§3、義仲論
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●研究史
①、【臼井吉見『「木曽義仲論」をめぐって』(1968・8筑摩書房)】
そもそも『義仲論』は40年前の臼井論文以来注目されるようになった。長い引用を除けば、『義仲論』に直接言及したのは一ページほどであるが、「芥川の人と文学」という広い視野から『義仲論』の位置づけに成功している。
少年の「義仲的なもの」への渇望は満たされず、自己韜晦の中に素顔を隠し続けたという。しかし、臼井の言う「義仲的なもの」とは、後に述べるように、芥川が樗牛から拝借したものへの熱狂であるようだ。
又臼井は同じ年(1968)の12月の「国文学」の座談会で、「『木曽義仲』を若いうちに書いた、そういうものが、生涯の終りに復活してきましてね」と言い、クリスト、ルソー、藤村、芭蕉への芥川の発言を挙げる。
クリストは「古代のジヤアナリスト」(『西方の人』)であり、ルソーの『懺悔録』は「英雄的な嘘に充ち満ち」ており、藤村は「老獪な偽善者」(以上『或阿呆の一生』)、そして芭蕉は「三百年前の大山師」(『続芭蕉雑記』)とされた。
②、【佐藤泰正『作家以前』(1968・12「国文学」)】
「義仲的なもの」とは芥川の「奥ふかい、まことの『我』」(これは『義仲論』と同じ時期に書かれた『老狂人』にあるフレーズである)というべき、「根源の声」だとする。
『義仲論』、『老狂人』、『日光小品』の書かれた1910年前後を「芥川が芥川たりえた、自己形成の、原点」と見る。
義仲の「赤誠」は「行路の人に忍びざるの情熱」となり、「老狂人」の「殉道の熱誠」や『日光小品』の「温かき心をもって現実を見よ」と矛盾無く一致する。
(『義仲論』は府立三中「学友会雑誌15」の巻頭にのったが、その反対ページに、編集人芥川の書いたであろう「I have nothing to do with thee」とツルゲーネフの句が見られる。この句は『日光小品』の「戦場ヶ原」にもあり、『日光小品』と『義仲論』は同時に書いたと推測できる)。
③、【伊豆利彦『芥川文学の原点』(1973・7「日本文学」)】
臼井の論には「革命」の語がすり抜けているという。確かに『義仲論』には83回ほど「革命」という文字がある。「革命」は『義仲論』のキーワードであろう。
晩年の芥川は「貴族はブルジョアに席を譲ったであろう。ブルジョアもまた早晩プロレタリアに席を譲るであろう」(『文芸的、余りに文芸的な』31)とさえ書いている。
だが、『義仲論』の「革命」が西洋近代における「市民革命」(レボリューション)の意味ではあるまい。「革命」の語がとってつけたように感じるのは、河合栄治郎『項羽論』と樗牛から借りてきたためであろう。
以下のような樗牛の過激な思想は、青少年を刺激する。
進歩の旗章は多く革命者流の頚血に染められたりき。而して革命者流は概ね当代の元凶なりき。世間何ぞ悪を憎むことの爾かく甚だしき(樗牛『悪を憎むこと何ぞ甚だしき』1901・11)
また『十九世紀総論』(1900・6)は、「一言を以て是を掩へば、十九世紀は革命の時代也」で始まり、社会体制の革命だけでなく、「宗教革命」、自然科学の「革命」、「文学界の革命」にもふれている。「革命」は樗牛の愛用語である。
樗牛は「革命の兒、理想の兒は、都会よりも地方に多し。」(『学風に就いて』1900・6)ともいうが、芥川の「本是山中人」という父方の血を思わせる。
「保吉もの」の未定稿『柴山』(『未定稿』58ページ)では「一半は維新の革命に参した長州人の血も混じっている。」と書いている。
「維新の革命」という言い方は、樗牛も『明治思想の変遷』や『国民精神の統一を論ず』でしている。
すべての言葉のように、「革命」という語もそれを使うものの定義と文脈によって、どんな意味をも担うことが出来る。
芥川は一貫した意味で使っていない。「1、平氏政府」と「2、革命軍」は源平のストーリーをなぞっているのであり、「革命」という語を「平氏追討」とか「源平合戦」とかに置き換えればわかりやすくなる。
『義仲論』の終りでは、「革命の聖壇の霊火」、「革命の暁鐘」などは宗教的色合いさえ帯びている。
『義仲論』が府立三中の『学友会雑誌』に載った三ヵ月後に大逆事件(1910・5)が発覚した。少年にとって「革命」という言葉は、大人たちが危険だと大騒ぎしている魅力的な言葉であった。
『義仲論』の全体の基調は、樗牛の派手な文体に倣い、少年があれも知ってるこれも知ってると、孔雀の羽を広げて見せているかのようである。その中で「革命」の語は一番目立つ飾りのようである。
芥川が「何時も生活の外側に立って静かに渦巻を眺め」(江口渙)ていたとするなら、その「渦巻き」が露出して読者から見えるような状態を「革命」と名づけたのではないか。
晩年にはその「渦巻き」に作者自身が飲み込まれてしまう。少年の言う「革命」とはディオニュソス的なものである。
また、『義仲論』の「革命」の語の唐突さは、晩年の『玄鶴山房』(1927・2)の終りに付け加えられた「リイプクネヒト」の唐突さに似ている。
芥川は「玄鶴山房の悲劇を最後で山房以外の世界に触れさせたい」(1927・3・6青野宛)がために、いわば「通路」としてリイプクネヒトを読む大学生を登場させたことになる。
『義仲論』の「革命」の語も、義仲の物語と著者である少年の内面との「通路」であるかのようである。
今や、跼天蹐地の孤児は漸くに青雲の念燃ゆるが如くなる青年となれり。(『義仲論』2)
とは、養家で育てられた「気違いの子」が樗牛の著作によって生きる希望を見出したことを言っているかのようである。
④、【宮坂覚『芥川龍之介と二人の<英雄>』 (1982・4)】
芥川は「我義仲」と書き、また17年後の最後の作品『西方の人』でも「わたしのクリスト」と書いているのに着目する。この「二人の英雄」の共通項が「芥川の人と文学を貫通するもの」だという。
宮坂も言うように、こうした書き方は、他にもしている。
「愛すべき内供」(『鼻』)、「我五位」(『芋粥』)、「我毛利先生」(『毛利先生』)、「私に宿った魂」(『尾生の信』)、「最も私の愛している神聖な愚人」(『じゅりあの吉助』)である。
宮坂覚の指摘する「我義仲」という書き方は、河合栄治郎『項羽論』(2)の「我重瞳将軍」をまねたものであろう。
「重瞳(ちょうどう)」とは、一つの目に二つの瞳があることをいい、大変優れた人物の兆候であり、項羽がその一人であったとされる。
芥川は河合の『項羽論』を意識して、義仲を劉邦でなく項羽に譬える。
彼(義仲)は革命の健児也。彼は、群雄を駕御し長策をふるつて天下を治むるの隆準公(劉邦)にあらず。敵軍を叱咤し、隻剣をかざして堅陣を突破するの重瞳将軍也。(『義仲論』3)
さらに宮坂は、『義仲論』を序章として芥川は『今昔物語』から多くの材源を取ったとする。
確かに「むくつけき」木曽義仲は、京都の「みやび」の世界とは相容れない「優美とか華奢とかには最も縁の遠い美しさ」である。
樗牛は「願はくは源氏となりて興らむよりは、平家となりて亡びなむ」(『平家雑感』)と願う。
「或は文弱と詆られもせん、或は優惰と笑はれもせん。ただ坂東武士のむくつけきにくらぶれば、平家の侍こそ心往くばかり床しけれ。」とは『平家雑感』(1901・4-3)のくだりである。
「サチュロス」を自称する少年が、坂東武士の「むくつけき」義仲を取り上げたのは、樗牛への対抗心もあろう。
● 河合栄治郎『項羽論』
最近(2008年はじめ)、関口安義の『河合栄治郎と芥川龍之介(序)―「項羽論」と「義仲論」をめぐって―』(2002・3)と『芥川龍之介「義仲論」の背景』(2006・4)などを読み、『義仲論』が「文辞体裁共に範を河合氏の『項羽論』に採る」(「学友会雑誌」18号「雑誌部史」)ことを知った。
そして、本論を全面的に書き改めなければならない羽目に陥ってしまった。
河合栄治郎(1891~1944)は芥川(1892~1927)より一つ年上、石川啄木(1886~1912)、谷崎潤一郎(1886~1965)、萩原朔太郎(1886~1942)より五つ年下である。
河合は「日露戦争くらいまでの間に少年期を過した」(中村光夫「日本の近代文学と文学者 時代思潮を形成した樗牛の美的生活論」朝日ジャーナル1977・1・28)樗牛熱狂世代である。
河合の『項羽論』(「一、時勢 二、革命軍 三、最後」からなる)も樗牛の影響下にある。
『項羽論』(一)の「時勢」という題は、樗牛から取られたのではないのか。
五巻からなる樗牛全集第三巻にある伝記、『釈迦』、『平相國』、『菅公伝』、『ナポレオン三世』、『ジャンヌ・ダルク』に「時勢」と題した章はない。が、それぞれの伝記のはじめに「時勢」という字が躍る。
「佛陀も亦時勢の兒なりと謂ふべきか」(『釈迦』「第一章 緒論」)
「一身の材器に依るもの素より多かるべきも、そもそも亦時勢也。」(『平相國』「一 平家興隆の由来」)
「殆ど時勢の経綸となす・・・」(『菅公伝』二)
「僥倖にも彼は時勢の幸運に乗じて、其の力量以上の仕事をなしたり。即ち彼の如きは能く時勢を作るの英雄に非ずして、寧ろ時勢に乗ずるに巧みなる佼兒たるなからんか。」「彼は豈時勢に乗ずるに巧なる青雲の寵兒にあらずして何ぞや。」(『ナポレオン三世』はじめ)
「所詮は時運のおのづからなる勢いに外ならざるべきか。」(『ジャンヌ・ダルク』「一はしがき」)
また、『項羽論』「(一)時勢」の前に1ページはどの題のない前書きがあり、以下で終わる。
| 彼れは如何なる世に出でたるか、彼れは如何なる事をなしたるか、彼れは如何なる人ぞ、來れ來れ願はくば彼を幽界より起し少しく彼に就いて述べしめよ。 |
これは樗牛の以下の伝記の語り口を範としている。
| 「さらば仏陀は如何なる人にして、彼れは如何なる事業を為したりしか、如何にして其の成道を得、又如何にして其の教化を弘布せしか。」(『釈迦』「一、緒言」のおわり) 「管公とは夫れ如何なる人ぞ。」が『菅公伝』「第一章序論」で三回繰り返される。 「ナポレオン三世は何人ぞ。英雄か、英雄にあらず、愚物か、愚物にあらず、策士か、策士にあらず、痴人か、痴人にあらず。然は則ち彼れは何者ぞ。」(『ナポレオン三世』はじめ) 「さらばジャンヌ・ダルクは如何なる人ぞ。」(『ジャンヌ・ダルク』「1、はしがき」の終り) |
河合と樗牛は自らの英雄を「快男兒」と呼ぶ。
| 「快男兒は今や烏江の畔、永の眠る」「快男兒の行く所到る所雲を生ずるを見ずや」(『項羽論』1の前) 「一個の快男兒と謂ふべかりき。」(『清盛論』) |
「見よ・・・」、「嗚呼・・・」(あるいは「嗟呼」)で注意を促すやり方も樗牛と似ている。
以下は河合と樗牛が偶然に同じ言葉を使ったとは思えない。
| 「変幻出没端倪すべからざる」(『項羽論』1) 「奇矯変幻、開闢出没端倪すべからざる」(『ナポレオン三世』) |
『項羽論』も、後で述べる『義仲論』と同じように、『平清盛論』への共感と反感を基調として書かれている。
なぜなら、項羽が「無邪気にして天真爛漫」、「子供らしき所あり」、「真率にして誠意あり」(『項羽論』4)と樗牛の描く清盛と全く同じ言葉を使っている。また、「意志の人」劉邦に対しての「情の人」項羽の肯定は、「意志の人」清盛への反感とも重なっているからである。
樗牛は滅び行く平家の美を愛した。
逆に「あづまえびすの品下れる」「むつくけき」源氏を憎んだ。とくに頼朝は、「みやびたる優しき心」露ばかりもなく、「ねたみ深く、心ひがめり。されば讒奸やゝもすれば骨肉の間に入り、一族の連枝、時に路傍の人に劣れり」(『平家雑感』)と散々である。
項羽と劉邦の比較人物論である『項羽論』も、樗牛と同様、一方的で、「沛公の情愛は虚飾のみ、偽善のみ、項羽の情愛は真率にして誠意あり。」(『項羽論』4)とされる。
だが、頼朝は鎌倉幕府を開き、武家政権を樹立し、日本歴史の上に大きく名を残す。一方の劉邦も漢王朝の創始者、高祖である。
『項羽論』は「嗚呼我れは劉邦となりて栄えんよりも項羽となりて死なんかな」で終わる。これは、樗牛の『平家雑感』(7)、「願はくは源氏となりて興らむよりは、平家となりて亡びなむ」に似ている。
● 『義仲論』の構造
『義仲論』は、「(一)平氏政府、(二)革命軍、(三)最後」の三つに分ける。これは関口安義の言うように、『項羽論』の章立て、「(一)時勢、(二)革命軍、(三)最後、(四)人物」に倣ったものであろう。
写真版で出版されている『義仲論』の草稿は、もっと『項羽論』に近く、「(一)平氏政府、(二)革命軍、(三)革命軍〔斜線で消されている〕、(四)彼の最後、(五)彼の人物〔斜線で消されている〕」であった。
この消された二箇所は、決定稿でも一行ブランクになっている。
ところで、『項羽論』は(従って『義仲論』も)、高山樗牛の『平相國』(「平相國」とは平清盛の別名である)の構造をまねている。
『項羽論』が「最期」と書くべきところを「最後」としているのは、『平相國』の「入道の最後」を模しているのであろう。樗牛の『ジャンヌ・ダルク』の終章も「4、最後」と題される。
『平相國』は12章からなる。
「(一)平家興隆の由来、(二)清盛の前半生、(三)一門の栄華、(四)鹿が谷の会合、(五)重盛の諫言、(六)重盛の最後、(七)重盛論、(八)法印問答、(九)法皇の幽屏、(十)源氏の勃興、(十一)入道の最後、(十二)清盛論」である。
もともと1901年11月「太陽」に『平清盛論』として発表したものを「清盛論」とし、翌年初めに『平相國』の1から11を「少年諸君のために」書き加えたものである。
『項羽論』の「(三)最後、(四)人物」と『義仲論』の「(三)最後」(草稿では「(四)彼の最後、(五)彼の人物」が書かれ消されていた)が『平相國』の「(十一)入道の最後、(十二)清盛論」にあたる。
ここが芥川、河合、樗牛の三者とも、オリジナルのストーリーにない、主張したい点である。
●『義仲論』のあらすじ <()の中に歴史上の年月を書いた>
一 平氏政府
高平太と呼ばれた平清盛も太政大臣となり(1167.2)、平氏は繁栄を謳歌する。そうしたうちにも「時勢」が移り、「精神的革命は、既に冥黙の間に成就せられ」る。その兆候の一つが鹿谷の謀議(1177.6)であった。清盛の聡明な嫡男、重盛が没し(1179.6)、清盛は「放たれた虎」のようになり、後白河法皇を幽屏する(1179.11)。文覚は「蛭ヶ小島の流人」、源頼朝に決起を促す。
法皇の第二皇子、以仁王の平家追討の令旨(1180.4)をくだす。それに答え、源頼政が革命の烽火を揚げる(1180.5)が、宇治川で敗退する。だが、頼政の敗北は「永遠の勝利」につながる。頼朝は伊豆に、義仲は木曾に立つ。「今や平家十年の栄華の夢の醒むべき時は漸に来りし也。」と樗牛から借りた言葉で、「一 平氏政府」は終わる。
二 革命軍
頼政蜂起の数日後、清盛は「桓武以来、四百年の歴史を顧みず」福原遷都(1180.6)をおこなうが、4ヵ月後、京都に戻す。
清盛の摘孫、維盛は「富士川の水禽に驚いて」頼朝に大敗する(1180.10)。平氏は「刻々亡滅の深淵に向つて走りたりき」。
この後の一行ブランクに「三、革命軍」という書き込みがあり、消されていた。
『義仲論』の半ばになり、「将門、将を出すと云へるが如く、我木曾義仲も亦、将門の出なりき。」と、ようやく義仲が登場する。
父が頼朝の兄、悪源太義平に討たれ(1155)、当時二歳の義仲は木曾にかくまわれる。
木曾の「家庭」に育ち、京都にも放浪し、「今や、跼天蹐地の孤児は漸くに青雲の念燃ゆるが如くなる青年となれり。」
かくして、義仲は以仁王の令旨に従い挙兵する(1180.9)。
一方の「平門の柱石」清盛は病死し(1181.閏2)、平氏を率いるのは
不肖の子、宗盛となる。
義仲は横田川で平氏に大勝する(1182.10)。だが、義仲は行家(義仲頼朝双方にとっての叔父)をかくまい、頼朝から謀反の企てがあると「無法なる云いがかり」を受ける。「戈を逆にして一門の血を流さむには、余りに人がよすぎた」「情の人」義仲は、嫡男義重をさしだす(1183.3)。
義仲は倶利伽羅谷でまた大勝し(1183.5)、延暦寺をも懐柔し、京都へなだれ込む(1183.7)。
三 最後
義仲は京都に入り「朝日将軍」と称し、「得意は其頂点に達した」。だが、「成功と共に失敗を得」、粗暴な振る舞いが嫌われ、水島で平家に敗れる(1183閏10)。「情の人」義仲は行家の「反心」にも、「人の窮を見る己の窮を見るが如き」にふるまう。「従順なる大樹」義仲は、後白河法皇に弓を引く羽目に落ちる(1183.11)。
宇治川で義経に敗れるが、北国に逃れず敵のいる勢多に向かう。乳母子兼平に会いたいがため、「熱望せる功名よりも、更に深く彼の臣下を愛せし」ためである。
『平家物語』「巻九木曾最期」によれば、兼平と主従二騎になり、
「日ごろは何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなったるぞや。」とつぶやいたという。兼平に立派な最期を遂げるように諭されるが、ぶざまな死に終わる(1184.1)。兼平の最期は立派なものであった。
二人の死後、芥川の文章は俄然高揚し、「青苔墓下風雲の児、今はた何の処にか目さめむとしつつある」で段落が終わる。
次の一行ブランクには「五、彼の人物」という書き込みがあった。
頼朝と比較した義仲の人物論が続く。義仲は「曲線的な世路」を「直線的」に走り、「殉道的赤誠」は「行路の人に忍びざるの情熱」となる。
「涙の人」義仲を激賞し、頼朝は「経世的手腕のある建設的革命家」とされる。
臼井の引用は「三 最後』の消された草稿、「五 彼の人物」のそのまた終わりの三分の一ほどの部分である。
「革命」の語が義仲の物語と自己の内面との「通路」であるとするなら、内なる「わが人生もかくありたいとの熱っぽいばかりの思い」(臼井吉見『芥川龍之介小伝』)が、宗教的な熱気となって噴出している。
●『義仲論』、『項羽論』、樗牛の著作の比較 (同じか似た語句は赤字にした。)
一 平氏政府
『平清盛論』は樗牛の理解したニーチェの超人を『平家物語』の中から見出したものである。いわば、樗牛が「解したニイチェ主義者としての清盛」(吉田精一「高山樗牛の思想遍歴」)を論じた。
ニーチェの名は出さないが、「二十世紀の言葉を以てすれば彼は極端なる個人主義、唯我主義の人なりき。」とはニーチェを念頭に置いている。
「きみの魂のなかの英雄を投げ捨てるな!」(山の木について)とツァラトゥストラは若者に懇願する。
自らの英雄として、樗牛が平清盛を選んだのに対抗して、河合は項羽を、芥川は『平家物語』のもう一人の主人公、木曽義仲を選んだ。
『義仲論』は『平相国』に倣い、『平家物語』の余りにも有名な冒頭を掲げ全体を見渡している。
| 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を現す。驕れる者久しからず、唯春の世の夢の如し。 (『義仲論』1) 一期の栄華浮かべる雲の如くにして、没落の恥はやく後昆の踵につぐ。まことや祇園精舎の鐘の声、沙羅双樹の花の色、彼れに諸行無常の響きあり、此れに盛者必衰の理あり。奢れるもの久しからず、猛き心も遂には滅びぬる世の習ひなるに、平相国太政大臣清盛が一生こそ、なかゝゝに心も詞も及ばれぬ。(『平相国』1) |
『平家物語』は仏教の無常観、因果応報説に貫ぬかれ、「諸行無常、盛者必衰」の実例として、清盛はじめ平氏一門、義仲、義経などをあげる。
「諸行無常」に挑みかかる近代人樗牛は、『平家物語』の著者が「心も詞も及ばれぬ」とあきれてしまう清盛の生き様を激賞する。
清盛は死の間際まで「仏事の孝養、堂塔の建立」ではなく、「頼朝が首刎ねて我が墓前に梟せよ」と願った「意志の人、我執の人」である。
いわば『平家物語』の作者は、道徳の観点から清盛、義仲らを描いている。それに反し、樗牛の清盛は「善悪の彼岸」に立っている。
この樗牛の「清盛観が以後の清盛の人物論研究に基本的に引き継がれた」(鈴木則郎による『平家物語必携』176ページ学燈社)という。
芥川少年は樗牛を真似、「当代の道義を超越したる唯一個の巨人也」とするが、「善悪の彼岸」に立つ義仲を描ききれない。
死に直面した義仲のやさしさ、同情をよしとする。
ニーチェの超人にとって「同情」は「最後の敵」であり、樗牛の清盛も同情のない人である。
だが、芥川の義仲は「児女の情」、「行路の人に忍びざる情」を有した「涙の人」、「情の人」である。
河合の「項羽」も「婦女の涙」を有した「涙の人」、「情の人」と「義仲」と同じ語で形容されている。
| 天下太平は物質的文明の進歩を齎し、物質的文明の進歩は富の快楽を齎せり。単に富の快楽を齎せるのみならず、富の渇想を齎せり。単に富の渇想を齎せるのみならず、又実に富の崇拝を齎し来れり。(『義仲論』1) 物質的文明の進歩も亦今世紀の特色として大書せられるべき也。而して是の物質的文明の進歩に伴なへる富の増進と其分配の不平均とは一方に於いては大富豪を生ずると同時に、地方に於いては小貧民を多からしめぬ。(樗牛『十九世紀総論』「第一章序論」) |
唯物史観に結びつきそうな一説だが、こことこの直後だけでちょん切れた格好である。よく消化されていない、樗牛からの借り物であるためであろう。
| 「時勢は駸々として黒潮の如く、革命の気運に向ひたりき。あらず、精神的革命は、既に冥黙の間に成就せられし也。」「反言すれば、精神的革命は既に冥黙の中に、成就せられたり。」(『義仲論』1) 見よ見よ革命は既に瞑黙の内に成就せられたりしなり(『項羽論』1) 自由共和国の思想亦隠約冥々の間に形成せられつゝありしに於てをや。(樗牛『ナポレオン三世』) |
「自由共和国の思想」とは、1848年の二月革命の思想のことである。
芥川が「より大胆なるシーザーとしての入道相国」(『義仲論』1)というように、カタカナ名によってたとえるのは、河合の項羽を「突入せるゴリアテ」、劉邦を「奮闘せるモーゼ」(『項羽論』4)とした表現に似ている。
『平家物語』、『源平盛衰記』によった『義仲論』には決して出てくるはずのない単語、「三色旗、マーラー、ロベスピエール、ルソー、ボルテール、ルーテル、ハンニバル」も『項羽論』にはある。
河合と芥川はこれらのカタカナ語も樗牛から取ってきたのであろうか。
樗牛の『十九世紀総論』には、「ヲルテール、ルソー、カブール、マジニー、バスチユ(『義仲論』ではバスチール)、ルーテル」などの語もある。
| 「彼らの怨恨は、・・・更に万斛の油を注がれたるをや。」「夫、天下は平氏の天下にあらず、天下は天下の天下也。」(『義仲論』1) 怨嗟の声は巷閭に充つ今や革命の火に万斛の油を注がれたり、夫れ天下は一人の天下にあらず、天下は天下の天下なり(『項羽論』1) |
| 彼が満幅の得意となり、彼が満幅の得意は彼が空前の栄華となり、彼が空前の栄華は、時人をして「入る日をも招き返さむず勢」と、驚歎せしめたる彼が不臣の狂悖となれり。(『義仲論』1) 満幅の得意想ひ見るべき也。彼れが空前絶後の栄耀豪華は畢竟是の得意の装飾に外ならず。(『平清盛論』) |
| 彼はこれが為に、一国の重臣私門の成敗に任ずべからざるを説いて、謀主成親の死罪を宥めたりき。(『義仲論』1) 一国の重臣私門の成敗に任ずべからざるを説(『平相國』7) |
| 入道相国は恰も放たれたる虎の如し。(『義仲論』1) 而るに彼今虎を野に放つ。(『項羽論』2「鴻門の会」で劉邦が逃れたことを言う) (頼朝は)虎を野に放つに均しかりき。(『平相國』11) |
| 「平家には、小松の大臣殿こそ心も剛に謀も勝れておはせしが、遂に空しくなり給ひぬ。今は何の憚る所ぞ。御辺一度立つて靡かば天下は風の如く、靡きなむ。」と(『義仲論』1) 文覚の頼朝に説ける言に曰く、平家には小松の大臣殿こそ心も剛に謀も勝れておはせしが、平家の運命茲に極まれるか去年の八月薨去せられぬ。今は何の憚る所ぞ、御邊一度び起て靡かば天下靡然として従はむと。(『平相國』7) |
上の『義仲論』には引用符があるので、『平家物語』などからの引用か?
| 抑ふべからざる野心を生じ来れる・・・・其の最大の活動力たる、野心と相擁す、(『義仲論』1) 「野心は人間運動力の中心なり、」(『項羽論』1) 「野心又野心、鬱勃胸中に燃ゆる野心こそ実に彼れの生命心髄なれ。」(樗牛『ナポレオン三世』) |
樗牛は『ナポレオン三世』で人間形成の上で「野心」の意味を強調するが、『項羽論』、『義仲論』でもそれが強調される。
| 彼は、源摂津守頼光の玄孫、源氏一流の嫡流なりき。(『義仲論』1) 茲に源の頼政は摂津の守頼光の玄孫として源氏一流の嫡流なり。(『平相國』10) |
上も『平家物語』などからの引用か?
| 高倉宮亦南都に走らむとして途に流矢に中りて薨じ給ひぬ。かくして革命軍の急先鋒は、空しく敗滅の恥を蒙り了れり。 さもあらばあれ、こは一時の敗北にして、永遠の勝利なりき。・・・ 項羽たらざるも陳勝呉広也。(『義仲論』1) 「陳勝呉廣は即革命軍の先鋒なりとす」「陳勝呉廣は秦末革命家の急先鋒にして」『項羽論』1 以仁王南都に走らむと欲して、路に流矢に中りて薨ず。斯くて頼政が源氏再興の企ては遂に失敗に帰しぬ。然れども是れ源氏にとりては一時の失敗にして、永遠の勝利なりき。(『平相國』10) |
上のように河合は陳勝呉廣の乱を「秦末革命の先鋒」としたが、芥川も高倉宮(以仁王)を「寿永革命の先鋒」と見る。
| 「花をのみまつらむ人に山里の、雪間の草の春を見せばや。」残雪の間に萌え出でたる嫩草の緑は、既に春の来れるを報じたり。柏木義兼は近江に立ち、別当湛増は紀伊に立ち、源兵衛佐は伊豆に立ち、木曾冠者は信濃に立てり。今や平家十年の栄華の夢の醒むべき時は漸に来りし也。(『義仲論』1) 「梅一輪一輪づゝの暖かさ」厳寒の中凛呼として蕾を破る一輪を魁として南枝は爛漫として芳を伝えたり。齋人田儋立ち趙王武臣立ち劉邦は豊沛に立ち項羽は江東に立てり、・・・(『項羽論』1) 平家十年の栄華の夢の醒むべき時は遂に来りぬ。源頼朝の起つべき時は遂に来りぬ。(『平相國』10) |
上記は『義仲論』「一、平氏政府」の終りにあり、『項羽論』の文も「一、時勢」の終り近くにある。つまり両方「・・・立ち・・・立ち・・・立ち・・・立ち」と四回繰り返し、「(二)革命軍」が始まる。
これも『平相國』の構造に倣ったのであろう。上記の文は『平相國』「十、源氏の勃興」の終りにあり、「一一、入道の最後」の直前である。
二 革命軍
| 「かゝる家門の歴史を有し、かゝる渓谷に人となり、而してかゝる家庭に成育せる彼は、かくの如くにして其烈々たる青雲の念を鼓動せしめたり。」 「吾人既に彼が時勢を見、既に彼が境遇を見る、彼が雄志の那辺に向へるかは、吾人の解説を待つて之を知らざる也。(『義仲論』2) 彼れやかくの如き家庭に生れ、かくの如き偉大なる肉体を有し青雲の念烈々とし燃ゆ、彼心頭の何所に向へるかは吾人の解説を待ちて後知らざるなり。(『項羽論』2) |
上記「家庭」という語も『義仲論』、『項羽論』ともにふさわしくない。樗牛の『菅公伝』と『ナポレオン三世』では、人間が成長していく上での「野心」と同様、「家庭」の役割が重要視されている。
| 病革りて祖竜遂に仆る。(『義仲論』2) 而して祖竜俄然として内に仆る。(『平相國』11) |
「祖竜」とは『義仲論』でも『平相國』でも「清盛」のことである。
三 最後
| 秋風の落葉を払ふが如く(『義仲論』3) 秋風の枯葉を捲くが如し。(『平相國』6) |
| 「かくの如くにして彼は歩一歩より、死地に近づき来れり。」 「勇名一代を震撼したる旭日将軍もかくして、日一日より死を見るの近きにすゝめり。」(『義仲論』3) 雷名一世を震撼したる重瞳将軍は今や一歩一歩死地に近づかんとす。(『項羽論』3) |
| 彼は其云わんと欲する所を云ひ、なさむと欲する所を為す、敢えて何等の衒気なく何等の矯飾なかりき。(『義仲論』3) 彼等は其見る所を言ひ思ふ所を語るに何等の頓着なく何等の躊躇なし」(『項羽論』1) 彼れ言はむと欲する所、必ず是を言ひ、為さむと欲する所、必ず為す、是の間に於て些の衒気なく些の矯飾無し。彼れは偽善を解せざるのみならず、又偽悪をも解せざりき。(『平清盛論』) |
| 嗚呼、死は人をして静ならしむ、死は人をして粉黛を脱せしむ、死は人をして粛然として襟を正さしむるもの也。卒然として生と相背き、遽然として死と相対す、本来の道心此処に動き、本然の真情此処にあらはる、・・・ 夫鳥の将に死せむとする其鳴くや哀し、人の将に死せむとする、其言や善し。人を見、人を知らむとする、其死に処するの如何を見ば足れり。(『義仲論』3) 死は人をして静ならしむ。死は人をして幽ならしむ。死は人をして其舞台より移して楽屋に至らしむるものなり。死に臨むや何等の虚飾なく粉黛なし、花片の舞ふが如く落花の飛ぶが如し。本然の人情此に発し本来の道心此に現はる。・・・ 嗚呼鳥の将に死せんとするや其泣くや哀し、人の将に死せむとする其言やよし。 (『項羽論』3) |
| 彼豈之に恥じむや。彼の赤誠は彼の生命也。彼は死に臨ンで猶火の如き赤誠を抱き、火の如き赤誠は遂に彼をして其愛する北陸の健児と共に従容として死せしめたり。是実に死して猶生けるもの、彼の三十一年の生涯は是の如くして初めて光栄あり、意義あり、雄大あり、生命ありと云ふべし。(『義仲論』3) 夫の病苦に悩みて心身を消耗し、臨終の一念によりて俄に来生を欣求するものゝ如きは、其の生命の意義茫としてた尋ぬべからず。清盛は是の如き薄弱の徒に非りき。彼の意志は即ち彼の生命なり。彼は死に臨みて尚ほ其の意志を貫徹す、是れ死して尚ほ生くる也。彼が六十二年の生命は、是の如くして初めて光焔栄あり、意気あり、価値あり偉大ありと謂ふべし。(『平清盛論』) |
上は芥川少年が樗牛に共感するとともに反感をもった端的な実例である。芥川は「意志」を「赤誠」に、「六十二年」を「三十一年」に書き換え、そのまま使うということまでしている。
芥川は「臨終の一念によりて」弱音を吐いた「薄弱の徒」、義仲に共感する。
『平家物語』「巻九 木曽最後」によれば、義仲は最期に乳母子今井四郎と主従二騎になると、「日頃は何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなったるぞや」と呟いたという。この『平家物語』の有名な言葉は『義仲論』には無い。少年は英雄の最期にしてはカッコが悪いと思ったのであろう。
上記の「赤誠」をという聞きなれない語も樗牛からの借り物であろうか。樗牛はこの語を『予の好める人物』(1902年)や樗牛の遺言というべき『雑談』でも使っている。
| 些の偽りも飾りもなく、真に小兒に見る如き赤誠と真情とがあった・・・(『予の好める人物』「六、清盛入道」) |
| 迷信と云ひ、眞信と云ひ、つまりはどちらでも好いのである、唯必要なるは精神であり、赤誠である不惜身命の大雄猛心である。(『雑談』1902年11月) |
芥川は義仲の唯一の「赤誠」から、「末は万」が、「行路の人に忍びざるの情熱」が生じたという。
「赤誠」の一語を作品化したのが『尾生の信』(1920.1)である。尾生の魂は無数の流転を閲し、作者に宿ったという。
芥川の読んだ英訳の『善悪の彼岸』”BEYOND GOOD AND EVIL” translated by Heren Zimmen(日本近代文学館蔵)のアフォリズム番号132には下線が引かれている。
| One is punished best for one’s virtues. ひとはおのれの美徳のためにもっともひどく罰せられる。(信太正三訳) |
「赤誠」という芥川の美徳のため最もひどく罰せられた。
「芸術家は何よりも作品の完成を期さねばならぬ。」(『芸術その他』)と突き進み、作品の文体と形式を次々に変える。「『話』らしい話のない小説」(『文芸的な、余りに文芸的な』)を旗印に、自ら苦悩と自殺を引き寄せる。
ニーチェの『悦ばしき知識』107の「芸術に対するわれわれの究極の感謝」(信太正三訳)と題されたアフォリズムは芥川について書かれたのではないか思うほどである。
| 誠実Redlichkeit(「赤誠」とも訳せる)は結果として嘔吐Ekelと自殺をもたらすであろう。だが今やわれわれの誠実は、そうした帰結からわれわれが免れるのを助けて呉れる一つの反対力を、すなわち、仮象への良き意志である芸術を、有っている。 |
「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」とは、「芥川がいかに真面目に人生を苦しんだか」(小宮豊隆『芥川龍之介の死』昭和4年6月「中央公論」)の「聖痕」である。
樗牛のように、「見よ、なんじらの理想ここに在り」(『時代の精神と大文学』)と告げるのである。
「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」とは、苦悩する者がしがみついた「蜘蛛の糸」である。だが、犍陀多と同じく、あえなく切れてしまう。
幸いにも、豚のように健康である私たちにとっては無縁の地獄である。
* **
| かくして此絶大の風雲児が不世出の英魂は、倏忽として天に帰れり。嗚呼青山誰が為にか悠々たる、江水誰が為にか汪々たる。彼の来るや疾風の如く、彼の逝くや朝露の如し。止ぬるかな、止ぬるかな、革命の健児一たび逝きて、遂に豎子をして英雄の名を成さしむるや、今や七百星霜一夢の間に去りて、義仲寺畔の孤墳、蕭然として独り落暉に対す。知らず、青苔墓下風雲の児、今はた何の処にか目さめむとしつつある。(『義仲論』3) 彼の青山は誰が為に長へなる、彼の江水は誰が為窮まりなき。(樗牛『我妹の墓』) われは時久しくこの墳墓の前に佇立しき。静かに英雄の偉業を回顧して、うたた数ならぬ身のあるに甲斐なきを覚えぬ。ああ三百星霜一夢の中にたち去りて、祖竜今何の処にか目さむる。(樗牛『清見潟日記』) |
『清見潟日記』の「祖竜」とは徳川家康のことである。
「青苔墓下風雲の児、今はた何の処にか目さめむとしつつある」と書いた芥川には、樗牛、漱石、父母姉の三つの墓参りの作品がある。
最高点での『樗牛の事』(1919.1)、最低点での『年末の一日』(1926.1)、死への序章である『点鬼簿』(1926.9)である。
『樗牛の事』(1)には、「樗牛は、うそつきだったわけでもなんでもない。ただ中学生だった自分の眼が、この樗牛の裸の姿をつかまえそくなっただけである。」とある。終りに振り返り、真の姿を発見するという『老狂人』のパターンである。
『樗牛の事』(2)は樗牛の墓参りが書かれ、樗牛熱狂の隠蔽工作がされている。ただ、「雨にぬれた菫」は樗牛を肯定しているようにも思える。
『年末の一日』には「一瞬の火花」でなく、「人間を押す」牛になれという漱石の有名な手紙(1916.8.24)に反し、「人間の抜け殻」である「胞衣(えな)」しか押すことの出来ない当時の苦しい心境を自嘲している。
『点鬼簿』は「僕の母は狂人だった」で始まり、次のように終わる。
| かげろふや塚より外に住むばかり 僕は実際この時ほど、こう云う丈草の心もちが押し迫って来るのを感じたことはなかった。 |
この丈草の句は「芭蕉翁の墳にもうでて我病身を思う」の題がある。義仲(1154~1184)のファンであった芭蕉(1644~1694)は、遺言により「義仲寺」の義仲の墓の隣に自分の墓を造るほどであった。
「木曾殿と背中あわせの寒さかな」(又玄)と詠われている。
芥川は『点鬼簿』を書くことによって、「青苔墓下風雲の児」「我義仲」が目覚め、創作力が奇跡のように復活する。
しかし、この創作力は「彼自身を焼かずンば止」まることはなかった。
* **
| 彼は遂に時勢の児也(『義仲論』3) 佛陀も亦時勢の兒なりと謂ふべきか(樗牛『釈迦』「第一章 緒論」) |
| 彼は遂に情の人也。彼は、戈を逆にして一門の血を流さむには、余りに人がよすぎたり。 彼は、行家義広等の窮鳥を猟夫の手に委すに忍びざりき。 (『義仲論』2) 然れども彼は天下を料理するには、余りに温なる涙を有したりき。彼は一世を籠罩するには、寧ろ余りに血性に過ぎたりき(『義仲論』3) 彼は到底情の人なり、涙の人なり、彼は唯人となり、忍びず、窮鳥飛んで懐に入れば之を殺すには、涙は餘りに多きにすぎ情は餘りに濃きに過ぐ、彼は陰険冷酷に血を舐り肉を割きて天下を争はんには餘りに人が善過ぎたり。(『項羽論』2) |
芥川と河合は「情の人」、「涙の人」を絶賛するが、樗牛の「意志の人」、「我執の人」に対抗したものであろう。
「天下を料理するに」、「温なる涙を有しなかった」のは、頼朝と劉邦であり、義仲と項羽のライバルである。
頼朝は武家政権800年の基を築いた、清盛も義仲もその露払いである。一方の劉邦も前後400年余にわたる漢王朝の創立者であり、この世の成功者として歴史に刻まれる。
しかし、芥川、河合、樗牛は「蹉跌の歴史」を歩んだ義仲、項羽、清盛を肯定する。
| 義仲は成敗利鈍を顧みざりき、利害得失を計らざりき(『義仲論』3) 彼(劉邦)の心には唯利害あるのみ、成敗あるのみ。(『項羽論』4) 平家は「利害」「成敗」を顧みない(『平家雑感』4) |
また、芥川、河合、樗牛は、天下を「水引掛けて」贈った、義仲と項羽と清盛のほうが、この世の成功者である頼朝と劉邦より「男らしい」としている。
| 「彼の生涯は男らしき生涯也」(『義仲論』3) 「男兒の本領と云ふべけれ。」(『項羽論』4) 「男たらむはかくもこそありたけれ。」(『平家雑感』2) |
* **
臼井吉見の言う「義仲的なもの」とは、芥川少年がすべて高山樗牛から借りたものである。
いや、誰もが「自身に近いもののほかは見ることは出来ない」(『西方の人』19)のだとすれば、樗牛という鏡に映った芥川自身である。臼井の長い引用個所は以下から始まる。
| 彼は誠に野生の心を有したりき。彼は常に自ら顧みて疚しき所あらざりき。彼は自ら甘んぜむが為には如何なる事も忌避するものにはあらざりき。彼は不臣の暴挙を敢えてしたり。然れども、彼が自我の流露に任せて得むと欲するを得、為さむと欲するを為せる、公々然として其間何等の粉黛の存するを許すさざりき。彼は小児の心をもてる大人也。怒れば叫び、悲しめばなく、彼は実に善を知らざると共に悪をも亦知らざる也。然り彼は飽く迄も木曽山間の野人也。同時に当代の道義を超越した唯一個の巨人也。(『義仲論』3) |
その次の260字ほど省略して終りまでである。上記下線部と同じかほとんど同じ語句が以下のように『平清盛論』(資料1、参照)にはある。
| 「自ら顧みて其心に疚しき所あらざりき。自ら甘んぜむが為には、彼は如何なることをも忌避するものに非ざりき。」 「彼はれ其云はむと欲する所、必ず是を言ひ、為さむと欲する所必ず為す。是の間に於いて些の衒気なく些の矯飾なし。彼れは偽善を解せざるのみならず、又偽悪をも解せざりき。彼れの云為は彼れに於いて唯其の自我の流露(全集では「自我本心の流露」)のみ。」 「公々然として」 「大人にして小児の心を失はざる者の如かりき。」 「當代の倫理を超越したる一怪物なりき。」 |
以下の『項羽論』も同じ内容である。
| 彼れには邪念なく、虚飾なし。赤裸々たる人間本然の性質を表は、真率なる風の吹くが如く、水の流るるが如し、天真爛漫たる野原の笑うが如く胡蝶の飛ぶが如し。(『項羽論』4) |
樗牛を高く評価した一人に岡崎義恵(1892-1982)がいる。
『高山樗牛論』の終りで、「吾人須らく現代を超越せざるべからず」に続き、以下を引用する。
| 嗚呼、小兒の心乎、玲瓏玉の如く、透徹水の如し、名聞を求めず、利養を願はず、形式方便習慣に充ち満てる一切現世の桎梏を離れ、あらゆる人為の道徳、学智の繋縛に累はされず、たゞたゞ本然の至性を披いて天真の流露に任かすもの、あゝ独り夫れ小兒の心乎。 吾人素と学無く才無し。唯〃野生の生まれながらにして移し難きものあるのみ。年来人に離れ、世と絶し、漠然として天地の間に嘯く。私かに想ふ、是の心それ或は小兒に邇からん乎。願はくは依りて以て聊か平生の疑惑を陳べ、録して大方の教を請はんか。 (『無題録』1902.10) |
岡崎はここに(樗牛の)「死を前にして往年の客気はおさまり、澄み透ったものを感じさせる」という。
そして「実は(漱石は樗牛の)事業を継承しているのである。漱石の「則天去私」は、樗牛の「小兒の心」の知性的に陶冶されたものと見得る」と岡崎はいう。
そうだとすれば、芥川こそ樗牛の「小兒の心」の継承者であろう。芥川の漱石へのべったりの傾倒も樗牛という共通のルーツも理由の一つであろう。
ところで、樗牛の「小兒の心」がニーチェの『ツァラトゥストラ』「三段の変化」(ラクダー獅子―子供)の影響によるものだという指摘がある(杉田弘子『高山樗牛とニーチェ』)。
芥川は「純粋であるか否かの一点に依って芸術家の価値は極まる。」(『文芸的、余りに文芸的な』29)と谷崎潤一郎との有名な話の筋をめぐる論争の中で自分に言い聞かせるように書いている。
芸術家芥川は「小児の心を持てる大人」であったと彼の友人たち佐藤春夫、萩原朔太郎、広津和郎は証言する。
芥川君の如く単純で、純粋で、子供らしく生一本の人間がどこにあるか (萩原朔太郎「芥川龍之介の死」)
父母兄弟は自分の意志で選ぶことのできない「運命」である。芥川はこの点、不運であった、と同時にそれゆえ(「それにもかかわらず」ではなく)文学者となりえた。
だが、配偶者は自分の意志で選択できる。
フィクションを抜きにした実人生で、芥川がどのような人間を好みとし、理想としているか婚約者塚本文への手紙でわかる。
| 「つくろわずかざらず天然自然のままで正直に生きてゆく人間が人間としては一番上等な人間です」「すなほな正直な心をもった人間は浅野総一郎や大倉喜八郎より神様の眼から見てどの位尊いかわかりません」推1916. 「ストリンドベルグと云う異人も「女は針仕事をしている時と子供の守をしている時とが一番美しい」と云っています ボクもさう思います」1917.5.31 「正直な人間には 正直な人間の心がすぐ通じるです」1917.9.4 「世の中の事が万事利巧だけでうまく行くと思うと大まちがひですよ、それより人間です ほんとうに人間らしい正直な人間です それが一番強いのです」1917.9.28 |
樗牛の「小兒の心」を推奨しているようである。
漱石、鴎外と違い芥川の配偶者の選択は大成功であった。幼い三人の子供を残し、自殺した無責任な父に代わり、文は一人を戦争でなくしたが、二人は著名人に育てた。
* **
| 彼の粟津に敗死するや、年僅に三十一歳。而して其天下に馳鶩したるは木曾の挙兵より粟津の亡滅に至る、誠に四年の短日月のみ。彼の社会的生命はかくの如く短少也。しかも彼は其炎々たる革命的精神と不屈不絆の野性(「学友会雑誌15」による。「野快」では意味が通らない)とを以て、個性の自由を求め、新時代の光明を求め、人生に与ふるに新なる意義と新なる光栄とを以てしたり。彼の一生は失敗の一生也。彼の歴史は蹉跌の歴史也。彼の一代は薄幸の一代也。然れども彼の生涯は男らしき生涯也。(『義仲論』3) 彼と仇を呉に避く其の楚に呱々の声をあげてより烏江の畔自ら首はぬるに至るまで実に三十一年而して彼が天下に活動したるは僅に八年のみ、彼の社会的生命はしかく短小なり、而して嗚呼彼れ論ずべきものありや、曰く多くを有す。・・・ 然り彼の歴史は蹉跌の歴史にして彼の一代は失敗の一代なり、さもあらばあれ、(『項羽論』1の前) |
義仲と項羽は偶然に同じ三一年の生涯であった。社会的生命が長く、成功の歴史を築いたのは、頼朝と劉邦である。
また、芥川の「人生に与ふるに新なる意義と新なる光栄とを以てしたり。」というくだりは、樗牛の「自己の意志を貫徹し、自己の勢力を實現するの外、別に人生の意義を認めざりき」(『平清盛論』)に答えているようである。
| かくして粟廚原頭の窮死、何の恨む所ぞ。(『義仲論』3) かくして滅びたりとて何の恨むところぞ。(『平家雑感』1901.4) |
さて、過去の膨大な知識の客観性に重きを置く19世紀の歴史学に「未来を建てる者のみが過去を裁く権利をもつ」(『生に対する歴史の利害について』6)とニーチェは歴史哲学の分野にも爆弾を投げ入れる。
将来の展望によってこそ過去の評価はなされる。
樗牛は残りわずかな人生のために、「内心に未来の即応すべき像を形成」した。『平清盛論』は樗牛の「未来を立てる歴史」である。
樗牛の残りのわずか一年ほどの人生をエゴイストを自称し、性欲を賛美し、「強情我慢」の清盛のように生きた。
「願はくは天イマ暫くの健康を與えて静慮と瞑想の時を與えよ」(1902.10.2姉崎宛手紙)と願いつつ、享年31で亡くなった。
『平清盛論』を真似るうちに、『義仲論』も芥川の「未来の即応すべき像」になっている。
然り、彼は成功と共に失敗を得たり。彼が粟津の敗死は既に彼が、懸軍長駆、白旗をひるがえして洛陽に入れるの日に兆したり。彼は、その勃々たる青雲の念をして満足せしむると同じに、彼の位置の頗る危険なるを感ぜざる能はざりき。(『義仲論』3)
夏目漱石の『鼻』の激賞であまりにも早く、文壇に地位を得たために「一刻の休みのない売文生活」(『東洋の秋』1920・4)を強いられることになる。「従順な大樹」芥川は手抜きが出来ない。
夏目先生と会った三月目に「薔薇色に染まり出し」、以後はまっしぐらに死へ向かった必然の過程であったかのようである。
また、『或阿呆の一生』の末尾、「五十一 敗北」「言はば刃のこぼれてしまつた、細い剣を杖にしながら。」には義仲の印象が刻まれているかのようである。
『義仲論』は四百時詰原稿用紙で90枚ほどになり、芥川の全作品のうちでも長編である。ちなみに『地獄変』74枚、『侏儒の言葉』129枚、『河童』110枚である。
芥川が生涯で最も多くの時間とエネルギーを費やして書いたのは『義仲論』ではあるまいか。(正確に計ることは出来ないが。)
『義仲論』での芥川の盗作は、後の作品の材源とは異なり、芥川の原点となっている。
模倣、その極端な形である盗作とは、作品に対する最大限のへつらいであり、作者に対する文句無しの屈従である。芥川少年は『平清盛論』にへつらい、高山樗牛に屈服した。
芥川の原点に高山樗牛があることは従来の芥川論に全く欠如している。
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