§4、芥川文学の原点
トップページに戻る
● 1、高山樗牛
ここで芥川が中学時代に熱狂していた高山樗牛(1871〜1902)に触れなければならない。樗牛は1871年生まれで、島村抱月(1871〜1919)、国木田独歩(1871〜1908)、田山花袋(1871〜1930)と同年である。
森鴎外より9つ、夏目漱石より4つ年下だが、早熟で短命であったため、活動期は彼らよりはやい。
鴎外が小倉左遷より帰京した年、漱石が英国留学を終え、帰国の船の中にあったときに亡くなっている。
文壇復帰後の鴎外を知らず、文学者漱石を全く知らない。
夏目漱石は樗牛への悪口を言い続けた人だが、「何の高山の林公抔と思つていた」(「処女作追懐談」1908・9)などという言い方は、「どうしても怨恨痛憤の音」(『猫』(11)にある「独仙」のニーチェ評)に聞こえる。
漱石の亡くなった次の年、芥川が日本橋のレストラン「鴻の巣」で第一創作集『羅生門』出版記念会を行った年にも、文学の「人気の多くが樗牛と漱石にかかっている」(1917.9.1東京朝日新聞)とされている。
若くして没した樗牛の絶大な影響力が当時の大家たちから「小癪な小僧」(中村光夫)と妬まれたために、気障だ浅薄だと今日まで散々にこき下ろされている。
樗牛は懸賞小説に応募した『滝口入道』(1894)が出世作となる。
これは樗牛の子供時代からの愛読書『平家物語』の「横笛」などの章を元にした歴史小説である。
吉田精一(『明治の文芸評論−鴎外・樗牛・漱石―』)によれば、「あるテーマを力強く表現する上で歴史に材料をとる」芥川の歴史小説は、「樗牛論を具体化したもの」である。
樗牛は和辻哲郎のように、創作がうまく行かないで他の分野に移ったのではない。
『太陽』誌上などで八面六臂の活躍をした樗牛は、欧州留学と帰国後新設の京都帝国大学教授となる事が内定する。
ところが洋行直前の1900年8月8日、三十グラムほど喀血する。当時の死病である肺病に陥る。
樗牛喀血の17日後、奇しくもニーチェはワイマルで没するが、樗牛のニーチェとの「先天の契合」(1901・11・15姉崎宛)が目覚める。
20世紀最初の月の『文明の批評家としての文学者』(1901.1)は、その記念碑である。
同年4月『平家雑感』、8月『美的生活を論ず』、11月『平清盛論』を発表する。翌1902年1月の清盛の別名を題にした『平相国』は、「少年史譚第一編」として、12の節に分けた清盛の物語である。その終章「十二 清盛論」は『平清盛論』に少し手を加えたものである。
同年4月『日蓮上人とは如何なる人ぞ』以降の日蓮心酔も、「ニーチェの索引」(赤木桁平)によって導かれたもので、1902年7月3日の姉崎宛手紙でも、「なおニーチェの理想に彷徨する者」と自称している。
樗牛は最後まで「ニーチェを信じ」(桑木厳翼)、「ニーチェに賭けた」(中村光夫)のである。芥川の生母の亡くなった26日後、1902年12月24日永眠する。
| とにかく自分達は氏(樗牛)によって粗末ながらも「我」というものを教えられ、「我」の自覚を有するに至ったと思う。 (「自己の問題として見たる自然主義的思想」1909年12月) |
とは1883年生まれの安倍能成の言葉である。
日本は富国強兵のスローガンのもと、わずか40年ほどの近代化あるいは西洋化によって、西洋の大国ロシアに勝ち(1905年)世界を驚かせた。
しかし精神の世界はそう簡単に近代化できない。個人が国家とか家のような集団のために犠牲になるのが美徳とされていた。
筆者もアメリカ人の宣教師に、「日本人は今も江戸時代の影響を強く受けている」と聞かされ、なるほどそのような見方もあるのかと思ったことがある。
「我思う、ゆえに我あり」で始まった西洋近代哲学は、ニーチェの「力への意志」の哲学で完成したと、ハイデガーは考えた。
西洋の主観主義(主体主義と言ってもよいが)の最先端にあるのがニーチェということになる。
漱石の言葉を使えば、西洋の「我」は数百年かかり、「内発的」に形作られた。が、日本人の「我」は、たかだか30年と少し「外発的」で「皮相上滑り」である。
そうは言っても、おそらく世界的に見ても早い20世紀最初の年に、樗牛はニーチェに心酔し、まがりなりにも最新の「我」というものを教えた。だから当時の青少年に大いに受けたのであろう。
西尾幹二は「自分の問題として、文学者の声をもってニーチェの生き方に立ち向かったのは皆無に近い」、ところが、高山樗牛のばあいには「ニーチェはひどく皮相に解されてはいるが、生き方のある大切な部分はかえって継承されている」(『ニーチェと高山樗牛』)という。
| 樗牛ほどの批評家現在は一人も居らざるべき乎樗牛も亦才物と存知候(1922・9・22芥川の工藤宛手紙) |
とは、隠蔽をそぎ落とした、芥川の中学生の時から変わらぬ樗牛評であろう。
● 2、『老狂人』 「宿命の嘆き」
奥野政元(「芥川『老狂人』について」)によれば、『老狂人』と『義仲論』は、「根を等しくする二本の枝」だという。
だが、この「根」が高山樗牛ことに『平清盛論』に通じているのを奥野は知らない。
| 佛の姿色あるを見るや、妓王は立ろに放たれたり、何ぞ小児の其玩具を取捨すると相似たるや。(『平清盛論』) |
『平家物語』巻第一「妓王」の有名な悲話を芥川は、樗牛を読む以前から知っていたであろう。が、芥川は上記を読み、「実父=清盛、実母=妓王、父の後妻となった伯母ふゆ=佛」と考えなかったか。
芥川が生まれて初めて見たこの世とは、「力への意志」であった。子供ながら、父母の間に、強者ー弱者の支配があるのを観察した。
父は狂気の母を芝の家の二階に閉じ込め、母の妹に子を産ませた。この腹違いの弟、新原得二に芥川は生涯善い感情を持たなかった。
だが、その生母も全くの心神耗弱の状態であったわけではない。
| 機嫌の好い時には、よくお正月など、―笑って、羽根つきの相手をしてくれたり、また私にお裁縫を教えて呉れたりした。(葛巻義敏「叔父芥川龍之介のことども」) |
と芥川の姉久子は伝えている。
樗牛は清盛の行為を芥川と逆に、弱い者の心を踏みにじる権力者を賞賛する。樗牛という触媒によって、芥川の「薄弱の徒」への同情は抽出される。
「秀馬鹿」と呼ばれた『老狂人』の主人公は、老人、狂人、クリスチャンの三重の弱者である。
| 私は善く覚えています。・・・かぎりない不安に堪へないやうに、力ない目で往来の人の顔を一人一人ながめるかと思ふと又、うつむきがちにたえず唇をうごかして獨言をいひながら、絶望したやうに頭をたれて、雨あがりの深い轍のついた其堅い泥の道をよろめきながら歩いてゆく年老つた狂人の後姿は、いつも幼い私に朧げな宿命の嘆きを感じさせました。(『老狂人』) |
芥川が「狂人」というと実母のことを思わざるを得ない。それは「宿命の嘆き」である。
このことが芥川の人生にいかに重くのしかかったかを見逃してはならない。養家と実家、養父と実父の間の芥川をめぐる争いのうちに、芝の家の狂人の腹から芥川が生まれて来た事実を知った時の驚きはどんなものであったろうか。たとえ劇的なものでなかったにせよ、「狂人の子」という意識に圧っせられていた違いない。
「この老狂人について忘れがたい、ふかい記憶」をもっている、と『老狂人』の「私」は語りだす。私と友人の「幸さん」で、その狂人を嘲弄しに行く。が、その二人も次のように紹介される。
| 幸さんは、私のやうに気のよはい、どつち[と]云へば、女々しい[子]だつたので、学校ではいつも、私と幸さんとがいぢめられるもの[と]、きまつて居ました。打たれたり、石を投げられたりするたびに、二人は一緒に泣いて、なぐさめ[合つた]小学生でした。 |
ことさら被害者の、弱者の立場に「私」を置いている。
『十八年目の誕生日・・・』でも「小学校にいた私は 意気地の無い女々しい子供で 終始いじめられて 泣いてばかり居ました」と書いている。
「私」と幸さんは「無花果の葉のかげ」にかくれ、老狂人が祈り始めるのを待つ。
「無花果の葉」は、知恵の実を食べたアダムとイブが腰のまわりを覆った由緒ある葉である。
老狂人の祈祷で「私」の聴き取れたのは、「天にまします」「さんたまりあ」「つみ人」の三語だけである。天にいるはずの「父」の語が聞き取れていない。
『十八年目の誕生日・・・』(「未定稿集」)でも、「さんたまりあ」と思しき、「黒い髪の女の大きな額」を「未だにはっきり覚えて」いるという。
| あらゆる苦しみをわすれた、あらゆる楽しみをわすれた、唯、奥ふかい、まことの「我」から起こってくる、涙がとめどなく、あふれるの[で]せう。老狂人は、いくども、慟哭の声をつヾけていました。(『老狂人』) |
「我」という語に括弧を付けて書くのは、樗牛の癖である。
たとえば、『釈迦』「(11)仏陀の布教」とか『文明の批評家としての文学者』1(「唯〃個人各自の「我」あるを認むるもの」)に出てくる。
この「奥ふかい、まことの『我』」は、樗牛の「浅い、いつわりの『我』」に対抗しているかのようである。
芥川にとって、「我執の人」清盛の対極にある「児女の情を有した」、「涙の人」義仲の「我」こそ「奥ふかい、まことの『我』」なのである。
老狂人の「慟哭の声」は、芥川の内部に潜んでいる。
宮坂覚のいうように「芥川文学の<聖なる愚人>の系譜」、『奉教人の死』、『尼と地蔵』、『きりしとほろ上人伝』、『じゅりあの・吉助』、『南京の基督』、『往生絵巻』、『仙人』という系譜があり、『老狂人』がその原点であるなら、「聖なる愚人」は「俗なる賢人」高山樗牛の反動である。
私は幸さんの笑いにつりこまれ「慟哭の声」を嘲笑する。が、今では老狂人に「深い尊敬」を感じる。
末尾の一行は、「―私は、[未]だに、あの老狂人に加へ[た]嘲笑を、心から恥ぢています。」である。
* **
「薄弱の徒」を主人公とした小説で、芥川はその文学的キャリアを始める。
『老年』(1914.5)の房、―22歳の東大生は隠居老人のからっぽの人生を読者に見せつける。
『ひょっとこ』(1915.4)の平吉、―嘘つきで酔っ払いの頓死は、新聞の「十把一束」という欄にのる。
ところで、芥川は森鴎外(1862〜1922)に多くを学んだが、鴎外を訪問した芥川は「インヒューマン」という感想を漏らしたという。これは芥川の原点、「私たちはあくまで態度をヒューマナイズして人生を見なければならぬ。」(『日光小品』)に反する。
鴎外の『仮面』(1909.4)は、ニーチェの『善悪の彼岸』40の「すべて深いものは仮面を愛する。」で始まるアフォリズムが論じられている。博士は学生に次のように忠告する。
| 家畜の群れの凡俗を離れて、意思を強くして、貴族的に、高尚に、寂しい、高い処に身を置きたいというのだ。その高尚な人物は仮面を被ってる。仮面を尊敬せねばならない。 |
芥川の『ひょっとこ』はこの正反対、「凡俗で、意志の弱い、低級な」仮面である。芥川の自己規定、「侏儒、阿呆、道化人形」に通じる。
***
『羅生門』(1915.11)の主人公は職を失った「下人」である。
『鼻』(1916.2)の禅地内供は高僧でありながら、内心は自分の鼻のことで小心翼翼としている。
『仙人』(1916.8)の李小二は鼠に芝居をさせるのが商売であり、人生を苦と考える。
『猿』(1916.9)の奈良島は盗みを働き、捕らえられる。
『芋粥』(1916.9)の五位は「意気地のない、臆病な人間」である。
芥川は『今昔』の強者利仁の物語を弱者五位の物語に反転している。
| いけぬのう、お身たちは。」と云う。その顔を見、その声を聞いた者は、誰でも一時あるいじらしさに打たれてしまう。(彼らにいじめられるのは、一人、この赤鼻の五位だけではない。彼らの知らない誰かが―多数の誰かが、彼の顔と声とを借りて、彼等の無情を責めている。)―そういう気いが、朧げながら、彼等の心に、一瞬の間、しみこんで来るからである。 |
この声は「我五位」だけでなく「我毛利先生」も発する。いや、この声のゆえに芥川は「我・・・」という冠をかぶせたのである。
| 喉のつまりそうな金切り声は、今日でもなお自分の耳の底に残っている。が、その金切り声に潜んでいる幾百万の悲惨な人間の声は、当時の自分たちの鼓膜を刺激すべく、余りに深刻なものであった。(『毛利先生』) |
五位を嘲弄する者たちを責める「多数の誰か」の声、毛利先生の「金切り声に潜んでいる幾百万の悲惨な人間の声」は、ぴったり一致する。
重松泰雄は(「芋粥 芥川文学の作品構造」)そこに芥川の「生存の核のようなもの」を見、『老狂人』までさかのぼれるという。
「我五位」「我毛利先生」の「我・・・」は、『老狂人』の「まことの『我』」に通じる。樗牛の強者の「我」とは反対の、同情を必要とする「薄弱の徒」の「我」である。
「現代を超越したこの毛利先生」と、誰もが樗牛を連想する書き方をしているが、毛利先生は樗牛とは逆に下方に「現代を超越」している。
『毛利先生』と『樗牛の事』は、同時に1919年1月、発表されている。
● 3、『じゅりあの・吉助』 同情Mit‐leid(ともに苦しむこと)
「世の中を箱に入れたり傀儡師」とは1919年の芥川の新年の挨拶である。フィクションの創り主として自信に満ち、「みずから神としたい欲望」も満たされそうな勢いである。
第三短編集「傀儡師」(1919.1)にある作品、『奉教人の死』『枯野抄』『或る日の大石蔵之助』『戯作三昧』『地獄変』などを書いていた頃が、「生涯のうちでもっとも脂の乗っていたとき」(宇野浩二)とされる。
この絶頂の年に『じゅりあの・吉助』(1919.9)が発表されている。
終りの一行には、「日本の殉教者中、私の最も愛している、神聖な愚人の一生である。」である。
芥川の著作に「神聖な愚人」の語はここにあるのみであり、したがって「神聖な愚人の系譜」のオリジナルである。
「皮肉と冷笑の仮面をつけなければ世を渡れなかった」(三島由紀夫「舞踏会」解説)芥川だが、『じゅりあの・吉助』にはあふれんばかりの善意を注いでいる。
性来愚鈍な吉助は、早く父母に別れ牛馬同様の賎役に服していた。主人の一人娘に「懸想」をしたが、全く相手に去れず、悶々の情に耐えられず出奔する。三年後に帰り、同輩の軽蔑も意としないで、前以上にまめまめしく仕える。出奔中に「キリシタン」となっていた吉助は、その事が発覚し役人に捕らえられる。が、「悪びれる気色」を示さないばかりか「愚物の吉助の顔が、その時はまるで天上の光に遍照されたかと思うほど、不思議な威厳」に満ちる。吉助は奉行に「切支丹宗門」を奉ずると自白する。「宗門神」の謂(いわ)れを問われ次のように答える。
| えす・きりすと様、さんた・まりや姫に恋をなされ、焦がれ死に果てさせ給うたによって、われと同じ苦しみに悩むものを、救うてとらしょうと思召し、宗門神となられたげでござる。 |
奇想天外、荒唐無稽、白痴のタワゴトである。
どの切支丹門徒の「申し条」とも全く変わったものである。だが、「性来愚鈍な吉助」は、ニーチェ的な発想をしてはいないか。
| 最低の本能がくちばしをさしはさみうるためには、神は若者でなければならない。女性を熱中させるためには美しい聖者が、男性を熱中させるためには聖母マリアのごときが、前景におしだされなければならない。(原佑訳『反キリスト者』23) |
吉助は「わが神、わが神、どうしてわたしをお捨てなさる?」とはいわない。信仰は固く、「頑として吉助は、彼の述べた所を翻さ」ず、吉助は磔刑に処せられる。
「べれんの国の若君様、今はいずこにいましますか、御褒め讃え給え」という祈祷を繰り返し、「恐ろしげもなく非人の槍を受けた。」ほどなくすさまじい大雷雨が、肺然として刑場へ降り注ぎ、見物人は吉助の「祈祷の声が、空中に漂っているように」感じる。
吉助の死骸は「美妙な香」を放ち、口には「一本の白い百合の花」が水々しく咲き出でる。
゙紗玉(ちょさおく)は『芥川龍之介とキリスト教』で、芥川の切支丹物にある「共に苦しむきりスト」について述べているが、芥川はドイツ語で発想しているのであろう。
ドイツ語で、「同情」はMitleid、「悩む」leiden、「苦悩」Leidenであり、「同情」Mitleidとは「共にmit悩むことLeiden」である。
吉助は、キリスト教をショーペンハウアーとニーチェのように捉えている。
| われと同じ苦しみに悩むものを、救うてとらしょうと思召し、宗門神となられたげでござる。 |
「われと同じ苦しみ Mit-leid に悩む leiden もの」のための宗教つまり「同情Mitleidの宗教」(『反キリスト者』7他)、「苦悩者のための宗教」(『善悪の彼岸』62)ではないか。
恋の苦しみに悩む吉助は、恋のために「焦がれ死に果てさせ給うた」えす・きりすとによって救われるのである。
いわゆる切支丹物には芥川の同情が注がれたものが多い。
『きりしとほろ上人伝』(1919.3)や『おぎん』(1922.9)も『じゅりあの・吉助』同様、作者の善意に満ち溢れている。
「きりしとほろ」は「キリストを荷う」の意味である。典拠の『黄金伝説』の「世界はもとより、この世界を創造した者」を荷うのを、「世界の苦しみLeidenを身に荷うた」に芥川は変えた。
芥川の神は創造神でなく「苦」Leidenを荷う神である。
『おぎん』の作者はおぎんの棄教を肯定している。
「処女マリアからうまれた神の子イエスが十字架に懸かり、三日後のよみがえった。最後の日に善悪に応じ裁きがある。」という信仰に対しての棄教である。が、「あらゆる人間の心」に照らせば殉教である。
信仰の無いものにとっては、キリスト教の正統的な信仰というものも、「じゅりあの吉助」の信仰同様、奇想天外、荒唐無稽なものである。
「おぎん」はキリスト教の正統信仰を棄て、墓に眠る両親への「同情」を取ったのである。より普遍的な「同情道徳」に従ったのである。
「べれんの国の若君様、今はいずこにいましますか、御褒め讃え給え」と「おぎん」は、「じゅりあの吉助」と同じ言葉で祈る。
悪魔は大喜びしたが、芥川はなりふり構わず「作者」を登場させ、例の最後の一行を付け加えた。
| これもそう無性に喜ぶ程、悪魔の成功だったかどうか、作者は甚だ懐疑的である。 |
* **
『じゅりあの・吉助』の典拠として、広瀬朝光などにより、アナトール・フランスの『聖母の軽業師』(引用は堀口大学訳)が指摘される。
主人公バルナベは、無知で軽んずられていたが、一途な信仰のために救われる。軽業師バルナベが、僧院に入り、聖母マリヤ像の前で曲芸を披露すると奇跡が起こる。院長らがバルナベの行状を訝り、「戸のすきまからのぞき見」すると、「聖母さまが祭壇から降りておいでになり、水いろの御衣の裾で曲芸師の額の汗をぬぐう」のを目撃する。
末尾に置かれた聖句、「こころ直き者は幸いなるかな、彼ら神を見るべければ。」(マタイ5:8)は「神聖な愚人」のエッセンスである。
『聖母の軽業師』の末尾で「覗いて」、軽んじられていたものが実は至高のものであったことがわかる。また、「のぞき」の伏線として無学な修道僧の死後、「口から五つのバラの花が咲いた」挿話がある。
「人生とは貧しさと性欲にすぎない」という自然主義の「幻滅」disillusion、「現実暴露の悲哀」とは反対方向への、正価値への転換である。「人生とは奇跡である」というディスイリュージョンdisillusion(幻想を破ること)つまり「覚醒」である。
芥川の言う「イリュウジョンがやぶられ」(1911年3月14日山本宛)とは、「幻滅」だけではなく、「覚醒」でもある。樗牛のように、「見よ、なんじらの理想ここに在り」(『時代の精神と大文学』)と告げるのである。
「幻滅」とは長谷川天渓の造語(川副国基)で、天渓の『幻滅時代の芸術』(1906・10)以来、自然主義を表現するものとして広まった(松本常彦『芥川龍之介と弱者の問題』)という。
* **
価値の転換の象徴としての「覗き」と「花」を、『聖母の軽業師』でアナトール・フランスは同じ役割を負わせている。
「覗き」とは外側から心の奥底にあるものを覗くことであり、「花」は内面が外から見える形あるものとなった象徴だからであろう。
『老狂人』(1908〜9)、―「私」は「のぞき」により、それまで嘲笑していた狂人に「深い尊敬」を感じる。
『尾形了斎覚え書』(1917.1)、―了斎は「家内の様子を覗き」、里が蘇生し、篠の乱心は静まったのを目撃する。
『毛利先生』(1919.1)、―語り手の批評家はカッフェの鏡を覗き、先生が生まれながらの教育家であるのを見る。
『奉教人の死』(1918.9)、−「清らかな二つの乳房」を見て、「ろおれんぞ」の冤罪と「キリストに倣った人生」が明らかとなる。
『きりしとほろ上人伝』(1919.3)、―れぶろすの往生は「紅の薔薇の花」によって肯定される。
『杜子春』(1920.7)、―家の周りには「桃の花」が一面に咲いているはずである。仙人は杜子春の母への同情をよしとする。
『往生絵巻』(1921.4)、―子供にまで「気違いやい。気違いやい。」(芥川の生母も近所の子ともにこう言われたかもしれない)と嘲られた法師の死骸の口には「まっ白な蓮華」が咲く。
しかし、芥川は「じゅりあの・吉助」へ最高の手向けをしている。「吉助の口からは、一本の白い百合の花が、不思議にも水々しく咲き出ていた」。
そして、クリストは「白い百合の花」を「ソロモンの栄華の極みの時」よりも美しいと感じていた(『西方の人』18、『マタイ』6:29)。
その逆に「黒百合」が登場するのが『河童』(1927.3)、「黒百合の花束」は狂人の話がすべて幻想であることを示す。全編が著者の「デグウ」Ekelの産物であることがわかる。
●4、『杜子春』 「お母さん」
狂気の母を隠蔽することで芥川のフィクションは始まり、それを告白することで終わるとは三好行雄の卓見である。
だが、三好が『宿命のかたち』で、書くのを「あえて除外した」『杜子春』ほど、芥川がはっきり母への思いを流露したものはない。
童話というジャンルであるからこそ隠蔽が剥げ落ち、芥川の母への「同情」がストレートに出ている。
『杜子春』(1920.7)のテーマも、『芋粥』と同じく典拠と比較する事によって見えてくる。
典拠とされる『杜子春伝』での子春は、財産を使い果たし、親戚の金持もちも相手にしない。「だのに、一人この老人だけが三度も私に恵んでくれた。私は何で報いたらよかろう」と仙人になる試練を受ける。無言の行を強いられ、「喜・怒・哀・懼・悪・慾」には耐えられた。だが、女にされた子春がわが子の虐待されるのを見、「噫」と声を発してしまう。「愛」は忘れる事ができないでいた。子春は自ら意志の弱さを嘆き、同情を恥とする。
芥川の『杜子春』は、親の財産だけでなく、仙人にもらった大金を二度とも使い果たす。三度目に「人間というものに愛想がつきる」。杜子春は老人を「道徳の高い仙人」と見、弟子になることを申し出る。杜子春も同じように無言の行を課され、さまざまな試練に耐える。そこで、畜生道に落ちた父母を引き立て、鉄の鞭で打たせる。痩せ馬になっていた母親は息も絶え絶えに、「心配をしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰っても、言いたくないことは黙って御出で。」この母の声に杜子春の同情は呼び覚まされる。
| 杜子春は老人の戒めも忘れて、転ぶようにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頚を抱いて、はらはらと涙を落としながら、「お母さん。」と一声を叫びました。・・・・ |
芥川は「涙を落としながら」ここを書いたのではないか。
「芋粥に飽かん」という五位の欲望と違い、「お母さん。」と叫ぶことは、決して実現できない芥川の欲望だったからである。したがって消滅する事のない芥川の欲望であった。
童話の中で「お母さん。」という声はイリュージョンを打ち破り、洛陽の西門の前に仙人と立っている。仙人は杜子春の同情を是認する。そればかりか、親切な仙人は畑つきの家まで杜子春に与える。そこには「桃の花が一面に咲いている」。
何でもニーチェと結び付けて考える私の性質を利用して、その実例を御披露しよう。
以下はニーチェが1889年1月3日、トリノのカルロ・アルベルト広場で発狂した時の有名なエピソードである。
| 疲れ果てた辻馬車の駄馬が、広場に、馬車につながれて立っていたが、これが偉大なる同情殲滅者(ニーチェ)の同情を非常に強く動かしたので、彼は馬の首に抱きついて、激しく泣いた・・・ (ボイムラー『ニーチェ書簡集』小口優他訳) |
| 一月三日チューリンのある路上で人だかりがするという一件があったが、それは一人の馬方が老いさらばえた駄馬を無慈悲に鞭打っているのを見たニイチェが同情にかられてとび出し、むせび泣きながら、あわれな馬の首に抱きついたという次第であった。 (ランゲ・アイヒバウム『ニイチェ』栗野竜訳) |
同情を「危険」であり、「弱さ」であり、「最後の罪」であるとしたニーチェが、路上の馬への同情から狂気の世界へ崩れ落ちる。「同情の宗教」の迫害者は、同情によって昏倒する。
芥川はニーチェの劇的な発狂場面を『杜子春』で、「見すぼらしい痩せ馬」に変えられ鞭打たれる母へ「お母さん」と叫ぶシーンの道具立てに使ったのではないか。
「狂人の子」は芥川の「宿命の嘆き」であった。
最後の年の作品で、「気違ひの息子には当り前だ。」(『歯車』4)と唐突に言われ、実際の『遺書』でも「けれども今になつて見ると、畢竟氣違ひの子だつたのであらう。」と書いている。
芥川にはニーチェに関し、「精神病など予防どころか大いに養成すべきですね。」(『未定稿』「新潟での座談会」1927.5.24)という発言もある。
また、「遺伝―狂。重大なCaseに狂のため大事業をす。 Jean d’Arc.」(『手帳』八)という断片は、実母とジャンヌダルクを結び付けているようだ。
「狂のため大事業」とは、『点鬼簿』から自決までの芥川の9ヶ月間の「暗タンたる諸作品」(堀辰雄)の創作に、私には思えてならない。
晩年の作風の激変が「ニーチェの影響である」(萩原朔太郎)という指摘がある。
実母新原ふくが狂気であった時期(1892・10末〜1902・11・28)とニーチェのそれ(1889・1・3〜1900・8・25)は二年ほど違うだけで、二人とも生涯の終りの十年を狂人として過ごした。
***
材源の『杜子春伝』と芥川の『杜子春』の違いは、「同情」の評価である。芥川は「同情」の評価を逆転させている。
ニーチェのいう二つの根源的な道徳、「主人道徳」と「奴隷道徳」をニーチェと反対の方向へ価値転換している。
「主人道徳」とは強者が弱者を支配する普遍的な道徳であり、日本の武士道はその典型である。主人道徳は同等の者の間にのみ成立し、同情は弱さとして排斥される。
「奴隷道徳」はキリスト教に始まり、近代の民主主義、社会主義もその流れを汲む。「奴隷道徳」では同情が徳そのものとみなされ、「同情道徳」とも呼ばれる。今日では単に「道徳」というと、もっぱら「奴隷道徳」をさす。
● 5、『西方の人』 「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」
(わが神、わが神、どうしてわたしをお捨てなさる?)
佐藤善也によれば、『西方の人』は「クリストという第一主題の裏にニイチェという第二主題」の作品だという。「西方の人」は「東方の人」と対になっており、「西方の人」も複数いてもおかしくない。
芥川が晩年たよりとしていた、歌人にして精神科医、斉藤茂吉は『童馬漫語』(1919)でニーチェのことを「西方の人」と言っている。
また、「『西方の人』はニーチェの『アンチクリスト』を意識していたに相違ない」(西尾幹二「アフォリズムの美学」)という。
『西方の人』は「アンチクリスト」ならぬ「プロクリスト」である。そもそも、自らをクリストに喩えるなどというスケールの大きい、というよりも気違いじみた発想をニーチェ以外に誰が教えようか。
芥川は以下もニーチェから学んだのであろうか。
| 彼の投げつけた問いは「我ら如何に生くべきか」である。 (『西方の人』25 天上に近い山の上の問答) この「悦ばしき音信の報告者」は、彼が生きたごとく、彼が教えたごとく、死んだのである。―「人間を救う」ためにではなく、いかに生くべきかを示すために。(原佑訳『反キリスト者』35) |
『反キリスト者』35は次のように続く。
| 実践こそ、彼が人類に残したものである。すなわち、これは、裁判官に対する、捕吏に対する、告訴人とすべての種類の誹謗や嘲笑に対する彼の態度、―十字架上での彼の態度である。彼は反抗せず、おのれの権利を弁護せず、非道から身をまもる処置をなんらとることもなく、それどころか、彼はそれをそそのかす・・・そして彼は、彼に悪をくわえる者たちとともに、この者たちのうちで、祈り、苦しみ、愛する・・・防御せず、立腹せず、責任を負わせず・・・そうではなくて悪人にも反抗せず、―悪人を愛する・・ |
これはまさに磔刑に処せられる「じゅりあの・吉助」の態度である。
著者芥川が「私の最も愛している神聖な愚人」と呼んでいる吉助である。
「哲人言あり、曰く、基督教徒は世に唯一人ありき、而して彼は十字架の上に死したりきと。」(芥川の読んだ樗牛全集の第四巻にある)と高山樗牛は『反キリスト者』39の一行を訳している。
ニーチェにとっての「福音」とは「十字架で死んだその人が生きぬいたと同じ生」(同39)である。
「キリストに倣った」人生とは、最も純粋なクリスチャンの生き方であり、現代ではますます困難となったっている。
芥川も『続西方の人』の末尾、「我々はエマヲの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせるクリストを求めずにはゐられないのであらう。」を書き終え、致死量の薬物を飲み、永遠の眠りについた。
|
阿呆たちは彼を殺したのち、世界中に大きい寺院を建てている。 |
キリスト教の最も手厳しい批判者、最も根源的な批判者として知られるニーチェが、教祖だけは一点の曇りもなく正しく、悪いのは「禍音の使者」パウロと「教会」だとしている。わかりやすい俗受けする論である。しかし、そのようにすっきり割り切れるのであろうか。
キリストだけが「唯一のキリスト教徒」という極論は、ニーチェにとっての「私のクリスト」である。狂気の淵に立たされて、はからずも子供時代に叩き込まれた「信仰」が露呈している。
ニーチェの憤怒は、「平生は、徹底的に実行の反キリスト者」(同38)である政治家までがキリスト者として通用していることにある。
キリスト教の教祖は復活、三位一体、その他の教理、彼以後の二千年の歴史を知らない。私たちはそれらを前提として「キリスト教」と名づけている。
「神の国」が「心の経験」であり、イエスの十字架上の態度が「真のキリスト教、根源的キリスト教」であるなら、ニーチェの言うように何時でも何処でも実現可能である。
もうここではキリスト教という偏狭な名称を使うべきではないが、彼らは、今、ここに、私たちの周りにもいるはずである。
歴史に埋もれた無数の無名の人々が、「真のキリスト教徒」であった。
たとえば、江戸時代の日本の「じゅりあの・吉助」、古代インド舎衛城の除糞人「尼提」である。
***
芥川が歴史上の人物にたくし、自らを語った作品は、最初の『義仲論』と終りの『西方の人』だけである。
『義仲論』では、義仲の「赤誠」から「行路の人に忍びざるの情」が生じたと書いた、十七年後に、「クリストは今日の私には行路の人のように見ることは出来ない。」(1、この人を見よ)と『西方の人』が書き始める。
| 要するに彼は飽く迄も破壊的に無意義なる繩墨と習慣とを蹂躙して顧みざるが故にあらずや。(『義仲論』3) 彼の生活は一時代の社会的約束を踏みにじった。(『西方の人』14) クリストは一時代の社会的約束を蹂躙することを顧みなかつた。(『続西方の人』2) |
芥川は私生活で社会の「無意義なる繩墨と習慣」をきちんと守る人であった。
義仲は「小児の心を持てる大人」(これは樗牛から借りたものだが)であり、クリストも「彼自身の誰よりも幼な児に近いことを表している」(『西方の人』26幼児の如く)。
義仲とクリストの一生は以下に要約されている。
| 世路の曲線的なるにも関らず、常に直線的に急歩せずンば止まず。彼は衝突を辞せざるのみならず、又衝突を以って彼の大なる使命としたり(『義仲論』3)。 勿論クリストの一生はあらゆる天才の一生のように情熱に燃えた一生である。彼は母のマリアよりも父の聖霊の支配を受けていた。彼の十字架上の悲劇は実にそこに存している (『西方の人』36 クリストの一生)。 |
「曲線的な世路」と「直線的な急歩」は「永遠に守らんとするもの」と「永遠に超えんとするもの」の萌芽のようである。
義仲は「直線的な急歩」、クリストは「永遠に超えんとするもの」を選び、衝突を使命と受けとめ、「十字架上の悲劇」を招く。
| 彼は身を愛惜せず、彼は燎原の火の如し。彼は己を遮るすべてを焼かずンは止まざる也。すべてを焼かずンは止まざるのみならず、彼自身をも焼かずンは止まざる也。 (『義仲論』3) 我々は蝋燭の火に焼かれる我の中にも彼を感じるであろう。蛾は唯蛾の一匹に生まれたために蝋燭の火に焼かれるのである。クリストも蛾と変わることはない。 (『西方の人』27 イェルサレムへ) クリストはイェルサレムへ驢馬を駆ってはいる前に彼の十字架を背負っていた。それは彼にはどうすることも出来ない運命に近いものだったであろう。 (同) 彼はみずから燃え尽きようとする一本の蝋燭そっくりである。 (『続西方の人』5 生活者) |
| 彼の一生は失敗の一生也。彼の歴史は蹉跌の歴史也。彼の一代は薄幸の一代也。然れども彼の生涯は男らしき生涯也。 彼の一生は短かけれども彼の教訓は長かりき。彼の燃したる革命の聖壇の霊火は煌々として消ゆることなけむ。彼の鳴らしたる革命の角笛の響は嚠々として止むことなけむ。彼逝くと雖も彼逝かず。(『義仲論』3) クリストの一生は見じめだった。が、彼の後に生まれた聖霊の子供たちの一生を象徴していた。(ゲエテさへも実はこの例に洩れない。)クリスト教は或は滅びるであろう。少くとも絶えず変化している。けれどもクリストの一生はいつも我々を動かすであろう。(『西方の人』36) |
義仲とクリストが余りにも似ているので唖然としてしまう。
このような類似はどこから来るのか。
「ひとは結局のところもう自分自身を体験するにすぎない」(『ツァラトゥストラ』第三部「さすらい人」)、つまり「我々は唯我々自身に近いものの外は見ることが出来ない。」(『西方の人』19)からであろう。
***
| 夫鳥の将に死せむとする其鳴くや哀し、人の将に死せむとする、其言や善し。人を見、人を知らむとする、其死に処するの如何を見れば足れり。(『義仲論』3) |
と少年は河合栄治郎をまね書いた。
樗牛が絶賛するのは、「我死後の願い唯一のみ。急ぎ東國に追手を下し、早やく頼朝が首を刎ねて我が墓前に梟首せよ。」という清盛の言葉である。
「意志の人」清盛の最期を嫌悪し、芥川は「情の人」義仲の「見苦しい死」に共鳴する。
| 日ごろは何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなったるぞや。(『平家物語』巻九「木曽最後」) |
これは義仲の「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」である。
倶利伽羅峠で平家の大軍を撃退し、京都では粗暴な振舞いを嘲笑された義仲が「将に死せむとする」時、ふと漏らした弱音である。
弱音を漏らすのは宮坂覚の言う「英雄」にふさわしくない、「非英雄」である。
「侏儒」は「とりわけどうか勇ましい英雄にして下さいますな。」(『侏儒の言葉』)と祈る。
義仲とクリストは、「英雄否定」(三島由紀夫)の英雄であり、芥川の「二人の非英雄」と呼ぶべきであろう。
義仲は「頼朝を骨肉として遇し」、「児女の情」、「行路の人に忍びざるの情」を表し、行家の反心にも「人の窮を見る己の窮を見るが如き」に振舞う。「涙の人」義仲は乳母子今井への同情で崩れ落ちる。
私たちにも「日ごろは何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなったるぞや。」と呟く人生の時がある。すると、800年の時間を飛び越えて「あどけなき優しき荒くれ男」が蘇る。
| 「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」は事実上クリストの悲鳴にすぎない。しかしクリストはこの悲鳴のために一層我々に近づいたのである。のみならず彼の一生を一層現実的に教えてくれたのである。 (『西方の人』32 ゴルゴダ) |
さらに芥川は「雑誌の締切日の迫ったためにペンを擲たなければならなかった」(自殺未遂をやり、自殺を決めている者が、律儀に「雑誌の締切日」を守っている。芥川には尾生の魂が宿っている)ために書いた『続西方の人』(20 受難)でも「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」を繰り返している。
死に急ぐ芥川が立ち止まり、最期に書きとどめたのは、「臆病もの」の「かごとがましい声」(『おしの』)、「人の子」クリストの「悲鳴」である。
芥川文学とは、義仲とクリストの二つの「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」に挟まれた「蝋燭の蝋涙」である。
『平清盛論』に進む
§4のはじめに戻る
目次に戻る
トップページに戻る