彼女は待っていた。
深遠なる森の奥。
神代から続く祠の中で、
彼女は一人待ち続けていた。
不思議な祠
作:inax
ヒサヨシは奥歯を噛み締めた。砂がにじゃりと音を立て、口の中の土臭さが広がった。緊張で乾いた喉からは唾液が出てくることは無く、砂を吐くことすら難しかった。
「きたねぇ奴だ。つばで公園の砂場を汚してんじゃねえよ」
後頭部にヒロアキの運動靴が食い込み、ヒサヨシの顔は再び砂の中に埋もれることになった。目と鼻に砂が入り込み、あふれ出た涙で視界が歪んだ。
「もう、やめて」
蚊の泣くような涙声で訴えた。
「は! こいつ泣いてやがる。やっぱり女みたいなやつだな。こんなのを持ってるからそんな性格になっちまうんだよ。これは俺が捨てといてやる」
ヒサヨシが顔を上げると、ヒロアキがピンクの服を着た人形を右手で弄んでいるのが見えた。ヒロアキの足元にはランドセルが踏みつけられ、つぶれてふたが開き、中のノートや教科書も散らばっていた。
「ジュンちゃんからもらったお人形、返して!」
人形を持つ右手に向かって手を伸ばした。しかし、ヒロアキはすらりと避け、代わりにヒサヨシの腹部に左手でパンチを食らわせた。
「ぐふぅ」
たまらず、おなかを押さえてうずくまった。その時だった。
「あんた達なにやってるの!」
蹴りを入れようとしているヒロアキとの間に少女が割り込んだ。
「またヒサヨシ君をいじめて……そんなことして恥ずかしくないの?」
ジュンコだった。彼女は一つ年上の幼なじみで、ヒサヨシのことを実の弟のように可愛がってくれていた。
「邪魔すんじゃねぇよ、俺たちはヒサヨシに男らしさを教えてやってるんだからな」
「そんなことしてると先生に言いつけてやるからね!」
先生の名前を出されてヒロアキたちはたじろいだ。
「ふん、今日のところは勘弁しといてやる。これは返してやるぜ」
ヒロアキたちは互いに顔を見合わせると、人形を砂場に投げつけ、去っていった。
「全くしょうがない連中ね」
ジュンコは砂場のふちに座っているヒサヨシの隣に腰掛け、ハンカチで顔の砂を払いながら言った。
「ヒサヨシ君も春から六年生なんだから、あんな奴ら相手にしちゃだめよ」
「大丈夫だよ、またお姉ちゃんが助けてくれるもん」
ヒサヨシの言葉に、ジュンコは寂しそうに笑った。
「さ、ヒサヨシ君、お姉ちゃんと一緒におうちに帰ろうね」
「ジュンちゃん、ずっといっしょにいてね。」
「……」
「ジュンちゃん、四月からは山里中に上がるんだよね。小学校までは一緒に学校に通えるもんね」
ジュンコはため息をつくと言った。
「ごめんね。私、横浜の私立の学校に行くの。もう一緒に通えないのよ」
「じゃあ、ぼくもそこへ行くよ、今年がんばって勉強して、同じ学校に通うんだ!」
「だめよ、私の行くのはF中学なんだから」
ジュンコの告げた学校は進学校として有名な中高一貫の女子中学校だった。
「僕そんなのいやだよ。ジュンちゃんがいないとまたいじめられちゃうよ」
「大丈夫よ、ヒサヨシ君は男の子でしょ」
「そんな……」
「さ、おうちに着いたよ。すぐにお風呂に入ってゆっくりするんだよ。それじゃあね」
ジュンコはにっこりと微笑むと、立ち去った。家の玄関の鍵を開けながら、一人残されたヒサヨシはポツリとつぶやいた。
「なんで僕、男の子なんだろう。女の子だったらお人形を持っていてもからかわれることはないし、ジュンちゃんと離れなくて済むのに」
春になり、ジュンコが一緒に登下校しなくなってから、ヒサヨシは毎日のようにいじめを受けていた。ある日は体育館の裏に連れて行かれ、服を脱がされた。またある日は無理やり寄り道をさせられ、ランドセルを川に投げられてしまった。川を見つめながら、ポロリと涙がこぼれた。ジュンコはもう、助けにきてくれなかった。
耐えられなくなった頃、ようやく夏休みが始まった。ヒサヨシの両親は共稼ぎで日中はほとんど家にいなかった。帰ってきても夜遅く、ヒサヨシの悩みに気付く余裕はなかった。家庭の事情を知ったいじめっ子達は家にも押しかけてきた。ゲームをやらせろと言い、帰りには彼のゲームソフトを持って帰った。
彼らから逃れたい、その一心でヒサヨシは家を出た。三日分の着替えを青いリュックサックに詰め込み、子豚の貯金箱から一年かかってためたお金の入ったを取り出した。しばらく帰らないつもりだった。私鉄と地下鉄を乗り継いでJRの駅に着くと、初乗り運賃の切符だけを買って夜行特急列車に乗った。空いている寝台の隅に座り込むと、ヒサヨシの小さな体は通路からは見えなかった。見つかったら連れ戻される、そんな思いから一睡も出来なかった。夜が明ける前に小さな駅で降りた。駅前から出るバスに適当に乗り込むと、一晩の旅の疲れからかぐっすりと眠り込んでしまった。
運転手に起こされると、そこは奥深い山中だった。ヒサヨシは礼を言って慌ててバスから飛び降り、山道をあてもなく歩くことにした。燦燦と真夏の太陽が照りつけていた。木々がまばらになると、強い日差しに照らされてゆらゆらと陽炎が立ち昇って、周りの景色をゆがめていた。後から考えると、景色のゆがみは陽炎のせいだけでなかったのだろう。なぜなら、後ろを歩いていた登山者によると、陽炎の中にヒサヨシの姿が消えたというのだから。
ヒサヨシは寝不足で朦朧とする頭を振りながら歩いていたが、太陽は相変わらず照り付けているものの、周りの空気が妙にひんやりとしてきたことに気が付いた。一旦立ち止まり、あたりを見渡した。元来た道はどっちだっただろうか。振り返っても、よく分からなかった。道に迷ってしまったのだろうか。まあ、いいや、どうせ当てのない旅だったんだから。そう思ったとき、少し先の森の中に祠が建っているのが陽炎の中に揺らいで見えた。その祠は神々しいばかりの淡い金色の光に包まれていた。光のために、近づかないと祠の形がぼやけてしまうようだった。
ヒサヨシはふらふらと吸い込まれるように祠へと近づいていった。おじいちゃん家にある神棚に似ているな、とヒサヨシは思った。おそるおそる祠の前に立つと、音もなく扉が開いた。中には何らかの神様を祭ってあるのだろう、木製の祭壇が鎮座していた。神様、今日の宿を貸してくださいね、ヒサヨシは心の中でつぶやきながら中に入ると、きれいな床に体を横たえた。寝不足と疲れで体に限界がきていたのだった。
ヒサヨシは夢を見ていた。白い服を着た女の人が出てきた。釣り目がちな美人の女の人だった。長い黒髪には何かの木の小枝が刺してあり、服は現在のものとは違う、社会の時間の教科書で見た弥生時代の着物のようだった。
「キミ、何か悩みがあるのね?」
夢の中の女の人は訊いた。
(どうしてわかるの? ここはどこなの? あの女の人は誰?)
ヒサヨシの心には疑問が浮かんだ。
「あなたの心が見えるからよ。ここは、人生をやり直したい人だけが見つけることが出来る祠。そして私はこの祠を司る神です」
(わ、すごい僕の気持ちがわかるんだ。)
「ええ、あなたがいじめられていること、ジュンちゃんがいなくなって寂しいこと。みんな分かるわよ」
(そう、僕、なんで女の子に生まれなかったんだろう。女の子だったら悩まなくて済むことばかりなのに)
「あなたはやさしい子ね。今なら女の子として人生をやり直すことも出来るのよ」
(本当! お願いします。僕を女の子にしてください)
「わかったわ。でも、これは忘れないで。女の子になっても悩みがなくなるわけじゃい、解決しやすくなるだけ。あとはあなたのがんばり次第ね」
(ヒロアキたちと同じ男の子だって思うといやだったんだよ)
「男の子みんなが悪いわけじゃないのよ。あなたの周りに、あなたと波長の合う男の子がいなかっただけ……あなたにも分かる日がきますから」
夢の中の女の人は白い靄に包まれて薄くかすれていき、ヒサヨシの意識は闇の中へと落ちていった。
目を開けるとそこは祠の中ではなかった。大きな木の幹に出来た洞の中で膝を抱えるようにして眠っていたのだった。樹液の油が出すさわやかな香りが鼻腔をくすぐった。木の幹の中から這い出し、衣服についた土を払った。
お尻をはたいたとき、手にまとわりつく布を感じてはっとした。今まではいてた半ズボンではありえない感触だった。自分の姿を見渡した。ギンガムチェックの赤いジャンパースカートと胸に熊のアップリケのある黄色いブラウスを着ていた。頭を振ると髪の毛の三つ編みが暴れた。
持っていた赤いチェックのリュックサックには佐山久美と名前が書かれていた。やっぱり僕のだ。しかし、振り仮名には(サヤマ クミ)とあった。
僕、どうなっちゃったの? 女の子の服を着てるし、名前も女の子みたい。
心臓がどきどきするのが分かった。それでも、最後の確認をしないわけにはいかなかった。右手をおしっこをする場所へと這わせた。
ない……
涙がこぼれた。
数分後、クミは地元の警察に発見された。両親が捜索願いを出していたこと、夜行特急に乗り込むところを見ていた近所のおばさんと駅から登山口までに乗ったバスの運転手の証言から、場所を特定できたのだろう。警察署内で毛布に包まっていると、両親が現れた。クミ、寂しい思いをさせてすまなかった。これからは一緒にいる時間を増やすようにする。と、言われた。家出の事情は全く訊かれなかった。あれ? 僕ってヒサヨシだったのに。家族がクミに何の疑問も持っていないのが不思議だった。
こうして家にクミは家に帰った。家の様子はほとんど変わっていなかったが、ランドセルの色が赤くなっていた。他にもいろいろと調べてみると、へその緒についていた写真と名前もクミになっていた。歴史が変わってしまったのは確実のようだった。
不安だった。今まで十一年生きてきた、男の子としての人生は幻だったのだろうか。クミが男の子だったと証明するものは何一つ無かったのだった。あるのはだた、記憶のみ。クミは日記を書き始めた。自分が自分であったことの証明をするために。
クミは変化後の生活について、次のように日記に残していた。
突然女の子になってしまって困っているんじゃないかと思うでしょう。
でも、生活面では大したことはなかった。
着ているものがちょっと違うけど、慣れれば気にならないし。
無理に女言葉を使う必要なんて全くなかったし。
周りには普段どおりに、自分らしく接していればよかった。
戸惑いの記述もあった。
今日、お赤飯を食べた。本当に女の子なんだなって実感した。涙がこぼれた。
夏休みが終わり、クミは学校に通い始めた。スカートをはくのは最初はどきどきしたがすぐに慣れてしまった。要は股の無い半ズボンと大差なかった。学校では、男の子だった頃はあんまり親しくなかった女の子達から話し掛けられるのが大きな違いだった。クラスの委員長だった友香ちゃんとは話がよく合った。話題は学校のこと友達のこと、テレビのこと。他愛の無い話題ばかりだったのだが、じっくりと話してみると、男の子達とゲームやマンガの話をしているよりもずっと楽しかった。
ヒロアキたちは相変わらずクミにちょっかいを出してきた。一度は「久美ってヒサヨシとも読めるよな、お前男の癖に女の格好すんなよ」などと言ってきたことがあった。クミは冷静に対応することが出来た「だから?」と。居合わせた友香ちゃんは一緒に怒ってヒロアキたちを追い返してくれた。それからはクミたちに絡んでくることはなくなった。結局のところ、何に対しても難癖をつけなくてはいられない連中だったのだろう。
女の子の中にも、クミとは相性が合わない子はいた。ヒロアキたちとの経験から、性格の合わない人間とは性別によらず、相容れないということは感じていた。相性の悪い人とは距離をおくことで、争わなくて済むようになった。逆に、話の合う人とは積極的に関わっていくことで友達も増えていった。
生活が軌道に乗るにつれて、日記の記述は少なくなっていった。クミは地元の公立校の山里中に進学した。ジュンコに頼らなくてもやっていける自信がついたのだ。
日記の第一巻は次のように締めくくられていた。
これからは私も男の子を好きになっていくのかな。
今はまだ考えられないけど、きっと大丈夫だと思う。
ヒサヨシだった私がジュンちゃんを好きだったように、
クミとしての私が好きになる男の子もいるはず。
だって男の子も女の子も同じ人間なんだから、
相性の悪い人もいれば、いい人もいる。
と、そんな恋愛論を考えちゃうくらい、
私は今、女の子としての生活を楽しんでいます。
私を変えてしまったアノ祠……
不思議なことだったけど感謝しています。
この日記も次のノートからは「普通の女の子」の日記になるでしょう。
彼女は微笑んでいた。
深遠なる森の奥。
神代から続く祠の中で、
彼女の幸せに微笑んでいた。
おわり
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