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「エターナリー湘南」 編集部から Ver−08.1.1
板 部 家
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<私の父と母>
父 : 松岡 源蔵(明治45年4月28日生/昭和59年12月15日死去) 本籍 福岡県甘木市
インシュリンの世界的な権威・横浜市立大学病院元教授・柴田哲夫さん、西日本新聞元会長日本新聞
協会副会長をされた福田利光さんは父の同級生。同級生に有名な人は大変多い。関西大学を卒業後、
広島の高校の教師をして戦争中は通訳として軍属でインドネシアに派遣された。戦後はバス会社の川
崎鶴見臨港バスに勤め、その後、子会社の臨港興業(株)の役員として72歳の死亡時まで働いてい
た。給料は72歳の時、産経の部長職より2〜300万円高かった。
母 : 松岡 敏子(大正5年10月5日生/昭和58年1月7日死去) 本籍 福岡県甘木市
東京女子美大を卒業後、福岡で女学校の教師をしていた。父の弟・良祐の妻も教え子のひとりだ。小
学生頃から親父の出張の度に福岡に連れて行ってもらったが、そこで会う母の教え子や親戚の従姉妹
たちが「お母さんはホントに出来たんですよ!先生が赤点を付けるんだけど、筆記などの回答があま
りに明解で点数が付けられなくて、100点以上ということで赤点を付けたんですよ!」って、また「
それじゃなければ、そんな時代に東京の大学(当時専門学校)に行ける訳がないじゃない!」ってや
はり皆が口を揃えて言ってました。弟の忠人も東京帝大・京都帝大の能力があったが、地元の九州帝
大の法文学部にいったとやはり周りの人たちが言っていた。日本工営元会長・久保田豊さんの奥様、
山田商会の山田会長の奥様も母の東京女子美大の同級生。唯一の弟・忠人(忠は代々付いている)は
沖縄の浦添で戦死している。板部家は血が途絶えた。
長兄 : 川崎市役所・建設局・多摩土木事務所 所長
次兄 : 東京理科大学・薬学部・臨床薬学研究室 東大・薬学博士
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資料
日本新聞協会資料 元西日本新聞、西日本放送会長・福田(利光)氏
福田(利光)氏
福田(利光)氏は、昭和十二年に福岡日日新聞社(現西日本新聞社)に入社されてから半世紀余り
の五十五年間を新聞一筋に過ごされた。戦前・戦後の激動期に編集の最高責任者として活躍、報
道の自由の確立に尽くされたうえ、経営の最高責任者となってからも、卓越した識見と強力な指
導力で、社業の発展とわが国新聞界の充実・向上に献身的な努力を傾けた。
二十年余にわたる日本新聞協会とのかかわりでは、長期にわたって理事をつとめられ常に地方
紙を代表する立場での困難な調整役を果たされたばかりでなく、理事会に特設された「技術開発
特別委員会」の委員長としても、新しい時代の技術革新と積極的に取り組まれて、変革期への対
応の基礎を固め、将来への展望を開いた。五期十年におよぶ副会長時代には、再度にわたって会
長代行の重責を担われ、国際化時代の日本新聞界を代表して活躍されるなど、同氏がわが国新聞
界に果たされた新聞人としての役割と功績は高く評価される。西日本放送の会長も歴任された。
=社団法人・日本新聞協会のホームページから
<雑感>
父がバス会社の人事課長をしていた 昭和35年ごろ、父の出張で一緒に福岡までよ
く出掛けた。 “炭鉱の娘さんや故郷の甘木の娘さんをわざわざ採用する甘木出身の
東京のバス会社の人事課長さん”という記事を父と同級生の福田さんが大きく書いて
くれたと聞き、そして記事を見たことがある。坂の所にある甘木?の古い新聞社を父
と一緒に訪ねた記憶がある。植字(ちょくじ)用の鉛の活字が木の棚にずらりと並ん
でいたのを憶えている、勿論、案内してくださったのは福田利光さんのはずである。
スーパーで、家の奥さんが息子の同級生の母親で福田さんという人と話をしていた。
よくよく見ると驚くことに、私の同級生で昔良く遊んだ土谷君の妹さんだった。以前、
福田さんの旦那さんがフジテレビに勤めていて、アメリカから帰国した時に「産経新
聞の特派員の千野鏡子さんとワシントンでずっと一緒だったんですよ」という話を家
の奥さんから聞いていたので、産経で帰国して外信部長になった千野鏡子さんと分か
り「奇遇だな〜!」なんて思っていました。そして千野さんご本人とも「福田さん、
今、茅ヶ崎の私の家のすぐそばに住んでいるんですよ」なんて話を、土屋君の妹さん
とも知らずにしていました。
その後、福田さんのおじいちゃま(旦那さんの父上)が新聞社にいた、しかも福岡だ
という話を聞いて何となくお名前を伺ったら、驚いたことに「福田利光さん」だった。
(昭和50年代に親父が、昔、死水をお互いに取ろうと約束していたのは「横浜市大
病院教授の柴田哲夫さんと西日本新聞社の福田利光さん」と聞いていた)インスリン
の研究で世界的な権威だった柴田哲夫さんは、父の葬式にもやはり来られて憶えてい
らっしゃた。娘さんを私の次兄の嫁さんに…という話も知っている。残念ながら福田
さんは憶えていらっしゃらなかったようだ。福田(利光)さんの息子さんは、現在フジ
テレビの映像センターだったか?の部長をしている。こんな事実が分かってしばらく
して東京本社の移転の際に報道システム部にも来られたことがある。
子供同士(息子と娘さん)が同級生、たくさんいる父兄の中で母親(奥さん)同士が
たまたま仲良しになって、私の中学校の同級生の妹だった。そしてフジテレと産経の
接点、私の親父と福田さんの父親が福岡の朝倉中学の同級生で死水を取る約束した仲、
と三世代の繋がりには驚いてしまいます。世間ってやっぱり狭いものですね!ビックリ
しました。
平成20年1月
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