Ver−2.11.11


      仕事後記「こんな事もありました」

                                               松岡 修 

                      


                        Part2

**************************** 速報取材業務で ******************************

                                           名前は全て仮名です。

プロ野球キャンプなどのスポーツ取材>     

 昭和50年代はプロ野球の「キャンプ」の取材で「指宿」=土屋カメラマン、「高知」
=鈴木カメラマン(現・東京本社サンケイスポーツ編集総務)、「鹿児島」=剣持カメラ
マン、ほか各地を巡りました。「高知空港」では、早版用原稿を東京に持ち帰るために飛
行機の出発時間を10分遅らせたこともあります。そして、その30分前に、裏焼き原稿
を送稿して最終的に7000枚の「西武線中刷り広告」を「ボツ」にさせたことがありま
す。謝罪にいった時、当時の整理部長は「君のほかに点検するセクションはいっぱいあっ
た」と、私が整理部長に謝りにいったことが前提の言葉だが、謝り方でこいつは同じ間違
いをしないヤツだと感じたのかもしれません、全く怒られませんでした。管理職として懐
の大きな人だったことを覚えています。
 ロッテ「鹿児島キャンプ」では、取材を終えて一人で宿泊場所の鹿児島ロイヤルホテル
の大浴場に入ろうとしたら、先客に有藤選手(後のロッテ監督)がいた、私を見るや背を
丸めて大慌てで出て行った…。よほど小さくて見られるのがイヤだったのか???
金ヤン(金田監督)は、昼休みベンチに座る時「弁当もらったか?キチンと食べろよ!」
と取材陣のひとり私にも必ず声をかける気の回る監督だった。写真もイヤな顔ひとつしな
いで撮らせてくれた。
そう言えば北海道の苫小牧にアイスホッケーの取材に行きました。アイスホッケーなんて
見たこともないし「ルール」も、そして「ゲット」などという用語すら知らない。にわか
勉強しても無意味。それでもキャプションぐらいは何とか書けた。3日目頃だったか数日
上手くいったものだからちょっと調子に乗ってしまい慎重さが欠けたからでしょう、フィ
ルムを現像する時に「膜面と膜面」をくっつけてしまった。どうにか2本のフィルムを分
けることができ、3カットだけ生きて、その内の1枚だけが早版用に送稿できた。そして
その日の横井デスクに電話で理由を正直に説明して謝罪した。それから取材が終わって本
社に戻ると、サンスポ横井デスクが「松ちゃん、あ〜いうのはイチイチ言わなくって良い
んだよ!アレしか良いのがありません!でいい…。」その後、諸先輩の大きな失敗をたく
さん見ました。撮影自体にそして現像に失敗して、他社からの“貰い原稿”を送るなんて
結構ありました。写真は1発ものだからカメラマンの新聞社や通信社間の互助精神は強い。


*******************************************************************************

最終版の速報取材

 「火事」、「殺人事件」、「事故現場」は朝・夕刊の最終5版の締切りごとに必ず現場
に出ていました。夕刊は11時30分過ぎになると共同のニュース速報が気になって仕方
がない、朝刊も同じだ。でも11日連続で現場に出動したのに、その間一度も紙面掲載さ
れなかったこともあります。「整理部長の責任ですな!」って整理部次長の宍倉氏が言っ
ていました。ただ昭和50年代はそんな感じでしたよ。何となく全体がゆったりとして余
裕のある。
下の左端の写真は、初島小学校の校歌を阿久悠氏が作曲、その発表会の写真を
夕刊に掲載するために出動、ポラロイド写真を松下の写真電送機・201MPとハンディ
トーキーによる無線電送(ラジオカーによる無線電送が一般的)を日本で初めて写真電送
を成功させた時の写真。


                 
 昭和55年11月15日    右が小生          昭和56年11月5日 小佐野公判取材に向かう小生
 初島小学校の校歌を    左は基山写真報道局    =東京地方裁判所正面玄関で
 阿久悠が作曲       次長            撮影:小野(義雄)=通称”スッポンの小野”
 =静岡県熱海市初島で

          
  昭和57年8月2日 「中央自動車道土砂崩れ現場」 通行止めのため小野チャンと1時間半約8キロを歩く。
  右端がハンディでヘリと連絡を取る小生。近くの農家に電送基地を作り、自動車道にヘリを降ろし原稿渡し。

  撮影:小野(義雄)=通称”スッポンの小野”(この時のヘリ取材の方は田中カメラマン)


*******************************************************************************

飛行機事故取材

 日航機の片桐機長墜落事件も羽田に駆けつけました。黒石カメラマン(後の写真報道局
長)のあの「協会賞の写真」=片桐機長が乗客と一緒にヌケヌケとボートに乗って避難し
ていた。C滑走路まで遠かったなぁ!

   
   
昭和57年2月8日 日航機羽田沖墜落     まだ尾翼が左に残る尾巣鷹山で

 日航機の尾巣鷹山墜落事故もまだあちこちに肉辺が残る山に三好カメラマン(元夕刊フ
ジ写真部長)と入り、我社のジェット機サイテーション「オーロラ」を使って航空機によ
る「150MHzアップリング/60MHzダウンリング」の無線中継取材をしました。登山に等しい
山登りは大変でした。
下は八丈島で150MHzハンディトーキーからアップ、八丈島上空でサイテーシ
ョン「オーロラ」を使って中継して60MHzで東京本社にダウンリングするテストを
した際の
写真です。

                 
            左から間山・元機報部長、原田(大禄)・元文化部長、松岡=八丈島空港で

日航機の尾巣鷹山墜落事故で助かった慶子ちゃんが退院した時、河合カメラマンと病院に
行った。出を載せるためだ。出口に近いところで河合氏が、15mぐらい後方で私が、ポラ
ロイドのカメラを構えて出を待った。ポラは1発勝負だ!そして慶子ちゃんが来た。ポラ
のフラッシュが一斉に光った。次はこちらだ、出来るだけ近づけて「今だ!」とシャッタ
ーを切った。向こうから河合さんが「これ頼む」とポラフィルムを持ってきた。私が撮っ
たのと2枚を持って電送現場に向かう。途中で現像完了時間になったので2枚をそれぞれ
剥がした。「えぇ!」河合さんが撮ったのはピントが合ってない!!慌てて私の撮影した
のを見ると、慶子ちゃんの大きさもピントもバッチリだった。直ぐにエトキを書いて送稿、
受信もOKだった。結局、夕刊フジ一面、夕刊早版一面とも撮影者は松岡修でした。昔は
こんなこと結構あったんです。賢いカメラマンは、1,5人で撮影するようなものですから
僕らにもカメラを持たせる。菊ちゃんとか大阪の中野君なんかはこんな経験が多いと思い
ます。


*******************************************************************************

大島噴火取材

 昭和61年(1986年)11月21日大島の三原山が大噴火(割れ目)して、第一陣として船
で向かったが、大島では取材陣も下船許可ならずそのまま新島まで行って新島でしばらく
待機することになったが、結局その日の内に許可は絶対に出ないというのでクルージング
を楽しんで「竹芝」に戻った。
 長期化する様相の中、1ヶ月後、ヘリで大島入り。第2陣としてヘリで大島に到着して
すぐに、私はカメラマンから早速、港で原稿をもらい前線本部に戻ろうと車を発進させよ
うとしたところ、車の前に両手を広げて立ちはだかった港湾労務者のような人に大声で「
あんた、あの人に何か言うこと無いのか!」、「あいさつしなくていいのか?」と制止さ
れた。一体何が起こったのかサッパリ分からないが、その人の指さす方向に「女の人」が
いたので、「産経の松岡といいます。大変申し訳けありません、大至急この原稿を処理し
て東京の本社に送稿しなければなりません。1時間後の20時に必ず事務所に必ず伺いま
す。先程、ヘリで東京から来たばかりで、時間をしばらくいただきたい」(兎に角、何か
悪いことをしたようだから)謝罪しながら事情を説明して懇願したら、「分かりました」
と了解してくださった。

 そして1時間経っていなかったと思うが、原稿の送稿も終わり20時ちょっと前に教え
られた事務所に行くと、港湾・建設労働者のような人たちが座り込んでたむろしていた。
「社長は何処でしょうか?」と聞くと、奥だと言う。さらに入り口からずっと奥に入ると、
さっき謝罪した「女の人」がいた。ひょっとしてあの「女の人が社長さん?」その通りだ
った。早速、「先程は大変失礼いたしました。お陰様で良い写真を本社に送ることができ
ました。東京本社も大阪本社も、すばらしい写真を掲載できると思います」とお礼を言っ
た、そして仕事優先の無礼を詫びて謝罪をした。
それまで黙って聞いていた社長が「あんた!約束守ったネ!」(20時に必ず伺います
という約束をした)これが第一声だった。その後、一挙に「天下の産経が何ということを
するんだ、車を貸す約束は1週間のはず、何のあいさつもお願いも無い、どういうことな
んだ」と今回の一件の理由を説明し始めた。どうも社会部とは何日までと約束をしていた
のに、延長の問いかけも無かったので気分を害したようだった。そこで初めて、「元町港
の目の前にある土木建築関係の会社の女社長さんに第1陣のO社会部員が取材用に車を借
りた」ということが私にもやっと判った。それで再度丁重に謝罪した。すると女社長は、
急に「あそこと、あそこのガソリンスタンドはうちのだから、これからはガソリンを入れ
てもらいなさい。車も無期限で貸してあげる」などなど「あんたは、約束を守ったから」
と全面支援を約束してくれた。

 しかしその後、悪いことにWカメラマンが「車をぶつけた」。また私の出番になり謝罪
しながら、弁償するなど提案したが、女社長が「どうせ、もう乗るのを止めようと思って
いた車だから」と弁償の提案を受け付けず許してくれた。そして私の提案として「何かし
て差し上げたい」、「何かほしい物はありませんか?」と言うと「それじゃ、大島噴火の
写真がほしい」と言われたので、本社の黒石写真部長(後の写真報道局長、現・写真ニュ
ースサービス社取締役)にすぐに連絡、経緯をすべて説明した。翌日、黒石写真部長が「
ヘリ」で「菓子箱と噴火の写真」を一緒に持ってきてくれた。ヘリで東京本社からすぐに
届いたものだから女社長は大喜びだった。そんなこともありました。

 この「大島の噴火」では、前線本部として使わせていただいた元町1丁目の「為朝園」
のご主人は、サウナを入れっ放しにしたままで避難してしまいました。避難した藤沢市の
ご主人に電話をして、サウナの切り方を教えてもらい危うく火事を免れ、感謝されたこと
もあります。またニッポン放送の19時の定時ニュースで“現状の報告”の放送したこと
や、ニュースの放送直前に中噴火して前線本部はパニック状態だったので「大袈裟な報告」
になってしまったこと。(出演料を貰い忘れたこと)たまたま当時通っていた歯医者さん
が「このニュースの放送」を聞いていた。そんなこともありました。地震も凄かったな!
生きた心地がしなかった。

            
     
大島の我等取材陣をテーマに、山中記者が記事にした(写真右が小生、左がM君)
     
=大島元町の為朝園で(昭和61年12月3日、サンケイスポーツ紙面より)

 入社1年少しの機報部員が大島に勉強がてらやってきた。彼は私の初めての銀行強盗取
材で「手が震えて写真をドラムに巻くのが大変だったこと」などを自分の実体験で「緊張
する例」として彼に恥ずかしながら教えた。彼はひと言「松岡さんって小心なんですネ!」
そして、その彼がまさしく噴火している最中の大島へやってきた。現場からフィルム(写
真原稿)が届けられた。私が現像し、そして焼いた、「じゃあ、これ本版・東西共通で送
って」と焼いた写真をM君に頼む。まず電話で「東西共通って言うんだよ!」「分かりま
した!」………。(5分間ぐらいの沈黙)「次、焼けたからこの3枚も東西共通でね!」
……(まだ、沈黙)あまりに沈黙が長いので、電送機設置場所のフロントの所に行ってみ
ると、そこには“まだバーを持つ手が大きく震えて、8×10の写真がドラムに卷けない
M君の姿があった。現場ってホントにそんなに緊張するものなんです。普通ならば…。


*******************************************************************************

三宅島噴火取材

 昭和58年(1983年)の「三宅島の噴火」[=田中、野村(成次)、渡辺(照明)、西出の
各カメラマンと私]取材では、夜の22時頃、竹芝発の東海汽船の定期便で早朝到着して、
大量の噴石で真っ黒になった島の港に足を踏み入れてから、ほとんど一緒に行動した田中
カメラマンは、通信を確保するために最初からすぐに取材をせず、数時間、無線を確保す
るために立地条件の良い場所を探すのを手伝ってくれた。そして伊豆半島の北東方向が開
けた高台の保健所の前庭に、東京本社から一所懸命運んだ7本の“アンテナポール”(時
の上司は、そんなの持って行っても仕方がないから止めろ!と言われたが、無線が通じる
と判断した私は……上司に逆らって持って行った)を一人で3方向に“ステー”を張って
組み立てた。セットを終えて直ぐに交信テストをしたメリット5に大感激した。そして間
髪入れず行った画像電送テストはバッチリだった。これが、後に溶岩で通信回線が切断さ
れて三宅島全島の一般加入回線が完全に不通になり、東京から『NTTの衛星通信設備』
が運ばれるまでの12時間余り(22時頃から翌日の10時少し前まで)の間(民宿の前
線本部と高台の保健所まで写真原稿を車でピストン輸送)産経だけが東京本社に写真原稿
を無線電送で送稿することができ、翌朝の夕刊4版までは全て特ダネ写真となった(「その
時はありがとう!」と静岡支局の小野デスクが教えてくれた)最終版の5版は通信回線が
復旧して各社は送稿できるようになった。田中カメラマンの全面的な協力がなければ、効
率の良い無線設備のセッティングもできず苦心したことだろう。ひとつの取材という目的
のために協力し合うことの重要性を示した例です。通信回線確保の重要性を田中カメラマ
ンは当然知っていたんです。いくら素晴らしい写真を撮っても送稿出来なければ何の意味
も無いことを…。そして自分が苦労するだけで済むなら「持って行ける物(資材)は持って
行け!」、「(資材)無ければ何もできない!」の当たり前な私の処世訓が生まれた。
そし
て田中カメラマンという良き先輩がいたから忘れられない実践経験ができた。またこの三
宅島の取材では島の食物、衣料品などはすべて買い占められて全く手に入らず「10日間
パンツを一度も替えなかった」そんなこともありました。


        

*******************************************************************************

海外取材・オリンピック取材

 昭和56年(1976年)10日間の「シアトル」取材や、平成4年(1992年)の2ヵ月弱
にわたる「バルセロナ五輪」取材も大変な経験をしました。柔道、水泳などメダルが期待
される種目のほとんどを最新のDCS(コダック・ダイレクトカメラシステム)で写真の
速報取材をしました。バルセロナの夏は暑くて現場の競技場への移動が大変だった。タク
シーが捕まらなくて、スタートまであと40分ほどになってしまい、猛暑の中、重い装置
(DCS)を持って次のピコネル水泳会場まで走って移動、着いたのがギリギリでDCS
のセッティングを終えてテストもせずにいきなり本番送稿。水泳会場の記者席は直射日光
が当たり「ディスプレー」がほとんど見えず補正も儘ならない最悪の環境でした。日本中
の誰もが予想もしていなかった岩崎恭子が金メダルを取ったその日の出来事でした。
同じ日にいつもは10分おき位に来るシャトルバスが全然来ない。50分も間、何の文句
を言わない長島茂雄さんとバスを待ったことなどを思い出します。長嶋さんって気の長い
人だなと思いながら…。

    
津田デスク(中・現運動部長)と    張り紙だらけのMPCで   長嶋さんでぇ〜す!
相談する小生。左は中野くん                    私と長嶋さんと秘書の方の3人で
                                 シャトルバスを1時間近く待った
             =バルセロナ五輪MPCで        こともありました。何ひとつ文句
                                 を言わず、気が長が〜い人でした。


何よりもバルセロナでは英語が通じないのには困りました。開会式が始まる少し前までに
は、IOCの職員に英語で聞くのが一番だということが分かり、スペイン語は一度も使わ
なかった。(私は第2外国語はスペイン語を専攻)
 とにかくバルセロナ五輪では、通信回線が開会式直前まで安定せず、スペインのNTT
に相当する「テレフォニカ」との折衝もあり、徹夜を何回もした。そして中日を過ぎた頃
だったか、2日間貫徹をして3日目に意識が朦朧とし、鳥海バルセロナ支局長に「もうダ
メです寝かせて下さい!」と入社以来初めて泣きを入れたこともありました。ところで、
バルセロナ五輪では通信回線が安定しないため、たまりかねた私が自発的に日本の新聞・
通信各社を代表して、「IOC」に提出すべくスペイン語の要望書(はんをつくだけの状
態にして)を用意して、各社のブースに賛同を求めて回った、状況は各社一緒だったので
説明をしたら大賛成。毎日新聞OK、読売新聞OK、共同通信社OK、時事通信社OK、
日経OKと、各社は「申し訳ないけど松岡さんよろしく」という状況の中で、朝日新聞社
だけが「うちは、ずっとOKだから結構です」で、朝日新聞1社だけ除いた要望書で提出
した。以来、朝日だけはいつも独立独歩、協調性無しに気が付いた。勉強しました。
 報道陣が宿泊する記者村では、毎日午前3時過ぎに「記者村」(=車で45分ぐらいか
かる)に帰って洗濯をしながらシャワーを浴びて(皆が一斉に使うから、途中で冷たい水
になる)午前4時ごろ、ほとんど必ず全員の帰りを待っている金丸デスク(=現大阪写真
報道局次長)と木山デスク(=現東京写真報道局次長)ら何人かで酒を飲み就寝パターン
の毎日でした。起床は8時、すぐに食堂に行って昼飯兼用の朝飯を食す。バックに果物と
飲み物を詰めるのは禁止だが隠れていくつか詰める(中国の記者は、バックがパンパンに
なるぐらい詰める。回りの目も気にせずに…)のが毎日のパターン。食事は落ち着くまで
昼飯抜きが多かったな。しばらくしてピザのブース配達便があるのが分かって、ブースで
仕事をしながら食べました。「メインスタジアム〜MPC間」の競走(デスクの原稿運び)
で新記録を作ったこと、忙しくてパエリアを一度も食しなかったこと、市場でカラスミが
とても安かったのでお土産品に大量に買い込み、会社やご近所にも配りました。五輪期間
中、休みは一度も無し。過酷な五輪取材でした。


*******************************************************************************

代表取材>=日本の新聞社を代表して「北方四島支援」を取材する

 平成6年(1994年)、「北方四島支援訪問団」の代表取材で産経がカメラマンと写真電
送要員を派遣、通信衛星「インマルサット」を使って「NT3000」によるフィルムダ
イレクト・カラー電送と記者パソコンによる記事送稿を私が国後島、色丹島から行った。
(テレビはNHKが代表)

   
中央右がインマルミニM、港に照明設備は   兎に角、全てが古いそして貧しい。小学生が
全く無く真っ暗。=色丹島で         タバコをくれ!なんて当たり前。ビックリだ。=国後島

後方の車で明り取り。中央横向きが小生。

外務省は北方四島は日本の固有の領土という考え方で、通信衛星「インマルサット」は国
内では使用できないため、郵政省も「インマルサット」の北方領土での使用不可を通告。
しかしながら現地で衛星通信以外の通信回線が確保できないので、今回は通信回線を確保
するために、新聞社の上級無線技術士の免許を持つ者が日本国内の北方領土で『試験運用』
する“特例使用”という形で許可された。そして選ばれたのが産経新聞の小生でした。
現地から『北方四島支援』の速報取材のため、天王寺谷カメラマンが撮影、小生が記事と
写真を送稿した。同じ写真が朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、日経新聞、東京・中日新聞
など、全国の新聞各紙に掲載された。すべてが苦しかったが喜びは大きかった。
帰路、大時化になり船長が「船が転覆する恐れがあるので国後島に戻る」と大荒れの海の
中、ジェットコースターの船に乗りながら島影に大急ぎで避難するオマケまで付いた。
全く生きた心地のしない“死に物狂い”の取材でした。



        毎日新聞                 朝日新聞              日本経済新聞

      
      産経新聞               読売新聞                 送稿原画

*******************************************************************************

サッカーW杯取材
 平成9年、黒石写真報道局長要請で、韓国「京郷新聞社」との写真契約で先方の状況把
握をするために出張した。ちょうどソウルでサッカーW杯予選があり、最後のご奉公と思
い速報取材のお手伝いをした。案の定、結果的にそれ以降速報取材をしていないので、4
5歳のこれが最後の現場取材になりました。すでに機報部次長、航空部次長も兼務してお
り多忙極まりない状態になっていました。写真送稿は電送パソコン「Com Mac」NT3000
によるフィルムダイレクト電送でした。走り回って靴の底が抜けた厳しい取材だった。

 ところで訪問した「京郷新聞社」では、写真部にマックがズラリ何台も置いてあって、
ハングル語のマックOSだったのですが、フォトショップもすべて「機能」の位置やショ
ートカットも同じでした。京郷新聞社の編集局長や写真部長、記者の前で画像処理などを
「パッパッ」とやったら、皆にビックリされてとても面白かった。「何でそんなにできる
んだ?何で分かるんだ?」なんて…。 「マックOS」や「フォトショップ」は1980年代
後半から懸命に勉強しました。やはり、夢中になってやるときはやるものです、いつか生
かされる&発揮できる。
 選手と一緒の帰国で、羽田空港では中田選手の直ぐ後ろにいたためフラッシュを浴びる
羽目に…。NHKの夜7時のニュースで帰国した小生の映像が流れてしまった。


            
 ソウル到着後にデスクと話す小生。ホテルのテーブルの上には電源の入った「Com Mac」と「NT3000
                <江角カメラマン撮影>  


*******************************************************************************

特ダネ

 横浜「磯子警察署」の殺人犯の引き回しで(産経の私だけが、磯子署・署内の電話を内
緒で借りることができた!)最終15版の「特ダネ」。今でも当然憶えているが犯人が署
内の階段を降りて来て、目の前を通過してすぐに写真を本社に送稿できた。15版の一面
を飾った。警察署から写真電送をしたのって、私だけじゃない?

                      
            15版・最終版にサンケイだけが…。 思い出の特ダネ写真の掲載 
                前代未聞!警察署で写真を電送した。


*******************************************************************************

海部俊樹
 昭和50年、首相官邸に研修で行った時、海部氏が官房副長官か何かで官邸を案内して
くれた。最後に海部さんに感想を求められ「緊張のあまり何を見たかもう忘れてしまいま
した、いずれにしてもよろしくお願いします」と答えたのを今でも憶えている。
昭和52年
ごろ、文部大臣の時に小学校の給食を試食する
この時も感想を求められ「近頃の給食は、随分贅沢な
メニューになったものですね、云々」とお話をした。


*******************************************************************************

本田総一郎 昭和52年ごろ、本田総一郎氏が「人魂」の研究をされていた。総一郎
氏が”子供のような表情で”私に「どうだ面白いだろう!」そして「きょうは面白かったですか?」「
面白い!で良いんです」。笑顔のすばらしいひとでした。

*******************************************************************************

マイケル・ジョンソン
 1996年、アトランタオリンピックが終わって数ヶ月、400mと200mで金メダ
ルを取ったマイケル・ジョンソンが群馬の作新学院で講演会をするという。USA
TOD
AYと提携を結び更に同紙に連載されていた「ジョンソン物語」を掲載していた関係で来
日したジョンソン選手をアシストして社機「ペガサス」で有森選手と一緒に羽田の産経格
納庫から作新学院まで往復してあげることにした。
                   これ私!
         
 ボディガード、松岡、ジョンソン、増井、   サインするジョンソン  ジョンソンのサイン
 マネージャー、宮川 =羽田産経格納庫前で

その際に格納庫の応接室に通し、色紙などにサインをお願いしたときの写真がこれだ。お願いすると快
くうなずき淡々と書いてくれた。羽田に戻って車の到着が遅れ格納庫で待っている間に、自販機でジョ
ンソンに100円の「スプライト」を、ボディガードには「コーラ」をご馳走した。もちろん私の奢り!

(マイケル・ジョンソンにスプライトを奢ったのは世界で私ひとりじゃない?へへ!)

*******************************************************************************


              
               懐かしの記者証


     
     社有機・アグスタ               社有機・オーロラ

*******************************************************************************

文中の人名は全て仮名です。  取り敢えず、以上

文責・松岡 修