エターナリー湘南                              文責 松岡 修

       


                   茅ヶ崎の歴史        







<1> 古代     茅ヶ崎の幕開けは市北部の丘陵地帯から

 現在、神奈川県下には二百か所を超える先土器時代の遺跡が発見されており、そのうちの八割以上
が相模原台地に存在しています。この台地の西南端に位置する市域北部の丘陵地帯からも二、三の遺
物が出土しており、縄文時代前期この地帯には各地に竪穴住居や貝塚が形成されていきました。中期
には集落が増大、生活領域の拡大が図られ、そして、弥生時代に入ると農耕集落が発展し、後の政治
的地域集団を成立させる基盤となりました。また、縄文式土器は一万年以上にわたってつくられ、こ
の地域からは、背の高い深鉢形土器や曲線の美しい瓶形土器など、中・後期のものが多数出土してい
ます。


               大庭御厨の成立と茅ヶ崎開発の始まり

 茅ヶ崎が属する高座(倉)群が文献上に出てきたのは、「日本書紀」が初めてでした。
その後、茅ヶ崎の地が文献上に表れたのが、源順が九世紀の史料により編んだ『倭名類聚
鈔』という日本最初の分類体百科辞典です。
平安時代後期、鎌倉から藤沢・茅ヶ崎一帯に進出
した大庭氏一族が、荒野だったこの地の開発に着手しました。大庭氏の祖とされる鎌倉権五郎景正は、
開墾した土地を伊勢神宮へ寄進して荘園「大庭御厨(おおばのみくりや)」 としましたが、国司との利
害対立や国衙(こくが)の役人を率いた源義朝の侵入など、その維持には困難を極めました。



<2> 中世   京都への往来が盛んになり、交通の要衝となる

 平安時代末期、伊豆国に流されていた源頼朝が反平家の旗を揚げ、平家の都落ちの後、
鎌倉を本拠地として東国支配の実質上の承認を朝廷から得ました。その後、頼朝が鎌倉幕
府を開き、この地は頼朝とともに挙兵した茅ヶ崎の武士懐島(ふとろこじま)景義らが支
配していましたが争いに敗れ、北条一族の大仏(おさらぎ)氏が領主となりました。鎌倉
時代には京都との往来が盛んになり相模川に橋が架けられ、鎌倉と京都を結ぶ街道の道筋
であった懐島(現在の円蔵・浜之郷・西久保・矢畑辺り)は交通の要衝となりました。源
頼朝の家臣稲毛重成が亡妻供養のため架橋した旧相模川橋脚が、現在も残されています。
また、西久保にある宝生寺銅造阿弥陀三尊立像は、鎌倉時代の作と考えられており、信濃の善光寺に
対する信仰によってつくられたものです。
 茅ヶ崎が舞台となって行われた相模川合戦で鎌倉幕府は滅亡し、南北朝時代が到来します。この時
代から室町時代前期までの約百年の間には多くの板碑(いたび=墓石)が残されています。そして、そ
の分布のほとんどは東海道・大山街道・鎌倉古道に集中しており、また板碑の主尊として刻まれている
内容から、阿弥陀信仰の広がりを認めることができます。
 室町時代に入ると、当市域内でも在地土豪が実力で所領拡大に努めた様子をうかがうことができ、
戦国の様相を示しはじめました。そうしたなかで、着実に勢力を伸ばしていったのが後北条氏であり
茅ヶ崎市域もその勢力下に入っていました。



<3> 近世   貨幣経済の浸透と、海上交通・東海道の発展

天正十八年(1590)までの茅ヶ崎市域は、小田原を本拠とする戦国大名北条氏の支
配下にありました。しかし、後北条氏滅亡後、徳川家康が関東に入ると、当地域の村々
は検地を受け、新しい領主を迎えて幕藩体制の村として再出発しました。

 江戸時代の当地域には、二十三の村があり、いずれも旗本領と幕府直轄領で占められていました。
特に、旗本領が多かったのは、江戸に近い地理的条件によります。なかでも、江戸町奉行として有名
な大岡忠相(ただすけ)の一族が領主として知られており、大岡越前祭にその名残がとどめられていま
す。

 このようななか、相模川の河川交通と江戸へ至る海上交通を結ぶ重要な港である柳島湊が発展しま
した。柳島と同様に馬入川河口にあった須賀湊(現在の平塚市須賀)も栄え、米・材木・薪炭などの重
要物資の輸送にあたっていました。ちなみに相模川は、幕府の方針により橋が架けられていなかった
ため、渡し舟による渡河が行われていました。茅ヶ崎地域の南部には、江戸幕府が指定した五街道の
一つである東海道が東西に貫いています。

 当時は、参勤交代の大名行列や往来の旅人でにぎわい、特に十七世紀後半ごろから平塚・藤沢宿
間の南湖立場ができ、その一帯を茶屋町と称していました。 この時代、天下第一とうたわれた東海道
の道幅は、おおむね四間(約7.2メートル)で、松並木の保全、道路の補修など、沿道の整備はすべて
が当地域の村々にゆだねられていました。 江戸時代中期、亨保十三年(1728)、八代将軍徳川吉宗
の亨保改革の一環として、江戸幕府の鉄砲場(鉄砲の演習場)が、茅ヶ崎海岸から鵠沼海岸の広大な
砂地に設置されました。そして、鉄砲場の管理・運営には、幕府の大砲役の佐々木氏があたっていまし
た。 しかし、鉄砲場近くの住民は、射撃音による魚群の分散や松林の伐採による農地への被害など、
多くの影響を受けました。



<4> 近代・現代   茅ヶ崎町の誕生から発展まで

 明治維新を機に、中央集権的な国家体制をつくり出す上で地租改正・徴兵制・学制など
の維新諸改革が進められました。
こうしたなか、明治二十二年(1889)、市制・町
村制が敷かれ、二十三の村が茅ヶ崎・鶴嶺・松林・小出の四か村に集約されました。この
四か村それぞれが自治体として地方自治の運営にあたりました。その後、明治四十一年
(1908)、小出村を除く三か村の合併が行われ、茅ヶ崎町が成立しました。

 明治二十年代初頭の東海道線の開通も、茅ヶ崎周辺にとって大きな発展の要因になりました。とり
わけ、明治三十一年(1898)の茅ヶ崎駅開業を契機に別荘地としての発展が始まり、茅ヶ崎海岸
も海水浴場としてにぎわいはじめました。同時期、後に東洋一の結核療養所としてその名が知られる
ようになる南湖院も開院しました。

 関東大震災・世界大恐慌を経た後、昭和十二年(1937)、日中戦争の勃発を機に茅ヶ崎の地へ
も工場進出がはじまりました。戦争が進むにつれて、二十代から三十代の多くの男子が戦争に駆り出
されました。そして、昭和二十年(1945)七月には、茅ヶ崎にも平塚の空襲の際に焼夷弾が落と
され、柳島から赤羽根に至る各地区が被災しました。


以上、「茅ヶ崎市のホームページ」参照



大岡越前の守について

大岡越前(1677-1751)
宝暦元年(1751)1219日、テレビドラマでおなじみ大岡越前こと、大岡越前守忠相(
おおかえちぜんのかみ・ただすけ
)が亡くなりました。75歳でした。大岡忠相は延宝5
(1677)江戸で生まれました。父は1700石の旗本大岡忠高、10歳の時に同族の旗本大岡忠
(奈良町奉行)の養子になります。元禄6(1693)に兄の忠品が将軍綱吉の怒りを買っ
て遠島になり、同
12年には従兄の忠英が上役を殺害する事件を起こして一族は肩身の狭
い思いをすることになります。
同年養子先の娘・珠荘院と結婚して子供を2人もうけま
すが二人とも早死にし、宝永
6(1706)にはその妻も亡くなってしまいました。幕府の
職に就いたのは元禄
15(1702)5月、御書院番という役目でした。その後、御徒頭・御
使番・御目付と出世し、正徳
2(1712)伊勢山田奉行に就任しました。しばしば大岡越
前は紀州藩内で活動していたのを吉宗に認められて、吉宗が将軍になった時に一緒に連
れて行ったと思っている人がいますが、そうではなく、大岡はお隣の山田の奉行でした。
この山田奉行時代に紀州と松坂の境界線問題を厳正に裁いたことで吉宗がこの人物に注
目します。そして享保元年
(1716)に吉宗が将軍に就任すると、彼を江戸町奉行に抜擢(1
717)
したのです。彼は江戸町奉行を19年間、その後寺社奉行を15年間務め、寛延元年閏
10
月には1万石に加封して三河国大平の大名に列しました。この大平の大岡家はその後も
ずっと継続していきます。

 寛延
4年、病気により寺社奉行を辞し、その年6月に吉宗が亡くなると、その後を追う
ように同年
1219日死去。忠相が江戸町奉行に任命された時、彼は北町奉行でしたが、
2
年後にその奉行所(数寄屋橋)が南町奉行所と改名されて!!彼はその後南町奉行として
活動しています。その頃の奉行所の陣容は与力
25騎、同心120人。これで御江戸八百八
町の治安を守らなければならないので、かなりの激務であったようです。
だいたい事件
の発生件数からすると1日平均
3040件の判決が言い渡されており(ニューヨークの24
時間営業の裁判所並み
!!)、その関係者の取り調べにあたる与力たち、事件の捜査をす
る同心たちの負荷というのはすさまじく重たいものでした。
町奉行所は北と南が月交替
でおこない、1月受付をしたら1月休みなのですが、その休みの月にも下調べや調書書
きですさまじい忙しさ、実際には休みはほとんど無かったようです。事件が多いので、
ほとんどの事件は与力がほぼ全て決着を付けており奉行はその結果を承認するだけ。あ
とは主として取り調べの様子を見て回ることに時間を割いたようです。奉行が御白州で
直接取り調べをおこなったのは余程の重大事件でしょう。

 時代劇ではよく「不届きに付き、打首獄門を申しつける!」などとやっているケース
もありますが、実際には相手が町人といえども、死罪を言い渡すには老中の許可が必要
でしたので、死刑の場合その場で判決が言い渡されることはありませんでした。老中は
死刑認可の印を押すのに、印の入っている袋の紐を「今日は2回りほどこうかな」「今
日は1回りだけにしておこう」と何日もかけてから取り出し、そして押印したといいま
す。それだけ死刑というのは意味の重い刑罰として運用されていました。「人の命は地
球より重い」という考え方は、何も戦後の裁判官が突然思いついたものではなく、日本
という国の長い伝統なのでしょう。これが平安時代になると、数百年にわたって、死刑
という刑罰は一切おこなわれていません。
 大岡忠相は町奉行所の構造の設計をおこない、その後奉行所が建て直される時は忠相
の設計が基本的に踏襲されています。また同心やその個人的な部下である岡っ引きたち
に拷問の禁止を徹底させ、冤罪防止のための心得なども厳しく説いています。その辺り
が「名奉行」と呼ばれたゆえんなのでしょう。また、吉宗の事績として知られる目安箱
の設置、養生所の設置、町火消しの設置などにも忠相は吉宗のブレーンとして貢献して
いるようです。(岡っ引き・下っ引きは同心が個人で雇っているものなので、十手など
は持たない。捕り物に参加するために必要な場合は臨時に奉行所が貸し与えたので、銭
形平次のように自宅に十手を置いていて、いつも持ち歩く岡っ引きというのはいなかっ
たハズ。同心は安月給なので一般に八丁堀に与えられている屋敷の一部を医者や学者な
どに貸して、その家賃で収入を得ていたらしい)
なお9代将軍徳川家重時代の将軍側近とし
て悪名高い大岡忠光は同族ではありますが、別に忠相の息子ではありません。


時代劇で有名な大岡越前守忠相は、どんな人?

大岡家は徳川家直参の三河武士のなかでも、武功の誉れの高い家柄で、徳川家康の父、
松平広忠の一字「忠」の字を代々名前に受け継ぐことを許されました。忠相は、大岡家
の5代目となります。
徳川吉宗が紀伊藩主から8代将軍になると、1717(享保2)年、
忠相は
41才で江戸町奉行に抜てきされ越前守と称しました。 そこで約20年勤めた忠相
は、将軍吉宗のお気に入りの名奉行となりました。
こうして忠相は、江戸町奉行から寺
社奉行を経て、三河西大平藩1万石の大名になりました。その後、
1751(寛延4)年忠
相は、6月に吉宗の臨終を見送った後、同年
12月忠相も75才の生涯を閉じ浄見寺に眠っ
ています。

名奉行の業績

忠相は、江戸の防火のために町火消しを組織し,燃えにくい塗り家や瓦屋根を広めたり
庶民の意見を聞くために目安箱を設置するなど数多くの業績を残しました。
また貧しい
人たちのために小石川養生所を開いたほか、飢饉対策としてサツマ芋の栽培を奨励しま
した。
テレビでお馴染みの「大岡裁き」は、作り話であったようですが、実際の忠相の裁
判ぶりは、お言葉和らかで少しも御権威強なるご様子なく吟味したと忠相の側近が伝え
ています。
忠相の肖像は、1枚も伝えられていませんが、彼の多岐にわたる優れた業績や人柄は、
現代に語り継がれています。浄見寺に忠相直筆の書が掛け軸にしてあります。


大岡越前祭

大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)は、徳川八代将軍吉宗の時代に活
躍した名奉行です。この大岡越前祭の起源は、大正元年の忠相の贈位(従四位)を記念
して、大正
2年浄見寺で行われたものが最初のようです。その後中断しましたが、昭和
31
年に復活し、第1回大岡祭が開催されて以降、毎年4月に忠相公の功績を偲(しの)
んで、市をあげて盛大に行われています。
今では、茅ヶ崎の春祭りとして定着し、初日には
墓前祭を行い、
2日間にわたり大名行列など様々な催しが、繰り広げられ、「かながわの祭り50選」
1つとして親しまれています。