§1、なぜこのテーマを選んだか?

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渡邊二郎先生の「芸術の哲学」、第一回の放送授業での「具体的な芸術作品を思い浮かべよ」という指示に従って、私は芥川龍之介の作品を思い浮かべた。

芥川に注目したのは、『河童』(1927.3)を読んだことにある。

河童の国の宗教、Quemoochaは「近代教」とも、「生活教」とも呼ばれ、「飯を食ったり、酒を飲んだり、交合を行ったり」する「-ism」(『河童』14)である。
芥川はQuemoochの六人の「聖徒」の一人に
「ツァラトゥストラの詩人ニイチェ」を選んでいる。

 これを読んで、私は『ツァラトゥストラ』第三部「新旧の板について」13にある「よく飲み食いすること、おお、わたしの兄弟たちよ、まことに、これはなんら空しいわざではないのだ!」(吉沢伝三郎訳)の反響であると直感した。

ここでニーチェは『新約聖書』にあるパウロの手紙に反駁しているのだ。


もし、死者の復活がないのなら、
「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」ということになるのです。(『コリント人への手紙 第一』15:32)


Quemoochaは河童の国の宗教でも、精神病者の幻想でもない。
それは芥川の末期の目で見た、わたしたちの時代の「みじめさ」である。人間は再び獣になった。

死者の復活はない」と私たちの時代は確信している。わたしたちはパウロの危惧を現実のものとしてしまった。

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渡邊先生の授業に戻れば、「芸術の哲学」の一貫した主張、「この飛び散っていく生と世界内存在の真実を繋ぎ止め、結晶化する」とは、芥川が現実に命と取り替えた「紫色の火花」(『或阿呆の一生』「8、火花」)という比喩を鮮やかに説明している。

「芸術の虚構性とは、出鱈目、架空の意味ではなく、生と世界内存在の真実を見えるようにさせる発見装置・その技法のことにはかならない」とは、自然主義の反証であり、芥川の芸術上の立場を擁護しているかのようである。

渡邊先生の第四回と第五回の授業で、ニーチェという哲学者がいかに深く思索したのか思いしらされた。

ニーチェの『悲劇の誕生』は、芥川龍之介をも説明している。
「恐ろしい深みなしには、真に美しい表面は存在しない」。その深みをディオニュソス的なもの」といい、表面が「アポロン的なもの」といわれる。
ディオニュソス的なものは「恐怖、不条理、苦しみ、真に存在するもの、矛盾に溢れたもの」(渡邊二郎『芸術の哲学』)である。

狂気の母を隠蔽し、明晰なアポロン的芸術家として出発した芥川が、「芸術は何よりも作品の完成を期さねばならない。」「芸術の境に停滞と云ふ事はない。進歩しなければ必退歩するのだ。」(『芸術その他』1919・11)とばかりに驀進し、逢着したのがディオニュソス的なものではあるまいか。

芥川の作品の転機とされる『大導寺信輔の半生』(1925・1)と漱石の墓参りの小説『年末の一日』(1926・1)を発表した年は、不毛の二年であった。

その頃は「僕は文章上のアポロ主義を奉ずるものであり」(『文章と言葉と』1926・1)とディオニュソス的なものの自覚はない。いや、そのような自覚など最後までなかったろう。

だが、芥川の芸術がアポロン的なものからディオニュソス的なものに劇的に変わるのは、『点鬼簿』(1926・10)から(自決まで9ヶ月しかない)である。


狂人の母という「秘密」のひたすらな隠蔽からはじまった芥川の物語的世界は、この「秘密」の顕在化と共に、にわかにゆらぎ出し、作者みずからが「話らしい話のない小説」という新スローガンをかかげて、その破壊を促そうとした趣すら見える。「狂人」の母という秘密を読者に顕し示すや否や、狂気を聖壇に招じ入れ、この主催者に憧れの眼を向けながら、自己破壊のもたらす陶酔のうちに身を投じようとした。ひたすら「隠すこと」から、ひたすら「顕すこと」へと、芥川の振り子は大きくゆれた。
(佐伯彰一『物語芸術論』「隠された母」1975)


「僕の母は狂人だった」(『点鬼簿』冒頭)という九文字の偽りない告白から、「自己破壊のもたらす陶酔」に翻弄される。


人柱のように地下に埋められた母がいつかじりじりと勢いをもりかえし、ついには土台から食いやぶって、建物全体の崩壊に導いた(佐伯彰一『物語芸術論』)



 その陶酔の核には、実母新原ふくに形象された「根源母」ウルムッター(『悲劇の誕生』16)が潜んでいる。

「真の深い芸術家」(堀辰雄)であった芥川には「シレノスの声」がはっきり聞こえてくる。(シレノスとはディオニュソスの賢い従者である)。


汝にとって最善のことは、とても叶うまじきこと、すなわち生まれなかったこと、存在せぬこと、無たることだ。しかし汝にとって次善のことは、―まもなく死ぬことだ     (塩谷竹男訳『悲劇の誕生』3)


この声にこたえて芥川は自殺したのだ。日常の出来事など無関係である。

芥川は「アポロン的な美の世界とその基底たるシレノスの恐るべき叡智」(同)を見ることのできた稀有な芸術家である。

芥川本人は山本喜誉司に宛てた1911年2月14日の手紙で、
「これからは手紙の名をかくのは本名をかくのはよそう 封筒だけはしかたないけど 君はAPOLLOでいい僕はSATYRにする」と書き送る。
この手紙の他にも二通(2月9日と2月25日いずれも山本宛)にSATYRと署名している。

芥川らしく「アポロン対ディオニュソス」に一ひねりして、「アポロン対サチュロス」と変えている。サチュロスSATYRとはディオニュソスの野卑な従者であり、根源的な生命力を備えている。

三好行雄(『宿命のかたち』)によれば、1912年1月に書かれ、1914年4月に発表された『大川の水』から芥川の「存在の原点の隠匿」が始まるという。それ以前の『十八年目の誕生日』(1908・3)にはそれがない。

『大川の水』(1914・4)以前を「非隠蔽」、それ以後、『点鬼簿』(1926・10)までを「隠蔽」とするなら、さらに自殺するまでの9ヶ月ほどの間も、「非隠蔽」ということになる。
それぞれ「ディオニュソス的なもの」、「アポロン的なもの」、「ディオニュソス的なもの」に相当する。

芥川の芸術の発展も、アポロン的なものとディオニュソス的なもの二元性に結びついている。

私たちは文学者として大成した芥川龍之介を知っていて、そこから少年芥川を見る。しかし、時間は逆に流れた。
はじめに、芥川がある環境の下に生まれ、生活があり、そこでさまざまに模索した。その結果、文学者となったのである。その「さまざまな模索」の最大のものが『義仲論』である。

この頃からおよそ五年後の『老年』(1914.5)『羅生門』(1915.10)『鼻』(1916.2)などの処女作の時代に、芥川は自分が文学者としてやっていけるのをはっきり自覚していたであろう。しかし、中学五年生(現在の高校三年に当たる)の芥川は将来どうなるか、本人は知らない。

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当時の文学少年は高山樗牛に熱狂していた。

1904・3・10、石川啄木(18才)の小沢恒一宛て手紙、

樗牛は我らが思想上の恩師であるし、且つ日本史上に、尤も高価な知と涙を以って記された偉人の一人である


1904・5、谷崎潤一郎(17才)の府立一中時代の文、

「よく明治の文壇を沸騰せしめたる高潔情熱の詩人高山樗牛」「彼の才藻一世を圧倒せる故文学博士高山樗牛」(『文藝と道徳主義』)



1910・1・2、萩原朔太郎(23才)の佐藤宛て手紙、

「嗚呼深刻なる哉清盛の煩悶!」

これは樗牛の「清盛論」をさしている。

1912・6・3、萩原朔太郎(25才)の萩原栄次宛て手紙。


高山博士の平清盛論や本能美的生活論はまるで私の思想に裏書したようなものであったので私は一層自説を確信して仕舞った、私が高山博士の清盛論を初めて見た時は涙が出る程嬉しかった


晩年の芥川は朔太郎にぬかずいたが、作家となる以前に二人とも樗牛の「清盛論」の洗礼を受けている。

芥川がなくなった後に、朔太郎は『ニイチェに就いての雑感』(1934・9)で「芥川がニーチェの影響を受けた唯一の日本人であり、晩年の作風の激変はニーチェの影響である」という趣旨の発言をしている。

谷崎潤一郎は一中の『学友会雑誌』(1903・12)に『春風秋雨録』という一見して樗牛の文体を思わせる一文を発表している。その中のいくつかのフレーズは樗牛の『釈迦』から借用している。この『春風秋雨録』という題自体も、樗牛の『釈迦』から取ったのであろう。

だが、この時から数えて30年後書いた『青春物語』(1932・3‐4)の谷崎の口汚さは何だ。


「吾人は須らく現代を超越せざるべからず」などという勿体らしい文句も、空疎で何の意味もなく、気障さ加減が鼻持ちならない。あれなんぞは、下らない人間がエラそうな墓碑銘を遺すと、後世までも恥を曝すことになる、その適例であると云いたい。



ここまで言われれば地下の樗牛も浮かばれまい。

谷崎によれば「『滝口入道』は平家物語の一節を焼き直して文章まで剽窃したもの、『釈迦』も同じくお経の文句を仮名交じり文に引き伸ばしたようなもの」だそうだ。

しかし、樗牛への度の過ぎた口汚さはかえって谷崎の樗牛への負い目を露呈していないか。

谷崎と芥川は、知り合うことのなかった少年期においても、樗牛という鏡に二人の性格がはっきり映し出される。
谷崎が樗牛とニーチェの名を出し、絶賛し、後ににべもなく否定する。が、後に述べる芥川は樗牛の名を出さず、文を借用し、入念に隠蔽する。

 日本文学史に大きく名を残す石川啄木、谷崎潤一郎、萩原朔太郎の三名は、少年時代の作品が今日まで残っているので樗牛熱の証拠をつかめる。そうでない作家たちあるいは文学が趣味の多くの少年少女たちも樗牛に熱中していたであろう。

だが、芥川龍之介ほど樗牛に熱狂していたものがあろうか。

 作家として認められてから芥川は『樗牛の事』(1919・1)という一文を草している。そこで「ニーチェを呼んだときも樗牛を思い出さなかった」とニーチェを読めば樗牛を思い出すのが当然であると言わんばかりである。

 渡邊先生の『芸術の哲学』から「
ニーチェの赤い糸」をとりだし、それをたぐり寄せ、ひたすらたぐり寄せると樗牛と芥川はしっかりとつながっていた。
あえて専門外の渡邊先生に卒業研究の担当をお願いしたのはこのためである。


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