「ジム・パワー」とは何か



毒々しいタイトル画面

「ジム・パワー」……このタイトルだけを聞いてゲームの内容を正確に思い浮かべることができる人は、かなりのゲーム通と言われる人々の中にもそう多くはいないだろう。いやそれどころか、これがゲームのタイトルであること自体理解してもらえるかすら実はかなり怪しかったりする。

「ジム・パワー」は、PCエンジンスーパーCDロムロム用のソフトとして1993年にマイクロワールド(現コムシード)から発売されたアクションゲームであるが、最初からPCエンジンオリジナルとして作られた訳ではなく、制作元のフランスのLoriciel社からAmiga、Atari ST、Amstrad CPCといった機種に向けて1992年に海外で発売されたものの移植作である。

本作を発売したマイクロワールドという会社は、この「ジム・パワー」以外にもいくつかの海外のゲームを、メガドライブやPCエンジン用のソフトとして日本に持ち込んでいる。日本の市場性というものを考慮しているとはあまり思えないそのラインナップには「スライムワールド」「ストームロード」「ベイビー・ジョー」など、いかにも「洋ゲー」という感じの一癖も二癖もあるソフトが揃っているが、その中にあってもこの「ジム・パワー」の持つ存在感はひときわ圧倒的であると言えよう。

事実、このソフトが日本に上陸した時に各方面に与えた衝撃の秘かな大きさは、当時刊行されていたPCエンジン専門誌などからもその一端を伺い知ることができる。例えば、「月刊PCエンジン」の4人の評者によるレビューでは100点満点で平均が77点というなかなかの評価を得ているのだが、その一方で「PCengineFAN」の読者評では一般的なソフトの平均点をはるかに下回るブッちぎりの最低点を獲得して「伝説」と化してもいる。あえて好意的に解釈すればこの「ジム・パワー」は極端に玄人受けのするゲームである……ということになるのだろうが、ともあれ1本のゲームソフトに対する評価がここまで極端に分かれることはそうあるものではなく、その意味ではゲーム史上希にみる問題作であると言ってもあながち間違ってはいないだろう。

ゲーム自体は実は結構オーソドックスな面クリア型のアクションであるこの「ジム・パワー」が「問題作」と見なされるのはなぜか。それは、このゲームをプレイすることによって得られる感覚があらゆる面で私たち日本人の理解を超えているためではないだろうか。いわゆる「洋ゲー」という言葉で一括りにされることも多い海外のゲームは、その斬新な感性が時として私たちに新鮮な驚きを与え、また逆にそういう「異質」な要素があることこそが海外のゲームの特徴だと見なす向きすらあるが、この「ジム・パワー」の場合は事もあろうにそういう異質な要素『だけ』でゲームが成立してしまっている、ある意味「洋ゲー」の極みを尽くした一本だとも言えるだろう。

一分の隙もなく執拗なまでに描き込まれた美しいグラフィック、否が応にも戦意を高揚させずにはおかないアップテンポで荘厳な音楽(ゲーム音楽の作曲家として名高いChris Huelsbeck氏の楽曲がCD音源で聞けるPCエンジン版は何気に貴重なアイテムかも)、さり気なく盛り込まれた高いプログラム技術、そのどれもが「ジム・パワー」の制作に費やされた労力と制作者の意気込みを存分に物語っている。しかし同じくこのソフトの特徴である不可解な操作性、キャラクターや世界観の異様さ、実際は単純なのにそれでいて理不尽さを感じさせる敵の動きなど、それこそ洪水のように押し寄せてくる謎めいた要素の数々は、この「ジム・パワー」というソフトに立ち向かう者が作品に対して何かしらの感情を差し挟む隙を一切与えない。そしてその結果、プレイヤーはある種の思考停止状態に陥ってしまうのである。

「ジム・パワー」は謎に満ちたゲームである。そしてその謎は例えばRPGにあるような「解かれるべき」謎とは違い、プレイヤーの理解能力を超えた所にいつまでも存在し続けている。ゲームの表現に躊躇や迷いが一切ないということも、その謎がプレイヤーに与える影響の強さに更なる拍車をかけている。しかし謎が謎であり続けるということは得てして一種の拒否反応に繋がる可能性をも孕んでいる。そして「ジム・パワー」はその存在自体がいつしか忘れ去られ、ゲーム屋の棚の片隅で今もなお静かに眠っている。また日本に「ジム・パワー」を紹介したマイクロワールド社も、ほぼ同時期に発売されたスーパーファミコン用のテニスゲームを最後にゲーム業界からいったん退くことになる。

「ジム・パワー」にまつわる言説を日本で見かける機会は少ない。しかしそれらの中で、作品に対する評価の一つとして難易度の高さを挙げる割合が多いのはなかなか興味深い現象である。実はこの「ジム・パワー」はアクションゲームとしては難易度は決して高くはないのだが、それでも少なからぬプレイヤーがこのゲームを難しいと感じるのはやはりこの作品だけが持つ独特な感覚のためだろう。顔で難易度を調節するゲームというのも珍しい(笑)。そう「ジム・パワー」は、プレイヤーのテクニックではなくむしろ精神に直接問いかけてくるゲームなのだ。

自分の趣味嗜好に合わないものを「クソゲー」として片付け排除することは易しい。しかし時としてそのような固定観念は、ゲームの裏側に隠された本質とでも言うべきものを覆い隠してしまう。この「ジム・パワー」特有の甘美な世界も、プレイヤーの方からあえて触れようとしない限りその姿をプレイヤーの前に表すことは決してないだろう。

フランスからやって来た異端児「ジム・パワー」が私たちに突き付けてくる問いかけの数々は、ゲームとは何か、そしてそれを遊ぶとはどういうことかという根本的な問題にもつながり得るのではないだろうか。またそれらは、やみくもに「進化」を続けるゲームに遊ばれることにいつの間にか慣れすぎてしまった私たちへの警告としても受け取れるのではないだろうか。


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