演劇少年
作:inax
ここはS区のとある私鉄の駅の前、少年はおどおどとあたりを見渡した。平日の午後2時過ぎという時間のせいもあり、人影は買い物帰りの主婦や営業のサラリーマンなどがちらりほらりいるといったところだ。駅員は券売機のメンテナンスでもしているのだろうか、改札窓口の奥で作業をしている。
(今だ……)
彼は定期券を自動改札に投入した。改札機上部のフレームに青と緑のランプが点灯し、ばたん、とゲートが開いた。彼は素早く改札をとおり、ちょうどホームに滑り込んできた快速電車に乗り込んだ。
彼がなにやら後ろめたそうな態度を取っていたのも無理は無い。その定期券には赤い文字で『小泉裕子 16歳』と記入されていたのだから。
***
天高く馬肥ゆる秋とはよく言ったものである。排気ガスで汚れた都心の空も雲一つ無く晴れ渡っていた。そんな秋晴れの中、S区内にある都立某高校でも学園祭の準備が急ピッチで進められていた。木材に釘を打ち、客を迎えるためのゲートを作る者、クラス発表の展示を準備する者、部活動の親善試合の練習をする者と多くの生徒が準備に没頭していたのだ。演劇部も体育館のステージで明日からの公演のためのリハーサルを行っていた。
かかんかんかんかんかんかん……
薄暗い体育館のホールに踏み切りの音が響き渡った。舞台の上では一人の女子生徒がうつむきながら線路のセットに近づいていく。女子生徒が踏み切りの柵に手をかけ、乗り越えようとしたとき、
「カーット!」
演出担当の生徒が中止の号令をかけた。
「なんだ、この貧相な音は! こんなピロピロとした軽い音ではこのシーンには使えないことぐらいわからないのか! ここでは踏み切りに飛び込んで自殺を図ろうとする主人公が音に驚いてはっと我に返る重要なシーンなんだ。すぐに録り直してきてくれ」
「本番は明日だし、今日の最終リハには人数を絞っているんだ。余ってる人手なんかないよ。それにこの辺は全線高架化されてて踏み切りなんてないんだぞ。さっきの音を採ったのだって電車で30分も行ったところなんだから」
音響のスタッフが苦言を呈した。
「わかってくれよ。完璧な踏み切りの音が無ければこのシーンは成り立たないんだ」
「そうは言ってもな……おい、羽村はどうだ?」
「僕ですか? まだ道具の修正が残っているんですが……まあ、僕の出るシーンのリハは終わっているんで行けないことはありませんよ」
「じゃあ、よろしく頼むよ」
「でも僕の家は踏み切りのある方向とは逆なんですけど。交通費は部費から出してくれるんでしょうね」
「そんな余裕があるわけはないだろう。おーい、E市の方から通ってきている奴、羽村に定期を貸してやってくれ」
彼は定期券の貸し借りのような行為をしたく無かった。彼の父が警察官をしていることもあり、父のお世話にはなるまい、というのが彼の信条であった。
「私が貸してあげる」
演出のあげた声に、今回の舞台で主人公を担当している小泉が申し出た。カバンから自分の定期を取り出すと羽村に手渡す。彼は動揺していた。彼が密かに憧れていた小泉の定期券を借りられるのだ。しかし、自分の信条に反することをしたくないのも事実だった。
「羽村君、定期券を借りるのを気にしてるの? みんなやってるし、最近はどこでも自動改札だからばれやしないよ」
「でも……なんだか心配だよ」
「大丈夫、羽村君ならかわいい顔してるから『私が小泉裕子です』って言えば誰も疑わないよ」
彼女が微笑むと、彼はためらいながらも定期券を受け取った。法を犯すことへの罪悪感を捨てたのではない。憧れの人が身に付けているものを持つという行為のフェティッシュな喜びが彼を支配したのだった。彼は高校を出て、最寄の私鉄駅へと向かった。
***
録音機材を抱えた彼はE市郊外にある駅のプラットホームに降り立った。ここは閑静な住宅街の中にある駅である。踏み切りは駅の近くにあり、ノイズの源となる交通量の多い道路や商店街は無いので音の録音にはうってつけの場所だ。後は改札を出て録音するだけであった。
彼は改札の前に立った。彼の胸は彼の良心の悲鳴を感じ取っているかのように、大きく鼓動していた。駅員は快速電車から降車する客の流れを眺めている。
(大丈夫だ。どうせ自動改札なんだからばれる訳が無い……)
彼は自分に言い聞かせるように心の中でつぶやき、意を決して定期券を自動改札機に投入した。青と緑のランプが点灯しゲートが開いた。そそくさと改札を抜けようとしたが、不意に後ろから彼の腕を掴む者が居た。
「待ちなさい、君。それは君の定期券ですか?」
駅員だった。少年は混乱していた。定期券の券面は誰にも見られていない。定期券は有効なものだからゲートも正常に開いている。一体何が不味かったのか。彼はしどろもどろになって答えた。
「は、は、はい」
駅員は彼に向かって諭すように言った。
「自動改札機のランプには意味があってね、赤いランプは通過させてはいけない切符が入ったとき、白いランプは子供用の切符が入ったとき。同じように青は学割定期、緑は定期券の性別情報が女性のとき点灯するんだ。さっき青と緑のランプがついていたね。私が見たところ君は男の子のように見えるんだが。定期券を確認させてもらえるかな」
彼の頭の中は一瞬にして真っ白になった。彼は自動改札機のランプにそのような意味があることを全く知らなかった。警察に連行される自分、罰金を払う両親、自分をしかる父、学校を停学になって自宅に謹慎する自分……そんな映像が彼の頭の中を駆け巡った。彼は自分の人生は終わったと思った。半ば思考を停止した彼は定期券を駅員に差し出した。
「『小泉裕子』か。じゃあ、君の本当の名前は?」
「私は……小泉裕子です」
なぜそんなすぐわかる嘘をついたのか、彼は自分でも理解できていなかった。彼は本当に彼女だったらよかったと思ったのだろうか。それとも、無意識のうちに彼女を演じようと思ったのだろうか。回転の鈍い頭に血が上っていくのが彼にもわかった。
そして、だんだんと気が遠くなっていった……
・
・
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「お呼び止めして申し訳ありませんでした」
我に帰った彼に駅員は謝りながら定期券を返した。
(駅員はなぜ僕を開放したのだろうか)
彼は訝しがりながら構内に設置してある鏡を覗いた。
(!)
一人の少女が居た。都立某高校の女子制服に身を包んだ清楚な少女だった。
(……あたりまえじゃない。私は小泉裕子なんだから。早く行かなくっちゃ、みんなが私を待ってる)
彼女は制服のスカートをたなびかせながら駅を出た。早く録音を終わらせて彼女が主人公の舞台に間に合わせるために。
おわり
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