第7回    夏、循環する記憶

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 えーと、僕、じつはこのあいだ誕生日を迎えました。
 ついに「四捨五入してハタチ」と言い張れるのも最後の一年です。


 で、その誕生日なんですが…当初の予定では、横須賀のフレンドシップ・デイ(米軍の基地公開、
かなりの可能性で所有兵器の公開なんかも行われる)に知人といくつもりだったのです。が、その
知人が所用のためあえなく中止の憂き目に。ま、死にはしないし一年やそこらで横須賀基地が返還
されるわけでもなし、別のところに行くことにしたのです。


 そう、コミケ終了後の義務である(笑)当日買えなかった大手の本のフォローです!


 そんなわけで秋葉原まで原付を走らせていこう…というわけで、新宿を過ぎかかったあたりで。
僕は、前から少々気になっていたところに寄ることにしました。

 靖国神社。

 なんのかんのいっても有名なトコですし、行けるところにいていかないままというのもなんだか
逃げてるみたいで(何から?)腹が立ちます。それで、ちょっと寄り道をしてみる気になったのです。
まあ、学校の政治学の教授がしつこく「一度行ってみろって」と薦めるので、とか、いろいろあと
づけの理由なんかはあったりするんですけどね。
 米軍基地から靖国神社とは、われながら主義も主張もないな、とは思いましたが。


 境内はやたら広かったです。神社と言って普通考えるごみごみした感じ(人ごみ? たんなるゴ
ミ?)は毛頭ありません。一宗教法人としてはムダにきれいな感じです。きれいすぎて親しみが湧
かない、そういう系統です。そういえば境内の自動販売機では、いまだに500円玉が使えました。

 神社にきて参拝しないのも失礼な話なので、きっちりご参拝。
 さてその後、旧帝国軍の兵器がいろいろ展示されてる中庭を抜けて、併設されてる資料館へ。
 靖国神社の由来とか、奉られている人の遺品とか遺書とか(しかしそれがやたら軍服とか軍刀と
かに偏っているのは、どうもねぇ)がいろいろ展示されていました。

 二階では特別展示の真っ最中。
 曰く、「2000年を記念して先の大戦で亡くなった人々の遺書や手記を一括公開」(もちろん
こんなくだけた言い回しはしていませんが)だそうです。
「特別展示」とか言われたら、好奇心だけで生きている僕には無視はできません。
 結局、まるまる見てきたわけです。

 感想? うーん、ちょっと不謹慎ですけど…「供給過多」の一言に尽きます。
 一つ一つの話は泣こうと思えば泣けないことはないんですよ。いくら「僕たちと価値観が違う人
々」なんだ、と言い聞かせていても、ね。けれど…それをのべ70人分以上、ずらずらと並べたて
られても見る側が疲れてしまいます。「KANON」は確かに99年最強の泣きゲーですけど、ヒ
ロインが70人以上いるとなるとプレイする前にげっそりしてしまうでしょ? そんな感じです。
 見せ方に問題あり、ってとこですかね。


 そんな「泣きシナリオ」の洪水の中にいながら、僕が考えたこと。
 それは…50年前の人間の感動する物語も、現代人のそれも、あんまり変わらないんだなという
ことでした。
 70余編の遺書の大半に書かれている言葉、「家族のために……」ですが、それって
「これから生まれてくる妹たちのために……」と何が違うんでしょう。
「これまで育ててくれてありがとう、私の願いは父さん母さんが平和に暮らせるように…」が
「また会えて嬉しかったよ、祐一君。ボクの、願いは……」と、
 本質的にどこが違うというのでしょう(引用はそうとう適当です、ツッコミ禁止)。

 ようするに、自己犠牲をとりあえず美学と捉える感性は50年前からなんにも変わっていないと
いうこと。「松本零士の『宇宙戦艦ヤマト』の空気に反発した高橋留美子が『うる星やつら』で永
遠の日常を描き、日本人の『男のロマン』は滅亡した」というサブカルチャー論は巷にあふれ返っ
ていますけれど、最後の一文は訂正の必要が出てくるかもしれません。

 自己犠牲の価値を、いたずらに貶めるつもりは毛頭ありません。
 今後も人類の歴史のうえで繰り返されるでしょうし、それなくして人類が人類足りえない場面は
洋の東西問わず、かならず起こるでしょう。神ならぬ人間のすることですから。
 しかし…それには自己と他者の生命というものへの深い理解が必要です。
 自分の生命を軽んじた結果の自己犠牲は、見ていて嫌悪感しか生みません。
 他者の生命を軽んじた結果は…もう言うまでもないですよね。


 
 あんまりつづけるとヒートアップしてしまい、
 政治的にヤバい発言を連発しそうなので、きょうはここらへんで止めておきます。

 願わくば「感動的な物語」が、「物語の世界」から漏れ出てきませんように。



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