春から春への物語
Leiji
私の両手に広がっていく冷たい感触。春の陽気に解けていくアイスクリームの、どろりとしたその感覚が、私の不安な気持ちをますますかきたてる。
どうして…?
浩平君はもう、分かってくれてるはずだよ。そういう悪ふざけ、私には辛すぎるって。
「もうしない」って、言ってくれたよね?
それなのに、どうして…返事してくれないの?
もう、アイスも溶けてきてるんだよ。
ちゃんと種類も間違えないで買ってきたんだよ。…ね?
もう絶対に今度だけなら、許してあげるから、
「…浩平、くん?」
声、聞かせてほしい。
ここにいる、って私を安心させてほしい。
…あ。
そうだよね?
いきなり抱きついたりして、びっくりさせようっていうつもり、なんだよね?
そう、だよね?
そういうのって、あんまり感心しないけど、でも浩平君ってそういうの好きそうだから、だから許してあげるから。
…だから、早く私に、
「そばにいる」ことを伝えてほしい。
でも、浩平君の声はしない。
どこにも、彼の気配もしない。
どれくらい時間が経っただろう。
私の持っていたアイスは、両方とも溶けきってしまった。手はべとべとだと思う。
あのとき、アイスを買いに行くために、浩平君のそばから離れたことを、私は思い出した。
あのとき、私、なにか浩平君の気に触るようなこと、した…?
それとも、やっぱり私と一緒にいることがつらかったの?
私、最初に言ったよね?
「浩平君に迷惑かけるから」って。
今ごろになって分かったの?
でも、それならひとこと言ってほしかった。覚悟は、できてるんだよ…?
その二
胸の痛みは、日一日と薄れていく。
そして、わたしのまわりもゆっくりと変化していく。
わたしは、大学の勉強を始めた。つい半年前までは、学校では食べるか寝るか、延滞している本をのんびり読むか、のどれかしかしていなかったことを、いまごろになって後悔していたから。
高校を出た後のことなんて、何も考えていなかったあのころのわたしには、学校の勉強なんて意味があるとは思えなかった。私が私でいられるのは、高校の校舎の中だけ。校舎を出たら、そして出ないわけには行かなくなってしまったら、私はわたしでなくなる。そう、思っていた。
でも、それは今にして思えば、何の解決にもなっていなかった。
「高校の中だけで」通用するわたし。それは、昔の…まだ目が見えていたころのわたしを引きずっていることだった、と、今になって気がついたから。
浩平君は、わたしが「強い」と思っていたみたいだ。でも、それは違うと、今のわたしは思う。
子供のころ、目が見えていたころの自分を失うことにおびえていた、あのころのわたしが「強い」なんて、何かの間違いだよ。
だって、わたしにはあの高校は、べつにくらやみでも何でもないんだから。
そんなことに比べたら、わたしは浩平君のほうが大変なひとだと思う。
だって、わたしを…こんな、弱かったわたしを、支えにしなければいけなかったほど、なにかに追われていたんだから。
そう。
時間が経って、わたしの心の中にも少しづつ、今の自分を見つめる余裕ができてきたんだろう。
浩平君と別れた「あの日」のあとは、しばらく落ち込む時間が続いた。
捨てられた、そう思った。
やっぱり浩平君も、わたしといっしょに歩いていくことに耐えられない、と思ったんだよね…とか、そんなことも考えた。
いつのまにか、気がつくと
「死んだら、楽かなあ…?」
とかいう言葉が、口からもれるようにもなった。もちろん、他のひとのそばで口にはしないようにはしていたけれど…。
こんなこと、雪ちゃんにも口にしたこと、なかったのにね。どうしちゃったんだろう、私。
でも、そんな時期はそう長くは続かない。浩平君がどうしていなくなったか、それを考えているうちに、少しづつ自分で納得できる答えが用意できてきたから。
だって、本当に浩平君がわたしを置いていってしまうなら、あんなひどいやり方はしないと思うから。
わたしの知っている浩平君は、普段はいいかげんで、けっこうひどいこともぽろっと口にしてしまう、そんなひとだ。
でも、それは普段の浩平君。
本当に、わたしがまじめに話しているときに、浩平君はそんな意地悪はしたことがない。
ほんとうの気持ちをぶつけたときに、それを受け止めることから逃げたりしない、わたしの知っている浩平君は、そんな男の子だったから。
だから、もし浩平君がわたしと別れることになったならば、きちんと口にしてくれるはず。
本気で、「別れよう」って。
だから、浩平君はわたしから逃げ出したんじゃない、そう思える。
それでも、わたしのなにかが間違っていて、本当に浩平君が私から逃げ出したんだとしても…わたし、浩平君のことを悪いひとだなんて思わないよ。
今のわたしに、「ずっとそばにいてほしい」なんて、わがまますぎる願いだもの。そのことは、いくら浩平君がわたしのことを好きになってくれても変わらないから。
ただ…さびしいだけ。
浩平君と出会うまえのわたしは、そんなことを思いもしなかったんだけれどね。
それに、浩平君には、すこしだけ不思議なところがあった。ほかの生徒と、はっきり違うとわたしにもわかるところ。
そう、あれはいつかの夕方の屋上。
卒業式を間近に控えた、まだ春には遠い、冷たい風の吹いていた日。
どうして浩平君は、いきなりあんなことを口にしたのか。
「もし、俺が先輩のことを忘れてしまったら…」
「そのとき、先輩は遠くに行ってしまっていて…」
不思議な話だよね。
だって、わたしは…すくなくとも、そのときのわたしは、どこにも行かないはずだったから。一生、家とあの校舎のなかだけで生きていく、そんな未来しかない、そう自分で思い込んでいたから。
それなのに、どうして浩平君はそんなことを口にしたのだろう?
わたしに行ける「どこか」なんて、(あのころのわたしには)どこにもなかったのに。
そして、その浩平君の言葉は…ほんとうに、真剣だった。真剣すぎて、わたしはその言葉に、なんの疑問ももたなかったくらいに。
そう、ときどき、浩平君はものすごく真剣になった。それも、それがどうしてだか、わたしには、ぜんぜん分からないタイミングで。
そのことでいうなら、もっとわたしには印象深かった出来事もある。
それは…三学期も終わりかけた、ある日のこと。いつものように冷たい風の吹きつける夕方の学校の屋上で、いつもよりすこし足早に上がってきた浩平君に、たったひとこと、わたしが仕掛けた意地悪。
「…どなたですか?」
そうだったよね。
あのときも、いつものように、浩平君は笑ってくれるものだと、そうわたしは思っていたから…。
でも、そのとき浩平君は、わたしが思いもしないほど驚いていた。
「なに言っているんだよ、先輩」とか、そんなわたしの予想してた答えも、かえってこないくらいに。
なんだか、風向きがおかしくなってきたことに気がついて、わたしはすこし不安になったのを覚えている。
冗談だよ、って言ったときには、もうわたしはなんとなく分かっていた。なにかわたしは、絶対にしちゃいけないくらいひどいことをしたんだ、ってことが。それがなんなのかは全然分からなかったけど。
そんなわたしを、浩平君は…おもいっきり抱きしめてきた。
びっくりしたんだよ。なんにも言わないで、いきなりなんて。こんな風なわたしでなかったとしても、あんなにいきなりなんて。相手の娘、驚いちゃうよ。それに、やっぱりこういうのって…恥ずかしいし。
でも、結局わたしは浩平君の好きにさせてあげた。
いきなり抱きつかれて、びっくりもした。ちょっと怖かったと言ったら、怒るかな?でも、それでもわたしは浩平君の好きにさせた。
彼が…泣いていたから。
男の子、それももっとちっちゃい子なら、泣くのもわかんなくはないよ。ちょっと、泣き虫なのかな…とかは思うけれど。
でも、浩平君は、わたしよりひとつ年下なだけだし。あんないたずらで、泣くなんて、思いもしなかったんだよ。
でも、浩平君は本気で泣いていた。わたしを、力いっぱい抱きしめながら。
だから、わたしはそんな浩平君から離れようとは思わなかった。
「もうすこし、このままでいさせてくれ」って、浩平君は言ったけれど、わたしだってあんな浩平君を放ってはおけなかった。
わたしが、浩平君を「忘れた」ことで、あんなに動揺するなんて。そんな浩平君を放っておけるほど、わたし、意地悪じゃないよ?
そんないくつかのおもいでは、わたしの中でなにかの形をつくろうとしていた。
その三
さらに、時間はすぎていく。
浩平君は、あれから一度も連絡をくれることはなかった。
普通に考えたら、それってひどいことだと思う。わたしの家は、浩平君が通っているはずの学校の、目の前なんだから。
でも、わたしにはそれはなんの不思議もないことになっていた。
浩平君がどうしていなくなったのか、その理由を、わたしは、だんだん理解してきたから。
その「気がついた」ことのきっかけは、久しぶりに、演劇部に呼ばれたことだった。結局、大学でも演劇を勉強している雪ちゃんは、卒業してからも部の後輩たちによく相談なんかを受けているみたい。
それで、
「たまにはみさきも、先輩らしくしてみたらどう?」
「うー、わたしだって『先輩』って呼ばれることもあるんだからね」
「……だれに? …みさきに、そんなこと言う人いたっけ?」
「ひどいよー、雪ちゃん…」
なんてことがあって、雪ちゃんといっしょに、わたしは久方ぶりに演劇部の部室に入った。
「あ、深山センパイ、川名センパイ、お久しぶりです〜」
とかなんとか、あっという間にわたしたちの四方八方から声がかかる。
「深山センパイ、話というのはほかでもないんですけど…」
「深山センパイ、この衣装の色合わせ、どうでしょうか?」
「深山センパイ、今日は何時ごろまで大丈夫なんですか?」
「深山センパイ…」
…違ったみたい。
雪ちゃんに、いっぱい声がかかってる。
「雪ちゃん、大人気だね」
「……みさきぃ、なんとかしてよぉ」
そんなこといわれても、わたし、そこまで劇に詳しくないもん♪
そんなわけでその人ごみを抜け出し(雪ちゃんが「うらぎりものぉー!」なんて言っていたような気も、しないでもない)、壁にもたれてわたしはため息をついた。
そりゃ、そうだよね。雪ちゃんは完全に演劇部の部長さんだったけど、わたしは単に、雪ちゃんに身体で責任をとらされてただけだもんねぇ。
と、わたしのそでをだれかが引っ張っているのに気がついた。
「……?」そっちを向き直るわたし。
「……」反応、なし。
「………」
「………」
もしかして…。
「…もしかして、澪ちゃん?」
「………」
そりゃあ、そうだよね。目が見えないわたしと、声が出せない澪ちゃんなら。
わたしは、右手をひらいた。そしてそれを、澪ちゃんがいるとおぼしき方向に差し出す。
にょん。
なにか、布みたいなものをひっかけたみたい。
…あ、澪ちゃん、リボンしてるって、浩平君が言っていたっけ。
「ごめんね、ひっかけちゃったみたいで」
「……」
「でね、澪ちゃん? わたしの手のひらに、指で書いてくれないかな?」
…う、ん、…わ、か、つ、た、の…。
「『うん、わかったの』…ね?」
…う、ん…
「うん。…ね、澪ちゃん、部はどう?」
…た、の、し、い、の…。
…み、や、ま、せ、ん、ぱ、い、の、げ、き、が、ほ、め、ら、れ、た、の…。
「そう。澪ちゃん、がんばってたもんね」
…し、ゆ、や、く、み、お、な、の…。
…だ、か、ら、う、れ、し、い、の…。
「わたしも、澪ちゃんが、部活をつづけていてくれて、うれしいよ…」
それにしても、たったこれだけの会話なのに、手間といえば手間だよね。
「浩平君がいれば、こんなに手間はかからなかったんだけれどね…」
と、わたしはなんとなくつぶやいた。
けれど、澪ちゃんがわたしに伝えてきたことは、わたしを驚かせた。
…こ、う、へ、い、く、ん、て、だ、れ、な、の…。
澪ちゃんが、浩平君を、知らない…?
私と澪ちゃんがはじめて会ったのは、食堂で澪ちゃんが転んで、浩平君の背中になにかをかけてしまったときだ。
つまり、浩平君がいなかったら、私と澪ちゃんは知り合うことがなかっただろう。
わたしのことを覚えているのに、浩平君のことだけを忘れている…?
その瞬間、わたしのなかで、すべてがつながった、ような気がした。
浩平君の、意味深なセリフ。たしかあのとき、浩平君は最後に、
「もしも、立場が逆だったら…」
とか、言いかけていなかった?
立場が逆。
つまり、浩平君は…本当に、遠くに行ってしまった。電話も、手紙もとどかないところに。否応なしに。
そう、いう、ことなの?
浩平君…?
もしかして、浩平君は、そのことに気がついていたの?
そして、その「この世界に残る手がかり」を、わたしに…こんなわたしに、託していたの?
それなのに、わたし、浩平君に、あんな意地悪をしたんだよね。
覚えていてほしかった人に、忘れられるなんて、そんなひどい意地悪を。
ひどい意地悪…。
足の力が、抜けていくのがわかる。
わたしは、その場にしゃがみこんだ。
そして、いつのまにか…泣いていた。
ごめんね、浩平君。
浩平君の気持ち、気づけなくて…。
その4
そして、また、春がやってきた。
公園。
ちょうど一年前、わたしが悲しい思い出を持った場所。
そして。
今、わたしのそばには…。
「…で?今日は…」
「一年前のやり直し、だよ」
「……まだ、怒ってる? …よな」
そんなことを言う浩平君。わたしは、彼のほうに向き直る。
浩平君…。
一年は長かったよ。
本当に帰ってこれるのか、それも分からなかったのに。それでもずっと浩平君のこと、待っていたんだから。
寂しかったんだよ?
浩平君が、わたしを「好き」だなんていったから。
こんな身体で、そばにいる人に迷惑をかけるのは分かっているのに、それでも「好き」なんて言うから。そして、そんな浩平君が、やっぱり好きだから。
そんなひとがそばにいないことが、そしてそんな一年が、どんなにつらく、長く感じたか。
浩平君、ほんとうに、分かってくれている?
「みさき先輩、笑ってないでなんか言ってくれ…」
…笑っているんじゃ、ないよ。
嬉しいんだよ。
だからなんだよ。
「じゃ、浩平君?」
「…はい」
「今日は、わたしを『先輩』と呼ばないこと」
「な……」
「それと、」
そして、わたしは浩平君の腕をとる。
「今日は、このままだよ」
「…………」
「さ、まずはアイスクリームを買いに行かなくちゃね」
「…このまま?」
「このままだよ」
「…先輩、その…」
「浩平君? 『先輩』じゃなくて…」
「……みさき、…さん…」
「浩平君、照れてる?」
「……あたりまえだろ! …それに、このままって…こんな、露骨に彼氏彼女なポジションで買いに行くのか?」
「もちろんだよ♪」
「せんぱ…い、いや、みさき、さん…」
「だーめ。手を離したら、また一年間、わたしを置いて、どこかに行っちゃうかもしれないからね♪」
「……まだ怒ってるだろ〜?」
「さぁ、アイスアイス♪」
きょう一日くらい、こんなふうなわたしたちでも、いいよね?
ね? 浩平君。