「ぴ〜」 オリジナルバージョン

作:inax




 ぴーごろごろ、ぐるぐるきゅー

 真夏の朝、もはや高く上った太陽が強い日差しを浴びせている。通勤通学客でギュウ詰めのクーラーの良く効いた電車の中に、そんな小さなサウンドが響いた。電車の立てる大きな走行音のために、先ほどの音が聞こえた乗客はほとんど居なかっただろう。しかし、僕のおなかのしくりとする小さな痛みはそれが幻聴ではないことを物語っていた。

「またか……」

 僕はつぶやいた。そう僕は胃腸が強いほうではない。いや、むしろ弱い部類に入るだろう。冷たい牛乳を少々飲んだだけで、あるいは夜寝るときにちょっとばかりおなかを冷やしただけで、サツマイモをちょっぴり食べ過ぎただけで、たったそれだけで、僕のおなかはすぐにテロ活動を開始するのが常だった。

 今朝の僕の行動を振り返ってみよう。ちょっぴり寝坊した僕は恒例の朝のトイレを省略し、牛乳を飲んでトーストを一枚くわえてから駅への道を急いだ。今日は僕の高校の期末テストの初日、遅刻するわけにはいかなかったのだ。初日の試験日程は苦手な数学と英語が重なっていた。どちらの教科も中間テストの成績が思わしくなかったから、昨日は夜遅くまで勉強をしていた。そうそう、昨日の夕食はゲン担ぎだって言って母さんがとんかつを出してくれたんだ。以上のことを総合して考える。昨日の夕食は消化に悪い油モノ。極度の寝不足。朝トイレに行っていない。冷たい牛乳。トーストが胃に入ったことによる胃腸のぜん動運動の開始。胃腸の弱い僕がその悪条件を乗り越えられるはずが無かった。完全な戦略ミスである。しかし、犯してしまったミスは仕方が無い。これからの行動でカバーすればいいのだ。

 これからの行動の指針を立てるのに必要なのは現状の確認だ。敵を知り、己を知れば百戦危うからずだ。僕の家の最寄駅から学校までは各駅停車の電車で30分の道のりだ。途中に駅は10個ほど。約3分間隔で次の駅に止まる。今4つ目の駅を出たばかりだからあと15分強かかるな……。ここまで把握した時点で、僕のおなかのサウンドは眠たげなバラードからアップテンポのジャズへと移ってきていた。非常にまずい兆候である。僕のおなかのリズムには――勝手に名づけたのだが――バラード、ジャズ、サンバの3つの山があり、周期的におなかの収縮を促すのだ。もちろん後のリズムほど収縮は強くなる。ちなみに、いまだかつてサンバのリズムに耐えられたことは一度も無い。

 まずい、とても学校に着くまでは持ちこたえられそうも無い。ではどうするのか。途中で降りるしかない。幸いなことに日ごろの胃腸弱者としての訓練の賜物で、僕は通学路線の各駅のトイレの配置は全て頭の中のデータベースに格納されていた。あの駅のトイレは跨線橋を渡らなくてはいけないとか、この駅はホームの端っこにあるから行きにくいとか、電車を降りてからのトイレへの道のりを最低限に押さえる上でトイレの配置は非常に重要なのだ。次の駅はターミナル駅であり、人の乗り降りが激しい。そのような中を痛むおなかを抱えながら移動できるだろうか? いや、そんなことをできるわけがない。さらに、ターミナル駅のトイレは数は多いが利用者も多いので、ラッシュ時には長蛇の列になっているのが通例である。トイレの混雑度で言えば、小駅のほうが有利なのだ。僕は2つ後の小駅にねらいを定めた。トイレは跨線橋の上の駅舎にあるが、そのくらいまでならなんとか耐える事は可能だろう。

「H島〜、H島です。S線、I線、H線はお乗換えです」

 駅の場内アナウンスがターミナル駅への到着を告げた。乗客が入れ替わり、僕も人波に 押されてあちらこちら移動せざるを得ない。小刻みな運動はおなかにとっては大敵なのだ。や、やめてくれ。僕のおなかはジャズのリズムを刻んでいるんだ! おじさん、僕のおなかやおしりをかばんでつつかないでくれ!

 もみくちゃにされながらも電車の中で僕は耐えた。電車が目的の駅のホームに滑り込むと、僕は人ごみを掻き分けながらホームに降り立った。しかし、おなかのリズムはもはやサンバになろうとしていたのだ! 気を抜いてはいけない、ここからが本当の勝負だ。僕は油のようなねちっこい汗を出し、サンバのリズムと戦いながら、一歩、また一歩と踏みしめながらトイレへの階段を上った。胃腸弱を知らない幸せな人は、走ればすぐだろう、というかもしれない。しかし、サンバ状態では少しの刺激が命取りになる。おしりに刺激を与えないよう、ゆっくり、しかし着実に歩を進める必要があるのだ。

 そのとき! 僕の視界はついにトイレを捕らえた。神々しいばかりにかがやく(ように見えた)トイレの入り口は僕を待っていたのだ! ああ、神様、僕に本日のトイレをお与え下さいましてありがとうございます。 トイレの紙……いや神に感謝しつつ男子トイレの門をくぐった。





 神は居なかった……

 男子トイレに2つある個室は全て埋まっていたのだった。しかもサラリーマン風のおじさんが2人も並んでいる。上手が居たのだ。この時間のトイレは出勤中にもよおしてしまったおじさんたちが集中するのだ。このおじさんたちもターミナル駅の混雑を避けてこの駅に来たに違いは無い。そういう人が2人も居れば小駅の個室などあっという間に埋まってしまう。仕事のストレスで過敏性大腸炎になってしまったおじさん達には哀悼の意を表したいが、僕にもそこまでの余裕は無いのだった。

 もう、だめだ。僕は絶望した。このまま漏らしてしまえば楽になる……。

 人間、死を覚悟したときには人生が走馬灯のようにフラッシュバックすると言われている。僕の頭の中には、小学校1年生のときに初めてのお使いの帰りにしてしまった始めてのおもらし、3年生のときに「先生、トイレに行きたいです」が言えずにやってしまったこと……。そんなことばかり思い出してどうなるんだ?

 回想は続く。以前同じクラスだった胃弱の美智子ちゃんとの会話を思い出した。

「朝の女子トイレはそれほど混雑しないのよ。個室の量は多いし、OLさんたちは朝から駅の汚いトイレに入りたくないからじゃないかな」

 ああっ。神様が恨めしいっ。いや、トイレだから紙様かな?もしボクが女の子ならがらがらに空いている朝の女子トイレを独占できるのにっ。朦朧とする思考の中で僕は恨み言をつぶやいた。

「かなえてつかわす・・・」

 その時、僕には威厳に満ちた声が聞こえた。
 いったい何なんだ!? そう思ったその時、僕の全身にむずむずとする感覚が走った。
「あ・あ・あ……」
 今まで感じたことの無い感覚に戸惑い、声が出てしまう。しかし、僕はそんな感覚に身をゆだねるわけには行かなかった。今刺激を与えられたら爆発してしまう! 僕は目をつぶり、耐えることにした。





 未来永劫に続くかと思われたむずむず感が、突然無くなった。今のはなんだったんだ……。荒れ狂うおなかを押さえながら、ふとトイレの鏡を見た。そこに居たのはおなかを押さえてうずくまる、ボクの学校のブレザーを着た一人の少女だった。ボクの自分に起こった変化を把握する余裕も無かった。

 そのとき個室から出てきた一人のおじさんが僕に向かって言った。
「お嬢ちゃん、女子トイレはあっちだぞ」

 え、えぇっ。一体どういうこと?

「トイレの紙様に文句を言ったバツじゃ」

 ボクにはまた荘厳な雰囲気の声が聞こえた。
 神様〜ボクは馬鹿にするようなことはしてないよ〜。
 とはいえ、サンバのリズムは依然としてボクを襲いつづけていた。慌てて男子トイレの外に飛び出し、向かいの女子トイレへと駆け込み……事なきを得たのだった。



***


 一ヵ月後、ボクは某イベント会場に居た。なんと、女の子になってから腸弱は治ってしまったんだよ♪ (その代わり便秘になってしまったんだけどね♪) だから遠出のイベントなんかも大丈夫さ。あ、でもさっきの喫茶店でちょっと紅茶を飲みすぎちゃったかな? トイレ、トイレ。

 眼前に広がる女子トイレの長蛇の列はイベント会場の外まで続いているかのようだ……ボクは叫ばざるを得なかった。

「紙様っ、助けてよぅ〜」



おわり


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