<私の学生時代と処世術>                    文責  松岡 修


【学生時代】

 小学校の時「君の両親は凄いね!」といろいろな先生に言われて良く可愛がられた。
後でその理由がPTAに必ず担ぎ出される母親が当時珍しかった大学卒だったことだけ
だということが分かった。校長をはじめ細貝先生、山内先生、横山先生、雪本先生など
ほとんどの教師たちにほんとに可愛がられた。松浪小学校では、書道で「毎日新聞社賞」
など毎回賞を貰っていたし兄弟一緒に学級委員をしたこともありました。「君が松岡君
の弟か…」と「オール5」の
兄といつも比較されていたことも憶えている。私は音楽が
いつも「3」だったので、オール5を取ることはなかった。学級委員をほとんどの学年
でやっていたので毎朝の朝礼などでは、1800人を前にして壇上から号令掛けなどで随分
度胸を付けさせられた。
 小学校6年生の時に、親父と秋葉原に行って万世橋改札の目の前にあった「ダイマル
電気」でソニー製7石(トランジスタの数)のラジオとテープレコーダーを買って貰っ
た記憶がある。ラジオは1万数千円、テープレコーダーは3万円ぐらいだった記憶があ
る。まだ学校にテレコが無かった昭和30年代の話です。

 中学の時から電気製品を分解修理したりラジオを作ったりするのが好きで、その種の
雑誌「ラジオ技術」、「CQ HAM Radio」などに投稿したりして(掲載されると雑誌がた
だで貰えるのが楽しみで)遊んだものだ。今は「パソコン少年」、昔は「アマチュア無
線少年」が時代の先端を行く子供の代名詞だった。松浪中学の時は「数学」、「生物」
「化学」など理系科目が得意で、職員室の前のボードに「模範解答」として数学の満点
回答はずいぶん張り出された。神奈川県にはアチーブメントテストというのがあって、
数学など毎回満点を取っていたが、3年生の時も、教えてもらったこともない多賀谷先生がテス
トの監督で私のところに来た時、「おっ、満点だな!」って呟いたのを今でも憶えている。もちろん
満点だった。
 高校の時、広島大学出身の物理の先生に、私が得意な「電気・電子」関係の授業にな
ると質問を浴びせた。彼は私の質問にほとんど答えることができなかった、教科書に無
かったから…。彼は私が卒業してすぐに広島の中学校の先生になったと噂で聞いた。

方、高校2〜3年生の時は、同じ物理が柴田先生に代わりとても楽しく教えてくれた。
県下一斉テストがあって「物理」だけ、県下で50何番か(50番まで表彰された)だ
った。アマチュア無線で海外のハムと交信をしていたので英語も好きだったが、やはり、
どちらかというと理系の科目が好きで(長兄暹が「土木学科」、次兄隆が「薬学科」)
物理や電気が好きな私は「通信工学科」、「電気工学科」を選んだ。受験は失敗した。
入りたい大学があり2年も浪人した。同じ年に生まれた人が230万人以上もいるベビ
ーブームの時代で、受験もほんの少しの差で合否の分かれ目があった。大学受験の失敗
は人生で初めての挫折だった。

 大学の「宇田研究室」に集まった連中の出身高校が皆一流の進学校(佐賀西高、松山
東高、岡山東高など)だったのには驚いた。就職して一流になっているのをみると、大
学受験だけにたまたま失敗
した連中なんだ。正直言って納得した。俺もだ!後で頑張れ
ば必ず取り返すことが出来る。あとは自分自身の「やる気」、「努力」だけ…。能力は
皆一緒、どれだけ努力したか、どれだけ苦労したか、どれだけ苦痛に耐えたか。人の倍
努力をしたか?だけなんです。ただそれが難しい。計画を立てるのは誰にでも出来る。
その計画を実行しなければ意味が無い。


       
 宇田教授と小生(後列左)       初めてのスキー      外洋ヨットでクルージングの後(産経、三菱、大蔵省)

【大学の指導教授の宇田教授について】
(参考)八木アンテナは学術用語で「八木・宇田アンテナ = Yagi-Uda Antenna 」が正式呼称。
東北大学の八木教授が指導教授で実際の考案者は当時助手の宇田新太郎教授(東北大名誉教授)。
宇田教授はアメリカの学会が「八木アンテナ = Yagi Antenna 」と言うのはおかしいと言い始め
て学術用語が変わったと言っていました。私の所属した「宇田研究室」の指導教授で卒業後の昭
和53年でしたか亡くなりました。授業は真面目そのもので笑わせるなんてことは全くありませ
んでしたが、授業が終わると笑顔を見せるやさしい温厚な「おじいちゃま先生」でした。八木・
宇田アンテナは世界中で使われているテレビアンテナで、知らない人はいないですよね。それを
発明したご本人の宇田教授に授業を受けたことがあるということに「歴史」を感じます。
晩年は宇宙線の研究をされていましたが、「ニュートリノ」という言葉の無い時代に、地球を突
き抜ける宇宙線(粒子)が有るんだよ!って言ってましたから、正しく1986年に定義付けら
れた今のニュートリノのことです、そして”宇宙線が感光した感板”を見せていただいたことが
あります。かなり以前から日本テレビの技術顧問をしていたため、「宇田研究室」からは毎年の
ように日本テレビに入っていました。日本テレビに入社したいがために「宇田研」に入る学生は
とても多かった。私もそのひとりだった。


 大学4年生の7月に一斉に就職試験が始まった。辻堂にある「ソニー電子」<お話1>
から誘いがあったのに、私には目的が、目標があると言って断ったが、オイルショック
で就職状況は最低。私は幸い在学中の成績が良かったので、試験を受ける権利はことご
とく得ることができた。岩崎通信機という測定器メーカーを試しに受けることにしたが
受かるのは50人中1人という人事担当者の説明を受けた。受験者総数は49名、つま
り1人だけが受かるということだから受験者は皆一様にガッカリ肩を落としていたのを
思い出す。 私はメーカーの研究所に就職するつもりはなく試し受験だったので気が楽
だったが、不合格になったのには、やはりいい気分じゃなかった。

 兎に角、世界を動き回りたかった。それで学校に公募のあった「時事通信社」をまず
受験、重役面接の5人の
中に残った。学校の話では、今までの実績から重役面接に残っ
たらまず間違いなく受か
るということだった。しかしほぼ同時に「産経新聞社」を受験
した、回りは都立大や横浜国大、
千葉大と国立大学がやたら目立つ、前の席の受験生は
都立大だった。試験は一般試験も
極端にできたとは思わないが、まあまあ、そして面接
でインパクトのある発言ができた。
そういえば面接で西村製作局長に「松岡君、製作に
来ないかね?」と言われて「私は
編集志望です、現場志望です」と一蹴してしまった。
結局、時事通信社より産経新聞社の合格発表が早かったので「産経新聞社」を選んだ。
これが正解だったか、失敗だったか、死ぬまで判らない。仕事が楽しかったか生き甲斐
を感じたか?などの本人の問題と同様に月収や退職金を含んだ生涯賃金も妻にとっては
問題でしょう。自分自身が認める前に、妻の評価・認知があり、子供たちの評価・認知
が先だろう。家族に認められなければ何にもならないからだ。

 就職難でも就職浪人は全く考えなかったが、親父が「大丈夫か?」とえらく心配して
いた。そして顔が利くから「○○市役所」を受けなさいと「滑り止め」を勧められた。
正直言って報道などで聞く就職難は半端ではなかった。だから市役所の「局長」に会い
にいった。そして御願いした。それからしばらくして産経新聞社から合格通知がきた。
「やっぱり産経で働きたい」と謝りに行った。親父は何も言わなかった。今でも感謝し
ている。長兄にも。でも市役所に就職した方が良かったかも知れないね!それの結論は
いつ分かるんでしょうか?

<お話1>2年生の夏から「ソニー電子」でアルバイトをした。ここはカラーテレビの
生産工場で、上級のアマチュア無線の免許を持っていたので、いきなり生産ラインの一
番最後の修理部門に配属された。つまりラインで女工さんによって機械的に生産される
テレビには配線ミス、ハンダのし忘れ、ハンダの天ぷら、部品挿入ミスなど、たくさん
の不良品が出た。1日150台〜200台ぐらい出ましたね。その修理なんです。アル
バイト1日目、17台ぐらい直しました。そして3日目には75台を直してしまいまし
た。翌日から部長さんやら専務さんやら、たくさんの方がいらっしゃいました。「君が
松岡君かね?」って。
謝礼を1万円もらったり、1日で良いから来て下さいと人事部の
人が電話で言うので、こちらの都合で時々行ってました。
でもかなり経ってから、社員
に言われました「あんまりやってもらうと困るんだよナ!平均で一人あたり15〜20
台に押さえているんだよ」って…。
最後のアルバイトの時に部長さんに就職しないか?
と打診されたが「やりたいことがあるんです」って生意気にも断った。

【私の処世術】

 大学時代、私はよくひとり旅をした。10日ほどかけて青森までサイクリングをして
自宅に戻ったら、母親が「あら、もう帰ってきたの!」って。でも、私はその日のうち
に、サイクリングバックから荷物をリュックに移し替えて、能登半島に向けて徒歩の旅
に出発した。母は黙っていたが「金沢の中野に寄りなさいね」って一言。こんな一人旅
で得たことは大変多い。
サイクリングの途中「何処から来たの?えぇ〜茅ヶ崎から!」
から始まって「家のお風呂でも入ってらっしゃいよ!」と結構言われる。休憩がてらに
30分から1時間話し込んだ時は大体そうだ。そのままお断りするのは、失礼だから、
それじゃあ顔だけ洗わせて下さいと、洗面所だけ借りて甘える。ここで風呂まで入るの
は馬鹿っていうもんでしょう。これが今でも処世術の基本かな?金谷峠を過ぎた静岡県
の大きな道路に面したお宅(進行方向左側)でもそうしました。
また昭和47年頃、東
海大の海洋学部があった清水・御津浜の民宿のおばさんは「泊まっていきなさい」って
どうしても譲らない、結局泊まることになったが、近所の人たちを大勢集めて夜中まで
いろんな話をした。翌日は弁当まで作ってくれて持っていきなさいと、勿論お金は受け
取らない。その後、お礼に一度も行ってないのが心残りだ。西は名古屋、広島などなど
箱根越えは何度やったかな…。


            
       自宅前で記念撮影     お風呂屋さんでひと休み       平泉に到着した愛車

 静岡の何処か忘れたが、宿が無いとというか3日に2度は野宿をした私は、横断歩道
橋の上や公園や駅で野宿することもしばしばだった。その日は野宿をする日、夜22時
過ぎまで自転車で走って、公園のような所に小さ目プールがあったので、急ぎシュラフ
をプールサイドのコンクリート張りの所に敷いて寝始めた、勿論疲れているので直ぐに
寝入ったが、2時間もしない内に「胸騒ぎ、何か気持ちが悪い」ために起きてしまった。
普通は通行人が通っても疲れているから起きないが、兎に角起きてしまった。寝付かれ
ず辺りを探りに行くと、どうやらここは「お寺の裏の焼却炉」。焼却炉がズラリと5個
ぐらい並んでいる。「えっ!ひょっとして焼き場?」私は慌てて荷物をまとめて逃げ出
した。そんなこともありました。

 岩手では、お店でパンを買って簡単な昼食を取ろうと入ったのに、やはり話し込んで
えらく気に入られ、感激されて、結局お金は一銭も取らなかった。

 昭和49年頃、与論島では民宿のおやじさんに経験したことのない「サトウキビ刈り」
をさせてくれと頼み、約1日手伝いをさせてもらった。おやじさんの民宿は鉄筋3階建
で本土の建物より立派だった。そんな民宿のおやじさんが「一所懸命手伝ってくれた」
こんなに真面目にやってくれるとは思わなかったとエラク感激して「昼飯を家でご馳走
する」と言い出し、民宿とは違うところにある藁葺きの家(下の写真)に連れて行かれ
た。そこでおばちゃんが作ってくれたお昼ご飯は「ラーメンライス」しかも普通の「ご
飯」が別盛りではない。「ラーメン」の上に「ご飯」がのった「おばちゃんの家」特製
の「ラーメンライス」だった。私自身大変感激したことを憶えている。なぜかって…?
民宿では沖縄と同様のステーキや海の幸のエビフライなどを出しているおばちゃんが、
昔から住んでいた藁葺き屋根のその自分の家で、たぶん普段農作業をした後に必ず食べ
る「昼ご飯」をご馳走してくれたんだと思います。当然ながら飛び切り美味しいとは思
いませんでしたが、食べている時は最高の気分でした。

                  
         ラーメンライスをご馳走になったおばちゃんの家

旅で得た収穫は多い。そして社会人になった私の処世術になっていることがとても多い。

平成6年7月記す