幸せのかたち
松本裕太
昨日の午後、俺は佐祐理さんの家に招待された。舞と佐祐理さんは一昨日学校を卒業したので、長い休みに入っている。しかし2年生の俺はまだ授業が続くので、約束の時刻は放課後。夕方の4時だった。
1ヶ月ほど前、佐祐理さんに、これから3人で一緒に暮らそうと提案した。この無茶な考えを、彼女が受け入れてくれるかどうか、話を切り出すまでは不安だった。しかし佐祐理さんは、あっさり賛同してくれた。あまりの即答に、言い出した俺の方が心配になって、「本当にいいの?」と聞き返したぐらいだ。ばか丸出しの質問に、佐祐理さんは笑顔で
「佐祐理は舞も祐一さんも大好きですから」
と答えた。
昨日は、『一緒に暮らすための話し合い』の予定だった。3人とも自分の家族には話していて、それぞれ了解をとりつけていた。幸い、どの家でもあまり反対されなかった。
そこで、差し当たっては少し大きめの家か部屋を見つけなければならない。それに加え、俺は早くバイトを探したかった。他にもやるべき事はたくさんあったが、春からの生活を思えば苦になどならなかった。
昨日の集まりは、俺たちの共同生活の第一歩となるはずだった。3人で佐祐理さんの家に集まり、それから近くの不動産屋を当たる予定になっていたのだ。
期末試験もすでに終わっており、午後の授業はいつにも増して退屈だった。名雪以外にも、ぐっすり眠っている奴が目立つ。そして俺は、そのあとに待っている会合のことばかり考えていた。
集中できないのは教師も同じだったらしく、時間を15分残して授業を終えた。『隣のクラスはまだ授業中だから、静かにしておけ』という決まり文句を残して立ち去ったが、そんなものが守られるはずもない。あちこちで放課後の相談が始まった。
俺はまだ寝ぼけまなこの名雪を放って、急ぎ教室を抜け出した。時間は十分に余裕があったので、一度家に帰って服を着替えたかった。舞と佐祐理さんが私服なのに、俺ひとり制服では変だと思ったからだ。
「これ、本当に家なのか………?」
佐祐理さんに渡された手書きの地図を見ながらやってきたが、地図の中で『佐祐理の家』と書かれた場所には、あまりに大きな建造物が建っていた。表札に、読みにくい行書で『倉田』と書かれたこの家は、今俺が住んでいる水瀬家が100個以上入りそうだ。もちろん、水瀬家が特別小さいわけではない。この家があまりに大きいのである。正規の門の隣にある通用門から見えるだけでも、和風の二階建て住
居、煉瓦でできた三階建て住居がある。どちらも、とんでもない大きさだ。そして庭には、『森』としか言いようがないほど多くの木が生い茂っている。それらの木々は、一分の隙も無く手入れされていた。
佐祐理さんの普段の物腰から、彼女が良家のお嬢様であることは知っていた。ただ、ごく普通の家に生まれた俺に想像できる『良家』『お金持ち』像には限界があるのだ。
この家に本当に入っていいのか、などと訳のわからないことを考えていると、
「いらっしゃいませーっ」
少し開いていた通用門から、佐祐理さんが顔を出した。
「あ、こんにちは…」
間抜けな答えを返す俺。
「どうしたんですか? どうぞ入ってくださいっ」
「おじゃまいたします…」
俺は高尚な空気に気圧されて、訳の分からない言葉で喋っていた。
佐祐理さんは、俺を煉瓦の建物の方に案内した。庭の奥にはプールやテニス場が見えたが、いまさら驚きはない。
建物の中も作りが非常に凝っていて、しかも成金趣味が少しも感じられない、文句のつけようがないものだった。それが逆に違和感になるくらいだ。
我ながら貧困な発想だが、鹿の頭の剥製やトラの毛皮がある家なら、かえって落ち着けたような気がする。
佐祐理さんに導かれるままに進んで着いたのは、広い応接間だった。淡い光沢を放つテーブルの上には、すでに来客用のティーカップが並べられ、佐祐理さんの手によるクッキーが添えられていた。
そこで俺は妙なことに気づいた。カップもクッキーの皿も二つしかないのである。これから来る、舞のための用意がない。
俺はずいぶん分かりやすく不審そうな顔をしたのだろう。佐祐理さんはすぐに言った。
「15分ほど前に舞から電話がありまして、今日は来られなくなったそうです」
「来られない? どうして?」
「家族の用事が出来たから、といってましたけど」
舞は確か、母親と二人で暮らしているらしいが…珍しいこともあるもんだ。
「じゃあ、今日は何もできないか。舞がいないとな」
「はい。祐一さんのお宅にも電話したんですけど、どなたもお出にならなくて…」
15分前じゃあしょうがなかった。もうこの家に向かっている時間だ。
「仕方ない。また全員で集まれるときにやり直そう」
「でも、せっかくですから、お菓子くらい食べていってください」
そう言って佐祐理さんは、テーブルの方に目をやった。確かにこれを放って帰るのは、少しもったいないかもしれない。
「わかりました。じゃあ少しだけ」
「ありがとうございます。じゃあ、佐祐理はお茶を持ってきますね。祐一さんは座ってお待ち下さい」
「手伝わなくていいですか?」
「大丈夫ですよ。ここは佐祐理の家ですから、佐祐理におもてなしさせてください」
彼女は部屋を出ていった。ひとり残った俺は、おとなしくソファーに座る。地味ながらも高級そうな家具を眺めて暇をつぶした。
後になって考えれば、このときが唯一にして最後のチャンスだった。
「お待たせしました」
佐祐理さんが応接間に帰ってきた。手に持った盆の上には、大きなポットが置かれている。
「すみません。お言葉に甘えて、何もせずに」
「いいんですよ。さ、温かいうちにどうぞ」
言いながら、ポットからお茶を注ぎ始める。屋上での昼食でおなじみ、ハーブティーだ。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
佐祐理さんは自分のカップにもお茶を注ぐ。
「じゃ、遠慮なく頂きます」
「はい、どうぞっ」
俺はまずクッキーを口に入れる。
「やっぱり、これも佐祐理さんが作ったの?」
「はい。お口に合うかどうか、分かりませんけど」
「昼のお弁当で料理が上手なのは分かってたけど、お菓子作りまで上手なんだね」
お世辞ではない。実際、今すぐ店を開けそうなほどの味だと思う。
「ありがとうございます。あ、お茶の方もどうぞ。今日は、初めての葉を使ったんですよ」
「そう? 楽しみだな」
勧められるまま、カップの紅茶をすする。確かに、今まで飲んできた佐祐理さん謹製のどのお茶とも違う味だ。それに、朝作って魔法瓶に入れられたものより、出来立てを飲む方が上手いに決まっている。
「こっちもおいしいよ」
「そうですか? 気に入って頂いて嬉しいです。それは、祐一さんのために作ったんですから」
「俺のため? どうして? 俺、佐祐理さんにこれが好きだって言ったかな?」
自慢ではないが、俺は佐祐理さんのもの以外にハーブティーなど飲んだことはない。だから好き嫌いなどある筈がない。
「いいえ。ただ、祐一さんに飲んでもらうにはこれが一番かなって」
「確かにおいしいけど…どうして?」
「ハーブには、それぞれ花言葉があるんです」
佐祐理さんは、俺が言葉を言いきる前に重ねて言う。彼女にしては少し無作法だと思ったが、俺はそこで不自然なほど急な気だるさに包まれ、それどころではなくなった。さっきまでは何ともなかったのに………
「このローズマリーの花言葉をご存知ですか?」
もう、意識を保つことすら出来ない。佐祐理さんの笑顔を見ながら、俺はテーブルに倒れ込んだ。
「『記憶』です。今日という日にふさわしいでしょう?」
目覚めは最悪だった。頭が重く、筋肉が本調子ではない。しかし気力でなんとか身を起こし、周囲の状況を確かめる。
俺が居たのは広い立方体の空間で、コンクリート剥き出しの壁が上下を含む五面を、直径が十メートル近くもある鉄格子の群れが残る一面を構成していた。水洗の洋式便器とシャワーが壁際に取り付けられている。鉄格子の向こうは廊下のようだが、部屋にも廊下にも窓や明かりがない。ただ、廊下の遥か向こうからかすかに差し込む蛍光灯の光が、唯一の光源だった。
「まるで牢獄だね…」
「ご明察です」
鉄格子をはさんで、俺と佐祐理さんは話し出す。
「今さら、あることに気付いたよ」
「何ですか?」
「舞が十五分前に電話で断りの電話を入れたと、佐祐理さんは言った。でも、それは嘘だ。はじめから舞は呼んじゃいない。今日の目的は、俺をここに閉じ込めることだった」
廊下に立つ佐祐理さんは、可愛く小首を傾げた。いつもと、何も変わらない。
「それはもう、言わなくても分かることだと思いますけど」
「いや、応接間で気づくことが出来た筈だ。クッキーが二人分しかなかったからね。あんなもの、十五分で用意できるわけがない。はじめから俺しか来る予定が無かったんだよ」
「舞の分は台所に置いたまま、という可能性はありませんか?」
「佐祐理さんの性格なら、『余ってしまうと勿体無いですから』と言って全部出してくるでしょう?」
佐祐理さんはくすくす笑い出す。俺と舞の弁当争奪戦を見ているときと同じ、笑い方。つられて俺も、少し笑った。
「完全犯罪だと思ったんですけどね。まあ、過ぎたことはどうでもいいでしょう。他に言うことはありませんか?」
「たくさんありすぎて、困るくらいだよ」
「安心してください。時間はいくらでもありますから」
彼女は冷静に答える。それは、俺がここから逃れる術がないことを示していた。それでも俺は、いつもと同じように話を続ける。それ以外にはできることなどなかったからだ。
「じゃあ、片っ端から聞いていくことにするよ。まず、ここはどこ?」
「うちの離れに土蔵があります。その地下ですよ」
「どうしてこんな部屋が、家にあるの?」
「もちろん、役に立つからですよ」
食器洗い機やホームベーカリーのことでも聞かれたかのように、平然と答える。しかし、この質問の話題は『牢獄』なのだ。
「倉田の家は、戦前は網元を営んでいました」
「網元?」
あまりに違和感のある言葉を聞いて、俺は呆然とした。この町には港もなければ川もないからだ。
「ふふっ。祐一さんが思い浮かべるような網元ではありません。不漁のとき、遠くの港の漁師に高利でお金を貸して、返せなくなった彼らを下働きにしていったんですよ。だからこんな土地でも『網元』が出来たわけです」
「………」
「実質上の奴隷労働ですから、脱走者が後を絶ちません。彼らには、見せしめとして相応の罰を与える必要があります。ここはそのために作られました。もっとも、当時はコンクリートなど使うわけがありませんから、ここはごく最近に改装されたものです。倉田の家にとっては、この部屋はまだ現役なんですよ」
おそらくは恐ろしい話なのだろう。しかし俺には、過去の出来事よりも、それを平然と話す佐祐理さんのほうがよほど恐ろしく感じられた。
「質問はもう無いんですか?」
「……いや、まだあるよ。そもそも、俺がそんな部屋に入れられる理由が分からない」
「もちろん、逃げられると困るからですよ」
「そうじゃなくて、もっと……」
「根本的な理由ですか?」
俺の質問を引き取って続ける。
「それは、祐一さんもよく分かっているでしょう」
考えるまでもない。佐祐理さんが俺を憎む理由など、ひとつしか思い浮かばない。それは俺が佐祐理さんを憎む理由にはならないものだが。
「…川澄舞」
「ええ。佐祐理も祐一さんも舞が好きで、でも舞は一人で、だからこうするしかないじゃないですか」
佐祐理さんは笑顔を崩さない。そのせいで、このあまりにも非日常的な空間が、ごくありふれた物のように思えてくる。しかしそれは錯覚に過ぎない。今の俺と佐祐理さんの間には、冷たい檻がある。
「俺は、舞も佐祐理さんも、そして自分も、みんなで幸せになりたかったよ」
「それは無理です」
即座に否定する。
「祐一さんの幸せと、佐祐理の幸せは違うんですから」
「どこが違う? 俺も佐祐理さんも、舞のことを大切に思っている。それは同じだろう?」
「佐祐理と舞が出会ってから、およそ三年になります」
質問の軸をずらすような答え。いつもストレートな物言いをする佐祐理さんには珍しいやり方だ。
「祐一さんは、こんな風に思ったことはありませんか? 『佐祐理さんは、夜ごと学校に向かう舞を何とかしようと思わなかったのか?』『他の人が友達だったなら、舞はもっと普通の女の子になってたんじゃないか?』って」
「……」
否定は出来なかった。まったく考えたことが無かったといえば嘘になる。
舞の誕生日、佐祐理さんはまっすぐ学校に向かった。つまり、彼女は舞の奇行(としか呼べないだろう)を知っていたのだ。知っていて、止めることができなかった。いや、止めなかった。
俺はこう考えたことがある。佐祐理さんは舞を癒し支えることはできても、救うことはできない、と。
「思ったでしょうね。その通りです。佐祐理は、舞にあのままでいてほしかったんですから」
「あのまま?」
「笑うことを知らない。泣くことを知らない。誤解され、疎まれ、それでも子供のように同じことを繰り返す。そんな舞であってほしかった」
あまりの言葉に呆然とする。それは、俺が壊したかった舞の姿だった。俺は、あの無表情の下に素晴らしい笑顔があり、脆い泣き顔があると思ったからこそ、あいつと一緒にいることを望んだというのに。
「どうして…? あのままでいいわけないだろ…? どこに幸せがあるんだよ…?」
「そんな舞だから、佐祐理を好きだと言ってくれるんです。舞が同級生と楽しく話をするような、夜にはみんなと一緒に遊びに行くような、そんな普通の女の子になってしまったら、佐祐理は見向きもされなくなります」
「そんなことない! あいつは、ずっと佐祐理さんのことが好きだよ!」
思わず声を荒げる。舞と佐祐理さんの仲違いなど、本当に想像も出来なかったから。
「いいえ。自分のことは自分が一番よく知っています。私には舞が持っているものなど何もありません。強さも、弱さも、優しさも、気高さも」
「俺は全然そんなことないと思うけど、でももし佐祐理さんが自分でそう思うのなら、少しずつでも変えていけばいいじゃないか。いい見本が、いつも隣にいるんだし」
「祐一さんなら、きっとそう考えるでしょうね」
俺はそのとき、佐祐理さんの笑顔に隠された、本当の姿を垣間見た気がした。全ては遅すぎたのだが。
「そんなこと…」
「もう話すことはありません」
不意に佐祐理さんは光の方へ歩き出す。
「待って!」
「安心してください。ちゃんとご飯は持ってきてあげますよ」
「佐祐理さん!」
言葉が届くより早く扉は閉じられ、後には完全な暗闇が残る。俺の言葉は、空しくこだまを残すだけだった。