もいる。
アメリカの子供の躾が日本に比べて厳しい、ということは一般的にいわれることである。なぜ、厳しくせねばならないか? それは、エロスの甘えが日本ほど十分に充足されないアメリカの生活では、子は母に甘えたくても甘えられない状況に、特に夜は置かれるわけで、日本人よりもアメリカ人は拗ねて、僻んで、恨んで、ふてくされて、やけくそ二なる心意が強いわけである。これは「わがまま」にもつながるもので、ここに母性は機能し得ない生活習慣であるので、いきおい、父性による統治が行われる必要があると考えられる。しかも、前稿に述べたように、アメリカ人が父性を発揮するには、「力」の行使を行うことを前提に置かないと、事態は収め難いであろうことは容易に想像できるであろう。
本稿での斎藤氏の引用文の冒頭で「叱れない父」がでてきた。氏によれば、父の仕事として「内と外を分かつ」というのがある。そして、それが「社会的父性」の宣言であると。子の「内と外を分かつ」という能力の養成は、果たしてほんとうに父の仕事なのであろうか?
「内と外を分かつ」ということを「身内と他人を区別する」という意味にとれば、それは「意識」的に行われるものではなく、無意識的に、あるいは情緒的に行われるものである(意識的に行うことに対して異議を唱えているわけではないことに注意して欲しい)。身内と他人の識別は、普通、条件母性反射の成立に由来する「人見知り」によるものである。これまでに述べてきたように、エロスの甘えを母に求め、充足されるにしたがって、言語機能の発達と共に、ロゴスの甘えを他者に求めるようになるのである。
ロゴスの甘えを他者に求めるとき、例えば、非行少年・少女はお互いに気持ちが分かり合えるからといって、つるむ傾向にあることはよく経験される。これは、エロスの甘えが不足し、それを補おうとしてロゴスの甘えを求めた結果、何某かの共感を呼び、以降は互いにエロスの甘えを充足し合う、という関係である。親からすれば、あんなこと付き合うのが悪い!などといって友人関係を切り離そうとしたりするが(父性の行使)、なかなかうまくいくものではない。
互いに甘えられる者同士が「内」であり「身内」である。また、互いに甘えられない者同士は「外」であり「他人」である。(註 互いにと甘えることは許されないけれども、関係を大切にしなければならない場合は「義理」である{註2})。内と外の区別は「甘えられるかどうか」であって、それは父の仕事あるいは父性の仕事となるべきものではなく、第一義的には母の仕事あるいは母性の仕事なのである。
以上のような心性ができあがっているところへ、それを言語で表現し互いに意志疎通が可能なように持っていくことができればよい。つまり、エロス的な「内と外の区別」がなされているところへ、ロゴスてきな区別がなされるようになり、それが「意識」されて健全に機能するようになる、というものではないだろうか。このように考えてみると、「父性」なるものの機能は、やはり「切断」や「区切り」ではなく、「接続」であると考えられるのである。
父性の機能が「接続」であると主張する著者の見解は、これまでに述べたような、河合、林、斎藤各氏に限らず、この点においては現代の心理学関係者は「切断」や「区切り」なる見解であると考えて良いように思われる。なぜ、このようになるのか? これは、西洋心理学・文化の影響であると同時に、日本的な概念である「甘やかし」の概念の欠如があるためだと考えられる。次に「甘やかし」について述べておこう。
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註1 斎藤学:http://www.iff.co.jp/mssg/mssg9.html
註2 土居健郎:「甘え」の構造、弘文堂、東京、1971年。
11.母子癒着の切断
母と子が癒着している例の家族療法の臨床経験からすれば、父の存在如何は二次的な問題であって、本質ではない。恐らくは、推量でしかないのだが、従来のカウンセリング方では本人達に対し、カウンセラーが「父」の立場をとってきたがために、あたかも「切断」したように見えただけかも知れない。日本心理学(マタヤン)の方法では、子供を正しく甘えさせる、という方法でこれを解決してる{註1}。この「癒着」は別名「共依存」と呼んでも良いと思われる現象であるが、これは次のようにして理解されるものである{註2}。
ある段階(例えば安全欲求)の欲求が充足されない子は、他者の行動を模倣して他の段階の「見かけ」の基本的欲求に基づいて甘えようとする。これを代理欲求と呼ぶ。ある段階の基本的欲求よりも下位の基本的欲求の形で現れるとき「退行」といい、上位の基本的欲求の形で現れるとき「越行」という。共稼ぎ家庭、あるいは母子家庭によく見られる現象である「鍵っ子」は、安全欲求が充足されていないことが多い。その結果、退行して愚れたり、越行して良い子になったりしていることがよく見られる。
代理欲求として、所属・愛情欲求の一表現である「あれ買って、これ買って」が始まり、無思慮に応じていると、次第に欲求が増大し、家庭内暴力に発展したり、あるいは勤労意欲がなく、金銭浪費癖のある青年になってしまったりする{註3}。これは「甘やかし」の典型である。「甘やかし」とは、その原因となっている基本的欲求を充足することなく代理欲求のみを充足することであり、これは、その基本的欲求が充足されるまでは延々と続く性質を持っている。
また、代理欲求として、承認欲求の表現である「他者に認められたい」がでると、良い大学へはいるために進んで勉強して良い子になる、という行動が現れ、成績が急激に伸びたりすることがある。このような状態は一までも続かず、やがて、まるで燃え尽きてしまったかのように意欲を消失してしまうことがある。これは、いわゆる「燃え尽き症候群」である。
上記の問題を解決するのは、そのメカニズムからして、第一義的には「父性」ではないし、父の仕事でも役割でもない。本質的に重要なのは、充足されていない基本的欲求を充足させることである。そのようにすれば、問題はたちどころに解決するのである。ここに父親が説得や叱責などで関与するようになると、一時的には収まることもあるが、後日にまた問題が吹き出してしまう。
代理欲求の原因となっている未充足の基本的欲求を充足させることを「正しく甘えさせる」と表現する{註1}。このときの「甘え」の感情は、条件母性反射が成立している相手(普通は母親)に向いているので、それが成立していない父親の出番ではないのである。母子関係を良好にすることが基本的には重要なのである。良好になった母子関係に対して、それを「切断」若しくは「区切る」という形で関わるのではなく、その安定した心理状態をロゴスによる甘えでもって社会へ「接続」していくのが「父性」であり、第一義的には「父」の役割である。
以上のような意味で、母子の癒着を切断するのは、本質的には父親の仕事・役割ではない。母親が正しく甘えさせることにより、所属・愛情欲求が自然に芽生え、それが社会へ向けられるようになって初めて、ロゴスでの「甘え」の関係に耐えられるようになるのである。エロスの「甘え」に飢えている段階では、情緒的に拗ねて、僻んで、恨んで、そしてややもすれば、ふてくされて、やけくそになっている状態であるので、父性による(言語による)統制は不可能なのである。ああいえばこういう、の問答形式に終始し、やがては抗争に発展するのがオチである。
父親の役割は、母親と子の癒着の「切断」や「区切り」などではなく、母親と子が築き上げた関係を社会へ「接続」していくものである。
12.母性と父性の協調
以上のような考察からすると、今までの母性や父性にまつわる言説には疑問が出てくる。母性は母親の有すべき特性、父性は父親の有すべき特性、といったことではなくなってくる。母性は、子の条件母性反射が成立している相手が持つことが子の養育には望ましいことをいう性質であり、スキンシップなど非言語コミュニケーションを持って「甘えさせる」ことをいうものである。また、父性は、他者との関係を持つための言語によるコミュニケーション能力をもって「甘えさせる」ことをいうものと考えられる。したがって、基本的には、性別の区別無く、人間が有している性質であると考えられる。このようなことをあえて「両性具有」などと表現する必要は全く感じない。
現実の親子関係においては、母子関係では条件母性反射が成立している場合がほとんどであり、母親は必然的にマズローの基本的欲求の下位の部分の充足に関与せざるを得ないものである。父親に対して条件母性反射が成立するような場合には(例えば子が出生した直後に母が死亡した場合など)、当然のことながら、父親でも基本的欲求の解の部分の充足に関与する。これが「母性」である。
母性による基本的欲求の充足が適切であれば、還元すれば、子がエロスの甘えを享受できれば、自然に上位の基本的欲求へ移行するので、また、それと共に言語能力が発達するので、言語能力によって関係を作り上げることの訓練がなされる必要があることになる。これが「父性」である。
ここに、我々は母性と父性の協調の必要性をみることができる。母子関係の「切断」や「区切り」ではなく、他者との関係への「接続」である。これらの考え方は、互いに正反対のニュアンスを持つように思える。前者は人間性悪説的であり、後者は人間性善説的である。というのは、切断や区切りを行うためには、「それでは(そのままでは)良くないんだよ!」といった気持ちがどうしてもつきまとうであろうし、接続するということであれば、「今までご苦労だったね!」というニュアンスになると思われるからだ。
再度述べておくが、ここで述べた意味での「母性」と「父性」は、条件母性反射が成立しているかどうかを別にすれば、父(男)であるから、あるいは母(女)であるから、といった属性のものではない、ということだ。非言語的関係か、あるいは言語的関係かの違いである。一般成人は、その能力の高低は別にして、皆が基本的には持っているものであると考えられる。したがって、労をいとわなければ、子育てにおいては、必ずしも両親が存在しなければならない、ということにはならない。これが間違いであるならば、単身赴任の夫の母子家庭、離婚で生じた母子・父子家庭、あるいは養護施設といったところにおいて育つ子は、全く夢がないことになる。
四半世紀にわたる家族療法の臨床経験から言えることは、たとえ母子家庭であっても、母親が子の問題行動の解決をすることができる、と断言できることである。ただ、母性と父性(母親の役割と父親の役割)が子に対して適切に発揮される必要がある。この点について、次に述べてみよう。
13.種々の子育ての様態
これまでに述べてきたように、母性をエロスの「甘え」の充足機能、父性をロゴスの「甘え」の充足機能と考えるならば、これは、特に母性は女性に特有なもの、父性は男性に特有なもの、とは考えなくても良いことを示す。実際、女性でもロゴス機能に優れた人、男性でもエロス機能に優れた人、というのは存在するものである。
ところで、既に述べたことであるが、母性や父性は、ここでは子育ての機能として考えてきた。すると、実際に子育てが行われる状態というのは、次のようになる。
(1)父親単身による子育て
(2)母親単身による子育て
(3)両親二人による子育て
(4)両親はいるものの、父親が子育てを担当する場合
(5)両親はいるものの、母親が子育てを担当する場合
(6)祖父母も関与する場合
多くの場合は(5)の環境の中で子供は成長する。しかし、時代の変化により、(1)〜(4)の場合も増加してきていると言えよう。特に、離婚するときにはほとんどの女性が、生活苦は予想されるものの、子供を引き取っているケースが多いことを考慮すると、(5)に続いて(2)も多いと考えられる。
以上の中で(4)もままあるようである。これが子育ての慣習となっている地域としては、米国の文化人類学者マーガレット・ミードが報告した、ニューギニアのチャンブリ族があまりにも有名である。本文で参考として取り上げた河合、林、斎藤各氏の母性・父性論は、(5)の場合が暗黙に想定されていると考えられ、他の場合への応用はおぼつかないように思える。
ところが、現代沖縄(古代大和)文化としてのアニミズム・シャーマニズムに基づく祖先崇拝の文化、これは裏の文化であるが、においては、以上のような場合において問題が発生した場合の解決法が存在しているのである。これは。沖縄県においては、現代においても根強く生きており、心理療法に頼る人よりも、遙かにユタ・祖先崇拝に頼る人の方が多い、と言える状態である。これから言えることは、例えば、父親が子育てを担当し、母親が生計維持を担当するような場合には、チヂ・バッペーと呼ばれる現象が発生することが知れている。
チヂ・バッペーとは「男女の入れ違い」とでも訳されるもので、ジェンダーが逆転することをいう。このことは性同一性障害や同性愛の問題にも発展するとされ、今後の我が国における子育て問題、父性、母性の問題を考えるときには、きわめて重要な示唆を与えるものである。しかし、このチヂ・バッペーの問題は、これでよいのか?「病める日本」の心理学(55)〜(65)において、すでに明らかにしてきたことでもある。
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註1 又吉正治:正しい「甘え」が心を癒やす、文芸社、東京、1998年。
註2 又吉正治・鈴木英郎:「甘え」と「甘やかし」−共依存からの脱却、沖縄県公衆衛生学会大会、1999年。
註3 又吉正治:勤労意欲がなく金銭浪費癖の激しい青年の心理治療、九州臨床心理学会沖縄大会、1998年。
現在のところ以上。
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